わたしが家に一度戻ったのは、世話になった叔母に最後の挨拶を――などという殊勝な考えではなく、自分がいなくなった後に備えて、少しでも部屋の片付けをしておきたいと思ったからだ。
叔母には散々迷惑をかけてきたのだ。遺品の整理まで手間をかけさせたくはない。
「おかえりなさい、瞑さん」
帰った時には十二時を回っていたのに、叔母はまだ起きていた。
「遅くなって、すみません」
一声返すが、叔母さんからの返事はなかった。
高校生の娘がこんな時間に帰って来たのだから、普通の親なら小言の一つがあって然るべきなのだが、それもない。
この人は親ではないのだから、当たり前なのかもしれないけれど。
わたしが自室に戻ると、叔母は腰を上げ、のそりとリビングから自室へ戻っていった。その卑屈な息遣いを感じるたび、言い知れぬ罪悪感がわたしの胸に棘を残していく。
わたしに関心がないのではない。関心がないならば日付が変わるまでわたしの帰りを待っていたりはしない。だからといって、その行動が愛情の現れではないのは、わたしが一番よくわかっていた。
結局のところ、彼女はわたしのことが怖いのだ。
事故で亡くなったわたしの母は、叔母に対して支配的に振る舞う人間だったらしい。親戚の集まりなどで、親族がは殊更にそう繰り返していたのを聞いたことがある。
妹を恐怖で支配する姉であるわたしの母と、支配される妹。呪われた構図は彼女らが大人になっても続き、呪いを解くことなく母は逝ってしまった。後に残されたのは支配者の遺児であるわたしと、被支配者だけ。
叔母がわたしへの恐怖を抱えていたのは、幼い頃から薄々察していた。
都合の悪いことに、わたしの容姿は母と瓜二つだった。
成長とともに、加速度的に母に似ていくわたし。わたしに接する時の叔母は、いつも怯えていた。まるで、わたしの背後に母の幽霊が取り憑いているのかと思うくらいだった。
わたしなんて捨ててしまえばいいのに――幼い頃から何度もそう思った。
叔母がそうしないのは、きっと母への忠誠心と恐怖がそれを許さないのだろうと思う。
わたしの存在は、加速度的に叔母の人格と人生を損なっていった。
まるで、ロールプレイングゲームの実況動画で見る、毒の沼地に足を踏み入れたプレイヤーキャラのようだ。
一歩進むたびにスリップダメージを受ける。ヒットポイントを削られ、やがてプレイヤーキャラは動けなくなる。
彼女を待つのは、永遠の停滞だ。
わたしという毒の沼地は、叔母の人生を永遠の停滞へと誘っていた。
叔母が毒の沼地で蹲っている間も、時間は無情に流れていく。
わたしの背が伸びるのと並行して、叔母はどんどん年を取っていく。出会った頃は三十手前だった叔母も、今年でもう四十になる。
わたしというスリップダメージを食らい続けている叔母は、年齢以上に更けて見えた。女性として輝ける時間はとっくの昔に過ぎてしまって、後は腐り落ちるのを待つばかり。
だからわたしは、叔母のためにも、自分で自分を処するべきなのだと思う。
ベッドに寝転がり、スマートフォンに保存してある動画を再生する。
それは、継原くんと行った水族館で撮影した、マイワシのトルネードの動画だった。残り容量も少なかったのに、たっぷり五分以上も撮影してしまった思い出の動画。
継原くんの方にカメラを向けているのに、彼は全くこちらに気づかない。口をぽかんと開けたまま、マイワシたちの舞いをただ眺めている。その顔が、普段教室の中心にいる彼とは思えないほど呆けていて、思わず笑ってしまった。
わたしは彼のことをどう思っていたのだろうか。
好きだったんだろうな――自信をもってそう言い切れるほど、恋愛という感情に詳しいわけではないのだけれど。
わたしに怯える叔母さんを宥めるために進学した高校だった。
その入学式で、新入生代表として挨拶する彼を見た時から、何か特別なものを感じていたように思う。
あの事故の原因となった車の運転手と同じ苗字なのは、不思議な偶然だと思っていた。まさか本当にその関係者だとは思わなかったが、ふと気づくと彼に視線が吸い寄せられている自分に気づいた。
彼は、完璧な優等生だった。
誰もが嫌がる学級委員を進んで勤め、先生や同級生からの信頼も厚い。成績だって優秀だし、教室内の誰よりも彼は大人だった。
彼はいつだって全体の利益を最優先して、自分の苦労や不利益は勘定に入っていないように見えた。
完璧な善人。
それでもわたしには、彼の笑顔が人工的に作られたものに見えてならなかった。
まるで、呪いで一生道化を演じ続けなくてはならなくなった道化師のようだ。彼の顔を目にするだけで吐き気がした。
彼に連れて行かれた保健室で、わたしはあの〈攻略本〉を初めて見た。最初のページに書かれていたことの意味はまるでわからなかったが、あの日付――わたしの家族が失われたあの日付だけが強烈に頭に残っていた。
下手をすれば、最後のページに書かれていた自分の名前すら忘れそうになってしまうくらいだった。
あの手帳が何なのかを確かめたいと思った。
だから、鎌をかけた。
――これ、何?
――継原征示は、水嶋瞑と一切関わってはならない、だって。
効果は覿面だった。
のこのこ追ってきた彼を引っ掛け、〈攻略本〉のことを聞き出した。
〈攻略本〉の能力を知ったわたしは、もう一度〈攻略本〉の中身を確認したいと思った。それが、あのデート作戦だった。
デートプランを〈攻略本〉に考えてもらい、それを元に彼をエスコートするという名目で、〈攻略本〉を一日預かる。全てわたしの思う通りに事を運べた。
あとは、トイレに行く時に中身を全て確認するだけ――あの日付の意味が全てつながった瞬間だった。
継原征示は、あの〈攻略本〉を使って自分の親を事故に遭わせたのだ。
わたしが次に考えたのは、彼と一緒に死ぬことだった。
自分で自分を処分することはずっと考えていたのに、実行には移せないままここまで生き延びてしまった。
あの事故の原因を作った彼を道連れにできるなら、わたしという外れ者も、この世に生まれてきた意味を見出せるんじゃないか。
彼に対する恨みはなかった。
あったのは、むしろ同情だった。
叔母の人生を食い物にして生き長らえるわたしですら消えたいのに、生きるためにあれほどの人身御供を捧げざるを得なかった彼は、一体どれほど重い十字架を背負っているのか。想像すらできないほどだった。
ともすれば、彼を道連れにすることは、彼の魂をも救うことなのかもしれない。
わたしが加山泰道の不登校に目をつけたのは、最後に正しいことがしたかったからだけではない。
わたしが観察したところ、加山くんは学校という集団生活に馴染まない人間で、戻って来ればかなり高い確率で周囲との軋轢を生むと予想していた。
校外で既に成功しつつある加山くんにとっての正解は、このまま高校生活からドロップアウトしてしまうことだが、〈攻略本〉は他人の正解を斟酌したりはしない。
持ち主の心情すら無視し、持ち主に都合のいい結果だけを導き出す魔性の道具――それが〈攻略本〉だ。
まさか登校初日に事故に遭うとは思わなかったけど、それは決壊寸前だった継原くんにとっては最後のひと押しになった。
全て、思い描いた通りになった。
思い通りにならなかったのは、自分の心だけだった。
わたしたちは、あまりにも似すぎていた。
群れないマイワシの双子。
最後の最後で、わたしは彼が死ぬのは違うと思ってしまった。
強烈な罪の意識を抱えている彼は、これからもずっと自分を犠牲にし続けるだろう。
それはきっと、わたしがこの世で残せる、唯一の『正しい』成果になるんじゃないか。
そう、思ってしまった。
「すごいね」
動画の中のわたしが、そう呟く。
それは、紛れもないわたしの本心だった。
継原くんは、すごい。
わたしには到底できないことを、彼はしようとしている。
そんな継原くんを、わたしなんかと一緒に死なせるわけにはいかないのだ。
「……あはは」
暗転した画面の中で、わたしの醜い顔が歪んでいる。
結局のところ、わたしは誰かを食い物にせずには生きられないのだろう。
どこまで行っても、私は正しくはなれなかった。
最後の最後まで、それは変わらない。
叔母には散々迷惑をかけてきたのだ。遺品の整理まで手間をかけさせたくはない。
「おかえりなさい、瞑さん」
帰った時には十二時を回っていたのに、叔母はまだ起きていた。
「遅くなって、すみません」
一声返すが、叔母さんからの返事はなかった。
高校生の娘がこんな時間に帰って来たのだから、普通の親なら小言の一つがあって然るべきなのだが、それもない。
この人は親ではないのだから、当たり前なのかもしれないけれど。
わたしが自室に戻ると、叔母は腰を上げ、のそりとリビングから自室へ戻っていった。その卑屈な息遣いを感じるたび、言い知れぬ罪悪感がわたしの胸に棘を残していく。
わたしに関心がないのではない。関心がないならば日付が変わるまでわたしの帰りを待っていたりはしない。だからといって、その行動が愛情の現れではないのは、わたしが一番よくわかっていた。
結局のところ、彼女はわたしのことが怖いのだ。
事故で亡くなったわたしの母は、叔母に対して支配的に振る舞う人間だったらしい。親戚の集まりなどで、親族がは殊更にそう繰り返していたのを聞いたことがある。
妹を恐怖で支配する姉であるわたしの母と、支配される妹。呪われた構図は彼女らが大人になっても続き、呪いを解くことなく母は逝ってしまった。後に残されたのは支配者の遺児であるわたしと、被支配者だけ。
叔母がわたしへの恐怖を抱えていたのは、幼い頃から薄々察していた。
都合の悪いことに、わたしの容姿は母と瓜二つだった。
成長とともに、加速度的に母に似ていくわたし。わたしに接する時の叔母は、いつも怯えていた。まるで、わたしの背後に母の幽霊が取り憑いているのかと思うくらいだった。
わたしなんて捨ててしまえばいいのに――幼い頃から何度もそう思った。
叔母がそうしないのは、きっと母への忠誠心と恐怖がそれを許さないのだろうと思う。
わたしの存在は、加速度的に叔母の人格と人生を損なっていった。
まるで、ロールプレイングゲームの実況動画で見る、毒の沼地に足を踏み入れたプレイヤーキャラのようだ。
一歩進むたびにスリップダメージを受ける。ヒットポイントを削られ、やがてプレイヤーキャラは動けなくなる。
彼女を待つのは、永遠の停滞だ。
わたしという毒の沼地は、叔母の人生を永遠の停滞へと誘っていた。
叔母が毒の沼地で蹲っている間も、時間は無情に流れていく。
わたしの背が伸びるのと並行して、叔母はどんどん年を取っていく。出会った頃は三十手前だった叔母も、今年でもう四十になる。
わたしというスリップダメージを食らい続けている叔母は、年齢以上に更けて見えた。女性として輝ける時間はとっくの昔に過ぎてしまって、後は腐り落ちるのを待つばかり。
だからわたしは、叔母のためにも、自分で自分を処するべきなのだと思う。
ベッドに寝転がり、スマートフォンに保存してある動画を再生する。
それは、継原くんと行った水族館で撮影した、マイワシのトルネードの動画だった。残り容量も少なかったのに、たっぷり五分以上も撮影してしまった思い出の動画。
継原くんの方にカメラを向けているのに、彼は全くこちらに気づかない。口をぽかんと開けたまま、マイワシたちの舞いをただ眺めている。その顔が、普段教室の中心にいる彼とは思えないほど呆けていて、思わず笑ってしまった。
わたしは彼のことをどう思っていたのだろうか。
好きだったんだろうな――自信をもってそう言い切れるほど、恋愛という感情に詳しいわけではないのだけれど。
わたしに怯える叔母さんを宥めるために進学した高校だった。
その入学式で、新入生代表として挨拶する彼を見た時から、何か特別なものを感じていたように思う。
あの事故の原因となった車の運転手と同じ苗字なのは、不思議な偶然だと思っていた。まさか本当にその関係者だとは思わなかったが、ふと気づくと彼に視線が吸い寄せられている自分に気づいた。
彼は、完璧な優等生だった。
誰もが嫌がる学級委員を進んで勤め、先生や同級生からの信頼も厚い。成績だって優秀だし、教室内の誰よりも彼は大人だった。
彼はいつだって全体の利益を最優先して、自分の苦労や不利益は勘定に入っていないように見えた。
完璧な善人。
それでもわたしには、彼の笑顔が人工的に作られたものに見えてならなかった。
まるで、呪いで一生道化を演じ続けなくてはならなくなった道化師のようだ。彼の顔を目にするだけで吐き気がした。
彼に連れて行かれた保健室で、わたしはあの〈攻略本〉を初めて見た。最初のページに書かれていたことの意味はまるでわからなかったが、あの日付――わたしの家族が失われたあの日付だけが強烈に頭に残っていた。
下手をすれば、最後のページに書かれていた自分の名前すら忘れそうになってしまうくらいだった。
あの手帳が何なのかを確かめたいと思った。
だから、鎌をかけた。
――これ、何?
――継原征示は、水嶋瞑と一切関わってはならない、だって。
効果は覿面だった。
のこのこ追ってきた彼を引っ掛け、〈攻略本〉のことを聞き出した。
〈攻略本〉の能力を知ったわたしは、もう一度〈攻略本〉の中身を確認したいと思った。それが、あのデート作戦だった。
デートプランを〈攻略本〉に考えてもらい、それを元に彼をエスコートするという名目で、〈攻略本〉を一日預かる。全てわたしの思う通りに事を運べた。
あとは、トイレに行く時に中身を全て確認するだけ――あの日付の意味が全てつながった瞬間だった。
継原征示は、あの〈攻略本〉を使って自分の親を事故に遭わせたのだ。
わたしが次に考えたのは、彼と一緒に死ぬことだった。
自分で自分を処分することはずっと考えていたのに、実行には移せないままここまで生き延びてしまった。
あの事故の原因を作った彼を道連れにできるなら、わたしという外れ者も、この世に生まれてきた意味を見出せるんじゃないか。
彼に対する恨みはなかった。
あったのは、むしろ同情だった。
叔母の人生を食い物にして生き長らえるわたしですら消えたいのに、生きるためにあれほどの人身御供を捧げざるを得なかった彼は、一体どれほど重い十字架を背負っているのか。想像すらできないほどだった。
ともすれば、彼を道連れにすることは、彼の魂をも救うことなのかもしれない。
わたしが加山泰道の不登校に目をつけたのは、最後に正しいことがしたかったからだけではない。
わたしが観察したところ、加山くんは学校という集団生活に馴染まない人間で、戻って来ればかなり高い確率で周囲との軋轢を生むと予想していた。
校外で既に成功しつつある加山くんにとっての正解は、このまま高校生活からドロップアウトしてしまうことだが、〈攻略本〉は他人の正解を斟酌したりはしない。
持ち主の心情すら無視し、持ち主に都合のいい結果だけを導き出す魔性の道具――それが〈攻略本〉だ。
まさか登校初日に事故に遭うとは思わなかったけど、それは決壊寸前だった継原くんにとっては最後のひと押しになった。
全て、思い描いた通りになった。
思い通りにならなかったのは、自分の心だけだった。
わたしたちは、あまりにも似すぎていた。
群れないマイワシの双子。
最後の最後で、わたしは彼が死ぬのは違うと思ってしまった。
強烈な罪の意識を抱えている彼は、これからもずっと自分を犠牲にし続けるだろう。
それはきっと、わたしがこの世で残せる、唯一の『正しい』成果になるんじゃないか。
そう、思ってしまった。
「すごいね」
動画の中のわたしが、そう呟く。
それは、紛れもないわたしの本心だった。
継原くんは、すごい。
わたしには到底できないことを、彼はしようとしている。
そんな継原くんを、わたしなんかと一緒に死なせるわけにはいかないのだ。
「……あはは」
暗転した画面の中で、わたしの醜い顔が歪んでいる。
結局のところ、わたしは誰かを食い物にせずには生きられないのだろう。
どこまで行っても、私は正しくはなれなかった。
最後の最後まで、それは変わらない。

