輻射点、ペルセウス。

物心ついた時から、父は家の中における絶対者であり、支配者だった。
ビオラ奏者である母は防音室の向こう側に閉じこもりがち。
家族そろっての団欒なんて、記憶にひとつもない。
時折思い出したように交わされる言葉の端々に、自分の存在が彼等の不仲の原因の一つであると感じていた。

「産まなければ良かったのに」

そう言われても、困る。
私は自分から生まれてくることを望んだこともなければ、この父と母の間に生まれたいと願ったこともなかったからだ。

家の中には、常にひんやりとした空気が流れていた。
分厚い防音扉の向こうから漏れ聞こえる、母が弾くビオラの低く重い音色だけが、この家における唯一の『会話』だったのかもしれない。
私に与えられた役割は、ただ「優秀で手のかからない娘」でいること。
父の機嫌を損ねないよう、母の神経を逆撫でしないよう、私は息を潜めて、与えられた完璧なレールの上を歩くことだけを求められた。

才能なんて、ちっとも無かったと思う。
それでも、父の冷たい視線と、母のヒステリックなため息から逃れるために、私は自分の背丈には大きすぎる弦楽器を持たされた。
指の皮が破れて血が滲んでも、首筋に赤黒い痣ができても、防音室の隅でただひたすらに、感情のない音を鳴らし続けた。
私が弦楽器に対して抱いているのは、情熱でも憧れでもない。ただの、生存本能に刻み込まれた『恐怖』だ。

私が中等部の三年生になった冬。
母は、あっけなく死んだ。

病気だったと大人たちは言っていたけれど、私には、彼女が自らこの息の詰まる家から「退場」したようにしか見えなかった。
葬儀の席で、父は世間体を気にした立派な喪主の顔を完璧に演じきっていた。
母の弟である叔父だけが、青白い顔をして棺にすがりつき、常軌を逸したように「どうして姉さんが! 姉さん! 死んだなんて嘘だ!」と、泣き叫んでいたのを覚えている。

母という緩衝材が消えて、私と父だけが残された家は、文字通りの地獄になった。
父の支配はより直接的で、息苦しいものへと変わっていった。
いっそただ、殴られている時の方がマシだったかもしれない。
成績、立ち振る舞い、交友関係。
すべてにおいて完璧を求められ、少しでも期待から外れれば、冷たくねっとりとした言葉の暴力で精神を削り取られる。
逃げ場なんて、どこにもなかった。

だから、私は気づいたのだ。
この理不尽な世界で生き延びるためには、『悲劇のヒロイン』という仮面が必要なのだと。

高等部に進学した私は、意図的に自分を殺した。
中等部の頃の、少し無理をして明るく振る舞っていた『普通の女の子』の皮を脱ぎ捨て、クラスの中で完全に息を潜めた。

「母親を急に亡くし、心を閉ざした可哀想な女の子」

その設定は、驚くほど役に立った。
面倒な同調圧力や人間関係から合法的に逃れられ、教師たちからは『同情』という名の特別扱いを簡単に引き出すことができる。
腫れ物として扱われるのは、心地よかった。

誰も私の本当の領域に踏み込んでこない。
誰も私に期待しない。

それは、私が過酷な現実をやり過ごすために初めて見つけた、自分を守るための『嘘の鎧』だった。

学校という温室の中で、私は息を潜めて生き延びるはずだった。
その私が纏った「可哀想な女の子」という甘い蜜の匂いが、あんな最悪の獣を引き寄せることになるとも知らずに。

***

そして同じ頃。
父は私に対して急速に興味を失い始めていた。

私がビオラのレッスンを休みがちになっていることなど、恐らくはとうに気づいていたはずなのに、そのことに対して激しく責め立てられることもなくなった。
かつてのあの息が詰まるような執着と干渉が、まるで嘘のように潮を引いていく。

ある晩のことだった。
ハウスキーパーさんが作り置きしてくれていた夕食をレンジで温め直し、広く冷たいダイニングで、一人もそもそと口に運んでいた時だ。
外はかなり激しく雨が降っていて、窓ガラスを打ち付ける雨音が部屋の中にまで響いていた。
壁掛けのテレビでは、季節外れの台風が上陸したなどというニュースが、無機質なアナウンサーの声とともに映し出されている。
私はそれを、ただぼんやりと眺めていた。

ガチャリ、と。
雨音を切り裂くように、玄関の重い扉が開く音がした。
父が帰ってきたのだ。しかし、足音は一つではなかった。

リビングの扉が開き、父が『ある女性』を伴って姿を現した。

水滴を払う彼女の顔を見て、私は持っていた箸を止めた。
母に少し似た雰囲気の、きつめの顔立ちをした女性だった。
仕立ての良いワンピースに身を包み、完璧に整えられた髪とメイク。
冷ややかで、どこかヒステリックな神経質さを漂わせているその佇まいは、生前の母が持っていた『気高さ』という名の刃を、さらに鋭く研ぎ澄ませたような印象を受けた。

「……祐奈、起きていたのか」

父は私を一瞥すると、何の悪びれもなく、ひどく事務的な声で言った。
隣に立つ女性は、ダイニングの隅で冷めた食事を口にしている私を、値踏みするような、そして明確な『嫌悪』を孕んだ目で見下ろした。

「この人が、これからこの家の新しい母親になる。挨拶しなさい」

ああ、なるほど。
すべてが腑に落ちた。
父が私への興味を失った理由。
ビオラのレッスンをサボっても何も言われなくなった理由。
父にとっての私は、とうの昔に『完璧な家族』を演出するための小道具としての価値を失っていたのだ。
壊れて使い物にならなくなった古い人形の代わりに、父は自分の支配欲を満たすための新しい『完璧な妻』を、外から調達してきただけのこと。

「……はじめまして、祐奈です」

私は椅子から立ち上がり、感情を一切込めずに頭を下げた。
胸の奥にあるのは、悲しみでも怒りでもなかった。
ただ、果てしなく冷たい、深海のような虚無感だった。

彼女が新しい「母親」として君臨すれば、この家における私の居場所は完全に消滅する。
ただでさえ息苦しかったこの家は、私にとって本当の意味で、他人の領土になるのだ。
新しい母親の冷ややかな視線と、父の無関心。
外で吹き荒れる台風の風の音だけが、やけにうるさく耳に響いていた。

家に居場所を完全に失った私は、逃げるようにして学校という温室に依存していくようになった。
誰の目にも触れない、安全な教室の隅。
「母親を亡くして心を閉ざした可哀想な女の子」という完璧な鎧を被ったまま、誰とも関わらず、ただ息を潜めて卒業までの時間が過ぎるのだけを待つ日々。

けれど、そんな『居場所のない孤独な少女』から漂う死臭のような匂いを、敏感に嗅ぎつける生き物がいることを、私は知らなかった。

「新藤。ちょっと進路のことで面談するぞ。放課後、準備室に来なさい」

美術部の顧問、高坂諒。
彼が私に向けたのは、父のような冷たい支配欲でも、新しい母のような嫌悪でもなかった。
絵の具の匂いが漂う、放課後の薄暗い美術準備室。
二人きりになった密室で、彼は、傷ついて群れからはぐれた小動物を労わるような、とびきり優しくて、酷く残酷な同情の目で私を見ていた。

***

放課後の美術準備室は、油絵の具の匂いと、埃っぽい西日の暖かさに満ちていた。
パイプ椅子に座らされた私の前で、高坂先生はイーゼルに立てかけられた描きかけのキャンバスから視線を外し、ふっと人の良さそうな笑みを浮かべた。

最初は、本当にただの進路相談からだった。

「最近、少し成績が落ちているようだけど……何か悩みでもあるのかな。担任の広瀬先生から、新藤の様子を見てやってくれないかって頼まれてね」

先生は、手に持っていたペインティングナイフをウエスで拭き取りながら、私を刺激しないような穏やかなトーンで言葉を継いだ。

「ほら、俺は一応、この学校の教師の中で一番君たちに歳が近いからね。話しやすいだろうって、広瀬先生なりの気遣いだよ」

冗談めかして笑うその顔は、同級生の女子たちが「かっこいい」と騒ぐのも納得できるほど、爽やかで整っていた。
けれど、当時の私にとっては、そんなものはどうでもよかった。
彼が私を気遣ってどんな優しい言葉を投げかけてきても、私の強張った心がほどけることは決して無かったのだ。

家に帰れば、私を完全に無視して新しい妻と談笑する父がいる。
私からすべてを奪い、透明人間にしたあの冷たいダイニングの光景が、私の心を完全に麻痺させていた。

だから、高坂先生の紡ぐ親身な言葉も、ただ右の耳から左の耳へと、単なる物理的な『音』として通り過ぎていくだけ。
言葉が持つ意味の輪郭すら正しく捉えることができず、私はただ、絵の具の染みがついた彼の白衣を、胡乱な目で見つめ返すことしかできなかった。

「……急にそんなことを聞かれても、困るよな。ごめん」

何を問いかけても、ひたすら無言を通している私に対して、普通の教師なら、ここで苛立ちを見せるか、「真面目に答えなさい」と説教を始めるだろう。
家にいる絶対的な支配者である父なら、間違いなくそうしたはずだ。

けれど、高坂先生は違った。
彼は困ったように肩をすくめると、ふわりと息を吐き出して、こう言ったのだ。

「まあ、俺はやる気のない生徒に、無理やりやる気を出させるほど熱心な教師じゃないからね」

軽口を叩くように、会話の最後を締めるその口癖。

高坂先生は、周りからは「生徒思いの熱心な教師」に見られていた。
けれど、彼は決して私のテリトリーに土足で踏み込もうとはしなかった。
私が答えたくなければ、それ以上は踏み込んでこない。
無理に心の扉をこじ開けようとせず、ただ「ここに居てもいい」という事実だけを、その軽口と一緒に置いていく。

その『熱心すぎない距離感』が、当時の私にはどうしようもなく心地よかった。

「今日はもう帰っていいよ。でも、また何かあったら、いつでもここにおいで」

そう言って笑う彼に背を向け、美術準備室を出る。

父親の異常なまでの過干渉と完璧主義に縛り付けられ、それが突然『無関心』へと反転した家。
そこから逃げ出してきた私にとって、高坂先生の「無理強いはしないが、受け入れる」というスタンスは、砂漠で見つけたオアシスのように思えた。
彼のその口癖が、警戒心の強い獲物を少しずつ罠の奥へと誘い込むための、極めて計算された撒き餌であることになんて、高校生の私には到底気づけなかった。

それからというもの、私は放課後になるたびに、まるで引き寄せられるようにあの美術準備室へと足を運ぶようになった。
絵を描くわけでもない。
ただ、部屋の隅のパイプ椅子に座って、先生がキャンバスに向かう背中をぼんやりと眺めているだけ。

先生はそんな私を追い出すこともなく、時折振り返っては他愛のない雑談を振ってきた。

「新藤、そこにあるコーヒー淹れてくれない? 俺の分も」

「……はい」

「ありがとう。君が淹れるコーヒー、なんか落ち着くんだよね」

先生は受け取ったマグカップに口をつけ、目を細めて笑う。
私が何か特別なことをしたわけじゃない。
ただインスタントの粉にお湯を注いだだけなのに、彼は私がそこにいて、少し動いただけでも、確かな価値があるかのように扱ってくれた。

『あんたなんか生まなければ良かったのに』

防音室の向こう側から聞こえていた母の呪いの言葉と、新しい妻を連れ込んだ父の冷ややかな目が、少しずつ、絵の具の匂いとコーヒーの香りに上書きされていく。

私は、ゆっくりと、けれど確実に、高坂諒という男の用意した甘い泥沼へと沈み始めていた。

***

「新藤、お前さ……嫌だったら答えなくてもいいから」

高坂先生は思案するように私へ視線をやり、自分の顎に手を掛けた。
答えなくてもいい、と言いながら、それ以上言葉が紡がれる様子がない。

「何をですか? 先生」

恐らく私は、ひどく会話に飢えていたのだと思う。

家は既に自分の居場所ではなく、実の母だった人の痕跡もほとんど残っていない。
見た目に反して少女趣味だったあの人の、フリルとオフホワイトに包まれた明るかった室内(皮肉な事に、彩度的に見ると本当に『明るい』部屋だったのだ)は、既に落ち着いたミッドセンチュリーの世界へと変質していた。
夕食の後の時間。
かつて珈琲とクラシック音楽に包まれていた檻の中は、気が付いた時には、間接照明とジャズの流れる『私の知らない空間』に設えられていた。

寄り添い合う二人を背に、私は一人、逃げるように自室へ引き籠る。
そしてほどなくすると、蜜やかな嬌声が、嫌でも壁越しに耳に飛び込んでくる。

新しく母になった人は、父の教え子だという。
父の年齢よりも、私との年齢の方が近い。
……そうだ、目の前にいる高坂先生と同じくらいの年齢だ。

高坂先生の返答を待つ私は、もしかしたら、あの新しく母になった人と同じような目つきをしていたかもしれない。
物欲しそうに。
何かを、熱っぽく願うように。

高坂先生は少しだけ困ったように視線を伏せ、言いにくそうに口を開いた。

「そのな、……新藤は体育をいつも休むだろう? 女性としてほら……なんて言えばいいんだ」

私は、いつになく言葉尻を濁らせた先生の態度に、瞬間的にスッと冷めたような感覚を覚えた。

「生理ではないですよ」

私が淡々と告げると、先生はハッと顔を上げて、恥じたように小さく頷いた。

「ごめん、そういうつもりではなくて」

「痣を見られるのが嫌なんです。汚いし。みんなきっと驚くから」

「痣……?」

「生まれつきのものでは無く、人に付けられた跡です。折檻っていうんですかね。両親が厳しかったので」

私は、まるで今日の天気を話すような、なんでもないトーンで続けた。

「さすがに見えるところに傷を付けられたりはしてませんけど。背中とか、太ももとか。着替える時にどうしても見えてしまいますし」

私にとっては、もうなんてことの無い過去だ。
母が亡くなって半年も過ぎたのだから、生傷が絶えないという状況からは当然脱却しているし、今は古い傷がいくつか残っている程度。
背中の傷なんて合わせ鏡にでもしなければ確認できないから、自分ではあまり気にならない。

ただ、一番深い左の二の腕の傷だけは、明らかに尋常ではない長さで胸の横にまで続いている。
経緯を知らない人間が偶然見てしまったら、きっと驚いて騒ぎ立てるだろう。
私はただ、そういう面倒なことになるのが嫌なだけだった。

私の言葉に、傷ついたような顔をしたのは高坂先生の方だった。

「ごめん、俺、無神経なことを……」

「別に気にしていません」

小さく首を振った私に、高坂先生はひどく痛ましげに項垂れる。
窓の外は、黄昏から宵へと変わろうとしていた。
美術準備室の中に落ちる影が、じわじわと長く、濃くなっていく。
手元のマグカップの中の珈琲は、すっかり冷めきっていた。

大人が。
しかも、生徒の誰もが憧れるような完璧な教師が、私なんかの前で弱々しく項垂れている。
その事実が、私の麻痺した心に奇妙な波紋を広げた。
家では絶対にあり得ない光景だ。
私を理不尽に傷つけた大人たちは、これまで決して私に謝ることなどなかった。
だから、目の前で私の痛みに耐えるように俯く先生の姿は、どうしようもなく私の胸の奥を――歪んだ自己肯定感を、甘くくすぐったのだ。

「先生が謝ることじゃないです。本当に、ただの過去の話ですから」

私が慰めるようにそう口にすると、先生はゆっくりと顔を上げた。
夕闇が迫る薄暗い室内。
先生の瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。
同情、哀れみ、そして……もっとひどくねっとりとした、名状しがたい熱を帯びた光。

「……過去の話なんかじゃない。新藤は今も、一人でその傷を抱えてるじゃないか」

パイプ椅子が軋む音がした。
先生が立ち上がり、ゆっくりと私の前へと歩み寄ってくる。
ほんのりと漂う、油絵の具と大人の男性の香水の匂い。

気がつけば、先生は私の目の前で片膝をつき、下から私を見上げるような姿勢になっていた。

「君は、ちっとも汚くなんかない」

そして、私が膝の上で所在なげに握りしめていた両手を、彼の手がそっと包み込んだ。
大人の、大きくて温かい手。
ビオラの弓を無理やり握らされていた時とは違う、私を労わり、慈しむような柔らかな感触。

「……一人で痛かったね。もっと早く、気づいてあげられなくてごめん」

「あ……」

先生の手のひらの熱が、冷え切っていた私の指先から、ゆっくりと全身へと回っていく。
その熱は、私の中でずっと凍りついていた何かを、ドロドロに溶かして決壊させようとしていた。

私を満たしていた深海のような虚無感の底に、わずかな光が差し込んだ気がした。
この人は、私の傷を『汚い』と拒絶するのではなく、一緒に痛がってくれるのだ。
新しい母に居場所を奪われ、誰からも必要とされていなかった私を、こんなにも愛おしげな瞳で見つめてくれる。

それは、乾ききった喉に流し込まれた劇薬だった。
自分が今、取り返しのつかない深淵の縁に立たされていることにも気づかないまま。
私は先生に包み込まれた自分の手を引き抜くことが、どうしてもできなかった。

高坂先生の指が私の腕の線を辿り、長袖のブラウスの袖口に触れた。

「そこ……傷のところです」

いちいち報告する必要も無いのに、勝手に私の口から言葉が零れ落ちる。

「ここ?」

人差し指が、何かを確かめるように恐る恐る袖口をまくり上げ忍び込んでくる。
引き攣れた皮膚は、まるで適当にホチキスで留めたように凸凹と盛り上がっている。
傷跡を確かめるように先生の指が布の下を探っているのを、その時の私はどこか高揚とした感覚で眺めていた。

「見ても、いいかい?」

「汚いですよ」

「汚くない」

先生は、ほんの僅かな迷いもなくそう断言した。
そして、私の二の腕から胸の横へと続くその長い傷跡の全貌を確かめるように、上から羽織っていたカーディガンをそっと肩からずらし、長袖のブラウスの第一ボタンへと指を伸ばした。

静まり返った夕暮れの美術準備室に、衣擦れの音が響く。

普通なら、教師が生徒の服に手をかけるなんて異常な事態だ。
振り払って逃げ出さなければならない。
けれど、私の身体は指先ひとつ動かせなかった。
それどころか、先生の指が二つ目、三つ目とボタンを外し、ブラウスの隙間からひんやりとした空気が滑り込んでくる感触に、私は背筋が粟立つような甘い痺れを感じていた。

あらわになった私の左肩から胸元にかけての、引き攣れた醜い傷跡。
完璧で美しい大人の男性である高坂先生が、そんな私の最も醜い部分を、まるで価値のある美術品でも鑑賞するかのように、熱を帯びた真剣な瞳で見つめている。

「……痛かったね、祐奈」

苗字ではなく、下の名前。
先生の顔がゆっくりと近づき、凸凹と盛り上がった傷跡の上に、温かい唇がそっと落とされた。

「あっ……」

その瞬間、私の頭の中で何かが完全に焼き切れた。
父にも、新しい母にも、誰にも見向きもされなかった私。
存在価値なんてないと思っていたこのツギハギだらけの身体を、先生だけが愛おしんでくれる。
この人だけが、私のすべてを肯定してくれる。

「先生……っ、高坂、先生……」

私はすがるように両腕を伸ばし、油絵の具の匂いがする先生にしがみついた。
先生の腕が私の腰を引き寄せ、もっと深い、後戻りできない場所へと私を沈み込ませていく。

これがまともな『愛』ではないことくらい、心のどこかでは分かっていたのかもしれない。
ただの同情、あるいはもっと下劣な、大人の男の好奇心と支配欲。
それでもよかった。
この冷え切った世界の中で、私を強く求めてくれる体温があるなら、それがどんなに歪んだ形であっても、私にとっては唯一の救いだったのだから。

数十分後。
美術準備室を出て、誰もいない夕暮れの廊下を歩きながら、私は自分のブラウスのボタンが一つだけ掛け違えられていることに気がついた。

直そうとしてブラウスの裾に手をかけたけれど、すぐにやめた。
この掛け違えられたボタンは、私が高坂先生と共有した『秘密』の証だ。
私だけが、あの完璧な先生の特別になったという、歪な優越感の印。

誰かに見咎められたらどうしようという不安よりも、この秘密を身に纏っていることの熱っぽい陶酔が勝っていた。
同級生たちがどんなに先生に憧れて、遠くから黄色い声を上げようとも。
先生の指先が触れたのは、先生が愛おしんでくれたのは、私だけなのだから。

私は薄暗い廊下で、自分でも驚くほど甘く、だらしのない笑みを浮かべていた。

***

先生は殊更に私の傷を愛でていた。
いっそ病的ともいえよう。
アーティストとしての性質なのか、最初は本当に傷跡を慈しんでいるだけだった。

時には私の傷跡をスケッチし、時には画像や動画で記録する。
指先と唇で私の体に残る傷跡を一つ残らず堪能する先生に対して、私はただくすぐったさに耐えていた。

「先生、くすぐったいよ」

思わずこらえきれなくて笑い声を洩らして、私は枕を抱え込む。

「祐奈、こっち向いて。少し上目遣いで。ん、可愛い」

私たちの逢瀬は美術室から、郊外のホテルへと場所を変えるのに時間はかからなかった。
私の新しい家族たちは私に関して相変わらず無関心であったし、私もそれを良しとしていた。

そして、明るい檻からどこか淫靡な空間へと変質したリビングの有りようを、この時の私は既に理解していた。
母を失った父は、私を手放し新しい腕をとって、甘やかな蜜に溺れ切っていたのだ。

春が来れば私も17歳になる。
成人までは残り一年と少し。

高坂先生との関係が進んでも、成績が落ちることは無かったし、このまま問題なく進級できるだろう。
私の世界の中心は、いまや先生だった。
何故ならば、彼は私を崇拝して唯一のモノとして愛してくれる。

そう、信じて疑わなかった。
彼にとっての私が、ただ好奇心を満たすための便利な『モノ』でしかないことになんて、微塵も気づいていなかったのだ。

三学期の終わりが近づいた、ある日の夕方。
いつものように郊外のホテルで身体を重ねた後、ベッドの端に腰掛けてシャツのボタンを留めていた先生が、ふと思いついたような、ひどく何気ない口調で口を開いた。

「あー、そういえばさ。俺、三学期いっぱいで転任することになったんだよね」

「……え?」

シーツを胸元で握りしめたまま、私は間抜けな声を漏らした。
転任。
その言葉の意味が、うまく頭の中で処理できない。

「転任って……別の学校に、行くってことですか?」

「うん。まぁ、転任っていうか、一身上の都合で退職って形になるかな」

先生はネクタイを締めながら、まるで今日の夕飯のメニューでも話すようにカラッと笑った。

「流石にさ、教え子に手出してるのバレたら、教師としてまずいじゃん? 噂になる前に、ちょっと潮時かなって」

ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
バレたらまずい。潮時。
それはつまり、私との関係が学校側に知られそうになっているということだろうか。
だから、先生は責任をとって、あるいは私を守るために、自ら学校を去る決断をしてくれたのだろうか。

「先生、それって……私のせいで?」

私が震える声で尋ねると、先生はベッドを振り返り、優しく私の頭を撫でた。

「祐奈が気にする事じゃないよ。俺が勝手に決めたことだから」

その手つきは、いつものように甘くて、優しかった。
だから私は、致命的な勘違いをしてしまったのだ。

先生が学校を去っても、私たちの関係が終わるわけじゃない。
むしろ、教師と生徒という肩書きが外れれば、私はもっと自由に、本当の意味で先生の『特別』になれるのだと。
あと一年経って私が成人になれば、父の支配から完全に抜け出して、この大好きな人とずっと一緒にいられるのだと。

「そっか……。学校で先生に会えなくなるのは寂しいけど。でも、これからも、こうして会えますよね?」

すがるように見上げた私に、先生は一瞬だけ目を丸くした後、クスクスと喉の奥で笑った。

「……ああ、祐奈は本当に可愛いね」

スマートフォンのカメラを私に向けながら、彼が満足げに目を細める。

その時の彼の瞳の奥が、かつて私を見つめていた熱をすっかり失い、ただの『使い古した玩具』を鑑賞するような無機質な光に変わっていたことに。
そして、この先の私が、彼にとって本格的に『モノ』としてしか扱われなくなる地獄の始まりに、私はまだ気づくことができなかった。

***

4月になって高校二年に進級すると同時に、私は17歳の誕生日を迎えていた。
新しいクラスメイトたちの騒めきで満ちた教室。
放課後のチャイムが鳴るなり、私はそそくさと鞄に荷物を詰め込んだ。
今夜は先生から呼び出しがあるかもしれない。
家に帰って、彼に会う準備をしなければ。

「ねえ、新藤さん」

ふいに、机の前に影が落ちた。
顔を上げると、クラスの中心グループにいる子が、取り巻きの女子たちを引き連れて私を見下ろしていた。
彼女の瞳には、明確な嘲笑と苛立ちが浮かんでいる。

「新藤さんってさ、いつも一人だよね。ってか、高坂先生いなくなっちゃって残念だったね。一年生の時、いっつも美術室に入り浸ってたじゃん」

周囲の女子たちが、クスクスと意地悪く笑う。

「先生が急に辞めたのって、新藤さんが気持ち悪いストーカーみたいに付き纏ってたせいじゃないの? 先生も迷惑してたって噂、流れてるよ」

普通の女子高生なら、ここで顔を真っ赤にして怒るか、泣きそうになって俯く場面なのだろう。
けれど、私の心には彼女たちの言葉がまるで響かなかった。
哀れだと思った。
彼女たちは、先生が手の届かない場所へ行ってしまったと嘆いているけれど、何も知らないのだ。
先生が学校を辞めたのは、私との『特別な関係』を隠し通すため。
そして今夜も、薄暗い車の中で私だけが彼に触れることを許される。

私は、ふっと小さく微笑んだ。

「……そっか。みんな、先生がいなくなって寂しいんだね。可哀想に」

「……はぁ!?」

私のひどく間の抜けた、けれど明確な優越感が滲んだ返答に、顔がカッと朱に染まった。
自分の投げつけた悪意が完全に無視され、あろうことか哀れむような笑みを向けられたことが、プライドの高い彼女には耐えられなかったのだろう。

ガンッ、と。
苛立ち任せに私の机を蹴り飛ばした。
周囲のクラスメイトたちが一斉にこちらを振り向くが、彼女はそんなことも気にせず、ギリッと私を睨みつける。

「自分のこと特別だとでも思ってんの!? 本当に気色悪いんだけど!」

ヒステリックに叫ぶ彼女の顔を、私はただ静かに見つめ返していた。
顔を真っ赤にして怒る彼女が、なんだかひどく滑稽で、遠い世界の生き物のように思える。

「……ごめんなさい。でも、帰らなきゃ。夜、用事があるから」

私は蹴り飛ばされた机を直すことすらせず、鞄を抱えてすっと立ち上がった。
隣の席の相良さんが困惑したように、私の代わりに机を直してくれているのを横目に、教室のドアへ向かう私の背中に「ちょっと、逃げんの!?」という金切り声が突き刺さる。

私は振り返らなかった。
彼女がどれほど私を恨もうと、喚こうと、私の世界には関係のないこと。
この時の私は、自分のその『無自覚な優越感』が、誰かのプライドを決定的にへし折り、やがて取り返しのつかない憎悪へと変わっていくことにすら、まったく気づいていなかったのだ。

***

生理が来なくなって、2週間。

17歳の私は、大人として扱われるまで、あと一歩足りない。
保護者の同意が無ければ、一人で病院の産婦人科を受診することも、その先の重大な選択をすることも、何一つとして許されない、残酷で中途半端な年齢。

学校という建前を失った先生からの連絡は、完全に一方的な要求へと変わっていた。

それはもう、甘い『逢瀬』なんて呼べるようなものではなかった。
指定されるのは夜遅くの薄暗い駐車場や、人気の無い車の中。
そして求められるのは、どれも屈辱的なものばかりだ。
私が痛みや羞恥に耐えきれず、ポロポロと泣き顔を晒すのを見るたびに、先生は愉悦に満ちた視線で私を見下ろす。

『いいね、祐奈。もっと顔上げて』

かつて私の傷を「綺麗だ」と慈しんでくれた優しい顔は、そこには無い。
今の彼は、私が絶望して顔を歪める様を、スマートフォンのカメラ越しに冷酷に笑って記録するだけのバケモノだった。
自分が愛されたわけでも特別だったわけでもなく、ただの便利な『壊して遊ぶための玩具』に成り下がったことを、嫌というほど思い知らされる日々。

それでも、私には彼に縋り付くしかなかったのだ。
家には新しい母親が完全に居座り、私の居場所などとうの昔に消滅していたから。

だから、身体の決定的な異変に気がついた時、私は世界が完全に終わったような錯覚に陥った。

遠くのドラッグストアで、震える手で買った妊娠検査薬。
駅構内にあるトイレの個室で、小さな窓に浮かび上がった『陽性』の二本の赤い線を見た瞬間、足の力が抜けてへたり込んだ。

どうしよう。
どうしよう。

私はまだ17歳で、親に言うことなんて絶対にできない。
もし言えば、父は世間体を気にして狂乱し、私を文字通り殺しかねない。

なら、先生は?
先生に言ったら、どうなるだろう。
彼は、私を助けてくれるだろうか。

『退職』という形で学校を辞めたのも、いつかこうなった時のために、私との関係を公にする準備だったのではないか。
そんな、すがるような、都合のいい妄想だけが、パニックになった私の脳内をぐるぐると駆け巡っていた。

五月の生ぬるい夜。

『今夜、いつもの場所で』という短いメッセージに呼び出され、私は震える足で彼の車の助手席に乗り込んだ。

車内には、私の知らない甘い香水の匂いが微かに漂っていたけれど、それに気づかないふりをした。
どうしても、今日言わなければいけない。
私の中には、もう一つの命があるのだと。

ハンドルの上で指を鳴らし、退屈そうにスマートフォンの画面をスクロールしている彼の横顔を見つめ、私は乾ききった喉を必死に震わせた。

「先生……あの。私、その……」

勇気を振り絞って出した声は、ひどく掠れていた。
ハンドルに腕を乗せ、退屈そうにスマートフォンの画面をスクロールしていた先生が、ちらりとこちらに視線を向ける。

「何? 今日なんか反応悪いね。早く服着てよ」

「生理が、来なくて……それで、調べたら……陽性、でした」

先生の指先がピタリと止まった。
車内に、重く冷たい沈黙が落ちる。
私は息を詰め、すがるような思いで彼の次の言葉を待った。

驚くかもしれない。
怒るかもしれない。

それでも最後には、大人である彼が何か解決策を提示してくれると、そう信じたかったのだ。

「……はあ」

けれど、彼から漏れ出たのは、心底面倒くさそうな、長いため息だった。

「マジで? ……あー、最悪」

彼は頭をガシガシと掻きむしると、スマートフォンを操作し、そのカメラのレンズを唐突に私へと向けた。

「え……っ、先生?」

「あーあ、顔ぐちゃぐちゃじゃん。ほら自分で綺麗にして」

液晶画面越しに私を見下ろしながら、彼は薄く笑った。
私がパニックになり、顔を歪めて泣き叫ぶ様子を、彼はまるで面白い見世物でも録画するように、ただ冷酷な瞳で記録し続けた。
私がどんなにすがろうと、そのレンズが下りることはなかった。

「……降りて」

「え……」

「ほら、早く降りてってば」

まるで車に紛れ込んだ汚い野良猫を追い払うような、ひどく無機質な声。
私はわけもわからないまま、半ば引きずり出されるようにして、夜の路上へと放り出された。

バタン、と無慈悲な音を立ててドアが閉まり、車のテールランプが遠ざかっていく。
排気ガスの匂いだけを残して、私の唯一の『世界』だったはずの男は、あっけなく闇の中へと消えた。

夜の22時。
まだ深夜と呼ぶには早く、遠くの幹線道路からは車の走行音が絶え間なく聞こえてくる。
けれど、住宅街の入り口にあるその道は、ひどく薄暗くて静かだった。

私は震える手でスマートフォンを取り出し、LINEの画面を開いた。
メッセージを送っても、既読はつかない。
電話をかけても、無機質な機械音が返ってくるだけだった。
家も知らない。
別の連絡先も知らない。
彼が私をブロックした瞬間、私と彼を繋ぐ糸は、文字通り跡形もなく消滅したのだ。

「……あ、あぁ……」

道端にへたり込み、私は声にならない嗚咽を漏らした。
お腹の中に、誰にも望まれない命を抱えたまま、完全に一人ぼっちになってしまった。
家に帰れば、私に無関心な父と、私を嫌悪する新しい母がいる。
あんな場所に、私の居場所なんてどこにもないのに。

どれくらいそうして泣いていただろう。
ふらふらと立ち上がり、街灯の冷たい光の下を、あてもなく歩き始めた時のことだった。

「……祐奈ちゃん?」

不意に、背後から声をかけられた。
ビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、少し離れたところに車が停まっており、降りてきたスーツ姿の男性が、驚いたように私を見つめていた。

「どうしたんだ、こんな時間に。その恰好……泣いてるのか?」

街灯に照らし出されたその顔を見て、私の目から再びボロボロと涙が溢れ出した。

「……お、じさん……っ」

亡くなった母の弟。
母の葬儀で、狂乱したように泣き叫んでいた叔父だった。
彼は、私が泣きじゃくる姿を見るなり血相を変えて駆け寄り、私の両肩を強く、ひどく大切に包み込んだ。

「一体何があった!? 義兄さんに何かされたのか!?」

叔父の手のひらの温もりと、私の心配をしてくれるその切実な声色に、張り詰めていた糸が完全にプツリと切れた。
この人は、きっと母を愛していた。
そして母の面影を残す私を、確実に心配してくれている。
父でも、あの冷酷な獣でもない。
今、世界で唯一、私を助けてくれそうな大人。

「おじ、さん……っ、たすけ、て……っ、わたし、わたし……っ」

私は叔父の胸にすがりつき、しゃくりあげながら、自分の身に起きた取り返しのつかない絶望を、すべて吐き出してしまった。

妊娠してしまったこと。
学校の先生に、今日、たった今捨てられたこと。
もう、あの家には帰りたくないこと。

私の支離滅裂な告白を聞き終えた時。
叔父の腕の力が、ギリッと強く、痛いほどに私の背中を締め付けた。

「……そうか。あの忌々しい家で、お前はそんな目に遭っていたのか」

叔父の声は、地を這うように低く、そしてどこか、歓喜に打ち震えているように聞こえた。

「大丈夫だ、祐奈ちゃん。もう泣かなくていい」

見上げた叔父の瞳には、かつて私をキャンバスの前に座らせたあの男と同じような、ひどくねっとりとした、狂気じみた熱が宿っていた。

「お前は、この私が作り直して……絶対に手の届かない場所で、守ってあげるからな」

こうして、叔父の手によって私の運命は完全に塗り替えられることとなった。

***

叔父の行動は迅速だった。
数日後、彼は父と新しい母のいるあの息の詰まる家へ乗り込み、私の未成年後見人になることを一方的に宣言した。
本来なら、法的な手続きや親権の移行にはもっと時間がかかり、揉めるはずだったのだろう。
けれど、事は私自身が拍子抜けするほどあっさりと進んだ。

学校を自主退学する手続きを終え、私は自分の部屋で時間を無為に過ごしていた。
その時、階下のリビングから父の弾んだ笑い声が聞こえてきたのだ。

『そうか……! よくやった、本当によくやってくれた!』

新しい母の、妊娠が発覚したらしい。
父は、私がこの家にいた十七年間で一度も見せたことのないような、手放しの喜びと歓喜の声を上げていた。

新しい命が宿ったのだ。
父と、あの若い女の間に。

彼らにとって、傷物で問題ばかり起こし、勝手に不登校になった前妻の娘など、もはや新しく生まれてくる『完璧な家族』の邪魔なシミでしかなかったのだ。

だから父は、叔父からの提案を渡りに船とばかりに快諾した。
厄介払いができる上に、世間体さえ気にならない理由がつけば、私という存在を合法的にこの家から切り離せるのだから。

空っぽになっていく自室の真ん中で、私は自分の薄いお腹にそっと手を当てた。
階下では、新しい命の誕生を祝福する温かい笑い声が響いている。
一方で私の腹の中には、誰にも祝福されない、取り返しのつかない獣の落とし子が息づいている。
その圧倒的なコントラストに、私はもう涙すら出なかった。
ただ、世界から完全に自分という存在が消え失せてしまったような、絶対的な虚無感だけがあった。

季節は巡り、夏になっていた。

七月の、まとわりつくような熱気とセミの鳴き声が響くある日。
私は叔父に付き添われ、少し離れた街の、古びた産婦人科の待合室に座っていた。
手続きがすべて終わり、私が正式に『佐々木』の籍に入るための準備期間。
叔父が私を完璧な箱庭に迎え入れるための、最後の大仕事。
私の中にある『汚い男の痕跡』を、物理的に消し去るための日だ。

「大丈夫だよ、祐奈ちゃん。今日で全部終わる。君はまた、真っ白で綺麗な女の子に戻るんだ」

隣に座る叔父が、ひどく優しい手つきで私の頭を撫でる。
消毒液の匂いが漂う薄暗い廊下で、私はただ虚ろな目で頷くことしかできなかった。

名前を呼ばれ、冷たい手術台の上で麻酔を打たれ、意識が混濁していく中で。
私は、ドロドロとした暗闇に沈みながら、ぼんやりと考えていた。

真っ白で、綺麗な女の子。
叔父の言う通り、私の中からこの『間違い』が消え去れば、私は本当に綺麗な、新しい私になれるのだろうか。
いいや、違う。
私の心には、もう絶対に消えない黒い穴がぽっかりと空いてしまった。

叔父の家へ移り住むための引っ越し準備は、私一人で淡々と進められた。
必要な荷物は多くない。
元々、この家に私の痕跡などほとんど残っていなかったのだから。

段ボールの口をガムテープで塞ぎ終え、ふと、部屋のドアの隙間から廊下の奥を見やった。
突き当たりにある、分厚い扉。
亡くなった母が、一日中閉じこもっていたあの防音室だ。

最後にあの部屋に入ったのは、いつだっただろうか。
父と新しい母の笑い声が響く一階のリビングから逃れるように、私は吸い寄せられるように廊下を進み、その重いドアノブに手をかけた。

カチャリ、と鈍い音がして扉が開く。

部屋の中は、ひどく淀んだ空気に満ちていた。
遮音材に囲まれた密室特有の、耳がキーンとなるような無音の世界。そして、長い間換気されていない埃の匂いに混じって、松脂と古い木材の匂いが微かに漂っている。

部屋の隅には、真っ黒なビオラのハードケースが、まるで棺桶のようにポツンと置かれていた。

私にこの楽器を押し付けた母。
父の愛を繋ぎ止めることもできず、この冷たい部屋で一人、ビオラの低い音色だけを鳴らし続けていた可哀想な人。

私はケースの前にしゃがみ込み、冷たい金属の留め具を外した。
ベルベットの真っ赤な内装の中で、弦を張られたまま眠っている木製の楽器。
そっと指先で弦に触れると、微かに、本当に微かに、空っぽの胴体の中で音が反響した。

『……祐奈。聴いて。星が降る音よ』

ふいに、脳裏に母のすり切れた声が蘇った。
いつだったか、母がこの薄暗い部屋で、私に一度だけ聴かせてくれた曲がある。

アルヴォ・ペルトの『鏡の中の鏡』。
一定のテンポで、ビオラの弓がゆっくりと下降していくフレーズを繰り返すだけの、ひどく単調で、ひんやりとした曲だった。
ぽつり、ぽつりと、暗い夜の海へ星が一つずつ落ちていくような、果てしなく静かで悲しい音色。

当時の私は、ただ息苦しくて、早くこの部屋から出たいとしか思っていなかった。
けれど今なら、あの時の母の気持ちが少しだけわかる気がした。
母もきっと、空っぽだったのだ。
この分厚い壁の中で、絶望という名の暗い海に沈みながら、ぽつりぽつりと落ちていく自分の命の欠片(ほし)を、ただ数えることしかできなかったのだろう。

そして今、私のお腹の中からも、一つの命(ほし)が落ちて、完全に消え去った。

「……連れて行くよ」

私はぽつりと呟き、ビオラのハードケースを静かに閉じた。

この楽器に、愛着なんて微塵もない。
むしろ、私の首を絞め続けた憎悪の象徴だ。
けれど、今の私と同じように『完全に空っぽ』になってしまったこの木の箱を、あの幸福に満ちた新しい家族の家に置いていくことだけは、どうしても耐えられなかった。

私は重いケースを持ち上げ、一度だけ防音室を振り返り、自室へと戻った。

***

叔父の庇護下に入るための荷造りは、私にとって過去との決別でもあった。

自室の片付けを一段落させた私は、後見人の手続きに必要な書類を探すため、父が不在の書斎へと足を踏み入れた。
引き出しの奥、鍵のかかっていない小さな金庫の中にあった分厚い茶封筒。
何気なく中身を引き出した私の手は、そこにある一枚の書類を目にして完全に硬直した。

『死亡診断書』

そこに記されていた母の死因は、親戚たちに説明されていた「心不全」などではなく――。

『急性睡眠薬中毒』

母は、大量の薬を飲んで死んだのだ。
自殺だったのだろうか。
あの防音室に孤独に閉じこもって、自ら命を絶ったのか。

……それとも。

不意に、背筋にぞっとするような悪寒が走った。
階下で新しい命の誕生を無邪気に喜んでいた父と、若く美しい新しい母の顔が脳裏に浮かぶ。
もし、彼らが一緒になるために、邪魔になった母を『処分』したのだとしたら。
致死量の薬を食事に混ぜるくらいのことは、あの冷酷な父なら平然とやってのけるのではないか。

その時、玄関のチャイムが鳴り響いた。

「……はい」

震える手で書類を鞄に押し込み、玄関のドアを開ける。
そこに立っていたのは、私と同じか、少し年下に見える見知らぬ少年だった。
どこかひんやりとした、整いすぎている顔立ち。

「はじめまして、佐々木の代理で、引っ越しの荷物を確認しに来ました。高坂、といいます」

その苗字を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
高坂。
私を使い捨てた、あの男と同じ名前。
私が息を呑むのを、少年は瞬き一つせずにじっと見下ろしていた。

「……なにか?」

「いえ……」

少年は軽く肩を竦めると、靴を脱いで私の部屋へと入ってきた。
そして、私がいくつも積み上げていた段ボール箱を開け、ひどく事務的な手つきで中身を取り出し始めたのだ。

「これは不要ですね。佐々木からの指示です。新しい生活に、過去は持ち込まないようにと」

「え……ちょっと、待って」

「これも処分します。あなたが持っていくべきものは、ごく僅かです。あとはすべて、こちらで新しく用意しますから」

彼の手によって、私の思い出も、わずかな私物も、まるでゴミのように仕分けられ、ほとんどが部屋の隅に弾かれていく。
その瞳には、感情というものが一切存在していなかった。
私がどんなに戸惑おうと、彼は完璧な作業用ロボットのように、叔父の定めた『基準』から外れたものを容赦なく切り捨てていく。

やがて、たった一つの薄っぺらい段ボールだけを残して作業を終えた彼は、ふと手を止め、部屋の真ん中で立ち尽くす私を、ガラス玉のような無機質な瞳でじっと見つめた。

「……息苦しそうですね」

感情の抜け落ちた、ひどく平坦な声だった。

「お父様からも、そして佐々木からも、あなたは自分たちの都合のいい『人形』であることを求められている。あなたの意志や痛みなど、彼らのシナリオには必要ない。……このままだと、あなたは新しい家で、完全に息の仕方を忘れてしまう」

私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
この少年は、すべて分かっているのだ。
あの叔父が用意している新しい居場所が、決して『安全な避難所』などではなく、私の自我を完全に殺すための新しい『棺桶』であるということを。

「どこにも、あなたの居場所はないのかもしれませんね」

彼の一言が、私の足元にあった薄氷を完全に叩き割った。
震えが止まらなくなった私に、彼はゆっくりと一歩近づき、まるで天気の話でもするかのように、淡々と告げた。

「どうしても他人の箱庭で飼われるのが耐えられないなら、すべてを『空っぽ』にしてしまうのが一番合理的です」

「……え……?」

「今夜は、ペルセウス座流星群が極大を迎えます。ニュースで見ませんでしたか」

彼は窓の外の、まだ明るい夏の空へ視線を向けた。

「深夜の海は、とても暗くて静かです。すべての不純物を飲み込んで、あなたにこびりついた他人の汚い痕跡も、嘘も、絶望も、すべて綺麗に洗い流してくれる。……誰の手も届かない深い水の底でなら、あなたは本当の意味で、純白で無垢な存在になれる」

それは、慰めでも、脅しでもなかった。
エラーを起こして暴走している機械に、最も効率的な『初期化』の手順を教えているような、冷たい提案。

「……どうか、最後の夜を、あなた自身の意志で選んでください。もし星を見るならあなたの次の転居先である辻浦の浜辺がおすすめですよ」

少年の残した言葉が、呪いのように耳の奥で反響し続けていた。
彼が去っていった後、部屋にはひどく冷たい空気が滞留している。

父の家という地獄から、叔父の箱庭という絶対的な支配の密室へ。
そして、私の腹の中から消え去った命の重さ。

どこにも行けない。
誰も、私を助けてくれない。
なら――あのひんやりとした少年が言った通り、私が私であるうちに、暗い水の底ですべてを終わらせるしかないのだ。

私は、何かにとりつかれたようにふらふらと都内の家を抜け出した。
夜の冷たい空気に包まれながら、最寄り駅から人気のない下り電車に乗り込む。
窓の外を流れる街の明かりが少しずつ途絶え、車窓が完全な黒に塗りつぶされていくのを、虚ろな目で見つめていた。

少年の言った通りだ。
今日は、ペルセウス座流星群が極大を迎える夜。

次に私が住まうはずの町。
辻浦駅で降り、潮の匂いを頼りに真っ暗な道を歩き続けると、やがて広大な海が目の前に現れた。

暗い波の音だけが、唯一私を優しく迎え入れてくれるような気がした。
躊躇いなんてなかった。
靴を脱ぎ、冷たい水の中へと足を踏み入れる。
星が降る音を聴きながら、自分もまた、空から落ちて消えゆく、たった一つの星になるために。