目を覚ましたとき、視界はひどく眩しかった。
鼻をつく消毒液の匂い。
規則的な電子音。
ひんやりとしたシーツの感触。
自分がどこにいるのかは、すぐに理解できた。
ここは病院だ。
けれど、自分が『誰』なのかが、まったくわからなかった。
頭の中に広がるのは、新雪が降り積もったような圧倒的な空白。
名前、年齢、好きな食べ物、昨日までどんな景色を見ていたのか。
過去に繋がるはずの糸が、根元からすっぱりと断ち切られている。
思い出そうとすると、酷い頭痛と吐き気が襲ってきた。
「……あ……」
ひび割れた唇から掠れた声を出した瞬間、ベッドの横で弾かれたように顔を上げた人がいた。
「気がついたか……! おい、先生を! 早く!」
スーツ姿の初老の男性だった。
血走った目に、深い隈。彼は私の手を両手で包み込み、まるで壊れ物に触れるように、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
「よかった……本当によかった。お前が目覚めなかったら、お父さんはどうやって生きていけばいいか……」
お父さん。
その響きに、胸の奥でチクリと痛むものがあったけれど、それが何なのかはわからない。
ただ、彼の私を見る目は、常軌を逸するほどの安堵と、愛情に満ちていた。
やがて病室には、お母さんとお兄ちゃんだという二人が駆け込んできた。
彼らも私の無事を知って泣いてくれた。
私は交通事故にあって、ガードレールを突き破った車ごと海に転落したショックで、過去の記憶を失ってしまったらしい。
「無理に思い出さなくていいのよ。あなたは私たちの、大切な娘なんだから」
お母さんは優しく私の頭を撫でてくれた。
温かくて、甘い匂いがした。
私にはこんないい家族がいるのだと、空っぽの胸に温かいお湯が注ぎ込まれていくような心地がした。
ただ、お母さんの笑顔の奥に、ほんのわずかな疲労の色を見た気がしたけれど、記憶のない私にはそれを測る術はなかった。
「彼も、君が目覚めるまでずっと待っていたんだ」
お父さんが少しだけ険しい顔をして、病室の外にいた『誰か』を呼び入れた。
ゆっくりと開いたドアから入ってきたのは、私と同じくらいの年齢の、背の高い男の子だった。
制服姿の彼は、息を呑むほど端正な顔立ちをしていた。
伏せられた長い睫毛、透き通るような黒い瞳。
彼が病室に入ってきた瞬間、部屋の空気がふわりと変わった気がした。
彼はベッドのそばまで来ると、私の家族に対して、深く一礼をした。
顔を上げたその一瞬、お父さんと彼の間で視線が交差した。
その時の彼の横顔には、温度というものが一切無かった。
まるで鋭い刃物のように冷たく、私の家族を値踏みするような、なんというか違和感を覚えた。
けれど、彼が私に向き直った瞬間。
「……よかった、気が付いて」
その顔には、まるで春の陽だまりのような、甘く優しい笑みが咲いていた。
先ほどまでの氷のような冷酷さが嘘のように、ひたすらに私を慈しむような瞳。
彼はそっと手を伸ばし、私の頬にかかる髪を指先ですくった。
その手は微かに震えていて、私を愛おしくてたまらない宝物のように……もしくは信仰の対象のように見つめてくる。
「俺のこと、わかる? 祐奈」
首を横に振る。
申し訳なさで胸が痛んだ。
彼は少しだけ悲しそうに目を伏せた後、すぐにまた、私を安心させるように微笑んだ。
「そっか。……俺はね、君の彼氏なんだ。高坂零」
彼氏。
その言葉に、私は戸惑った。こんなにかっこよくて、優しそうな人が、私の彼氏?
「無理に思い出さなくていい。俺が全部、一から教えてあげる。君が何を取りこぼしても、俺が必ず拾ってあげるから」
彼の手が、私の手をそっと握る。
「海に落ちた君を、俺が助けたんだ。……もう絶対に、君の手を離さない。誰が何と言おうと、俺が君を守るから」
その言葉は、まるで何かに抗う誓いのようだった。私に向けられた、純度が高すぎて息苦しくなるほどの愛情。
私は何も持っていない。
記憶も、自分という輪郭すらも。
だからこそ、目の前の彼らが与えてくれるこの『温かくて完璧な世界』にすがりつくしかなかった。
「えっと、ありがとう。助けてくれて。それから、ごめんなさい、思い出せなくて。零、くん?」
私がそう呟いて微笑み返すと、彼の瞳の奥で、何かがひどく痛ましげに揺れたような気がした。
けれどそれは一瞬のことで、彼はすぐにまた、完璧な彼氏の顔に戻って私の髪を撫でた。
これが、私の新しい人生の始まりだった。
誰も私を傷つけない。
誰も私を悲しませない。
私を害するすべてを排除するために作られた、温室のような優しい天国。
この完璧な幸福が、私の命を繋ぎ止めるためだけに彼らが織り上げた、血の滲むような嘘の箱庭だとは、記憶のない私には知る由もなかった。
***
退院して帰った部屋は、どことなく余所余所しい。
なんせ過去十七年分の記憶がすっぽり抜けうちているのだから、仕方がない事なのかもしれないけれど。
壁は薄い桃色。
ひとつある出窓に向かって白いデスクとチェア。
ふかふかクッションのミニソファ。
未だ折りたたみ跡が残っているベッドカバー。
クローゼットの中は、半分スカスカ。
――なんか、流行りのミニマリストみたいな部屋。
自室のベッドに座り込んで、思ったのは、そんな言葉だった。
教科書は本棚に綺麗に並べられているし、学校指定かばんらしきものも、その脇にぽつんと置かれてある。
中身を見ると空っぽだった。
スマホも無い。
パソコンも無い。
記憶は無いのに、不思議と当たり前のことは覚えている。
朝起きて、学校に行って、部活動に参加して、帰宅して、宿題して、ご飯食べて、お風呂入って、寝て。
みたいな感じに。
時間の概念とか、季節の概念とか、そういうのも覚えている。
ただ、自分が今まで何をしていて何を感じていたのか。
そういうものがすっぽりと欠落している。
物凄く不思議な感覚。
枕元に置いてある、零くんが退院祝いにくれた、手のひらサイズのテディベアを小突いて、私は少しだけ身を起こした。
窓の向こうは、夏の穏やかな海が見える。
ヨットサーフィンの帆影が、遠くの波間に浮かんでいて、ミニチュアの光景みたいに見えた。
階下では、お母さんとお兄ちゃんが何かを言い争っている声が、聞こえてきて気まずい。
私の退院に付き添ったお父さんは、物凄く心配そうな顔をしていたけれど、どうしても会社に戻らなければいけないと言って、家まで送り届けてくれた後、出社していった。
頭の奥ではもう、ずっと海鳴りの音が聞こえている。
トイレにもちょっと行きたくなってきたし、降りても大丈夫かな。
自分の家で、気を遣うっていうのも変だけど。
この家で、家族と暮らしていたという実感が、持てていないのも事実だった。
***
思い切ってベッドから立ち上がり、そっと部屋のドアを開ける。
廊下は静まり返っていたけれど、階段に近づくにつれて、一階から漏れ聞こえてくる声がはっきりと輪郭を持ち始めた。
「――だから言ったじゃない! あの人がいない時くらい、少しは息を抜かせてよ!」
「母さん、声大きいって。二階に聞こえるだろ」
「いいわよもう。どうせあの子は頭を打って、何も分かってないんだから。いつまでこんな生活……」
足が止まる。
ヒステリックに声を荒らげるお母さんと、それを苛立たしげに宥めるお兄ちゃんの声。
病院で私を抱きしめて、「大切な娘」だと泣いてくれたあの温もりとは、まるで別人のような冷たい響きだった。
胸の奥がざわざわと波立つ。
やっぱり、今の私はこの家族にとって「異物」なのだろうか。
記憶を失って、何もできない厄介者。
気まずさに耐えきれず、階段を数段戻ろうとした、その時だった。
『ルルルルルルッ!!』
リビングの方から、けたたましい着信音が鳴り響いた。
固定電話の音だ。
ピタリと、二人の言い争う声が止んだ。
「早く出ろよ」と急かすお兄ちゃんの声に押されるように、受話器を持ち上げる音が聞こえる。
「……はい。……え?」
階段の途中で息を潜めている私には、電話越しの相手が何を言っているのかは聞こえない。
けれど、お母さんの声色から、一瞬にして感情が抜け落ちていくのがわかった。
「……ちが、違います、これは……はい。ごめんなさい。……二度と、はい。必ず」
先ほどまでの苛立ちが完全に消え失せ、まるで機械のように平坦で、怯えきった声。
カチャリ、と受話器が置かれる音が、静まり返った家の中に不気味に響き渡った。
何があったのかはわからない。
でも、これ以上立ち聞きしているのを悟られたら不味い気がして、私はわざとスリッパの音を立てながら、階段を降りてリビングの扉を開けた。
「あの……」
反射的に振り返った二人の顔には、つい数秒前まで殺伐とした空気を漂わせていたことなど微塵も感じさせない、ひきつるほどに温かい笑顔が張り付いている。
「あら、祐奈。起きたのね。体調はどう?」
「あーよく眠れたか? 腹減ってるだろ、今母さんが夕飯作ってるとこ」
「う、うん。ちょっとお手洗いに……」
「そう。なら、顔を洗ってきなさい。あなたの好きなハンバーグ、もうすぐ焼けるからね」
お母さんは優しく微笑んで、キッチンへ戻っていく。
私は「うん」と頷きながら、背筋に緊張が走るのを感じていた。
優しい家族。
温かい食卓。
それなのに、なぜこんなに息が詰まるのだろう。
トイレから戻ると、テーブルの上には四人分の食事が並べられている。
お茶碗はまだ伏せられていて、お母さんがコンロに向かって、鍋の中をかき混ぜている。
お兄ちゃんはスマホに視線を落としながら、時折つけっぱなしのテレビから流れるニュースにツッコミを入れている。
「明日も暑くなるぜー。予想最高気温39度だって。完全にインフルエンザじゃん」
「昨日みたいに、夕立が来るといいんだけど」
お椀を運んできたお母さんが、独り言のように呟く。
私は、食卓の上にある箸の色から検討をつけて、席を引くと座った。
何を話せばいいのかわからない。
ハンバーグ、ケチャップ、にんじんのグラッセ、ブロッコリー、トマトのサラダ、お味噌汁、炊き立てのごはん。
昨晩病院で食べた夕飯とは比べ物にならないくらい、豪華で温かそう。
お腹は、正直まだ空いていない。
お母さんがちらりとウォールクロックを見上げる。
時刻は間もなく、午後8時。
玄関の方で、ガチャリと重たい扉が開く音がした。
「あ、お父さん帰ってきたみたい」
お母さんが弾かれたように顔を上げ、お兄ちゃんもスマホをポケットに突っ込んで姿勢を正した。
二人の動きは、まるで軍隊の号令でもかかったかのように素早い。
「ただいま」
スーツの上着を小脇に抱え、ネクタイを少し緩めたお父さんがリビングに入ってくる。
疲労の滲む顔は、食卓に座る私を見た瞬間、パッと明るく綻んだ。
「祐奈、起きてたのか。体の具合はどうだ? どこか痛むところはないか?」
「ううん、大丈夫。お父さん、おかえりなさい」
「ああ、ただいま。祐奈の顔を見たら、一日の疲れも吹き飛んだよ」
大げさなほどに目を細めて笑うお父さんは、私の頭を優しく撫でた。
その手は大きくて温かいはずなのに、なぜかビクッと肩がすくみそうになるのを、私は必死に堪えた。
「さあ、冷めないうちにいただきましょう。あなた、お疲れ様」
お母さんが甲高い、少し上ずった声で言いながら、お父さんの前にお茶碗を置く。
「ああ、ありがとう。みんな揃って夕飯なんて、久しぶりだな」
四人で囲む食卓。
「いただきます」と声が揃う。
私はお箸でハンバーグを小さく切り分け、口に運んだ。
肉汁が溢れて、甘辛いソースの味が広がる。
とても美味しいはずなのに、舌の上が麻痺しているみたいに、味が遠い。
「祐奈、母さんのハンバーグ、好きだっただろう? たくさん食べなさい」
「……うん。美味しい」
「そうかそうか。よかったな、母さん」
お父さんがニコリとお母さんへ視線を向ける。
「ええ……本当に。祐奈がたくさん食べてくれて、嬉しいわ」
お母さんはにこにこと笑っていた。
「やっぱり、家族は仲良く笑い合っているのが一番だ。そうだろう?」
お父さんはお味噌汁を一口啜り、ゆっくりと、念を押すように言った。
「誰かが不満を漏らしたり、勝手なことをして空気を悪くしたりする家には……祐奈もいたくないもんな」
その言葉が落ちた瞬間、リビングの空気が凍りついた気がした。
お兄ちゃんが、息を呑む。
お母さんは俯き、血の気の引いた顔で「……ええ、そうね」と蚊の鳴くような声で絞り出した。
私には、お父さんが言っているのはただの『一般的な家族の理想』にしか聞こえない。
なのに、二人の反応は、まるで死刑宣告を受けた罪人のようだった。
「どうした、祐奈? 手が止まってるぞ」
不意に名前を呼ばれ、私はビクッと肩を揺らした。
見上げると、お父さんが不思議そうな、瞳で私を見つめていた。
「……ううん、なんでもない。ちょっと、まだお腹が空いてなくて」
「そうか。無理はしなくていい。でも、栄養はしっかり摂らないとな。明日は、零くんも顔を見せに来てくれるそうだから」
零くん。
その名前を聞いた瞬間、お父さんの口角がほんの少しだけ、満足げに上がった気がした。
温かくて、豪華な夕食。
テレビから流れるバラエティ番組の笑い声。
優しく私を見守る父親と、黙々と食事を進める母と兄。
完璧な家族の風景の中で、まるで、真綿で首を絞められているような息苦しさ。
***
「この傷、交通事故のかな」
久しぶりに湯船につかって、手足を伸ばしていると、身体の色んな所に痣が出来ているのがわかった。
背中、首の後ろ、二の腕、脛。
私は、お湯の中で自分の肌をそっと撫でてみた。
紫や赤黒く変色しているものもあれば、すでに黄色っぽく薄れて治りかけのものもある。
海に落ちた時、テトラポッドか何かに激しくぶつかったのだろうか。
それにしては、痣の形が妙に均等というか。
けれど、交通事故の傷なんて今まで見たことがないから、きっとこんなものなのだろう。
車とぶつかって海に投げ出されたのだから、全身が痣だらけになっていても不思議ではない。
むしろ、骨が折れていないだけ運が良かったと、病院の先生も言っていた気がする。
「痛っ……」
二の腕にある濃い痣を指で押すと、鈍い痛みが走った。
シャワーからお湯をすくい、そっと肩からかけると、じわじわと温かさが染み込んでいく。
痛みがあるということは、私が生きている証拠だ。
記憶が空っぽになってしまっても、身体はちゃんと、あの日の衝撃を覚えている。
ただ、不思議なのは、これだけひどい怪我をしているのに、心の中には「怖い」という感情があまり湧いてこないことだった。
普通なら、事故のことや暗い海を思い出すだけでトラウマになって震えそうなものなのに。
あるのはただ、頭の奥でずっと鳴り続けている海鳴りの音と、果てしなく続くような虚無感だけ。
ふと、お父さんが言っていた言葉を思い出した。
『明日は、零くんも顔を見せに来てくれるそうだから』
私の彼氏だという、あの男の子。
息を呑むほど綺麗な顔立ちで、どこかひどく切なそうな瞳で私を見ていた人。
彼が退院祝いにくれたテディベアは、今も私の部屋のベッドの上で、ちょこんと座っているはずだ。
彼なら、この空っぽな私に、何かを埋めてくれるのだろうか。
湯船から立ち上がると、脱衣所の鏡に映った自分の身体が、まるでツギハギだらけの不格好な人形のように見えた。
***
翌日。
約束通り、零くんが家にやってきた。
「お邪魔します」と丁寧な挨拶をしてリビングに上がってきた彼は、白いシャツに細身の黒いパンツという、どこか涼しげで洗練された格好をしていた。
新学期に向けた準備と、少しばかりの受験対策。
高校二年生の夏。
まだ本格的な受験シーズンではないけれど、少しずつ意識し始めなければいけない時期だと、彼が教えてくれた。
ダイニングテーブルに広げた、数学2のテキスト。
私はシャーペンを握り、おそるおそる問題に向き合っていたけれど――不思議なことに、スラスラと手が動いた。
数式を見ると、頭で考えるより先に、解法がパズルを組み立てるように浮かんできた。
「すごい。祐奈、三角関数の大問、ぜんぶ正解だよ」
横から覗き込んだ零くんが、目を丸くして微笑む。
「私、数学得意だったのかな……自分でもびっくりしてる」
「きっとそうだよ。頭の回転が速いのは、祐奈の長所だね。俺も教えがいがある」
彼はそう言って、私の頭を優しくポンポンと撫でた。甘い香水のような、清潔な石鹸のような香りがふわりと漂う。
休憩がてら、彼から学校生活の話を聞いた。
校舎の造り、お昼休みの購買の混み具合、それから零くんの部活――オーケストラ部のこと。
公立高校でオーケストラ部がある学校なんて、珍しい。
なんでも前任の校長先生が、元音楽教師で、新しく創設された部活動らしい。
「祐奈がうちの学校に編入するの、本当に嬉しいんだ。ずっと一緒にいられるから」
彼の黒い瞳は、まるで私という存在をそのまま閉じ込めてしまいたいかのように、深く、熱を帯びていた。
私、転校するの?
初耳なんだけど……。
「え、あれ? 違う学校だった?」
「うん、通学路はかぶっているからね、港女子学院とは。はじめて出会ったのは去年の春ごろだよ」
「あ、私覚えてない……ごめん」
「大丈夫。そのうち、思い出すから。思い出せなくても、俺は変わらず隣にいるし」
彼の声はどこまでも甘く、優しいけれど、私の進路やこれからの生活が、私の知らないところで勝手に決定されていることに、ほんの少しだけ足元が揺らぐような不安を覚えた。
「午後から、駅前の書店に行こうか。参考書と、新しいノートも買いたいし」
「うん!……あ、でも私、道がまだよくわからなくて」
「俺が案内するよ。二人で、ゆっくり行こう」
それは紛れもなく、退院して初めての『デート』のお誘いだった。
胸の奥が少しだけ、とくんと跳ねた。
「おや、二人でお出かけかい?」
私たちが身支度をして玄関に向かうと、廊下の奥からお父さんがひょっこりと顔を出した。
今日は日曜日で、お父さんは仕事がお休みだ。
「はい。駅前の書店まで、祐奈さんの参考書を買いに行こうかと」
零くんが振り返り、非の打ち所のない礼儀正しい笑顔でお父さんに答える。
「そうかそうか。感心だな」
お父さんはニコニコと笑いながら、ポケットから車のキーを取り出して指で弄った。
「外は猛暑だ。歩いて行ったら倒れてしまうよ。駅まで車で送っていこう」
「えっ……でも、悪いよ。すぐそこだし」
私が遠慮してそう言うと、お父さんは少しだけ目を細め、有無を言わせないような低いトーンで告げた。
「いいや、送るよ。祐奈はまだ病み上がりなんだから。何かあってからでは遅いだろう?」
それは、心配を装った『決定』だった。
隣に立つ零くんをちらりと見上げると、彼は「ありがとうございます」と完璧な笑顔で頭を下げていた。
けれど、その黒い瞳の奥が一瞬だけ、まるで鋭い刃物のように冷たく濁ったのを私は見逃さなかった。
お父さんと零くん。
二人の間に、目に見えない火花のような、張り詰めた空気が漂った気がした。
結局、お父さんの運転する車で、三人で駅前の書店に向かうことになった。
後部座席で零くんと並んで座りながら、私は窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめる。
(……高校生のデートに、親が送迎についてくるのって、普通なのかな?)
記憶のない私には、世間の『普通』がよくわからない。
でも、バックミラー越しにチラチラとこちらを監視するようなお父さんの視線を感じるたび、なんとも言えない窮屈さを覚えた。
過保護すぎる家族と、完璧すぎる彼氏。
私の世界は、どこまでも優しくて、どうしようもなく息苦しい。
***
九月。
まだ茹だるような暑さが残る、新学期の始まり。
「今日からこのクラスの仲間になる、佐々木祐奈さんだ。みんな、仲良くするように」
担任の先生の言葉に促され、私は黒板に『佐々木祐奈』と自分の名前を書いた。
チョークが黒板を叩くコツコツという音が、やけに耳に響く。
振り返ると、三十人あまりの生徒たちの視線が一斉に私に注がれていた。好奇心と、歓迎の入り混じった温かい空気。
「佐々木祐奈です。……その、港女子学院から転校してきました。よろしくお願いします」
当たり障りのない挨拶をして頭を下げると、わぁっと大きな拍手が湧き起こった。
「女子校出身だって!」「めっちゃ可愛いじゃん」「席どこになるかな」なんていうひそひそ声が聞こえてくる。
私はその光景を、まるで透明なガラスの向こう側から眺めているような気分だった。
皆が歓迎してくれている『佐々木祐奈』は、私であって、私ではない。
過去を失い、昨日までの自分がどんな声で笑い、どんな風に人と接していたのかも分からない私にとって、この教室の温かさはひどく他人事のように感じられた。
彼らが思い描く『普通の転校生』という役を、うまく演じ切れるだろうか。
ふと、教室の窓に目を向ける。
零くんは残念ながら、このクラスにはいなかった。
彼は理系コースの二組で、私は文系コースの五組。
今朝、下駄箱で別れる時、彼は「教室が離れちゃったのはすごく残念だけど、休み時間には必ず会いに行くからね」と、少しだけ庇護欲を滲ませた甘い笑顔で言っていた。
彼がいないことへの心細さと、常に監視されているようなあの息苦しさから少しだけ解放されたような、名状しがたい安堵感。
それが入り混じって、胸の中がちぐはぐになっている。
「じゃあ、佐々木はあそこ……木下の隣の空席に座ってくれ」
先生に指し示されたのは、窓側から二列目、後ろから二番目の席だった。
「はーい」
気の抜けたような返事をして、私の隣の席になる男子生徒――木下くんが、軽く手を挙げた。
少し寝癖のついた髪に、どこにでもいる普通の男子高校生といった風貌。
彼もまた、他の生徒たちと同じように、珍しい転校生を見るような無邪気な目で私を見ていた。
「よろしく、佐々木さん。僕、木下秋良」
「あ……うん。よろしく、木下くん」
彼が気さくに笑いかけてくれたおかげで、私の張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けた。
ごく普通の、平和な教室の風景。
嘘と秘密ですらなく、ただの無知。
お互いが何者であるかを知らないまま、私たちはごく自然に、隣の席のクラスメイトとして初めての言葉を交わした。
***
キーンコーンカーンコーン。
一時間目の終わりのチャイムが鳴り響く。
先生が教室を出ていくのとほぼ同時に、クラスの何人かの女子たちが「ねえねえ、佐々木さん!」と興味津々な顔で私の席に集まってこようとした。
私も、うまく笑えるように表情筋を少しだけ引き締める。
けれど――それよりほんの一瞬早く。
「祐奈」
教室の入り口から、涼やかな声が響いた。
振り返ると、そこには人好きのする爽やかな笑顔を浮かべた零くんが立っていた。
彼が姿を見せた瞬間、教室の空気がパッと華やぐ。
廊下を通りかかった他クラスの生徒たちまでが、ちらちらと彼を見ている。
「あれ、高坂くんじゃん」
「佐々木さんと知り合いなの?」
私の席の周りに集まりかけていた女子たちが、目を丸くして尋ねた。
「うん。俺の彼女なんだ。今日からよろしくね」
零くんは私の隣に歩み寄ると、さらりと、まるで「今日はいい天気だね」とでも言うように言い放った。
その瞬間、教室中が「えーっ!?」「初耳なんだけど!」「めちゃくちゃ美男美女、似合うー!」と大きなどよめきと歓声に包まれる。
当の零くんは照れたように笑っていて、完全にクラスの好意的な空気を掌握していた。
みんなから向けられる羨望と祝福の眼差し。
私は居心地の悪さを誤魔化すように、曖昧に微笑むことしかできない。
「あ、木下。祐奈の隣の席だったんだな」
ふと、零くんの視線が私の隣――木下くんに向けられた。
「お、高坂。お前、彼女いたのかよ。言ってくれればよかったのに」
木下くんが、少し驚いたように笑い返す。
二人は気心の知れた間柄のようだ。
「言うタイミングがなくてさ。……そうだ、木下。今日、放課後部活あるだろ?」
「ん? ああ」
「祐奈もオーケストラ部に興味あるって言ってたから、放課後、見学においでよ」
零くんが私に向かって優しく微笑みかける。
(……え?)
私がオーケストラ部に興味があるなんて、一言も言っていない。
でも、彼のその完璧な笑顔と、この教室の熱を帯びた空気を前にして「そんなこと言ってない」と否定することは到底できなかった。
「ただごめん、俺どうしても抜け出せない生徒会の会議があってさ。少し遅れて行くから……木下、悪いんだけど放課後、祐奈を部室まで連れて行ってくれないかな?」
「僕が? まあ、別にいいけど」
「助かるよ。大切な彼女だから、ちゃんとエスコートしてやってね」
冗談めかして笑う零くんの言葉に、木下くんは「はいはい、過保護な彼氏だな」と苦笑いしながら頷いた。
爽やかな人気者の彼氏。
気さくなクラスメイト。
まるで青春映画のワンシーンのように完璧で、眩しい光景。
それなのに、零くんが「大切な彼女」と言いながら木下くんを見た一瞬、その黒い瞳の奥がひどく冷ややかに透き通って見えたのは、私の気のせいだったのだろうか。
***
放課後の校舎は、あちこちから運動部の掛け声や吹奏楽の音出しが聞こえてきて、ひどく賑やかだった。
「佐々木さん、こっち。音楽室は特別棟の三階だから」
私の少し前を歩く木下くんが、階段を上りながら振り返る。
「ありがとう、木下くん。……ごめんね、案内させちゃって」
「全然いいって。高坂に頼まれちゃ断れないしな」
木下くんはカバンを肩に掛け直し、少しおどけたように笑った。
「高坂ってさ、なんつーか完璧超人って感じじゃん? 成績もトップだし、チェロ弾いてる姿なんかプロみたいだし。女子からすげーモテるのに全然浮いた話なかったからさ。あいつに彼女がいるって聞いて、僕もびっくりしたよ」
「……零くんって、学校ではそんな感じなんだ」
「うん。誰にでも優しいけど、どこか隙がないっていうか。でも、佐々木さんを見てる時のあいつ、すっげー普通の男子高校生って顔してた。本当に大事にしてるんだな」
裏表のない、真っ直ぐな言葉。
木下くんから見た零くんは、間違いなく『優しくて完璧な彼氏』なのだ。
過保護すぎるくらいのあの言動も、彼らにとっては「彼女を大事にしている証拠」にしか見えない。
私の中にある、あの真綿で首を絞められるような息苦しさを、木下くんに説明してもきっと分かってもらえないだろう。
特別棟の三階に近づくにつれて、様々な楽器の音が入り混じった、厚みのある響きが聞こえてきた。
バイオリンの甲高い音、トロンボーンの低い唸り、フルートの軽やかなスケール練習。
「うちの学校、公立のくせにフルオーケストラなんだぜ。前任の校長がめちゃくちゃ音楽好きでさ、楽器も結構揃えてくれてて」
木下くんが誇らしげに教えてくれる。
けれど、その重厚な音の重なりに近づくほど、なぜか私の胸の奥がざわざわと波立った。
――私、楽器なんて弾けるんだろうか。
記憶を失う前の私は、何か楽器をやっていたのだろうか。
両手を見つめ、指先を小さく動かしてみるけれど、何も思い浮かばない。
何も思い出せない。
それなのに、聴き慣れないはずのオーケストラのチューニングの音が、私の頭の奥にこびりついた『暗い海鳴り』の音と混ざり合って、不思議な焦燥感を煽ってくる。
「あの……木下くん」
「ん?」
「私、オーケストラ部を見学するって言っちゃったけど……楽器なんて、弾けないと思う。楽譜の読み方も、たぶん分からないし」
立ち止まって俯いた私に、木下くんはカラッとした笑顔を向けた。
「大丈夫だって! みんな最初はそんなもん。うちの部、高校から楽器始めたっていう初心者がばっかりだからさ」
「……本当に?」
「本当本当。僕だって、本格的にトランペット触ったの高校入ってからだし。高坂みたいに昔からやってる奴の方が珍しいくらいだよ。先輩たちも優しいし、絶対に楽しいって」
その明るい声は、私の足元に広がる得体の知れない不安を、あっけなく吹き飛ばしてくれた。
零くんの甘く重い声とも、お父さんの威圧的な声とも違う。
ただの同級生としての、気負いのない優しい励まし。
「……そっか。ありがとう、木下くん」
私が小さく笑い返すと、木下くんは「おう!」と照れくさそうに笑って、音楽室の重たい防音扉に手を掛けた。
扉を開けると、わっと音の波が押し寄せてくる。
放課後の音楽室は、オーケストラ部の熱気と様々な楽器の音色で満ちていた。
弦楽器の柔らかなチューニング音、金管楽器の華やかなファンファーレ、木管楽器の軽やかなスケール。
「おーい、木下! そっちの子、高坂が言ってた佐々木ちゃん?」
私たちが中に入ると、バイオリンを持った快活そうな先輩がパタパタと駆け寄ってきた。
「あ、はい。高坂、生徒会でちょっと遅れるらしくて」
「オッケー! 佐々木ちゃん、いらっしゃい。俺はバイオリンのパートリーダーやってる二年の吉田。よろしく!」
爽やかな笑顔で迎えられ、私は少し戸惑いながら頭を下げた。
周りにいた他のパートリーダーたちも「転校生だ!」「可愛いー!」と気さくに集まってくる。
誰もが明るくて、青春そのものといった眩しい空間。
「佐々木ちゃん、楽器は初めて? とりあえず色々触ってみなよ。まずはオーケストラの華、バイオリンなんてどう?」
吉田君はニコニコしながら、自分の持っていたバイオリンと弓を私に差し出した。
「えっ、でも、私……」
「大丈夫大丈夫! 案外すぐ音鳴るから。ほら、ここに顎を乗せて」
促されるまま、私は恐る恐るその楽器を受け取った。
木と、松脂の匂い。
左手でネックを握り、右手に弓を持った瞬間――奇妙な感覚に襲われた。
頭では「持ち方がわからない」と思っているのに、私の身体はまるで精巧な機械のように、寸分の狂いもなく正しいフォームを作っていた。
指先が勝手に弦を押さえ、右手が滑らかに弓を動かす。
キィィィン……、いや。
『ふわり』と、教室の喧騒を切り裂くような、澄んでいて芯のある美しい音が響き渡った。
ただの開放弦じゃない。
無意識にビブラートまでかけている。
「え……っ」
「うっそ、マジで!? 今の音、佐々木ちゃんが出したの!?」
吉田君が目を丸くして叫び、周りの部員たちも一斉にこちらを振り返った。
「すっげえ! 一発でそんないい音鳴る!? 経験者じゃないの!?」
「天才じゃん! ね、絶対バイオリンおいでよ! 即戦力だよ!」
拍手喝采。
大盛り上がりで熱烈な勧誘をしてくる部員たち。
けれど、私の身体は微かに震えていた。
(ちがう。ちがう、やだ……っ)
褒められているのに、嬉しくない。
それどころか、右手に握った『細長い弓』を見た瞬間、背中や二の腕にある無数の痣が、焼けるように疼き出したのだ。
息が苦しい。
心臓が嫌な音を立てている。
この楽器を持っていると、何かに怯えて泣き叫びたくなるような、底知れない恐怖が足元から這い上がってくる。
「ご、ごめんなさい……っ」
私は弾かれたようにバイオリンと弓を吉田君に突き返した。
「お、おお? どうした?」
きょとんとする皆の前で、私は必死に視線を彷徨わせた。
弦楽器じゃないもの。
弓を持たないもの。
ふと、部屋の隅で、別の女子の先輩が組み立てていた銀色の楽器が目に入った。
細くて、キラキラしていて、息を吹き込んで鳴らす楽器。
「私……っ、フルートが、やりたいんです」
上擦った声が、音楽室に響いた。
「フルート?」
「はい。ずっと、あの楽器に憧れてて……だから、バイオリンじゃなくて、フルートがいいんです」
それは、佐々木祐奈としてついた、初めての自覚的な嘘だった。
本当は憧れなんてない。
バイオリンだけは、ダメだって記憶の中で誰かが叫んでいる。
でも、その必死さが逆に「強い熱意」として伝わったのか、吉田君は「そっかー、残念だけど仕方ないな!」とカラッと笑って引き下がってくれた。
「おーい、フルートパート! 期待の新人ご指名だよー!」
私は木下くんに背中を押されるようにしてフルートパートの方へ歩き出した。
震える右手を、左手でぎゅっと握りしめながら。
自分の身体に染み付いた、得体の知れない『何か』から目を逸らすように。
「遅れてごめん。会議、長引いちゃって」
重たい防音扉が開き、少し息を切らした零くんが入ってきた。
その瞬間、部員たちの空気がパッと華やぐ。
「お、高坂! お前の彼女、フルートパートに入ることになったぞ!」
吉田君が声をかけると、零くんは一直線に私の方へと歩いてきた。
まだ心臓のバクバクが治まらない私は、借りたばかりの銀色のフルートを胸に抱え込むようにして彼を見上げた。
バイオリンを見事に鳴らしてしまったこと。
そのせいでパニックになりかけたこと。
彼にどう説明すればいいのか分からず、無意識に息を詰める。
零くんの黒い瞳が、私が抱きしめているフルートと、まだ微かに震えている私の指先をスッと撫でるように動いた。
ほんの一瞬。
彼の端正な顔に、「ああ、なるほどね」とでも言うような、深い納得の色が浮かんだ。
何かをすべて見透かしたような、あるいは、私が選んだ『嘘』の形を心底気に入ったような、ひどく静かな視線。
けれど、彼はバイオリンのことにも、私の怯えにも、一切触れなかった。
ただ、いつもの完璧な笑顔をふわりと咲かせて、私の頭を優しく撫でた。
「そっか。いいね、祐奈にすごく似合っているよ」
「……ほんと?」
「うん。フルートを吹く祐奈の姿、きっとすごく綺麗だろうな。……これから一緒に、たくさん練習しようね」
その声は、どこまでも優しかった。
私が自分を守るためについた『嘘』を、彼がまるごと肯定して、甘いシロップで包み込んで、鍵をかけてくれたような気がした。
彼がチェロ――私に恐怖を植え付けたバイオリンと同じ、弓で弾く『弦楽器』の担当だという事実に、ほんの少しだけ胸がざわついたけれど。
今はただ、何も聞かずにこの選択を受け入れてくれる彼の存在が、どうしようもなくありがたい。
***
部活を終えて、校門を出る頃にはすっかり夕暮れになっていた。
木下くんの家は私たちと同じ方向らしく、駅前の交差点までは三人で一緒に帰ることになった。
「いやー、結果的には佐々木さんがフルートパートに入ってくれてよかったわ。うちの部、木管がちょっと弱かったからさ」
「私、今日初めて触ったばっかりの初心者だよ?」
「そこは高坂がみっちり教え込んでくれるだろ」
木下くんがニカッと笑い、隣を歩く零くんも「もちろん」と優しく微笑む。
こんな風に三人で並んで歩いていると、本当にどこにでもある平和な高校生の帰り道みたいだった。
駅前の大きな交差点に差し掛かった時。
赤信号で立ち止まっていた木下くんが、ふと向かいの歩道を見て声を上げた。
「あ、あの制服。港女子学院じゃん」
木下くんの視線の先には、私が『以前通っていた』はずの、品の良い紺色のブレザーを着た女生徒が一人、スマホを見ながら信号待ちをしていた。
「港女子ってここから電車で一時間くらいかかるだろ? 結構遠いのに、この辺から通ってる子もいるんだなー。佐々木さんもそうだったんだっけ?」
「……そうだね」
木下くんの能天気な声に答えた零くんの相槌は、いつもの穏やかな響きとは少しだけ違っていた。
声のトーンが一段低く、ピリッとした静電気のようなものが混じっている。
「県外から通う生徒も珍しくないからね。……それより祐奈、帰ったら数学の続き、少しだけやろうか。明日の小テストの範囲——」
零くんは、私の肩にそっと触れて、視線を自分の方へ向けさせようとした。
明らかに、話題を変えようとしている。
私に、あの制服を見せないようにしている。
彼がこれほどあからさまに焦りを見せるのは、初めてだった。
けれど、なぜか私の目は、向かいの歩道に立つその女生徒から離れなかった。
信号が青に変わる。
横断歩道をすれ違う、その瞬間。
スマホから顔を上げた女生徒が、ふとこちらを見て――私と、真正面から視線がぶつかった。
ビクッ、と。
彼女の肩が大きく跳ねるのが分かった。
彼女の目は、ただの『見知らぬ他校の生徒』を見るものではなかった。
まるで、絶対にそこにいるはずのない幽霊を見たような、あるいは、見てはいけないおぞましいものを見てしまったような、驚愕と怯えがないまぜになった瞳。
彼女は道の真ん中で完全に足を止め、息を呑んで私を凝視している。
私の脳裏に、またあのどす黒い海鳴りの音が響き始めた。
――彼女は、私を知っている?。
この夏に創られたばかりの『佐々木祐奈』としてではなく。
港女子学院にいた頃の、私の、本当の姿を。
「祐奈」
耳元で、零くんのひどく冷たい、警告のような声がした。
彼の手が私の肩を強く、痛みを感じるほどに引き寄せる。
「行こう。遅くなると祐奈のお父さんが心配するから」
私を急かすように歩き出した彼の完璧な笑顔の裏側に、今までで一番暗い、底知れない焦燥と殺意のようなものが渦巻いているのを、私ははっきりと感じ取っていた。
横断歩道ですれ違う瞬間、その女生徒の唇が震えるように動いた。
『しんどう……?』
声にはならなかったけれど、確かにそう動いたように見えた。
その瞬間、私の頭の奥で、ノイズ混じりの映像がふっとフラッシュバックする。
――『神奈川のさ、海が近いところで。まー学校まで遠いけど、JK一人暮らしは無理って親も言うし』
放課後の教室。
グループの端っこで、誰かが私に向かってそんな他愛のない話をしている風景。
顔には薄くモヤがかかっているけれど、目の前の彼女と同じ声だった気がする。
親友でもない、ただ同じ教室で、浅い噂話を共有する程度のクラスメイトの顔。
(神奈川……?)
そうだ。
私たちが今住んでいるこの街も、私が『交通事故』に遭って落ちた海も、神奈川県だ。
港女子学院のある都内からは、電車を乗り継いでわざわざ来なければならない距離。
どうして私は、そんな離れた場所の海に落ちたのだろう。
「祐奈」
零くんのひどく冷たい声が、私の思考を強制終了させた。
彼が私の肩を抱き寄せるようにして、彼女との視線を物理的に遮断する。
「ごめん木下、俺たちちょっと急ぐから、今日はここで」
「お、おう。また明日なー」
事情を知らない木下くんが能天気に手を振るのを背に、零くんは半ば引きずるような早足で私を歩き出させた。
すれ違いざま、零くんがその女生徒へ向けた視線を、私は見ていない。
ただ、すれ違った直後、彼女がビクッと肩を跳ねさせ、逃げるように走り去っていく足音だけが背後で聞こえた。
「……零くん、痛い」
「あ……ごめん」
交差点を渡りきり、木下くんの姿が見えなくなったところで、ようやく彼の手の力が緩んだ。
見上げると、彼はいつもの優しい、少し困ったような笑顔に戻っていた。
けれど、その黒い瞳の奥にはまだ、微かな焦燥の残り火が燻っている。
「ごめんね、いきなり引っ張ったりして。ちょっと、貧血っぽくてさ。早く帰りたかったんだ」
分かりやすい嘘だった。
彼の手は少しも冷たくないし、顔色も悪くない。
でも、私は「そうだったんだ、大丈夫?」と、彼の嘘に乗っかることしかできなかった。
なぜあの子が幽霊でも見たような顔で私を見たのか。
なぜ零くんが、あんなにも冷たい声を出したのか。
そして、どうして私は、あの海に落ちたのか。
追求してはいけないと、私の中の『佐々木祐奈』としての防衛本能が警鐘を鳴らしている。
遠くから聞こえる海鳴りの音が、今日はやけに重たく、まとわりつくように聞こえるのを感じていた。
***
家に帰ると、すでに夕食の準備が整っていた。
ダイニングテーブルには、コロッケや色とりどりのサラダなど、テレビのホームドラマに出てくるような完璧なメニューが並んでいる。
「それで、新しい学校はどうだった? 友達はできそうかい?」
夕食の席で、お父さんがニコニコと笑いながら尋ねてきた。
向かいに座るお母さんも、隣のお兄ちゃんも、箸を止めて私の方を見ている。
「うん。隣の席の木下くんって人がすごく話しやすかったし、クラスのみんなも親切にしてくれたよ」
私がそう答えると、お母さんは「よかったわねえ」と大袈裟なほど胸を撫で下ろしている。
お兄ちゃんも無言でコップの水を飲みながら、小さく頷いている。
相変わらず、どこかよそよそしくて、お父さんの顔色を窺うような二人の態度。
「そうかそうか。零くんも一緒だし、安心だな」
お父さんは満足げに頷くと、私のグラスに麦茶を注ぎ足してくれた。
「放課後はどうしたんだ? 零くんが部活を紹介したいと言っていたが」
「あ、うん。オーケストラ部、すごく楽しそうだったから……私も入部しようかなって」
「オーケストラ! それは素晴らしい!」
お父さんはパァッと顔を輝かせ、持っていた箸を置いた。
「いいじゃないか、音楽は情操教育に最適だ。祐奈ならきっと上達も早いだろう。……どうだい、楽器は『弦楽器』なんて」
お父さんの目が、急に熱を帯びたように細められた。
「バイオリンや、ビオラ……。ああ、ビオラがいい。弦楽器というのは本当に気高くて美しい。特にビオラは、美しくて優秀な女性によく似合う楽器だ。お前がビオラを弾く姿を見たら、私もきっと誇らしいだろうな」
うっとりと虚空を見つめるようなお父さんの声に、私の背筋にゾクッと冷たいものが走った。
彼が誰の姿を想像してそんなことを言っているのか、記憶のない私には分からない。
けれど、その熱っぽい声色の裏に、ひどくねっとりとした『誰か』への執着のようなものを感じた。
そして何より――弦楽器。
音楽室で感じたあの焼け付くような恐怖と、呼吸が止まりそうになった感覚が、鮮明に蘇ってくる。
「……あ、あのね、お父さん」
私はテーブルの下で、自分の膝をぎゅっと握りしめた。
「私……フルートをやることにしたの」
「フルート?」
お父さんの顔から、スッと表情が抜け落ちた。
「うん。……その、弦楽器も素敵だったんだけど、私、フルートの音がすごく綺麗だなって思って。初心者でも大丈夫だって先輩が言ってくれたから、それで……」
言い訳するように早口で捲し立てる私の声だけが、静まり返ったダイニングに空しく響く。
お母さんとお兄ちゃんは、まるで息を止めたように硬直して、俯いたまま微動だにしない。
ほんの数秒の、永遠のように長い沈黙。
やがて、お父さんは「……そうか」と、静かに呟いた。
「フルートか。……まあ、お前が自分で決めたのなら、それが一番だな」
再び浮かべた温和な笑顔。
けれど、その目は少しも笑っていなかった。
用意された『完璧な台本』から私が一文字でも外れることを、この人は嫌悪している。
流石の私も、気が付いている。
肌を刺すような冷たいプレッシャーが、テーブル越しにビリビリと伝わってくる。
「……うん。ありがとう」
私はひきつりそうになる頬を必死に持ち上げて、笑い返した。
せっかく美味しいはずのコロッケが、まるで砂を噛んでいるようにパサパサとして、何の味もしなかった。
鼻をつく消毒液の匂い。
規則的な電子音。
ひんやりとしたシーツの感触。
自分がどこにいるのかは、すぐに理解できた。
ここは病院だ。
けれど、自分が『誰』なのかが、まったくわからなかった。
頭の中に広がるのは、新雪が降り積もったような圧倒的な空白。
名前、年齢、好きな食べ物、昨日までどんな景色を見ていたのか。
過去に繋がるはずの糸が、根元からすっぱりと断ち切られている。
思い出そうとすると、酷い頭痛と吐き気が襲ってきた。
「……あ……」
ひび割れた唇から掠れた声を出した瞬間、ベッドの横で弾かれたように顔を上げた人がいた。
「気がついたか……! おい、先生を! 早く!」
スーツ姿の初老の男性だった。
血走った目に、深い隈。彼は私の手を両手で包み込み、まるで壊れ物に触れるように、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
「よかった……本当によかった。お前が目覚めなかったら、お父さんはどうやって生きていけばいいか……」
お父さん。
その響きに、胸の奥でチクリと痛むものがあったけれど、それが何なのかはわからない。
ただ、彼の私を見る目は、常軌を逸するほどの安堵と、愛情に満ちていた。
やがて病室には、お母さんとお兄ちゃんだという二人が駆け込んできた。
彼らも私の無事を知って泣いてくれた。
私は交通事故にあって、ガードレールを突き破った車ごと海に転落したショックで、過去の記憶を失ってしまったらしい。
「無理に思い出さなくていいのよ。あなたは私たちの、大切な娘なんだから」
お母さんは優しく私の頭を撫でてくれた。
温かくて、甘い匂いがした。
私にはこんないい家族がいるのだと、空っぽの胸に温かいお湯が注ぎ込まれていくような心地がした。
ただ、お母さんの笑顔の奥に、ほんのわずかな疲労の色を見た気がしたけれど、記憶のない私にはそれを測る術はなかった。
「彼も、君が目覚めるまでずっと待っていたんだ」
お父さんが少しだけ険しい顔をして、病室の外にいた『誰か』を呼び入れた。
ゆっくりと開いたドアから入ってきたのは、私と同じくらいの年齢の、背の高い男の子だった。
制服姿の彼は、息を呑むほど端正な顔立ちをしていた。
伏せられた長い睫毛、透き通るような黒い瞳。
彼が病室に入ってきた瞬間、部屋の空気がふわりと変わった気がした。
彼はベッドのそばまで来ると、私の家族に対して、深く一礼をした。
顔を上げたその一瞬、お父さんと彼の間で視線が交差した。
その時の彼の横顔には、温度というものが一切無かった。
まるで鋭い刃物のように冷たく、私の家族を値踏みするような、なんというか違和感を覚えた。
けれど、彼が私に向き直った瞬間。
「……よかった、気が付いて」
その顔には、まるで春の陽だまりのような、甘く優しい笑みが咲いていた。
先ほどまでの氷のような冷酷さが嘘のように、ひたすらに私を慈しむような瞳。
彼はそっと手を伸ばし、私の頬にかかる髪を指先ですくった。
その手は微かに震えていて、私を愛おしくてたまらない宝物のように……もしくは信仰の対象のように見つめてくる。
「俺のこと、わかる? 祐奈」
首を横に振る。
申し訳なさで胸が痛んだ。
彼は少しだけ悲しそうに目を伏せた後、すぐにまた、私を安心させるように微笑んだ。
「そっか。……俺はね、君の彼氏なんだ。高坂零」
彼氏。
その言葉に、私は戸惑った。こんなにかっこよくて、優しそうな人が、私の彼氏?
「無理に思い出さなくていい。俺が全部、一から教えてあげる。君が何を取りこぼしても、俺が必ず拾ってあげるから」
彼の手が、私の手をそっと握る。
「海に落ちた君を、俺が助けたんだ。……もう絶対に、君の手を離さない。誰が何と言おうと、俺が君を守るから」
その言葉は、まるで何かに抗う誓いのようだった。私に向けられた、純度が高すぎて息苦しくなるほどの愛情。
私は何も持っていない。
記憶も、自分という輪郭すらも。
だからこそ、目の前の彼らが与えてくれるこの『温かくて完璧な世界』にすがりつくしかなかった。
「えっと、ありがとう。助けてくれて。それから、ごめんなさい、思い出せなくて。零、くん?」
私がそう呟いて微笑み返すと、彼の瞳の奥で、何かがひどく痛ましげに揺れたような気がした。
けれどそれは一瞬のことで、彼はすぐにまた、完璧な彼氏の顔に戻って私の髪を撫でた。
これが、私の新しい人生の始まりだった。
誰も私を傷つけない。
誰も私を悲しませない。
私を害するすべてを排除するために作られた、温室のような優しい天国。
この完璧な幸福が、私の命を繋ぎ止めるためだけに彼らが織り上げた、血の滲むような嘘の箱庭だとは、記憶のない私には知る由もなかった。
***
退院して帰った部屋は、どことなく余所余所しい。
なんせ過去十七年分の記憶がすっぽり抜けうちているのだから、仕方がない事なのかもしれないけれど。
壁は薄い桃色。
ひとつある出窓に向かって白いデスクとチェア。
ふかふかクッションのミニソファ。
未だ折りたたみ跡が残っているベッドカバー。
クローゼットの中は、半分スカスカ。
――なんか、流行りのミニマリストみたいな部屋。
自室のベッドに座り込んで、思ったのは、そんな言葉だった。
教科書は本棚に綺麗に並べられているし、学校指定かばんらしきものも、その脇にぽつんと置かれてある。
中身を見ると空っぽだった。
スマホも無い。
パソコンも無い。
記憶は無いのに、不思議と当たり前のことは覚えている。
朝起きて、学校に行って、部活動に参加して、帰宅して、宿題して、ご飯食べて、お風呂入って、寝て。
みたいな感じに。
時間の概念とか、季節の概念とか、そういうのも覚えている。
ただ、自分が今まで何をしていて何を感じていたのか。
そういうものがすっぽりと欠落している。
物凄く不思議な感覚。
枕元に置いてある、零くんが退院祝いにくれた、手のひらサイズのテディベアを小突いて、私は少しだけ身を起こした。
窓の向こうは、夏の穏やかな海が見える。
ヨットサーフィンの帆影が、遠くの波間に浮かんでいて、ミニチュアの光景みたいに見えた。
階下では、お母さんとお兄ちゃんが何かを言い争っている声が、聞こえてきて気まずい。
私の退院に付き添ったお父さんは、物凄く心配そうな顔をしていたけれど、どうしても会社に戻らなければいけないと言って、家まで送り届けてくれた後、出社していった。
頭の奥ではもう、ずっと海鳴りの音が聞こえている。
トイレにもちょっと行きたくなってきたし、降りても大丈夫かな。
自分の家で、気を遣うっていうのも変だけど。
この家で、家族と暮らしていたという実感が、持てていないのも事実だった。
***
思い切ってベッドから立ち上がり、そっと部屋のドアを開ける。
廊下は静まり返っていたけれど、階段に近づくにつれて、一階から漏れ聞こえてくる声がはっきりと輪郭を持ち始めた。
「――だから言ったじゃない! あの人がいない時くらい、少しは息を抜かせてよ!」
「母さん、声大きいって。二階に聞こえるだろ」
「いいわよもう。どうせあの子は頭を打って、何も分かってないんだから。いつまでこんな生活……」
足が止まる。
ヒステリックに声を荒らげるお母さんと、それを苛立たしげに宥めるお兄ちゃんの声。
病院で私を抱きしめて、「大切な娘」だと泣いてくれたあの温もりとは、まるで別人のような冷たい響きだった。
胸の奥がざわざわと波立つ。
やっぱり、今の私はこの家族にとって「異物」なのだろうか。
記憶を失って、何もできない厄介者。
気まずさに耐えきれず、階段を数段戻ろうとした、その時だった。
『ルルルルルルッ!!』
リビングの方から、けたたましい着信音が鳴り響いた。
固定電話の音だ。
ピタリと、二人の言い争う声が止んだ。
「早く出ろよ」と急かすお兄ちゃんの声に押されるように、受話器を持ち上げる音が聞こえる。
「……はい。……え?」
階段の途中で息を潜めている私には、電話越しの相手が何を言っているのかは聞こえない。
けれど、お母さんの声色から、一瞬にして感情が抜け落ちていくのがわかった。
「……ちが、違います、これは……はい。ごめんなさい。……二度と、はい。必ず」
先ほどまでの苛立ちが完全に消え失せ、まるで機械のように平坦で、怯えきった声。
カチャリ、と受話器が置かれる音が、静まり返った家の中に不気味に響き渡った。
何があったのかはわからない。
でも、これ以上立ち聞きしているのを悟られたら不味い気がして、私はわざとスリッパの音を立てながら、階段を降りてリビングの扉を開けた。
「あの……」
反射的に振り返った二人の顔には、つい数秒前まで殺伐とした空気を漂わせていたことなど微塵も感じさせない、ひきつるほどに温かい笑顔が張り付いている。
「あら、祐奈。起きたのね。体調はどう?」
「あーよく眠れたか? 腹減ってるだろ、今母さんが夕飯作ってるとこ」
「う、うん。ちょっとお手洗いに……」
「そう。なら、顔を洗ってきなさい。あなたの好きなハンバーグ、もうすぐ焼けるからね」
お母さんは優しく微笑んで、キッチンへ戻っていく。
私は「うん」と頷きながら、背筋に緊張が走るのを感じていた。
優しい家族。
温かい食卓。
それなのに、なぜこんなに息が詰まるのだろう。
トイレから戻ると、テーブルの上には四人分の食事が並べられている。
お茶碗はまだ伏せられていて、お母さんがコンロに向かって、鍋の中をかき混ぜている。
お兄ちゃんはスマホに視線を落としながら、時折つけっぱなしのテレビから流れるニュースにツッコミを入れている。
「明日も暑くなるぜー。予想最高気温39度だって。完全にインフルエンザじゃん」
「昨日みたいに、夕立が来るといいんだけど」
お椀を運んできたお母さんが、独り言のように呟く。
私は、食卓の上にある箸の色から検討をつけて、席を引くと座った。
何を話せばいいのかわからない。
ハンバーグ、ケチャップ、にんじんのグラッセ、ブロッコリー、トマトのサラダ、お味噌汁、炊き立てのごはん。
昨晩病院で食べた夕飯とは比べ物にならないくらい、豪華で温かそう。
お腹は、正直まだ空いていない。
お母さんがちらりとウォールクロックを見上げる。
時刻は間もなく、午後8時。
玄関の方で、ガチャリと重たい扉が開く音がした。
「あ、お父さん帰ってきたみたい」
お母さんが弾かれたように顔を上げ、お兄ちゃんもスマホをポケットに突っ込んで姿勢を正した。
二人の動きは、まるで軍隊の号令でもかかったかのように素早い。
「ただいま」
スーツの上着を小脇に抱え、ネクタイを少し緩めたお父さんがリビングに入ってくる。
疲労の滲む顔は、食卓に座る私を見た瞬間、パッと明るく綻んだ。
「祐奈、起きてたのか。体の具合はどうだ? どこか痛むところはないか?」
「ううん、大丈夫。お父さん、おかえりなさい」
「ああ、ただいま。祐奈の顔を見たら、一日の疲れも吹き飛んだよ」
大げさなほどに目を細めて笑うお父さんは、私の頭を優しく撫でた。
その手は大きくて温かいはずなのに、なぜかビクッと肩がすくみそうになるのを、私は必死に堪えた。
「さあ、冷めないうちにいただきましょう。あなた、お疲れ様」
お母さんが甲高い、少し上ずった声で言いながら、お父さんの前にお茶碗を置く。
「ああ、ありがとう。みんな揃って夕飯なんて、久しぶりだな」
四人で囲む食卓。
「いただきます」と声が揃う。
私はお箸でハンバーグを小さく切り分け、口に運んだ。
肉汁が溢れて、甘辛いソースの味が広がる。
とても美味しいはずなのに、舌の上が麻痺しているみたいに、味が遠い。
「祐奈、母さんのハンバーグ、好きだっただろう? たくさん食べなさい」
「……うん。美味しい」
「そうかそうか。よかったな、母さん」
お父さんがニコリとお母さんへ視線を向ける。
「ええ……本当に。祐奈がたくさん食べてくれて、嬉しいわ」
お母さんはにこにこと笑っていた。
「やっぱり、家族は仲良く笑い合っているのが一番だ。そうだろう?」
お父さんはお味噌汁を一口啜り、ゆっくりと、念を押すように言った。
「誰かが不満を漏らしたり、勝手なことをして空気を悪くしたりする家には……祐奈もいたくないもんな」
その言葉が落ちた瞬間、リビングの空気が凍りついた気がした。
お兄ちゃんが、息を呑む。
お母さんは俯き、血の気の引いた顔で「……ええ、そうね」と蚊の鳴くような声で絞り出した。
私には、お父さんが言っているのはただの『一般的な家族の理想』にしか聞こえない。
なのに、二人の反応は、まるで死刑宣告を受けた罪人のようだった。
「どうした、祐奈? 手が止まってるぞ」
不意に名前を呼ばれ、私はビクッと肩を揺らした。
見上げると、お父さんが不思議そうな、瞳で私を見つめていた。
「……ううん、なんでもない。ちょっと、まだお腹が空いてなくて」
「そうか。無理はしなくていい。でも、栄養はしっかり摂らないとな。明日は、零くんも顔を見せに来てくれるそうだから」
零くん。
その名前を聞いた瞬間、お父さんの口角がほんの少しだけ、満足げに上がった気がした。
温かくて、豪華な夕食。
テレビから流れるバラエティ番組の笑い声。
優しく私を見守る父親と、黙々と食事を進める母と兄。
完璧な家族の風景の中で、まるで、真綿で首を絞められているような息苦しさ。
***
「この傷、交通事故のかな」
久しぶりに湯船につかって、手足を伸ばしていると、身体の色んな所に痣が出来ているのがわかった。
背中、首の後ろ、二の腕、脛。
私は、お湯の中で自分の肌をそっと撫でてみた。
紫や赤黒く変色しているものもあれば、すでに黄色っぽく薄れて治りかけのものもある。
海に落ちた時、テトラポッドか何かに激しくぶつかったのだろうか。
それにしては、痣の形が妙に均等というか。
けれど、交通事故の傷なんて今まで見たことがないから、きっとこんなものなのだろう。
車とぶつかって海に投げ出されたのだから、全身が痣だらけになっていても不思議ではない。
むしろ、骨が折れていないだけ運が良かったと、病院の先生も言っていた気がする。
「痛っ……」
二の腕にある濃い痣を指で押すと、鈍い痛みが走った。
シャワーからお湯をすくい、そっと肩からかけると、じわじわと温かさが染み込んでいく。
痛みがあるということは、私が生きている証拠だ。
記憶が空っぽになってしまっても、身体はちゃんと、あの日の衝撃を覚えている。
ただ、不思議なのは、これだけひどい怪我をしているのに、心の中には「怖い」という感情があまり湧いてこないことだった。
普通なら、事故のことや暗い海を思い出すだけでトラウマになって震えそうなものなのに。
あるのはただ、頭の奥でずっと鳴り続けている海鳴りの音と、果てしなく続くような虚無感だけ。
ふと、お父さんが言っていた言葉を思い出した。
『明日は、零くんも顔を見せに来てくれるそうだから』
私の彼氏だという、あの男の子。
息を呑むほど綺麗な顔立ちで、どこかひどく切なそうな瞳で私を見ていた人。
彼が退院祝いにくれたテディベアは、今も私の部屋のベッドの上で、ちょこんと座っているはずだ。
彼なら、この空っぽな私に、何かを埋めてくれるのだろうか。
湯船から立ち上がると、脱衣所の鏡に映った自分の身体が、まるでツギハギだらけの不格好な人形のように見えた。
***
翌日。
約束通り、零くんが家にやってきた。
「お邪魔します」と丁寧な挨拶をしてリビングに上がってきた彼は、白いシャツに細身の黒いパンツという、どこか涼しげで洗練された格好をしていた。
新学期に向けた準備と、少しばかりの受験対策。
高校二年生の夏。
まだ本格的な受験シーズンではないけれど、少しずつ意識し始めなければいけない時期だと、彼が教えてくれた。
ダイニングテーブルに広げた、数学2のテキスト。
私はシャーペンを握り、おそるおそる問題に向き合っていたけれど――不思議なことに、スラスラと手が動いた。
数式を見ると、頭で考えるより先に、解法がパズルを組み立てるように浮かんできた。
「すごい。祐奈、三角関数の大問、ぜんぶ正解だよ」
横から覗き込んだ零くんが、目を丸くして微笑む。
「私、数学得意だったのかな……自分でもびっくりしてる」
「きっとそうだよ。頭の回転が速いのは、祐奈の長所だね。俺も教えがいがある」
彼はそう言って、私の頭を優しくポンポンと撫でた。甘い香水のような、清潔な石鹸のような香りがふわりと漂う。
休憩がてら、彼から学校生活の話を聞いた。
校舎の造り、お昼休みの購買の混み具合、それから零くんの部活――オーケストラ部のこと。
公立高校でオーケストラ部がある学校なんて、珍しい。
なんでも前任の校長先生が、元音楽教師で、新しく創設された部活動らしい。
「祐奈がうちの学校に編入するの、本当に嬉しいんだ。ずっと一緒にいられるから」
彼の黒い瞳は、まるで私という存在をそのまま閉じ込めてしまいたいかのように、深く、熱を帯びていた。
私、転校するの?
初耳なんだけど……。
「え、あれ? 違う学校だった?」
「うん、通学路はかぶっているからね、港女子学院とは。はじめて出会ったのは去年の春ごろだよ」
「あ、私覚えてない……ごめん」
「大丈夫。そのうち、思い出すから。思い出せなくても、俺は変わらず隣にいるし」
彼の声はどこまでも甘く、優しいけれど、私の進路やこれからの生活が、私の知らないところで勝手に決定されていることに、ほんの少しだけ足元が揺らぐような不安を覚えた。
「午後から、駅前の書店に行こうか。参考書と、新しいノートも買いたいし」
「うん!……あ、でも私、道がまだよくわからなくて」
「俺が案内するよ。二人で、ゆっくり行こう」
それは紛れもなく、退院して初めての『デート』のお誘いだった。
胸の奥が少しだけ、とくんと跳ねた。
「おや、二人でお出かけかい?」
私たちが身支度をして玄関に向かうと、廊下の奥からお父さんがひょっこりと顔を出した。
今日は日曜日で、お父さんは仕事がお休みだ。
「はい。駅前の書店まで、祐奈さんの参考書を買いに行こうかと」
零くんが振り返り、非の打ち所のない礼儀正しい笑顔でお父さんに答える。
「そうかそうか。感心だな」
お父さんはニコニコと笑いながら、ポケットから車のキーを取り出して指で弄った。
「外は猛暑だ。歩いて行ったら倒れてしまうよ。駅まで車で送っていこう」
「えっ……でも、悪いよ。すぐそこだし」
私が遠慮してそう言うと、お父さんは少しだけ目を細め、有無を言わせないような低いトーンで告げた。
「いいや、送るよ。祐奈はまだ病み上がりなんだから。何かあってからでは遅いだろう?」
それは、心配を装った『決定』だった。
隣に立つ零くんをちらりと見上げると、彼は「ありがとうございます」と完璧な笑顔で頭を下げていた。
けれど、その黒い瞳の奥が一瞬だけ、まるで鋭い刃物のように冷たく濁ったのを私は見逃さなかった。
お父さんと零くん。
二人の間に、目に見えない火花のような、張り詰めた空気が漂った気がした。
結局、お父さんの運転する車で、三人で駅前の書店に向かうことになった。
後部座席で零くんと並んで座りながら、私は窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめる。
(……高校生のデートに、親が送迎についてくるのって、普通なのかな?)
記憶のない私には、世間の『普通』がよくわからない。
でも、バックミラー越しにチラチラとこちらを監視するようなお父さんの視線を感じるたび、なんとも言えない窮屈さを覚えた。
過保護すぎる家族と、完璧すぎる彼氏。
私の世界は、どこまでも優しくて、どうしようもなく息苦しい。
***
九月。
まだ茹だるような暑さが残る、新学期の始まり。
「今日からこのクラスの仲間になる、佐々木祐奈さんだ。みんな、仲良くするように」
担任の先生の言葉に促され、私は黒板に『佐々木祐奈』と自分の名前を書いた。
チョークが黒板を叩くコツコツという音が、やけに耳に響く。
振り返ると、三十人あまりの生徒たちの視線が一斉に私に注がれていた。好奇心と、歓迎の入り混じった温かい空気。
「佐々木祐奈です。……その、港女子学院から転校してきました。よろしくお願いします」
当たり障りのない挨拶をして頭を下げると、わぁっと大きな拍手が湧き起こった。
「女子校出身だって!」「めっちゃ可愛いじゃん」「席どこになるかな」なんていうひそひそ声が聞こえてくる。
私はその光景を、まるで透明なガラスの向こう側から眺めているような気分だった。
皆が歓迎してくれている『佐々木祐奈』は、私であって、私ではない。
過去を失い、昨日までの自分がどんな声で笑い、どんな風に人と接していたのかも分からない私にとって、この教室の温かさはひどく他人事のように感じられた。
彼らが思い描く『普通の転校生』という役を、うまく演じ切れるだろうか。
ふと、教室の窓に目を向ける。
零くんは残念ながら、このクラスにはいなかった。
彼は理系コースの二組で、私は文系コースの五組。
今朝、下駄箱で別れる時、彼は「教室が離れちゃったのはすごく残念だけど、休み時間には必ず会いに行くからね」と、少しだけ庇護欲を滲ませた甘い笑顔で言っていた。
彼がいないことへの心細さと、常に監視されているようなあの息苦しさから少しだけ解放されたような、名状しがたい安堵感。
それが入り混じって、胸の中がちぐはぐになっている。
「じゃあ、佐々木はあそこ……木下の隣の空席に座ってくれ」
先生に指し示されたのは、窓側から二列目、後ろから二番目の席だった。
「はーい」
気の抜けたような返事をして、私の隣の席になる男子生徒――木下くんが、軽く手を挙げた。
少し寝癖のついた髪に、どこにでもいる普通の男子高校生といった風貌。
彼もまた、他の生徒たちと同じように、珍しい転校生を見るような無邪気な目で私を見ていた。
「よろしく、佐々木さん。僕、木下秋良」
「あ……うん。よろしく、木下くん」
彼が気さくに笑いかけてくれたおかげで、私の張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けた。
ごく普通の、平和な教室の風景。
嘘と秘密ですらなく、ただの無知。
お互いが何者であるかを知らないまま、私たちはごく自然に、隣の席のクラスメイトとして初めての言葉を交わした。
***
キーンコーンカーンコーン。
一時間目の終わりのチャイムが鳴り響く。
先生が教室を出ていくのとほぼ同時に、クラスの何人かの女子たちが「ねえねえ、佐々木さん!」と興味津々な顔で私の席に集まってこようとした。
私も、うまく笑えるように表情筋を少しだけ引き締める。
けれど――それよりほんの一瞬早く。
「祐奈」
教室の入り口から、涼やかな声が響いた。
振り返ると、そこには人好きのする爽やかな笑顔を浮かべた零くんが立っていた。
彼が姿を見せた瞬間、教室の空気がパッと華やぐ。
廊下を通りかかった他クラスの生徒たちまでが、ちらちらと彼を見ている。
「あれ、高坂くんじゃん」
「佐々木さんと知り合いなの?」
私の席の周りに集まりかけていた女子たちが、目を丸くして尋ねた。
「うん。俺の彼女なんだ。今日からよろしくね」
零くんは私の隣に歩み寄ると、さらりと、まるで「今日はいい天気だね」とでも言うように言い放った。
その瞬間、教室中が「えーっ!?」「初耳なんだけど!」「めちゃくちゃ美男美女、似合うー!」と大きなどよめきと歓声に包まれる。
当の零くんは照れたように笑っていて、完全にクラスの好意的な空気を掌握していた。
みんなから向けられる羨望と祝福の眼差し。
私は居心地の悪さを誤魔化すように、曖昧に微笑むことしかできない。
「あ、木下。祐奈の隣の席だったんだな」
ふと、零くんの視線が私の隣――木下くんに向けられた。
「お、高坂。お前、彼女いたのかよ。言ってくれればよかったのに」
木下くんが、少し驚いたように笑い返す。
二人は気心の知れた間柄のようだ。
「言うタイミングがなくてさ。……そうだ、木下。今日、放課後部活あるだろ?」
「ん? ああ」
「祐奈もオーケストラ部に興味あるって言ってたから、放課後、見学においでよ」
零くんが私に向かって優しく微笑みかける。
(……え?)
私がオーケストラ部に興味があるなんて、一言も言っていない。
でも、彼のその完璧な笑顔と、この教室の熱を帯びた空気を前にして「そんなこと言ってない」と否定することは到底できなかった。
「ただごめん、俺どうしても抜け出せない生徒会の会議があってさ。少し遅れて行くから……木下、悪いんだけど放課後、祐奈を部室まで連れて行ってくれないかな?」
「僕が? まあ、別にいいけど」
「助かるよ。大切な彼女だから、ちゃんとエスコートしてやってね」
冗談めかして笑う零くんの言葉に、木下くんは「はいはい、過保護な彼氏だな」と苦笑いしながら頷いた。
爽やかな人気者の彼氏。
気さくなクラスメイト。
まるで青春映画のワンシーンのように完璧で、眩しい光景。
それなのに、零くんが「大切な彼女」と言いながら木下くんを見た一瞬、その黒い瞳の奥がひどく冷ややかに透き通って見えたのは、私の気のせいだったのだろうか。
***
放課後の校舎は、あちこちから運動部の掛け声や吹奏楽の音出しが聞こえてきて、ひどく賑やかだった。
「佐々木さん、こっち。音楽室は特別棟の三階だから」
私の少し前を歩く木下くんが、階段を上りながら振り返る。
「ありがとう、木下くん。……ごめんね、案内させちゃって」
「全然いいって。高坂に頼まれちゃ断れないしな」
木下くんはカバンを肩に掛け直し、少しおどけたように笑った。
「高坂ってさ、なんつーか完璧超人って感じじゃん? 成績もトップだし、チェロ弾いてる姿なんかプロみたいだし。女子からすげーモテるのに全然浮いた話なかったからさ。あいつに彼女がいるって聞いて、僕もびっくりしたよ」
「……零くんって、学校ではそんな感じなんだ」
「うん。誰にでも優しいけど、どこか隙がないっていうか。でも、佐々木さんを見てる時のあいつ、すっげー普通の男子高校生って顔してた。本当に大事にしてるんだな」
裏表のない、真っ直ぐな言葉。
木下くんから見た零くんは、間違いなく『優しくて完璧な彼氏』なのだ。
過保護すぎるくらいのあの言動も、彼らにとっては「彼女を大事にしている証拠」にしか見えない。
私の中にある、あの真綿で首を絞められるような息苦しさを、木下くんに説明してもきっと分かってもらえないだろう。
特別棟の三階に近づくにつれて、様々な楽器の音が入り混じった、厚みのある響きが聞こえてきた。
バイオリンの甲高い音、トロンボーンの低い唸り、フルートの軽やかなスケール練習。
「うちの学校、公立のくせにフルオーケストラなんだぜ。前任の校長がめちゃくちゃ音楽好きでさ、楽器も結構揃えてくれてて」
木下くんが誇らしげに教えてくれる。
けれど、その重厚な音の重なりに近づくほど、なぜか私の胸の奥がざわざわと波立った。
――私、楽器なんて弾けるんだろうか。
記憶を失う前の私は、何か楽器をやっていたのだろうか。
両手を見つめ、指先を小さく動かしてみるけれど、何も思い浮かばない。
何も思い出せない。
それなのに、聴き慣れないはずのオーケストラのチューニングの音が、私の頭の奥にこびりついた『暗い海鳴り』の音と混ざり合って、不思議な焦燥感を煽ってくる。
「あの……木下くん」
「ん?」
「私、オーケストラ部を見学するって言っちゃったけど……楽器なんて、弾けないと思う。楽譜の読み方も、たぶん分からないし」
立ち止まって俯いた私に、木下くんはカラッとした笑顔を向けた。
「大丈夫だって! みんな最初はそんなもん。うちの部、高校から楽器始めたっていう初心者がばっかりだからさ」
「……本当に?」
「本当本当。僕だって、本格的にトランペット触ったの高校入ってからだし。高坂みたいに昔からやってる奴の方が珍しいくらいだよ。先輩たちも優しいし、絶対に楽しいって」
その明るい声は、私の足元に広がる得体の知れない不安を、あっけなく吹き飛ばしてくれた。
零くんの甘く重い声とも、お父さんの威圧的な声とも違う。
ただの同級生としての、気負いのない優しい励まし。
「……そっか。ありがとう、木下くん」
私が小さく笑い返すと、木下くんは「おう!」と照れくさそうに笑って、音楽室の重たい防音扉に手を掛けた。
扉を開けると、わっと音の波が押し寄せてくる。
放課後の音楽室は、オーケストラ部の熱気と様々な楽器の音色で満ちていた。
弦楽器の柔らかなチューニング音、金管楽器の華やかなファンファーレ、木管楽器の軽やかなスケール。
「おーい、木下! そっちの子、高坂が言ってた佐々木ちゃん?」
私たちが中に入ると、バイオリンを持った快活そうな先輩がパタパタと駆け寄ってきた。
「あ、はい。高坂、生徒会でちょっと遅れるらしくて」
「オッケー! 佐々木ちゃん、いらっしゃい。俺はバイオリンのパートリーダーやってる二年の吉田。よろしく!」
爽やかな笑顔で迎えられ、私は少し戸惑いながら頭を下げた。
周りにいた他のパートリーダーたちも「転校生だ!」「可愛いー!」と気さくに集まってくる。
誰もが明るくて、青春そのものといった眩しい空間。
「佐々木ちゃん、楽器は初めて? とりあえず色々触ってみなよ。まずはオーケストラの華、バイオリンなんてどう?」
吉田君はニコニコしながら、自分の持っていたバイオリンと弓を私に差し出した。
「えっ、でも、私……」
「大丈夫大丈夫! 案外すぐ音鳴るから。ほら、ここに顎を乗せて」
促されるまま、私は恐る恐るその楽器を受け取った。
木と、松脂の匂い。
左手でネックを握り、右手に弓を持った瞬間――奇妙な感覚に襲われた。
頭では「持ち方がわからない」と思っているのに、私の身体はまるで精巧な機械のように、寸分の狂いもなく正しいフォームを作っていた。
指先が勝手に弦を押さえ、右手が滑らかに弓を動かす。
キィィィン……、いや。
『ふわり』と、教室の喧騒を切り裂くような、澄んでいて芯のある美しい音が響き渡った。
ただの開放弦じゃない。
無意識にビブラートまでかけている。
「え……っ」
「うっそ、マジで!? 今の音、佐々木ちゃんが出したの!?」
吉田君が目を丸くして叫び、周りの部員たちも一斉にこちらを振り返った。
「すっげえ! 一発でそんないい音鳴る!? 経験者じゃないの!?」
「天才じゃん! ね、絶対バイオリンおいでよ! 即戦力だよ!」
拍手喝采。
大盛り上がりで熱烈な勧誘をしてくる部員たち。
けれど、私の身体は微かに震えていた。
(ちがう。ちがう、やだ……っ)
褒められているのに、嬉しくない。
それどころか、右手に握った『細長い弓』を見た瞬間、背中や二の腕にある無数の痣が、焼けるように疼き出したのだ。
息が苦しい。
心臓が嫌な音を立てている。
この楽器を持っていると、何かに怯えて泣き叫びたくなるような、底知れない恐怖が足元から這い上がってくる。
「ご、ごめんなさい……っ」
私は弾かれたようにバイオリンと弓を吉田君に突き返した。
「お、おお? どうした?」
きょとんとする皆の前で、私は必死に視線を彷徨わせた。
弦楽器じゃないもの。
弓を持たないもの。
ふと、部屋の隅で、別の女子の先輩が組み立てていた銀色の楽器が目に入った。
細くて、キラキラしていて、息を吹き込んで鳴らす楽器。
「私……っ、フルートが、やりたいんです」
上擦った声が、音楽室に響いた。
「フルート?」
「はい。ずっと、あの楽器に憧れてて……だから、バイオリンじゃなくて、フルートがいいんです」
それは、佐々木祐奈としてついた、初めての自覚的な嘘だった。
本当は憧れなんてない。
バイオリンだけは、ダメだって記憶の中で誰かが叫んでいる。
でも、その必死さが逆に「強い熱意」として伝わったのか、吉田君は「そっかー、残念だけど仕方ないな!」とカラッと笑って引き下がってくれた。
「おーい、フルートパート! 期待の新人ご指名だよー!」
私は木下くんに背中を押されるようにしてフルートパートの方へ歩き出した。
震える右手を、左手でぎゅっと握りしめながら。
自分の身体に染み付いた、得体の知れない『何か』から目を逸らすように。
「遅れてごめん。会議、長引いちゃって」
重たい防音扉が開き、少し息を切らした零くんが入ってきた。
その瞬間、部員たちの空気がパッと華やぐ。
「お、高坂! お前の彼女、フルートパートに入ることになったぞ!」
吉田君が声をかけると、零くんは一直線に私の方へと歩いてきた。
まだ心臓のバクバクが治まらない私は、借りたばかりの銀色のフルートを胸に抱え込むようにして彼を見上げた。
バイオリンを見事に鳴らしてしまったこと。
そのせいでパニックになりかけたこと。
彼にどう説明すればいいのか分からず、無意識に息を詰める。
零くんの黒い瞳が、私が抱きしめているフルートと、まだ微かに震えている私の指先をスッと撫でるように動いた。
ほんの一瞬。
彼の端正な顔に、「ああ、なるほどね」とでも言うような、深い納得の色が浮かんだ。
何かをすべて見透かしたような、あるいは、私が選んだ『嘘』の形を心底気に入ったような、ひどく静かな視線。
けれど、彼はバイオリンのことにも、私の怯えにも、一切触れなかった。
ただ、いつもの完璧な笑顔をふわりと咲かせて、私の頭を優しく撫でた。
「そっか。いいね、祐奈にすごく似合っているよ」
「……ほんと?」
「うん。フルートを吹く祐奈の姿、きっとすごく綺麗だろうな。……これから一緒に、たくさん練習しようね」
その声は、どこまでも優しかった。
私が自分を守るためについた『嘘』を、彼がまるごと肯定して、甘いシロップで包み込んで、鍵をかけてくれたような気がした。
彼がチェロ――私に恐怖を植え付けたバイオリンと同じ、弓で弾く『弦楽器』の担当だという事実に、ほんの少しだけ胸がざわついたけれど。
今はただ、何も聞かずにこの選択を受け入れてくれる彼の存在が、どうしようもなくありがたい。
***
部活を終えて、校門を出る頃にはすっかり夕暮れになっていた。
木下くんの家は私たちと同じ方向らしく、駅前の交差点までは三人で一緒に帰ることになった。
「いやー、結果的には佐々木さんがフルートパートに入ってくれてよかったわ。うちの部、木管がちょっと弱かったからさ」
「私、今日初めて触ったばっかりの初心者だよ?」
「そこは高坂がみっちり教え込んでくれるだろ」
木下くんがニカッと笑い、隣を歩く零くんも「もちろん」と優しく微笑む。
こんな風に三人で並んで歩いていると、本当にどこにでもある平和な高校生の帰り道みたいだった。
駅前の大きな交差点に差し掛かった時。
赤信号で立ち止まっていた木下くんが、ふと向かいの歩道を見て声を上げた。
「あ、あの制服。港女子学院じゃん」
木下くんの視線の先には、私が『以前通っていた』はずの、品の良い紺色のブレザーを着た女生徒が一人、スマホを見ながら信号待ちをしていた。
「港女子ってここから電車で一時間くらいかかるだろ? 結構遠いのに、この辺から通ってる子もいるんだなー。佐々木さんもそうだったんだっけ?」
「……そうだね」
木下くんの能天気な声に答えた零くんの相槌は、いつもの穏やかな響きとは少しだけ違っていた。
声のトーンが一段低く、ピリッとした静電気のようなものが混じっている。
「県外から通う生徒も珍しくないからね。……それより祐奈、帰ったら数学の続き、少しだけやろうか。明日の小テストの範囲——」
零くんは、私の肩にそっと触れて、視線を自分の方へ向けさせようとした。
明らかに、話題を変えようとしている。
私に、あの制服を見せないようにしている。
彼がこれほどあからさまに焦りを見せるのは、初めてだった。
けれど、なぜか私の目は、向かいの歩道に立つその女生徒から離れなかった。
信号が青に変わる。
横断歩道をすれ違う、その瞬間。
スマホから顔を上げた女生徒が、ふとこちらを見て――私と、真正面から視線がぶつかった。
ビクッ、と。
彼女の肩が大きく跳ねるのが分かった。
彼女の目は、ただの『見知らぬ他校の生徒』を見るものではなかった。
まるで、絶対にそこにいるはずのない幽霊を見たような、あるいは、見てはいけないおぞましいものを見てしまったような、驚愕と怯えがないまぜになった瞳。
彼女は道の真ん中で完全に足を止め、息を呑んで私を凝視している。
私の脳裏に、またあのどす黒い海鳴りの音が響き始めた。
――彼女は、私を知っている?。
この夏に創られたばかりの『佐々木祐奈』としてではなく。
港女子学院にいた頃の、私の、本当の姿を。
「祐奈」
耳元で、零くんのひどく冷たい、警告のような声がした。
彼の手が私の肩を強く、痛みを感じるほどに引き寄せる。
「行こう。遅くなると祐奈のお父さんが心配するから」
私を急かすように歩き出した彼の完璧な笑顔の裏側に、今までで一番暗い、底知れない焦燥と殺意のようなものが渦巻いているのを、私ははっきりと感じ取っていた。
横断歩道ですれ違う瞬間、その女生徒の唇が震えるように動いた。
『しんどう……?』
声にはならなかったけれど、確かにそう動いたように見えた。
その瞬間、私の頭の奥で、ノイズ混じりの映像がふっとフラッシュバックする。
――『神奈川のさ、海が近いところで。まー学校まで遠いけど、JK一人暮らしは無理って親も言うし』
放課後の教室。
グループの端っこで、誰かが私に向かってそんな他愛のない話をしている風景。
顔には薄くモヤがかかっているけれど、目の前の彼女と同じ声だった気がする。
親友でもない、ただ同じ教室で、浅い噂話を共有する程度のクラスメイトの顔。
(神奈川……?)
そうだ。
私たちが今住んでいるこの街も、私が『交通事故』に遭って落ちた海も、神奈川県だ。
港女子学院のある都内からは、電車を乗り継いでわざわざ来なければならない距離。
どうして私は、そんな離れた場所の海に落ちたのだろう。
「祐奈」
零くんのひどく冷たい声が、私の思考を強制終了させた。
彼が私の肩を抱き寄せるようにして、彼女との視線を物理的に遮断する。
「ごめん木下、俺たちちょっと急ぐから、今日はここで」
「お、おう。また明日なー」
事情を知らない木下くんが能天気に手を振るのを背に、零くんは半ば引きずるような早足で私を歩き出させた。
すれ違いざま、零くんがその女生徒へ向けた視線を、私は見ていない。
ただ、すれ違った直後、彼女がビクッと肩を跳ねさせ、逃げるように走り去っていく足音だけが背後で聞こえた。
「……零くん、痛い」
「あ……ごめん」
交差点を渡りきり、木下くんの姿が見えなくなったところで、ようやく彼の手の力が緩んだ。
見上げると、彼はいつもの優しい、少し困ったような笑顔に戻っていた。
けれど、その黒い瞳の奥にはまだ、微かな焦燥の残り火が燻っている。
「ごめんね、いきなり引っ張ったりして。ちょっと、貧血っぽくてさ。早く帰りたかったんだ」
分かりやすい嘘だった。
彼の手は少しも冷たくないし、顔色も悪くない。
でも、私は「そうだったんだ、大丈夫?」と、彼の嘘に乗っかることしかできなかった。
なぜあの子が幽霊でも見たような顔で私を見たのか。
なぜ零くんが、あんなにも冷たい声を出したのか。
そして、どうして私は、あの海に落ちたのか。
追求してはいけないと、私の中の『佐々木祐奈』としての防衛本能が警鐘を鳴らしている。
遠くから聞こえる海鳴りの音が、今日はやけに重たく、まとわりつくように聞こえるのを感じていた。
***
家に帰ると、すでに夕食の準備が整っていた。
ダイニングテーブルには、コロッケや色とりどりのサラダなど、テレビのホームドラマに出てくるような完璧なメニューが並んでいる。
「それで、新しい学校はどうだった? 友達はできそうかい?」
夕食の席で、お父さんがニコニコと笑いながら尋ねてきた。
向かいに座るお母さんも、隣のお兄ちゃんも、箸を止めて私の方を見ている。
「うん。隣の席の木下くんって人がすごく話しやすかったし、クラスのみんなも親切にしてくれたよ」
私がそう答えると、お母さんは「よかったわねえ」と大袈裟なほど胸を撫で下ろしている。
お兄ちゃんも無言でコップの水を飲みながら、小さく頷いている。
相変わらず、どこかよそよそしくて、お父さんの顔色を窺うような二人の態度。
「そうかそうか。零くんも一緒だし、安心だな」
お父さんは満足げに頷くと、私のグラスに麦茶を注ぎ足してくれた。
「放課後はどうしたんだ? 零くんが部活を紹介したいと言っていたが」
「あ、うん。オーケストラ部、すごく楽しそうだったから……私も入部しようかなって」
「オーケストラ! それは素晴らしい!」
お父さんはパァッと顔を輝かせ、持っていた箸を置いた。
「いいじゃないか、音楽は情操教育に最適だ。祐奈ならきっと上達も早いだろう。……どうだい、楽器は『弦楽器』なんて」
お父さんの目が、急に熱を帯びたように細められた。
「バイオリンや、ビオラ……。ああ、ビオラがいい。弦楽器というのは本当に気高くて美しい。特にビオラは、美しくて優秀な女性によく似合う楽器だ。お前がビオラを弾く姿を見たら、私もきっと誇らしいだろうな」
うっとりと虚空を見つめるようなお父さんの声に、私の背筋にゾクッと冷たいものが走った。
彼が誰の姿を想像してそんなことを言っているのか、記憶のない私には分からない。
けれど、その熱っぽい声色の裏に、ひどくねっとりとした『誰か』への執着のようなものを感じた。
そして何より――弦楽器。
音楽室で感じたあの焼け付くような恐怖と、呼吸が止まりそうになった感覚が、鮮明に蘇ってくる。
「……あ、あのね、お父さん」
私はテーブルの下で、自分の膝をぎゅっと握りしめた。
「私……フルートをやることにしたの」
「フルート?」
お父さんの顔から、スッと表情が抜け落ちた。
「うん。……その、弦楽器も素敵だったんだけど、私、フルートの音がすごく綺麗だなって思って。初心者でも大丈夫だって先輩が言ってくれたから、それで……」
言い訳するように早口で捲し立てる私の声だけが、静まり返ったダイニングに空しく響く。
お母さんとお兄ちゃんは、まるで息を止めたように硬直して、俯いたまま微動だにしない。
ほんの数秒の、永遠のように長い沈黙。
やがて、お父さんは「……そうか」と、静かに呟いた。
「フルートか。……まあ、お前が自分で決めたのなら、それが一番だな」
再び浮かべた温和な笑顔。
けれど、その目は少しも笑っていなかった。
用意された『完璧な台本』から私が一文字でも外れることを、この人は嫌悪している。
流石の私も、気が付いている。
肌を刺すような冷たいプレッシャーが、テーブル越しにビリビリと伝わってくる。
「……うん。ありがとう」
私はひきつりそうになる頬を必死に持ち上げて、笑い返した。
せっかく美味しいはずのコロッケが、まるで砂を噛んでいるようにパサパサとして、何の味もしなかった。



