この世界には、神様がいる。
俺はそのことをよく知っている。
神様は、どこにいるのか。
たとえば、人で溢れかえる夏祭りの露店通り、
たとえば、誰からも忘れ去られた集落の神棚、
たとえば、誰も訪れることのない寂れた神社の境内。
どこにでもいるが、どこにもいない――神様とはどうもそういう存在らしい。
少なくとも、小さい頃に出会った神様は、自分のことをそう言っていた。
* * *
「よう少年! 儲かってるか?」
蝉すら鳴かない酷暑の真夏。
その男は境内にぽつんと置かれた賽銭箱の上に寝転がったまま、ご機嫌な様子で俺に手を振っていた。
人目に触れたら即座に不審者情報に掲載されそうな、痩せっぽちで、みすぼらしい身なりの中年男性だった。
俺は、憩いの場所の静寂が破られたことにわずかな苛立ちを感じながら、社の脇にある木陰に座り、膝を抱えた。
そこは、当時の俺にとっては世界にただ一つしかない聖域だった。
人目に触れず、誰とも喋る必要もなく、死なない程度に暑さが凌げる場所。
そんな都合のいい場所は、当時の俺にとっては神社ぐらいしかなかった。
当時、俺は七才だった。
「無視はよくないぜ少年! どしたい、ウンコでも漏らしてクラスでいじめられたか?」
「……知らない大人とは話すなって、学校で教わってる」
「しっかり話してるじゃねえか、少年」
男は意外にも身軽な身のこなしで立ち上がると、つかつか寄ってきて、俺の隣にどすんと腰を下ろした。
俺も男もしばらく何も喋らず、地獄の窯の底みたいな灼熱の境内をただ眺めていた。
死にかけの蝉が目の前に落ちて、じじと断末魔の鳴き声を漏らす。蝉は鉄板みたいな石畳の上をしばらくのたうち回った後、やがて動かなくなった。
「どっこいしょ」
男はその蝉を拾い上げ、素手で根気よく木陰に穴を掘り、その亡骸を埋めた。
そして、手を合わせる。
「何も思わねえのか」
「……別に」
「あいつは頑張って生きた。精いっぱい飛んだ。ちったあ褒めてやったって、バチは当たらねえと思うけどな」
蝉の死骸なんて、そこら中に嫌というほど転がっている。
その一つ一つに感情を持つのは、当時の俺には難しかった。
「……それとも、褒めてほしいのは、少年の方か」
ちっぽけな胸の奥がずくんと痛んだ。
その痛みをなかったことにしようとして、胸を強く膝に押し付けた。
「確かにな。少年はよく頑張ってるよ。一人で」
「何を――」
言葉は続かなかった。
男は自分の唇の前で人差し指を立てていた。
次の瞬間、ごおっと凄まじい風が吹いて、乾いた土埃がもうもうと巻き上がった。
けほけほと涙目で咳をして、気づくと男は賽銭箱の角に立っていた。
「知ってるよ。なんせ、おれは神様だからな」
イエス・キリストみたいに両手を大きく広げると、男はまた俺の目の前に舞い降りた。
まるで重力を感じない着地。
さっきまでの暑さが嘘だったみたいに、背筋まで凍りつきそうな冷気が襲ってきた。
「おれは知っている。全て、知っている。だが少年、お前は自分で話さなければならない。
おれは自分の言葉で話す者のことが好きだ。お前は言葉を持っている。お前は一人じゃない」
男に頭を撫でられると、意味のわからないほどの涙が溢れてきて、俺は泣きじゃくった。
身体中の水分を流し尽くしてしまうんじゃないかってくらいに泣いた後、少しずつ自分の話をした。
男は時折口を挟み、突っ込み、たまに脱線しながら全てを聞いてくれた。
その後、まるで十年来の友達だったみたいに、俺たちは話をした。
たとえば、神様とはどういう存在なのか――だとか。
たとえば、神様は暇な時間をどのように潰すのか――だとか。
男に対して抱いていた不信感なんて、あっという間にどこかに飛んでしまっていた。
何せ彼は、地上でたった一人の神様なのだから。
高かった日差しはいつの間にか傾き、寂れた境内が橙色に染まり始めていた。
神様は「どっこいしょ」と立ち上がった。
「悪いな、そろそろ時間だ」
「えええ、もっと話そうよ」
「そろそろ帰らねえと、少年も大変だろ」
ぐっと唇を噛んだ。
人と話して楽しいと思ったことも、一日がこんなに短かったのも、初めてだったのに。
夕陽を背にした神様の表情は、俺からは良く見えなかった。
「少年に、いいものをやろう」
「いいもの?」
神様は懐をごそごそ探り、本のようなものを差し出した。
手に取ってみると、本だと思ったものは手帳だった。
くたびれかけた皮製のカバーがかかっている。
日付を書く欄があるが、罫線の他には何も書かれていない。
「これはな、言うなれば〈攻略本〉だ」
「〈攻略本〉?」
「ゲーム、やったことないか? どこをどう進むとか、ここに落とし穴があるとか、隠された宝箱があるとか、そういうことが全部書かれた本だ」
そっか、今日びのガキはみんなネットで攻略情報見るんだもんな――なんて独り言も、頭には入って来なかった。
ゲームなんてやったこともなかったが、わかったふりをして頷いた。
きっと神様は俺の虚勢にも気づいていたとは思うけど。
「でも、何も書いてないよ?」
「全部書いたら、本の厚みだけで太陽にも手が届いちまうからな。そういうやり方はしてねえんだ。言ったろ、お前は言葉を持っているって」
よくわからない。
首を傾げていると、神様は俺の手から〈攻略本〉を取り上げ、最初のページを開いた。
そこには罫線が引かれているばかりで、何も書かれていない。
「見開きの右側のページに、その日の日付を書いて、悩んでることとか、迷ってること、どうしたらいいかわからないことを書くんだ。
書き終わったら一度本を閉じて、心の中で三秒数えろ。
もう一度開いたら、次のページには正しい答えが書き込まれる。少年はその通りに行動すればいい」
もう一度手渡された。
〈攻略本〉。
そんな魔法みたいな本がこの世にあるのだろうか。
その神秘の一端がどこかに書き込まれていないかと、何度もひっくり返したり、パラパラめくったりしてみたが、どこからどう見てもただの手帳だった。
「試してみればいいさ。案外、役に立つと思うぜ。ただし」
最後の声は鋭かった。
慌てて視線を上げると、そこに神様の姿はなかった。
辺りを見回しても、橙に焼かれる境内があるばかりだった。
誰もいない境内に、神様の声だけが響き続ける。
「〈攻略本〉はどんな時も、少年にとって『正しい』道を指し示す。だが、『正しい』道が、いつもかもお前が望む結果を導くとは限らない。それだけは、よく覚えておけ」
厳しい声に、わけもわからず頷いた。
正しい道をこそ、人は望むんじゃないのか。
正しい道を望まないなんて、そんな転倒があり得るのか。
そんな当然の疑問すら、当時の俺は思い浮かべることができなかった。
「じゃあな、少年。答え合わせの日に、また会おう」
声は唐突に途切れた。
境内に風が吹き抜け、周囲の木々を鳴らした。
さっきまであった彼の気配はもうどこにもなく、代わりに蝉の声がうるさいくらいに響き始めた。
街の呼吸が戻ってきたみたいだった。
境内の中をどれだけ探しても、神様の姿はどこにも見当たらない。ただ、手の中にある革の手帳――〈攻略本〉だけが、今日の出来事が夢ではなかったと主張し続けていた。
それ以来、俺は神様と会ったことはない。
神様が本当に『神様』だったのか、俺にはわからない。
でも、神様がくれた〈攻略本〉は、彼が言った通りのものだったということは間違いのない事実だ。
〈攻略本〉は、いついかなる時も俺に正しい道を示し続けた。
良くも、悪くも。
ただ一つ言えることがあるとすれば、もしも俺が今、人並みの人生を送れているとしたら、それは神様がくれた〈攻略本〉のおかげなのだ。
俺は〈攻略本〉を傍らに携え、正しい道を歩んでいく。
これまでも。
そして、これからも。
いつの日か、答え合わせがなされるまで――。
高校二年生の夏――水嶋暝と出会うまで、俺は無邪気にそう信じていた。
俺はそのことをよく知っている。
神様は、どこにいるのか。
たとえば、人で溢れかえる夏祭りの露店通り、
たとえば、誰からも忘れ去られた集落の神棚、
たとえば、誰も訪れることのない寂れた神社の境内。
どこにでもいるが、どこにもいない――神様とはどうもそういう存在らしい。
少なくとも、小さい頃に出会った神様は、自分のことをそう言っていた。
* * *
「よう少年! 儲かってるか?」
蝉すら鳴かない酷暑の真夏。
その男は境内にぽつんと置かれた賽銭箱の上に寝転がったまま、ご機嫌な様子で俺に手を振っていた。
人目に触れたら即座に不審者情報に掲載されそうな、痩せっぽちで、みすぼらしい身なりの中年男性だった。
俺は、憩いの場所の静寂が破られたことにわずかな苛立ちを感じながら、社の脇にある木陰に座り、膝を抱えた。
そこは、当時の俺にとっては世界にただ一つしかない聖域だった。
人目に触れず、誰とも喋る必要もなく、死なない程度に暑さが凌げる場所。
そんな都合のいい場所は、当時の俺にとっては神社ぐらいしかなかった。
当時、俺は七才だった。
「無視はよくないぜ少年! どしたい、ウンコでも漏らしてクラスでいじめられたか?」
「……知らない大人とは話すなって、学校で教わってる」
「しっかり話してるじゃねえか、少年」
男は意外にも身軽な身のこなしで立ち上がると、つかつか寄ってきて、俺の隣にどすんと腰を下ろした。
俺も男もしばらく何も喋らず、地獄の窯の底みたいな灼熱の境内をただ眺めていた。
死にかけの蝉が目の前に落ちて、じじと断末魔の鳴き声を漏らす。蝉は鉄板みたいな石畳の上をしばらくのたうち回った後、やがて動かなくなった。
「どっこいしょ」
男はその蝉を拾い上げ、素手で根気よく木陰に穴を掘り、その亡骸を埋めた。
そして、手を合わせる。
「何も思わねえのか」
「……別に」
「あいつは頑張って生きた。精いっぱい飛んだ。ちったあ褒めてやったって、バチは当たらねえと思うけどな」
蝉の死骸なんて、そこら中に嫌というほど転がっている。
その一つ一つに感情を持つのは、当時の俺には難しかった。
「……それとも、褒めてほしいのは、少年の方か」
ちっぽけな胸の奥がずくんと痛んだ。
その痛みをなかったことにしようとして、胸を強く膝に押し付けた。
「確かにな。少年はよく頑張ってるよ。一人で」
「何を――」
言葉は続かなかった。
男は自分の唇の前で人差し指を立てていた。
次の瞬間、ごおっと凄まじい風が吹いて、乾いた土埃がもうもうと巻き上がった。
けほけほと涙目で咳をして、気づくと男は賽銭箱の角に立っていた。
「知ってるよ。なんせ、おれは神様だからな」
イエス・キリストみたいに両手を大きく広げると、男はまた俺の目の前に舞い降りた。
まるで重力を感じない着地。
さっきまでの暑さが嘘だったみたいに、背筋まで凍りつきそうな冷気が襲ってきた。
「おれは知っている。全て、知っている。だが少年、お前は自分で話さなければならない。
おれは自分の言葉で話す者のことが好きだ。お前は言葉を持っている。お前は一人じゃない」
男に頭を撫でられると、意味のわからないほどの涙が溢れてきて、俺は泣きじゃくった。
身体中の水分を流し尽くしてしまうんじゃないかってくらいに泣いた後、少しずつ自分の話をした。
男は時折口を挟み、突っ込み、たまに脱線しながら全てを聞いてくれた。
その後、まるで十年来の友達だったみたいに、俺たちは話をした。
たとえば、神様とはどういう存在なのか――だとか。
たとえば、神様は暇な時間をどのように潰すのか――だとか。
男に対して抱いていた不信感なんて、あっという間にどこかに飛んでしまっていた。
何せ彼は、地上でたった一人の神様なのだから。
高かった日差しはいつの間にか傾き、寂れた境内が橙色に染まり始めていた。
神様は「どっこいしょ」と立ち上がった。
「悪いな、そろそろ時間だ」
「えええ、もっと話そうよ」
「そろそろ帰らねえと、少年も大変だろ」
ぐっと唇を噛んだ。
人と話して楽しいと思ったことも、一日がこんなに短かったのも、初めてだったのに。
夕陽を背にした神様の表情は、俺からは良く見えなかった。
「少年に、いいものをやろう」
「いいもの?」
神様は懐をごそごそ探り、本のようなものを差し出した。
手に取ってみると、本だと思ったものは手帳だった。
くたびれかけた皮製のカバーがかかっている。
日付を書く欄があるが、罫線の他には何も書かれていない。
「これはな、言うなれば〈攻略本〉だ」
「〈攻略本〉?」
「ゲーム、やったことないか? どこをどう進むとか、ここに落とし穴があるとか、隠された宝箱があるとか、そういうことが全部書かれた本だ」
そっか、今日びのガキはみんなネットで攻略情報見るんだもんな――なんて独り言も、頭には入って来なかった。
ゲームなんてやったこともなかったが、わかったふりをして頷いた。
きっと神様は俺の虚勢にも気づいていたとは思うけど。
「でも、何も書いてないよ?」
「全部書いたら、本の厚みだけで太陽にも手が届いちまうからな。そういうやり方はしてねえんだ。言ったろ、お前は言葉を持っているって」
よくわからない。
首を傾げていると、神様は俺の手から〈攻略本〉を取り上げ、最初のページを開いた。
そこには罫線が引かれているばかりで、何も書かれていない。
「見開きの右側のページに、その日の日付を書いて、悩んでることとか、迷ってること、どうしたらいいかわからないことを書くんだ。
書き終わったら一度本を閉じて、心の中で三秒数えろ。
もう一度開いたら、次のページには正しい答えが書き込まれる。少年はその通りに行動すればいい」
もう一度手渡された。
〈攻略本〉。
そんな魔法みたいな本がこの世にあるのだろうか。
その神秘の一端がどこかに書き込まれていないかと、何度もひっくり返したり、パラパラめくったりしてみたが、どこからどう見てもただの手帳だった。
「試してみればいいさ。案外、役に立つと思うぜ。ただし」
最後の声は鋭かった。
慌てて視線を上げると、そこに神様の姿はなかった。
辺りを見回しても、橙に焼かれる境内があるばかりだった。
誰もいない境内に、神様の声だけが響き続ける。
「〈攻略本〉はどんな時も、少年にとって『正しい』道を指し示す。だが、『正しい』道が、いつもかもお前が望む結果を導くとは限らない。それだけは、よく覚えておけ」
厳しい声に、わけもわからず頷いた。
正しい道をこそ、人は望むんじゃないのか。
正しい道を望まないなんて、そんな転倒があり得るのか。
そんな当然の疑問すら、当時の俺は思い浮かべることができなかった。
「じゃあな、少年。答え合わせの日に、また会おう」
声は唐突に途切れた。
境内に風が吹き抜け、周囲の木々を鳴らした。
さっきまであった彼の気配はもうどこにもなく、代わりに蝉の声がうるさいくらいに響き始めた。
街の呼吸が戻ってきたみたいだった。
境内の中をどれだけ探しても、神様の姿はどこにも見当たらない。ただ、手の中にある革の手帳――〈攻略本〉だけが、今日の出来事が夢ではなかったと主張し続けていた。
それ以来、俺は神様と会ったことはない。
神様が本当に『神様』だったのか、俺にはわからない。
でも、神様がくれた〈攻略本〉は、彼が言った通りのものだったということは間違いのない事実だ。
〈攻略本〉は、いついかなる時も俺に正しい道を示し続けた。
良くも、悪くも。
ただ一つ言えることがあるとすれば、もしも俺が今、人並みの人生を送れているとしたら、それは神様がくれた〈攻略本〉のおかげなのだ。
俺は〈攻略本〉を傍らに携え、正しい道を歩んでいく。
これまでも。
そして、これからも。
いつの日か、答え合わせがなされるまで――。
高校二年生の夏――水嶋暝と出会うまで、俺は無邪気にそう信じていた。

