埃を払い、山側の木陰で、継原くんと二人並んで座った。
あのシェアサイクルが衝突したガードレールには、あの自転車の赤い塗料が生々しく貼りついていて、その向こうには真っ青な海が見えた。
「どうして、いるの」
さっきと同じことを訊くと、継原くんは無言で、いつものショルダーバックから〈攻略本〉を出して寄越した。最新ページを開く。
『水嶋瞑の自殺を止めるにはどうすればいいか』
半ば予想していた内容の〈問い〉だ。
問題は、〈答え〉。
ページをめくる。
そして、噴き出した。
「……何これ」
そこにあったのは、それまでのページでは見たこともないような〈答え〉だった。
『十月十三日午前八時三十七分十三秒に、地図上のA地点からB地点めがけて走り、坂道を自転車で駆け下りてくる水嶋瞑の胴に飛びつき、落下前に止めろ』
ご丁寧に、その〈答え〉の下には図解入りの地図まで描かれている。全てを知っている〈攻略本〉にここまで詳細に解説されたら、止められないわけがない。
「昨夜、〈攻略本〉に訊いて、即走ってきた。あれで」
継原くんが指差した先に、ぼろぼろになって打ち捨てられた自転車があった。
「あれで来たの?」
「金、なかったし。時間、逆算したら何とか間に合うって、わかったから」
「間に合うって……」
冗談じゃない。わたしはタクシーに五万円も使ってここまで来たんだ。それに自転車で追いつくからには、わたしよりもずっと先に走り出していなくてはならない。
わたしよりも、ずっと、先に――。
「……どうしたんだ?」
「ううん」
目と鼻の中間に、つーんと痺れる感覚があって、何度か首を振ってごまかした。
わたしは、自分の感情を隠すのがこの世の誰よりも上手い。
ごまかしきれる、わたしなら。
そう決意を固め、あえて酷薄に笑って見せる。
「裏切ったんだ、〈攻略本〉」
「は?」
「言ったじゃん、わたし。わたしを助けに来たら、継原征示の過去を全部バラすって。〈攻略本〉は、わたしがそんなことしないって高を括ったんだ。だから、わたしを助けた」
「違うよ」
「継原くんも、わたしはしないって思ってるんでしょ? するよ、悪いけど。わたしは――」
「もしかして、見てないのか?」
「何を」
今度は自分のスマホを差し出してきた。表示されていたのは、クラスのライングループのメッセージ画面。
そこには長文のメッセージが投稿されていた。
発信者は、継原征示。
メッセージを頭から最後まで全て読み、
息を呑み、
スクロールして戻し、
もう一度頭から読み返した。
わたしはすでに知っている内容のはずなのに、まるでそこで初めて知ったかのような衝撃を受けていた。
それはグループメンバーも同じのようで、既読だけついていて、レスは誰も返していなかった。
「どこまでやればいいかわかんなかったから、とりあえず同じものを学校の掲示板と、あとXにも。まあ、〈攻略本〉は答えてくれたんだから、それでよかったんだろうなって、今は思ってるよ。こっち着いてから、一応確認したんだけど、そこそこバズってる。なんか創作実話みたいな燃え方してるけど。見るか?」
スマホを返す手は、自分でもおかしくなるくらい震えていた。継原くんは、どこか憑き物が落ちたように清々しい顔をしていて、悔し紛れに言ってやりたくなった。
「……継原くんって、もしかしてバカなの?」
「自分でも知らなかったんだけど、どうもそうらしい」
継原くんは自分の過去を全て暴露した――彼がしたことを簡単にまとめると、そういうことになる。
クラスのグループラインだけではなく、学校の掲示板、果てはXまで。継原くんが作ったアカウントは作成間もないものの、全て実名を添えて投稿されている。
ツリー形式で事故の詳細や当時の報道などがまとめられていて、その事故のことを知らない人が見ても、一発で全容が把握できるほどにわかりやすい。「今さら何を言ってるんだ」という反応も多いが、当時の報道との整合からの信ぴょう性に、戸惑いながらも徐々に怒りの声をあげ始めているSNSの様子が見て取れた。
どれも全て、わたしがした脅しを実行した場合に起こるはずだったことだ。現実化しないはずの保険。わたしさえいなければ、起こらなかったこと。
吐き出す息は、途切れ途切れだった。
本当に途切れてしまえばいいのにって思う。
だけど、今のわたしは、ガードレールを飛び越えることすらできない。
何もできない。
わたしは世界にマイナスを与えることしかできない。
「消えたい……」
いなくなりたい。
死んでしまいたい。
膝を抱え、その膝に顔を押し付けるように埋めて、ぎゅっと小さく丸まった。世界に占める自分の体積を、できるだけ小さくしたい。
「わたしなんて、もっと早くいなくならなきゃいけなかったんだ。わたしなんかが、生きてるから、」
肺が大きく痙攣を始めたせいで、それ以上の言葉は紡げなかった。
咳が出て、鼻水が出て、目から汁が溢れて止まらなかった。
みっともなくて、情けなくて、今すぐにでも消えたい。
ふと横を見る。
継原くんはわたしの横で膝を抱えて、海の向こうを見ていた。つられてわたしも目の前を見る。道路を乗用車がすごいスピードで走って行く。その向こうの空には白い鳥が何羽か連れ立って、青い空を気持ちよさそうに泳いでいた。
「俺、こうなってよかったんだと思う」
なぜ、と言う代わりに、鼻を啜った。
「自分と向き合えたから。あれは丸ごと現実なんだなって、やっとわかった。ずっと溺れ続けてるみたいで、右も左もわからなかったけど、ようやく俺が何をすべきなのか、わかった気がするんだ」
「なに、を」
「償い」
継原くんの視線は、変わらず海の方にあった。まるで、その向こうに探していた何かがあるみたいに。
「あの事故に関わった人たち全てに対して、償いをする。何ができるかはまだわからないけど、それは俺がしなくちゃならないことなんだ。そのために生きるって、そう決めた」
「そんなの、だめだよ」
「だから、水嶋には生きててもらわなきゃ困るんだ。俺は水嶋に償いたい。そうしたいんだ」
「……自分勝手」
「そうだよ、俺は自分勝手だ。お前が償われたくなかったとしても、そうする。ようやくわかったんだよ」
自分勝手なエゴイストにしては、その声はあまりにも優しすぎた。おかげで、さっきまでとはまた違った部分から溢れ出してしまう。さっきのものとは、まるで違うところから流れ出した雫は滝のように、わたしのズボンを容赦なく濡らした。
「どれだけかかるか、わからないよ」
「一生を賭ける」
「それでも、足りないかもしれない」
「足りなくたって、やる」
「わたしも手伝う」
「え?」
訊き返したいのは、実はわたしの方だった。わたし自身にとっても想像すらしていなかった言葉だった。
でも、羨ましかった。
あんなに真っ直ぐに、誰かのために生きると宣言できる継原くんが。
眩しくて、煌めいていて、汚らしい自分の姿すら巻かれてしまうような光に包まれているように見えた。
あんな風になりたい。
そんな欲望が、するりと零れ落ちてきた。
「継原くんが償いたいなら、わたしはそれを手伝いたい」
「お前は俺に償われる方だろ。水嶋が一緒にって、そんなの、めちゃくちゃだ」
「いいじゃない、めちゃくちゃで。わたし、そうしたいって初めて思った。そうしたら、わたし、許せるかもしれない」
「俺を?」
「ううん」
わたしは首を横に振った。
継原くんの言葉は実にピントがずれていた。
わたしは、わたしを許せるようになりたいんだ。
今さら世界に許されるとは思っていないけど、せめて自分くらいは自分を許せる生き方をしたい。そうなりたい。
継原くんみたいに。
かなうなら、継原くんと一緒に――。
「あ、」
「どうした?」
わたしの素っ頓狂な声に、継原くんの顔がこちらに向いた。
その時、わたしの脳裏を過ったのは、もう一人の彼の顔だった。
「加山くん。わたし、加山くんの怪我を治してあげたいよ」
「どうにかって?」
「わたしたちの償いを始めるとしたら、加山くんを助けるのが一番相応しいと思う」
「それは、確かにそうだ」
「なんとかならないかな」
「もしかして〈攻略本〉のこと言ってるのか? それなら無理だぞ。あれは全部を知ってるだけで、魔法とか奇跡が起こせるようなものじゃない」
「でも、もしかしたらいい知恵があるかもしれないじゃん。ちょっと訊いてみようよ」
「まあ、訊いてみるだけなら……」
継原くんはぶつぶつ言いながら、いつもかけているショルダーバッグから〈攻略本〉とボールペンを取り出した。それも、随分久しぶりに見るような気がした。
わたしは継原くんの肩から〈攻略本〉を見ようとするが、「近いよ」と言われてしまう。強い心で継原くんの肩に顎を乗せ続ける。やがて諦めたのか、少しだけ肩を竦めて、〈攻略本〉の新しいページにこう書き付けた。
『加山泰道の右手を治したい』
継原くんはさらさらと書き付けて、パタンと閉じる。
大きく息を吸って、吐いた。
「そういえば」
「うん?」
「何かを『したい』って〈攻略本〉に書いたの、もしかしたら初めてかもしれない」
継原くんのその声はあまりにも透き通っていて、悲しくないのに泣きたくなってしまう。顎の下にある彼の肩に、思い切り顔を押し付け、それが溢れるのに任せた。
「なんだよ」
「なんでもない」
「それ、もしかして涎か?」
「ばか」
そういうこと言うなら、もう一生わたしの顔なんて見せてやるもんか。
言葉にするのも野暮ったくて、わたしはわたしの中から溢れてくるものを全部継原くんになすりつけてしまおうと思う。でも、さすがに鼻水をこすりつけるのは可愛そうなのでやめておいた。
継原くんは継原くんで、そんなわたしをなすがままにして、小さく息を吐き出すだけだった。その余裕が憎らしくて、わたしはさらに顔を埋めてしまう。
息を大きく吸って、また吸い込んで。まるで犬になったみたいだ。継原くんからは汗の匂いがして、頭がくらくらしてしまう。
「そろそろ、開くぞ」
「早く」
肩の上に顎を乗せたまま、継原くんの手が〈攻略本〉のページを開くのを見た。そこに書かれた素っ気ない文章が飛び込んでくる。
「……何これ?」
「さあ」
二人して首を傾げた。そこに書かれていたのはこんな文言だったからだ。
『五メートル右に転がっているライターで、この〈攻略本〉に火をつけろ』
「比喩……じゃないよね?」
継原くんから見て右に目をやると、〈攻略本〉の言った通り、紫色の百円ライターが転がっていた。継原くんが拾い上げ、ぎざぎざの円盤を勢いよく回すと、シュッと音がして火が点いた。
何度かそうした後、「うん」と小さく頷いた。
「この通りにしよう」
「え?」
継原くんの動きはひどくスムーズだった。
わたしから距離を取り、切り立った山肌の斜面の近くに立ち、着火した。
継原くんの背中でよく見えなかったが、切れ切れに見える炎の揺らめきは、不思議な色をしていた。
赤く染まったかと思えば、青い光を放ち、緑色にのたくって、紫色の渦に巻かれるようにして、炎は大きくなっていった。
継原くんが火の点いた〈攻略本〉をアスファルトの上に置くと、炎は瞬く間に燃え広がり、わたしや継原くんを包むほどに大きくなって、次の瞬間、花火みたいにぱっと弾けて消えた。
弾けた光は一塊の鳥のような形を作り、瞬く間に空へと飛び去って行った。
全ては一瞬の出来事だった。
後には燃え滓すら残っていない。
まるで、さっきまでそこにあったのが嘘だったみたいに。
「消えちゃった」
「そうだな」
不思議と、継原くんはあまり驚いていなかった。まるで、こうなることをあらかじめ知っていたんじゃないかと思ってしまうくらい。
「なんかさ、聞こえた気がしたんだ」
「何が?」
「もういいよ――って」
「誰の声?」
「さあ」
継原くんは肩を竦め、誤魔化そうとするかのように、傍らに転がしていた自転車のハンドルを両手で持ち、うんせと起こした。
「帰ろう。やることは山ほどあるんだし」
わたしが返事する前に歩き出していたので、わたしは少しだけムッとしながら、小走りで継原くんの前に出る。そんなわたしの背中に、くすっと噴き出したような吐息がかかるので、すぐさま振り返り、子どもみたいに頬を膨らませて見せる。それを見た継原くんはまた肩を揺すった。
青い海と空の境目を二羽の鳥が滑るように飛んでいく。群れないマイワシ。
青に染まらない白い鳥。
おんぼろの自転車を引く継原くんと、わたし。似ていないのに、なぜか似ている気がして、やけに目を細めたくなる。
「あ、ちょっと待って」
継原くんは道の端に自転車を停め、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。耳に当て、おう、とか、そうか、とか、やけに嬉しそうに話している。
「あ、今さ、水嶋もいるんだ。代わるよ――水嶋」
スマホを差し出される。その顔からは隠しきれない喜びが溢れている。
「誰なの?」
「加山。報告したいことがあるんだってさ」
そう言って、継原くんは不器用に片目を瞑って見せた。
そのあからさまな仕草に、彼がもったいぶっていることが余さず伝わってしまう。
良いことなんて、何一つ起こっていない。
これから埋め合わせをしなければならないことばかりだ。
それなのに、こんなに幸せな気持ちになるのはどうしてだろう。
全てを肯定できるような幸せな錯覚に包まれながら、ようやく見つけた宝物のように、そのスマホを受け取り、彼の声を聞いた。
〈了〉
あのシェアサイクルが衝突したガードレールには、あの自転車の赤い塗料が生々しく貼りついていて、その向こうには真っ青な海が見えた。
「どうして、いるの」
さっきと同じことを訊くと、継原くんは無言で、いつものショルダーバックから〈攻略本〉を出して寄越した。最新ページを開く。
『水嶋瞑の自殺を止めるにはどうすればいいか』
半ば予想していた内容の〈問い〉だ。
問題は、〈答え〉。
ページをめくる。
そして、噴き出した。
「……何これ」
そこにあったのは、それまでのページでは見たこともないような〈答え〉だった。
『十月十三日午前八時三十七分十三秒に、地図上のA地点からB地点めがけて走り、坂道を自転車で駆け下りてくる水嶋瞑の胴に飛びつき、落下前に止めろ』
ご丁寧に、その〈答え〉の下には図解入りの地図まで描かれている。全てを知っている〈攻略本〉にここまで詳細に解説されたら、止められないわけがない。
「昨夜、〈攻略本〉に訊いて、即走ってきた。あれで」
継原くんが指差した先に、ぼろぼろになって打ち捨てられた自転車があった。
「あれで来たの?」
「金、なかったし。時間、逆算したら何とか間に合うって、わかったから」
「間に合うって……」
冗談じゃない。わたしはタクシーに五万円も使ってここまで来たんだ。それに自転車で追いつくからには、わたしよりもずっと先に走り出していなくてはならない。
わたしよりも、ずっと、先に――。
「……どうしたんだ?」
「ううん」
目と鼻の中間に、つーんと痺れる感覚があって、何度か首を振ってごまかした。
わたしは、自分の感情を隠すのがこの世の誰よりも上手い。
ごまかしきれる、わたしなら。
そう決意を固め、あえて酷薄に笑って見せる。
「裏切ったんだ、〈攻略本〉」
「は?」
「言ったじゃん、わたし。わたしを助けに来たら、継原征示の過去を全部バラすって。〈攻略本〉は、わたしがそんなことしないって高を括ったんだ。だから、わたしを助けた」
「違うよ」
「継原くんも、わたしはしないって思ってるんでしょ? するよ、悪いけど。わたしは――」
「もしかして、見てないのか?」
「何を」
今度は自分のスマホを差し出してきた。表示されていたのは、クラスのライングループのメッセージ画面。
そこには長文のメッセージが投稿されていた。
発信者は、継原征示。
メッセージを頭から最後まで全て読み、
息を呑み、
スクロールして戻し、
もう一度頭から読み返した。
わたしはすでに知っている内容のはずなのに、まるでそこで初めて知ったかのような衝撃を受けていた。
それはグループメンバーも同じのようで、既読だけついていて、レスは誰も返していなかった。
「どこまでやればいいかわかんなかったから、とりあえず同じものを学校の掲示板と、あとXにも。まあ、〈攻略本〉は答えてくれたんだから、それでよかったんだろうなって、今は思ってるよ。こっち着いてから、一応確認したんだけど、そこそこバズってる。なんか創作実話みたいな燃え方してるけど。見るか?」
スマホを返す手は、自分でもおかしくなるくらい震えていた。継原くんは、どこか憑き物が落ちたように清々しい顔をしていて、悔し紛れに言ってやりたくなった。
「……継原くんって、もしかしてバカなの?」
「自分でも知らなかったんだけど、どうもそうらしい」
継原くんは自分の過去を全て暴露した――彼がしたことを簡単にまとめると、そういうことになる。
クラスのグループラインだけではなく、学校の掲示板、果てはXまで。継原くんが作ったアカウントは作成間もないものの、全て実名を添えて投稿されている。
ツリー形式で事故の詳細や当時の報道などがまとめられていて、その事故のことを知らない人が見ても、一発で全容が把握できるほどにわかりやすい。「今さら何を言ってるんだ」という反応も多いが、当時の報道との整合からの信ぴょう性に、戸惑いながらも徐々に怒りの声をあげ始めているSNSの様子が見て取れた。
どれも全て、わたしがした脅しを実行した場合に起こるはずだったことだ。現実化しないはずの保険。わたしさえいなければ、起こらなかったこと。
吐き出す息は、途切れ途切れだった。
本当に途切れてしまえばいいのにって思う。
だけど、今のわたしは、ガードレールを飛び越えることすらできない。
何もできない。
わたしは世界にマイナスを与えることしかできない。
「消えたい……」
いなくなりたい。
死んでしまいたい。
膝を抱え、その膝に顔を押し付けるように埋めて、ぎゅっと小さく丸まった。世界に占める自分の体積を、できるだけ小さくしたい。
「わたしなんて、もっと早くいなくならなきゃいけなかったんだ。わたしなんかが、生きてるから、」
肺が大きく痙攣を始めたせいで、それ以上の言葉は紡げなかった。
咳が出て、鼻水が出て、目から汁が溢れて止まらなかった。
みっともなくて、情けなくて、今すぐにでも消えたい。
ふと横を見る。
継原くんはわたしの横で膝を抱えて、海の向こうを見ていた。つられてわたしも目の前を見る。道路を乗用車がすごいスピードで走って行く。その向こうの空には白い鳥が何羽か連れ立って、青い空を気持ちよさそうに泳いでいた。
「俺、こうなってよかったんだと思う」
なぜ、と言う代わりに、鼻を啜った。
「自分と向き合えたから。あれは丸ごと現実なんだなって、やっとわかった。ずっと溺れ続けてるみたいで、右も左もわからなかったけど、ようやく俺が何をすべきなのか、わかった気がするんだ」
「なに、を」
「償い」
継原くんの視線は、変わらず海の方にあった。まるで、その向こうに探していた何かがあるみたいに。
「あの事故に関わった人たち全てに対して、償いをする。何ができるかはまだわからないけど、それは俺がしなくちゃならないことなんだ。そのために生きるって、そう決めた」
「そんなの、だめだよ」
「だから、水嶋には生きててもらわなきゃ困るんだ。俺は水嶋に償いたい。そうしたいんだ」
「……自分勝手」
「そうだよ、俺は自分勝手だ。お前が償われたくなかったとしても、そうする。ようやくわかったんだよ」
自分勝手なエゴイストにしては、その声はあまりにも優しすぎた。おかげで、さっきまでとはまた違った部分から溢れ出してしまう。さっきのものとは、まるで違うところから流れ出した雫は滝のように、わたしのズボンを容赦なく濡らした。
「どれだけかかるか、わからないよ」
「一生を賭ける」
「それでも、足りないかもしれない」
「足りなくたって、やる」
「わたしも手伝う」
「え?」
訊き返したいのは、実はわたしの方だった。わたし自身にとっても想像すらしていなかった言葉だった。
でも、羨ましかった。
あんなに真っ直ぐに、誰かのために生きると宣言できる継原くんが。
眩しくて、煌めいていて、汚らしい自分の姿すら巻かれてしまうような光に包まれているように見えた。
あんな風になりたい。
そんな欲望が、するりと零れ落ちてきた。
「継原くんが償いたいなら、わたしはそれを手伝いたい」
「お前は俺に償われる方だろ。水嶋が一緒にって、そんなの、めちゃくちゃだ」
「いいじゃない、めちゃくちゃで。わたし、そうしたいって初めて思った。そうしたら、わたし、許せるかもしれない」
「俺を?」
「ううん」
わたしは首を横に振った。
継原くんの言葉は実にピントがずれていた。
わたしは、わたしを許せるようになりたいんだ。
今さら世界に許されるとは思っていないけど、せめて自分くらいは自分を許せる生き方をしたい。そうなりたい。
継原くんみたいに。
かなうなら、継原くんと一緒に――。
「あ、」
「どうした?」
わたしの素っ頓狂な声に、継原くんの顔がこちらに向いた。
その時、わたしの脳裏を過ったのは、もう一人の彼の顔だった。
「加山くん。わたし、加山くんの怪我を治してあげたいよ」
「どうにかって?」
「わたしたちの償いを始めるとしたら、加山くんを助けるのが一番相応しいと思う」
「それは、確かにそうだ」
「なんとかならないかな」
「もしかして〈攻略本〉のこと言ってるのか? それなら無理だぞ。あれは全部を知ってるだけで、魔法とか奇跡が起こせるようなものじゃない」
「でも、もしかしたらいい知恵があるかもしれないじゃん。ちょっと訊いてみようよ」
「まあ、訊いてみるだけなら……」
継原くんはぶつぶつ言いながら、いつもかけているショルダーバッグから〈攻略本〉とボールペンを取り出した。それも、随分久しぶりに見るような気がした。
わたしは継原くんの肩から〈攻略本〉を見ようとするが、「近いよ」と言われてしまう。強い心で継原くんの肩に顎を乗せ続ける。やがて諦めたのか、少しだけ肩を竦めて、〈攻略本〉の新しいページにこう書き付けた。
『加山泰道の右手を治したい』
継原くんはさらさらと書き付けて、パタンと閉じる。
大きく息を吸って、吐いた。
「そういえば」
「うん?」
「何かを『したい』って〈攻略本〉に書いたの、もしかしたら初めてかもしれない」
継原くんのその声はあまりにも透き通っていて、悲しくないのに泣きたくなってしまう。顎の下にある彼の肩に、思い切り顔を押し付け、それが溢れるのに任せた。
「なんだよ」
「なんでもない」
「それ、もしかして涎か?」
「ばか」
そういうこと言うなら、もう一生わたしの顔なんて見せてやるもんか。
言葉にするのも野暮ったくて、わたしはわたしの中から溢れてくるものを全部継原くんになすりつけてしまおうと思う。でも、さすがに鼻水をこすりつけるのは可愛そうなのでやめておいた。
継原くんは継原くんで、そんなわたしをなすがままにして、小さく息を吐き出すだけだった。その余裕が憎らしくて、わたしはさらに顔を埋めてしまう。
息を大きく吸って、また吸い込んで。まるで犬になったみたいだ。継原くんからは汗の匂いがして、頭がくらくらしてしまう。
「そろそろ、開くぞ」
「早く」
肩の上に顎を乗せたまま、継原くんの手が〈攻略本〉のページを開くのを見た。そこに書かれた素っ気ない文章が飛び込んでくる。
「……何これ?」
「さあ」
二人して首を傾げた。そこに書かれていたのはこんな文言だったからだ。
『五メートル右に転がっているライターで、この〈攻略本〉に火をつけろ』
「比喩……じゃないよね?」
継原くんから見て右に目をやると、〈攻略本〉の言った通り、紫色の百円ライターが転がっていた。継原くんが拾い上げ、ぎざぎざの円盤を勢いよく回すと、シュッと音がして火が点いた。
何度かそうした後、「うん」と小さく頷いた。
「この通りにしよう」
「え?」
継原くんの動きはひどくスムーズだった。
わたしから距離を取り、切り立った山肌の斜面の近くに立ち、着火した。
継原くんの背中でよく見えなかったが、切れ切れに見える炎の揺らめきは、不思議な色をしていた。
赤く染まったかと思えば、青い光を放ち、緑色にのたくって、紫色の渦に巻かれるようにして、炎は大きくなっていった。
継原くんが火の点いた〈攻略本〉をアスファルトの上に置くと、炎は瞬く間に燃え広がり、わたしや継原くんを包むほどに大きくなって、次の瞬間、花火みたいにぱっと弾けて消えた。
弾けた光は一塊の鳥のような形を作り、瞬く間に空へと飛び去って行った。
全ては一瞬の出来事だった。
後には燃え滓すら残っていない。
まるで、さっきまでそこにあったのが嘘だったみたいに。
「消えちゃった」
「そうだな」
不思議と、継原くんはあまり驚いていなかった。まるで、こうなることをあらかじめ知っていたんじゃないかと思ってしまうくらい。
「なんかさ、聞こえた気がしたんだ」
「何が?」
「もういいよ――って」
「誰の声?」
「さあ」
継原くんは肩を竦め、誤魔化そうとするかのように、傍らに転がしていた自転車のハンドルを両手で持ち、うんせと起こした。
「帰ろう。やることは山ほどあるんだし」
わたしが返事する前に歩き出していたので、わたしは少しだけムッとしながら、小走りで継原くんの前に出る。そんなわたしの背中に、くすっと噴き出したような吐息がかかるので、すぐさま振り返り、子どもみたいに頬を膨らませて見せる。それを見た継原くんはまた肩を揺すった。
青い海と空の境目を二羽の鳥が滑るように飛んでいく。群れないマイワシ。
青に染まらない白い鳥。
おんぼろの自転車を引く継原くんと、わたし。似ていないのに、なぜか似ている気がして、やけに目を細めたくなる。
「あ、ちょっと待って」
継原くんは道の端に自転車を停め、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。耳に当て、おう、とか、そうか、とか、やけに嬉しそうに話している。
「あ、今さ、水嶋もいるんだ。代わるよ――水嶋」
スマホを差し出される。その顔からは隠しきれない喜びが溢れている。
「誰なの?」
「加山。報告したいことがあるんだってさ」
そう言って、継原くんは不器用に片目を瞑って見せた。
そのあからさまな仕草に、彼がもったいぶっていることが余さず伝わってしまう。
良いことなんて、何一つ起こっていない。
これから埋め合わせをしなければならないことばかりだ。
それなのに、こんなに幸せな気持ちになるのはどうしてだろう。
全てを肯定できるような幸せな錯覚に包まれながら、ようやく見つけた宝物のように、そのスマホを受け取り、彼の声を聞いた。
〈了〉

