私を助けられるのは、私だけだった

 高校生活のスタートは、今までよりかはうまくいった方だと思う。勉強の不安なんかよりも小説のことが頭にあったし、義務教育期間に比べて自由になった高校生活は、勉強以外でも時間をつぶせる。
 友達がたくさんできたのかと言われればそういうわけではないが、変な目で見られたり避けられたり、なんてことは全くなかった。適度にいろんな人と話すし、一人で過ごす時間もあるしといった、私にとっては本当にバランスの取れた生活を送っていた。
 かと言って、友人と遊びに行ったりはしたことないので、これまでの学校生活とあまり大差はない。学校に少し行きやすくなっただけだ。
 私が初めて挑戦したこと、部活。
 この高校の文芸部は、出欠席自由という私にとってかなりハードルが低い、好都合な部だった。正直勉強は不安だし、これなら何かあった時も遠慮なく欠席できる。実際、ほとんど来ていない——いわゆる幽霊部員が数人いるらしく、「そういう部活」らしい。咎められたりすることもなければ、何も書かずにただ雑談だけする人もいる、明るく楽し気な場所だった。
 私は割と出席率が高い方で、部員とも話す方だった。
「咲九夜さんはいつも書いてるけど、小説好きなの?」
 特にある男の子は、よく話しかけてくれる。用意された複数台のタブレットだが、こうして書いているのは私と彼、他数人なのだ。
「うん……小説書いてたから、この部活入ったんだ」
 こうやって話すのはだいぶ久しぶりだ。
「咲九夜さんも書いてるんだ!? 僕も小説、書いてるんだ」
 ぱあっと顔を輝かせる彼。仲間を見つけたことが嬉しいのだろう。
 ある日のそのやりとりから、彼と話しながら小説を書くことが多くなった。正直なかなか筆が進まないので邪魔といえばそうだったが、別に悪い気はしなかった。彼との会話が苦痛なわけでもなかったし、急いで物語を書きたかったわけでもなかったから。
 ただ彼は、部活でもクラスでも人が集まる存在だったみたいなので、そこだけが不安要素だった。彼と話したい人がほかにもいるのなら、そっちに行ってもいいのになんて思いながら。
 いろんな意味で、高校生活は新しいことづくしで新鮮だった。クラスメイトがふざけて笑いが起こったり、勉強が難しくて苦戦したり、新しい人脈と場所で知らなかったものに出会ったり。楽しいといえばそうだし、毎日疲労が溜まるといえばそうだった。それでもこれは、充実しているといえるだろう。

 梅雨を迎え、しとしとと雨が降りしきる六月の部室。異常な気温上昇が垣間見え、おまけに湿度まで上がるのだから、少しずつ長袖で生活することも暑苦しくなってくる。暑いのはやっぱり苦手みたいで、汗ばむ身体が気持ち悪い。
 家にあるパソコンとデータを連携させている私は、応募予定の作品の最終調整をしていた。期日は明後日の午後。もうまもなく完了だ。
 学校のタブレットだから、万が一のことを考えていちいちログアウトするのがめんどうだ。
「お、投稿したんだ。一般のコンテストか何か?」
 投稿完了画面をたまたま見たであろう彼が訊ねてくる。
「うん。意外とうまく仕上がったと思う」
「作品、選ばれるといいね」
 微笑んでそう言う彼に、私は笑顔で頷く。
「咲九夜さん、また投稿したの!? 熱心だね~」
 他の部員も集まってきて、私の投稿速度を驚くように言ってくる。
 確かに二か月前に短編を投稿したが……。
「短編とはいえ、この速度で新作を投稿できるのはすごいよ。読者も飽きないだろうなぁ」
 先輩が大げさに褒めて、それを私は素直に受け取ってしまうので顔が熱い。
「そ、そんな……評価されてるわけじゃありませんし……」
「良いことだと思うよ。私だって評価されてないもん。でも、好きなことに熱中できるの、すっごく素敵」
 ありがとうございます、心の底から感謝を伝える。自分の形を受け入れてくれる優しい先輩がいるのは、本当に嬉しいし安心や自信につながる。
「僕も早く投稿したいな……」
「あー、君は今回の公募が初めてだっけ?」
 私が投稿したのはある出版社のコンテストだが、彼が応募するのはかなり難易度が高い部門だ。毎回多くの作品が集結する分、審査員の目は厳しく、どんな良作であっても辛口な評価がつけられる。至高の一作、と言っても過言ではないほどの作品が毎年選ばれ、その作家は芥川賞などにも名を馳せることが多い。
 私とは比べ物にならない挑戦をする彼のことは、素直にすごいと思う。
「最終選考に残るだけでも十分すごいコンテストなんですよね……?」
「うん。あれで選ばれたら、私泣いちゃう」
 冗談のように言ってるけれど、嘘ではないだろう。それくらい難しい。
 その後も少し話して、それぞれの作業に入っていく。私は新しい作品の構成を、彼はきっと初めての一作を。先輩は……どんな作品を書くのだろうか。
 小説を書かない人たちのちょっとした話し声と窓を打つ雨音、それを縫うように打鍵音が鼓膜を震わせる。時間を忘れて作業することが多かったが、しばらくは落ち着くだろう。
 
 部活が終わると、梅雨には珍しく雨が上がっていた。傘を差さずに帰ることができる。手がふさがることもないし、肉体的にも気分的にも楽だ。
 水溜まりを避けるように昇降口を出てすぐ、視界の右から制服を身に着けた人物が映った。
「咲九夜ちゃ~ん、一緒に帰ろ?」
 長めの髪をふわふわ揺らしながらやって来るその人は部活でコンテストについて話していた先輩。……部活でのやり取りを思い出してまた顔が発火しそうになる。
「あ、はい……大丈夫ですよ」
 ——誰かと下校……しかも先輩と……。
 共に下校するなんてことは久しぶりで、嫌じゃなかったのに曖昧な反応をしてしまった。
 だが先輩は、急に話しかけてしまったからと捉えたのか、何事もなく笑顔を私にくれる。
 いつもの帰り道——駅までの道を、今日は二つの影が先を行く。歩幅を合わせて、肩紐を握りしめる。
「ところで咲九夜ちゃんさ、私の名前、ちゃんと覚えてる?」
「あー……えっと……」
 やばい……交流なんて久しぶりだったから……。
 二年生であるということは覚えているのだが……。
 慌てふためく私が面白かったのか、先輩は嫌な顔一つせず、なんなら可笑しそうに笑っていた。
「やっぱり。わかってなさそうな顔してたもんなぁ」
 その言葉から、なんとなくこの人に隠し事は通用しないのだろうなと思う。
「川端夏穂(かわばた かほ)、夏穂って呼んでね、絶対」
 このやり取りは、入部当初にした気がする。どうしても名前で呼ぶように強制していたのも思い出してきた。理由は知らない。
「名前覚えるのほんと苦手で……わかってたんですか?」
「まぁ確信には近かったかな。なんだかわかっちゃうんだよね、人が隠してることとか本音。……特に、咲九夜ちゃんは顔に出やすいからね」
 え、と反射的に顔に手を当てる。なんだか恥ずかしい。少し先の行動まで読まれていたらどうしよう。
「可愛い反応するな~。それでね、話したいことがあって」
 見透かされて、可愛いと言われて、もう何がなんだか、感情の収拾がつかなくなってしまいそうだ。
 顔が熱い自覚はあるけれど、手を下ろして話を聞けるようにする。
「どうして小説書いてるの?」
 風が唸り、ばっと髪が持ち上がる。
 橙色に染まりつつある空の下、心のしきりを越えて踏み込もうとする問。
 どうしてそんなことを知りたいと思うのだろうか。
「別に答えなくてもいいんだよ」
 少し間が開いて、でもね、と続ける。
「あの空間にいるあなたは……普段のあなたは、ずっとどこか悲しそうなんだ。……ごめんね、ストーカーとかじゃなくて、帰りとかたまに見かけるんだ」
 無言のまま歩き続ける。でもそれを咎めることも、解答を急かそうともしない。先輩はただ私の横を歩いてくれる。
 横断歩道を二つ渡り、曲がって車通りの少ない道を歩く。電車は私たちの上を走る。線路の下、静けさに包まれた街中では、声や鳥の鳴き声がよく響く。私の鼓動は不規則でうるさい。
 小説を書く理由は、言いたくない。まだ誰にも言えそうにない。

『私は、いたい人——咲九夜と一緒にいるの』

 真紀の言葉を忘れたことは一度もない。彼女との思い出も、彼女を亡くした悔しさも残ったままだ。
 それを話して重たい空気を共有するのも嫌だけど、それ以上にまだ伝えなくてもいいと思う。私の数少ない、生きていてよかったと思えた時間。私の過去や想いを中途半端に伝えたって、なにが起こるかわかったものではない。
「…………言えません。流石に重すぎる話ですし、先輩に伝えられるほど、私は強くないです」
 そっか、とだけ零して、先輩は隣を平然と歩いていく。
「夢を追う人って、やっぱり事情があるんだね」
 少し間が空いて、口を開いたのは先輩の方だった。明るい声とは裏腹に、泣いているみたいでつい顔をしきりに見てしまう。
「ね、咲九夜ちゃんとは、これからたくさんお話ししたいな」
「え、あ、はい……いいんですけど……その……」
 口角を上げて私に話しかける先輩は、無理に笑っている。油断したら涙がこぼれてしまう、そうひしひしと感じさせられる。なんだか息が詰まる。
 踏み込んだ質問はしたくない。私だって困るし、嫌いだから。
 でも小説を書くのは、そんな人たちに一歩踏み込んで、寄り添いたいと思ったから。だからここは、とりあえず前に進むことが大事だ。
 ごくりと固唾を飲み込んで、言葉を紡ぐ。
「なにかあったんですか? 私でよければ、聴くだけでも……」
 予想外だったのか、ぱちぱちと瞬きをして私を見つめる先輩。そのあと、ふはっと笑って私の肩を軽く突く。
「あんたも鋭いなぁ。私の模写体みたいな人間がいるなんてね」
 きっと冗談、強がりなのだろう。目が笑ってない。無理に上げていた口角が、却って引き攣っているように見えてきた。
「じゃあ、聴いてもらおうかな」
 
 無人駅の改札を抜けて、階段を上り、ちょうどよく到着した電車に乗る。階段に疲れて肩で息をして、電車に揺られながら、いろいろと話してくれた。過去の出来事から愚痴と、決して一貫性はなかったが、ずっと誰かに聴いてもらいたかったのだという想いが滲み出ていた。私は特に何か言うわけでもなく、ただ聴いて、頷いて、たまに共感の声を漏らしたり。本当にそれだけだった。
 特に口走っていたのは、「夢を否定された」という言葉だった。
「小説書きたいって思ったのは小学生の頃なんだけど、『才能ないんだから夢見ない方がいいよ』って言われるわけ。お前どんだけ性格悪いんだよって話じゃん!? てかそいつの夢、歌手だったの。歌めっちゃ下手なのに」
 電車の中だから大笑いしていたわけではないが、重たい空気にならないように所どころ配慮してくれていた。私も一緒になって笑ってしまって、久しぶりに気分が高揚している。
「中学生の時はさ、私すっごく馬鹿だったのに県一の高校希望して。『馬鹿な真似はやめろ』って、もうオブラートに包むことなく止められたの。言いたいことわかるけど、なんかすっごいムカつかない!?」
 同じような経験をしているから、ちょっとだけ心がそわそわし始めたけれど、あんなに面白おかしく語られると気が楽だ。
「まぁ結局風邪で落ちたんだけどね……なんだかんだで楽しいから全然いいんだけど、大学どうしよ」
「先輩、受験してないんですか?」
 何も言わないはずだったのに、私はあっと手を口に当てる。
「そうなんよ~。……え、まさか咲九夜ちゃんも!?」
「はい……やらかしちゃいました……」
「あちゃ~、嫌だよね。なんかこう、今までの時間返してほしい、みたいな。……でも仲間がいてよかったぁ。やっぱ私だけじゃないよね、うん!」
 嫌な顔一つせずに、私のことを気遣ってくれる。いくら何でも優しすぎて、あまりにもまぶしい。
 “仲間”という言葉を、しかも先輩の口から聴くと妙に気持ちがふわっと軽くなる。本当になんでなのだろう。とんでもない魔法使いみたいだ。
 心の隅から、じわじわと温かみを帯びていくような感じ。
 終点を前に、車内に乗り換えのアナウンスがかかる。
「なんかすっごく身体が軽い気がする……! 聴いてくれてありがと!」
 降車して、人混みを掻き分けて階段を上る。私はここからバスだが、先輩は徒歩でつく距離に家があるらしい。
 別れ際、急に手を取られて短い悲鳴が零れる。
「咲九夜ちゃん、今日のこと、私たちだけの秘密ね! また明日も話そ! またね!」
 私が向かう方向とは反対側の階段へ、手を振りながら駆けていく先輩はとても足が軽そうで、零れる満面の笑みが私の頬を緩ませる。
 ——よかった、私が力になれたみたい。
 小説を書く理由が、違う形で叶えられた。大きな前進だし、それ関係なくとても嬉しかった。階段を下りながら先輩の笑顔を反芻して、胸元で小さくガッツポーズする。
 もう少しで日が落ちてしまう頃に、やっとバスが停車する。特急列車が止まるほどの大きな駅だから、どの時間も乗る人が多い。
 席に座ってバスに揺られながら外をぼおっと眺める。街中の煌々と光る灯り、少し外れの真っ暗な道。進むたびに景色が変わる。家に着くころには日が沈み切って真っ暗になってるだろうな。そう思いながらふと窓に映った私の口角は、ちょっと不気味なほどに上がっていた。……一人で何をやっているのだろうと、そっと目を逸らした。
 これから、先輩とどんなことを話せるのかな。

 翌日からは、放課後になるとほとんど夏穂先輩と一緒だった。部室へ先に着くのは私だが、先輩はいつも私の隣に座った。たくさん話すというわけでもないが、隣にいることの安心感か何かがあるのだろう。帰るときも一緒で、雨が降った時なんかは『入れて~』と甘えてくるときもあった。先輩らしい一面は学校までで、終わると別の顔が姿を現す。動物のようにすり寄ってくる姿に、私の方が年下だよね……? とわからなくなる。嫌だなんて全く思わないし、それが可愛らしかった。……目上の人のこんな感情を抱くのは失礼かもしれないが、先輩なら許してくれそうな気もする。
 何事もなく馴染みつつあったが、やっぱり心から楽しいとは言えなかった高校生活。そこに先輩が新しい彩をもたらしてくれた。帰るときの足も軽く、朝起きたときにはわくわくも芽生えるほど。
 やがて梅雨が明け、雲の隙間から強烈な日差しが差し込む季節になってきた。街を歩く人は日傘を差し、アームカバーを身に着けて紫外線や暑さから身を守っている。日傘もアームカバーもしていない生徒や人を見かけるけれど、この暑さの中どうしてその軽装備で生きていけるのだろうと疑問に思う。
「あっついね~……溶けちゃうよ……」
 夏穂先輩がタオルで首元を拭いながら、雑談であふれる部室に入ってくる。いつも通り、「隣、座っていい?」と尋ねてくれるので、満面の笑みで首を縦に振る。
「先輩って今もお話し書いてるんですか?」
「ちょくちょくね。今は短編。今度のコンテストに出すんだ」
 先輩の投稿しているサイトは私とは違うので、コンテストの詳しい内容は知らない。
「青春小説ですか?」
「うん。ミステリーとか全然書けないから、基本はそれしか書かないなぁ」
 得意な分野があるというのはすごく羨ましい。私の書きたい、得意な分野は、正直あまりわかり切っていない。
 適当に話していると、遠くから複数の足音と喧騒が近づいてきた。間違いなく、この階の隅にある部室へ向かってきている。何があったのだろうかと先輩と顔を見合わせると、扉が開いた。
 よく話す彼と、それに群がる数人——部員と顧問。
「書籍化、勝ち取りました……!」
 すっと、沈黙が落ちる。
 部室全員の視線が彼に集まる。
 私は表情一つ動かさず、彼の口元をただぼおっと見つめている。
 彼の表情はとても誇らしげで、晴れ渡っていて、冗談ではないことを物語っている。
 作業をしていたある先輩が確かめるように声を出す。
「どういうこと? 選考始まってまだ少ししか経ってないよ?」
「別のサイトにも掲載していたら、良作なので是非って声をかけていただいたんです……!」
 彼は興奮が抑えきれないと言った様子で、手足の落ち着きがない。私と先輩はお互い目を丸くすることしかできない。
 別サイトでの掲載で声をかけてもらえたということは、応募していた方は辞退したということになる。けれど、落選するよりもそちらの方が確実に自分の作品を世に出せる。
「すごいねほんと、まだ一年生なのに……!」
 他の部員たちがそんなようなことを言って、自分ごとのように喜びあっている。
 私の心は、なんとなくぐちゃぐちゃしている。喜ばしいことなのに、手放しで喜べない。
 ふわっと脳裏に浮かんだのは、「私だって」。なぜかはわからないけれど、どんどん肥大する。
「たくさん書いてる人いるのに、まさか声をかけてもらえるなんて……!」
 また聞こえてくる祝福の言葉。このままじゃまずい。どうかしてしまいそうに心がそわそわする。
「先輩、ちょっと出てきます」
 夏穂先輩に小さく告げて、そっと場を去る。隅を移動して、焦点が彼らに向いているうちに、こっそりと抜け出す。
 扉を閉めて、ほっと一息零す。まるで今まで息を止めていたかのように、肺に新鮮な空気が行き届く。浅く、早く、噛み締めるように。
 中からはまだ声が聞こえてくる。みんなが讃えている。当たり前だ。書籍化なんて一握りなのだから。
「てか、もう一人一年生いたよね?」
 心臓がドクッとする。私のことだ。一年生で入部したのは彼と私だけ。
 早くここを立ち去らないと。なのに、耳も身体も扉に張り付いてしまったみたいだ。
「咲九夜さんはないでしょ。二人目なんて出たらたまったもんじゃない」
 それもそうか、なんて言いながら笑い、また彼の話になる。
 熱した槍で、心臓を突かれたみたい。バクバクと音を立てて、奥から何かが迫り上がってきて、咄嗟に口を押さえる。膝から落ちて、その場に蹲る。
 悪気なんてなかったかもしれない。でも聞いてしまったから見逃せない。
 浮かぶ言葉は、私だって、私だって、私だって。うるさいくらいに主張してくる。
 のろのろと立ち上がって、震える足で廊下を歩く。とりあえずお手洗いに言って落ち着かせようと。でも途中でやめた。
 またあそこに戻っても、いつも通り作業なんてできない。このもやもやが肥大していくだけだ。
 再び扉に手をかけて、気づかれないように入り、先輩のもとへ歩み寄る。
「先輩、今日はちょっと……もう帰ります」
「っへ? ……あぁうん、またね」
 先輩は隅で集団を眺めるような形だった。そこへ降ってきた私の言葉に、困惑するような、寂しそうな表情を浮かべていた。
 すごく申し訳なかったし、一緒に帰ることも楽しみにしていたけれど、お祝いムードで賑やかなあの空間に居続けることはどうしても無理だった。
 
 先輩と歩いていた帰路を、今日は独りで、早足で進む。汗ばむ暑さが鬱陶しい。目元が熱くて窮屈だ。
 ——私だって、私だって……私、だって……。
 脳裏で叫ばれていた自負心も、今は少しずつ崩れてきている。そしてそれは、劣等感を越えて、涙に変わる。
 気づかないうちに溜まっていたようだ。
 多くの人に届いてほしい、誰かに寄り添いたい。そのためには、自分の作品が読まれなければいけない。
 読まれた数なんて気にしていないと思っていたけれど、心のどこかでずっと引っ掛かっていたのだろう。たくさん時間をかけたのに、他の人はあんなにも多彩なのに……なんて、焦りもあったはずだ。自然と目を背けることができていたはずなのに、あの報せを聞いて、堤防が切れたかのように一気に溢れ出した。
 それから、もうどうしても部活に行く気にはなれなかった。部室の前に足を運んだことはあるけれど、そこがとても怖く感じた。足を踏み入れれば、間違いなく壊れる。そんな予感がした。加えて、唯一楽しみにしていた先輩との会話も諦めざるを得なくなった。学校で見かけても、気づかれる前に目を逸らして知らないふりをする。どんな表情をさせてしまっているのだろうと考えて、罪悪感がいつも渦巻く。毎日の帰路が、とても広く感じる。
 ——なんでいつも、失うことになっちゃうのかな。
 気づけば自虐的に笑っている。自分から手放していることをわかっているから、悲しみや後悔、怒りを、どこにも当てることができない。
 それでも尚、書くことはやめられない。やめたくなかった。まるで自分の経験を書きなぐるかのような作品を浮かべて書き表して、消して。見返してやりたいとかもあったのかもしれないけれど、また空いてしまった時間を埋めたいというのが一番だった。
 数日経って、気づけば私は、退部届を握りしめていた。
 
 



 終業式を終えて数日、七月下旬の暑さの中、エアコンの効いた涼しい自室。お母さんはしばらく早く仕事へ行くらしい。
 朝食にトーストと、頭がすっきりするコーヒーを飲みながら次の公募を探す。青春、恋愛、ホラー、サスペンス……夏を舞台にした定番テーマが次々に見つかるが、あまり書けそうにない。前回応募した作品も揮わなかったし、一作書ききるにはかなり体力を使いそうだ。
 ……恋愛なんてしたことないし、友達といたことも少ないし……ホラーやミステリーなんて書けないしなぁ。
 小説を書くことは楽しいけれど難しい。それにかなりの体力を使い、完成には時間がかかる。無理矢理恋愛小説を書いたことはあるが、やっぱりかなり苦労する。
 公募を考えずに何か一作書いてもいいのかなとも思う。読んでくれる人は少ないけれどいるし、その人たちに物語が届くのであれば、こうやって地団駄踏んでるより短編や長編をたくさん書きたい。
 そうなると大事なものは、自分がどんな物語を書きたいのか、ということだろう。
 ——私が書きたいもの…………。
 小説と言えるかはわからないが、自分の生きてきた出来事を小説に盛り込んでみようか。……決して明るいものにはならないと思うが、私のような想いを抱えている人になにか寄り添えるかもしれない。
 やってみるか…………。
 リビングに戻って皿やコップを洗って、再び自室で今度はノートパソコンを開く。廊下やリビングに出ると、暑さと湿気が身体を包み込んでちょっとばかり気持ち悪かった。
 メモアプリをクリックして簡単に書きたいテーマや人物なんかを書き出していく。私が作ったのは短編と長編それぞれ二作ずつ。初めにやることはあまり大差がないので、これはいつも通りの流れ。
 こういう時に私は結末ばかりが先に思いつく。そこからしっかりと繋がるようにプロットを作っていくのだが、山場で躓くのがおちだ。
 簡単にまとまってきたところで、それをもとにちょっとだけ中身を書いてみる。ここですんなり筆が進めば先もイメージしやすくすらすら書けるが、ここで悩み始めるとずっと苦しい。プロットや思いついたことを書いたメモを見ながら、自分の言葉を一つずつ連ねていく。
 エアコンが作動して涼しい空気が充満する静かな部屋の中で、カタカタという打鍵音、椅子が軋む音だけが響く。家は昔より格段に静かになった。気まずい空気も、最近はもうなくなってきている。
 私だけが、こうやって心を閉ざしつつある。

『咲九夜さんはないでしょ』

 半笑いで、馬鹿にするように放たれた言葉。それを否定せずに流れていった会話。振り払いたくてもできない、高校になっても増えた嫌な思い出。
 書籍化を勝ち取ったという言葉も連鎖して、嫌な思い出が、負の感情がふつふつと湧いてくる。
 ——書籍化……小説家になれるんだ……。
 キャリアについて考えてしまったのは、ハエのように付いてくる「進路」という存在のせい。
 この時期から進路を問われ始める高校生。またしても控えているのは三者懇談会。お母さんに迷惑をかけることになるかもしれない。あの頃のように、勝手に自分に蓋をして、この穏やかな日々を乱すことになるのだろうか。
 ——将来、将来って…………。なんでこんなことばっかり……。
 どうしてもそう思ってしまう。つい半年前、進路に苦戦して、将来のために奮起していたのに。またすぐ、しかもさらに難しい決断を考え始めなければならない。
 いずれ、この小説のことを先生、お母さんに言わなければならない日が来る。自分の口で、言葉で、『小説を手放したくない』と。
 椅子から立ち上がって、ベッドにぼふっと倒れこむ。身体を脱力して、思考が止まるように念じていくが、呼吸が荒くなっていくのを自覚するだけだった。
 同級生は進んだのに、自分は止まったまま。無理だろうと言われてしまった。では、大人はどうだろう。「いい夢だね」、「すばらしい目標だね」なんて、私が思う綺麗な大人たちでいてくれるだろうか。
 顔を埋めたまま、首をぶんぶん振る。今までそんなことはなかった。自分の利益を優先し、教え子の死を軽くあしらい、駒のように操作するような人しかいなかった。すべての大人がそうでないとは思う。でもそうでない人に出会うのは、本当に難しくて奇跡だと思う。
 成績に人間関係、将来、人生。次々に言葉を投げつけて、責め立てて、基準から外れて扱いが面倒になったら見放される。何もわからない、教えてくれないのに、わかっている前提で時間は進んでいく。
 ——私が悪いの……?
 頭がぐちゃぐちゃになって、誰かにかき混ぜられているみたい。こんな日ばっかりで、毎日苦しい。
 ……もう寝ちゃおう……。
 ベッドにちゃんと身体を預けて、掛け物を羽織って、丸まるようにして眠る。心なしか寒い。目を瞑っている今、このまま世界に戻りたくない。
 外は炎天下。この夏休みは、寝て過ごすことも多くなった。どこか気怠くて仕方ないのだから、今だけは許してほしい。
 心の隅で、今のままではいけないと声を張る私がいる。でも——
 もう、わからないんだってば。

 あれから数日。明日には八月になる。
 相変わらず私の生活の流れは変わらなかったが、外は日に日に暑さを増して、蝉がしきりに鳴いている。
 お母さんも仕事が落ち着いてきたみたいで、朝早くから出勤することも少なくなった。
 日曜日の朝、二日目の休みに、リビングでスマホをいじっている母と鉢合わせた。特に逃げる理由はないが、同じ空間にいるのは少し居心地が悪い。
 三者懇談会は明後日。小説を書きたいと伝えるのならば、休みで落ち着いたこの日だろう。
 動揺を悟られないように、普段通りを装って椅子に座る。
「……あ、あの、お母さん」
「ん? どうしたの」
 口ごもって、うまく言葉が出てこなくて、テーブルの上のこぶしをぎゅっと握りしめる。
「し、進路のことなんだけど……」
「あー、三者懇談会で聞かれるんだってね」
 邪魔することもなく、私が話すのをスマホも見ずに穏やかな目で待ってくれている。
 その視線が少しばかりプレッシャーで、これを聞いたらどんな反応をするんだろうと嫌な想像をしてしまう。
 痛むほど激しい鼓動に、思わず胸を手で押さえる。
 震える唇を嚙みしめて、しっかりと言葉にする。
「私、小説……書いて生きたい」
 静まり返った空間に、私の決意が溶け込んでいく。聞き取れないなんてことはないであろうくらい、私にしては大きな声だったと思う。
 お母さんは私から目を逸らし、俯いたまま。不安な表情が、私の胸をきゅうっと締め付ける。
「やるだけ、やってみるといい。やりきってみるといいと思う」
 返ってきた肯定の言葉。でもなぜか、喜ばしくない表情を浮かべている。何も言えずにいる私に、「だけどね」と言葉を続ける。
「その道が辛いことも理解——いや、わかってるよね」
 何か言いたげで、でもそれを口にするのはとても苦しそうで。なかなかはっきりとしない。
 言葉の続きが気になって急かしたくなるけれど、内容が怖くて逃げたい自分もいる。椅子を引いて立ち上がろうと、勝手に手が添えられている。
「…………お父さんも、小説書いてたんだよ。咲九夜ぐらいの頃から、社会人……大学出て二年経つぐらいまで」
「…………」
「小説——創作の道を歩むことは、楽しいけれどとても苦しい。そう言って夢を諦めてた」
 重苦しく口を開くお母さん。私は何度も固唾をのみ込む。
 すんなりと言葉が出てこないのだとは思うが、その間一つひとつがとても重たく感じる。言葉を待つのが怖くて、そわそわしてやまない。
「私といる時間や、他の趣味に当てる時間も割いてた。苦しいなんてものじゃなかったと思う。たくさん時間を使って、否定されても抗って……。それでも諦めなければいけなかった。夢を追うなら、その覚悟をしないといけない」
 わかっていたこと。でもこうやって口にされると、途端に恐怖が広がっていく。本当にわかっていたのか、本当にこの道を歩んでもいいのか。
 それでほんとうに後悔しないのか。
 ……父はどうしてその道を選ぼうとしたのだろう。
「咲九夜の心のどこかで、特別でないといけないという想いがあるのかもしれない。でも、そんなことを望ん出るわけじゃない」
 
 ……………………
 
 特別であれば、みんなが、お母さんが、私を見てくれる。
 良い子であれば、できる子であれば、才能や能力、誰もを惹きつける容姿なんかがあれば、人といることを怖がる必要はない。
 それを、どうしてそう簡単に否定できるの?
「私は、大学を出て企業に就いて——そんな普通の人生を歩んでくれればそれでいい。夢を追ってもいいし、好きなことをしてもいい。だから、咲九夜がどうなっても応援する」
 胸が痛い。ひどく。
 どうしてこうも腑に落ちないのだろうか。
「ありがとう、お母さん」
 貼り付けた表情と感情、裏返った言葉。
 そっと椅子を引いて。
 課題があるから、そう言って私は自室へ戻る。
 階段を半分まで上ると、視界が歪んでいった。足の力も抜けていって、あの日のように壁を助けに身体を動かさなければいけなくなった。
 声を殺す。涙も絶対に見せてはいけない。鼻も啜れない。階段を上るという行為以外、音を出してはいけないんだ。

『普通の人生を歩んでくれればそれでいい』

 それが本音だろうなんてこと、言われなくてもわかる。
 そんなこと、笑顔で言わないでよ……素晴らしいことみたいに、誇らしげに、当たり前かのように……言わないでよ。
 部屋について、扉を閉めて、蹲って。
 心のどこかで、お母さんならわかってくれるかもしれないと思っている自分がいたのかもしれない。
 でも、もう素直になることもできない。したくない。
 ——普通がわかんないんだってば。なんで教えてくれないの。
 どうやって生きても、何かしらの形で傷つけられるんだ。今までずっとそうだった。
 だから頑張って自分を見つけに行って、夢を抱いて、求められる形になろうとしたのに。
 それを否定されて、曖昧な境界線で物事を決められて。
 そしたら今度は、それも違うなんて。
 じゃあ何が正解なの。どうであってほしいの。なんで素直に口にしないの。
 なんでわからないくせに、私たちの人生をわかったように語って、諭されなければいけないの。
 
 この日から、私という存在が不安定になり始めてしまったのかもしれない。本当に、すべての人が敵に見えて仕方ない。みんなが私を嘲笑っていると思えてならない。
 生まれた意味を問いて、悩んで、微睡みの世界へ沈んでいく。夢を追うことは、生命の終着点への時間潰しになっていった。



 

 スマホに流れてくるニュースは、高速道路の渋滞予測や新幹線の予約状況ばっかり。お盆シーズン、私の家庭は親戚で集まったりなどがない。そもそも身内は誰もそんなことをしようと思わないらしい。
 ベッドで横になりながら、何もしてない自分に嫌気がさす。あれから、なかなか身体が動こうとしない。なんだか怠くて、動くのが面倒で、寝ても疲れが溜まったまま抜けない感覚。ただただこのまま寝ていたいと思う。
 眠ったり、ぼおっとしていると、何も考える必要がなくて楽になれる。だが目が醒めて、意識がある状態だと、何かしなきゃ、動かなきゃ。そう思うといつも、心の奥底から真っ黒な感情がじわじわと溢れてくる。
 ——ほんと……だめだな……私。
 嫌なことばかり浮かんでくる。やり切れていない課題に、そんなに気にしていなかったはずのテストの成績。周囲の人への劣等感に、嘲笑や哀れみの視線と板についてしまった愛想笑い。そんな時は、枕に顔を埋めたり、ぶんぶん振り払おうとする。何かが変わるわけではないけれど、その一瞬一瞬の苦痛が本当に耐え難いのだ。
 机上のパソコンが目に入って、小説の存在を思い出す。ここ数週間サイトすら開いていない。白紙のページを前にしてもなにも浮かばないし、どんな作品にしたかったのかも、自分の言葉をどうやって書き表したらいいのかもわからくなる。
 もぞもぞと動いて、何かイベントでもやってないかと調べてみる。小説の題材にできるような出来事に触れれば、書きやすくなって自然と書けるのではないかと思ったのだ。一年前の夏のように。
 指先たった一つ動かして、考えることも怠い。けれど、小説を書くためならもう少しと思える。
 県のサイトに入って、下にスクロールしながらイベントを見ていく。花火大会が多くヒットして、いいなとは思ったが、どこも電車を使わないといけない。こんな調子で、人が集まるところさえ不安なのに電車で長距離移動となると気が引ける。行けそうにないなと思いながら指を動かしていくと、一番下の記事が目に留まる。
 池に反射する花火がピックアップされている。ここからバスで行ける距離だ。
 ここなら行けそうと一瞬思って、また渋る。外出、人混み……でも夏の代表的イベントなら何かしら書くきっかけになるかもしれない……。
 頭の中でぐるぐる考えながら、結局私はそのイベントをカレンダーに登録した。打ち上げ開始時刻から、家の出発時刻、最寄りのバス停の出発時刻まで、事細かに。

 人混みに乗って、バスからやっとの思いで降車する。揺れない地面に足がつき、窮屈な空間から解放されて少しだけ気が軽くなる。
 ——結局来ちゃった……。
 記事を見つけてから今日までの三日間、行くかどうかでかなり悩んだが、花火を見てみたいという想いが勝った。だがここまでの道のりと、目の前に広がる光景を見て、やっぱりやめた方がよかったかもしれないと思いつつある。
 会場となっている少し大きい公園。見渡す限り人……人。日が落ちつつも照り付けてくる日差しに、十二分に温められた気温。ここまで気分が下がるものだろうか。
 たくさんの屋台に多くの人が群がり、長い列を成している。私は花火目当てなので、一番綺麗に眺められるだろう場所を早めに確保しに行く。
 ネットで掲載されている地図や警備員に従って行くと、目の前に立ちはだかったのはとんでもなく急な坂。
 ……これ、のぼるの……?
 愚痴を吐くわけにもいかないし、黙って上を目指す。同じような人は何人もいて、でもなぜか平気な顔で登っていく。私は顔を上げることで精いっぱいで、前を歩いていく人の背中をただただ眺めるだけだった。
 池を一望できる高さまで来た頃には、汗が噴き出して肩で息をしていた。改めて、余裕そうな表情で上ってくる人が本当に羨ましい。
 適当に少し歩いて、まだあまり人が集まっていない場所で立ち止まる。
 ——きつすぎる……死んじゃう……。
 やっと休憩できる。花火を見に来たはずなのに、ジムに来てしまったのだろうか。
 荒れ狂った呼吸を整えていたら、気づけば時刻は七時二十分。あと十分ほどで花火が打ちあがる。眼前に広がる池には、一隻の船が中央にいる。あそこから打ち上げるのか、客を乗せた特別な観覧席なのかはわからない。日も落ちて、辺りは真っ暗。人の表情は見えず、ただそこにたくさんいるということしかわからない。
 木の柵に手を添えて、暗くなった池と景色を一望する。人が多いとか言って後悔しかけていたが、この藍色の空に花火が打ちあがるのを心待ちにしている自分がいる。どこでみよう、あそこにしよう、そんな声があちらこちらで聞こえてくる。イベントならではの初めての感覚に、私はどっぷり浸ってしまっている。
『花火大会、まもなく開始です! 夜空に輝く花火を、ぜひお楽しみください!』
 どこからともなく響き始めたアナウンスと共に、喧騒がより大きくなる。スマホやカメラを構える人々、柵に手をついて身を乗り出そうとする子供。
 アナウンスに合わせて、次第に大きくなるカウントダウン。

 —— 3、2、1……!

 閃光のような一筋の光が、眼前の夜空を切り裂く。
 少し間が空いて、ぱっと夜空に舞った、小さく儚い数多の光。
 遅れて届く、心臓が震えて少し痛いような音と振動。
 ほんの一瞬、観客の表情が明るく照らされる。
 はっと息をのみ、すぐにうわっと声が漏れる。
 周囲の人も、待ち望んでいた花々に、歓声を漏らしていく。

 花火は止まない。藍色の空に打ちあがって、小さな灯りがひらひらと落ちていってはまた新たな花火が打ちあがる。大小様々な花、すぐに消えるもの、点滅したり色を変えるもの。蛍のように、軌道を変えて縦横無尽に動くものまで。仕組みがまったくわからなくて、驚きのあまり「えぇぇ」と声を漏らしてしまった。
 綺麗。素直にそう思う。たくさんの色で、形で、夜空を染めていく。池にも反射して、本当に綺麗だ。
 どれくらい見ていたのだろう。子連れの家族は、子供がもう飽きたのか帰ろうと駄々をこねている。若い人たちは、みんなスマホを構えていて、肉眼で見ようというよりも残しておきたいという想いが強いみたいだ。
 スマホに手を差し伸べたけれど、やめた。どうせ上手く撮れないし、ちゃんと思い出に焼き付けた方がいい。
『まもなく終了! フィナーレとなります! 池全体を彩る花火をご覧ください!』
 すると、花火は池の中で弾けて花を咲かせた。半分だけが顔を出して、それが水面に反射することで、球体を形作っている。大きな光のボールが池に浮いているような状態。
 池に、夜空に、次々と灯りが灯っていく。やがて間がなくなり、常に私の身体を明るく照らしていた。雨のような花火が、きらきらと瞳に映る。先ほどまで真っ暗で、人の表情なんて微塵も見えなかったのに、もう夕方のように明るい。一面に火花が散っていき、隙間なく彩られる。みんなが夜空を見上げて、輝きに笑みを零している。
 こんなに、綺麗だったんだ。
 最後に一発、特大の花火が咲いて、やがて音はなくなった。遠くで終了のアナウンスが流れ始めている。花火に見惚れていた空気も弛緩して、喧騒が戻ってきている。人の波がぞろぞろと引いていく。
 静かにじりじりと落ちていく火花たち。輝いていたのはあの一瞬だけで、多くの人を惹きつけた。完全に消えるその時まで見ているのは私だけなのだろうか。
 ——綺麗だったな。
 同じ言葉ばかりを、何度も反芻してしまう。本当に今まで物語を書いてきた人間なのかと、ふっと顔が綻ぶ。もっと他に感想がないものかと思ったかが、これこそ本当に感動している証なのかもしれない。
 また静かになった夜空を見上げる。私にあの情景が描けるのかな。特別な雰囲気、人々の笑顔や溢れた声、夜空を彩る花火に、私が見て感じた想い。どれも複雑で、今の私には表現できるかわからない。
 今ある想いだけでもいいからメモしておこうと思い、スマホを点灯させる。
 簡単に、素直に打ち込んだ。思ったことを正直に。だからこそ、入力したものに少し驚いて、それを凝視してしまった。

『一瞬だけでいいから、私も輝いて、誰かを笑顔にして死にたかった』

 ——散っていく、花火のように。





 九月になって新学期が始まり、勉強は忙しく、行事は盛んになっていく。それでも優先したのは作品で、とにかく書きたくて仕方なかった。学校でのストレスを、どこにも向けられない想いを、全て吐き出すように書き殴っていく日々。
 学校ではどうしていたらいいのかわからなくなっていった。勉強をしていればいいのか、誰かと話していればいいのか……求められている形ってどんなものなのだろう、どうやったらそうなれるのだろう。いつまで経ってもわからないと自覚しているはずなのに、求めてしまっている自分がいる。得意の愛想笑いで、普段通りを装うことは相変わらず朝飯前だった。
 書いて消すという作業を、もう何度繰り返したのか覚えていない。でもなんとか、自分の想いをしっかり形にできそうな作品が出来上がってきた。ちょうど時期が被っているコンテストがあるので、そこへの応募作となる。
 期日は十二月末。かなり余裕があるから間に合うとは思うが、書くのに苦戦している以上楽観視はできない。実際、こうやって毎日書き殴っても、修正してみると進捗は僅かであることが多い。
 今回は、自分が何を書きたいのかではなく、経験や人生そのものを題材にした。……私の願望が含まれているのかもしれない。
 辛いことや高すぎる壁にぶつかって、嫌なことが重なって、死にたいと思う人。消えてしまいたい、もう息すらしたくないと願う人。そんな人々に寄り添ってくれる、優しい死神のお話。どうか、届いてほしい。
 ——私のそばにいてくれたらいいのにな。
 書きながら何度思ったことだろうか。
 どれだけ嘲笑(わら)われても、愛想笑いで流して来た。自分の辛さも押し殺して、考えないように、我慢するように言い聞かせてきた。そして、同じような想いを抱えている人が、さらに辛い人が、少なからずいるだろう。その人たちに届けられたらいいなと願い、私はこの作品を完成させた。
 
 黒いローブに身を包んだ、幼げな少女。だが口調や纏う雰囲気はとても大人で、不思議で。
 深くフードを被り、表情や綺麗な白髪は隠されている。背中にある鋭利な鎌の柄には、名前が刻まれている。それも、私だけの知っている彼女の愛称で、作中には出てこない。私が好きで創った人物。
 みんなのことを、助けてあげて。
 マウスポインターが、完結ボタンへと向かっていく。
 でも、なかなかそれをクリックできない。
 きゅうっと、きつく身体が締め付けられる感覚。

『完結しました。投稿が完了しました』
 
 ——私のことも、助けてほしかったな。