あの夏、俺は神様から人生の〈攻略本〉をもらった

 家に帰った時には、八時を回っていた。

「あんた、こんな時間まで何やっとったの」

 ばあちゃんは怒るでもなくそう言うと、「風呂湧いとるで、入ってき」と風呂場を指さした。
 居間のテーブルには俺の夕食が準備されていて、埃がかからないようラップが掛けられていた。テレビからは、芸人たちのひな壇トーク番組が流れている。
 俺は脱衣所に入ると急いで服を脱ぎ、洗濯籠に放り込んだ。
 身体をかけ湯で流し、湯船に浸かって、もしも明日俺が死ぬことになったら、これが最後の風呂になるのかもしれないなと思った。

 ――置いていかないでほしいと、思ったんだ。

 水嶋の背中にかけた言葉を反芻した。

 心のなかにある棚には、ぽっかりと何かの空間がある。
 そこに収まるべき品物はどこかで失くしてしまっていて、手元にはない。
 それがなければ、収納自体がひどく不安定になってしまうのに、どこを探してもそれを見つけることはできなかった。
 そもそも、自分が何を失くしたのかすら、俺にはわからないのだ。

 そんな空虚に嵌まるピースを差し出したのは、あろうことか、水嶋だった。
 そういうことなのだろうか。

 置いていかないでほしい。
 だけど、水嶋についていくということはどういうことなのか、その意味を、俺は本当にわかっているのだろうか。

 ――わかるかな。
 ――誰かの人生を食べることで生き長らえてるような感覚。

 ああ、わかるよ。
 本当は、そう叫びたかった。
 だけど、それを認めてしまったら、俺は生きていけなくなる。

 周囲の人を踏み潰しその肉を喰らうことでしか生きられない怪物がいたとしたら、殺して土に返してしまうのが世界にとっては正しい。
 怪物は退治されるべきだし、毒物は取り除かれるべきだ。

 風呂から上がり、テレビを見ながらばあちゃんの用意した食事を食べた。
 今日に限って、夕飯は俺の好物の唐揚げだった。夕方に合わせて揚げられたそれは、少しだけしけってしまっている。
 ばあちゃんは、夕飯の時間に遅れた俺に、何も言わない。ばあちゃんは、俺に気を使っているからだ。

「ばあちゃん、ごめん」
「アンタ、何かしたんか?」
「そうじゃないけど」
「なら、謝らんでええ」

 冷たくなった唐揚げを口に入れる。みそ汁を啜る。十年前から慣れ親しんだ味がする。

「いつも言っとるやろ。悪くもないのに謝るんでない。言葉が軽く受け取られるだけでない、いつか本当に悪くなっちまう。言霊って言うてな、口に出したことは本当になるんよ。やめとき」
「違うよ」

 喉に巨大なものがつかえて、それ以上物を飲み込めそうになかった。
 箸を置いた手は情けなくなるくらい震えていて、ばあちゃんはそんな俺を皺だらけの顔で見ていた。

「悪いことをしたんだ、俺は。悪いことをしたかったわけじゃない。正しいことをしようとしたのに、結果として、間違っていた。だから、俺は――」
「なら、しょおないやろ」

 俺の泣き言は、ばあちゃんの鋭い声に遮られた。
 口ごもる俺を「こっち、()」と手招きする。
 俺がもぞもぞとばあちゃんの隣まで行くと、存外に強い力で抱き寄せられた。皺だらけで、肉のない細い腕の中、俺の呼吸はまだ震えている。

「世の中な、完全に間違ってるものなんてないんよ。完全に正しいものがないのとおんなじに。征示が自分のことどう思おうと、誰が何を言おうとな、ばあちゃんだけは征示の味方やよ。小さい頃からずっと言うとる。ばあちゃんが死んだって変わらん。ばあちゃんはいつも、征示が一生懸命生きとること知っとる。十年前から、じゃねえ。征示が生まれた時から――生まれるずっと前から、ばあちゃん、わかっとるよ」

 ばあちゃんの声は、普段よりも少しだけ柔らかかった。
 節ばった手で、何に触れてきたのだろう。
 垂れ下がった瞼の下に光る瞳で、何を見てきたのだろう。
 二十年も生きていない俺なんかでは及びもつかない、様々なことを見てきたのだろうと思う。

 ばあちゃんの目から見て、俺は一体どう映っているのだろう。
 ふと、そんなことが気になった。
 言葉なんて、そのまま受け止めればいい。
 それだけなのに、それすらできない自分。
 この期に及んで、どうしてそうなんだ、俺は。

 ばあちゃんの腕の中で、俺はまた、泣く機会を逸した。