私を助けられるのは、私だけだった

 出会いと別れの季節——春。
 梅の花が咲き始め、季節の移り変わりを感じさせる日に、私は門出を迎えた。
 だが私は、何かが吹っ切れたように、まだ肌寒さが残る日々の中、部屋に引きこもっていた。
 遮光性のカーテンで窓を閉め切り、真っ暗にした部屋の中、ベッドに座ってぼおーっとしていた。
 自分がどこを見つめているのかもどうでもいい。息を吐く音がやけにうるさい。息を吸わないでほしい。思考が面倒くさい。考えないで、目障りだから。脳みそなんて壊れてしまえばいい。
 
 私の机上は荒れ放題だった。筆記用具は投げられ中身が散乱し、大量に束になったルーズリーフはぐしゃぐしゃになったり、びりびりに破かれている。
 そして真ん中には、手で握ったであろう箇所が強く歪み、水滴を零したような跡がある紙。
 
 第一志望校の、不合格通知。


 
 受験当日、私は体調不良で欠席した。
 私の住む県は、受験校が二つのグループA・Bに分けられており、それぞれ一校ずつ、最大で二校受けられる。けれども受験は一回きりで、その一回で二校への合格が決まる。
 私は第一志望校に落ち、第二志望校に定員割れで合格した。
 最難関というわけではないが、入学するにはかなりの学力を必要とする高校を目指していた私は、言葉の通り死ぬ気で走り抜けてきた。執筆は最小限かつ最効率化し、大半を勉強に費やした。睡眠時間も適度に削り、基礎から応用まで頭に叩き込んだ。
 受験一ヶ月前には生活リズムを意識し始め、睡眠優先、空き時間は勉強というサイクルで回していた。
 前日まで体調は万全だった。なのに、この様だ。


 ※※※


「正直まだ足りないですね。諦めて志望校を変えたらどうですか?」
「私立高校も併願した方がいいですよ。公立高校のみは、望みが薄いです」
 冬の凍てつく空気の中行われた、冬の三者懇談会では散々馬鹿にされた。三者懇談会のたびに、進路担当の教師を呼ばれ何度も諭されたが、ここまではっきり言われたのは初めてだ。
 技能教科を含めた九教科の内申点は四十二点。予想問題集の初回はほぼ九割得点。教師陣は気に食わないみたいだが、この調子ならいける。そんな確信を持てるほど頑張っていた。それでも否定されるのは、やはり滑り止めを削って難関校を受けることにあるようで、全て不合格だった時の先生に生まれる面倒ごとに付き合わされたくないからなのだろう。
 だからと言って私はもちろん引かないし、落ちる気もない。このままやり抜いて必ず合格する。
 二月後半に控えられた入試当日までは、本当に過ぎるのが早い。気が付けば一週間が終わり、焦りや緊張が日に日に増していく。私立入試や推薦入試で、一足先に合格を勝ち取った人たちは早くも宴会モードだ。ストレスを自由に発散し、張り詰めていた空気が徐々に徐々に弛緩していく。まだ終わっていない身からすると若干鬱陶しかったが、私は黙々と手を動かしていた。
 入試前日、食事の時に、お母さんにいつも言われていることを、今日は念を押すように言われた。
「頑張ってきてね。見送ってあげられないけど、応援してる」
 なんだか誇らしげなお母さん。ここまで努力してきたものを素直に信じてくれるのは嬉しい。だけれど、なんだか心のもやがぬぐい切れない。
「ありがとう。絶対勝ち取って見せるから」
 そう答える私を、満足そうに見つめていた。
 就寝前は、今までの勉強してきたルーズリーフの束を見て、なんだか嬉しくて笑みを零してしまった。ネットから問題を引っ張ってきたものもある。試験の問題も、少し楽しみにしている自分がいる。
 適度に重くなった足でベッドに向かう。スキップしてしまいそうになったのが可笑しくて、一人で部屋に笑みをこぼす。
 寒さに負けぬよう、厚着をして、毛布をしっかりと被る。ちょうどよく体温を保てたが、少し頭や耳が寒いので、布団ですっぽりと頭まで身を包む。
 心臓がうるさい。でも今までのように嫌な音ではなくて、この適度な緊張を大事にしたいと思った。
 普段よりも、すんなりと眠りについた。

 凍える寒さの中、家族が仕事へ行き、家は私以外空っぽになった。
 本来ならば、こんな時間に家にはいない。もうすでに出発している。
 ピピッと電子音が鳴り、私は恐る恐るそれを見る。
 目の前の細長い機械——体温計は、三十八度八分を示していた。
 身体が重い。立っているので精一杯。ふらふらするし、視界がぐるぐる回転しているようにも見える。
 ……風邪だ。急に……最悪。
 おぼつかない足取りで自室に戻り、バッグから受験要項を取り出す。
 試験開始の一時間前。今から行っても、電車がないので間に合わない。それにいつ倒れるかもわからない。
 メモしていた学校への緊急連絡先で、スマホから電話をかける。……あの態度だ、多少の躊躇はあったけど、仕方ない。
 繋がるまでの間、一定のリズムで流れるコール音が胸に響く。
「発熱があって、受験できそうにないです。休みます」
 すると、返ってきたのはため息だった。電話越しでもわかるほど堂々としていて、大きいものだ。
 しばらく黙り込んで、
「しっかり休んでくださいね。後の流れは知ってると思うけど、またいろいろ話しましょうか」
 いかにも迷惑そうな、怠そうな声色だ。きっと面倒ごとが増えたとでも思っているのだろう。
 事務的なことを足早に話して、すぐに電話を切られた。
 お母さんにくらいは連絡しようかと思ったけど、やっぱりやめた。仕事が忙しいだろうし、いずれ先生から連絡がいくはずだ。ないとは思うけど、怒られたりしたらめんどうなことになる。とにかく今は、もう誰とも話したくない。
 身体が重く、熱くなっているのが触らなくてもわかる。頭がぼおっとしていて、思考がまとまらない。
 私は、とぼとぼと歩いてベッドに寝転がる。
 ——私って、なにしてるんだろ。
 どうしようもなく胸が痛い。何かにぎゅっと握り潰されそうな感覚。
 カーテンを開ける気力もない。外が晴れているかどうかさえもわからない。
 ——そんなのもうどうでもいいか。
 どうせなら、真っ黒な雨雲に覆われて、土砂降りになってしまえばいい。
 先生曰く、今年度の受験の再試は行われないとのことだ。なんで自分の代に限ってこうなるのだろうか。
 今までの努力も全部、雨に流されてしまうんだ。

 窓に雨粒が打ち付ける音で目を覚ました。気づけば真っ暗で、日が沈んでしまったようだ。
 打ち付ける音に合わせて、頭を内側から殴られているみたいに痛みが走る。簡単に治るだろうと思っていたが、今朝と何も変わったところがない。相変わらず身体が高熱を帯びていて、何もしたくないだるさがある。口の中が尋常ではないくらいに乾燥している。やはり寝ているだけではなく、何か食べたりしないと回復はしないのだろうか。
 ——とにかく何か飲もう。
 やっとの思いで起き上がり、ベッドの上を這って、手探りでドアノブを見つけ開ける。
 開けてすぐ、お母さんがこっちに向かってきていた。手に何か持っているけれど、意識がふわふわしていて判別できない。
「咲九夜……! 大丈夫……あっつ……何この熱…………」
 お母さんは私の身体に触れて体調を確認した後、手に持っていたコンビニの袋から飲み物を渡してくれた。渡されたスポーツ飲料を受け取る手が、ぶるぶると震えている。
「寒い……? ちょっと待っててね……」
「いいよお母さん、自分で——」
 ベッドから降りて立ち上がろうとしたけれど、足に力が入らなくてそのまま転げ落ちてしまった。いつもみたいに身体が動かない。立てもしないから、四つん這いで行くしかない。
「無理だよそんな状態じゃ……ちょっとここで待ってて」
 そう言ってお母さんは、奥の部屋から厚手のブランケットを持ってくる。それを私の後ろから、くるむようにかけてくれる。
「ごめんなさい、お母さん」
「いいんだよ、これくらい。ご飯食べれそう? きついならゼリーとかもあるよ」
「…………口に入らないから、ゼリーだけでいいかな……」
 多分何も食べないというと怒られるので、袋から取り出されたそれを素直に受け取っておく。
 安静にするんだよ、と言って私がベッドに戻るのを補助してくれる。
 扉が閉められ、お母さんが戻っていく。ブランケットに毛布を重ねているのに、まだ少し悪寒がする。
 ——ごめんなさい、お母さん。
 顔を見て、声を聞いた瞬間に、ごめんなさい、ごめんなさい。そんなことばかりが頭に浮かんでくる。
 勉強を見守ってくれて、支えてくれて、温かく背中を押してくれたのに、何も答えられず、何も返せずに終わってしまった。これから始まるかもしれない面倒ごとに付き合わせるのも申し訳ない。
 自分がみじめに見えてくる。虚勢を張って、全力で走り追いかけたものを、自分の手で無碍にした。忠告を無視してきたのだから、先生たちからは嘲笑われても仕方のないことだ。
 闇の中、雨音が溶けて消えていく。努力は流され、心は奥深くへ沈んでいく。
 自分の存在ごと溶けてしまいたい。これほど強く願うことは今までにあっただろうか。

 
 ※※※

 
 塞ぎ込んだ私を、お母さんはそっとしておいてくれる。ご飯を食べないことや顔を見せないことを、最初こそ問題視していたみたいだが、私の心を尊重してくれたみたいだ。見せる顔がないのでとてもありがたい。このまま私のことも忘れてしまってほしいと、若干思っている。そうすれば、私はこれから空気として生きて、心の枷が減っていくのだから。
 とはいえ、私は第二志望校への入学権を獲得してしまっているので、制服の採寸や物品購入に行かなければいけない。やがて無理やり引っ張り出されることは変わらないんだ。
 ——いい加減動くか……。
 お腹の空きは常に感じていた。だけど動くのもだるくて、合わせる顔がなかったりとだった私はここまで無視してきた。生きるのが辛いのに、生存本能は変わらずなことに苛立つ。
 カーテンの隙間から零れる光がいつもより強い。今日も開けずに、横目で睨みつける。
 よろよろと立ち上がる。床に足をつけることは少なくなっていたので、この感覚がなんとなく気持ち悪い。
 身体を二本足で支えて歩くことが、こんなにも難しかっただろうか。階段を降りるときは、壁を助けにしなければいけない。足を踏み外さないように、よろめいて倒れないように、一歩一歩を確かめるように降りていく。
「…………咲九夜? おはよう、何か食べる?」
 キッチンで何かをしていたお母さんが、早くも私の存在を察知する。
 時計を見上げると、時刻は十一時。こんな時刻に『おはよう』なんて言われたの、初めてかもしれない。
「うん。少しだけ、もらえないかな」
「えっと……サンドイッチとか、小さめのならいけそう?」
 うん、ありがとう。頷いて、また二階に戻るのも違う気がするのでテーブルに着く。
 ——お母さん、どうしてこの時刻にいるんだろう。
 仮に休みを取っていたとして、貴重な時間を私のために充てさせているのは少し申し訳ない。断るのも今更なので、ここは黙っているけれども。
 数日見なかった間に、リビングが少し片付いている気がする。物が減った、という方が正しいだろうか。
「はい、できたよ。残しちゃってもいいから」
 薄めのパンで、小さめに作られた卵サンド。食べやすい大きさで、口に入れると程よい塩加減でおいしい。ずっとまともに口にしていなかったけれど、これなら少しずつ、全部食べられそう。
「……お母さん、仕事は休みなの?」
 あからさまに目を逸らし、なにか考えている様子のお母さん。言えないことなのか、今はまだ隠しておきたいだけなのか。
「休みは休みだよ。いずれ話すことになるけど…………今はまだ内緒かな」
 そっか、とだけ返して、もう聞かないようにする。大人の世界はよくわからない。曖昧な問いと答えばかりに溢れているのだから、お母さんだって悩んでいるのかもしれない。
「……クッキー焼いてたんだけど、食べる?」
 お母さんのクッキー…………食べたい。
 なぜかはわからないけど、だんだんと食欲が戻ってきている。単に料理がおいしいからなのか、今までがエネルギー不足なだけだったのか。
「食べたい……絶対美味しいもん」
 お母さんは少しはにかんだ後、冷蔵庫を開けて、私のために数枚用意してくれる。
 サクサクとしていて、でも中はしっとりと柔らかく甘い。バニラの香りが際立った優しい風味。胸元から込み上げてくるものを、嚥下と共に押し込む。
 受験のことに触れられることはなかった。それでいいし、これからもそうしていてほしい。でもこの申し訳ないという想いは、いつまで経っても消えないだろう。自分で選んで、失敗した道。すべて私が悪い。
 心にかかった靄も、なかなか晴れないまま。何が気にかかっているのか、欲しているのか、悩んでいるのか、まったくわからない。

 食べても飲んでも、まだ少し身体が重くふらふらする。ただ少しだけ、体力は回復しているようで、壁に全体重を預けて階段を登ることはなかった。
 自室に入って、合格通知書が届いて以来初めて机上に目をやる。
 投げ場のない怒りに任せて物に当たった。くしゃくしゃに破れたルーズリーフも、適当なページで散乱した参考書も、見るたびに胸を締め付ける。これまでの努力が、受験会場の席に着くこともなく無残に散った。あれだけ充てていた時間を、喉から手が出るほど取り戻したい。
 片付けようと、まずは参考書に手を伸ばす。難題箇所、間違い箇所にはられたたくさんの付箋。各ページに解説や別解を自分なりに書き表している。
 ルーズリーフは破かれているけれど、相当な量だ。特に数学の解説は、簡略化されていてわかりにくい。だから自分で書き表すと自然と量が膨らむ。寝る間を惜しんで理解しようとしていたのを、今でもはっきりと覚えている。
 参考書を本棚へと戻して、いらなくなったルーズリーフは捨てて。
 次第に私は目元を袖で拭い、鼻を啜ることが多くなっていく。
 赤ペンの採点印と正しい回答。黄色のマーカーに、没頭して文字を擦ってしまってできたシャーペンの黒い汚れ。
 自分で言うのもどうかと思うが、本当に血の滲むような努力をしてきたのだなと思う。
 机上に最後に残ったのは、不合格通知書。受け取った時のように、手に取るとぐっと握りしめてしまう。一つ、二つとしわが増えていく。
 雫のしみも、また増えていく。
 
 ——ごめんなさい、だめな子で。

 ——どうしてもっとうまくやれないかな。なんでこんなにうまくいかないのかな。

 私は膝から崩れ落ちた。もう立ち上がりたくない。ここから先を歩いていくことが、本当に怖くて仕方ない。
 もう二度と消えない傷であることを自覚するとともに、今まで蔓延っていた感情が、じわじわと心の表面に現れてきた。
 真っ黒な想いを、見ないふりすることもできない。
 もう、疲れた。



「大事な話——咲九夜に話さなきゃいけないことがあるの」
 そう言って、今日の夕食後はリビングに残っていてほしいと言われた。真剣な表情でお願いされたので、適当な理由をつけて断るわけにもいかなかった。
 物品購入も終えて、新学期を一週間前に控えていた。このタイミングで一体何があったのだろう。
 食べ終えても、お母さんはなかなか話し始めない。ずっと俯いていて空気が重く、ただ座っているだけというのが気まずくて、しきりにお茶を口にした。飲んでいたコップ満杯のお茶も、もうあと三分の一もない。
 ——なにがあったんだろう……。
 俯いているから表情も読めないし、声をかけようにも邪魔してしまうかもしれなくてできない。
 でも、いつまでたってもこのままでは何も進まない。お母さんが口を開けないのなら、開きやすくなるように私もふるまわなければならない。
「お母さん」
 ばっと、驚いたように顔を上げて私を見る。ちょっと気負けしてびくっとしたが、伝えなければいけないと口をぱくぱくさせる。
 頭の中で言葉を繋いで、心を圧迫しないように、でも空気を緩くできるように。
 たくさん悩んで、震える口を開く。
「全然待つし、言葉、包まなくてもいいから。ゆっくりでいいから、教えてよ」
「……………………」
 何も言わないお母さんを前にして、固唾を飲み込む。
「…………お父さんと離婚したんだ。咲九夜に何も話さずに……ほんとごめんなさい」
 離婚……? どうしてまた急に。
 不思議のあまり何も言えなくなる。周囲を見渡して、物が少なくなったと感じたのは父の私物がなくなったからなのだと今になって気づく。不快な想いはしなかったけど、自分に非があったらと考えてしまって胸がそわそわする。
「それでね……教育費は毎月全額収めてくれるらしいんだけど、逃げられたりとか、さらに先のこととか考えると、もっと用意しないといけない。だから、今以上に家にいる時間が減っちゃうの」
 お父さんと過ごした記憶はほとんどない。たまに顔を合わせても何も話しかけてはくれなかったし、ただただ怒られるのが怖かった存在で、特に寂しさや悲しみはない。こうなっても全然仕方ないと思うし、少し負担が減ったともいえるだろう。
 ……本当に同じ屋根の下にいたのだろうか。一切記憶に残っておらず、ぼんやり顔が思い出せる程度だ。
 だがそれでは、お母さんの負担が増えてしまう。すでに疲弊しているはずなのに、これ以上は流石に心配だ。
「本当にごめんなさい……勝手に決めて、忙しいのに咲九夜を一人にすることになって……」
 私なんかに頭を下げないでよ。そう言いたかったのに、その姿や表情が胸を締め付けて、言葉は上がってきても出てはくれない。
 お母さんはある企業の正社員。普通に働いていても十分生活はしていけると思うが、それより増やすということは……。
 でも、ここまで決まっていることを今更意見して変えてもらうことはできないだろう。
「いいよ、全然。家事とか、頑張って覚えて自分でやる」
 お母さんが口を開いて断りを入れようとするのを、手で遮って静止する。
「お母さんが無理して壊れちゃう方が嫌なの。だから、私に任せて」
 大袈裟に胸を張って伝えて見せる。最初こそ困惑していたものの、諦めたように笑ってくれる。
「……一応聞くけど、お父さんのところじゃなくてもいい?」
 すぐさま首を縦に振る。愚問だが、きっと手続きに必要なのだろう。
「よし、わかった。時間くれてありがとう、咲九夜」
 そう言うとお母さんは、ペンを取り出して書類を探しに行く。私は普段より早めに就寝準備に取り掛かる。
 一通り終えて、自室に戻る。ずっと溜め込んでいた空気を、ふうっと長めに、思いっきり吐く。
 ——本当に大丈夫かな……私なんかにうまくできるのかも不安だし、お母さんの体調も……。
 浮かぶ不安が多すぎて、睡魔にも襲われて、整理もつかず気持ち悪い。
 それに、階段を上る寸前にこんなことも零していた。
 
『普通の人生を送らせてあげたかったな……』
 
 お母さんの言う普通の人生ってなんなんだろう。そもそも普通の定義がわからない。
 
 ——昔から変わってないな……。

 いつかわかるなんて、よくも楽観的に考えられたものだ。過去の自分が恨めしく思えてならない。
 私がすでに普通から外れているとしたら、お母さんは私を捨てるだろうか。



 日に日に暖かさが増していき、四月頭には厚着する必要もなくなってきた。とても春らしい季節。
 ——えっと……持ち物は……。
 明日は高校の入学式。第一希望でないとはいえ、制服までも準備してもらって行かないなんてこと許されない。
 新しく買ってもらったリュックサックに筆箱やら入学書類やらを入れていく。大きめのリュックにしたが、これから背負っていくものが多くなることを考えると、気分がひどく落ち込む。
 書類を探している最中、ふと本棚が目に入る。
 ——全然読めてなかったな。久々に読み返してみようか。
 どの表紙も懐かしい。物語の内容が、登場人物たちの言葉や想い、私が読んだあの時の感情が、少しずつ蘇ってくる。初めて買った本に、ちょっと自分には難しかった本。残酷ながらも感動的なストーリーに号泣したファンタジー小説。
 ——小説、書きたい。
 受験期の後半は全く手を付けられていなかった。でもその不安が消えた今、以前よりも多くの時間を使える気がする。高校の勉強も大事だが、今だけは浸っていたって許されるだろう。
 しまっていたノートパソコンを引っ張り出す。お母さんが新しいのに買い替えるからと言って譲ってくれたものだ。お母さんの性格もあって、そんなに汚れていない。
 一作書き途中だったのを思い出して、おもむろにサイトを開いて確認してみる。
 どんな話だったっけ。そう思いながら序盤を読み進めていったのだが。
 昔の自分は相当才能がなかったのか、それとも馬鹿だったのか、表現も物語も拙く感じる。とてもじゃないけれど、世の中に広めることはできない。
 どうしようかな……今やったってうまくいくとは限らないし……
 閉じようと電源ボタンを押そうとしたとき、サイトの隅に新コンテストの募集がかかっているのを見つけた。
 興味本位でクリックして、募集要項を覗いていく。
 テーマは生き方、八万字以上十四万字以内。募集締め切りはちょうど二か月後。
 奇跡的にさっき読んだ私の既存作品とテーマは類似している。問題なく出せるだろう。ただ、一作も書き上げられたことのない人間が、二カ月なんかで書ききれるだろうか。
 ——やれるだけやってみようかな。
 書けなかったとしても、作品をひとつ完成させることだけでもやってみたい。
 席について、伸びをする。私なりの言葉で、初めからもう一度紡いでみよう。
 書き始めると割と滑らかに進んでいった。自分の思い描いた物語が反映されていくのは、なんだかわくわくする。
 結局私は、明日には入学式が控えているのに、その日は夜の十一時に寝ることになってしまった。明日のことより、書いていた余韻の方が強かった。
 何もうまくいかなかった自分を忘れたかったのか、誰かに認めてもらうためだったのか。わからないけれど、久々に気分が乗って、楽しいと思うことができた。
 望んだ高校ではないし、うまくいかないことが多くなるかもしれないけれど、こうやって逃げる場所があるのならまだやっていける気がする。