あの夏、俺は神様から人生の〈攻略本〉をもらった

 俺がまだ幼かった頃のことだ。
 俺の家を支配していたのは、父親の暴力だった。

 母はいつも父に怯えていて、父の暴力の原因を一つでも排除しようと、過剰なまでの献身を幼い俺に強いた。媚を売らせてみたり、肩を揉んだり、殴られても微笑んでみせたり。もちろん、そんなことで父の暴力が止みはしなかったのだけれど。
 父はよく、俺を平手で殴りながらこんなことを言っていた。

「逃げられねえんだよ! お前も、おれも!」

 それが父親の口癖だった。父が何から逃げられなかったのかは、当時の俺にはわからなかったし、今でもよくわからない。父が何かから逃亡し続けているとして、その逃避手段が酒や息子への暴力じゃなければよかったのだけれど、完璧な人間なんていないのだし、仕方なかったのかもしれない。

 当時の俺はまだ小学校に上がるか上がらないかくらいの年齢で、世間の普通なんて知りもしなかった。
 母がいつも泣いていることや、父から日常的に平手を食らうことが普通だと思っていたから、どうやら他の家はそうではないようだと知った時は、なかなかの衝撃を受けた。
 泣いたり騒いだりするのは専ら大人の特権で、子どもは黙って耐えるしかないのだと、物心ついた頃には既に学習し尽くしていた。

 小学校に上がる前から、日が昇っている間は家の外に避難するのが日課だった。どんなに暑くても、どんなに寒くても、蹴られ、殴られるよりはましだった。

 小学校に上がる前の子どもが一日中居座っても通報されない場所は、案外限られている。
 公園に行っても、ずっと一人きりでいる子どもは不審な目で見られる。
 コンビニは空調が効いていて快適だが、店員の目もあって長居はできない。
 図書館だってすぐに声を掛けられてしまう。
 残るのは橋の下か、公民館の裏か。
 長居できる場所は極めて限定されている中、お気に入りの場所として長年君臨し続けたのが、近所にある誰もいない神社だった。

 そこで、俺は神様と出会ったのだ。

   * * *

「〈攻略本〉はすぐに使ったの?」
「いや」

 首を横に振った。
 もう日は暮れてしまっていて、近くのベンチには俺たちと同じような男女二人連れが何組か座っていた。風が冷たくなるにつれ、一組ずつどこかへ消えていく。

「正直に言うと、よくわからなかったんだ、神様が言ったこと。『正しいことを教えてくれる』って言われても、何を訊けばいいのかもわからないし、正しいって何なのかすら、その時の俺にはよくわからなかった。しばらくの間は、存在すら忘れてたぐらいなんだ」

 神様から受け取ったその日のうちに箪笥の後ろに突っ込み、ずっとそのままにしていた。
 目に見える場所に置いておくと父か母に奪われてしまわないとも限らない。自分のものとして保持するためには、目につかない場所に隠してしまうしかなかった。

「ある日、父親からこっぴどく殴られてさ、さすがに耐え切れないってなって、ふっと神様のことを思い出した。父さんと母さんが寝静まった時を見計らって、箪笥の裏から取り出して、泣きながらこれを書いたんだ」



『おとうさんからなぐられないためにはどうしたらいいですか』



 それが、〈攻略本〉に訊ねた最初の〈問い〉だ。
 水嶋が蛍光ペンで印をつけた〈問い〉でもある。

「じゃあ、この〈答え〉は」

 水嶋はページをめくる。
 そこにはこう書かれている。



『今夜のうちに母親の薬を、父親の薬瓶の中に入れろ』



 当時の俺には、その意味するところがわからなかった。
 成長し、自分がした行為の意味を理解した時には、もう全てが手遅れになっていた。

「後から考えると、母は心療内科で眠剤を処方されてたんじゃないかと思う。父はわけのわからないサプリを大量に飲んでた。薬とサプリは違うけど、瓶に紛れこませてしまったら、見た目ではほとんどわからなかった」

 母の薬を、父に飲ませた。
 俺の行為を端的に表現するとそういうことになる。

 ちょうどその日は、父が母を車で病院まで連れて行く日だった。

「母さんは、夜眠れないことに悩んでた。そういう患者が夜に眠れるようにするためには、眠剤が必要なんだよ。俺はそれを、直後に運転する父さんに、飲ませたんだ」

 結果として、父が運転し、母を助手席に乗せた車は高速道路でとてつもない大事故を起こした。四台が絡む玉突き事故。付近の車に搭載されていたドライブレコーダーから、きっかけとなったのは父の車であることは明らかだった。現場にブレーキ痕がないことから、おそらく居眠り運転だったのだろうと、当時の新聞では報じられていた。
 その記事を確認したことすら、今日が初めてだった。

「その日の夜だったよ。見たこともない大人たちがやってきてさ、見たこともない建物に連れて行かれた。消毒液っぽい匂いがしてさ。今から思えば病院に決まってるんだけど、当時の俺には何もわからなくて、何かまたひどいことされるんじゃないかって、怖かったな」

 大人たちの正体は、両親の親族だった。父と母は自分の実家を毛嫌いしていて、親族付き合いは皆無だった。親族は親族で、俺を連れて行こうとするわりに、俺をなるべく遠ざけようとする雰囲気があって、どこか珍妙だなと、子ども心にそう思っていた。

 両親とは最後まで対面させてもらえなかった。遺体は原型を留めていなかったようで、大人たちからは見てはだめだと言われた。霊安室に立ち込める、焦げた肉の匂いが強烈で、一秒たりともそこにいたくないと思った。
 親族の大人たちは、涙の一つも見せない俺を気味悪がっていて、葬儀が終わるまで俺はほとんど一人で捨て置かれた。
 大人たちの会話からは、引き取る、だとか、施設、という単語が切れ切れに聞こえてきていた。
 俺に手を差し伸べたのは、ばあちゃんだけだった。

「両親の葬儀が終わって、俺はばあちゃんに引き取られた。他の親族には、それ以来一度も会ってない。もしばあちゃんに何かあって、俺を引き取らなきゃならなくなったら面倒だから、ってことなんだと思う。それからずっと、俺はばあちゃんと二人で暮らしてきて、それだけだ。俺の話は、それでおしまい」
「そっか」

 等間隔に立っている照明に照らされて、水嶋の表情はちょうど陰になっている。何を思っているのかすら、俺にはわからない。

「どうして気づいたの、わたしのこと」
「〈攻略本〉に線、引いたのお前だろ」
「うん」

 まるで今日の天気の話をしているかのように、水嶋は軽く首肯する。

「それにお前、十年前に事故で家族を亡くしたって言ってた。名前が違うのは、叔母さんに引き取られた時に変わったんじゃないかって」

 影の中で、水嶋が微笑む。

「気づいてほしかったから」

その声は、海風にかき消されてしまいそうなほどに柔らかかった。