真っ暗な世界から戻って来た。
しきりに首元を触る。
喉は緩く、息も吸える。
私の足は、ちゃんと着地している。
でも胸だけは、締め付けられたまま。
手は私の顔を必死に拭う。
雫がぼろぼろと落ちていき、消えていく。
嗚咽も堪えられずに。
「っう、……あぁぁ……あああぁぁぁ…………」
一気に溢れ出して、追い打ちをかけるようにどんどん想いが生まれて、もう止まりそうにない。
膝から崩れ落ちて、そのまま座り込む。何度目元を拭っても、どれだけ嘆いて叫んでも、ぐちゃぐちゃしたものは消えてくれない。却っておかしくなっていく。
「……これで全部終わったよ……お疲れ様、咲九夜」
次第に震えていったアリィの声が聞こえて、そのあとすぐ、身体に体重がかかる。
頭を支えられて、彼女の胸元に抱えられる。背中にそっと手が回ってくる。
ただ優しく撫でてくれる。
「……私だって……私だって……! ……私の何がいけなかったの……? 何が悪かったの?」
アリィに手をまわし、しがみつくようになりながら、心に溜まっていたものを当てつけのように吐き出していく。こんな声が出せるなんて思わなかった。金切り声とも言える、何か大事なものが外れて狂ったよう。
彼女の胸元に縋り、そこにある温もりや安らぎを、貪欲なまでに求める。
「普通ってなに! 教えてよ! わからないから困ってるんじゃん! ……私だって……できるなら普通になりたかった! 幸せになりたかったよ!」
ただ黙って私を抱きしめ、頭を優しく撫でてくれるアリィに甘えて、ただただ泣きじゃくる。幼い子供みたいだけど、恥ずかしさなんてもう気にならない。
真上から、鼻を啜るような音が聞こえてくる。落ちていく雫は数が増えてゆく。私のではなく、別のものも含めて。
「誰も教えてくれなかったじゃん! なにしても貶されて、大切なものまで奪われて! …………なんで……なんで私ばっかり……」
私ばっかり、なんて言葉は言いたくなかった。言ってはいけなかった。
同じくらい辛い人が、もっと辛い人が、たくさんいるから。
でも、もう限界だった。
私を繋ぎ止めていたものが、外れて弾けてしまったみたい。
アリィはなかなか治まらない私を泣き止ませることはせず、逆にさらにきつく抱きしめてくれる。私はさらに身を寄せていく。あまりにも多すぎる色の絵の具をこぼして、真っ黒に染まってしまった心を、彼女の感触が白く和らげてくれる。
「頑張ったね……ほんとうに……辛かったよね…………」
アリィの声も震えていて、あとちょっとで聴き取れなくなってしまいそうだ。
誰かがそばにいて、こうして抱擁してくれる。冷めきっていた心がじわじわと温まっていくような感覚。もうすべてが終わった、何も考える必要がない。そういうことなのかもしれない。
だけど、この長い記憶の旅を終えて、吐き出してしまいたくなることも増えた。彼女からの温度に安心する自分もいるが、生きていたころの傷は癒えないままだ。
「私なんかが辛いなんてほざいちゃだめなのはわかってる……でも……」
「咲九夜、もういいよ」
——へ……?
「咲九夜だって辛いんだから、もう頑張らなくていいよ。堪えようとする必要もない。……痛みの大きさも形も、全部人それぞれなんだから」
アリィの背中を、さらにきつく握る。
「……ねぇアリィ、どうしたら私は普通に生きられたの……? どうやったら、みんが言う幸せになれたの……?」
「……………………」
——わからない。
そんなアリィの言葉が、脳内で重く響く。
「わからない、が答えだと思う」
私は反射的にアリィの顔を見上げる。彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃで、でもきっとそれは私も変わらない。
「アリィまで……見つけられなかった私が悪いって言いたいの……?」
「違うよ。……ねぇ咲九夜、君が思う普通ってどんなもの?」
アリィは口調を取り戻しつつあるのに、私はまだまだで、目から溢れるものが未だ滝のよう。
優しく問いかけてくれるアリィに、抱えてきた理想郷を吐き出す。
「そんなの……頭の良い大学行って、良い企業に就職して、結婚して……とにかく求められたものをこなしていればいいんでしょ? でもそれができないから——」
「それは、咲九夜が今までに”押し付けられた普通”、でしょ?」
私の文句を遮るように、彼女はそう零す。低く、囁くように。
「”押し付けられた”……?」
「……その普通は、誰かの価値や基準に基づいたもの。本当は普通なんて、誰にも定義できないんだよ。人の数だけ想いや考え方、価値観、生き方があるから」
柔らかく包み込むようなアリィの声と、私の嗚咽。それだけが聞こえてくる。
「普通に揉まれて、それでも自分だけの物語を彩っていく。それが人生の在り方で、生きることを知らない私からしたら、すごくわくわくすることだった。……でも、咲九夜を見て、いろんな人がここにきて、少しずつ変わっていった」
涙も呼吸も忘れて、いつの間にか彼女の世界に引き込まれていた。優しく柔らかい声と、歪みながらも美しい表情にすべてを奪われる。瞳の奥、真っ黒だけれどきれいな何かが、アリィの中にある。
「生まれながらの才能や個性で、社会に求められること——常識や普通に順応していける人は一定数いて、やっぱり強い。その人たちのせいで、そうでない人たちが苦しんでいるのも事実……でも、だからそうでない人たちが悪いとか、そういうことじゃなくて」
彼女は私のことをしっかりと見つめなおし、目にいっぱいの雫を抱える。
「人それぞれが持つ人生は、その人が決めるもの。死ぬという選択も、生きるという選択も、その人のもの。だから、咲九夜がもう無理だって、こっちの世界に来たことも、見方を変えれば正解なんだよ。だって……咲九夜は……」
————ただ幸せに生きたかっただけで、辛い思いなんかしたくなかったんだよね。
歯を食いしばり、下を向く。
————もう、疲れちゃったんだよね。
また、抱き寄せられる。
——————アリィ、どうしてそこまで、私を泣かせてしまうの。
もったいないと思ってしまうほど、綺麗な言葉が、優しい雨のように降り注ぐ。
「死にたいんじゃなくて、生きたいわけでもなくて。ただ、咲九夜のことを認めてくれて、本気でやりたいことに向き合って、そばにいてくれる人がほしかっただけだよね。——————認めてくれなくても、咲九夜は今のままで生きていていいんだって、それでも人生を歩んでいいんだって、その小さな言葉が欲しかっただけよね」
滝のように再び零れ始めた涙を眺めながら、胸がぎゅうっと締まっていく。
アリィが痛いって嫌がるかもしれない。でも、ぎゅっときつく背中を握る。
重くなった身体で、彼女にしがみつく。
「みんな……みんな私のことをおかしいやつみたいに見てきた……だから、これじゃだめなんだって、たくさん形を変えてきたのに……なのに……」
逃げていたのは私。
大切な人のそばから、守りたかった居場所から、自分から離れただけ。
でもそれは、普通という言葉が私を縛っていたから。
手放したくなかったのは、大切だったのは、本当だった。
「選択の数だけ、違った未来が存在する。咲九夜がここに来たこと、否定なんてしない」
————お疲れ様、頑張ったね。
言いたいことがあっても、吐き出したい想いがあっても、もう口がうまく機能しない。
うめき声、情けない嗚咽や泣き声ばかりが先行して零れていく。
それをただ優しく受け止めてくれるアリィに、申し訳ないとは思わなかった。
ありがとう。その一言が、何度も浮かんだ。
真紀ともっといろんなことをしたかった。
夏穂先輩ともっとお話しして、夢を追いたかった。
——誰かに寄り添える、そんな作品を生み出す私で在りたかった。
普通、幸せ、常識、正解……。そんなものに踊らされずに、ただ好きな人と笑いあって、楽しく生きたかった。自分の思い描くものを追って、叶えるために頑張りたかった。
貶されたくなかった。もっと頑張れなんて言葉、いらなかった。
頑張ってるね、お疲れ様。辛いよね、苦しいよね。そんな風に、誰かにわかってもらいたかった。
誰かそばにいてほしかった。
独りが嫌だった。
ただ愛されたかった。
そしたらきっと、劣等感や絶望に揉まれても、私は私でいられた。
私が歩みたい人生と、向き合えたはず。
アリィの横に座って、彼女の手を握りしめてからどれくらい時間が経ったのだろう。ずっと同じ態勢で、ずっと無言のまま。
胸がいっぱいになって、呼吸がしっかりとできなくなる。ぎゅうっと潰されそうになった時、アリィの手を強く握る。そうすれば決まって彼女は握り返してくれる。温もりがそばにあるだけで、縛り付けられる感覚が和らいでいく。
「……ねぇアリィ。あなたは、人生ってなんだと思う? ……生き方、とか……」
人生なんて与えられないであろう死神に訊くのも変な話だが、彼女の答えが知りたい。私が創った通りであれば、アリィは多くの人をこの場所で見送ってきたことになる。どんな想いに囲まれてきたのか、知れる機会だ。
「…………自分における幸せを信じて追い求める、それが生き方かな」
「……それはどうして?」
黙りこんでしまったアリィ。今度は彼女の方から手をぎゅっと握ってくる。私は握り返して、さらに身を寄せる。足や手が密着して、お互いの身体の冷たさを知る。
アリィの握りしめる手が、わなわなと震えている。
『どうしても諦められなくて、三十代になっても追ってたら、叶いました。キツかったですけど、その先で待つ音楽はどれも儚くて…………』
『反対を押し切って結婚した相手です。どんな目で見られても、彼女と生きていきたいと思いました』
『あたしの人生は誇れたものじゃないけど……人助けのためになんでもやるって、すっごく気分が良かったよ』
「咲九夜が来るまでの間、いろんな人に出会ったから、素直にこれがいいとか、あれがいいとかはわからない」
でも、とアリィは続ける。
「死ぬまで夢を追い続ける人もいたし、終わりが来るその時まで恋人と一緒に過ごす人もいた。だから、その人が本当に失くしたくないものを追うことが、人生——ひいては幸せとかに直結するんだと思う」
流さないように、しっかりと噛み砕く。
私は小説が書きたかった。誰かを救いたくて、寄り添いたくて。でもそれが、いつしか劣等感に変わっていった。
人との関係もそう。真紀や夏穂先輩、お母さんやお父さんと、もっと笑い合う日々を何度も想像し、期待した。そのどれもが分岐を外れ、私が手に入れたかった幸せや、歩みたかった人生は離れていってしまったけれど。……少なからず、私から距離を置いてしまったという問題もある。
「私が、弱かったのかな」
だが、アリィはふるふると首を横に動かす。
彼女は目を瞑り、長めに息を吸い込む。記憶と一緒に飲み込み、何かを反芻する。
『音楽の道って辛いんだよ……だから、薬物にはまって、人生大転落……自殺なんて妥当だろ?』
『死んだ恋人のもとに行こうとしたんですけど……私じゃ、追いつけないのかな……』
『父が他界して、借金ができてしまって……頑張って全額返済して、お母さんにいっぱい美味しいもの食べさせてあげたかったんですけど……職場がブラックでセクハラも横行してて……もう、嫌になっちゃいました』
「……夢を追って、人を追って、折れて死んだ人もたくさんいた。咲九夜みたいに、何かしらの形で傷を負って、それを補おうとしたり前を向こうとしたのに、さらに潰された人もいた。…………だけど、私にはどうやっても弱いで片付けられなかった」
アリィが私の手を握る手とは反対の手で、鎌をきつく握りしめている。唇を噛みしめる彼女の表情がとても痛々しい。
「誰かがスポットライトを浴びて、幸せになって——その陰には、何倍もの負けた人がいる。それは単なる観客かもしれないし、その場を求めてともに競った人かもしれない。なにあれ、物事は能力、運において、仕方なかった、と片付けるほかなくなる。……それが、人生における難点で、みんなが幸せになれない理由」
アリィは一体、どれだけ現実を見せられたのだろう。
「幸せを追い求めるのが生き方としたら、それってかなり苦しくない? みんなが幸せになれるわけじゃないなんて……」
「だから、咲九夜みたいな人が現れるんだよ」
——え……。
呆気に取られて見つめる私に、アリィがふにゃっと微笑む。
「誰しもが幸せになれるわけじゃない。それは辛いことで、努力し続ける人からしたら、生きていることが馬鹿みたいになる。そんな時に求められるのは、居場所。いじめられた、挫折した、避けられた。あまりに苦しい人生を照らしてくれるのは、自分だけの存在や、大衆芸術なんだ」
——居場所……私が居場所にしようとした人……。
真紀と小学生で出会った。長く避けられていた私は、愛想笑いで切り抜けるしかなかったはずなのに、敷居をまたいで声をかけてくれた。学校行事を楽しめたのはあれが最初で最後だったし、彼女と過ごす時間は胸が躍っていた。あの地獄が始まるまでは、ずっと続いていくものだと思っていた。
高校に入って夏穂先輩に出会った。真紀を失ったことに加え、受験で想定外の失敗をしたせいで、心にぽっかりと穴が空いていたところを埋めてくれた。とにかく明るい人で、冗談もいじりも、いつもびっくりするほど私を元気づけてくれていた。それに支えられて、私はその先の日々を形成できていたのだと思う。小説のインプットにも、先輩は知らぬ間に大きな力となっていた。
人間——私は、気づかないうちに、勝手に自分の居場所を探し、見つけていた。それが偶然ともいえる人の巡りであっても、私はそこを信じ、守りたい、大切にしたいと願った。
居場所を求めること——安心したいというのは、人間の性——普通だったのだろうか。
「真紀さんや夏穂さんにだって、咲九夜は特別に映ったはず。似たような痛みを抱えていたり、単純に仲良くなりたい、そばにいたいと思ったり。心の奥底にある想いは、言わずと届いていたんじゃないかな」
救いたい、寄り添いたいと願ったことが、彼女たちに届いていたのだろうか。
生きていたすべての私に、今の心を重ねる。
「さっきも言ったけど、普通や幸せは定義できない。基準や価値観が個々にあるから。だから、全部自分で見つけなければいけない。でも、それを見つけられずに終えることも、見つけようとすることが幸せでも、その過程における幸せでも、私はいいと思うんだ」
夢を追いかけた日々を、心のそこから笑えた日々を、私は幸せと呼べたのだろうか。決して綺麗とは言えない想いが渦巻いていて、私が大嫌いだった。それでも、生きていたあの時間は、確かに私が私でいれた時間。家族の目に怯え、クラスの雰囲気に気圧され、板についた愛想笑いで歪んでいた私ではなかった。
すっと沈黙が落ちて、渡し合った想いを飲み込む。アリィは俯き、私に体重をかける。
『でも……もう少し生きてみたかったな』
『叶うことなら、もっと幸せに生きたかったな……楽しいことで埋め尽くしたかった』
『もう少しやってみればよかったって、後悔し始めてる』
「……でもやっぱり、死んでほしくはないな」
「…………たとえそれが、楽になる方法であったとしても……」
アリィが隣で頷く。
「苦しいこともつらいことも、消えたいと願うことも、わかってる……でもここに来る人達は、口をそろえて言うの。できるなら、もっと生きてみたかったって。幸せな人生を歩んでみたかったって……」
やがて耐えきれなくなったのか、アリィは私の胸元に顔を埋めて、涙を流しながら言葉を紡ぐ。
一体どこまで、苦しい想いに触れてきたのだろう。
『ただ、消えたかった——痛みから逃げたかっただけなのに』
「ごめんね咲九夜……ほんとうにごめんね……死ぬことも選択としては正解。だけど、私は……咲九夜に生きていてほしかった。消えたいという想いに抗うことは苦しいことだってわかってるけど……誰にも死んでほしくなかった……」
私や真紀のように、世界のどこかで、今も命を絶つ人たち。そのすべての人たちに向けた、アリィの願い。
数多の想いに触れて、疲弊したアリィが私の胸元で泣いている。お互いを癒し合うこの形こそ、私が求めていた形であり、理想郷だったのかもしれない。
私が創っただけあって、どこまでも儚いアリィ。
私が小説を書く理由は、誰かに寄り添うため。間接的には、アリィの願いとも繋がる。
アリィはまだ、何度も「ごめんね」を口にしている。
彼女をきつく抱きしめたり、撫でたり……それが安心に繋がることを、私は知っている。
私だけへのごめんねじゃない。人生の大きな分岐に立ち、命の選択を迫られているすべての人たちへの願望と、あふれ出る謝罪。
真紀に対して、私だって抱いていた。今でも、アリィのように、多くの人へ抱いている。
自分から絶っておいて言えることではないのかもしれない。
でも、やっぱりあの寄り添いたいという想いは嘘でなかった。
どうか死なないで、生きてほしい。
この辛すぎる世界で、どうか生き抜いてほしい。
私の紡ぐ、物語をあてにしてもいい。
ただとにかく、生きてほしい。
しきりに首元を触る。
喉は緩く、息も吸える。
私の足は、ちゃんと着地している。
でも胸だけは、締め付けられたまま。
手は私の顔を必死に拭う。
雫がぼろぼろと落ちていき、消えていく。
嗚咽も堪えられずに。
「っう、……あぁぁ……あああぁぁぁ…………」
一気に溢れ出して、追い打ちをかけるようにどんどん想いが生まれて、もう止まりそうにない。
膝から崩れ落ちて、そのまま座り込む。何度目元を拭っても、どれだけ嘆いて叫んでも、ぐちゃぐちゃしたものは消えてくれない。却っておかしくなっていく。
「……これで全部終わったよ……お疲れ様、咲九夜」
次第に震えていったアリィの声が聞こえて、そのあとすぐ、身体に体重がかかる。
頭を支えられて、彼女の胸元に抱えられる。背中にそっと手が回ってくる。
ただ優しく撫でてくれる。
「……私だって……私だって……! ……私の何がいけなかったの……? 何が悪かったの?」
アリィに手をまわし、しがみつくようになりながら、心に溜まっていたものを当てつけのように吐き出していく。こんな声が出せるなんて思わなかった。金切り声とも言える、何か大事なものが外れて狂ったよう。
彼女の胸元に縋り、そこにある温もりや安らぎを、貪欲なまでに求める。
「普通ってなに! 教えてよ! わからないから困ってるんじゃん! ……私だって……できるなら普通になりたかった! 幸せになりたかったよ!」
ただ黙って私を抱きしめ、頭を優しく撫でてくれるアリィに甘えて、ただただ泣きじゃくる。幼い子供みたいだけど、恥ずかしさなんてもう気にならない。
真上から、鼻を啜るような音が聞こえてくる。落ちていく雫は数が増えてゆく。私のではなく、別のものも含めて。
「誰も教えてくれなかったじゃん! なにしても貶されて、大切なものまで奪われて! …………なんで……なんで私ばっかり……」
私ばっかり、なんて言葉は言いたくなかった。言ってはいけなかった。
同じくらい辛い人が、もっと辛い人が、たくさんいるから。
でも、もう限界だった。
私を繋ぎ止めていたものが、外れて弾けてしまったみたい。
アリィはなかなか治まらない私を泣き止ませることはせず、逆にさらにきつく抱きしめてくれる。私はさらに身を寄せていく。あまりにも多すぎる色の絵の具をこぼして、真っ黒に染まってしまった心を、彼女の感触が白く和らげてくれる。
「頑張ったね……ほんとうに……辛かったよね…………」
アリィの声も震えていて、あとちょっとで聴き取れなくなってしまいそうだ。
誰かがそばにいて、こうして抱擁してくれる。冷めきっていた心がじわじわと温まっていくような感覚。もうすべてが終わった、何も考える必要がない。そういうことなのかもしれない。
だけど、この長い記憶の旅を終えて、吐き出してしまいたくなることも増えた。彼女からの温度に安心する自分もいるが、生きていたころの傷は癒えないままだ。
「私なんかが辛いなんてほざいちゃだめなのはわかってる……でも……」
「咲九夜、もういいよ」
——へ……?
「咲九夜だって辛いんだから、もう頑張らなくていいよ。堪えようとする必要もない。……痛みの大きさも形も、全部人それぞれなんだから」
アリィの背中を、さらにきつく握る。
「……ねぇアリィ、どうしたら私は普通に生きられたの……? どうやったら、みんが言う幸せになれたの……?」
「……………………」
——わからない。
そんなアリィの言葉が、脳内で重く響く。
「わからない、が答えだと思う」
私は反射的にアリィの顔を見上げる。彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃで、でもきっとそれは私も変わらない。
「アリィまで……見つけられなかった私が悪いって言いたいの……?」
「違うよ。……ねぇ咲九夜、君が思う普通ってどんなもの?」
アリィは口調を取り戻しつつあるのに、私はまだまだで、目から溢れるものが未だ滝のよう。
優しく問いかけてくれるアリィに、抱えてきた理想郷を吐き出す。
「そんなの……頭の良い大学行って、良い企業に就職して、結婚して……とにかく求められたものをこなしていればいいんでしょ? でもそれができないから——」
「それは、咲九夜が今までに”押し付けられた普通”、でしょ?」
私の文句を遮るように、彼女はそう零す。低く、囁くように。
「”押し付けられた”……?」
「……その普通は、誰かの価値や基準に基づいたもの。本当は普通なんて、誰にも定義できないんだよ。人の数だけ想いや考え方、価値観、生き方があるから」
柔らかく包み込むようなアリィの声と、私の嗚咽。それだけが聞こえてくる。
「普通に揉まれて、それでも自分だけの物語を彩っていく。それが人生の在り方で、生きることを知らない私からしたら、すごくわくわくすることだった。……でも、咲九夜を見て、いろんな人がここにきて、少しずつ変わっていった」
涙も呼吸も忘れて、いつの間にか彼女の世界に引き込まれていた。優しく柔らかい声と、歪みながらも美しい表情にすべてを奪われる。瞳の奥、真っ黒だけれどきれいな何かが、アリィの中にある。
「生まれながらの才能や個性で、社会に求められること——常識や普通に順応していける人は一定数いて、やっぱり強い。その人たちのせいで、そうでない人たちが苦しんでいるのも事実……でも、だからそうでない人たちが悪いとか、そういうことじゃなくて」
彼女は私のことをしっかりと見つめなおし、目にいっぱいの雫を抱える。
「人それぞれが持つ人生は、その人が決めるもの。死ぬという選択も、生きるという選択も、その人のもの。だから、咲九夜がもう無理だって、こっちの世界に来たことも、見方を変えれば正解なんだよ。だって……咲九夜は……」
————ただ幸せに生きたかっただけで、辛い思いなんかしたくなかったんだよね。
歯を食いしばり、下を向く。
————もう、疲れちゃったんだよね。
また、抱き寄せられる。
——————アリィ、どうしてそこまで、私を泣かせてしまうの。
もったいないと思ってしまうほど、綺麗な言葉が、優しい雨のように降り注ぐ。
「死にたいんじゃなくて、生きたいわけでもなくて。ただ、咲九夜のことを認めてくれて、本気でやりたいことに向き合って、そばにいてくれる人がほしかっただけだよね。——————認めてくれなくても、咲九夜は今のままで生きていていいんだって、それでも人生を歩んでいいんだって、その小さな言葉が欲しかっただけよね」
滝のように再び零れ始めた涙を眺めながら、胸がぎゅうっと締まっていく。
アリィが痛いって嫌がるかもしれない。でも、ぎゅっときつく背中を握る。
重くなった身体で、彼女にしがみつく。
「みんな……みんな私のことをおかしいやつみたいに見てきた……だから、これじゃだめなんだって、たくさん形を変えてきたのに……なのに……」
逃げていたのは私。
大切な人のそばから、守りたかった居場所から、自分から離れただけ。
でもそれは、普通という言葉が私を縛っていたから。
手放したくなかったのは、大切だったのは、本当だった。
「選択の数だけ、違った未来が存在する。咲九夜がここに来たこと、否定なんてしない」
————お疲れ様、頑張ったね。
言いたいことがあっても、吐き出したい想いがあっても、もう口がうまく機能しない。
うめき声、情けない嗚咽や泣き声ばかりが先行して零れていく。
それをただ優しく受け止めてくれるアリィに、申し訳ないとは思わなかった。
ありがとう。その一言が、何度も浮かんだ。
真紀ともっといろんなことをしたかった。
夏穂先輩ともっとお話しして、夢を追いたかった。
——誰かに寄り添える、そんな作品を生み出す私で在りたかった。
普通、幸せ、常識、正解……。そんなものに踊らされずに、ただ好きな人と笑いあって、楽しく生きたかった。自分の思い描くものを追って、叶えるために頑張りたかった。
貶されたくなかった。もっと頑張れなんて言葉、いらなかった。
頑張ってるね、お疲れ様。辛いよね、苦しいよね。そんな風に、誰かにわかってもらいたかった。
誰かそばにいてほしかった。
独りが嫌だった。
ただ愛されたかった。
そしたらきっと、劣等感や絶望に揉まれても、私は私でいられた。
私が歩みたい人生と、向き合えたはず。
アリィの横に座って、彼女の手を握りしめてからどれくらい時間が経ったのだろう。ずっと同じ態勢で、ずっと無言のまま。
胸がいっぱいになって、呼吸がしっかりとできなくなる。ぎゅうっと潰されそうになった時、アリィの手を強く握る。そうすれば決まって彼女は握り返してくれる。温もりがそばにあるだけで、縛り付けられる感覚が和らいでいく。
「……ねぇアリィ。あなたは、人生ってなんだと思う? ……生き方、とか……」
人生なんて与えられないであろう死神に訊くのも変な話だが、彼女の答えが知りたい。私が創った通りであれば、アリィは多くの人をこの場所で見送ってきたことになる。どんな想いに囲まれてきたのか、知れる機会だ。
「…………自分における幸せを信じて追い求める、それが生き方かな」
「……それはどうして?」
黙りこんでしまったアリィ。今度は彼女の方から手をぎゅっと握ってくる。私は握り返して、さらに身を寄せる。足や手が密着して、お互いの身体の冷たさを知る。
アリィの握りしめる手が、わなわなと震えている。
『どうしても諦められなくて、三十代になっても追ってたら、叶いました。キツかったですけど、その先で待つ音楽はどれも儚くて…………』
『反対を押し切って結婚した相手です。どんな目で見られても、彼女と生きていきたいと思いました』
『あたしの人生は誇れたものじゃないけど……人助けのためになんでもやるって、すっごく気分が良かったよ』
「咲九夜が来るまでの間、いろんな人に出会ったから、素直にこれがいいとか、あれがいいとかはわからない」
でも、とアリィは続ける。
「死ぬまで夢を追い続ける人もいたし、終わりが来るその時まで恋人と一緒に過ごす人もいた。だから、その人が本当に失くしたくないものを追うことが、人生——ひいては幸せとかに直結するんだと思う」
流さないように、しっかりと噛み砕く。
私は小説が書きたかった。誰かを救いたくて、寄り添いたくて。でもそれが、いつしか劣等感に変わっていった。
人との関係もそう。真紀や夏穂先輩、お母さんやお父さんと、もっと笑い合う日々を何度も想像し、期待した。そのどれもが分岐を外れ、私が手に入れたかった幸せや、歩みたかった人生は離れていってしまったけれど。……少なからず、私から距離を置いてしまったという問題もある。
「私が、弱かったのかな」
だが、アリィはふるふると首を横に動かす。
彼女は目を瞑り、長めに息を吸い込む。記憶と一緒に飲み込み、何かを反芻する。
『音楽の道って辛いんだよ……だから、薬物にはまって、人生大転落……自殺なんて妥当だろ?』
『死んだ恋人のもとに行こうとしたんですけど……私じゃ、追いつけないのかな……』
『父が他界して、借金ができてしまって……頑張って全額返済して、お母さんにいっぱい美味しいもの食べさせてあげたかったんですけど……職場がブラックでセクハラも横行してて……もう、嫌になっちゃいました』
「……夢を追って、人を追って、折れて死んだ人もたくさんいた。咲九夜みたいに、何かしらの形で傷を負って、それを補おうとしたり前を向こうとしたのに、さらに潰された人もいた。…………だけど、私にはどうやっても弱いで片付けられなかった」
アリィが私の手を握る手とは反対の手で、鎌をきつく握りしめている。唇を噛みしめる彼女の表情がとても痛々しい。
「誰かがスポットライトを浴びて、幸せになって——その陰には、何倍もの負けた人がいる。それは単なる観客かもしれないし、その場を求めてともに競った人かもしれない。なにあれ、物事は能力、運において、仕方なかった、と片付けるほかなくなる。……それが、人生における難点で、みんなが幸せになれない理由」
アリィは一体、どれだけ現実を見せられたのだろう。
「幸せを追い求めるのが生き方としたら、それってかなり苦しくない? みんなが幸せになれるわけじゃないなんて……」
「だから、咲九夜みたいな人が現れるんだよ」
——え……。
呆気に取られて見つめる私に、アリィがふにゃっと微笑む。
「誰しもが幸せになれるわけじゃない。それは辛いことで、努力し続ける人からしたら、生きていることが馬鹿みたいになる。そんな時に求められるのは、居場所。いじめられた、挫折した、避けられた。あまりに苦しい人生を照らしてくれるのは、自分だけの存在や、大衆芸術なんだ」
——居場所……私が居場所にしようとした人……。
真紀と小学生で出会った。長く避けられていた私は、愛想笑いで切り抜けるしかなかったはずなのに、敷居をまたいで声をかけてくれた。学校行事を楽しめたのはあれが最初で最後だったし、彼女と過ごす時間は胸が躍っていた。あの地獄が始まるまでは、ずっと続いていくものだと思っていた。
高校に入って夏穂先輩に出会った。真紀を失ったことに加え、受験で想定外の失敗をしたせいで、心にぽっかりと穴が空いていたところを埋めてくれた。とにかく明るい人で、冗談もいじりも、いつもびっくりするほど私を元気づけてくれていた。それに支えられて、私はその先の日々を形成できていたのだと思う。小説のインプットにも、先輩は知らぬ間に大きな力となっていた。
人間——私は、気づかないうちに、勝手に自分の居場所を探し、見つけていた。それが偶然ともいえる人の巡りであっても、私はそこを信じ、守りたい、大切にしたいと願った。
居場所を求めること——安心したいというのは、人間の性——普通だったのだろうか。
「真紀さんや夏穂さんにだって、咲九夜は特別に映ったはず。似たような痛みを抱えていたり、単純に仲良くなりたい、そばにいたいと思ったり。心の奥底にある想いは、言わずと届いていたんじゃないかな」
救いたい、寄り添いたいと願ったことが、彼女たちに届いていたのだろうか。
生きていたすべての私に、今の心を重ねる。
「さっきも言ったけど、普通や幸せは定義できない。基準や価値観が個々にあるから。だから、全部自分で見つけなければいけない。でも、それを見つけられずに終えることも、見つけようとすることが幸せでも、その過程における幸せでも、私はいいと思うんだ」
夢を追いかけた日々を、心のそこから笑えた日々を、私は幸せと呼べたのだろうか。決して綺麗とは言えない想いが渦巻いていて、私が大嫌いだった。それでも、生きていたあの時間は、確かに私が私でいれた時間。家族の目に怯え、クラスの雰囲気に気圧され、板についた愛想笑いで歪んでいた私ではなかった。
すっと沈黙が落ちて、渡し合った想いを飲み込む。アリィは俯き、私に体重をかける。
『でも……もう少し生きてみたかったな』
『叶うことなら、もっと幸せに生きたかったな……楽しいことで埋め尽くしたかった』
『もう少しやってみればよかったって、後悔し始めてる』
「……でもやっぱり、死んでほしくはないな」
「…………たとえそれが、楽になる方法であったとしても……」
アリィが隣で頷く。
「苦しいこともつらいことも、消えたいと願うことも、わかってる……でもここに来る人達は、口をそろえて言うの。できるなら、もっと生きてみたかったって。幸せな人生を歩んでみたかったって……」
やがて耐えきれなくなったのか、アリィは私の胸元に顔を埋めて、涙を流しながら言葉を紡ぐ。
一体どこまで、苦しい想いに触れてきたのだろう。
『ただ、消えたかった——痛みから逃げたかっただけなのに』
「ごめんね咲九夜……ほんとうにごめんね……死ぬことも選択としては正解。だけど、私は……咲九夜に生きていてほしかった。消えたいという想いに抗うことは苦しいことだってわかってるけど……誰にも死んでほしくなかった……」
私や真紀のように、世界のどこかで、今も命を絶つ人たち。そのすべての人たちに向けた、アリィの願い。
数多の想いに触れて、疲弊したアリィが私の胸元で泣いている。お互いを癒し合うこの形こそ、私が求めていた形であり、理想郷だったのかもしれない。
私が創っただけあって、どこまでも儚いアリィ。
私が小説を書く理由は、誰かに寄り添うため。間接的には、アリィの願いとも繋がる。
アリィはまだ、何度も「ごめんね」を口にしている。
彼女をきつく抱きしめたり、撫でたり……それが安心に繋がることを、私は知っている。
私だけへのごめんねじゃない。人生の大きな分岐に立ち、命の選択を迫られているすべての人たちへの願望と、あふれ出る謝罪。
真紀に対して、私だって抱いていた。今でも、アリィのように、多くの人へ抱いている。
自分から絶っておいて言えることではないのかもしれない。
でも、やっぱりあの寄り添いたいという想いは嘘でなかった。
どうか死なないで、生きてほしい。
この辛すぎる世界で、どうか生き抜いてほしい。
私の紡ぐ、物語をあてにしてもいい。
ただとにかく、生きてほしい。



