目を開けた瞬間、視界に飛び込んできた天井が、岩綿吸音板と呼ばれる天井材であることを、俺はなぜか知っている。
気分が悪くなった同級生を保健室に連れてきた時にいた修繕の業者が話しているのを聞いたことがあるからだ。
手癖の悪い生徒が、掃除用具で闘いを始め、何枚かの天井材を見事に突き破ったのだそうだ。
そう教えてくれたのは、保健教諭の朝倉先生だった。
身体を起こすと、コーヒーの、どことなく甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「気分はどうだ、優等生」
「もしかして豆、変えました?」
「お、わかるか? 気分転換にキリマンジャロにしてみたんだ。実を言うと、私にはあまり違いがわからんのだが、お前は違いのわかる男ですごいな」
「……どうも」
壁掛け時計を見ると、もうすぐ十一時を回ろうかというところだった。文化祭はとっくに始まっている時間だ。
廊下の向こうから伝わるざわめきが、いつもよりも華やいでいる。この保健室は、賑やかで幸せな世界から隔絶された異世界のようだ。
俺は保健室のベッドに寝かされていた。
クラスメイトを連れてくることはあっても、自分が寝かされたことはない。寝かされることになった経緯すら、定かではない。
「俺、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもない。ホームルームが終わって、起立、礼する時に倒れたんだと。男子が何人かで担いできたから誰かと思えば」
「……すみません」
「まあ、いいんじゃないか? たまには運ばれるのも。よかったら、一杯飲むか?」
コーヒーカップを指して、片目をつむる朝倉先生。
その味には、前から少しだけ興味もあった。
「じゃあ、少しだけ」
「よしきた」
なぜかウキウキとした足取り。ボタンを押すと、円筒形のコーヒーメーカーは機械音を立てて動作し、やがてこげ茶色の液体を排出する。
「ミルクと砂糖は?」
「いりません」
本当は、ミルクを入れなければ飲めないタチだが、今日はブラックを飲まなければならないと思った。むせ返るような暴力的な香りに包まれながら、恐る恐る口に含む。
「……苦い」
「大人の苦味だな」
正直言って、あまりおいしいとは思えなかった。気付け薬代わりのつもりで、ぐっ、ぐっ、ぐっと流し込んでいった。
「……ごちそうさまです」
「もうちょっと味わって飲めよ」
「実は、違いのわからない男なんですよ」
「可愛くないやつだな」
「どうも」
今度は素直に頷くことが出来た。
朝倉先生は、まるでカップの中の液体がなくなってしまうのが惜しいかのように、ちびりちびりと飲み進めている。
あんな様子では、飲み終える頃には昼食の時間も終わってしまうだろう。違いのわからない俺には、まるで無駄な時間だとしか思えなかった。
「訊いてもいいですか」
「ああ」
「今朝、事故に遭った、うちのクラスの――」
「加山か?」
「容態は、どうなんですか」
「生きてるらしいよ、一応な」
その口調でわかる。
容態は思わしくないのだろう。
「よそ見運転のハイエースだったんだと。命に別状はないが、どうも強く頭を打ったらしく、しばらくは入院だそうだ。ただ……」
朝倉先生はそこで言葉を濁した。「ただ――なんですか」食って掛かるように催促すると、目を伏せながらこう言った。
「……ただ、ぶつけどころが悪かったのが右手でな。いくつか骨が砕けてて、ボルトを何本もいれなきゃならんそうだ。こっちは、元通りに動くようになるかはわからない――だと」
その言葉を聞いた瞬間、身体の中にある温かい血液が一度に抜き取られたかのようだった。
右手。
加山の――〈砂梟〉の、右手。
「さっき見てきたよ、お前らの展示。驚いた。あれ描いたの、加山なんだって?」
声は出せなかったが、どうにか頷くことはできた。
俺が話せないのを見て取ったのか、朝倉先生は「そうか」とだけ言って、後は黙ってコーヒーを啜っていた。
ずず、という音に混じって、校庭の方からはやたら陽気な音楽が流れ始めていた。
カップに残ったコーヒーの雫を集めて舌に乗せる。
コーヒーに頼っても、俺の頭はちっとも回らない。
何も思い出せないし、何もわからない。
涙だって、出やしない。
「趣味はあるか、優等生」
「……趣味?」
「そう、趣味だ。人生を豊かにするもの。今の私にとっては、さしずめコレだな」
朝倉先生は自分の手にしたコーヒーカップを揺すって見せるが、恐ろしくなるくらいに俺の心は動かない。
「人生は、必要なものだけで出来ているわけじゃない。精密な機械にだって、少しの余白――余裕が必要だ。悪く言われがちなカフェインだって、摂取しすぎは害悪だが、適量なら健康にだって効果的だ。一ミリの隙間もなく、正しさだけを積んでいくことなんかできないのさ。どんな人間にだって無理だ。もしそういう風に生きようとしてるやつがいたら、今すぐ宗旨替えを勧めるよ。じゃなきゃ、いつか窒息死しちまうだろうさ」
遠回しなようでいて、何を言いたいのかは明確だった。
「俺は、正しくなんかない」
「知ってるよ。誰だってそうさ。間違っているのはお前だけじゃない。余白を愛せ。余裕を敵視するな。ほんの少しの悪なら、許容しろ。そうすればお前は、誰よりもいい男になれるさ」
先生はきっといいことを言ってくれているのだろう。
人生観が変わるような、素晴らしい警句を授けてくれているのだろう。
なのに、俺の心はこれっぽっちも動かない。
俺が信じられるのは誰かの素晴らしい言葉なんかではなく、これまで俺を生かしてきた現実だ。
「正しくなければ、生きていてはいけない」
「だから言ったろ。そんなやつはいないって。人類、絶滅させる気か?」
「俺は――です」
正しくない俺は、生きているべきではないと思う。世界のためにプラスになれる自分でなければ、俺は俺の生存を許せない。
「早退します」
誰かが運んでくれた俺の鞄を引っ掴み、ベッドを降りた。「お、おい!」と朝倉先生は俺の手を掴もうとするが、あらん限りの力で振り払う。
「行かなきゃいけないところがあるんです」
ぴしゃりと扉を閉めると、朝倉先生はそれ以上追っては来なかった。
気分が悪くなった同級生を保健室に連れてきた時にいた修繕の業者が話しているのを聞いたことがあるからだ。
手癖の悪い生徒が、掃除用具で闘いを始め、何枚かの天井材を見事に突き破ったのだそうだ。
そう教えてくれたのは、保健教諭の朝倉先生だった。
身体を起こすと、コーヒーの、どことなく甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「気分はどうだ、優等生」
「もしかして豆、変えました?」
「お、わかるか? 気分転換にキリマンジャロにしてみたんだ。実を言うと、私にはあまり違いがわからんのだが、お前は違いのわかる男ですごいな」
「……どうも」
壁掛け時計を見ると、もうすぐ十一時を回ろうかというところだった。文化祭はとっくに始まっている時間だ。
廊下の向こうから伝わるざわめきが、いつもよりも華やいでいる。この保健室は、賑やかで幸せな世界から隔絶された異世界のようだ。
俺は保健室のベッドに寝かされていた。
クラスメイトを連れてくることはあっても、自分が寝かされたことはない。寝かされることになった経緯すら、定かではない。
「俺、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもない。ホームルームが終わって、起立、礼する時に倒れたんだと。男子が何人かで担いできたから誰かと思えば」
「……すみません」
「まあ、いいんじゃないか? たまには運ばれるのも。よかったら、一杯飲むか?」
コーヒーカップを指して、片目をつむる朝倉先生。
その味には、前から少しだけ興味もあった。
「じゃあ、少しだけ」
「よしきた」
なぜかウキウキとした足取り。ボタンを押すと、円筒形のコーヒーメーカーは機械音を立てて動作し、やがてこげ茶色の液体を排出する。
「ミルクと砂糖は?」
「いりません」
本当は、ミルクを入れなければ飲めないタチだが、今日はブラックを飲まなければならないと思った。むせ返るような暴力的な香りに包まれながら、恐る恐る口に含む。
「……苦い」
「大人の苦味だな」
正直言って、あまりおいしいとは思えなかった。気付け薬代わりのつもりで、ぐっ、ぐっ、ぐっと流し込んでいった。
「……ごちそうさまです」
「もうちょっと味わって飲めよ」
「実は、違いのわからない男なんですよ」
「可愛くないやつだな」
「どうも」
今度は素直に頷くことが出来た。
朝倉先生は、まるでカップの中の液体がなくなってしまうのが惜しいかのように、ちびりちびりと飲み進めている。
あんな様子では、飲み終える頃には昼食の時間も終わってしまうだろう。違いのわからない俺には、まるで無駄な時間だとしか思えなかった。
「訊いてもいいですか」
「ああ」
「今朝、事故に遭った、うちのクラスの――」
「加山か?」
「容態は、どうなんですか」
「生きてるらしいよ、一応な」
その口調でわかる。
容態は思わしくないのだろう。
「よそ見運転のハイエースだったんだと。命に別状はないが、どうも強く頭を打ったらしく、しばらくは入院だそうだ。ただ……」
朝倉先生はそこで言葉を濁した。「ただ――なんですか」食って掛かるように催促すると、目を伏せながらこう言った。
「……ただ、ぶつけどころが悪かったのが右手でな。いくつか骨が砕けてて、ボルトを何本もいれなきゃならんそうだ。こっちは、元通りに動くようになるかはわからない――だと」
その言葉を聞いた瞬間、身体の中にある温かい血液が一度に抜き取られたかのようだった。
右手。
加山の――〈砂梟〉の、右手。
「さっき見てきたよ、お前らの展示。驚いた。あれ描いたの、加山なんだって?」
声は出せなかったが、どうにか頷くことはできた。
俺が話せないのを見て取ったのか、朝倉先生は「そうか」とだけ言って、後は黙ってコーヒーを啜っていた。
ずず、という音に混じって、校庭の方からはやたら陽気な音楽が流れ始めていた。
カップに残ったコーヒーの雫を集めて舌に乗せる。
コーヒーに頼っても、俺の頭はちっとも回らない。
何も思い出せないし、何もわからない。
涙だって、出やしない。
「趣味はあるか、優等生」
「……趣味?」
「そう、趣味だ。人生を豊かにするもの。今の私にとっては、さしずめコレだな」
朝倉先生は自分の手にしたコーヒーカップを揺すって見せるが、恐ろしくなるくらいに俺の心は動かない。
「人生は、必要なものだけで出来ているわけじゃない。精密な機械にだって、少しの余白――余裕が必要だ。悪く言われがちなカフェインだって、摂取しすぎは害悪だが、適量なら健康にだって効果的だ。一ミリの隙間もなく、正しさだけを積んでいくことなんかできないのさ。どんな人間にだって無理だ。もしそういう風に生きようとしてるやつがいたら、今すぐ宗旨替えを勧めるよ。じゃなきゃ、いつか窒息死しちまうだろうさ」
遠回しなようでいて、何を言いたいのかは明確だった。
「俺は、正しくなんかない」
「知ってるよ。誰だってそうさ。間違っているのはお前だけじゃない。余白を愛せ。余裕を敵視するな。ほんの少しの悪なら、許容しろ。そうすればお前は、誰よりもいい男になれるさ」
先生はきっといいことを言ってくれているのだろう。
人生観が変わるような、素晴らしい警句を授けてくれているのだろう。
なのに、俺の心はこれっぽっちも動かない。
俺が信じられるのは誰かの素晴らしい言葉なんかではなく、これまで俺を生かしてきた現実だ。
「正しくなければ、生きていてはいけない」
「だから言ったろ。そんなやつはいないって。人類、絶滅させる気か?」
「俺は――です」
正しくない俺は、生きているべきではないと思う。世界のためにプラスになれる自分でなければ、俺は俺の生存を許せない。
「早退します」
誰かが運んでくれた俺の鞄を引っ掴み、ベッドを降りた。「お、おい!」と朝倉先生は俺の手を掴もうとするが、あらん限りの力で振り払う。
「行かなきゃいけないところがあるんです」
ぴしゃりと扉を閉めると、朝倉先生はそれ以上追っては来なかった。

