あの夏、俺は神様から人生の〈攻略本〉をもらった

 俺が教室に戻ると、水嶋の席の周りの牛乳はきれいに片付けられていた。水嶋に投げつけられた雑巾は、いつもの場所に湿ったままで掛けられていた。

 水嶋は結局、授業が終わっても戻ってこなかった。俺は、下校の準備を済ませてから様子を見に保健室へと足を向けた。

「おう」

 保健室の扉を静かに開くと、ベッドの側の椅子に朝倉先生が座っていた。傍らのコーヒーカップからは香ばしい香りが漂っている。

 最近コーヒー豆に凝ってるんだと、以前保健室に寄った時に聞いたことがある。その証拠に、保健室の棚の上には全自動のコーヒーメーカーが鎮座している。

「寝てるよ、今」

 朝倉先生越しにベッドを覗き込むと、昼の騒ぎが嘘だったかのように安らかな寝顔の水嶋がいた。

「おら、女子の寝顔見んな。プライバシーの侵害」
「ははは……」

 朝倉先生は誰に対してもこうだ。つかず離れずの距離感が心地よくて、みんな朝倉先生のことを好きになってしまう。珍しい種類の人だと思う。

「さっき、鳥居先生とちょっと話したよ。こいつ、ずっと休んでたんだって?」
「ずっとってほどでもないですけど、まあ」
「大変だね、今日びのガキはさ」

 朝倉先生は眼鏡を外し、湯気を立てているコーヒーカップをちびりと傾けた。

「あたしが今、あんたらくらいのガキだったら、間違いなくまともにガキやれてないね。それだきゃー自信持って言える」
「でも、ちゃんとやるのなんて、今も昔も、それなりに大変なんじゃないですか?」
「それな」

 ニヤリと口元を歪め、またカップを傾けた。
 なんだかんだ言いながら朝倉先生は、いつの時代にあってもきちんと『まとも』をやれる人だと思う。
 断崖絶壁の上を行く弥次郎兵衛みたいな誰かとは違う。

「継原の言う通り、『まとも』をやるのは大変さ。並大抵の労力じゃない。だからこそ、それなりに『まとも』をやってるやつはさ、自分で自分を褒めてやるべきだとあたしは思うんだよ。だからあたしはこうやって、職場に最高のコーヒーを持ち込んでる」
「いい趣味ですね」

 皮肉ではなく、そう思う。
 まともでいる対価としてコーヒーが機能するのなら、それはこの上もなく人間として正しい在り方だ。

「朝倉先生、ちょっと」
「あ、はい」

 大西先生の声だ。朝倉先生はカップを置き、運動場側の扉から出て行く。保健室には、眠り続ける水嶋と俺だけが残された。

 夏休みが終わって二週間とちょっと、気づけば蝉の季節も過ぎ去ってしまって久しい。
 運動場で始まる部活動の掛け声も、楽しげな廊下のざわめきも、間の抜けた街の生活音も、保健室からは全てが遠かった。
 鞄から〈攻略本〉を取り出し、パラパラとめくった。そこには、俺が選んできた選択の数々が余さずに記録されている。
 それは、言わば『継原征示の歴史』そのものだ。
 これがあったからこそ、俺はここまで『まとも』を踏み外さずに歩いてこれた。もしも〈攻略本〉がなかったら、今生きているかどうかすら怪しい。
 パラパラとめくり、その最後のページに書かれた文言をもう一度見る。


『継原征示は水嶋瞑と一切関わってはならない』


 何度見てもその文言は変わらない。
 神様がくれた〈攻略本〉が言うのだから、きっとこの上もなく正しいのだろう。
 継原征示は、水嶋暝と関われば確定的に不利益を被る――教室内を流れる空気に、その予見が現実のものとなりつつあるのを感じていた。

 なのに、なぜ俺は。
 水嶋の寝顔のどこにも、その〈答え〉は書かれてはいない。

「あ、継原。お前、時間あるか?」
「ありますけど」

 通用口から、朝倉先生がひょっこり顔を出した。
 慌てて〈攻略本〉を通学鞄の中に突っ込む。

「悪いけど、水嶋の鞄とか、こっちまで持ってきてくれるか? もう教室に用はないだろうし、少し休ませたら帰らせるから」
「わかりました」

 まるで自分の思考が読まれていたかのような恥ずかしさで、俺は逃げるように保健室から飛び出した。

 校内のざわつきは徐々に薄まってきている。代わりに、遠くから吹奏楽部の練習音が流れてきた。その暴力的な音に気配を紛れ込ませながら、足音を殺して自分の教室まで戻ってきた。

 昼の様子から、悪戯されているんじゃないかと少し心配していたが、水嶋の通学鞄は昼から変わりなく窓際の席にあった。
 中身の確認なんてできないので、そのまま持って保健室へ戻ってきた。保健室を出てから、時間にして十分も経っていない。

 保健室の扉を開いた瞬間、俺は息を飲んだ。

 水嶋は身体を起こしていた。
 その手の中には、俺がさっきまで見ていたあの革製の手帳がある。

 それが〈攻略本〉だと気づいた瞬間、俺の心臓は急速冷凍された。

 水嶋は俺の姿に気づくと、ゆっくりとこちらに視線を向けた。
 俺の方に顔を向けた水嶋は、まるで見たこともないような表情をしていた。

「うふふ」

 水嶋は、笑っていた。
 とても素晴らしいプレゼントをもらった小学生のように、身体のいたる場所から喜悦を溢れ返らせながら。

「これ、何?」

 水嶋が開いていたのは、よりにもよって、一番最後のページだった。

「継原征示は水嶋瞑と一切関わってはならない――だって」

 おかしいね――とでも言いそうな調子で、ころころと水嶋は笑った。

「水嶋、それは」
「いいの? わたしと口きいて。関わっちゃだめなんじゃないの?」

 まるで蜻蛉の羽を毟る子どものように無邪気な口調。「はい」と手帳を返されてすぐ、運動場へと続く通用口から朝倉先生が戻ってきた。

「起きたか水嶋。どうする? 今日は帰るか?」
「はい。ありがとうございました」

 今まで見たこともないようなはきはきした口調で答えると、水嶋は迷いなく自分の通学鞄を掴んで外へ出た。

「ま、待て!」

 追う以外の選択肢は、俺に残されてはいなかった。
 保健室の外に出ると、水嶋はすでに下駄箱の方に向かって歩き始めていた。いくら呼びかけても、歩みのスピードはまるで落ちない。
 下駄箱でようやく追いつくと、こんなことを平然と言ってくる。

「これってさ、学校の掲示板とかに流した方がいいやつ?」

 脳天からドライアイスを流し込まれたみたいだった。
 言葉を返せずに固まる俺を楽しそうに眺めながら、水嶋は今まで見たこともないような幸せな笑顔を浮かべてころころと笑っていた。

「そうされたくなったら、ついておいでよ」

 水嶋に数秒遅れて靴を履き替え、外に飛び出した。
 眼前の空には、まだ夏の名残のような入道雲がある。