あの夏、俺は神様から人生の〈攻略本〉をもらった

「ありがとね。ほんと助かる」
「お安い御用です」

 うみちゃんはアンケート用紙をとんとん揃えながら、ふんにゃりと気弱な笑みを浮かべた。
 放課後の職員室にはどこか弛緩した空気が漂っている。部活動に行く先生や、PCに向かって几帳面に書類仕事をする眼鏡の先生、電話しながら大声で笑う禿げ頭の教頭――などなど。
 うみちゃんはきょろきょろと辺りを見回して、俺の方に顔を寄せた。

「ちょっと向こうで話そっか」
「はい」

 うみちゃんは隣の進路指導室を指さした。
 どこか忍び足で隣の部屋の扉を開け、扉のフックに〈使用中〉の札を掛ける。
 向かい合わせに座ると、どちらからともなくため息が漏れ、顔を見合わせて苦笑した。

 ともすれば、俺が教室内で最も親しみを感じているのは、担任のうみちゃんなのかもしれない。
 その手腕はともかく、あのクラス運営に心を砕く戦友として。

「ごめんね。ちょっと聞きたいことがあって」
「水嶋のことですか?」

 うみちゃんはハッと息を飲み、コクンと小さく頷いた。

「最近、学校来てないでしょ? 私、何回かお家に行ってみたんだけど、ご家族がその……ちょっと難しい人で、話できなくてさ……」

 責めてもいないのに、声はどんどん小さくなっていった。
 学年主任を務める村松先生のしかめっ面がよぎる。
 きっと厳しく言われているのだろう。

 このクラスには他にも問題もあるのだし、これ以上の問題を抱えるのは学校側としても避けたいに違いない。
 新人教師のうみちゃんがナーバスになってしまうのもわからなくはないが――。

「心配し過ぎじゃないですか? 前から、そこそこ休んでたじゃないですか、水嶋は」
「でも、先週の月曜に静内さんたちと揉めてたでしょ?」

 それは、事実だ。
 水嶋が学校に来なくなったのは、静内たちと揉めたのが原因だろう――はっきりと口には出さないが、それは誰もが感じていることだ。
 うみちゃんに呼び出された時から、その話をされるのだろうと思っていた。
 うみちゃんに、静内と一対一で話をする度胸はない。クラス内の雰囲気を探るためのパイプ役になれるのは、俺しかいない。

「水嶋さんって、クラスの中にそういう雰囲気って前からあったの? 静内さん以外に、関係が良くない人とか……」
「そういうのはないです。ただ……」
「ただ?」

 うみちゃんが身を乗り出してくる。

「水嶋と頻繁に話す人間なんてなんて、うちのクラスには一人もいないですよ。たぶん先生もわかってると思いますけど」

 静内が群れる陽キャの代表格だとしたら、水嶋は群れない一匹狼の極北だ。
 このクラスが始まってから半年近くが経過しているが、水嶋とまともに話をしたことある人間なんて、ほとんどいないんじゃないか。

「誰か仲の良い人とか」
「いません」
「相談できそうな」
「ないです」
「家の近い」
「それは、知りませんけど」

 じわ、とうみちゃんの瞳に涙が滲み始めている。
 こうして呼び出されたからには、うみちゃんが俺に何を望んでいるかなんてわかりきっている。
 期待に応えるのは吝かではないが、まるで後輩が先輩に泣きつくような真似をされると、こっちの気持ちの方がささくれだってしまう。

 困った顔をして見せれば、周りの人間が勝手に何とかしてくれるような人生を送ってきたんだろう。
 そんな人生、俺には逆立ちしたって想像できないのに。

「加山くんだってあんな状態だし、この上、水嶋さんまで学校来なくなっちゃったら――」
「わかりました」

 これ以上泣き言を聞いていたくなくて、遮るように言った。
 うみちゃんがハッと息を飲む。

 加山の件はともかく、今回の水嶋は、衝突に至ったきっかけ自体はわかりやすい。
 やりようなんて、いくらでもあるだろう。

「一日だけ時間ください。俺に何ができるか、ちょっと考えてみます」

 うみちゃんの顔が、みるみる安堵の色で染まっていくのを見て、俺はまたため息を吐きたくなった。
 だけど、こうして頼られるなら――その思いだけで、俺はこのため息を無限に飲み込んでいくことができる。