※※※
木々は葉を落とし、冷たく痛みを覚えるような気温が続く日々。朝はもちろんのこと、下校もマフラーをぐるぐる巻いて、首元に隙間ができないようにする。私は暑さにめっぽう弱かったが、寒さにも耐性がないらしい。少し風が肌に触れるだけで身震いしてしまう。手を何度も擦り合わせては、カサカサという音が鳴る。
帰ったら課題済ませないとな……明日の小テストってなんだっけ……。
添えていた手で、リュックの肩紐部分をぎゅっと握る。
擦れて少し汚れてしまっている、普段と何も変わらないつま先。意外な場所から顔を覗かせる草花。当たり前になってきた、この光景たち。
はあっとため息をついて、駅の階段を上り、ホームを目指していく。三段ほど上ったところで、もうめんどくさくなる。自動で上れたらどれほど楽だろうか。
やっと上りきって顔を上げると、見知った人物がそこにいた。
——夏穂……先輩……?
驚いて目を逸らそうとしても、もう遅い。あちらもほぼ同時に気づいたみたいで、ばっちり目が合ってしまっている。
口にしていないのに、お互いの「あ、」という声がこだましたよう。
少なからず人がいるのに、私たちの周りだけ時間が止まってしまったみたいだ。世界から隔離されて、静かな呼吸と、ぼやぼやした不安定な環境音が耳に届く。
「お、お久しぶりです、先輩」
先に耐えきれなくなったのは私で、口火を切った。
「う、うん、久しぶり……」
先輩は何度も目をぱちぱちとさせている。こんなところで会うとは思いもしなかったのは、私も同じ。実際、駅でこうして会ったのは、これが初めてなのだから。
なんとなくの雰囲気で、私たちは以前のように電車に揺られている。今まで独りだった帰路の中に、懐かしい存在が隣にある。
座ったことで体温が逃げなくなり、足元のヒーターで身体が温まっていく。
先輩の表情を横目で窺う。が、目が合ってしまうのが怖くてすぐ下を見てしまうので、しっかりと観察できない。部活もやめて、半年以上話していなかった。こっちからなにか話題を出すべきなのか、ただこうしてじっとしているべきなのか。膝近くに置かれた手が、ピクピクと震えているのがわかる。
「……元気してた……?」
「は、はい……なんとか……先輩はもう受験なんですか……?」
「そうだね……部活ももう行ってないし」
先輩はそう言いながら、窓の外、どこか遠くを見つめている。私が急にいなくなったのが原因だったのだろうか。
「……咲九夜ちゃんが辞めたあと、私も辞めたんだ」
「っ、なんでですか……?」
——やっぱり私のせいで……?
小説を書くことにとんでもない熱量があったわけではないとしても、書くことが嫌いではなかったはず。
賑やかな部室で、二人で並んで座り、タブレットとにらめっこしていた日々がありありと浮かぶ。
「咲九夜ちゃんと似てるんだ……書籍化って聞いたら、嫉妬と劣等感で、頭がぐちゃぐちゃになっちゃってさ。それに……彼もちょっと変わっちゃって」
最後の方は口にすることを躊躇するようだった。加えて、だんだんと声が小さくなっていく。私と似ていると言われてどきっとしたが、あの時抱えていたぐちゃぐちゃな感情を言葉にしてくれたみたいで、すっと腑に落ちる。
手先をそわそわといじりながら、先輩とは目を離さない。
「変わったって、何があったんですか……?」
「……相当嬉しかったのか、だんだんと周りの人に対する当たりが強くなってね……見下してるとも言えるのかな……」
彼に鼓舞されて、書いていなかった部員も小説を書き始めるようになったらしいが、彼の馬鹿にしたような口調や自分の作品との比較で、個々の言葉たちを愚弄していた、と先輩は言う。
本当かどうかは置いておいて、先輩からそう見えたのだから、私がその場にいたらきっと壊れてしまっていただろう。
「私や他の上級生にも意見するようになっちゃって……最初はただのアドバイスですごく助かってたからよかったんだけど、自分の作品を引き合いに出したりして……」
折り合いをつけるので精一杯になり、そのうえ指摘され憔悴しきって帰ることも珍しくなかったという。居心地の悪さが顕著になってきて、先輩も辞めたらしい。
それは、二学期が始まってから一ヶ月も経っていなかった時だという。
「同級生からもだいぶ避けられてるみたいで……まぁ自業自得といえばそうなんだけどね……」
なんだか複雑な気持ちだ。確かに彼が悪いのは間違いないのだが、どうしてこんなにも変わってしまったのだろうか。大きなことを成し遂げて、周囲の人よりも上に立った人間は、みんな彼のようになるのだろうか。それとも、もともと彼の中に崇められたいという想いがあったのだろうか。
彼の想いを私に重ねる。
でもすぐに、その思考を振り解く。
「……何かを失って夢を掴み取るのも辛いけど、気づかない間に大切なものを失くすのは、本当に嫌だね……」
人間らしいのかな、と先輩は続けて零す。
私たちの間には、終点駅停車のアナウンスと、減速するためのブレーキ音だけが響く。大きく車体が揺れて、肩どうしが優しくぶつかる。窓に映るのは住宅地から、見慣れた駅のホームに変わる。
自分たちが好きだったもの、追い求めていたものが、人をあっという間に変えた。その事実の共有は、私に重くのしかかっていた。
——まだこの空間から離れたくない。
しきりにドアを見てしまう。
乾く口の中を潤して、すぐそこまで来ている言葉を形にしようとして、また引っ込める。
先輩の顔を何度も見て、遠くを見る瞳の奥に胸が痛む。
結局、そのまま流れるように降車して、階段を登って、また私たちは離れていく。
前を行く先輩の手を握ろうとして、やっぱりやめる。
「私は受験だから、しばらく会えないと思うけど…………またね、咲九夜ちゃん。絶対また会うからね~?」
「…………はい!」
空気を和ませるように笑って、手を振って去っていく。笑いかける細い目は垂れていて、背中はどこか寂しそうだ。
見ているだけなのに、何もしていないのに、心が痛い。
『咲九夜ちゃん、今日のこと、私たちだけの秘密ね! また明日も話そ! またね!』
「夏穂……せんぱい……」
私の言葉は、人々の行き交う駅の中に、誰にも反応されることなく溶けていく。ただぼおっと、その場に立ち尽くす。
どうしてこうなってしまったのだろう。あの時、私が逃げ出してしまったからだろうか。
私が離れている間に、多くのものが変わっていた。変貌を含めた「変化」というものは、本当に残酷だ。
私はこれからどうやって生きていこう。他人を子馬鹿にするような、貶めるような人間にはなりたくない。だからといって、自分を殺して、誰かの駒になることなんて、生きているとは言えない。
目頭が熱い。頭がぐちゃぐちゃになる。
人の目なんか忘れて、座り込んでしまいたい。
もう、嫌だ。
※※※
がばっとベッドから起き上がって、自分の目元に手を当てる。
息が荒い。新鮮な酸素を求めて、何度も何度も、激しく肺が動いている。指はすぐに湿っていって、手首まで雫が滴り落ちていく。
スマホに手を伸ばして画面を点灯させると、時刻は午前五時と書かれていた。大型連休を一週間後に控えた今日は土曜日。意味なんてないのに、今日もまた早く目覚めてしまった。
ベッドからよろよろと立ち上がって、涙をぽたぽた落としながらタオルを取りに行く。ごしごしと擦ると赤く腫れあがってしまうので、軽く押さえるようにしてふき取る。
冬を超えて、暖かくなり始めてからずっとこんな感じだ。毎晩うなされて、途中で何度も目覚めて、いくら寝ても寝た気がしない。怠く疲れが溜まったままの状態がずっと続くような気分。睡眠薬を使えば体調がましになるかもしれなかったが、過剰摂取を始める可能性を考慮して控えている。
そしてほとんど決まって、涙がなかなか止まらない。
今日の夢は、過去の出来事を丸まる見せられたみたいだ。先輩とはあの日以来会っていない。受験に勤しんでいるのだろう。性格から、学校に残って勉強したり、夜遅くまで机と向かい合っているのが容易に想像できる。
タオルをぎゅうっと握って、唇を嚙みしめる。
最後のコンテストは結局、最終選考に残ることもなく終わった。読んでくれた人はいつも通り割といる方だったし、いいねの数もそこそこあって、届かなかったわけではないのがせめてもの救いだった。
あの作品は、私の人生の分岐点だった。書籍化が叶えばその道へ、だめなら違う道へと決めていた。
叶わなかったときの道は、みんなが求める、普通の道。
大学に行って、企業に就いて、定年まで働いて、朽ちてゆく身体を抱えながら永遠の眠りへつく。起伏もなくて、長くて、つまらない時間。でもそうやって社会の歯車を回すことが、求められる形であり、普通だ。
そうだったはずなのに。
『良いとは思うけど……他にやりたいことないの?』
『っえ?』
3月初旬の二者面談での担任の言葉は、平坦、つまらない。そんな簡素な言葉を、鋭く研いだようなものだった。
深く刺さり、一瞬で頭の中が真っ白になった。
だって……だって、これでいいって……これが普通だって……。
いい目標だね、頑張ろうね。そんな言葉を待っていた。
呪縛から解放されると、若干安心しきっている私もいた。
でも、そんなものは一切なくて、またしても私は突き返された。
言われた通りだよ……? 望まれたようにしたよ……? なんで……。
ただひたすら、そう考えていた。不安定な道も外して、本業と言われる勉学に尽くすことが、どうして咎められる理由になるのか。
あれから今日まで、どんな日々を送って来たのかわからない。時間は動いているのに、私だけが、ぽつんと取り残されたようにここまで流れてきた。機械のように勉強と人間活動を繰り返して、呼吸だけを続ける日々。生きているという実感はほぼなくて、昨日なにをしていたとか、そんなのもぼやぼやとしていて、ちゃんと思い出せない。
またベッドで横になるけれど、胸の締め付けは緩んでくれない。涙は瞳から頬へ伝い、辺りを濡らしていく。こんな想いを抱くくらいなら、もう終わりにしたい。
胸元をぎゅうっと掴み、掛け布団で身を包みこむ。
——私が、生きている意味って、なんなのだろう。
陽が昇ってしばらくしてから、私はやっと起き上がって部屋を出る。休みの日はいつもこんな感じで定着してきた気がする。時計の短針は、四分の三以上回っていることが多い。
顔だけでも洗わなければと洗面所へ。足を踏み出すたび、先から波打つようにふらつきが来る。壁を頼りに、一歩一歩を確かめるように降りていく。以前のことを思い出して、懐かしいような、複雑な気持ちになる。
「あ、やっと起きた。おはよ、咲九夜」
階段を下りてすぐ、母から声をかけられる。普段の休日とは違った格好をしている。どこか出かけるのだろうか。
私は自分の顔の惨状を想像して、母から目を逸らす。ちゃんと直視できない。さっさとやることを済ませてこの場を去りたい。
「ちょっと出かけてくるね……最近、ゆっくりしすぎじゃない? 心配だから、ちゃんと起きてね」
——は?
苦笑しながら言って、私の世界から姿を消す母。
ピントがぼけたり、視界が揺れる中、唇を嚙む。
——もっと頑張れってこと?
胸の中から、熱くどろどろとしたものが湧いてくる。大きく息を吸い込んで、でもそれをうまく吐き出せなくて。……同時に、もういいやとも思う。
重たい足を動かして、とぼとぼと向かうはずだった場所へ向かう。扉の閉まる音が遠くから聞こえてきて、やっと私だけになった、とため込んでいた息を吐き出す。
大きく吐く。ただそれだけ。
響くのは私の吐息と足音だけ。
蛇口をひねると出てくる綺麗な液体を手で溜めて、温度が馴染んでいく。
温度差のある物質が、私の頬に触れて弾ける。
目の前にいるもう一人の自分は、もう死んでいるようだった。一度視線を落とすけれど、目の前の私もその視線を追う。
どうしようもなくて、自虐気味に笑って見せる。
誰かの前で、言葉の前で、私はこうやって笑っていた。
この後どうしていたっけ。
どんな想いを抱いていたっけ。
なんで、こんなにへたくそになったんだろう。
もっと、もっともっと、上手に笑えたはずなのに。
気持ち悪い、気持ち悪い…………本当に気持ち悪い。
こっちを見ないで。
笑いかけないで。
早く……早く早く早く早く……!
「消えろよお前なんか!!!」
ゴンっ、と鈍い音が、誰もいない洗面所で響く。
じわじわと右手のこぶしから、喉から、痛みが広がっていく。
目の前の私の顔が、ひどく歪んでいく。
毎晩うなされている意味を、やっと理解できた気がする。
私が心に抱えていたもの。引っかかっていたもの。
——咲九夜、なんであなたは、生きているの?
頬を伝っているのはなんだろう。
右手から走るこの痛みを、なぜそこまで苦しいと思うことができないのだろう。
悲しい、辛い、苦しい、死にたい、消えたい。
そんな言葉で片付けられるはず。
そんな言葉で説明できていたはず。
『私は、いたい人——咲九夜と一緒にいるの』
『咲九夜にしか見せない笑顔もあるんだよ』
『咲九夜さんはないでしょ』
『普通の人生を歩んでくれればそれでいい』
『一瞬だけでいいから、私も輝いて、誰かを笑顔にして死にたかった』
胸元に手を当てて、押しつぶすように、ぎゅっと握りしめる。
喉の奥から込み上げてくるものを、必死に飲み込み、抑える。
『他にやりたいことないの?』
——————もう、無理だ。
逃げるように自室に戻って、私が紡いだものに目を向ける。
たくさんの想いを詰め込んだ、冷たい金属のデバイス。
でも、その前に映るものは、それらを全て終わらせるもの。
こうやって見ると、知らない間にいろいろな準備をしてきた。
普通に生きる。幸せになる。そのための、人生における正解。
そのすべての意味が、最期までわからなかった。
望まれた形になったら、家族はもっと、私を愛してくれただろうか。
社会の常識を身に着けた、完璧な人間であれば、大人たちはもっと親身に、味方になってくれただろうか。
板についた、不気味な愛想笑いではなく、心の底から笑うことができたら、もっと幸せだったのだろうか。
夢を追うことは嘲笑われる。踏ん張るほど、息が詰まる。
夢は見るもので、追うものではなかったのかもしれない。
私が掴んでいた、命を繋いでいた蜘蛛の糸は、一体どこで手放すことになってしまったのだろう。
私は、言葉でいとも簡単に傷ついていく様を見て来た。そして、体感した。
殺そうと思えば、簡単に殺せる。
死のうと思えば、簡単に死ねる。
『私は、いたい人——咲九夜と一緒にいるの』
ずっと、隣にいられると思ってたのに。
『咲九夜ちゃん、今日のこと、私たちだけの秘密ね! また明日も話そ! またね!』
暗闇に差した、永遠の光のように思えたのに。
全てはこの、吊るされた紐に収束してしまった。
ベッドの上に立ち上がる。
——こんなに高くなるんだ。
柔らかい感触を踏みしめながら、私は落ちないように身体を前に傾ける。
首元……喉の辺りに、少しだけ窮屈な感覚が現れる。
真紀から貰ったものを、家族から貰ったものを、結局何も還元できなかった。
ごめんなさい。
そっと前に踏み込む。
足元から柔らかい感触が離れていく。さっきまですぐそこにあったはずなのに、いくら足をバタバタさせても、もうない。
頭がぼおっとしてきた。
真っ暗な視界、沈みゆく意識の中で、何度も響く。
——ごめんなさい、ごめんなさい。
木々は葉を落とし、冷たく痛みを覚えるような気温が続く日々。朝はもちろんのこと、下校もマフラーをぐるぐる巻いて、首元に隙間ができないようにする。私は暑さにめっぽう弱かったが、寒さにも耐性がないらしい。少し風が肌に触れるだけで身震いしてしまう。手を何度も擦り合わせては、カサカサという音が鳴る。
帰ったら課題済ませないとな……明日の小テストってなんだっけ……。
添えていた手で、リュックの肩紐部分をぎゅっと握る。
擦れて少し汚れてしまっている、普段と何も変わらないつま先。意外な場所から顔を覗かせる草花。当たり前になってきた、この光景たち。
はあっとため息をついて、駅の階段を上り、ホームを目指していく。三段ほど上ったところで、もうめんどくさくなる。自動で上れたらどれほど楽だろうか。
やっと上りきって顔を上げると、見知った人物がそこにいた。
——夏穂……先輩……?
驚いて目を逸らそうとしても、もう遅い。あちらもほぼ同時に気づいたみたいで、ばっちり目が合ってしまっている。
口にしていないのに、お互いの「あ、」という声がこだましたよう。
少なからず人がいるのに、私たちの周りだけ時間が止まってしまったみたいだ。世界から隔離されて、静かな呼吸と、ぼやぼやした不安定な環境音が耳に届く。
「お、お久しぶりです、先輩」
先に耐えきれなくなったのは私で、口火を切った。
「う、うん、久しぶり……」
先輩は何度も目をぱちぱちとさせている。こんなところで会うとは思いもしなかったのは、私も同じ。実際、駅でこうして会ったのは、これが初めてなのだから。
なんとなくの雰囲気で、私たちは以前のように電車に揺られている。今まで独りだった帰路の中に、懐かしい存在が隣にある。
座ったことで体温が逃げなくなり、足元のヒーターで身体が温まっていく。
先輩の表情を横目で窺う。が、目が合ってしまうのが怖くてすぐ下を見てしまうので、しっかりと観察できない。部活もやめて、半年以上話していなかった。こっちからなにか話題を出すべきなのか、ただこうしてじっとしているべきなのか。膝近くに置かれた手が、ピクピクと震えているのがわかる。
「……元気してた……?」
「は、はい……なんとか……先輩はもう受験なんですか……?」
「そうだね……部活ももう行ってないし」
先輩はそう言いながら、窓の外、どこか遠くを見つめている。私が急にいなくなったのが原因だったのだろうか。
「……咲九夜ちゃんが辞めたあと、私も辞めたんだ」
「っ、なんでですか……?」
——やっぱり私のせいで……?
小説を書くことにとんでもない熱量があったわけではないとしても、書くことが嫌いではなかったはず。
賑やかな部室で、二人で並んで座り、タブレットとにらめっこしていた日々がありありと浮かぶ。
「咲九夜ちゃんと似てるんだ……書籍化って聞いたら、嫉妬と劣等感で、頭がぐちゃぐちゃになっちゃってさ。それに……彼もちょっと変わっちゃって」
最後の方は口にすることを躊躇するようだった。加えて、だんだんと声が小さくなっていく。私と似ていると言われてどきっとしたが、あの時抱えていたぐちゃぐちゃな感情を言葉にしてくれたみたいで、すっと腑に落ちる。
手先をそわそわといじりながら、先輩とは目を離さない。
「変わったって、何があったんですか……?」
「……相当嬉しかったのか、だんだんと周りの人に対する当たりが強くなってね……見下してるとも言えるのかな……」
彼に鼓舞されて、書いていなかった部員も小説を書き始めるようになったらしいが、彼の馬鹿にしたような口調や自分の作品との比較で、個々の言葉たちを愚弄していた、と先輩は言う。
本当かどうかは置いておいて、先輩からそう見えたのだから、私がその場にいたらきっと壊れてしまっていただろう。
「私や他の上級生にも意見するようになっちゃって……最初はただのアドバイスですごく助かってたからよかったんだけど、自分の作品を引き合いに出したりして……」
折り合いをつけるので精一杯になり、そのうえ指摘され憔悴しきって帰ることも珍しくなかったという。居心地の悪さが顕著になってきて、先輩も辞めたらしい。
それは、二学期が始まってから一ヶ月も経っていなかった時だという。
「同級生からもだいぶ避けられてるみたいで……まぁ自業自得といえばそうなんだけどね……」
なんだか複雑な気持ちだ。確かに彼が悪いのは間違いないのだが、どうしてこんなにも変わってしまったのだろうか。大きなことを成し遂げて、周囲の人よりも上に立った人間は、みんな彼のようになるのだろうか。それとも、もともと彼の中に崇められたいという想いがあったのだろうか。
彼の想いを私に重ねる。
でもすぐに、その思考を振り解く。
「……何かを失って夢を掴み取るのも辛いけど、気づかない間に大切なものを失くすのは、本当に嫌だね……」
人間らしいのかな、と先輩は続けて零す。
私たちの間には、終点駅停車のアナウンスと、減速するためのブレーキ音だけが響く。大きく車体が揺れて、肩どうしが優しくぶつかる。窓に映るのは住宅地から、見慣れた駅のホームに変わる。
自分たちが好きだったもの、追い求めていたものが、人をあっという間に変えた。その事実の共有は、私に重くのしかかっていた。
——まだこの空間から離れたくない。
しきりにドアを見てしまう。
乾く口の中を潤して、すぐそこまで来ている言葉を形にしようとして、また引っ込める。
先輩の顔を何度も見て、遠くを見る瞳の奥に胸が痛む。
結局、そのまま流れるように降車して、階段を登って、また私たちは離れていく。
前を行く先輩の手を握ろうとして、やっぱりやめる。
「私は受験だから、しばらく会えないと思うけど…………またね、咲九夜ちゃん。絶対また会うからね~?」
「…………はい!」
空気を和ませるように笑って、手を振って去っていく。笑いかける細い目は垂れていて、背中はどこか寂しそうだ。
見ているだけなのに、何もしていないのに、心が痛い。
『咲九夜ちゃん、今日のこと、私たちだけの秘密ね! また明日も話そ! またね!』
「夏穂……せんぱい……」
私の言葉は、人々の行き交う駅の中に、誰にも反応されることなく溶けていく。ただぼおっと、その場に立ち尽くす。
どうしてこうなってしまったのだろう。あの時、私が逃げ出してしまったからだろうか。
私が離れている間に、多くのものが変わっていた。変貌を含めた「変化」というものは、本当に残酷だ。
私はこれからどうやって生きていこう。他人を子馬鹿にするような、貶めるような人間にはなりたくない。だからといって、自分を殺して、誰かの駒になることなんて、生きているとは言えない。
目頭が熱い。頭がぐちゃぐちゃになる。
人の目なんか忘れて、座り込んでしまいたい。
もう、嫌だ。
※※※
がばっとベッドから起き上がって、自分の目元に手を当てる。
息が荒い。新鮮な酸素を求めて、何度も何度も、激しく肺が動いている。指はすぐに湿っていって、手首まで雫が滴り落ちていく。
スマホに手を伸ばして画面を点灯させると、時刻は午前五時と書かれていた。大型連休を一週間後に控えた今日は土曜日。意味なんてないのに、今日もまた早く目覚めてしまった。
ベッドからよろよろと立ち上がって、涙をぽたぽた落としながらタオルを取りに行く。ごしごしと擦ると赤く腫れあがってしまうので、軽く押さえるようにしてふき取る。
冬を超えて、暖かくなり始めてからずっとこんな感じだ。毎晩うなされて、途中で何度も目覚めて、いくら寝ても寝た気がしない。怠く疲れが溜まったままの状態がずっと続くような気分。睡眠薬を使えば体調がましになるかもしれなかったが、過剰摂取を始める可能性を考慮して控えている。
そしてほとんど決まって、涙がなかなか止まらない。
今日の夢は、過去の出来事を丸まる見せられたみたいだ。先輩とはあの日以来会っていない。受験に勤しんでいるのだろう。性格から、学校に残って勉強したり、夜遅くまで机と向かい合っているのが容易に想像できる。
タオルをぎゅうっと握って、唇を嚙みしめる。
最後のコンテストは結局、最終選考に残ることもなく終わった。読んでくれた人はいつも通り割といる方だったし、いいねの数もそこそこあって、届かなかったわけではないのがせめてもの救いだった。
あの作品は、私の人生の分岐点だった。書籍化が叶えばその道へ、だめなら違う道へと決めていた。
叶わなかったときの道は、みんなが求める、普通の道。
大学に行って、企業に就いて、定年まで働いて、朽ちてゆく身体を抱えながら永遠の眠りへつく。起伏もなくて、長くて、つまらない時間。でもそうやって社会の歯車を回すことが、求められる形であり、普通だ。
そうだったはずなのに。
『良いとは思うけど……他にやりたいことないの?』
『っえ?』
3月初旬の二者面談での担任の言葉は、平坦、つまらない。そんな簡素な言葉を、鋭く研いだようなものだった。
深く刺さり、一瞬で頭の中が真っ白になった。
だって……だって、これでいいって……これが普通だって……。
いい目標だね、頑張ろうね。そんな言葉を待っていた。
呪縛から解放されると、若干安心しきっている私もいた。
でも、そんなものは一切なくて、またしても私は突き返された。
言われた通りだよ……? 望まれたようにしたよ……? なんで……。
ただひたすら、そう考えていた。不安定な道も外して、本業と言われる勉学に尽くすことが、どうして咎められる理由になるのか。
あれから今日まで、どんな日々を送って来たのかわからない。時間は動いているのに、私だけが、ぽつんと取り残されたようにここまで流れてきた。機械のように勉強と人間活動を繰り返して、呼吸だけを続ける日々。生きているという実感はほぼなくて、昨日なにをしていたとか、そんなのもぼやぼやとしていて、ちゃんと思い出せない。
またベッドで横になるけれど、胸の締め付けは緩んでくれない。涙は瞳から頬へ伝い、辺りを濡らしていく。こんな想いを抱くくらいなら、もう終わりにしたい。
胸元をぎゅうっと掴み、掛け布団で身を包みこむ。
——私が、生きている意味って、なんなのだろう。
陽が昇ってしばらくしてから、私はやっと起き上がって部屋を出る。休みの日はいつもこんな感じで定着してきた気がする。時計の短針は、四分の三以上回っていることが多い。
顔だけでも洗わなければと洗面所へ。足を踏み出すたび、先から波打つようにふらつきが来る。壁を頼りに、一歩一歩を確かめるように降りていく。以前のことを思い出して、懐かしいような、複雑な気持ちになる。
「あ、やっと起きた。おはよ、咲九夜」
階段を下りてすぐ、母から声をかけられる。普段の休日とは違った格好をしている。どこか出かけるのだろうか。
私は自分の顔の惨状を想像して、母から目を逸らす。ちゃんと直視できない。さっさとやることを済ませてこの場を去りたい。
「ちょっと出かけてくるね……最近、ゆっくりしすぎじゃない? 心配だから、ちゃんと起きてね」
——は?
苦笑しながら言って、私の世界から姿を消す母。
ピントがぼけたり、視界が揺れる中、唇を嚙む。
——もっと頑張れってこと?
胸の中から、熱くどろどろとしたものが湧いてくる。大きく息を吸い込んで、でもそれをうまく吐き出せなくて。……同時に、もういいやとも思う。
重たい足を動かして、とぼとぼと向かうはずだった場所へ向かう。扉の閉まる音が遠くから聞こえてきて、やっと私だけになった、とため込んでいた息を吐き出す。
大きく吐く。ただそれだけ。
響くのは私の吐息と足音だけ。
蛇口をひねると出てくる綺麗な液体を手で溜めて、温度が馴染んでいく。
温度差のある物質が、私の頬に触れて弾ける。
目の前にいるもう一人の自分は、もう死んでいるようだった。一度視線を落とすけれど、目の前の私もその視線を追う。
どうしようもなくて、自虐気味に笑って見せる。
誰かの前で、言葉の前で、私はこうやって笑っていた。
この後どうしていたっけ。
どんな想いを抱いていたっけ。
なんで、こんなにへたくそになったんだろう。
もっと、もっともっと、上手に笑えたはずなのに。
気持ち悪い、気持ち悪い…………本当に気持ち悪い。
こっちを見ないで。
笑いかけないで。
早く……早く早く早く早く……!
「消えろよお前なんか!!!」
ゴンっ、と鈍い音が、誰もいない洗面所で響く。
じわじわと右手のこぶしから、喉から、痛みが広がっていく。
目の前の私の顔が、ひどく歪んでいく。
毎晩うなされている意味を、やっと理解できた気がする。
私が心に抱えていたもの。引っかかっていたもの。
——咲九夜、なんであなたは、生きているの?
頬を伝っているのはなんだろう。
右手から走るこの痛みを、なぜそこまで苦しいと思うことができないのだろう。
悲しい、辛い、苦しい、死にたい、消えたい。
そんな言葉で片付けられるはず。
そんな言葉で説明できていたはず。
『私は、いたい人——咲九夜と一緒にいるの』
『咲九夜にしか見せない笑顔もあるんだよ』
『咲九夜さんはないでしょ』
『普通の人生を歩んでくれればそれでいい』
『一瞬だけでいいから、私も輝いて、誰かを笑顔にして死にたかった』
胸元に手を当てて、押しつぶすように、ぎゅっと握りしめる。
喉の奥から込み上げてくるものを、必死に飲み込み、抑える。
『他にやりたいことないの?』
——————もう、無理だ。
逃げるように自室に戻って、私が紡いだものに目を向ける。
たくさんの想いを詰め込んだ、冷たい金属のデバイス。
でも、その前に映るものは、それらを全て終わらせるもの。
こうやって見ると、知らない間にいろいろな準備をしてきた。
普通に生きる。幸せになる。そのための、人生における正解。
そのすべての意味が、最期までわからなかった。
望まれた形になったら、家族はもっと、私を愛してくれただろうか。
社会の常識を身に着けた、完璧な人間であれば、大人たちはもっと親身に、味方になってくれただろうか。
板についた、不気味な愛想笑いではなく、心の底から笑うことができたら、もっと幸せだったのだろうか。
夢を追うことは嘲笑われる。踏ん張るほど、息が詰まる。
夢は見るもので、追うものではなかったのかもしれない。
私が掴んでいた、命を繋いでいた蜘蛛の糸は、一体どこで手放すことになってしまったのだろう。
私は、言葉でいとも簡単に傷ついていく様を見て来た。そして、体感した。
殺そうと思えば、簡単に殺せる。
死のうと思えば、簡単に死ねる。
『私は、いたい人——咲九夜と一緒にいるの』
ずっと、隣にいられると思ってたのに。
『咲九夜ちゃん、今日のこと、私たちだけの秘密ね! また明日も話そ! またね!』
暗闇に差した、永遠の光のように思えたのに。
全てはこの、吊るされた紐に収束してしまった。
ベッドの上に立ち上がる。
——こんなに高くなるんだ。
柔らかい感触を踏みしめながら、私は落ちないように身体を前に傾ける。
首元……喉の辺りに、少しだけ窮屈な感覚が現れる。
真紀から貰ったものを、家族から貰ったものを、結局何も還元できなかった。
ごめんなさい。
そっと前に踏み込む。
足元から柔らかい感触が離れていく。さっきまですぐそこにあったはずなのに、いくら足をバタバタさせても、もうない。
頭がぼおっとしてきた。
真っ暗な視界、沈みゆく意識の中で、何度も響く。
——ごめんなさい、ごめんなさい。



