あの夏、俺は神様から人生の〈攻略本〉をもらった

 今日は弁当を作り忘れたので、購買にパンを買いに行くことにした。
 購買のパンはコンビニよりも三割引きで安いから、購買のレジ前にはいつも一つの教室分くらい列ができる。睡眠不足の気怠さのせいで出足が遅れ、購買に着いた時には、ちょっとした遊園地のアトラクションくらいの列ができていた。

 列に並んでいる間、俺はぼんやりと水嶋のことを考えていた。
 昨夜悩んでいた俺がバカバカしくなるくらいに、水嶋はいつも通りだった。
 水嶋にとっては、クラスの女王と揉めたことなど、少し大きめの蚊に刺された程度のことでしかなかったのかもしれない。
 それどころか、学校に来ることだとか、授業を受けること、クラスの人間と上手くやること――そんなもの、彼女にとっては全てどうでもいいことだったのかも、と。

 俺はそんな風には思えない。
 学校に来ることは正しいことだし、授業を真面目に受けるのは正しいことだ。
 クラスメイトと仲良くやるのも、学級委員の仕事を真面目にやるのも、先生の頼み事を聞くのも、どれも正しいことだ。

 『正しさ』は、俺に力を与えてくれる。
 この世界で息をする許可証を手にすることに近い。
 そういう『正しさ』を積み重ねて、今、俺はここにいる。

 ある意味では、自分の利益を不当に高めてしまう〈攻略本〉をあまり使わないようにしているのも、自分が正しい存在でい続けたいからだ。

 『正しさ』という通行手形――それを失くしてしまったら、きっと俺は、この世界では生きていけなくなるだろう。

 ともすれば、水嶋はそういう不安や恐怖からも自由なのかもしれない。

 二十分くらいかかったが、無事にパンは買えた。
 購買のおばちゃんから「疲れた顔してるね! おまけしとくから元気出しな!」と、メロンパンをオマケでもらった。
 メロンパンはそこまで好きでもないので、どうせもらうなら隣の焼きそばパンの方が良かったが、そんなことを言えるはずもなく、「ありがとうございます」と笑って受け取った。
 うまく笑えていたかは、よくわからない。

 人の厚意を無下にするのは、正しくないことだ。
 だけど、水嶋なら平気で「いらない」と断るのかもしれない。
 その姿を想像すると、なぜだか胸がすくような気持ちがあった。


 透き通る空みたいな気持ちで教室の敷居を跨いだその瞬間、教室の宙空を牛乳パックが舞った。


 スローモーションのように牛乳パックは宙を駆け、教室後ろの窓際にいる誰かに直撃した。
 直撃の瞬間、白一色の花火みたいに牛乳パックは弾け、彼女の髪や服を白に染めた。
 重力の法則に従って床に落ちた牛乳パックからはどくどくと牛乳が流れ落ち、床に白の水たまりを広げていった。

「ごっめーん! 手が滑っちゃったー!」

 〈瑠夏グループ〉の取り巻きの一人が、声とともに両手を合わせた。その言葉とは裏腹に、彼女らの表情はやけに明るい。

「ちょっとー、手ー滑り過ぎー!」
「気をつけなよー! ほら水嶋さんに謝ってー」
「ごめーん! 大丈夫ー?」

 過剰に芝居がかった調子に、グループの輪に笑みが弾けた。
 前髪から牛乳を滴らせる水嶋さえ除外してしまえば、まるで青春ドラマのワンシーンのようだった。
 この教室の空気を決める最大の要因たる女王は、まるで何もなかったかのように超然と微笑んでいる。

「たいへーん。誰かー、拭くもの持ってきてあげてー」
「あいよ! これとかどうかな?」

 楽しそうな声とともに、教室の隅に干してあった雑巾が放られる。
 水気を含んだ雑巾は重そうな質感とともに飛び、べしゃっと水嶋の顔に命中し、また笑みが爆発した。
 水嶋は、牛乳の雫が床で弾けるのを、人間らしい心が消え失せたような目で見ている。

 何だ?
 何なんだ、これは?

 教室内の空気は固まっていた。
 まるで、液体窒素を吹き付けられ、瞬間冷凍された水のように。
 ただし、〈瑠夏グループ〉と、その取り巻きを除いては――の話だが。

 こんな光景、正しいはずはない。
 そんなことは小学生にだってわかる。

 だけど、そういう大多数が首肯できる『正しさ』が局所的に機能しなくなるケースだって存在する。
 そんなこと、この年齢になればさすがに理解している。
 『正しさ』の針がどちらに振れるのかを決めるのは、いつだって空気だ。

 クラスの誰とも話さず、いつもかも無表情でいる不気味な女子と、クラスの女王様では、初めから勝負にすらなっていない。

 この教室を支配している空気が、どちらに針を傾けようとしているのかは明白だった。それを押し留めようと、俺一人が踏ん張ったところで何の意味があるだろう。


『継原征示は水嶋瞑と一切関わってはならない』


 あれは、こういうことだったのか?

 水嶋暝を生贄に捧げ、教室の正義に従え。
 それがお前の、正しい選択だ――と。

 胸の奥がずくんと痛んだ。

 意味不明の痛みだった。
 肺でもなく、心臓でもない。
 それよりもっと奥深くから発せられる痛み。

 そこにはきっと、あの〈攻略本〉をもらった頃の俺がいる。
 世界を何一つ知らず、神社の隅で蹲ることしか知らなかった、無力な俺が。

 永遠にも思える痛み。
 決して忘れてはならない、痛み――。



「水嶋、ちょっと来い」



 俺の行動は、とても自動的だった。
 俺の意思や思考は何一つ介さず、ただ肉体が命じるままに、俺の身体と声帯は動いた。

「先生、呼んでるから」

 そんな事実は何一つない。
 牛乳溜まりの床も構わずに踏み込み、呆けている水嶋の腕を掴んで立たせ、無理やり引っ張っていく。

「ちょっ――」

 その声は、か細く掠れていた。
 そんな水嶋の声は初めて聞いた。
 しかし、俺の行動には何の影響も及ぼさない。

 唖然とする教室を出て、ざわめく廊下をかき分けて進んだ。
 手を引かれる水嶋は、時折つんのめりそうになりながらどうにかついてきた。
 教室前を抜けて、階段を降りる頃には足取りにも少し余裕を感じるようになった。

「て」

 人の気配が遠くなった頃、背後から蚊の鳴くような声がした。

 て――手。

「あ、ああ、ごめん」

 ようやく脳の回路が言葉を認識した。
 慌てて掴んでいた腕を放す。

「保健室行くから」

 水嶋は首を縦にも横にも振らなかった。
 ただ、秘境に生きる不思議な生き物を見たような目で、こちらを見てくるだけだ。
 歩き出すとついてくるので、最低限こちらの言葉は通じているのだろう。

 保健室に着くと、養護教諭の朝倉先生は留守にしていて、部屋はもぬけの殻だった。前に教えてもらった棚の奥からタオルを出し、水嶋に手渡す。

「拭きなよ。もし必要なら教室から鞄とか持ってくるけど」

 水嶋はしばらく手の中のタオルを見つめた後、首を小さく横に振った。
 匂いも気になるだろうし、着替えた方がいいのではと思ったが、本人がいいと言うならいいのだろう。

 朝倉先生が戻ってくるまでいようか、それとも教室に戻るかで悩んでいると、じっとりとした視線を向けられていることに気づいた。

「気になるなら出て行こうか?」

 どうせ答えは返ってこないだろうと思いながら、壁に向かって話す気持ちで声を掛けた。
 数秒後、水嶋の口が開いた。

「一つ、訊いていい?」

 言葉が返ってきたことに驚きながら、「何?」と言った。次のレスポンスはもっと早かった。

「どうして、助けたの?」
「どうしてって……そりゃ、助けるだろ」
「なぜ?」

 かすかな胸の痛みを感じながら、

「あいつら、ちょっとおかしいって。あんなの、絶対に正しくない」

 そう言うと、水嶋はまた黙った。
 今度は俺から視線を外さなかった。
 目は少しも動かないのに、頭の天辺からつま先まで観察されているような気持ちになる。

 校庭の方からは体育の大西先生が何やら叫んでいる。楽しそうな生徒たちのざわめきも、この静寂の保健室からはやけに遠くに聞こえた。
 そんな日常音に紛れて、小鳥の囀りにも似た声がした。

「気持ち悪い」
「……何か言った?」
「気持ち悪い――そう言った」

 水嶋の目は真っ直ぐに俺を射抜いていた。
 急所を刺し抜き、そのまま殺してしまおうという視線だった。
 不意の攻撃を躱しきれず、態勢を崩したまま直撃を食らってしまう。

「……どういう意味だよ」
「そのままの意味。あなたが、気持ち悪い。そんなことをして、あなたに何の得があるの? 気持ち悪い。あなたの善人ぶった顔を見てると、吐き気がする」

 水嶋の言葉は、研ぎ立ての刃物のように鋭かった。

 俺が水嶋を助けたのは、あんなのは『正しく』ないからだ。
 たとえ教室の正義が向こう側のものだったとしても、あれは『正しく』ないと思う。
 そうやって自分の行動を正当化しようと躍起になるほど、〈攻略本〉から授けられた『正しさ』が、ぐるぐるととぐろを巻く。


『継原征示は、水嶋瞑と一切関わってはならない』


 〈攻略本〉に書かれた、『正しさ』。
 弱い方を切り捨てる、酷薄な言葉。
 そして、俺にとっての絶対の『正解』。
 そして――。

「……お、継原どした。その子は――」

 振り向くと、カラリと軽い音とともに養護教諭の朝倉先生が戻ってきた。
 いつもとろんと眠そうな目をしているが、案外面倒見はいい、生徒からの人気も高い女の先生だ。

「すんません、こいつ、教室で……転んで、牛乳被っちまって。ちょっと休ませてもらっていいすか?」
「よくわからんが、構わんよ。お前は――」
「俺は、一旦戻ります。それじゃ」

 逃げるように保健室を飛び出した。
 胸に手を当てると、心臓の鼓動がばくんばくんと暴れ狂っていた。何度か深呼吸をして、呼吸を整えてから歩き始めた。

 ――気持ち悪い。

 水嶋の声は、ずっと頭の中で響き続けていた。