『えー! 大丈夫!? 無事でよかった😭 その男マジでキモすぎるね!!』
『ほんと気をつけて! もし何かあったらすぐ警察呼ぶんだよ💦』
ベッドの上に寝転がってスマホを見つめていた私は、画面に表示された『アキちゃん』からの返信を見て、ホッと息を吐き出した。
「……ほんと、マジで最悪だったし」
まだ心臓が少しだけバクバク言っている。
知らない男につけられたのだ。
振り返ったらこっちを見ていて、逃げたら追いかけてきて、勝手に転んで這いつくばっていた、あの薄気味悪い男。
思い出しただけで鳥肌が立つ。
でも、こうしてアキちゃんがすぐに共感して心配してくれたおかげで、少しだけ気分が落ち着いてきた。
アキちゃんは顔も知らないネットだけの友達だけど、本当に優しくていい子。
私は『ありがとー!😭』とスタンプを返し、スマホを胸の上に置いた。
天井の蛍光灯を見つめながら、あの駅前の交差点で遭遇した『もう一つの最悪な出来事』を思い出す。
――新藤。
港女子学院の、私の元クラスメイト。
偶然すれ違った彼女は、私の顔を見ても完全に知らんぷりをして、隣を歩いていた他校の信じられないくらいイケメンな男子生徒と、親しげに寄り添って歩いていた。
あの顔を見た瞬間、私の中でドス黒い何かがチリッと焦げる音がした。
なんで、あの子が。
学校を突然バックレて、あんなイケメンの彼氏を作って、幸せそうな顔をして笑ってるの?
港女子学院は、都内でも有数のお嬢様学校だ。
生徒同士は互いを「新藤さん」「相良さん」と、苗字にさん付けで呼び合うのが当たり前の上品で窮屈な世界。
高等部から外部生として進学してきた私は、この学校でいつも息苦しさを感じていた。
祖母がここの出身だという理由で無理をして通っているけれど、うちはごく普通のサラリーマン家庭だ。
クラスメイトたちは社長令嬢や名家の子女ばかりで、本物の『お嬢様』である彼女たちは、私に露骨なマウントを取ってくるような真似は決してしない。
けれど、ふとした会話の端々に滲む金銭感覚や常識の違いが、私に「ここは自分の居場所じゃない」という場違いなコンプレックスを常に抱かせていた。
そんな肩身の狭い学園生活の中で、唯一の癒しだったのが美術部顧問の高坂先生だ。
女子校という特殊な閉鎖空間においては、そこそこの男でもものすごいイケメンに見える魔法がかかるものだけど、それを差し引いても高坂先生は素敵だった。
爽やかで、優しくて、万人受けする大人の余裕があって。
私の中の新藤は、大人しくて、暗くて、いつも教室の隅で息を潜めているような女の子だった。
それなのに、彼女はいつも『特別扱い』されていた。
私が密かに憧れていた、若くてカッコよくて、生徒みんなから大人気だった高坂先生に。
『新藤、このプリント放課後までにまとめといてくれるか?』
『新藤、ちょっと進路のことで面談するぞ。準備室に来なさい』
先生はいつも、爽やかな笑顔で新藤ばかりを呼んでいた。
私がいくら愛想よく話しかけても、先生の目はいつもあの暗い女の子ばかりを追っていた。
新藤も新藤だ。
表向きは怯えたような小動物のフリをしておいて、裏では先生に媚びを売り、休みがちだったくせに成績はトップクラスをキープしていた。
絶対に、裏で先生と何かあったに決まっている。
そうじゃないと説明がつかない。
だから、二学年に進級してすぐくらい。
新藤が突然学校に来なくなり、そのままひっそりと転校していったと聞いた時、私は心の底で『ざまあみろ』と思ったのだ。
きっと先生との不純な関係がバレそうになって、逃げ出したんだ。
あんな狡い女、自業自得だ。
一生底辺で惨めに生きていけばいい。
そう思っていたのに。
(……なんで、あんな幸せそうにしてるわけ?)
別の高校に転校して、過去を全部リセットして、高坂先生よりもずっと若くて綺麗な彼氏に守られて。
自分だけが、悲劇のヒロインみたいな顔をして。
ギリッ、と奥歯を噛み締める。
許せない。
あの子だけが、あんなふうに綺麗な世界で笑っているなんて絶対に許せない。
『次会えたら、思い切って声かけてみなよ! アキも応援してる!』
アキちゃんの優しい言葉が、私の頭の中で別の意味を持って響き始めた。
そうだ、声くらいかけてあげてもいいよね。
元クラスメイトなんだから。
そして、あの隣にいたイケメンの彼氏に、無邪気な顔をして教えてあげるのだ。
『新藤さんって、前の学校で先生と色々噂になって、逃げるように転校したんだよ?』って。
「……ふふっ」
暗い部屋の中、私は自分でも驚くほど冷たい声で笑っていた。
次にあの交差点で彼女を見かけたら、絶対に逃がさない。
あの子が必死に隠している泥だらけの過去を、私が白日の下に引きずり出してあげる。
***
翌日。港女子学院の教室では、月に一度の席替えが行われていた。
木製の古びた机が床を擦る音が、クラシック音楽が静かに流れる昼休みの教室に響く。
指定された新しい席へと移動しながら、私はふと、教室の後方――窓際の一番後ろのスペースが、ぽっかりと不自然に空いていることに気がついた。
そこには主のいない空席が一つだけ置かれていた。
いつ戻ってきてもいいようにと、体裁を気にする学校側がわざとらしく残していたその『腫れ物』のような机が、今日の席替えでついに教室から完全に撤去されていた。
「お隣は相良さんなのね。あら、新藤さんの机……ついに無くなったのねえ」
真新しい席で隣になったクラスメイトの結城さんが、空いたスペースを見やりながら、ひそひそと声を潜めた。
結城さんは、都内にいくつもビルを所有しているという不動産会社の社長令嬢だ。
ふんわりと巻かれた髪も、制服の着こなしも完璧で、私のような外部生とは住む世界が違う本物の『お嬢様』の一人。
「……みたいだね。結局、一度も学校に来ないまま転校しちゃったみたいだし」
私が適当に相槌を打つと、前の席に座っていた別のグループの女子も、興味津々といった顔で振り返ってきた。
「転校しちゃったの?」
「ねえ、新藤さんの転校の理由って、やっぱり『あれ』なのかな?」
「あれって……高坂先生とのこと?」
「そうそう。ほら、新藤さんってよく放課後に一年の三学期頃、美術準備室に呼ばれてたじゃない? 私、一度見ちゃったんだよね。夕方、準備室から出てきた新藤さんのブラウスのボタン、掛け違ってたの」
ピクリと、私の指先が跳ねた。
「えっ、嘘、本当に……?」
「うん。それに、高坂先生も三学期の終了と同時に、突然退職しちゃったし? 一身上の都合って言ってたけど、絶対おかしいよ」
「うわぁ……それってつまり、校内不順異性交遊とか!? 学校側にバレて、新藤さんは逃げるように転校して、先生は責任を取らされてクビになったってこと!?」
「絶対そうだよ。高坂先生、あんなに優しくて生徒思いだったのに、新藤さんみたいな地味な子に誘惑されて……可哀想」
手で口元を隠しながら残酷な推測をクスクスと囁き合う。
彼女たちは、高坂先生という『完璧な被害者』に同情し、新藤という『狡猾な加害者』を軽蔑している。
先生が一方的に生徒を毒牙にかけていたなどという最悪の可能性には、この温室育ちのお嬢様たちは一ミリも思い至らないのだ。
もちろん、私も同じだ。
新藤が被害者だなんて、これっぽっちも思っていない。
(……だから、先生はいなくなっちゃったんだ)
机の下で、ギュッとスカートの裾を握りしめる。
ドス黒い怒りが、胃の奥で煮えたぎっていく。
高坂先生の優しさにつけ込み、特別な関係を強要し、挙句の果てに大好きな先生から教職を奪って学校から追放した、最低な女。
そんな汚い女が、過去をすべて無かったことにして、別の学校で『純真なヒロイン』の顔をして、新しいイケメンの彼氏に守られている。
「……許せない」
ポツリと、私の口から声が漏れた。
佐倉さんたちが「えっ?」という顔で私を見る。
「高坂先生の人生をめちゃくちゃにしておいて、自分だけ逃げて幸せになってるなんて、なんか……理不尽だなって思って」
私がそう言うと、佐倉さんたちは深く頷き、ふたたび「本当よね」「新藤さん、今頃どこで何してるのかしら」と噂話の輪を広げていった。
私は、彼女たちの会話をBGMにしながら、冷たい瞳で教室の窓の外を見つめた。
あの子が今どこで何をしているか、私は知っている。
そして、あの隣にいた完璧な彼氏も、いずれこの醜い真実を知ることになる。
なぜならば私が、教えてあげるから。
次にあの交差点で新藤を見かけた時は、『偶然を装って声をかける』なんて生ぬるいことはしない。
絶対に逃げられないタイミングで、真正面からあの嘘だらけの仮面を剥ぎ取ってやるのだ。
***
夏休みが明け、二学期が始まってからというもの。
私の頭の中は、あの交差点で見かけた新藤の幸せそうな顔と、彼女に人生を狂わされた高坂先生のことで支配されていた。
放課後の薄暗い図書室。
私は書架の奥の席に座り、外部生である私には本来縁のない『中等部の卒業アルバム』のページを捲っていた。
港女子学院は中高一貫校だ。
図書室のアーカイブを漁れば、高等部から入学した私が知らない『昔の新藤』の記録が残っている。
「……高坂先生」
アルバムの教職員ページに載っている、若く端正な顔立ちを指でなぞる。
高坂先生は、美術部の顧問。
この写真を撮られた二年半前はまだ赴任してきたばかりで、今年の三月に不自然な形で退職した時点でも、まだ二十六歳という若さだった。
有名な美術大学を卒業し、自身の作品も高く評価されていたという才能あふれる人。
いつも美術準備室でキャンバスに向かっていて、白衣からは油絵の具と、ほんの少しだけ大人の男性の香水の匂いがした。
生徒だけでなく若い女性教師たちからも絶大な人気を集めていた、若くて完璧な先生。
そんな彼の輝かしい未来を、あの陰気な女がめちゃくちゃにしたのだ。
私はギリッと奥歯を噛み締め、生徒の個人写真のページへとアルバムを捲った。
五十音順に並んだ生徒たちの顔。
サ行のページ。
新藤、新藤……。
「……えっ?」
見つけた新藤の顔写真を見て、私は思わず声を漏らした。
写真の中で微笑んでいる中等部三年生の新藤は、私の知っている『いつも教室の隅で息を潜めている陰気な女の子』とは、まるで別人のようだったのだ。
髪は肩までの長さで、綺麗なハーフアップ。
クラスの中心にいるような、いかにも『カースト上位の華やかな女の子』の顔つきをしていた。
(どういうこと……?)
高等部での彼女は、長い前髪で顔を隠すようにいつも俯いていて、目立つことを極端に避けていたはずだ。
それなのに、中等部の頃の彼女はこんなに派手で、自信に満ちた顔をしていたなんて。
じゃあ、高等部に入ってからのあの『怯えた小動物のような大人しい女』の顔は、全部先生の気を引くために計算して作られた、ただの演技だったというの?
「……相良さん? こんなところで何してるの?」
不意に背後から声をかけられ、私はビクッと肩を震わせた。
振り返ると、図書委員の腕章をつけたクラスメイトの結城さんが、不思議そうにこちらを覗き込んでいた。
「あ、佐倉さん。えっと、ちょっと探し物をしてて……」
私は慌ててアルバムを閉じようとしたが、結城さんの視線が、私の開いていたページ――サ行の女子生徒たちの顔に止まった。
「それって、私たちが中三の時のアルバムじゃない。懐かしい。そっか、相良さんは高等部からだもんね」
「う、うん。内部生の子たちって、昔どんな感じだったのかなって思って。……ねえ、結城さん」
私は咄嗟に、アルバムの上に手を置き、探るような声を出した。
「新藤さんって、中等部の頃からあんな感じ……大人しい子だったの?」
佐倉さんは少しだけ目を丸くした後、困ったように眉を下げた。
「ああ……新藤さんね。うーん、相良さんは知らないか。あの子、中等部の頃は普通に明るくて、友達もけっこういたのよ。でも……」
「でも?」
「中三の冬くらいに、お母さんが急に亡くなっちゃって。病気か何かだったらしいんだけど。それからあの子、人が変わったみたいに暗くなって、誰とも話さなくなっちゃったの」
結城さんは、まるで少し気味の悪いものでも思い出すように、そっと声を潜めた。
「それからずっと、あんな感じ。腫れ物っていうか……なんかいつもビクビクしてて、暗くて近寄りがたいオーラ出してたから、みんな自然と距離を置くようになっちゃって。高等部に上がってからは、完全に孤立してたわね」
結城さんは、お嬢様特有の『自分たちには関係のない可哀想な話』という冷ややかなトーンでそう締めくくった。
母親の死。
そして、孤立。
私の中で、バラバラだったピースが最悪の形でカチリと音を立てて繋がった。
(……なるほどね)
恐らく新藤は、母親を亡くした『可哀想な自分』を、最大限に利用したのだ。
身内の不幸を盾にして、教室で一人ぼっちの悲劇のヒロインを演じきった。
そして、そんな泥沼から自分を慰めてくれる『特別な存在』として、彼女は新しく赴任してきたばかりの、誰にでも優しい二十代のイケメン教師――高坂先生に目をつけたのだ。
母親がいない寂しさを武器にして、優しい先生の同情を誘い、美術準備室という密室で誘惑した。
その結果が、ボタンの掛け違えられたブラウス。
そして、先生の不自然な退職と、新藤の逃げるような転校だ。
「……最低」
「えっ? 相良さん、今なんて……?」
「ううん、なんでもない! 教えてくれてありがとう」
私はアルバムをパタンと閉じ、立ち上がった。
胸の奥で、確かな『正義感』という名の炎が燃え上がるのを感じた。
図書室を出て、夕日に染まる廊下を歩きながら、私はスマートフォンを強く握りしめる。
先生の同情を引いて人生を壊し、逃げ出した泥棒猫。
***
期末テストの最終日。
午前中で学校が終わった私は、そのまま真っ直ぐに地元駅へと帰ってきた。
狙うのは、駅前の交差点。
あの日、新藤とあのイケメンの彼氏が歩いていた場所だ。
二人が通っている高校の制服は、この辺りで見かける県立高校のものだった。
テスト期間中なら、昼過ぎにはこの駅前に現れる可能性が高い。
私は交差点を見下ろせる、スターバックスの向かいにある二階建ての大型書店に入った。
二階の窓際、雑誌コーナー。
ここなら、下の通りを歩く人間を誰にも気づかれずに監視できる。
適当なファッション誌を手に取り、窓ガラスの前に立とうとした――その時だった。
「……え?」
窓際に、すでに先客がいた。
私と同じように雑誌を開くふりをしながら、血走った目で眼下の交差点をジッと監視している、同じくらいの年齢の男子高校生。
その横顔と、だらしなく着崩した県立高校の制服には、はっきりと見覚えがあった。
(あいつ……この前、新藤と一緒に帰ってた男……!)
イケメンの彼氏の陰に隠れて目立たなかったが、間違いなくあの時、三人で並んで歩いていた男だ。
私は思わず息を呑み、そして、次にとんでもない事実に気がついた。
窓枠に置かれた彼の手のひらと、制服のズボンの隙間から見える両膝に、真新しいガーゼと絆創膏がベタベタと貼られていたのだ。
ドクン、と心臓が跳ねた。
こいつ……私をつけ回し、勝手に派手に転んで地面に這いつくばっていた、あの薄気味悪い男じゃないの。
薄暗くて顔はよく見えなかったけれど、背丈といい、このジメジメとした気持ちの悪いオーラといい。
そして何より、あの派手な転び方で作ったとしか思えない、不自然な擦り傷の数々。
(……間違いない)
普通なら、ストーカーと遭遇して逃げ出すところかもしれない。
けれど、今の私は『新藤の過去を暴く』という正義感と優越感で完全にハイになっていた。
相手はあの時も無様に自爆しただけの、どんくさくて弱そうな男だ。
しかも、新藤の今の状況を知る、絶好の情報源。
私は雑誌を乱暴に棚へ戻すと、逃げる隙を与えないように、男の背後へツカツカと歩み寄った。
「ちょっと、あなた」
「ヒッ!?」
肩を叩かれた男は、まるで幽霊でも見たかのように情けない悲鳴を上げ、手にしていた車雑誌を床に落とした。
振り返ったその顔は、私を見た瞬間、みるみるうちに青ざめていく。
「あ、え、あ……っ」
「やっぱり。あんた、この前私をつけてきたストーカーでしょ」
「ち、ちが、ちがうっ! 僕は、その……っ」
男は怯えたカエルのように目を泳がせ、絆創膏だらけの手を胸の前でブンブンと振った。
図星だ。
キョドり方が尋常じゃない。
私は腕を組み、冷たい目で見下ろした。
「警察、呼ぼうか? それとも、あんたの学校に連絡してあげようか」
「なんで、いきなり!? やっ、やめて! 」
「だったら、教えなさいよ」
私は逃げようとする男の退路を塞ぐように一歩距離を詰め、低い声で囁いた。
「あんた、新藤……この前一緒に歩いてた、あの女とどういう関係? あの女、今の学校でどういうふりしてんの?」
「え……っ新藤? って誰?」
「この前一緒に帰ってたでしょ!? 三人で」
「えっと、さ、佐々木、さんの、こと……?」
男がガチガチと歯の根を鳴らしながら、聞き慣れない苗字を口にした。
「佐々木? ……はっ、偽名まで使ってんの、あの女」
「ち、ちがうんだ。佐々木さんは、夏休みに交通事故に遭って、記憶喪失に、なってて……」
「はあ!? 記憶喪失ぅ!?」
思わず大きな声が出そうになり、私は慌てて口元を押さえた。
男はビクンと肩を跳ねさせ、涙目になりながら首を振っている。
交通事故?
記憶喪失?
そんなの、先生の人生をめちゃくちゃにした過去から逃げるための、見え透いた大嘘に決まっているじゃない!
あの子がそこまでして、同情を引くための完璧な悲劇のヒロインを演じていることに、私は吐き気すら覚えた。
「あんた、あの女に騙されてるのよ。あの子が前の学校で何をしたか、教えてあげよっか?」
「……言わないでっ、今は聞きたくない……っ!」
「は?」
「高坂に……あのバケモノに……っ、僕の人生が終わる……っ!!」
男は頭を抱え、がたがたと全身を震わせながら、常軌を逸した様子で意味不明なことをブツブツと呟き始めた。
高坂?
バケモノ?
ていうか、こいつ先生のこと知ってるの?
何の話をしているのか全く分からない。
私が聞きたいのは新藤の嘘のことなのに、この男は何かに怯えきっていて、まるで会話が成立しないのだ。
「ちょっと、しっかりしなさいよ! バケモノって何? あんた、何か知って――」
私が苛立ちに任せて男の胸ぐらを掴もうとした、その瞬間だった。
「――あれ? 木下じゃないか。こんなところで何してるんだ?」
背後から、ひどく耳に心地の良い、爽やかでよく通る声が降ってきた。
私を怯えきった目で見ていた男――木下の顔が、その声を聞いた瞬間、絶望に塗りつぶされたように真っ白に硬直した。
「高坂……っ、ちが、これは……っ」
木下が口をパクパクとさせながら、後ずさる。
私はゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、新藤の隣を歩いていた信じられないくらいイケメンの彼氏だった。
隣には、新藤が、彼の背中に隠れるようにして俯いて立っている。
私は深呼吸をして、顔を上げた。
いよいよだ。
この何も知らないイケメンの彼氏に、新藤の泥だらけの過去を教えてあげる。
そう意気込んで口を開きかけた、その時だった。
「はじめまして、相良美香さん」
「……えっ?」
彼氏が、絵に描いたような完璧な笑顔で、私のフルネームを呼んだのだ。
思考が停止する。
なんで、私の名前を?
「偶然だね。まさかこんな所で、祐奈……彼女の元クラスメイトに会えるなんて」
彼が、新藤の肩を優しく抱き寄せながら私を見る。
その瞳の奥には、温度が一切なかった。
まるで、あらかじめ私のことを隅々まで調べ上げ、ここで接触してくることすら予測していたかのような、どこまでも冷たい目。
「あ、あなた……誰なの。なんで私の名前を……」
「俺は高坂零。彼女の――彼氏だよ」
高坂。
その名字を聞いた瞬間、私の脳内に、あの優しかった美術教師の顔がフラッシュバックした。
高坂先生。
高坂零。
まさか。
「因みに俺の兄は、高坂諒」
「高坂、って……あんた、先生の……っ! じゃあ、なんで新藤と一緒にいるのよ!? この女が先生の人生をどうやってめちゃくちゃにしたか、知らないの!?」
私はパニックになりながらも、必死に自分の『正義の武器』を振り回した。
「この女は、母親が死んだ同情を引いて、先生を誘惑して……っ!」
「うん、全部知ってるよ」
私の絶叫を、高坂零はあっさりと遮った。
驚くほど涼しい声だった。
「祐奈がどんな目にあったのか、うちの兄がどんなふうに学校を辞めたか。全部知ってる」
「え……?」
「全部知った上で、俺が彼女の過去を守ってあげてるんだ。……でも、今日よくわかったよ」
高坂零は、氷のように冷たい目で私を見下ろした。
「相良さん、君みたいに、勝手な正義感と嫉妬で彼女を傷つけようとする『外の世界の人間』がいるから……やっぱり、祐奈には俺しかいないんだって確信できたよ」
高坂零は、怯えて震える新藤の耳元で、甘く優しく囁いた。
「ほらね、祐奈。外の世界は、こんなに君を傷つける悪意で溢れてる。君を守れるのは、君を本当に理解しているのは、世界で俺だけなんだよ」
新藤は、顔を伏せたまま、コクリと小さく頷き、高坂のシャツをギュッと握りしめた。
その新藤の横顔には、かつて私が見た『大人しくて可哀想な女の子』の仮面が、隙間なく完璧に張り付いていた。
「用がないなら、もう行くよ。……ああ、木下も。余計な事をしないでね。君たちは永遠の傍観者だ」
高坂零は、まるで道端の石ころでも見るような目で私を一瞥すると、新藤の肩を抱いたまま、振り返ることなく歩き去っていった。
木下が恐怖でガタガタと震えている理由が、今ならわかる。
この男は、狂っている。
私が振りかざした『真実』なんて、なんの価値もない。
私は、自分の嘘だらけの正義が完全に叩き潰されたことを悟り、顔を覆って、その場にしゃがみ込むことしかできなかった。



