あの夏、俺は神様から人生の〈攻略本〉をもらった

 青山瞑――それが彼女の、事故当時の名前だ。
 十年前の事故を報じる記事に記載された、犠牲となった家族のうちの一つが青山だった。
 四人家族のうち三人は死亡し、生き残ったのは当時七才だった青山瞑、ただ一人だった。

「もうすっかり忘れちゃったのか、あるいは、知らないのかもって思ってた」

 もう水嶋の方は見れなかった。
 これは、俺の罪でしかないのに。

「……怖かったんだ。現実を突きつけられるのが。大きくなって、自分がしたことの意味は理解した。自分のせいで、巻き込まれて、たくさんの人が死んだのも。逃げてた。目を閉じて、耳を塞いでいればいつかみんな忘れていくんじゃないかって、信じたかった」
「じゃあ、わたしのことも知らなかったんだ」

 水嶋の視線が、俺の後頭部に向けられている。その部分がちりちりと焼けるように熱かった。一度だけ、どうにか首を縦に動かした。

 ばあちゃんは俺に何も言おうとはしなかったし、俺も積極的に訊こうとはしなかった。俺の願いと行動が、何か途轍もなく恐ろしい事態を引き起こしたのだということはわかっていたが、それを現実のものとして受け止めることができるほど、俺の精神は頑強ではなかった。
 あの事故のことを意図的に隠そうとするばあちゃんの優しさに甘えて、全力で目を逸らした。
 一年が経ち、二年が経ち、長い時間の経過の中で、あの事故以前の記憶が曖昧になっていく自分を、俺は自覚していた。生まれた時から俺はばあちゃんと二人で暮らしていて、手慰みに俺を殴る父親や、ただ哀れなだけの母親なんて、初めからいなかったんじゃないかと思うこともあった。
 だけど、俺の手には〈攻略本〉があった。
 初めのページにはあの日の〈問い〉と〈答え〉が刻まれている。
 罪の証は、確かに存在していた。
 それは俺の心の中に深く根を張り、痛みにも似た叫びをあげて続けている。

 正しく生きろ。
 その身の全てを世界に捧げろ。
 違えれば、お前にこの世を生きる資格はない――と。

「ずっとね。どうしようかなって思ってたんだ、継原くんのこと」

 頭上から水嶋の声が聞こえてくる。
 俺は今だに顔を上げられずにいた。

「最初に同じクラスになった時からね、あの車を運転してた人と同じ苗字だなって思ってた。偶然だって思ってたよ。あのページを見て、〈攻略本〉のことを知るまでは」

 水嶋が最初に〈攻略本〉を見たのは、あの保健室だった。
 俺の名前と、日付――あの時すでに、水嶋の手には二つの材料があったことになる。
 その水嶋に、最後の材料を与えたのは、他ならぬ俺だった。

 だから、〈攻略本〉は言ったのだ。
 継原征示は、水嶋瞑と一切関わってはならない――。

「死んじゃおうか――って言ったよな」
「うん」
「死ななきゃならないのは俺だよ。お前じゃない」

 昨夜、気づいてから。
 今日、図書館で全ての事実を確認してから。
 あるいは、あの神社で神様から〈攻略本〉をもらってから。

 そうするのが一番正しいんだって、本当はわかっていた。

 自分のために、現実を捻じ曲げた。
 その結果が、俺の隣にいるこいつだ。
 俺の願いの犠牲になった少女。
 俺さえいなければ、こいつは――。

「それもいいかなって思ったよ。正直に言うと」

 俯いた俺の視界に割り込んできたのは水嶋だった。水嶋は、俺の前に跪いて、地面から俺を見上げていた。バツが悪くなって顔を上げると、水嶋も同じように顔を上げ、正対する。

「でも、昨日の話だって嘘じゃない。継原くんと死ぬのも悪くないかなって思ったのも、本当」

 水嶋は、だらりと垂らした俺の右手を取り、両手で包みこむようにした。
 水嶋の手はほんのりと温かくて、自分が凍えていることに気づいてしまう。
 水嶋が温めているのは、彼女の家族を殺した右手だ。
 その温かさすら、罪だった。

「だけど、やっぱり違うんだ」

 水嶋の手がぱっと離れ、俺の右手がすとんと落ちる。「こっち見てよ」と、頬を両手で挟まれ、強引に前を向かせられた。
 水嶋の瞳が、すぐ目の前にある。
 長い睫毛。
 意外に高くない鼻。
 薄い唇。
 その瞳の中には、情けない顔をした俺がいる。

「わたし、思ったんだ。わたし、継原くんに気づいてほしかったんだって。継原くんの命が欲しかったわけじゃなかったんだって」

 頬を挟んだ手が、ぎゅっと強まる。俺はさぞ間抜けな顔をしているだろうが、その圧力から抜け出すほどの気力も今はない。

「わたしの話も、聞いてくれる?」

 頬を挟む手も離れた。目を逸らさず、小さく頷くと、水嶋は俺の目の前に屈んだままで話し始めた。

「わたし、悔しかったんだ」
「殺されたのが?」
「置いて行かれたことが」

 水嶋は静かにそう言った。

「わたし、事故の時の記憶がほとんどないの。気がついたら叔母さんの家にいて、お父さんやお母さん、お姉ちゃんは墓石の下にいた。叔母さんはわたしに何も教えてくれなかった。わたしが、何かいけないことをしたんじゃないかって思ったこともある。どうしたら連れて行ってもらえたんだろう、お姉ちゃんは連れて行ってもらえたのになんでわたしだけ――って」

 水嶋は俺の目の前に屈んだままで膝を抱えた。まるで、日の暮れかかった公園で一人、母親の迎えを待つ迷子の子どものように。

「継原くんに付き合ってもらうのもいいかなって思ったけど、やっぱり違うんだよ。大変なのは、どう考えても生き続ける方だから。継原くんみたいに思い出してしまったら、尚更。置いて行かれるのは、つらいからね」

 そう言って、水嶋は俺の方を見て、ゆっくりと笑った。
 こんな時なのに、見惚れてしまうほど美しい笑みだった。

「水嶋、だめだ、それは」
「一緒に死んでなんかあげない。継原くんは、生きるの。この世界で、一人で」
「水嶋!」

 伸ばした手は、するりと躱される。さっきまでの温かさが嘘だったみたいな、冷たい足取り。水嶋が発散する冷気で、肺の底まで凍りついてしまいそうになる。

「わたし、退場するよ。わたしが生きていると、地球の二酸化炭素が増えるから。じゃあ、さよなら継原くん」
「水嶋あっ!」

 足早に歩き去ろうとする水嶋の前に回り込み、両手を広げた。そんなことに何の意味があるのかもわからないまま。

「死ぬなら、俺だ。お前じゃない!」
「あ、そうだ。忘れないうちに、保険をかけておくね?」
「……保険?」
「そう、保険。継原くんには全てをひっくり返せるチートアイテムがあるからね」

 チートアイテム――神様からもらった〈攻略本〉。
 水嶋は人差し指をピンと立て、真っ直ぐに俺の胸へと向けた。

「もしも継原くんがわたしの自殺を止めようとしたら、水嶋瞑は十年前の事故の時に継原くんがしたことを残らず暴露します」
「なっ……!?」

 水嶋の言葉は、俺の予想を遥かに超えたものだった。
 真っ直ぐに向けられた水嶋の指先から発射された言葉の弾丸。撃ち抜かれた俺はよろめき、あとずさった。

「これで、〈攻略本〉は継原くんの手助けをすることはできない。水嶋瞑を助けることが、継原くんの不利益に繋がってしまうから」
「違う!」

 違わない。
 喉の粘膜が破けそうな声を出しても、今水嶋が話した理屈を否定できないことは、誰よりも俺が一番よくわかっていた。
 〈攻略本〉はいついかなる時も、俺にとっての客観的な利益を最優先に判断する。その判断には、〈問い〉の内容すら斟酌されないことだってある。
 俺を害する行動を取ると宣言している人間の自殺行動を、〈攻略本〉は決して止めようとはしないだろう。
 わかっているのに、ただ否定したくて、口の中でずっと違う、違うと繰り返していた。

「だから言ったでしょ。いつもこうなんだ、わたし」

 水嶋の声は底抜けに明るかった。この世の全てを笑い飛ばそうとして、失敗したかのような声。その声は、どんな泣き声よりも俺の胸を苦しくさせた。

「わたしといると、みんな不幸になる。幸せとか、幸運とか、誰もが大切にしているものを、残らず吸い尽くしてしまうんだよ。掃除機とか、ブラックホールとか、そういうもの。わたしが存在しているだけで、世界にある幸福の総量が減るの。だからね、継原くんは悪くない。悪いのは、わたしだから」
「そんなはずない。そんなこと言うなら、俺だって――」
「だって継原くんは、真っ当に生きようとしただけだもの。七才の子どもが、殴られたくないと望むことの何が悪いの? 継原くんは、悪くない。継原くんは、生きていい。保証してあげる」

 まあ、わたしなんかに保証されても何もならないけど。
 水嶋はそう言って、駅とは違う方向へと歩き出した。

「水嶋!」

 縋り付くように、その右手をもう一度掴んだ。行かせてはならない。その行動は、もはや本能だった。自分の身体の一部が千切れてしまうみたいに痛かった。たとえ無理でも、繋ぎ止めようとせずにはいられなかった。
 手を握られても、水嶋はもうこちらを振り向こうとはしなかった。

「継原くん、あなたは正しく生きて。もしも継原くんが償おうとしているのなら。それが、あなたに課せられた罰だと思うから」

 抉り抜かれた心は、俺の腕の筋繊維を物理的に切断したようだった。俺の腕はだらりとぶら下がり、水嶋の歩みを止める機能は果たせそうになかった。
 気づいたら、地面に両手を突いていた。目の前には誰もいないのに、許しを請うているみたいだった。夜の海を見に来たカップルが俺を避けるようにして通り過ぎていく。立ち上がろうとするだけで足が震えて、普段の何倍もの労力がかかった。
 もう一度立ち上がって、周りを見回してみるが、どこにも水嶋の姿は見当たらなかった。電柱の陰にも、公衆便所の脇にも、道の向こうにあるコンビニエンスストアの店内にも。そのどこにも水嶋はいなかった。
 置いて行かれたのだと、その時初めて理解した。