そこは、無の空間だった。物体が何もなければ、色もない、ただ真っ白で空虚な空間。音も聞こえない。自分の呼吸すら、できているのかわからない。意識がぼんやりしている。
少しずつ感覚が蘇ってくる。鼓動——響く感覚から、手が動くようになっている気がする。指先の感覚も戻ってきた。足があともうちょっと。
今自分が、ここにいる。そんな感覚が次第に戻って来て、でも相変わらず殺風景な空間で。
夢の中かな……どこなんだろう。
足が地面についていることに、こんな安心感を覚えるなんて。
目を瞑ると、屋上からの風景がフラッシュバックする。揺れる街灯、煌々と輝く人々の温もり、月明かりに照らされた鮮やかな夜空。真下に落ちていく、風を切るような音に、冷やされていく身体まで。
——僕は、ちゃんと死ねただろうか。
不思議なことに、死ぬときのこと以外、あまりうまく思い出せない。ぼやぼやとしていて、はっきりとこうだった、と言い表せないのだ。
ただ一人呆然と立ち尽くす。ここで僕は何をしたらいいのだろう。
あの時間より、ましになるだろうか。
「こんにちは」
ばっと振り返る。透き通るような声が、僕の心にじわじわとしみ込んでいく。
黒のローブに身を包み、顔を隠し、鎌を背に下げた幼い少女と、高校生くらい……大人びた女の人。
視界が歪む。
僕のことを見てくれる人がいる。たった一言の挨拶であっても、こうして僕を見て、存在を認識してくれる人がいる。
鼓膜から離れてくれない罵詈雑言、暴力によって身体中にできた傷。
二度と癒えない、心の傷。
鮮血では表せない、どろどろとした熱い痛み。
すべての痛みを預けられる場所、吐き出せる場所が、ほしかった。
「お疲れ様」
そんな言葉が、僕の身体を脱力させる。
————————————————————————————————
この空間にやってきた男の子を前にして思う。
この子には、幸せと呼べる時間があったのだろうかと。
目にいっぱいの涙を抱えて、消え入りそうな声で何か零している。
もし生前、彼が一度も泣いたことがなかったら。
私は彼に、どんな言葉をかけたらいいのだろう。
あれから、アリィに頼んで私もここにいさせてもらっている。相当上から怒られたみたいだが、無理を言って通してもらった。
アリィからもかなり怒られた。おかげで説教くらったと。天界ってこんな感じなんだ、と可笑しくて爆笑してたら、アリィに軽く叩かれてしまった。
すぐさま身体がアリィと同じ服装に包まれていって、私のサイズに合った鎌も背中に現れた。視界が黒く狭くなって、後ろに引っ張られそのまま転びそうになる。
『お揃いだね』
慣れた手付きでアリィが鎌を差し出す。なんだかかっこよくて、私もすぐに鎌に手を伸ばす。大きいから、背中から取り出すのにやや苦戦して、等身サイズの鎌を向ける。
鋭利できらりと光る先端を当て合う。
カランカラン、響く私たちだけの音。
『なんか見えづらい、フード邪魔』
そう言って私はフードをかっさらい、アリィの顔をしっかりと見つめる。鎌を放り投げ、彼女を抱き抱える。見た目によらず重くて、うっと声が出てしまうと、『酷いよ咲九夜!』ってアリィが嘆いてた。可愛い、本当に。
それからフードを被ることはなくて、天界からお叱りを受ける覚悟で、私のやり方で、アリィの仕事のパートナーをしている。
彼を抱きしめて、もう大丈夫だよ、と声をかける。
——きっと、こんな経験ないんだろうな。
私には幸せだったと言える時間が少しあって、やりたいこともやれた方だ。
でも世界には、それすらできなかった人がいる。目の前の彼も、その一人かもしれない。
死んでほしくない。生きてほしい。でもその選択をしたことを、否定はしない。
人の数だけ痛みが、想いがある。
人の数だけ価値観や、考え方がある。
人の数だけ、追い求める幸せがある。
誰しもが、何かを支えや居場所として生きている。
人生を決めるのは、結局その人自身。
私を決められたのも、私自身。
であれば、私は——————。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「謝って、どうしたの?」
「…………僕のせいで……僕のせいで友達が……」
「……どんな人だったの?」
「……僕を、助けてくれたんです……ずっと独りだった世界に、踏み込んで来てくれたんです……」
「そっか……辛かったね……………………よしよし…………」
「…………あなたは……あなたたちは、誰なんですか……?」
「それはまだ言えないかな…………でも吐き出したいこと、なんでも聴くよ。それか、私の話でもする?」
「……あなたの話、聴いてみたいです」
「いいよ。んー、じゃあ何から…………大切な人の話でもしようか」
どこかで珠の気配がする。
誰かの居場所になりたい。
誰かを救える、寄り添える、前を向ける。
そんな居場所で、私は在りたい。
もし来世があるのなら、どれだけ辛くても、そうで在りたい。
この場所で、いろんな人の想いを知ったから。
普通や幸せ、人生の正解なんてわからないものだから。
ねぇ、アリィ。
私、もし次があるなら。
あなたと一緒に——————。
少しずつ感覚が蘇ってくる。鼓動——響く感覚から、手が動くようになっている気がする。指先の感覚も戻ってきた。足があともうちょっと。
今自分が、ここにいる。そんな感覚が次第に戻って来て、でも相変わらず殺風景な空間で。
夢の中かな……どこなんだろう。
足が地面についていることに、こんな安心感を覚えるなんて。
目を瞑ると、屋上からの風景がフラッシュバックする。揺れる街灯、煌々と輝く人々の温もり、月明かりに照らされた鮮やかな夜空。真下に落ちていく、風を切るような音に、冷やされていく身体まで。
——僕は、ちゃんと死ねただろうか。
不思議なことに、死ぬときのこと以外、あまりうまく思い出せない。ぼやぼやとしていて、はっきりとこうだった、と言い表せないのだ。
ただ一人呆然と立ち尽くす。ここで僕は何をしたらいいのだろう。
あの時間より、ましになるだろうか。
「こんにちは」
ばっと振り返る。透き通るような声が、僕の心にじわじわとしみ込んでいく。
黒のローブに身を包み、顔を隠し、鎌を背に下げた幼い少女と、高校生くらい……大人びた女の人。
視界が歪む。
僕のことを見てくれる人がいる。たった一言の挨拶であっても、こうして僕を見て、存在を認識してくれる人がいる。
鼓膜から離れてくれない罵詈雑言、暴力によって身体中にできた傷。
二度と癒えない、心の傷。
鮮血では表せない、どろどろとした熱い痛み。
すべての痛みを預けられる場所、吐き出せる場所が、ほしかった。
「お疲れ様」
そんな言葉が、僕の身体を脱力させる。
————————————————————————————————
この空間にやってきた男の子を前にして思う。
この子には、幸せと呼べる時間があったのだろうかと。
目にいっぱいの涙を抱えて、消え入りそうな声で何か零している。
もし生前、彼が一度も泣いたことがなかったら。
私は彼に、どんな言葉をかけたらいいのだろう。
あれから、アリィに頼んで私もここにいさせてもらっている。相当上から怒られたみたいだが、無理を言って通してもらった。
アリィからもかなり怒られた。おかげで説教くらったと。天界ってこんな感じなんだ、と可笑しくて爆笑してたら、アリィに軽く叩かれてしまった。
すぐさま身体がアリィと同じ服装に包まれていって、私のサイズに合った鎌も背中に現れた。視界が黒く狭くなって、後ろに引っ張られそのまま転びそうになる。
『お揃いだね』
慣れた手付きでアリィが鎌を差し出す。なんだかかっこよくて、私もすぐに鎌に手を伸ばす。大きいから、背中から取り出すのにやや苦戦して、等身サイズの鎌を向ける。
鋭利できらりと光る先端を当て合う。
カランカラン、響く私たちだけの音。
『なんか見えづらい、フード邪魔』
そう言って私はフードをかっさらい、アリィの顔をしっかりと見つめる。鎌を放り投げ、彼女を抱き抱える。見た目によらず重くて、うっと声が出てしまうと、『酷いよ咲九夜!』ってアリィが嘆いてた。可愛い、本当に。
それからフードを被ることはなくて、天界からお叱りを受ける覚悟で、私のやり方で、アリィの仕事のパートナーをしている。
彼を抱きしめて、もう大丈夫だよ、と声をかける。
——きっと、こんな経験ないんだろうな。
私には幸せだったと言える時間が少しあって、やりたいこともやれた方だ。
でも世界には、それすらできなかった人がいる。目の前の彼も、その一人かもしれない。
死んでほしくない。生きてほしい。でもその選択をしたことを、否定はしない。
人の数だけ痛みが、想いがある。
人の数だけ価値観や、考え方がある。
人の数だけ、追い求める幸せがある。
誰しもが、何かを支えや居場所として生きている。
人生を決めるのは、結局その人自身。
私を決められたのも、私自身。
であれば、私は——————。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「謝って、どうしたの?」
「…………僕のせいで……僕のせいで友達が……」
「……どんな人だったの?」
「……僕を、助けてくれたんです……ずっと独りだった世界に、踏み込んで来てくれたんです……」
「そっか……辛かったね……………………よしよし…………」
「…………あなたは……あなたたちは、誰なんですか……?」
「それはまだ言えないかな…………でも吐き出したいこと、なんでも聴くよ。それか、私の話でもする?」
「……あなたの話、聴いてみたいです」
「いいよ。んー、じゃあ何から…………大切な人の話でもしようか」
どこかで珠の気配がする。
誰かの居場所になりたい。
誰かを救える、寄り添える、前を向ける。
そんな居場所で、私は在りたい。
もし来世があるのなら、どれだけ辛くても、そうで在りたい。
この場所で、いろんな人の想いを知ったから。
普通や幸せ、人生の正解なんてわからないものだから。
ねぇ、アリィ。
私、もし次があるなら。
あなたと一緒に——————。



