あの夏、俺は神様から人生の〈攻略本〉をもらった

 サンシャインサカエの観覧車から降りて始まったのは、めくるめく理想のデートだった。
 名前は知らないが、最近建ったばかりのビルに入っているシネコンに飛び込むと、ちょうど観たかった脚本家の新作上映回がすぐだったので迷わず入る。
 余命を宣告され、家族からも見放された老境の男が、孤独の中に最後の希望を見出し、死に至る話だ。普通の高校生には退屈な話だろうが、俺にとってはまるで俺だけのために書かれた物語のように深く染み入った。
 映画を見終えると、次は名古屋港水族館を目指す。効率よく移動したせいか、着いた時にはまだ十三時を回ったところだった。
 シャチのプログラムまでは少し間があったので、ガラガラの客席を悠々と使って売店で買ったポテトフライを食べた。元々食が太い方でもないので、ポップコーンとポテトフライでランチとしては十分だった。席を離れたのは、シャチのショー直前、客席が埋まり始める少し前。タイミングまで完璧だった。
 他の展示には目もくれずに向かった先は黒潮大水槽だった。光とともに何万匹ものマイワシが泳ぐのを見るだけの、ある意味ではシンプルな展示だ。ある一定の規則性があるのかはわからないが、誰が指揮するでもなく見事な隊列を組んで舞い踊るマイワシの群れは、いつまで眺めても飽きないくらいだった。

「すごいね」

 俺の記憶が正しければ、この理想のデートの中で、水嶋が言葉を発したのはこの一回きりだったと思う。俺はただ頷くことしかできないほど、マイワシたちの踊りに魅せられていた。
 言うなれば、群体としての命。彼らはきっと一つ一つの命という自意識も持たずに、ただそうであるように泳いでいくだけなのだろう。そこにはきっと正解も間違いも存在しないはずだ。
 俺たちはそのままずっとマイワシの水槽の前にいた。閉館のアナウンスが鳴っても気がつかないくらいだった。
 水族館を出る頃には、すっかり夜になっていた。昼間とは違う、冷気と湿り気を孕んだ風が吹き抜ける中、海沿いのベンチに誘われた。ライトアップされ始めた港の観覧車。港湾を行く巨大な観覧船。夕日に染まる海は、寄せては返す波音をBGMに、いつまでも見ていられそうな気がした。
 ふと気づくと、隣から水嶋が消えていた。

「水嶋?」

 辺りを見回していると、不意に首筋に冷たいものが当てられた。

「びっくりした?」
「……そりゃ、するだろ」

 当てられたのはレモネードスカッシュのペットボトルだった。水嶋はホットレモンの短いペットボトルを持っている。

「はい、種明かし」

 ポーチから出てきたのは半日ぶりの〈攻略本〉だった。最新の〈答え〉を見ると、今日のデートプランが寸分違わず書かれていた。昼飯の取り方やマイワシの舞いへの導き方までその通りだったのには、内心舌を巻いた。

「楽しめた?」
「悔しいけど」
「なんで悔しいのよ」

 笑われたのがまた悔しくて、レモンスカッシュを煽った。海風に吹かれながら、微炭酸が喉で弾けるのがひたすら心地よかった。

「マイワシ、すごかったね」
「感動した。すごかった」

 俺はマイワシを見ながら考えていたことを話した。
 水嶋は余計な口を挟まず、時折小さく頷きながら、最後まで聞いてくれた。

「マイワシはね、群れで動くことによって、自分をとてつもなく大きな魚だって見せることで、外敵から身を守ってるんだ」
「へえ、よく知ってるな」
「調べたもん」

 ぺろりと小さな舌がのぞいた。彼女の血のように赤かった。

「あの水槽に、マイワシじゃない魚も混じってるの気づいた?」
「ああ、サメとか、マグロとかって書いてあったよな」
「あれが擬似的な外敵みたい。外敵に対する防御反応として、マイワシは群れを作ってるんじゃないかって言われてるの。でもね、群れからはぐれる個体もいないわけじゃないらしいよ」
「理由とかあるのか?」
「疑似的な外敵として入れられてる魚は、他に餌を与えられてるからマイワシは食べないの。そりゃそうだよね、ある日突然マイワシ空っぽになったら困るもん。で、『こいつら襲ってこないぞ』って悟った個体が、群れを作らなくなったんじゃないかって。群れの中の跳ねっ返り。わたしみたいだよね」

 急な自虐は反応に困る。
 俺が答えを返す前に、水嶋の解説は続いた。

「でも、自然の中にあったとしても、生き抜くためには群れを作るのが正しいのか、群れから離れるのが正しいのかはわからないんだって。群れることで、逆に敵に見つかりやすくなるって面もある。逆に、群れから離れて一人になった方が、個体としての生存率は高くなるのかもしれない」
「同じだな、俺たちと」
「何が?」
「何が正しいのかはわからない」
「でも、継原くんは違うじゃん」

 確かにそうだ。
 けど、そうじゃないこともある。
 正しい選択を取ることによって生じる結果が正しくなかった――そういうことだってあることを、俺は経験則的に知っている。
 その話を続けたくなくて、半ば無理やりに話題を変えた。

「そう言えば、レモンスカッシュはここに書いてないのな」
「うん。それはわたしのオリジナル。教室でもよく飲んでるし、好きなんだろうなって」
「お前、ほんとよく見てるよな……」

 このブランドのレモンスカッシュを好んで飲んでいたのは本当だった。
 水嶋はホットレモンのキャップをぎゅっと締めた。

「本当のことを言うとね、わたし、継原くんのこと、嫌いだったんだ」
「そんな気はしてたよ」
「初めて会った時からなぜか思ってた。わたしとあなたは、似てるって。なんていうか、魂みたいなものが」
「魂?」

 意外な単語だったのに、不思議としっくり来た。
 〈攻略本〉が選んだデートプランにもそれが表れていた。
 映画も、マイワシも、俺だけが楽しんでいたわけではないのは、一日一緒に過ごせばよくわかる。
 最後に選ぶ飲み物まで、レモンスカッシュと、ホットレモン。クラスの立ち位置も、性格も全く違うのに、妙なところが似通っている。

「あなたはきっと、自分以外の全ての物を信じてないんだと思う」

 氷柱を胸の隙間に突き刺されたみたいだった。
 言い当てられたことより、見抜かれたことの方が恥ずかしかった。そんな姿を見せていたつもりはなかったのに。

「この世界に存在する全ての物は、いつか自分の敵に回るって、思ってるでしょ」

 否定はできなかった。

「いつか敵に回るなら最初から近寄らないのがわたし。いつか敵に回るとしても、その時をできるだけ先延ばしにしようとして、全力ですり寄ろうとしてるのがあなた。だからわたしは、あなたのことが気持ち悪かった」

 ――気持ち悪い。

 水嶋が漏らした最初の言葉は、俺の中に煮凝りのようにずっと残っている。
 水嶋は、俺と水嶋の間に置いた〈攻略本〉を一瞥した。

「あなたはこれを自分のために使ってない。あなたがこれに頼るのはいつも周囲のため。自分の周囲の世界を正しい形にするために、あなたは〈攻略本〉を使ってる」
「……失敗だって、たくさんしたよ」

 俺にとっての正しい〈答え〉が、周りにとっても正しい結果をもたらすとは限らない。
 まさにあの、ばあちゃんとはぐれた夏祭りの日のように。
 俺が助かることによって、代わりに失われた命があったとして、それは本当に世界にとって『正しい』結果だったのだろうか?

「今日だってそうだ。あれは俺にとって都合のいい〈答え〉でしかない。それが、一緒にいる水嶋のためになったかなんて、こいつは考えてはくれないんだ」
「安心して。わたしは今日、楽しかったよ。わたしたちは似てるんだから。双子みたいに」
「群れないマイワシ?」
「そういうこと」

 暗い海の中で、何かがぽちゃんと跳ねた。船の音や近くを通る車の排気音に紛れてほとんど聞こえないような、微かな音だった。

「いいと思うよ」
「何が?」
「継原くんの、『正しい』ことをしたい、っていうの」
「気持ち悪いんじゃないのか?」
「蕁麻疹が出そう。でも、それを自分の意思で続けるのはすごいことなんじゃないかって思う。起こるはずもない奇跡を見せられてるみたいな」
「よくわかんねえな」
「褒めてるんだよ、一応ね」

 手の中のレモンスカッシュはもう飲み終わっていた。水嶋のホットレモンもほとんど終わりだ。最後の一口を飲み終えたのを見て、空のペットボトルを受け取る。

「ありがと」
「どういたしまして」

 今日のデートの報酬としては、到底つり合っていないのは承知の上だ。

「何か、お礼しないとな」
「何かしてくれるの?」
「俺にできることなら」

 俺は立ち上がるが、水嶋はまだ座ったままだった。
 暗い海を見つめて、何かを考えているみたいだ。

「決めた」
「何を?」
「わたしの、したいこと」

 水嶋は立ち上がると、さっさと駅の方へと歩き出した。

「帰るのか?」
「もう遅いし、今日のところはね」
「さっきの、したいことって何だよ」
「まだ内緒」

 水嶋の足取りは、まるで明日が明るいものであるかのように、迷いなく軽やかだった。