「じゃあな、高坂。佐々木さんも、また明日」
駅前の交差点で大袈裟に手を振ると、高坂は「ああ、また明日」と絵に描いたような爽やかな笑顔を返し、隣の佐々木さんも小さく会釈をしてくれた。
二人は僕と別れ、いつもとは違う裏道のルートへと歩いていく。
二人の背中が角を曲がって見えなくなった瞬間、僕は顔に貼り付けていた『陽気なクラスメイト』の笑みをスッと消し、胃の奥がひりつくような重い溜息を吐き出した。
「……気持ち悪っ」
誰に聞かせるわけでもない声が、ポロリと口からこぼれ落ちる。
もちろん、それは二人の仲の良さに向けた言葉じゃない。
あんな完璧な彼氏の仮面を被って、彼女の手を優しく引いている高坂零というバケモノに対する、純粋な恐怖と嫌悪感だ。
八月。
極大を迎えたペルセウス座流星群を観測しようと、深夜の浜辺へ向かったあの日。
僕のレンズの先で、暗い波間へと躊躇いもなく足を踏み入れていった彼女の細い背中。
そして、そんな彼女を強引に引きずりあげた、感情が完全に抜け落ちた高坂の横顔。
彼が佐々木祐奈を見る目は、愛でも、正義感でもなかった。
僕のような凡人には到底理解できない、もっと恐ろしくて狂おしい、純度百パーセントの異常さ。
『――祐奈は夏休みに交通事故に遭ってね。そのショックで、少し記憶を失くしているんだ』
それが、高坂がクラスや部活の連中に広めた「設定」だ。
記憶喪失の原因が交通事故だなんて、あのバケモノは涼しい顔をして、いけしゃあしゃあと嘘をつく。
本当は、佐々木さんが、あの夜の海で自ら命を絶とうとしたほどのトラウマを抱えているだけだということを、僕だけが知っている。
その二人が今、同じ高校のオーケストラ部で、「過保護な彼氏」と「記憶喪失の彼女」という歪な作り物の日常を演じている。
部活の休憩時間、みんなで『シェエラザード』の嵐の海の情景について話していた時だってそうだ。
佐々木さんの肩が震えたのを、僕は見逃さなかった。
恐らく、波の音を思い出して怯える彼女を、高坂は優しく抱き寄せて隠し、完璧な笑顔で僕たちを欺いた。
(僕は……どうすればいいんだよ)
足元の小石を軽く蹴り飛ばし、僕は一人、薄暗くなり始めた帰り道を歩く。
今日、教室で佐々木さんの嫌な噂を聞いた時、反射的に口を挟んでしまった。
あの夜、安全なレンズのこちら側で震えているだけで、何もできなかった自分へのちっぽけな贖罪のつもりだったのかもしれない。
けれど、そんなことをしたって現実は何も変わらない。
僕は主人公にはなれない。
高坂から彼女を救い出す勇気なんて、どこにもないのだから。
「……ごめん」
見上げた空に星は見えず、街灯の冷たい光だけが僕を照らしていた。
すべてを知っていながら、見て見ぬふりをして、あの恐ろしい箱庭の周りで陽気なクラスメイトを演じ続ける。
それが、永遠の傍観者に成り下がった僕にできる、精一杯の自己防衛だった。
――そう、自分に言い聞かせて、駅前の大通りに差し掛かった時のことだ。
「……あっ」
信号待ちの人の波。
その通りの向こう側に、見覚えのある制服の紺色のブレザーが翻った。
何日か前に、高坂たちと一緒に下校していた時にすれ違った、港女子学院の生徒だ。
かばんには特徴的な深海魚のマスコットが揺れている。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
今日、教室で流れていた噂話の断片。
『先生』『贔屓』『休みがちだったのに成績トップ』
あの子が、佐々木さんの過去を知っているキーマンになるかもしれない。
あの子に話を聞けば、佐々木さんがどうしてあの夜、暗い海へ歩いていかなければならなかったのか。
高坂零というバケモノが、今、何を隠して彼女を支配しているのか、そのすべての『真実』がわかるかもしれない。
(……行けよ)
頭の中で、誰かが叫んだ。
行け。
声をかけろ。
これ以上、見ているだけのモブでいるな。
佐々木さんを助け出せるのは、あの日、高坂以外の人間で唯一あの海にいた僕だけじゃないか。
僕は無意識に一歩、車道側へと足を踏み出した。
信号はまだ赤だ。
声を張り上げれば、届く距離。
「あの――っ!」
息を吸い込み、喉を震わせようとした瞬間。
僕の脳裏に、あの夏の夜、波間から佐々木さんを引きずり出した高坂の『無表情な横顔』がフラッシュバックした。
『――っ』
ヒュッ、と喉の奥で息が詰まった。
足が、コンクリートに縫い付けられたように動かない。
もし僕がここで彼女に接触し、あの箱庭の『嘘』を暴こうとしていることが高坂にバレたら?
あの純度百パーセントの異常なバケモノの目が、今度は僕に向けられたら?
(殺される)
理屈じゃない。
生物としての本能が、ガンガンと警鐘を鳴らしていた。
高坂零は、僕のような普通の高校生が手を出していい領域の人間じゃない。
僕がちっぽけな正義感で動けば、間違いなく、僕の平穏な日常ごと粉々にすり潰される。
「…………ぁ」
口から漏れ出たのは、情けないかすれ声だけだった。
目の前を、大きなトラックが轟音を立てて通り過ぎていく。
青に変わった信号。
行き交う人々の波。
視界が開けた時、通りの向こう側にいたはずの港女子の生徒の姿は、すでに人混みに飲まれて消えていた。
「…………ははっ」
僕は、誰もいなくなった駅の入り口を見つめながら、乾いた笑いを漏らした。
強く握りしめすぎた拳から、じわりと汗が滲んでいる。
結局、僕は何もできない。
真実を知るチャンスが目の前にあっても、自分可愛さに震えて、安全なレンズのこちら側から一歩も踏み出せない。
世界で一番醜くて、救いようのない卑怯者だ。
僕は逃げるように踵を返すと、暗くなり始めた夜道を、這うような足取りで家へと急いだ。
背中に、見えない高坂の冷ややかな視線がずっと張り付いているような気がして、何度も何度も後ろを振り返りながら。
***
現実世界では一歩も動けなかったくせに、安全な暗闇に逃げ込んだ途端、僕の指先は滑らかに動き始めた。
自分の部屋のベッドに倒れ込み、息を殺しながらスマートフォンの画面を見つめる。
SNSのアプリを開き、見慣れた本アカウントから、ひっそりと運用している裏垢へと切り替えた。
プロフィール編集画面を開き、迷うことなく設定を書き換えていく。
アイコンは、タイムラインで見つけた適当なカフェのスイーツの画像。
自己紹介文には『高2 / 吹奏楽部 / トランペット担当🎺 / 音楽好きな人と繋がりたい✨』と打ち込む。
自分がオーケストラ部でトランペットを吹いている知識を最大限に悪用した、実在しない「女子高生」の仮面。
現実ではあんなにも高坂の狂気を恐れていたくせに、液晶画面という『安全なレンズ』を一枚隔てた途端、僕は自分でも引くくらい用意周到で、そしてひどく悪趣味な傍観者になれた。
検索窓に『港女子』『吹奏楽』というキーワードを打ち込む。
すると、鍵のついていない公開アカウントがいくつかヒットした。
プロフィールや過去の投稿から、間違いなくあの学校の生徒たちのネットワークだとわかる。
僕はその中のいくつかにフォロー申請を送り、タイムラインを遡り始めた。
『今日の小テスト終わった。マジで死んだ』
『帰りに駅前のスタバ寄ろー』
『次のコンクール、課題曲むずすぎない?』
画面をスクロールするたびに流れてくるのは、どこにでもある他愛のない、ささやかな女子高生たちの日常だ。
僕は、そんな彼女たちの無防備な呟きに、一つずつ『いいね』を押し、時には「そのスタバの新作、私も気になってた!」なんて、絵文字をたっぷり使った空々しいリプライを送って絡みにいく。
少しずつ、少しずつ。
警戒されないように、同世代の、同じ部活で頑張る見知らぬ女子高生として、彼女たちのコミュニティの隙間へと入り込んでいく。
ドクン、ドクンと心臓が嫌な音を立てていた。
僕はいったい、何をしているんだろう。
こんな嘘で塗り固められたアカウントを使って、他人の日常を覗き見して。
その雑談の中から、いつかポロリとこぼれ落ちるかもしれない『贔屓されていた成績トップの生徒』や『先生との関係』……佐々木さんの過去に繋がる、悍ましいゴシップの欠片を待ち伏せしている。
狂っているのは高坂だけじゃない。
安全な場所から他人の絶望を消費しようとしている僕も、大概に気持ち悪くて、救いようのない卑怯者だ。
「……教えてよ。君たちの学校で、去年から今年の夏にかけて、何があったのか」
暗い部屋の中。
スマートフォンの青白い光に顔を照らされながら、僕は女子高生のふりをして、港女子の生徒の他愛のないツイートにまた一つ、愛想のいい返信を書き込んだ。
教室の隅の席でも、移動教室の廊下でも、そして部活の休憩時間でさえも。
僕は暇さえあればスマートフォンを取り出し、画面をぽちぽちとタップするようになった。
『えー! それ本当にヤバいね💦』
『わかる! ウチのパートリーダーもさー、めっちゃ厳しくて泣きそう😭』
自分の指先から滑らかに紡ぎ出される、絵文字たっぷりの『女子高生』の言葉たち。
最初はただ情報収集のための擬態だったはずなのに、いつしか僕は、この架空の少女を演じることに奇妙な陶酔を覚えるようになっていた。
ネットの中の僕は、明るくて、共感力が高くて、誰からも好かれるトランペット吹きの女子高生のアキちゃんだ。
現実の僕のように、高坂というバケモノの完璧さにコンプレックスを抱くこともないし、何もできない自分を卑下する必要もない。
ここでは僕の言葉が素直に受け入れられ、優しいリアクションが返ってくる。
安全な暗闇の中で、僕は『完璧な誰か』になりきっていた。
***
「……木下、最近ずっとスマホ見ているけれど、彼女でもできたのかな?」
部活中、譜面台の陰でこっそり画面をスクロールしていた僕に、チェロを抱えた高坂が爽やかな笑顔で声をかけてきた。
心臓が跳ね上がったが、僕は慌ててスマホを隠し、ヘラヘラと笑ってみせた。
「あ、いや! ちょっとゲームの周回イベントが忙しくてさー」
「そっか。ほどほどにね」
高坂はそれ以上追及してくることはなく、すぐに隣の佐々木さんへと意識を戻した。
危なかった。
もしこの画面を見られでもしたら、僕は終わる。
僕は冷や汗を拭いながら、再びこっそりと画面に視線を落とした。
僕が今やり取りをしているのは、港女子学院の吹奏楽部でユーフォニアムを担当している『ミカ』というアカウントだ。
彼女は気さくで、他校の吹奏楽部員という設定の僕にも親しげに接してくれた。
最近ではすっかり意気投合し、DMで部活の愚痴や他愛のない日常の写真を送り合う仲にまでなっていた。
『今日ね、お母さんの用事でお使い頼まれちゃって最悪ー。でも帰りにスタバ寄れたから許す!✨』
ピコン、とミカからDMが届いた。
添えられていたのは、新作のフラペチーノを写した写真。
僕はそれを見て、『美味しそう! いいなー!』と返信を打ち込もうとして――ふと、写真の背景に写り込んでいる窓の外の景色と、スクールバッグにぶら下がっている深海魚のぬいぐるみキーホルダーに気がつき、指を止めた。
(……あっ)
背筋に、ゾクッと冷たい電流が走った。
窓の外に写っている景色は、うちの学校の最寄りでもある辻浦駅前のロータリーだ。
間違いない。
駅前の交差点で見かけた、あの港女子の生徒の鞄についていたキーホルダーと全く同じだ。
僕は震える指で、女子高生らしいトーンを装ってメッセージを送信した。
『えっ、その写真の背景って辻浦駅前のスタバじゃない!? なんでそんなとこにいるの?笑』
すぐに既読がつき、ミカから返信が飛んでくる。
『え、すご! わかる!? 私、実は辻浦から港女子まで通ってるんだー。うちの学校で神奈川から通ってんの、マジで私くらいなんだけどね。遠すぎる。笑』
ドンピシャだ。
スマートフォンを握る僕の手が、じっとりと嫌な汗をかき始める。
親戚の家に来ていたわけでも、たまたま迷子になっていたわけでもない。
ミカはこの街の住人で、ここからわざわざ都内の港女子まで通っている唯一の生徒だったのだ。
つまり、僕が今ネット上で親友のような顔をしてやり取りをしているこの相手こそ、佐々木さんの過去を知り得る、あの学校の生徒。
高坂が何を隠しているのか、そのパズルの最も重要なピースを握っている人物になるかもしれない。
僕は息を呑み、震える指で画面を見つめた。
『そうなんだ! めっちゃ地元! 奇遇だねー✨』と、当たり障りのない嘘を重ねる。
喉の奥まで出かかっている。
『君の学校から転校した佐々木祐奈について教えて欲しい』
けれど、言えるわけがない。
僕はただの「他校の吹奏楽部の女子高生」なのだ。
そんなピンポイントで核心を突くような質問をすれば、一瞬で不審がられ、せっかく築いた関係が壊れてしまう。
それに、もし僕が高坂の隠している秘密を嗅ぎ回っていることが、何かの拍子で高坂本人の耳に入ったら……。
僕は、彼女という『真実』に指先一つで触れられる距離にいながら、自分が作り上げた女子高生という嘘の仮面に首を絞められ、ただ身動きが取れずにいた。
『そういえばアキちゃんって、もしかして県立辻浦高校だったりする??』
『あ、でもあそこ吹奏楽部ないよね💦 オーケストラだっけ? じゃあ違うかー笑』
ドクン、と。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど、大きく跳ねた。
県立辻浦高校。
僕と高坂、そして佐々木さんが通っている学校の名前。
なんでミカが、突然うちの高校の名前を?
『吹奏楽部がない』という事実で僕のネカマ設定がわずかに揺らいだことよりも、彼女の口からピンポイントでその校名が出たことの恐ろしさに、全身から一気に冷や汗が噴き出した。
僕は震える指を必死にコントロールして、文字を打ち込む。
『ちがうよー!笑 私は隣の市の高校! なんでなんで??』
送信ボタンを押してから既読がつくまでの数秒間が、永遠のように長く感じられた。
やがて、ミカから軽いトーンの返信が返ってくる。
『だよね笑 いや、もし辻浦高校だったら、うちの学校から転校していった子がいるから、ちょっと気になっちゃって』
「…………っ」
暗い部屋の中、スマートフォンの液晶から放たれる青白い光だけが、引きつった僕の顔を照らしていた。
開いた。
僕から無理やりこじ開けたわけじゃない。
向こうから勝手に、あの恐ろしい箱庭の真実へと続く扉を開いてくれたのだ。
このまま、女子高生の無邪気な恋バナや噂話のテンションを装えば、僕はすべてを知ることができる。
高坂零が何を隠し、あの夜の海で何があったのか。
***
『えー! そうなんだ!』
『その子、どんな子だったの?? 気になるー!👀✨』
液晶画面の中では、無邪気で能天気な『アキちゃん』が、黄色い顔の絵文字をちりばめて軽やかに問いかけている。
現実の僕の指先が、恐怖と興奮でガクガクと震えていることなど、画面の向こうの彼女は知る由もない。
僕は暗闇の中で息を殺し、次のメッセージを受信する通知音を、祈るような気持ちで待ち続けた。
数秒後、画面に浮かび上がったミカからの返信は、どこにでもある女子高生の切実な「お悩み相談」だった。
『同じクラスだったんだけどね、ある日突然、学校に来なくなっちゃって』
『この前、ホント偶然駅前で見かけたんだけど、完全に知らんぷりされちゃってさ。なんか、ちょっとショックだったんだよね😢』
その文面を見た瞬間、僕の胸の奥がズキリと嫌な音を立てて痛んだ。
違う。
佐々木さんが無視したんじゃない。
彼女は記憶を失っていて、それに高坂というバケモノに『外の世界の情報を一切遮断する嘘』を刷り込まれている最中だから、本当にミカのことが分からなかっただけだ。
けれど、そんな真実を僕が口にできるはずもない。
僕は暗闇の中で息を詰め、女子高生『アキちゃん』としての完璧な模範解答をフリック入力で打ち込んだ。
『えーっ、それは悲しいね😭 でも、久しぶりだったし、たぶんミカちゃんのこと気づかなかっただけじゃないかな?』
『もし次会えたら、思い切って声かけてみなよ! アキも応援してる! 頑張って!✨』
ポン、と軽い通知音と共に、画面の向こうへメッセージが吸い込まれていく。
送信ボタンから指を離した瞬間、僕は自分の手が氷のように冷たくなっていることに気がついた。
(……僕は、なんて残酷なことをしているんだ)
次会えたら、声かけてみなよ。
絵文字で飾られたその明るい言葉が、どれほど無責任でおぞましい意味を持っているか。
僕は痛いほど理解している。
佐々木さんの隣には、あの高坂零がべったりと張り付いているのだ。
自分の『箱庭』を脅かす存在を、あの感情の抜け落ちた冷たい瞳の男が、そのまま見逃すはずがない。
事情を何も知らないミカが高坂のテリトリーに無邪気に踏み込めば、彼女がどうなるか……あるいは、佐々木さんがどれほど残酷な形で過去を引きずり出されるか。
想像するだけで吐き気がする。
それなのに、僕は安全な液晶画面のこちら側から、何も知らないミカの背中を、地雷原に向かって笑顔でポンと押してしまった。
『ありがとー!😭 次見かけたら絶対声かけてみる! アキちゃん優しくて好きー💕』
すぐに返ってきたミカからの無邪気な感謝の言葉が、鋭い刃物のように僕の胸を抉る。
「……最低だ」
僕はベッドの上に仰向けに倒れ込み、スマートフォンの電源を落とした。
真っ暗になった部屋の中、先ほどまでミカとやり取りをしていた自分の右手が、ひどく汚らわしいものに思えた。
高坂の狂気を責める資格なんて、僕には最初からない。
自分は絶対に傷つかない安全な場所から、他人の人生を覗き見し、無自覚な女の子をバケモノの餌食として差し出そうとしている。
僕は、あの夜の海で足がすくんで動けなかった時よりも、ずっと深く、取り返しのつかない卑怯な泥沼に沈み込んでいた。
***
いつものように部活終わりに、並んで帰路につく高坂と佐々木さんの背中を笑顔で見送った後。
僕は踵を返し、息を切らして駅前へと走った。
向かったのは、駅前のロータリーに面したスターバックスの向かいにある、二階建ての大型書店だ。
階段を駆け上がり、二階の窓際にある雑誌コーナーへ向かう。
適当な雑誌を手に取り、開いたページに視線を落とすふりをしながら、僕は冷たい窓ガラスに張り付くようにして下の横断歩道を見下ろした。
分厚いガラス窓という、絶対的に安全な『レンズ』。
ここからなら、誰にも見つかることなく、眼下を行き交う人々の波を観察できる。
夏、天体望遠鏡のレンズ越しに、安全な場所からあの暗い海を覗き見していた時のように。
(……僕は、狂ってる)
窓ガラスにうっすらと反射した自分の顔は、ひどく血走っていて、薄気味の悪い笑みを浮かべていた。
自分がとんでもなく気持ちの悪い、ストーカー紛いの行為をしている自覚はある。
でも、止められなかった。
あの日、『アキちゃん』としてミカの背中を押してしまってから、僕は暇さえあればこの書店の二階から交差点を監視するようになった。
ミカがいつ、どのタイミングでこの駅前に現れ、そして佐々木祐奈と接触してしまうのか。
高坂の完璧な箱庭が、何も知らない女子高生の不用意な一言で崩壊するその瞬間を、僕は安全な特等席で見届けたかったのだ。
バケモノが破滅する様を、あるいはミカという犠牲者がバケモノの餌食になる様を。
眼下の信号が青に変わる。
わっと押し寄せる人の波の中を、目を皿のようにして探す。
スタバから出てくる客、駅へ向かうサラリーマン、他校の高校生たち。
そして――見つけた。
人混みの中、見覚えのある紺色のブレザー。
指定のスクールバッグで揺れる、深海魚のキーホルダー。
ミカだ。
彼女はイヤホンをして、スマートフォンをいじりながらゆっくりと横断歩道を渡っていく。
おそらく今、画面の向こうの『アキちゃん』宛てにメッセージでも打っているのだろう。
ドクン、と心臓が大きく鳴った。
呼吸が荒くなる。手のひらにじっとりと汗が滲む。
(……追わなきゃ)
頭の奥で、理性が完全に焼き切れる音がした。
僕は手にしていた雑誌を乱暴に棚へ戻すと、逃げるように階段を駆け下りた。
自動ドアを抜け、生ぬるい夕暮れの風の中へ飛び出す。
人混みに紛れながら、数メートル先を歩く彼女の背中を、見失わないように一定の距離を保って後をつける。
高坂の狂気をあんなに恐れ、軽蔑していたはずなのに。
今の僕は、見ず知らずの女子高生をネットで騙し、現実でも尾行している、ただの卑劣なストーカーだ。
自分がどんどん正気を失い、泥沼の底へと沈んでいくのがわかる。
(……どこへ行くんだ、ミカ。佐々木さんに会いに行くのか? それとも――)
前のめりになりそうな足を必死に制御しながら、僕は彼女の背中を、ただ薄暗い瞳で追いかけ続けた。
***
一定の距離を保ちながら、僕はミカの背中を追い続けていた。
駅前の喧騒を抜け、住宅街へと続く少し薄暗い道に入る。
日が落ちて、街灯の冷たい光がポツポツと点灯し始めていた。
人通りが徐々にまばらになっていく中、僕の足音だけが嫌に響いている気がした。
その時だった。
数メートル前を歩いていたミカの足が、不自然にピタリと止まった。
(……えっ)
彼女が、肩越しにスッと後ろを振り返る。
耳からイヤホンを外した彼女の警戒に満ちた視線が、街灯の下で立ち尽くす僕の姿をハッキリと捉えた。
目が合った。
その瞬間、彼女の顔に明らかな『恐怖』が張り付くのがわかった。
(ちが、違う。僕は――)
ただの変質者じゃない。
僕は君と同じ高校生で、君と毎日DMで楽しく話している『アキちゃん』なんだ――なんて、口が裂けても言えるわけがない。
僕が一歩、弁解しようと足を踏み出した瞬間。
ミカは弾かれたようにバッと前を向き、鞄を抱え込むようにして走り出した。
「あ、待っ――!」
思わず声を上げてしまったのが致命的だった。
完全に『不審者に追跡されている』と確信したミカは、悲鳴すら上げずに全速力で逃げていく。
スクールバッグについた深海魚のキーホルダーが、千切れそうなほど激しく上下に揺れていた。
待ってくれ。
ここで逃げられたら、僕がただの変態ストーカーとして終わる。
違うんだ、僕はただ君から佐々木さんの過去について、高坂の嘘を暴くための――!
焦りと自己保身で頭が真っ白になった僕は、気づけば自分でも信じられないほど必死に、彼女の背中を追って走り出していた。
「待って、違うんだ! 話を――!」
ドンッ、と。
つま先が、アスファルトのわずかな段差に深く引っかかった。
「……え」
次の瞬間、視界がぐるんと反転した。
前に投げ出された身体を支えようと咄嗟に手を伸ばしたが、間に合わない。
硬く冷たい地面が、容赦なく顔面に向かって迫ってくる。
ガシャッ!!
鈍い音とともに、両膝と手のひらに焼けるような鋭い痛みが走った。
制服のズボンが破れ、摩擦で皮膚が削り取られる感触。
「……っ、ぐ……ぁ……ッ」
無様にうつ伏せに転倒し、肺から空気が強制的に押し出された。
擦りむいた手のひらから、ジンジンと血の滲む熱い痛みが脈打つ。
口の中には、ホコリと鉄の味が広がっていた。
痛みに顔を歪めながら、這いつくばったまま顔を上げる。
薄暗い道の奥には、もう彼女の背中も、揺れる深海魚のキーホルダーもなかった。
完全に撒かれた。
「…………あはは」
誰もいなくなった住宅街の路上。
コンクリートに這いつくばり、すりむいて血の滲んだ手を震わせながら、僕は乾いた笑い声を漏らした。
なんだこれ。
何やってるんだ、僕は。
高坂のような純度の高いバケモノの真似事でもしようとしたのか?
結果がこれだ。
ただ見ず知らずの女子高生を怯えさせ、逃げられ、自分は無様に地面に這いつくばって。
正義の味方でも、真実を暴く探偵でもない。
ただの、気持ち悪くて惨めなストーカー。
安全なレンズのこちら側から一歩でも外に出ようとした途端、僕は自分がどれほど無力でちっぽけな凡人であるかを、骨の髄まで思い知らされることになったのだった。
***
家に帰り、ズキズキと痛む両手と膝を洗面所で洗い流しながら、僕は鏡に映る自分の顔を嘲笑った。
情けない。
本当に、救いようがない。
現実に飛び出して見ず知らずの女子高生を追い回し、挙句の果てに自爆。
そんな無様な真似をした時点で、ネットの中で愛想よく振る舞う『アキちゃん』という仮面は、もう完全にひび割れてしまった。
ベッドに転がり、僕はスマートフォンを開いた。
もう限界だ。このおままごとのようなネカマアカウントは廃業しよう。
代わりに、もっと深く、直接的に港女子の闇に食い込める新しい餌を作るために。
SNSの新規登録画面を開き、僕は震える指でプロフィールを打ち込み始めた。
『記憶喪失』『女子高生』『自分の過去を知っている人を探しています』――。
佐々木さんの現状をそのままトレースしたような、悪趣味極まりない設定の裏垢。
この『記憶を失った港女子の元生徒』という架空の怪物をネットの海に放流すれば、ミカをはじめとするあの学校の連中は、必ず何らかのアクションを起こすはずだ。
誰だって、他人の秘密を暴きたくなるものだろう?
自分の底知れない気持ち悪さに冷や汗を流しながら、アイコンの設定に指を伸ばした、その時だった。
ピコン、と。
画面上部に、通知のポップアップが降りてきた。
消そうとしていた『アキちゃん』のアカウント宛てだ。
送り主は、ミカ。
『アキちゃん聞いて😭 さっきマジで超キモイことあったんだけど……』
僕はピタリと指を止め、血の滲んだ絆創膏だらけの手で、その通知をタップした。
『駅前で知らない男にずっとつけられてて、走って逃げたんだけど、アイツ途中で勝手に派手に転んでて💦 ホントに怖かったしキモすぎた……』
『もしアキちゃんもこっちの方来る時あったら、マジで気をつけてね! ほんと最悪だったー😭』
「…………っ」
暗い部屋の中。
青白い液晶の光に照らされた僕の口から、ヒュッと短い息が漏れた。
ドクン、ドクンと、心臓が先ほどまでの尾行中とは全く違う、異様なリズムで跳ね始める。
僕のストーカー行為の被害者が、他ならぬ加害者である僕自身に泣きついてきている。
ミカは画面の向こうで、自分に親身になってくれている『アキちゃん』が、さっき自分を追い回して地面に這いつくばっていた不気味な男と同一人物だなんて、微塵も疑っていないのだ。
この圧倒的なグロテスクさと、彼女を完全に手玉に取っているという歪な優越感。
吐き気と一緒に、ドロドロとした暗い愉悦が込み上げてくるのを止められなかった。
僕は作成中だった『記憶喪失の女子高生』のアカウント画面をそっと閉じ、再び『アキちゃん』の仮面を顔に深く貼り直した。
そして、傷だらけの指で、流れるようにフリック入力を始める。
『えー! 大丈夫!? 無事でよかった😭 その男マジでキモすぎるね!!』
『ほんと気をつけて! もし何かあったらすぐ警察呼ぶんだよ💦』
ポン、と。
息を吐くように、完璧な善人の嘘を打ち込む。
高坂のような美しくて完璧なバケモノにはなれなくても、僕には僕の、最悪の戦い方がある。
僕は暗闇の中で薄気味悪く口角を上げながら、ミカからの返信を待った。
駅前の交差点で大袈裟に手を振ると、高坂は「ああ、また明日」と絵に描いたような爽やかな笑顔を返し、隣の佐々木さんも小さく会釈をしてくれた。
二人は僕と別れ、いつもとは違う裏道のルートへと歩いていく。
二人の背中が角を曲がって見えなくなった瞬間、僕は顔に貼り付けていた『陽気なクラスメイト』の笑みをスッと消し、胃の奥がひりつくような重い溜息を吐き出した。
「……気持ち悪っ」
誰に聞かせるわけでもない声が、ポロリと口からこぼれ落ちる。
もちろん、それは二人の仲の良さに向けた言葉じゃない。
あんな完璧な彼氏の仮面を被って、彼女の手を優しく引いている高坂零というバケモノに対する、純粋な恐怖と嫌悪感だ。
八月。
極大を迎えたペルセウス座流星群を観測しようと、深夜の浜辺へ向かったあの日。
僕のレンズの先で、暗い波間へと躊躇いもなく足を踏み入れていった彼女の細い背中。
そして、そんな彼女を強引に引きずりあげた、感情が完全に抜け落ちた高坂の横顔。
彼が佐々木祐奈を見る目は、愛でも、正義感でもなかった。
僕のような凡人には到底理解できない、もっと恐ろしくて狂おしい、純度百パーセントの異常さ。
『――祐奈は夏休みに交通事故に遭ってね。そのショックで、少し記憶を失くしているんだ』
それが、高坂がクラスや部活の連中に広めた「設定」だ。
記憶喪失の原因が交通事故だなんて、あのバケモノは涼しい顔をして、いけしゃあしゃあと嘘をつく。
本当は、佐々木さんが、あの夜の海で自ら命を絶とうとしたほどのトラウマを抱えているだけだということを、僕だけが知っている。
その二人が今、同じ高校のオーケストラ部で、「過保護な彼氏」と「記憶喪失の彼女」という歪な作り物の日常を演じている。
部活の休憩時間、みんなで『シェエラザード』の嵐の海の情景について話していた時だってそうだ。
佐々木さんの肩が震えたのを、僕は見逃さなかった。
恐らく、波の音を思い出して怯える彼女を、高坂は優しく抱き寄せて隠し、完璧な笑顔で僕たちを欺いた。
(僕は……どうすればいいんだよ)
足元の小石を軽く蹴り飛ばし、僕は一人、薄暗くなり始めた帰り道を歩く。
今日、教室で佐々木さんの嫌な噂を聞いた時、反射的に口を挟んでしまった。
あの夜、安全なレンズのこちら側で震えているだけで、何もできなかった自分へのちっぽけな贖罪のつもりだったのかもしれない。
けれど、そんなことをしたって現実は何も変わらない。
僕は主人公にはなれない。
高坂から彼女を救い出す勇気なんて、どこにもないのだから。
「……ごめん」
見上げた空に星は見えず、街灯の冷たい光だけが僕を照らしていた。
すべてを知っていながら、見て見ぬふりをして、あの恐ろしい箱庭の周りで陽気なクラスメイトを演じ続ける。
それが、永遠の傍観者に成り下がった僕にできる、精一杯の自己防衛だった。
――そう、自分に言い聞かせて、駅前の大通りに差し掛かった時のことだ。
「……あっ」
信号待ちの人の波。
その通りの向こう側に、見覚えのある制服の紺色のブレザーが翻った。
何日か前に、高坂たちと一緒に下校していた時にすれ違った、港女子学院の生徒だ。
かばんには特徴的な深海魚のマスコットが揺れている。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
今日、教室で流れていた噂話の断片。
『先生』『贔屓』『休みがちだったのに成績トップ』
あの子が、佐々木さんの過去を知っているキーマンになるかもしれない。
あの子に話を聞けば、佐々木さんがどうしてあの夜、暗い海へ歩いていかなければならなかったのか。
高坂零というバケモノが、今、何を隠して彼女を支配しているのか、そのすべての『真実』がわかるかもしれない。
(……行けよ)
頭の中で、誰かが叫んだ。
行け。
声をかけろ。
これ以上、見ているだけのモブでいるな。
佐々木さんを助け出せるのは、あの日、高坂以外の人間で唯一あの海にいた僕だけじゃないか。
僕は無意識に一歩、車道側へと足を踏み出した。
信号はまだ赤だ。
声を張り上げれば、届く距離。
「あの――っ!」
息を吸い込み、喉を震わせようとした瞬間。
僕の脳裏に、あの夏の夜、波間から佐々木さんを引きずり出した高坂の『無表情な横顔』がフラッシュバックした。
『――っ』
ヒュッ、と喉の奥で息が詰まった。
足が、コンクリートに縫い付けられたように動かない。
もし僕がここで彼女に接触し、あの箱庭の『嘘』を暴こうとしていることが高坂にバレたら?
あの純度百パーセントの異常なバケモノの目が、今度は僕に向けられたら?
(殺される)
理屈じゃない。
生物としての本能が、ガンガンと警鐘を鳴らしていた。
高坂零は、僕のような普通の高校生が手を出していい領域の人間じゃない。
僕がちっぽけな正義感で動けば、間違いなく、僕の平穏な日常ごと粉々にすり潰される。
「…………ぁ」
口から漏れ出たのは、情けないかすれ声だけだった。
目の前を、大きなトラックが轟音を立てて通り過ぎていく。
青に変わった信号。
行き交う人々の波。
視界が開けた時、通りの向こう側にいたはずの港女子の生徒の姿は、すでに人混みに飲まれて消えていた。
「…………ははっ」
僕は、誰もいなくなった駅の入り口を見つめながら、乾いた笑いを漏らした。
強く握りしめすぎた拳から、じわりと汗が滲んでいる。
結局、僕は何もできない。
真実を知るチャンスが目の前にあっても、自分可愛さに震えて、安全なレンズのこちら側から一歩も踏み出せない。
世界で一番醜くて、救いようのない卑怯者だ。
僕は逃げるように踵を返すと、暗くなり始めた夜道を、這うような足取りで家へと急いだ。
背中に、見えない高坂の冷ややかな視線がずっと張り付いているような気がして、何度も何度も後ろを振り返りながら。
***
現実世界では一歩も動けなかったくせに、安全な暗闇に逃げ込んだ途端、僕の指先は滑らかに動き始めた。
自分の部屋のベッドに倒れ込み、息を殺しながらスマートフォンの画面を見つめる。
SNSのアプリを開き、見慣れた本アカウントから、ひっそりと運用している裏垢へと切り替えた。
プロフィール編集画面を開き、迷うことなく設定を書き換えていく。
アイコンは、タイムラインで見つけた適当なカフェのスイーツの画像。
自己紹介文には『高2 / 吹奏楽部 / トランペット担当🎺 / 音楽好きな人と繋がりたい✨』と打ち込む。
自分がオーケストラ部でトランペットを吹いている知識を最大限に悪用した、実在しない「女子高生」の仮面。
現実ではあんなにも高坂の狂気を恐れていたくせに、液晶画面という『安全なレンズ』を一枚隔てた途端、僕は自分でも引くくらい用意周到で、そしてひどく悪趣味な傍観者になれた。
検索窓に『港女子』『吹奏楽』というキーワードを打ち込む。
すると、鍵のついていない公開アカウントがいくつかヒットした。
プロフィールや過去の投稿から、間違いなくあの学校の生徒たちのネットワークだとわかる。
僕はその中のいくつかにフォロー申請を送り、タイムラインを遡り始めた。
『今日の小テスト終わった。マジで死んだ』
『帰りに駅前のスタバ寄ろー』
『次のコンクール、課題曲むずすぎない?』
画面をスクロールするたびに流れてくるのは、どこにでもある他愛のない、ささやかな女子高生たちの日常だ。
僕は、そんな彼女たちの無防備な呟きに、一つずつ『いいね』を押し、時には「そのスタバの新作、私も気になってた!」なんて、絵文字をたっぷり使った空々しいリプライを送って絡みにいく。
少しずつ、少しずつ。
警戒されないように、同世代の、同じ部活で頑張る見知らぬ女子高生として、彼女たちのコミュニティの隙間へと入り込んでいく。
ドクン、ドクンと心臓が嫌な音を立てていた。
僕はいったい、何をしているんだろう。
こんな嘘で塗り固められたアカウントを使って、他人の日常を覗き見して。
その雑談の中から、いつかポロリとこぼれ落ちるかもしれない『贔屓されていた成績トップの生徒』や『先生との関係』……佐々木さんの過去に繋がる、悍ましいゴシップの欠片を待ち伏せしている。
狂っているのは高坂だけじゃない。
安全な場所から他人の絶望を消費しようとしている僕も、大概に気持ち悪くて、救いようのない卑怯者だ。
「……教えてよ。君たちの学校で、去年から今年の夏にかけて、何があったのか」
暗い部屋の中。
スマートフォンの青白い光に顔を照らされながら、僕は女子高生のふりをして、港女子の生徒の他愛のないツイートにまた一つ、愛想のいい返信を書き込んだ。
教室の隅の席でも、移動教室の廊下でも、そして部活の休憩時間でさえも。
僕は暇さえあればスマートフォンを取り出し、画面をぽちぽちとタップするようになった。
『えー! それ本当にヤバいね💦』
『わかる! ウチのパートリーダーもさー、めっちゃ厳しくて泣きそう😭』
自分の指先から滑らかに紡ぎ出される、絵文字たっぷりの『女子高生』の言葉たち。
最初はただ情報収集のための擬態だったはずなのに、いつしか僕は、この架空の少女を演じることに奇妙な陶酔を覚えるようになっていた。
ネットの中の僕は、明るくて、共感力が高くて、誰からも好かれるトランペット吹きの女子高生のアキちゃんだ。
現実の僕のように、高坂というバケモノの完璧さにコンプレックスを抱くこともないし、何もできない自分を卑下する必要もない。
ここでは僕の言葉が素直に受け入れられ、優しいリアクションが返ってくる。
安全な暗闇の中で、僕は『完璧な誰か』になりきっていた。
***
「……木下、最近ずっとスマホ見ているけれど、彼女でもできたのかな?」
部活中、譜面台の陰でこっそり画面をスクロールしていた僕に、チェロを抱えた高坂が爽やかな笑顔で声をかけてきた。
心臓が跳ね上がったが、僕は慌ててスマホを隠し、ヘラヘラと笑ってみせた。
「あ、いや! ちょっとゲームの周回イベントが忙しくてさー」
「そっか。ほどほどにね」
高坂はそれ以上追及してくることはなく、すぐに隣の佐々木さんへと意識を戻した。
危なかった。
もしこの画面を見られでもしたら、僕は終わる。
僕は冷や汗を拭いながら、再びこっそりと画面に視線を落とした。
僕が今やり取りをしているのは、港女子学院の吹奏楽部でユーフォニアムを担当している『ミカ』というアカウントだ。
彼女は気さくで、他校の吹奏楽部員という設定の僕にも親しげに接してくれた。
最近ではすっかり意気投合し、DMで部活の愚痴や他愛のない日常の写真を送り合う仲にまでなっていた。
『今日ね、お母さんの用事でお使い頼まれちゃって最悪ー。でも帰りにスタバ寄れたから許す!✨』
ピコン、とミカからDMが届いた。
添えられていたのは、新作のフラペチーノを写した写真。
僕はそれを見て、『美味しそう! いいなー!』と返信を打ち込もうとして――ふと、写真の背景に写り込んでいる窓の外の景色と、スクールバッグにぶら下がっている深海魚のぬいぐるみキーホルダーに気がつき、指を止めた。
(……あっ)
背筋に、ゾクッと冷たい電流が走った。
窓の外に写っている景色は、うちの学校の最寄りでもある辻浦駅前のロータリーだ。
間違いない。
駅前の交差点で見かけた、あの港女子の生徒の鞄についていたキーホルダーと全く同じだ。
僕は震える指で、女子高生らしいトーンを装ってメッセージを送信した。
『えっ、その写真の背景って辻浦駅前のスタバじゃない!? なんでそんなとこにいるの?笑』
すぐに既読がつき、ミカから返信が飛んでくる。
『え、すご! わかる!? 私、実は辻浦から港女子まで通ってるんだー。うちの学校で神奈川から通ってんの、マジで私くらいなんだけどね。遠すぎる。笑』
ドンピシャだ。
スマートフォンを握る僕の手が、じっとりと嫌な汗をかき始める。
親戚の家に来ていたわけでも、たまたま迷子になっていたわけでもない。
ミカはこの街の住人で、ここからわざわざ都内の港女子まで通っている唯一の生徒だったのだ。
つまり、僕が今ネット上で親友のような顔をしてやり取りをしているこの相手こそ、佐々木さんの過去を知り得る、あの学校の生徒。
高坂が何を隠しているのか、そのパズルの最も重要なピースを握っている人物になるかもしれない。
僕は息を呑み、震える指で画面を見つめた。
『そうなんだ! めっちゃ地元! 奇遇だねー✨』と、当たり障りのない嘘を重ねる。
喉の奥まで出かかっている。
『君の学校から転校した佐々木祐奈について教えて欲しい』
けれど、言えるわけがない。
僕はただの「他校の吹奏楽部の女子高生」なのだ。
そんなピンポイントで核心を突くような質問をすれば、一瞬で不審がられ、せっかく築いた関係が壊れてしまう。
それに、もし僕が高坂の隠している秘密を嗅ぎ回っていることが、何かの拍子で高坂本人の耳に入ったら……。
僕は、彼女という『真実』に指先一つで触れられる距離にいながら、自分が作り上げた女子高生という嘘の仮面に首を絞められ、ただ身動きが取れずにいた。
『そういえばアキちゃんって、もしかして県立辻浦高校だったりする??』
『あ、でもあそこ吹奏楽部ないよね💦 オーケストラだっけ? じゃあ違うかー笑』
ドクン、と。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど、大きく跳ねた。
県立辻浦高校。
僕と高坂、そして佐々木さんが通っている学校の名前。
なんでミカが、突然うちの高校の名前を?
『吹奏楽部がない』という事実で僕のネカマ設定がわずかに揺らいだことよりも、彼女の口からピンポイントでその校名が出たことの恐ろしさに、全身から一気に冷や汗が噴き出した。
僕は震える指を必死にコントロールして、文字を打ち込む。
『ちがうよー!笑 私は隣の市の高校! なんでなんで??』
送信ボタンを押してから既読がつくまでの数秒間が、永遠のように長く感じられた。
やがて、ミカから軽いトーンの返信が返ってくる。
『だよね笑 いや、もし辻浦高校だったら、うちの学校から転校していった子がいるから、ちょっと気になっちゃって』
「…………っ」
暗い部屋の中、スマートフォンの液晶から放たれる青白い光だけが、引きつった僕の顔を照らしていた。
開いた。
僕から無理やりこじ開けたわけじゃない。
向こうから勝手に、あの恐ろしい箱庭の真実へと続く扉を開いてくれたのだ。
このまま、女子高生の無邪気な恋バナや噂話のテンションを装えば、僕はすべてを知ることができる。
高坂零が何を隠し、あの夜の海で何があったのか。
***
『えー! そうなんだ!』
『その子、どんな子だったの?? 気になるー!👀✨』
液晶画面の中では、無邪気で能天気な『アキちゃん』が、黄色い顔の絵文字をちりばめて軽やかに問いかけている。
現実の僕の指先が、恐怖と興奮でガクガクと震えていることなど、画面の向こうの彼女は知る由もない。
僕は暗闇の中で息を殺し、次のメッセージを受信する通知音を、祈るような気持ちで待ち続けた。
数秒後、画面に浮かび上がったミカからの返信は、どこにでもある女子高生の切実な「お悩み相談」だった。
『同じクラスだったんだけどね、ある日突然、学校に来なくなっちゃって』
『この前、ホント偶然駅前で見かけたんだけど、完全に知らんぷりされちゃってさ。なんか、ちょっとショックだったんだよね😢』
その文面を見た瞬間、僕の胸の奥がズキリと嫌な音を立てて痛んだ。
違う。
佐々木さんが無視したんじゃない。
彼女は記憶を失っていて、それに高坂というバケモノに『外の世界の情報を一切遮断する嘘』を刷り込まれている最中だから、本当にミカのことが分からなかっただけだ。
けれど、そんな真実を僕が口にできるはずもない。
僕は暗闇の中で息を詰め、女子高生『アキちゃん』としての完璧な模範解答をフリック入力で打ち込んだ。
『えーっ、それは悲しいね😭 でも、久しぶりだったし、たぶんミカちゃんのこと気づかなかっただけじゃないかな?』
『もし次会えたら、思い切って声かけてみなよ! アキも応援してる! 頑張って!✨』
ポン、と軽い通知音と共に、画面の向こうへメッセージが吸い込まれていく。
送信ボタンから指を離した瞬間、僕は自分の手が氷のように冷たくなっていることに気がついた。
(……僕は、なんて残酷なことをしているんだ)
次会えたら、声かけてみなよ。
絵文字で飾られたその明るい言葉が、どれほど無責任でおぞましい意味を持っているか。
僕は痛いほど理解している。
佐々木さんの隣には、あの高坂零がべったりと張り付いているのだ。
自分の『箱庭』を脅かす存在を、あの感情の抜け落ちた冷たい瞳の男が、そのまま見逃すはずがない。
事情を何も知らないミカが高坂のテリトリーに無邪気に踏み込めば、彼女がどうなるか……あるいは、佐々木さんがどれほど残酷な形で過去を引きずり出されるか。
想像するだけで吐き気がする。
それなのに、僕は安全な液晶画面のこちら側から、何も知らないミカの背中を、地雷原に向かって笑顔でポンと押してしまった。
『ありがとー!😭 次見かけたら絶対声かけてみる! アキちゃん優しくて好きー💕』
すぐに返ってきたミカからの無邪気な感謝の言葉が、鋭い刃物のように僕の胸を抉る。
「……最低だ」
僕はベッドの上に仰向けに倒れ込み、スマートフォンの電源を落とした。
真っ暗になった部屋の中、先ほどまでミカとやり取りをしていた自分の右手が、ひどく汚らわしいものに思えた。
高坂の狂気を責める資格なんて、僕には最初からない。
自分は絶対に傷つかない安全な場所から、他人の人生を覗き見し、無自覚な女の子をバケモノの餌食として差し出そうとしている。
僕は、あの夜の海で足がすくんで動けなかった時よりも、ずっと深く、取り返しのつかない卑怯な泥沼に沈み込んでいた。
***
いつものように部活終わりに、並んで帰路につく高坂と佐々木さんの背中を笑顔で見送った後。
僕は踵を返し、息を切らして駅前へと走った。
向かったのは、駅前のロータリーに面したスターバックスの向かいにある、二階建ての大型書店だ。
階段を駆け上がり、二階の窓際にある雑誌コーナーへ向かう。
適当な雑誌を手に取り、開いたページに視線を落とすふりをしながら、僕は冷たい窓ガラスに張り付くようにして下の横断歩道を見下ろした。
分厚いガラス窓という、絶対的に安全な『レンズ』。
ここからなら、誰にも見つかることなく、眼下を行き交う人々の波を観察できる。
夏、天体望遠鏡のレンズ越しに、安全な場所からあの暗い海を覗き見していた時のように。
(……僕は、狂ってる)
窓ガラスにうっすらと反射した自分の顔は、ひどく血走っていて、薄気味の悪い笑みを浮かべていた。
自分がとんでもなく気持ちの悪い、ストーカー紛いの行為をしている自覚はある。
でも、止められなかった。
あの日、『アキちゃん』としてミカの背中を押してしまってから、僕は暇さえあればこの書店の二階から交差点を監視するようになった。
ミカがいつ、どのタイミングでこの駅前に現れ、そして佐々木祐奈と接触してしまうのか。
高坂の完璧な箱庭が、何も知らない女子高生の不用意な一言で崩壊するその瞬間を、僕は安全な特等席で見届けたかったのだ。
バケモノが破滅する様を、あるいはミカという犠牲者がバケモノの餌食になる様を。
眼下の信号が青に変わる。
わっと押し寄せる人の波の中を、目を皿のようにして探す。
スタバから出てくる客、駅へ向かうサラリーマン、他校の高校生たち。
そして――見つけた。
人混みの中、見覚えのある紺色のブレザー。
指定のスクールバッグで揺れる、深海魚のキーホルダー。
ミカだ。
彼女はイヤホンをして、スマートフォンをいじりながらゆっくりと横断歩道を渡っていく。
おそらく今、画面の向こうの『アキちゃん』宛てにメッセージでも打っているのだろう。
ドクン、と心臓が大きく鳴った。
呼吸が荒くなる。手のひらにじっとりと汗が滲む。
(……追わなきゃ)
頭の奥で、理性が完全に焼き切れる音がした。
僕は手にしていた雑誌を乱暴に棚へ戻すと、逃げるように階段を駆け下りた。
自動ドアを抜け、生ぬるい夕暮れの風の中へ飛び出す。
人混みに紛れながら、数メートル先を歩く彼女の背中を、見失わないように一定の距離を保って後をつける。
高坂の狂気をあんなに恐れ、軽蔑していたはずなのに。
今の僕は、見ず知らずの女子高生をネットで騙し、現実でも尾行している、ただの卑劣なストーカーだ。
自分がどんどん正気を失い、泥沼の底へと沈んでいくのがわかる。
(……どこへ行くんだ、ミカ。佐々木さんに会いに行くのか? それとも――)
前のめりになりそうな足を必死に制御しながら、僕は彼女の背中を、ただ薄暗い瞳で追いかけ続けた。
***
一定の距離を保ちながら、僕はミカの背中を追い続けていた。
駅前の喧騒を抜け、住宅街へと続く少し薄暗い道に入る。
日が落ちて、街灯の冷たい光がポツポツと点灯し始めていた。
人通りが徐々にまばらになっていく中、僕の足音だけが嫌に響いている気がした。
その時だった。
数メートル前を歩いていたミカの足が、不自然にピタリと止まった。
(……えっ)
彼女が、肩越しにスッと後ろを振り返る。
耳からイヤホンを外した彼女の警戒に満ちた視線が、街灯の下で立ち尽くす僕の姿をハッキリと捉えた。
目が合った。
その瞬間、彼女の顔に明らかな『恐怖』が張り付くのがわかった。
(ちが、違う。僕は――)
ただの変質者じゃない。
僕は君と同じ高校生で、君と毎日DMで楽しく話している『アキちゃん』なんだ――なんて、口が裂けても言えるわけがない。
僕が一歩、弁解しようと足を踏み出した瞬間。
ミカは弾かれたようにバッと前を向き、鞄を抱え込むようにして走り出した。
「あ、待っ――!」
思わず声を上げてしまったのが致命的だった。
完全に『不審者に追跡されている』と確信したミカは、悲鳴すら上げずに全速力で逃げていく。
スクールバッグについた深海魚のキーホルダーが、千切れそうなほど激しく上下に揺れていた。
待ってくれ。
ここで逃げられたら、僕がただの変態ストーカーとして終わる。
違うんだ、僕はただ君から佐々木さんの過去について、高坂の嘘を暴くための――!
焦りと自己保身で頭が真っ白になった僕は、気づけば自分でも信じられないほど必死に、彼女の背中を追って走り出していた。
「待って、違うんだ! 話を――!」
ドンッ、と。
つま先が、アスファルトのわずかな段差に深く引っかかった。
「……え」
次の瞬間、視界がぐるんと反転した。
前に投げ出された身体を支えようと咄嗟に手を伸ばしたが、間に合わない。
硬く冷たい地面が、容赦なく顔面に向かって迫ってくる。
ガシャッ!!
鈍い音とともに、両膝と手のひらに焼けるような鋭い痛みが走った。
制服のズボンが破れ、摩擦で皮膚が削り取られる感触。
「……っ、ぐ……ぁ……ッ」
無様にうつ伏せに転倒し、肺から空気が強制的に押し出された。
擦りむいた手のひらから、ジンジンと血の滲む熱い痛みが脈打つ。
口の中には、ホコリと鉄の味が広がっていた。
痛みに顔を歪めながら、這いつくばったまま顔を上げる。
薄暗い道の奥には、もう彼女の背中も、揺れる深海魚のキーホルダーもなかった。
完全に撒かれた。
「…………あはは」
誰もいなくなった住宅街の路上。
コンクリートに這いつくばり、すりむいて血の滲んだ手を震わせながら、僕は乾いた笑い声を漏らした。
なんだこれ。
何やってるんだ、僕は。
高坂のような純度の高いバケモノの真似事でもしようとしたのか?
結果がこれだ。
ただ見ず知らずの女子高生を怯えさせ、逃げられ、自分は無様に地面に這いつくばって。
正義の味方でも、真実を暴く探偵でもない。
ただの、気持ち悪くて惨めなストーカー。
安全なレンズのこちら側から一歩でも外に出ようとした途端、僕は自分がどれほど無力でちっぽけな凡人であるかを、骨の髄まで思い知らされることになったのだった。
***
家に帰り、ズキズキと痛む両手と膝を洗面所で洗い流しながら、僕は鏡に映る自分の顔を嘲笑った。
情けない。
本当に、救いようがない。
現実に飛び出して見ず知らずの女子高生を追い回し、挙句の果てに自爆。
そんな無様な真似をした時点で、ネットの中で愛想よく振る舞う『アキちゃん』という仮面は、もう完全にひび割れてしまった。
ベッドに転がり、僕はスマートフォンを開いた。
もう限界だ。このおままごとのようなネカマアカウントは廃業しよう。
代わりに、もっと深く、直接的に港女子の闇に食い込める新しい餌を作るために。
SNSの新規登録画面を開き、僕は震える指でプロフィールを打ち込み始めた。
『記憶喪失』『女子高生』『自分の過去を知っている人を探しています』――。
佐々木さんの現状をそのままトレースしたような、悪趣味極まりない設定の裏垢。
この『記憶を失った港女子の元生徒』という架空の怪物をネットの海に放流すれば、ミカをはじめとするあの学校の連中は、必ず何らかのアクションを起こすはずだ。
誰だって、他人の秘密を暴きたくなるものだろう?
自分の底知れない気持ち悪さに冷や汗を流しながら、アイコンの設定に指を伸ばした、その時だった。
ピコン、と。
画面上部に、通知のポップアップが降りてきた。
消そうとしていた『アキちゃん』のアカウント宛てだ。
送り主は、ミカ。
『アキちゃん聞いて😭 さっきマジで超キモイことあったんだけど……』
僕はピタリと指を止め、血の滲んだ絆創膏だらけの手で、その通知をタップした。
『駅前で知らない男にずっとつけられてて、走って逃げたんだけど、アイツ途中で勝手に派手に転んでて💦 ホントに怖かったしキモすぎた……』
『もしアキちゃんもこっちの方来る時あったら、マジで気をつけてね! ほんと最悪だったー😭』
「…………っ」
暗い部屋の中。
青白い液晶の光に照らされた僕の口から、ヒュッと短い息が漏れた。
ドクン、ドクンと、心臓が先ほどまでの尾行中とは全く違う、異様なリズムで跳ね始める。
僕のストーカー行為の被害者が、他ならぬ加害者である僕自身に泣きついてきている。
ミカは画面の向こうで、自分に親身になってくれている『アキちゃん』が、さっき自分を追い回して地面に這いつくばっていた不気味な男と同一人物だなんて、微塵も疑っていないのだ。
この圧倒的なグロテスクさと、彼女を完全に手玉に取っているという歪な優越感。
吐き気と一緒に、ドロドロとした暗い愉悦が込み上げてくるのを止められなかった。
僕は作成中だった『記憶喪失の女子高生』のアカウント画面をそっと閉じ、再び『アキちゃん』の仮面を顔に深く貼り直した。
そして、傷だらけの指で、流れるようにフリック入力を始める。
『えー! 大丈夫!? 無事でよかった😭 その男マジでキモすぎるね!!』
『ほんと気をつけて! もし何かあったらすぐ警察呼ぶんだよ💦』
ポン、と。
息を吐くように、完璧な善人の嘘を打ち込む。
高坂のような美しくて完璧なバケモノにはなれなくても、僕には僕の、最悪の戦い方がある。
僕は暗闇の中で薄気味悪く口角を上げながら、ミカからの返信を待った。



