あの夏、俺は神様から人生の〈攻略本〉をもらった

 家に着くと時計は十八時を回っていた。
 台所からは香ばしい匂いが漂ってきている。

「ただいま、ばあちゃん」
「おかえり。ご飯、今作っとるから。アンタは宿題しとき」
「わかった」

 台所で、ばあちゃんが危うい手付きでフライパンを振っている。
 手伝いたいが、手伝おうとすると「征示は座っとき」とやんわり断られるから、手伝わないのが優しさなのかも、と最近は思うようになった。
 食器棚からコップを出して水を一杯飲み干す。
 まだ残暑が厳しく、外を少し歩くだけであっという間に汗だくになってしまう。

「今日のご飯は?」
「生姜焼き。アンタ、好きやろ」
「うん。ありがとう」

 ばあちゃんは、今年で八十七になる。
 頭はまだまだはっきりしているが、最近はよく身体の節々が痛むらしく、起き上がるのに難儀していることが多い。
 無理はしないでほしいといつも言っているのに、「まだわしは元気やよ」と働きたがる。
 それは、幼い頃に両親を亡くした俺への負い目があるからだということも、なんとなく察している。

 悪い人じゃないけど、それを理解してなお打ち解けられるほど、俺は大人になりきれてもいない。
 結果、俺とばあちゃんの微妙な距離感は、ずっと続いている。

 曲がった腰で料理を続けるばあちゃんにそっと背を向け、足音を殺して階段を登る。
 古い木造の階段が自らの限界を感じて呻いているかのようにぎいぎい軋む。その軋みは、今いる場所はとても壊れやすいものなのだという声のように思えた。
 自分の部屋の襖を閉じて、ようやく酸素が吸えた気持ちになる。机に向かって大きく息を吐き出した。

「さて、と」

 スマホのアプリを起動し、クラスの有志で作ったメッセージグループにある、画像アルバムのタブをタップする。一番初めに投稿された、クラス集合写真を表示した。

 その一番右端にいる、感情を全てどこかに置き忘れてきたかのような表情の女子――それが、水嶋暝だ。

 背はとても小さい。背の順に並ぶと前から三番目か、四番目くらいの位置になる。
 無表情で、人を寄せ付けない冷徹なオーラを放ち続けているのに、その顔の造りや雰囲気のそこかしこに、人を惹きつけてやまない魔性のようなものを秘めているように、俺には思えた。

 水嶋暝とはどんな人間なのか。春からこちら、ずっと同じクラスで過ごしてきたが『わからない』というのが正直な答えになる。
 うみちゃんに話した通り、クラス内でまともに彼女と話す人間はいない。それどころか、彼女が言葉を発するのを見る機会すら稀だ。授業で指名されれば答えはするので、失語症などではないのだけれど。
 いつも無表情で、先生が冗談を言おうが、クラスメイトがヘマしようが、一瞬たりとも笑わない。
 クラス内でグループを作るような授業で、一人取り残されても動じないし、教室内でふざけていた男子がボールをぶつけても怒らない。
 超然とした態度で、いつも教室の端の方にいる。
 感情が薄いのではないと思う。特に根拠はないが、そう感じる。
 おそらくだが、水嶋はクラス内で起こる様々な出来事を、ガラスの向こう側の出来事として捉えているんじゃないだろうか。
 水槽の中でしか生きられない魚が、水槽の外にいる人間たちを見ているかのような。
 魚たちの関心事はあくまで水槽の中のことで、外の人間たちがいくら騒ごうと関係ない。

 そんな彼女がほんの少しだけ笑ったことがトラブルの発端となってしまったのは、皮肉としか言いようがない。