あの夏、俺は神様から人生の〈攻略本〉をもらった

 水嶋はそのまま名城線の改札へと降りていった。
 ちょうど仕事帰りの時間帯にぶつかってしまったようで、地下街は人だらけだった。かき分けるようにして降り、各駅停車の左回りの電車に乗った。
 電車の中にはそれなりの乗客がいたが、まるで予約されていたかのように、ぽっかりと座席が二人分空いていて、水嶋の分を空けて先に座った。
 水嶋は周りをきょろきょろと見回して逡巡していたが、他に座る人もいないのを見定めた後、おずおずと遠慮がちに腰を下ろした。

「早く座ればいいじゃん」
「なんか、悪い気がして」

 座席が空いているのだから、座るのは別に悪いことではない。不思議なことを言うやつだなと思いながら、窓の外にあるコンクリートが流れていくのを眺めていた。

「次、降りるよ」

 水嶋が動いたのは、八事だった。栄を出て三十分くらい経ったくらい。
 八事駅の傍には大学や商業施設があり、栄ほどではないが人が多い。水嶋は六番出口から外に出て、八事駅に背を向けるようにして国道153号を歩いていく。
 人の少ない、暗い方へ。
 一階に美容院が入っているマンションの脇を斜め左に折れ、住宅街の奥へとずんずん入っていく。水嶋がどこに行こうとしているのか、俺にはまるでわからない。

「どこに行くんだよ」
「大事な場所」

 ほどなくして、その答えは明らかになる。
 こじんまりとした橋の向こうに見渡す限りに広がっているのは、墓地だった。街の真ん中にこんなに広大な墓地があるなんて知らなかった俺は、半ば呆然としながらその光景に見惚れてしまう。

「肝試しでもするのか?」
「夜は墓場で運動会――って、一応聴いたことはあるよ」

 まともに答える気はないらしい。水嶋はそのまま坂を下り、谷底の道に辿り着いてから三本目の道を斜め右へと登っていく。
 その道をさらに右へと逸れ、何番目かのところで水嶋は足を止めた。
 その墓石には、読めるか読めないかぐらいに崩された文字で〈南無阿弥陀仏〉と刻まれていた。

「これが、答え」
「は?」
「訊いたでしょ、どうして家に帰らないのか。その答えが、これ」

 水嶋は右手でその赤茶けた墓石をつるりと撫でた。
 その手付きには、普段の水嶋には似つかわしくないほどの愛があって、真夜中の墓地にいることすら忘れてしまいそうなほどだった。

「ここに、わたしの父親と、母親と、お姉ちゃんがいる。十年前から」
「……何があったんだ?」
「いわゆる、交通事故。その車にはわたしも乗ってた。助かったのは、わたしだけ」
「そう、か」

 それ以上のことは言えそうになかった。
 水嶋は俺の方にじっとりした視線を向けた後、大きく息を吐いて墓に向き直り、手を合わせた。
 夜の生温い風に、周囲の木々の葉が揺れている。その葉擦れの音は、誰かの鳴き声や悲鳴に聞こえなくもない。

「わたしを引き取ってくれたのは、叔母さんだった。それ以来、わたしはずっと叔母さんと暮らしてる」
「居づらいのか」
「良くしては、くれてるよ」

 立ち上がり、俺の方を見て弱々しく笑った。

「わかるかな、自分が誰かの人生を食べることで生き長らえてるような感覚」

 その瞬間、色んな人たちの顔が脳裏をかすめていった。
 それは、ばあちゃんの顔であり、俺とばあちゃんの代わりに亡くなった無差別殺人の被害者の姿であり、そして――。
 思索に溺れた俺を尻目に、水嶋の言葉は続く。

「叔母さんがわたしを引き取ったのは、叔母さんが二十七才の時。それから十年、叔母さんはずっとわたしと一緒にいるの。十年だよ、十年。どれだけ長い時間だろうって思う」

 十年。
 言葉にすれば一言なのに、実際に過ごしてみれば、永遠のようにも思えるのだろう。

「わたしさえいなければ、叔母さんにはきっと今とは違う人生があった」
「それは、お前のせいじゃないだろ」
「あはははははは!」

 道路に投げつけられた水風船が弾けるみたいに、水嶋は笑った。
 墓場にいる俺たちに、その笑い声は、やはり不釣り合いだった。
 一頻り笑った後、「継原くんって、案外正直だよね」と、目尻を少し拭った。俺は「違う」と、むくれることすらできなかった。

「思わない? 自分さえいなければ、周りの人の人生は、もう少しまともなものになっていたんだろうなって」

 そんなことない――とは言えなかった。
 それはまさしく俺の深層にある感覚と、ほとんど同じだったからだ。

「ごめんね、もうやめるよ」
「水嶋、俺は――」
「いいことをしたいのに、正しい自分でいたいのにさ、わたしはいつもこうなんだ。ごめんね」

 謝ることなんて何もない人間に謝られることほど、誰かにダメージを与える所作がこの世に存在するだろうか。

「わたし、よくここに来るの。羨ましくて」
「誰が」
「彼らが」

 水嶋の目は真っ直ぐに墓の下へと向かっていた。

「ここに納まってしまえば、もうわたしは誰かの幸せを食い潰さずに済む」
「……それは」
「間違ってるのはわかってる。継原くんに言われるまでもなく、わたしは正しくなんてないから」

 長い沈黙が流れている間も、生温い風は俺たちの頬を撫で続けた。
 墓場に吹く風はどこまでも優しい。俺や水嶋を、間違っていると糾弾することもなく、ただ吹き付けるだけだ。

「帰ろ。つきあってくれて、ありがとう」

 ひらりと俺の横を通り過ぎた水嶋の背中を追った。俺たちは元来た道を戻り、同じように名城線に乗る。
 さっきまでと違い、電車の中はガラガラで、座り放題だった。水嶋は栄駅で席を立った。

「じゃあね」

 引き止める間もなかった。水嶋が出て行くと、電車の扉が閉まった。
 水嶋は、栄で朝を迎えるのだろうか。その行為を止める権利は、俺にはないように思えた。しばらくそのままでいると、ぶ、ぶぶ――とポケットの中にいるスマホが震えた。
 発信者は加山だった。

『文化祭の当日、僕も学校に行く』
『あの作品は、継原や水嶋と、三人で見たいから』

 ――加山。
 ――お前、すごいよ。

 心の中だけでそうつぶやき、そのメッセージに既読をつけた。