輻射点、ペルセウス。

ジップロックのビニール袋が閉じる、無機質な音が部屋に響いた。

薄いニトリル手袋をはめた指先で、密封された透明な袋に白いラベルシールを貼る。
黒い油性ペンで日付と物品名を記し、それをドキュメントファイルの中に入れていく。

『港女子学院 生徒手帳』
『ヘアゴム(紺)』
『血の付着した絆創膏』

彼女に「新しい生活には不要」と告げ、俺が自らの手でゴミ袋へと放り込んだはずの品々。
彼女の過去と絶望を構成するそれらの破片を、一つ一つ、極めて事務的な手つきでファイリングしていた。

心拍数は、平常時と一切変わっていない。
そこに特別な感傷や、劣情めいた興奮はない。
ただ、彼女という美しい器を完全に空っぽにするための、必要な『初期化プロセス』を淡々と実行しているだけだ。

俺が彼女の思い出の品をゴミ袋へ放り込んだ時、彼女はひどく怯えた。
今にも死にそうな顔をして俺を見ていた。
あの顔は良かった。
過去との回路を物理的に断ち切るための、至極真っ当な反応だ。

兄である高坂諒が彼女の尊厳を徹底的に破壊し、彼女の父親が彼女の居場所を奪った。
愚かな人間たちが寄ってたかって、一人の少女を極限状態まで追い詰めてくれた。
あとは、残された僅かな『過去の残骸』を俺が回収し、彼女の視界から完全に消し去ってしまえば、彼女の精神は立つ瀬を失って完全に崩壊する。

俺にとって、世界はひどく退屈で無価値なものだ。
その中で唯一、彼女の存在だけが、俺の完璧な管理下に置くべき『対象』になっていた。

兄が廃棄した筈のスマートフォンを手にしたのは、あくまでも偶然の事象だった。
ばきばきに割れた液晶画面。
起動するのかと興味本位で充電をしてみた。
データの中に存在していた彼女。
美しくも危うい、雑音だらけの環境で今にも壊れそうになっている魂に惹きつけられていた。

だからこそ、彼女をあの忌まわしいモノたちから完全に切り離し、絶対的な無菌室へ移行させる必要があったのだ。

机の上のスマートフォンが振動し、画面に『佐々木』という名前が表示された。
彼女の叔父。
俺がこの計画を遂行するために利用している、もうひとつの『都合のいい装置』。

通話ボタンをタップし、スピーカーホンに切り替える。

『零くん。荷物の選別は済んだかい?』

「ええ。佐々木さんの指示通り、彼女の過去の痕跡はすべて処分しました。彼女がそちらへ持ち込むのは、最低限の衣類だけです」

『そうか、よくやってくれた。……これでやっと、祐奈を私の手で育て直せる。姉さんと同じ、完璧な女の子に……』

電話越しに聞こえる男の陶酔しきった声に、俺は内心で微かな軽蔑を覚えた。
この男は、自分こそがこの箱庭の支配者(ゲームマスター)だと思い込んでいる。
姉の身代わりとして祐奈を幽閉し、自分好みの人形に作り変えるのだと。

だが、それは間違っている。
過去の幻影を彼女に押し付けようとしている時点で、この叔父の箱庭は『不純』なのだ。
祐奈には、過去も未来も必要ない。
ただ俺が与える情報だけを真実として飲み込み、俺にだけ依存する、純度百パーセントの『空白』にならなければ意味がない。

「ええ。すべては、佐々木さんの理想の箱庭のために」

俺は淡々と相槌を打ち、通話を切った。
この叔父には、せいぜい安全な壁と資金を提供するスポンサーとして機能してもらえばいい。
最後に彼女のプログラムを書き換えるのは、俺だ。

スマートフォンの画面で、現在の時刻と天気予報を確認する。

八月十二日。
午後十一時。
天気は晴れ。
今夜は、ペルセウス座流星群が極大を迎える。

ファイルを鍵付きの引き出しの奥深くにしまい込み、俺は自室の窓から、暗い夜の街を見下ろした。

そろそろだろうか。
俺が昼間に奪い去った僅かな過去。
すべての逃げ場を失った彼女が、自らの手で最後の『初期化』を実行するために、あの家を這い出してくる時間だ。

「……早くおいで、祐奈」

一度完全に死の淵まで沈み切らなければ、本当の意味で彼女を『作り直す』ことはできない。
だから俺は、彼女が絶望の海へ身を投げるのを止めない。
暗い波間へ沈み、息が絶え、脳が過去の記憶を手放す、その完璧な瞬間まで。

俺は黒い上着を羽織り、部屋の明かりを消した。

行こう。
完全に空っぽになった、俺だけの神様を回収するために。

***

兄である高坂諒が彼女を弄び、汚していく過程を、俺はずっと静かになぞっていった。
リアルタイムにではない。
すべては兄が捨てた過去の出来事だった。

兄は本当に愚かだ。
あんなにも美しい神様を、安っぽい玩具としてしか扱えないのだから。
けれど、兄が彼女を徹底的に壊してくれたおかげで、彼女は誰の助けも呼べない空っぽの器になった。
彼女の叔父である佐々木の歪んだ庇護欲を利用し、合法的に彼女をこの手の中に閉じ込めるための、完璧な下地が出来上がったのだ。

そして最早、無神経な兄も、もう彼女の心には存在しない。
彼女の世界は今や、俺と、あの気味の悪い彼女の叔父が創り上げた歪んだ箱庭だけで完結している。

自室のベッドに腰掛け、イヤホンから流れてくる『祐奈の部屋の環境音』に耳を澄ませていると、スマートフォンの画面に『佐々木』からの着信が表示された。
俺はゆっくりとイヤホンを外し、通話ボタンをタップする。

「……はい」

『零くん。今日の話は聞いたかい。祐奈が、フルートなどと言い出した』

電話越しに聞こえる男の声は、「優しい父親」を演じていた温和なトーンとは似ても似つかない、苛立ちに満ちた低い声だった。

「ええ、知っていますよ。彼女が自分で選びました」

『なぜ止めなかった! 私は彼女にビオラを弾かせたいんだ。姉さんのように、気高く美しい弦楽器を。フルートなんて……台本にないぞ!』

「お言葉ですが、おじさん」

俺は、昼間の学校で見せている爽やかな声色を完全に捨て去り、冷ややかな声で彼を制した。

「弦楽器を持たせた瞬間、彼女がパニックを起こしかけたんですよ。あなたの愛する『姉さん』とその番が、あの細い身体にどれだけの恐怖を植え付けたか、ご存知でしょう?」

電話の向こうで、叔父がぐっ、と言葉を詰まらせる。

「あのまま無理にバイオリンやビオラを押し付けて、記憶の蓋が開いてしまったら元も子もない。……それに、フルートでいいんですよ。彼女は全くの初心者になる。俺が手取り足取り、一からすべてを教え込んであげられる。その方が、彼女はより深く俺に、そしてこの『箱庭』に依存する。彼女の平穏と、この完璧な生活を守るためです。そうでしょう?」

俺がわざとらしく寄り添うような口ぶりで言うと、佐々木は忌々しげな舌打ちと共に沈黙した。
彼にとっては自分の姉の面影を重ねることが最優先なのだろうが、俺にとってはどうでもいい。
祐奈が俺にだけ縋り付く弱い存在になってくれるなら、楽器なんてなんだっていいのだ。

「それよりも、問題が一つ起きました」

俺は声のトーンをさらに一段落とし、本題を切り出した。

「下校中に駅前の交差点で、港女子学院の生徒と遭遇しました」

『……なんだと?』

「接触する前に引き離したのですが、相手は祐奈の顔を見て確実に動揺していました。恐らく彼女を知る人間です」

電話越しの空気が、一気に張り詰めるのがわかった。
もし、あの女生徒の口から、祐奈が港女子学院でどんな目に遭い、俺の『兄』と何があったのかという悍ましいゴシップが漏れ出せば、この箱庭はあっけなく崩壊する。

「……向こうの素性は分かるのか」

「隣に友人がいたので、あまり露骨な確認はできませんでした。ですが、あの制服でこの周辺をうろついているとなれば、行動範囲はある程度絞り込めるはずです」

『……わかった。私の方でも手を打とう。お前は引き続き、祐奈から目を離すな。絶対に、外の情報を入れさせるなよ』

「ええ、もちろん」

通話を切り、スマートフォンをベッドに放り投げる。

それから、机の引き出しの奥底に隠してあるもう一つの端末――パスコードで厳重にロックをかけた、古いスマートフォンを手に取った。
暗い部屋の中、画面の冷たい光だけが俺の顔を照らす。
タップして開いたのは、たった一つの動画ファイル。
再生ボタンを押すと、ノイズ混じりの荒い映像と共に、耳障りな笑い声が響き始めた。

『あーあ、泣くなって。お前も気持ちよかっただろ?』

無邪気さを装った、吐き気がするほど聞き慣れた声。
俺の、血の繋がった『兄』の声だ。
そして画面の端で、乱れた服を掻き合わせながら、絶望に染まった顔で声にならない嗚咽を漏らしているのは――。

何度見ても、腸が煮えくり返るような殺意と、それと矛盾するような甘い興奮が背筋を駆け上がる。
兄は、この綺麗な玩具を無残に壊し、そして飽きて捨てた。
自分が一人の少女を死の淵まで追いやったことすら気づかずに、今ものうのうと生きている。
本当に、救いようのない馬鹿だ。
こんなにも美しくて、愛おしい存在の価値を理解できないなんて。

「……祐奈」

画面の中で泣きじゃくる彼女の頬を、親指でそっと撫でる。
絶望に歪む顔も綺麗だが、今の彼女の方がずっといい。
俺が与えた『嘘』を疑いもせず飲み込み、俺の前でだけ無防備な笑顔を見せ、俺にだけ縋り付いた。

動画の再生を止め、俺は再びベッドに転がってイヤホンを耳に押し込んだ。
今晩も彼女の夢を見るために、ファイルを枕の下に忍ばせる。
テディベアの盗聴器から拾い上げた、微かな衣擦れの音。
そして、ノートのページをめくる音。
明日の小テストのために、俺が教えた数学の復習でもしているのだろう。

「……おやすみ、祐奈。明日は俺が、譜読みから教えてあげるからね」

誰にも邪魔はさせない。
たとえ過去の亡霊が首を突っ込んできようと、絶対に。
俺のすべてを懸けて、この箱庭ごと彼女を完璧に閉じ込めよう。

***

放課後の音楽室。
秋のコンクールに向けた新しい楽譜が配られ、部員たちの間に独特の緊張感と熱気が漂っていた。

俺はチェロをケースにしまい、フルートパートの隅に座る祐奈の隣にパイプ椅子を引き寄せた。

「祐奈、楽譜もらった? 最初は真っ黒で目が回るかもしれないけど、大丈夫。俺が一番最初から、ゆっくり教えてあげるから」

優しく甘い声を出して、彼女の手元にある真新しいパート譜を覗き込む。
自由曲は、リムスキー=コルサコフ作曲の交響組曲『シェエラザード』第四楽章。
狂王に殺されないため、決死の『嘘』を紡ぎ続けた王妃の曲だ。
そして終盤には、荒れ狂う嵐と、岩礁に叩きつけられて砕け散る船――『海』の情景が待っている。

初心者の彼女には到底読めない、黒く塗りつぶされたような凶悪な連符の数々。
これを見て怯え、俺にすがりついてくれればそれでよかった。
俺が世界のすべてを、一から教えてやるつもりだった。

しかし。

「…………」

祐奈の様子がおかしい。
パニックになるどころか、彼女の目は猛烈なスピードで音符を追いかけていた。
そして次の瞬間、無意識にフルートを構えた彼女の両手の指が、銀色のキーの上を滑るように動き始めたのだ。

信じられない速さ。
寸分の狂いもない、完璧な運指。
それは、今日初めて楽器を触った初心者の動きでは絶対にあり得ない。
彼女の細胞の奥深くにまで焼き付いている、あの忌まわしい両親からの異常な英才教育の『呪い』だ。

(……ふざけるな)

苛立ちが腹の底で黒く濁る。
俺の知らない過去。
俺以外の人間が彼女の身体に刻み込んだ痕跡。
それが、俺の目の前で彼女を支配している。

俺は咄嗟に手を伸ばし、彼女の指をガシッと掴んで止めた。

「――っ」

ビクッと肩を跳ねさせ、我に返った祐奈が怯えた目で俺を見る。
しまった、少し力が入りすぎたか。
俺は咄嗟にいつもの完璧な笑顔を貼り付け、彼女の指を包み込むように優しく、けれど絶対に逃がさない強さで握り直した。

「すごいね、祐奈。まだ何も教えてないのに、指が動くんだ」

「あ……私……っ」

血の気を引かせ、必死に言い訳を探すように唇を震わせる祐奈。
俺は彼女の耳元に顔を寄せ、誰にも聞こえない声で囁いた。

「……ダメだよ、祐奈。そんなに上手に指が動いたら、周りのみんなが不思議に思うだろ?」

「え……」

「君は今日、初めてフルートを触った『初心者』なんだ。そうだよね?」

俺の言葉に、彼女はハッとして、それからコクコクと引きつったように頷いた。
そうだ、それでいい。
彼女の中に眠る過去の亡霊に気づかれないよう、俺が『初心者の佐々木祐奈』という蓋をしてやる。

「俺が『ド』の音から教えてあげる。君はそれに合わせて、少しずつ吹けるようになればいいんだ。……全部、俺の言う通りにすれば大丈夫だから」

身体に染み付いた過去の亡霊すらも、俺が上書きして、箱庭の底に封じ込める。
俺の言葉にすがるように頷く彼女を見下ろしながら、俺はひどく甘い、満ち足りた優越感に浸っていた。

部活の中盤、十五分間の休憩を知らせる声がかかると、音楽室のあちこちで楽器を置く音が響いた。
フルートを膝に置いた祐奈の隣から離れず、俺がチェロの弦を拭いていると、トランペットを持った木下がバイオリンのパートリーダーの吉田たちと一緒にこちらへやってきた。

「なあ高坂、今回の選曲、けっこうエグくないか?」

吉田がパイプ椅子にまたがりながら、譜面台の楽譜を指差した。

「課題曲がモーツァルトの『魔笛』序曲で、自由曲が『シェエラザード』の四楽章だろ。どっちも体力持っていかれるし、何より曲の背景が重いっていうかさ」

「曲の背景?」

俺がわざとらしく首を傾げると、吉田が腕を組んで頷いた。

「コンクールで表現力を出すために、一応みんなで曲のストーリーを共有しとこうって話になってさ。『魔笛』って、王子様がお姫様を助けに行く童話みたいな話だけど、途中で『嘘と真実』とか『沈黙の試練』とか、結構ドロドロした試練があるんだよな」

「そうそう」と木下が調子を合わせる。

「王子様は試練を乗り越えて真実の愛を手に入れる……って王道展開だけどさ。なんか今の時代にやると、騙し合いのサバイバルゲームみたいだよな」

能天気な感想に、他の部員たちが「たしかに」「デスゲームじゃん」と笑い合う。
俺は愛想よく微笑みながら、隣で固まっている祐奈の肩にそっと触れた。

『沈黙の試練』と『嘘』。

試練を乗り越えて真実を知る王子様なんて、俺意外に誰がいる。
祐奈は一生、俺の『嘘』の中にいればいい。
この無邪気な連中は、自分たちがどれほど皮肉で完璧なサウンドトラックを演奏しようとしているのか、気づきもしないのだ。

「でも、もっとやばいのは『シェエラザード』の方じゃないかなあ?」

木下が、今度は自由曲のスコアをパラパラと捲った。

「王様が毎晩女を殺すサイコ野郎で、王妃のシェエラザードが生き延びるために、千日以上も『嘘の作り話』を語り聞かせるって話だし? で、四楽章のクライマックスは『荒れ狂う海』と『青銅の騎士の立つ岩での難破』だ。船が木っ端微塵に砕け散る。……ド派手だけど、よく考えたら絶望的すぎる……」

『海』。

その単語が出た瞬間、俺の掌の下で、祐奈の華奢な肩がビクッと大きく跳ねた。

「海の嵐の情景とか全然想像つかないんだよなー。高坂はわかる?」

「さあ。俺も海で遭難したことなんてないからね」

俺は木下に爽やかに返しつつ、祐奈の肩を抱き寄せるようにして、その震えを俺の腕の中だけで隠し込んだ。

彼女の頭の中では今、まさにその『海』が荒れ狂っているはずだ。

暗い海。
兄への当てつけのために、自らの身を投げた冷たい波。

そして、記憶を失った彼女が今、この箱庭で生き延びるためについている『初心者という嘘』は、まさに狂王に物語を語り続けたシェエラザードそのものだ。

「……佐々木さんは、どう思う?」

木下が、ふと祐奈に向かって無邪気に問いかけた。

「初心者にはまだ曲の背景とか難しいかもしれないけどさ。王妃様が嘘をつき続けて生き残る話。佐々木さんなら、どうイメージする?」

部員たちの視線が、一斉に祐奈に集まる。
祐奈は血の気を失った青白い顔で、すがりつくように俺を見上げた。

助けて。
どう答えればいいのかわからない。

そんな声なきSOSが、彼女の瞳から痛いほど伝わってくる。

「……木下、祐奈を困らせるなよ」

俺はわざと困ったような、甘い彼氏の顔を作って笑いかけた。

「彼女はフルートに触ったばかりなんだ。曲の解釈なんて、まだ早いよ。……そうだよね、祐奈?」

俺が促すと、祐奈は操り人形のように、コクコクと小さく頷いた。

「……うん。私、まだ……何も、わからないから」

震える声で紡がれた、完璧な『嘘』。

それでいい。
お前は何も知らなくていい。
ただ俺の隣で、怯えた顔をして俺の庇護に身を委ねていればいいんだ。

「そっか、ごめん! そうだよな、まずは音出すところからだもんな!」

木下たちがアハハと笑い声を上げ、休憩終わりのチャイムが鳴る。

俺は祐奈の耳元に唇を寄せ、誰にも聞こえない声で囁いた。

「上手だったよ、祐奈。……その調子」

彼女の肩が再び微かに震えたのを感じながら、俺は深い満足感とともにチェロの弓を手に取った。

***

木下と駅前で別れた後、俺は昨日とは違う、少し遠回りの裏道ルートを選んで歩いていた。
当然、祐奈は何も疑わずに俺の半歩後ろをついてきている。

歩きながらポケットのスマートフォンを取り出すと、画面に『佐々木』からの短いメールが届いていた。

『対象の特定が完了した。このエリアから通学しているようだ。後の処理はこちらで進める』

……相変わらず、異常なほど仕事が早い。
あの気味の悪い男の、こういう徹底した情報統制の能力だけは評価してやってもいい。
俺たちの完璧な箱庭から、イレギュラーな雑音がまた一つ排除された。

心地よい優越感とともにスマホをポケットにしまうと、隣を歩いていた祐奈がふと足を止めているのに気がついた。
彼女の視線の先には、チェーンのハンバーガーショップの窓ガラスに貼られた、色鮮やかな期間限定メニューのポスターがあった。

「……お腹空いた? 食べたいの?」

俺が少し屈み込むようにして優しく顔を覗き込むと、彼女はハッとして、誤魔化すように慌てて首を振った。

「ううん、ただ……美味しそうだなって思っただけ。私、こういうの食べたことあったのかなって」

過去の彼女が、こんなどこにでもあるジャンクフードを許されていたはずがない。
おそらく、これが初めての経験だろう。
けれど、記憶のない彼女にとって、自分の『過去』の正解を知っているのは世界で俺だけなのだ。

「そっか。じゃあ、久しぶりに食べて帰ろうか」

「え、でも、お母さんが夕飯作って待ってるし……」

「内緒にすれば大丈夫。俺がついてるから」

遠慮する彼女の手を引いて、明るい店内へと足を踏み入れる。
レジの前に立ち、見慣れないメニュー表を見上げて戸惑う祐奈。
彼女が何かを選んで口を開くより早く、俺は店員に向かって淀みなく注文を告げた。

「ベーコンエッグバーガーのセットを二つ。……あ、トマトは両方抜いてください」

驚いたように俺を見上げる祐奈に向かって、俺はとびきり爽やかな、完璧な彼氏の笑顔を向けた。

「祐奈が好きなのは、ベーコンエッグバーガーだったよ。いつもこればっかり食べてたんだ」

もちろん、完全な嘘だ。
俺がベーコンエッグバーガーを食べたかったから、適当にそう言っただけだ。
けれど、祐奈は微かに目を丸くした後、安心したようにふわりと嬉しそうな笑みを浮かべた。

「……そうなんだ。私、ベーコンエッグバーガーが好きだったんだね」

「うん。……それに、トマトは嫌いだったでしょ?」

「ふふ、そうみたい。全然覚えてないけど……零くんが覚えててくれて、よかった」

トレイに乗った二つのハンバーガーを受け取りながら、俺は背筋が粟立つほどの甘い快感に酔いしれていた。
彼女の好みも、思考も、過去の思い出も。
俺が口にした『嘘』が、彼女の中でそのまま『真実』として上書きされていく。
俺の手で、佐々木祐奈という存在を一から作り上げている。

「忘れてても大丈夫だよ。祐奈のことは、俺が全部覚えてるから」

世界で一番優しい声でそう囁くと、祐奈は少し照れたように俯いて、俺が与えたハンバーガーを大切そうに両手で包み込んだ。
窓際の席に向かい合って座り、祐奈はベーコンエッグバーガーを両手で持ち上げると、おずおずと小さくかじりついた。

「……美味しい」

ふわりと頬を緩ませる彼女を見つめながら、俺は心の中で静かに笑った。
彼女の舌が、脳が、俺の適当に選んだものを『自分の好きな味』として無防備に受け入れ、インプットしていく。

「ねえ、零くん」

口元のソースを紙ナプキンで拭きながら、祐奈が少し不安げな、けれど俺を完全に信頼しきった上目遣いで尋ねてきた。

「私って……他には、どんなことが好きだった? どんな子だったの?」

記憶の空白を埋めたがる、迷子のような瞳。
俺はストローでコーラを啜りながら、内心でひっそりと舌なめずりをした。

(いいよ、祐奈。俺が全部、君に教えてあげる)

「そうだな……。祐奈は、すごく大人しくて、優しい子だったよ。休みの日は外に出るより、部屋の中でずっと過ごすのが好きだった」

「部屋の中で……?」

「うん。騒がしい場所とか、人混みが嫌いでね。だから休日はどこかに出かけるよりも、いつも俺の部屋で、二人きりでくつろいでいることが多かったんだ。映画を見たり、ただくっついて話したり」

嘘だ。
全部、適当な出鱈目だ。
港女子学院時代の彼女がどんな風に休日を過ごしていたかなんて知らないし、知りたくもない。
これは単なる、俺の思い描く『理想の恋人像』の羅列。
外の世界に興味を持たず、交友関係も持たず、ただ俺のテリトリーの中だけで息を潜めて生きる、都合のいい可愛いお人形。
俺は彼女の脳内に、そんな『偽の過去』をためらいもなく流し込んでいく。

「……なんだか、すごくつまらない子みたいだね、私」

祐奈が少し恥ずかしそうに、自分の手元のハンバーガーを見つめて苦笑した。

「そんなことないよ」

俺はテーブル越しに手を伸ばし、彼女の頭を優しく撫でた。

「俺は、俺の隣で静かに笑って、俺にだけ甘えてくれる祐奈が一番好きだからね」

「零くん……」

「これからもずっと、二人きりで静かに過ごそうね。外の世界なんて、祐奈には必要ないんだから」

甘く、とろけるような声で囁くと、祐奈は安心したように頬を染め、「うん」と小さく頷いた。
そして再び、俺が「彼女の好物だ」と決めたハンバーガーを美味しそうに食べ始める。

窓の外を行き交う、何も知らない高校生たち。
彼らが当たり前のように享受している『青春』や『真実』なんて、この箱庭には一切入り込ませない。

俺はポテトを一つ口に放り込みながら、目の前で微笑む『俺だけの祐奈』を見て、背筋が粟立つような底知れない快感に酔いしれていた。

***

祐奈を最寄り駅で見送った後、俺は自分の家へと帰宅した。

高坂家は、世間一般から見ればかなり裕福な部類に入る。
広々としたリビングには海外製の高級な家具が並び、ダイニングテーブルには彩り豊かな夕食が所狭しと並べられている。
両親は絵に描いたような「のほほんとした」お人好しで、俺には幼い頃から、望むものは文字通りすべて与えられてきた。

金も、環境も、愛情も。
だが、その代わりに敷かれた「優秀な自慢の息子」というレールには、最近ひどく吐き気がしている。
良い成績を取り、良い大学に入り、親の期待通りの完璧な模範解答を出し続けるだけの人生。
そんなものは、ただの退屈な地獄でしかない。

「ただいまー。ごめん、会議が長引いちゃって」

俺が夕食を半分ほど平らげたところで、リビングの扉が開き、兄が帰ってきた。
スーツのネクタイを少し緩め、人の良さそうな爽やかな笑顔で食卓につく。
この男は今、地元の高校で教師をしている。

兄も昔は親のレールの上を歩かされていたはずだが、いつの間にかうまく軌道修正し、今では「生徒思いで熱心な若手教師」という完璧な仮面を被って、世間を要領よく泳ぎ回っている。
自分の欲望を満たした過去の汚点など一切顧みることもなく、うまく立ち回る『大人』の顔。
俺は、この兄の要領の良さが昔からひどく嫌いだった。

「おかえりなさい。もう、毎日遅くまで大変ねえ」

母さんが能天気に笑いながら、兄の前に温かい料理を並べていく。

「そうだ。あなた、そろそろ結婚とか考えないの? いい人いないの?」

「ぶっ、急に何言い出すんだよ母さん。今は仕事が忙しくて、それどころじゃないって」

「またまたぁ。学校に可愛い先生とかいないの? ……あ、でも生徒さんはダメよ! いくら若くて可愛くても、手を出したら犯罪になっちゃうんだからねー!」

母が冗談めかして笑いながら放った言葉に、俺は持っていた箸をピタリと止めた。

「ははっ、何言ってんだよ。当たり前だろ、生徒に手を出すわけないじゃないか。俺の教師生命が終わっちゃうよ」

兄は心底可笑しそうに笑いながら、グラスに注がれたビールを美味そうに喉に流し込んだ。
その横顔には、一点の曇りもない。
嘘をついているという罪悪感すらなく、本気で「自分は真っ当な人間だ」と信じ込んでいる人間の、清く正しい顔だ。

(……生徒に手を出すわけない、だと?)

胃の奥底で、ドロドロとした真っ黒な殺意が渦を巻く。
ふざけるな。
お前はかつて、港女子学院の生徒だったあの少女を弄び、乱れた服で泣きじゃくる彼女を笑いながら動画に収め、最後には絶望の海へ突き落としたじゃないか。
それなのに、自分が一人の少女を壊したことすら完全に忘却し、のうのうとビールの味を堪能している。
本当に、吐き気がするほど醜悪な生き物だ。

「……お疲れ様、兄さん」

俺は冷たい水を口に含んで胃の中の不快感を流し込むと、兄に向けて『完璧な自慢の弟』の笑顔を向けた。

「高坂先生は生徒に大人気だから、母さんも心配なんだよ。気をつけてね」

「おいおい、零までからかわないでくれよ」

兄は苦笑しながら、手羽先に齧りついた。

(……でも、いいさ)

無神経な兄の顔を見つめながら、俺は内心で冷たく嗤った。
大人の余裕ぶって、綺麗に立ち回っているつもりだろうが、お前が飽きて壊した最高の宝物は、今、俺の手の中にある。

俺はまだ高校生で、お前のように上手く世間を泳ぐ大人にはなれないかもしれない。
けれど、俺はお前みたいな中途半端な生き方はしない。
俺のすべてを懸けて、あの歪な箱庭の中で、彼女の過去も未来もすべて支配し尽くしてやる。
お前が二度と、彼女の視界に入り込むことがないように。

***

吐き気のする家族団欒を終えて自室に戻ると、俺はすぐにドアの鍵を閉め、ファイルを引き出しの奥から引っ張り出して真っ暗なベッドに倒れ込んだ。
耳にはワイヤレスイヤホンを押し込む。
数秒のラグのあと、鼓膜の奥で、微かな衣擦れの音がサーッと響き始めた。
祐奈の部屋に置いたテディベアが拾い上げる、彼女の生活音だ。

『……ふぅ』

イヤホン越しに、祐奈の小さく息を吐く音が聞こえた。
シャープペンシルが紙の上を走るカリカリという音と、ノートのページをめくる音。
俺に教えられた通りに、俺の与えた『嘘』の世界で、無防備に、ただ静かに生きている。
その愛おしい気配を鼓膜で感じながら、俺は古いスマートフォンの画面をタップした。

ロックを解除した先にあるのは、厳重に隠蔽された一つのフォルダ。
そこには、あの無神経な兄がかつてコレクションし、そして俺が密かに手に入れた『彼女の絶望の記録』が、時系列順にずらりと並んでいる。

一番古いサムネイルは、恐らく美術準備室。
背景にイーゼルが見える。
白いシャツのボタンはすべて外され、下着からはみ出すような赤黒い傷跡の画像。
車の車内で、スカートからむき出しのふとももがやけに白く写されている。
安っぽいホテルのリネン。白い手首と乱れた髪。胸元の傷の横にキスマークだろうか。鬱血痕が見える。
薄暗いトイレの個室。狭い空間で壁際に追い詰められ、怯えきった目でカメラを見上げている顔。
スクロールするたびに、彼女の絶望は次第に色濃くなっていく。
放課後、ブラインドが下ろされた指導室で、泣きながら乱れた制服を掻き合わせようとする姿。
逃げ場のなくなった後部座席で、レザーシートに力一杯押し付けられている映像。
少しずつ、確実に彼女の逃げ場を奪い、尊厳を削り落としていく軌跡。

俺は特等席で映画を鑑賞するように、その中から一番最後の日付――人気のない郊外の路上で撮られたであろう、最も画質の荒い動画の再生ボタンを押した。

画面の中では、少女が声にならない嗚咽を漏らしている。

『あーあ、顔ぐちゃぐちゃじゃん。……ほら、自分で綺麗にして』

無邪気で無神経な、兄の声。
それに怯え、絶望と屈辱に染まりきった彼女の顔。
イヤホンから聞こえる現在の『平穏』と、目の前の画面で繰り返される過去の『地獄』。
その極端なギャップが、俺の脳髄を痺れさせ、背筋にゾクゾクとするような甘い興奮をもたらしていく。

兄は何も分かっていない。
この少女がどれほど美しく、壊れやすく、そして支配しがいのある極上の存在であるかということを。
ただ欲望のままに傷つけて捨てただけの、哀れで愚かな大人。
あの能天気な顔で手羽先を齧っていた兄の姿を思い出し、俺は暗闇の中で喉の奥を鳴らして嗤った。

「……可愛いよ、祐奈」

画面の中で泣きじゃくる彼女の頬を指でなぞりながら、イヤホン越しの『今の彼女』に向かって囁く。

過去の絶望も、現在の平穏も、すべて俺の手の中にある。
彼女が息をする音も、何を考え、何を食べて、何に怯えるのかも、俺だけがコントロールできる。
この圧倒的な全能感と支配欲こそが、俺にとっての『愛』だ。

イヤホン越しに、祐奈がシャープペンシルを机に置く音が聞こえた。
そろそろ寝る時間だろうか。

俺は全ての動画をリピート再生に設定したまま、ベッドに深く沈み込んだ。
明日もまた、俺が彼女に世界のルールを刻みつけていく。
そのために、今夜もこの極上の蜜のような暗闇を、一人でゆっくりと味わい尽くすのだ。

***

翌日の昼休み。
俺は午後の授業の準備を早々に済ませ、足取りも軽く祐奈の教室へと向かっていた。

頭の中は、今日の放課後に行う『自主練習』のことでいっぱいだった。
俺の言う通りに指を動かす彼女を想像するだけで、足取りが自然と弾む。

しかし、教室の入り口に辿り着いた俺は、彼女の席が空っぽであることに気がついた。
少し遅れて、教室の後ろの方から、ひそひそと盛り上がる女子生徒たちの声が耳に飛び込んできた。

「ねえ、聞いた? 佐々木さんのこと。あの子、前の学校……港女子で、けっこうな有名人だったらしいよ」

「えっ、マジで? 何で知ってんの?」

「うちのお姉ちゃん港女子なんだよ~。なんかね、先生に色目使って贔屓されてたとか。やたら休みが多い癖に、成績はトップだったんだって。ヤバくない?」

ピタリと、俺の足が止まった。

――港女子。先生。色目。

「えー、でもさ」

女子たちの輪の中にいた木下が、腕を組んで不服そうに口を挟んだ。

「僕、あの子がそういう風には全然見えないけどな。部活でも真面目に練習してるし、すげー頑張り屋って感じじゃん。ただの嫌な噂なんじゃねーの?」

木下の真っ直ぐな反論に、女子たちが「えー、木下は騙されやすいからなー」と笑う。

「まあでも、変わったのかもしれないしね。それにしても……高坂くん、佐々木さんのこと過保護すぎない? 見ててびっくりするんだけど」

「わかるー! 『俺が全部教えてあげる』って感じでさ。正直、高坂くんみたいな完璧な人が彼氏とか、めっちゃ羨ましいんだけど」

「おーい! それ、お前らの目の前にいる同じクラスの男子に向かって言うこと!? ちょっと失礼じゃないの!?」

「あはは、ごめんごめん! 木下は木下だからさー」

木下がわざとおどけてみせ、女子たちがドッと笑う。
平和で、無邪気で、どこにでもある高校の昼休みの風景。

(……気持ち悪い連中だ)

腹の底で、ドロドロとした黒い泥が沸騰するのを感じた。
何も知らないくせに。
彼女の過去も、絶望も、あの動画の中で流した涙の価値も、何一つ知らないくせに。
薄っぺらい噂話で彼女を消費し、俺の完璧な箱庭に土足で踏み込もうとする有象無象のバカども。
いっそこの場で全員の首を絞めて、その軽い舌を引き抜いてやりたい衝動に駆られる。

けれど、俺は深く一度深呼吸をすると、完璧な『爽やかな彼氏』の仮面を顔に貼り付け、笑い声を上げながら教室へと足を踏み入れた。

「やあ、木下。それにみんなも」

「げっ、高坂!」

「あ、高坂くん……! べ、別に悪口とか言ってたわけじゃなくて……っ」

突然現れた俺に、女子たちがビクッと肩を震わせ、気まずそうに目を泳がせる。
俺はまったく気にしていない素振りで、とびきり甘く、けれど目の奥は一切笑わずに微笑みかけた。

「うん、聞こえてたよ。俺が過保護すぎるって話だろ? ……でも仕方ないよ。祐奈はすごく不器用で、俺がついててあげないとダメな子だからさ」

「あ、あはは……そ、そうなんだ」

「で、その祐奈はどこに行ったか知らない? 一緒にお昼食べようと思って来たんだけど」

「えっとね、体調悪いみたいで、保健室に行ったよ」

一人の女子が、逃げるようにそう教えてくれた。

「そっか。ありがとう」

俺は愛想よく手を振ると、すぐに教室を後にした。
保健室。
こんな噂が蔓延し始めている教室に、これ以上彼女を一人で置いておくわけにはいかない。
もし、彼女の耳に『港女子』や『先生』という単語が入ってしまえば、俺が必死に蓋をしているあの悍ましい記憶が、いつフラッシュバックしてもおかしくないのだから。

廊下を足早に進みながら、俺は忌々しい事実に舌打ちをした。

……クラスメイトの姉が、港女子の生徒。
あの気味の悪い叔父がいくら駅前の女生徒を特定して口止めしたところで、無意味だったというわけだ。
ゴシップという名のウイルスは、そんな些細な偶然からあっけなく箱庭の壁を越えてくる。

この学校も、もはや安全なテリトリーではない。
箱庭の壁をもっと高く、分厚くしなければならない。
彼女が二度と、外の空気を吸いたくなくなるくらいに。

保健室の引き戸を開けると、ツンとした消毒液の匂いが鼻をついた。
昼休み中だからか、養護教諭は席を外しているらしく、室内はシンと静まり返っている。

一番奥の、白いカーテンが引かれたベッド。
隙間からそっと中を覗き込むと、真っ白なシーツの上で、祐奈が膝を抱えるようにして小さく丸まっていた。

「……祐奈」

静かに声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、ひどく怯えた目でこちらを振り向いた。
けれど、俺の顔を認識した瞬間、その強張っていた表情がふっと解け、安堵からか目元にじわりと涙を浮かべる。

「零、くん……」

「具合が悪いって聞いたよ。大丈夫?」

俺はベッドの縁に腰掛け、彼女の青白い頬にそっと手を伸ばした。
ひんやりと冷たい肌。
小動物のように震える小さな体。

「……ごめんね。ちょっと朝から体調悪くて。頭の奥がガンガン鳴って、息ができなくなりそうだったの」

祐奈は俺の手にすがりつくように頬を寄せながら、途切れ途切れの声でそう吐露した。
教室に蔓延し始めた「異物を見る目」を、彼女の防衛本能が敏感に察知してアラートを鳴らしたのかもしれない。

「……そっか。怖かったね」

俺は極上の優しさを声に乗せ、彼女の華奢な体を抱き寄せた。
腕の中で震える彼女の体温を感じながら、腹の底から湧き上がる真っ黒な優越感に酔いしれる。

いいぞ。
もっと外の世界を恐れろ。
他人の視線に怯え、息を詰まらせ、俺の腕の中にだけ逃げ込んでくればいい。

「新学期もはじまったしストレスだよ。慣れないフルートの練習も始まったし、疲れてるんだ。周りの目なんて気にしなくていい。祐奈は何も悪くないんだから」

「……うん、うん」

「午後の授業も、このまま休んでな。俺がずっとここで、祐奈の手を握っていてあげるから」

「……零くんは、授業あるのに……」

「俺にとって一番大事なのは、祐奈だよ」

耳元で甘く囁くと、祐奈は抵抗を諦めたように目を閉じ、俺の胸にすっぽりと顔を埋めた。

(……このまま、学校にも来させないようにするか?)

彼女のサラサラとした髪を撫でながら、俺は冷たい頭で思考を巡らせる。
いや、それはあの叔父が許さないだろう。
叔父の求める『完璧な女子高生』を演じさせるためには、この舞台はどうしても必要だ。
なら、どうする?
この学校で、誰も祐奈に不用意な声をかけられないよう、完全に孤立させるには。

俺は祐奈の背中を優しくトントンと叩きながら、密かに冷酷な計画の糸を紡ぎ始めていた。

***

「相良さん、君みたいに、勝手な正義感と嫉妬で彼女を傷つけようとする『外の世界の人間』がいるから……やっぱり、祐奈には俺しかいないんだって確信できたよ」

怯えて俺のシャツを握りしめる祐奈の耳元でそう囁きながら、俺は内心で、目の前の滑稽な道化たちを見下ろして嗤っていた。

あの気味の悪い叔父の徹底した情報統制も、結局は完璧ではなかった。
港女子学院の生徒というイレギュラー。
そして、その後ろで腰を抜かして震えている、木下秋良という矮小な傍観者。
俺の愛する箱庭の周りをうろつく、目障りな羽虫たち。

だが、結果としてこの羽虫たちは、最高の仕事をしてくれた。
相良美香という愚かな女が、自分のちっぽけな嫉妬を『正義』だと勘違いして祐奈に毒を浴びせてくれたおかげで、祐奈は今、かつてないほど強く俺に依存し、縋り付いている。

「用がないなら、もう行くよ。……ああ、木下も。余計な事をしないでね。君たちは永遠の傍観者だ」

これ以上、この哀れな虫たちに割く時間はない。
俺は怯える祐奈の肩を抱き寄せ、書店の冷たい床に這いつくばる二人に背を向けて歩き出した。

階段を下り、夕闇が迫る駅前の雑踏へと紛れ込む。
俺の腕の中で、祐奈の肩はまだ小刻みに震えていた。
その震えが、秋の冷たい風のせいではないことは分かっている。

「……零くん」

駅の喧騒から少し離れた裏道に入ったところで、祐奈が立ち止まり、消え入るような声で俺を呼んだ。

「さっきの人……私のこと、知ってた。私の名前、新藤だって……」

祐奈が、すがるような、ひどく怯えた上目遣いで俺を見上げる。

「私、前の学校で……先生を誘惑して、人生をめちゃくちゃにしたって。……それって、本当なのかな? 私、何かひどいことを……」

記憶のない彼女にとって、相良美香が投げつけた言葉は、自分の存在そのものを揺るがす恐ろしい劇薬だ。
このまま放置すれば、彼女の脳内でフラッシュバックが起き、あの無神経な兄に蹂躙された本当の『地獄』の蓋が開いてしまうかもしれない。

俺はゆっくりと足を止め、彼女の真正面に立った。
そして、冷え切った彼女の両手を、俺の温かい手で包み込む。

「……祐奈。君は何も、ひどいことなんてしていないよ」

世界で一番優しくて、甘い声。
俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、一滴の淀みもない『完璧な嘘』を流し込み始めた。

「さっきの彼女は、君を妬んでいたんだ。前の学校で、君は誰よりも純粋で、美しくて……才能があった。だから、周りの人間はみんな君を特別扱いした。うちの兄――高坂先生も、君のその才能に惹かれて、君を特別に目をかけていたんだ」

「私に……才能?」

「そうだよ。でも、それを面白く思わない人間たちが、君と先生の関係を『不純なものだ』ってでっち上げて、君を学校から追い出したんだ。君は、外の世界の醜い嫉妬と悪意の犠牲になっただけなんだよ」

嘘だ。
兄はただの欲望のままに彼女を壊したクズだし、彼女は一方的に被害者だった。
だが、その『真実』は彼女にとって残酷すぎる。
だから俺は、兄の罪も、相良の悪意も、すべてを都合よく混ぜ合わせて、彼女が最も受け入れやすい『悲劇のヒロイン』の物語へと作り変えてやる。

「君は何も悪くない。悪いのは、君の美しさを理解できずに傷つけた、外の世界の連中だ」

俺の言葉が染み渡るにつれ、祐奈の張り詰めていた表情が、少しずつ、少しずつ解けていく。

「君のお父さんが、君をあんなに厳しく縛り付けようとするのも、君の『才能』を自分の思い通りに支配したいからだ。君にビオラを弾かせようとするのも、君の意思なんて無視して、自分の理想を押し付けているだけなんだよ」

「……お父さんが?」

「そうだよ。だから君は、あの家でも息苦しかったんだろ?」

ダメ押しのように、あの叔父の異常性も『悪役』として組み込んでやる。
祐奈はハッとして、自分の胸元をギュッと握りしめた。
彼女がこの数ヶ月間、あの偽物の家族の中で感じていた息苦しさと違和感。
俺が与えた『解答』は、そのすべてのパズルを完璧に埋めるラストピースだったのだ。

「……っ、あ……」

ポロポロと、祐奈の目から大粒の涙が溢れ出した。
彼女は俺の胸にすがりつき、子供のようにしゃくりあげて泣き始めた。

「こわかった……。自分が誰かも分からなくて……みんなが私を、私の知らない目で見るのが……っ、こわくて……っ」

「うん。もう大丈夫だよ、祐奈。俺が全部、守ってあげるから」

俺は彼女の背中に腕を回し、その柔らかな髪に頬を擦り寄せた。
最高だ。
背筋が粟立つほどの、圧倒的な全能感。
過去のトラウマも、叔父の洗脳も、相良の悪意も、すべてが俺の『上書き』によって消え去り、彼女の自我は今、完全に俺の色に染まりきった。

「……ねえ、祐奈。もう、あんな家に帰るのはやめようか」

俺が優しく囁くと、胸の中で泣いていた祐奈が、ビクッと肩を震わせて顔を上げた。

「俺、前から思ってたんだ。あの家で『佐々木祐奈』として、お父さんの顔色を窺いながら生きる君を見るのが、すごく苦しかった。……君は、俺だけのものなのに」

「零、くん……?」

「学校も、部活も、あの家族も。もう全部捨てよう。祐奈を傷つけるものが何もない、誰も知らない場所へ行こう。俺が、君だけの世界を作ってあげる」

それは、叔父の作った『佐々木祐奈』という箱庭の、完全な破壊宣言だった。
あの叔父が作った舞台は、ひどく脆くて、ノイズが多すぎた。
俺に必要なのは、こんな学生生活のおままごとじゃない。
ただ、俺の目だけを見て、俺の与える呼吸だけで生きる、完全無欠の『俺の祐奈』だ。

祐奈は潤んだ瞳で俺を見つめ返し、やがて、憑き物が落ちたような、ひどく美しくて空っぽな笑顔を浮かべた。

「……うん。私、零くんと一緒なら……どこにでも、行く」

その答えを聞いた瞬間、俺の脳の奥底で、甘く痺れるような快感が弾けた。

***

俺からの報告を受けた叔父は、見事に俺の思惑通りに動いた。
『港女子の生徒が接触してきた』という事実と、『祐奈が怯えて不登校になりかけている』という嘘。
それを聞いた叔父は顔色を変え、すぐさま祐奈を学校から休ませる手続きをとったのだ。

こうして、祐奈の世界は、あの薄桃色の壁紙に囲まれた狭い自室だけになった。
叔父の用意した箱庭は、俺にとっても最高の『鳥籠』になったというわけだ。

俺が放課後に佐々木家を訪れると、祐奈はいつもベッドの上で膝を抱えて、俺が来るのだけを待っている。
俺が食べさせたものを美味しいと笑い、俺が与える情報だけを世界のすべてだと信じて疑わない。
叔父の監視下でありながら、彼女の精神は完全に俺だけが支配している。
完璧な、愛の形。

――けれど。
人間の心というものは、俺が思っている以上に、厄介で複雑にできているらしい。

季節が秋から冬へと変わる頃。
部屋から一歩も出なくなった祐奈は、時折、窓の外の海をじっと見つめて、ぼんやりと涙を流すようになった。

『ねえ、零くん。……私、本当に何も悪いこと、してないよね?』

『頭の奥で、ずっと……暗い波の音がするの。息が、できなくなるの』

俺がどれだけ完璧な嘘で塗り固めても、彼女の細胞の奥底に刻み込まれた『過去』は、完全に死に絶えてはいなかった。
微かな矛盾。
閉じ込められているという本能的な息苦しさ。
それらが少しずつ彼女の精神を蝕み、俺の作った完璧な鳥籠の中にも、徐々にヒビが入り始めたのだ。

ああ、なるほど。
どんなに環境を変えても、どんなに記憶を上書きしても。
彼女の魂は、あの無神経な兄に付けられた傷の記憶や、抑圧された罪悪感から、完全には逃れられないのだ。

「……可哀想な祐奈」

ベッドの上で、頭を抱えて過呼吸を起こしている彼女の背中を撫でながら、俺はひどく冷静に考えていた。

このままヒビが広がり続ければ、彼女はいずれ完全に狂ってしまうだろう。
真実の重みに耐えきれず、自らの手で自分を壊そうとするはずだ。
頭の中で鳴りやまない波の音を消すために。
すべてを終わらせるために。
あの、暗い夜の海へと向かって。

(……でも、安心していいよ、祐奈)

俺は彼女の細い首筋にそっとキスを落とした。

もし君が壊れて、再び深淵へと歩みを進めるのなら。
俺はその後ろ姿を静かに見守り、君が絶望の波間に沈みかけたその瞬間に、強引に引きずり出してやる。

そして、ショックで再び真っ白になった君のキャンバスに、俺がまた一から、新しい『嘘』を描き込んであげるのだ。

『君は海に落ちて、記憶を失ったんだよ』と。
『俺は、君の彼氏の高坂零だよ』と。

君が何度壊れて海へ向かおうとも、俺が必ず助け出し、記憶をリセットして、新しい箱庭を用意してやる。
だから君は、安心して壊れればいい。

永遠に。
君が俺の手の中で、俺だけのものとして息絶える、その日まで。

「……愛してるよ、祐奈。ずっと、一緒だ」

俺の囁きに、祐奈は焦点の合わない瞳で、ただ弱々しくコクリと頷いた。

ああ、もう少しだ。