部屋を片付けた後、足音を殺して叔母さんの家を出た。時刻は深夜の二時を少し回ったところだった。
リビングには「少し出かけます。心配しないでください」と書置きを残してきた。それはある種のダミーで、本物の遺書は机の引き出しの奥深くにしまっておいた。
書いたのは「ありがとう」とか「ごめんなさい」というような月並みな文句がほとんどなので、書き残す意味があるのかとも言いたくなるような遺書だったが、わたしが自分の意思で死を選んだのだと示すためには、残さざるを得なかった。
ともあれ、ダミーの書置きを見れば、しばらくわたしの顔を見ずに済むと思った叔母さんは安心して、二、三日くらいはそのままでいるだろう。叔母さんさえ騒がなければ、わたしを探そうとする人は継原くん以外には誰もいない。
継原くんを撒くのはさして難しくないが、問題は継原くんの持つ〈攻略本〉だ。
あのチートアイテムを使われては、どこに行こうとたちどころに見つけられてしまうだろう。
〈攻略本〉にわたしを探させないためには、わたしを探し当てるデメリットを明確に提示してやる必要があった。
――もしも継原くんがわたしの自殺を止めようとしたら、水嶋瞑は十年前の事故の時に継原くんがしたことを残らず暴露します。
あの時、わたしが掛けた〈保険〉はそういう理屈だった。
わたしを探し当てることが継原くんの不利益になるなら、〈攻略本〉はわざわざわたしを探そうとはしないだろう。
あとは、継原くんには逆立ちしたって探せない場所に行けばいい。
大通りに出て、タクシーを探す。ほどなくして、深夜料金のランプを灯した濃緑のタクシーが一台止まった。扉が開いた瞬間、逃亡者のような勢いで中に飛び込み、財布の中に入っていた一万円札五枚を差し出した。
「これで行けるところまで行ってください」
運転手の男性は、ぎょっと目を丸くしていた。
「どうしたの、これ」
「一回やってみたかったんです」
答えにもなっていないようなことを言うと、初老の男性タクシー運転手は痰が絡んだような声で笑った後、この金額で行けそうな目的地をいくつか示してくれた。
どこも魅力的だったが、最終的には海から近い街を選んだ。
「お姉ちゃん、もしかして家出?」
「ちょっと一人になりたくって」
完全に本当でもないが、嘘ではなかった。男性はその答えが琴線に触れたのか、首全体で大きく頷いていた。
「そうかい、わかるよ。おれもさ、若え時は親とか兄弟とか、全部いやんなっちまってさ。よく、バイクで家出したもんよ」
「バイク」
思わず鸚鵡返ししてしまった。しょぼくれて腹の出た運転手さんとバイクは、容易には結びつかなかった。
「いいですね、バイク」
「おう、お姉ちゃんもバイクの免許取ったら走ってみるとええ。海沿いの道とか走ると最高やで。風を自分の身体で切り裂いて走るんや。気持ちええで」
「へえ」
おっちゃんの言葉が本当に気持ちよさそうで、エンジンを唸らせバイクで疾駆する自分の姿を思わず想像してしまった。
確かにそれは、今まで味わってきた何よりも爽快なイメージだった。
だけど、生憎わたしの人生は今日で終わりを告げる。まさに、人生最後の旅の真っ最中。風を切って走る感覚をわたしが味わうことは二度とない。
「窓、開けていいですか?」
「ええよ」
小気味いい音を立てて窓が降りていく。開いた窓から手を出すと、手のひらに風を感じた。手のひらだけでは足りなくなって、頭も出してみる。
「頭出すとあぶねえよ。また今度、自分のバイクでやりな」
「はーい」
名残を惜しみながら、言われた通り車内に戻ってくる。
だけど、わたしに今度はないのだ。
そんなこと言えるはずもないけど。
タクシーはそのまま走り続け、東の空が白み始めた頃に海沿いの街へと辿り着いた。車内のナビで近くの駅を調べてもらい、そこで降ろしてもらった。
駅名すら見たこともないような、寂れた無人駅だった。申し訳程度の屋根、コンクリート打ちっぱなしの通路には埃が丸まって転がっている。寂しそうに立っている看板は赤錆だらけで、思い切り息を吸い込むと潮の香りが胸いっぱいに広がった。ぼろぼろの駅舎の向こうには、かすかに海が見える。
今、世界で一番自由なのは、わたしかもしれない。
そんなことを考えながら駅舎の横にある踏切を渡ると、こぢんまりとしたロータリーの脇にレンタルサイクルのポートを見つけた。栄でも乗ったことがあるので、アプリは入れてある。
確かに、わたしはバイクの免許は持っていない。そして、免許を持っていないわたしでも自転車は乗ることが出来る。
「……よし」
借りよう。
そう思った時には既に借りていた。目に痛いくらい真っ赤に塗られた自転車で、こんなの乗ってたら、一目見ただけで異邦人だと見抜かれてしまうだろう。それでも、バイクとは言わないまでも、自転車で海沿いの道を走る気持ちよさに抗うことはできなかった。
自転車で坂道を下っていくと、海はすぐそこだった。まだ朝早いので、砂浜に人はまばらだ。犬の散歩をしているおばさんと、ランニング中の男の子、夫婦で散歩中と思われる老夫婦が一組。それらを横目に、朝の海辺を滑るように走っていく。バイクのようなスピードは出せないが、空気は澄んでいて、頬に当たる風が気持ちよかった。
どこまでも行けるような気がした。
登り坂に差し掛かり、立ち漕ぎの体勢になり、汗をだらだら流しながら必死でペダルを踏んだ。
どこまでも行ける気がしたけど、どこに向かっているのかはわからなかった。
遠くへ行きたくて、ここじゃないどこかへ行ってしまいたくて、どこに続いているのかもわからない坂を登り続けた。
展望台のような見晴らしのいい場所についた時は、ここが天国なのかもしれないと思った。それでもまだ不満だった。
わたしが行きたいのは、天国でも地獄でもなく、何もない場所だった。
水もなく、空気もなく、そして何より、自分がいない場所。
そこには何もないから、わたしがわたし以外の誰かを損なうことはない。
だってそこにはわたしがいないのだから。
少し煤けた赤の車が滑り込んできた。車からは一組の男女が降りてきて、「わあー!」なんて、女の方がわざとらしい声を上げる。まんざらでもなさそうな顔で、女の少し後をついていく男。まるでわたしなんて見えていないみたいに、二人は高台の縁まで歩き、男は自分の右手を女の左手に寄せた。
目を覆いたくなるくらい平和で、幸せな風景だった。
その二人の背中に、なぜか継原くんと自分を重ね合わせていることに気づき、猛烈な恥ずかしさに襲われた。
あんな風に別れておいて、追いかけて来れないように保険までかけておいて、何を身勝手な。
「あああ……」
頭を抱えてぶんぶん振った。
消えてしまいたい衝動に駆られ、無我夢中でシェアサイクルの自転車のハンドルを掴み、走り出した。
ついさっきまで、汗水垂らして登ってきた道を反対に下っていく。ブレーキなんて触りもしない。エンジンでもついているのかと思うくらいにぐんぐん加速する。
――海沿いの道とか走ると最高やで。
――風を自分の顔と身体で切り裂いていくんや。
これだ。
想像していたのは、こんな感覚だ。
曲がり切れるか微妙なカーブに突っ込み、転ぶかどうかギリギリのせめぎ合いを超えた瞬間、ぱあっと視界が光に包まれた。
海だった。
今だ。
そう思った。
飛ぶなら、今だ。
何もない世界に行くなら、今だ。
全てがスローモーションになった。
零コンマ一秒が永遠みたいな長さになって、赤いシェアサイクルが少し進むたびに、自分の中にある余計なものが少しずつそぎ落とされていった。
それは、わずかに残った本当の家族との幸せな時間で、
互いの心を削り合うみたいな叔母との暮らしで、
何度も通った八事の墓で、
何もなかった沈黙の教室で。
一つ落としていくたびに、自分の心が人間から離れていくようだった。
自分なんて生まれてこなければよかったとか、そんなことがどうでもよくなるくらいに目の前の海と空が綺麗だった。
数秒後、この自転車はガードレールと衝突し、カタパルトから射出された砲弾みたいに、わたしの身体は勢いよく宙を舞うだろう。
崖の岩肌に何度もぶつかりながら転がり落ち、痛みとともに、やがて訪れる致命的な衝撃がわたしの意識を霧消させるだろう。
醜く歪んだわたしの身体は全て、この海が包み隠してくれる。
目を閉じる。
その瞬間が訪れる。
そう、思っていた。
「だああああ――――――――――――――――っ!!!」
それは、わたしが思っていた衝撃とは違っていた。
何者かがわたしの腰に飛びついてきて、自転車が走って行くのとは反対方向に転がった。
わたしの頭はその誰かに抱きかかえられ、アスファルトを転がる衝撃はほとんど受けなかった。腕の隙間から、わたしという運転手を失った真っ赤なシェアサイクルはガードレールを軽々と超え、崖の向こうへと落下していった。ガシャン、ガシャンという音すら遠くなり、後には空と、海と、誰かと、この世から消えるべきわたしという意識だけが残された。
ごろんと転がる。
太陽に焦がされたアスファルトが熱くて、鉄板で焼かれるカルビ肉の気持ちだった。
「なんで、いるの?」
「……さあ」
継原くんは、どこか吹っ切れたような顔で穏やかに笑っていた。
秋の雲がどこかに流れていく。
リビングには「少し出かけます。心配しないでください」と書置きを残してきた。それはある種のダミーで、本物の遺書は机の引き出しの奥深くにしまっておいた。
書いたのは「ありがとう」とか「ごめんなさい」というような月並みな文句がほとんどなので、書き残す意味があるのかとも言いたくなるような遺書だったが、わたしが自分の意思で死を選んだのだと示すためには、残さざるを得なかった。
ともあれ、ダミーの書置きを見れば、しばらくわたしの顔を見ずに済むと思った叔母さんは安心して、二、三日くらいはそのままでいるだろう。叔母さんさえ騒がなければ、わたしを探そうとする人は継原くん以外には誰もいない。
継原くんを撒くのはさして難しくないが、問題は継原くんの持つ〈攻略本〉だ。
あのチートアイテムを使われては、どこに行こうとたちどころに見つけられてしまうだろう。
〈攻略本〉にわたしを探させないためには、わたしを探し当てるデメリットを明確に提示してやる必要があった。
――もしも継原くんがわたしの自殺を止めようとしたら、水嶋瞑は十年前の事故の時に継原くんがしたことを残らず暴露します。
あの時、わたしが掛けた〈保険〉はそういう理屈だった。
わたしを探し当てることが継原くんの不利益になるなら、〈攻略本〉はわざわざわたしを探そうとはしないだろう。
あとは、継原くんには逆立ちしたって探せない場所に行けばいい。
大通りに出て、タクシーを探す。ほどなくして、深夜料金のランプを灯した濃緑のタクシーが一台止まった。扉が開いた瞬間、逃亡者のような勢いで中に飛び込み、財布の中に入っていた一万円札五枚を差し出した。
「これで行けるところまで行ってください」
運転手の男性は、ぎょっと目を丸くしていた。
「どうしたの、これ」
「一回やってみたかったんです」
答えにもなっていないようなことを言うと、初老の男性タクシー運転手は痰が絡んだような声で笑った後、この金額で行けそうな目的地をいくつか示してくれた。
どこも魅力的だったが、最終的には海から近い街を選んだ。
「お姉ちゃん、もしかして家出?」
「ちょっと一人になりたくって」
完全に本当でもないが、嘘ではなかった。男性はその答えが琴線に触れたのか、首全体で大きく頷いていた。
「そうかい、わかるよ。おれもさ、若え時は親とか兄弟とか、全部いやんなっちまってさ。よく、バイクで家出したもんよ」
「バイク」
思わず鸚鵡返ししてしまった。しょぼくれて腹の出た運転手さんとバイクは、容易には結びつかなかった。
「いいですね、バイク」
「おう、お姉ちゃんもバイクの免許取ったら走ってみるとええ。海沿いの道とか走ると最高やで。風を自分の身体で切り裂いて走るんや。気持ちええで」
「へえ」
おっちゃんの言葉が本当に気持ちよさそうで、エンジンを唸らせバイクで疾駆する自分の姿を思わず想像してしまった。
確かにそれは、今まで味わってきた何よりも爽快なイメージだった。
だけど、生憎わたしの人生は今日で終わりを告げる。まさに、人生最後の旅の真っ最中。風を切って走る感覚をわたしが味わうことは二度とない。
「窓、開けていいですか?」
「ええよ」
小気味いい音を立てて窓が降りていく。開いた窓から手を出すと、手のひらに風を感じた。手のひらだけでは足りなくなって、頭も出してみる。
「頭出すとあぶねえよ。また今度、自分のバイクでやりな」
「はーい」
名残を惜しみながら、言われた通り車内に戻ってくる。
だけど、わたしに今度はないのだ。
そんなこと言えるはずもないけど。
タクシーはそのまま走り続け、東の空が白み始めた頃に海沿いの街へと辿り着いた。車内のナビで近くの駅を調べてもらい、そこで降ろしてもらった。
駅名すら見たこともないような、寂れた無人駅だった。申し訳程度の屋根、コンクリート打ちっぱなしの通路には埃が丸まって転がっている。寂しそうに立っている看板は赤錆だらけで、思い切り息を吸い込むと潮の香りが胸いっぱいに広がった。ぼろぼろの駅舎の向こうには、かすかに海が見える。
今、世界で一番自由なのは、わたしかもしれない。
そんなことを考えながら駅舎の横にある踏切を渡ると、こぢんまりとしたロータリーの脇にレンタルサイクルのポートを見つけた。栄でも乗ったことがあるので、アプリは入れてある。
確かに、わたしはバイクの免許は持っていない。そして、免許を持っていないわたしでも自転車は乗ることが出来る。
「……よし」
借りよう。
そう思った時には既に借りていた。目に痛いくらい真っ赤に塗られた自転車で、こんなの乗ってたら、一目見ただけで異邦人だと見抜かれてしまうだろう。それでも、バイクとは言わないまでも、自転車で海沿いの道を走る気持ちよさに抗うことはできなかった。
自転車で坂道を下っていくと、海はすぐそこだった。まだ朝早いので、砂浜に人はまばらだ。犬の散歩をしているおばさんと、ランニング中の男の子、夫婦で散歩中と思われる老夫婦が一組。それらを横目に、朝の海辺を滑るように走っていく。バイクのようなスピードは出せないが、空気は澄んでいて、頬に当たる風が気持ちよかった。
どこまでも行けるような気がした。
登り坂に差し掛かり、立ち漕ぎの体勢になり、汗をだらだら流しながら必死でペダルを踏んだ。
どこまでも行ける気がしたけど、どこに向かっているのかはわからなかった。
遠くへ行きたくて、ここじゃないどこかへ行ってしまいたくて、どこに続いているのかもわからない坂を登り続けた。
展望台のような見晴らしのいい場所についた時は、ここが天国なのかもしれないと思った。それでもまだ不満だった。
わたしが行きたいのは、天国でも地獄でもなく、何もない場所だった。
水もなく、空気もなく、そして何より、自分がいない場所。
そこには何もないから、わたしがわたし以外の誰かを損なうことはない。
だってそこにはわたしがいないのだから。
少し煤けた赤の車が滑り込んできた。車からは一組の男女が降りてきて、「わあー!」なんて、女の方がわざとらしい声を上げる。まんざらでもなさそうな顔で、女の少し後をついていく男。まるでわたしなんて見えていないみたいに、二人は高台の縁まで歩き、男は自分の右手を女の左手に寄せた。
目を覆いたくなるくらい平和で、幸せな風景だった。
その二人の背中に、なぜか継原くんと自分を重ね合わせていることに気づき、猛烈な恥ずかしさに襲われた。
あんな風に別れておいて、追いかけて来れないように保険までかけておいて、何を身勝手な。
「あああ……」
頭を抱えてぶんぶん振った。
消えてしまいたい衝動に駆られ、無我夢中でシェアサイクルの自転車のハンドルを掴み、走り出した。
ついさっきまで、汗水垂らして登ってきた道を反対に下っていく。ブレーキなんて触りもしない。エンジンでもついているのかと思うくらいにぐんぐん加速する。
――海沿いの道とか走ると最高やで。
――風を自分の顔と身体で切り裂いていくんや。
これだ。
想像していたのは、こんな感覚だ。
曲がり切れるか微妙なカーブに突っ込み、転ぶかどうかギリギリのせめぎ合いを超えた瞬間、ぱあっと視界が光に包まれた。
海だった。
今だ。
そう思った。
飛ぶなら、今だ。
何もない世界に行くなら、今だ。
全てがスローモーションになった。
零コンマ一秒が永遠みたいな長さになって、赤いシェアサイクルが少し進むたびに、自分の中にある余計なものが少しずつそぎ落とされていった。
それは、わずかに残った本当の家族との幸せな時間で、
互いの心を削り合うみたいな叔母との暮らしで、
何度も通った八事の墓で、
何もなかった沈黙の教室で。
一つ落としていくたびに、自分の心が人間から離れていくようだった。
自分なんて生まれてこなければよかったとか、そんなことがどうでもよくなるくらいに目の前の海と空が綺麗だった。
数秒後、この自転車はガードレールと衝突し、カタパルトから射出された砲弾みたいに、わたしの身体は勢いよく宙を舞うだろう。
崖の岩肌に何度もぶつかりながら転がり落ち、痛みとともに、やがて訪れる致命的な衝撃がわたしの意識を霧消させるだろう。
醜く歪んだわたしの身体は全て、この海が包み隠してくれる。
目を閉じる。
その瞬間が訪れる。
そう、思っていた。
「だああああ――――――――――――――――っ!!!」
それは、わたしが思っていた衝撃とは違っていた。
何者かがわたしの腰に飛びついてきて、自転車が走って行くのとは反対方向に転がった。
わたしの頭はその誰かに抱きかかえられ、アスファルトを転がる衝撃はほとんど受けなかった。腕の隙間から、わたしという運転手を失った真っ赤なシェアサイクルはガードレールを軽々と超え、崖の向こうへと落下していった。ガシャン、ガシャンという音すら遠くなり、後には空と、海と、誰かと、この世から消えるべきわたしという意識だけが残された。
ごろんと転がる。
太陽に焦がされたアスファルトが熱くて、鉄板で焼かれるカルビ肉の気持ちだった。
「なんで、いるの?」
「……さあ」
継原くんは、どこか吹っ切れたような顔で穏やかに笑っていた。
秋の雲がどこかに流れていく。

