死んだ腕に抱かれる

 花は、死体のそばに置かれると意味を変える。
 生きている者の部屋にあれば、ただの飾りだ。花瓶に差してあれば客を迎えるためのものかもしれないし、庭に咲いていれば季節のものとして見過ごせる。
 だが、死体のそばに置かれた花は違う。
 途端に、それは言葉になる。
 弔い。
 署名。
 挑発。
 記憶。
 あるいは、許されないほど個人的な感情。
 鷲尾貞成の書斎に置かれていた合歓の花は、そのどれにも見えた。
 いや、どれにも見えるように置かれていた。
 真壁彰は、机の上の花を見つめたまま、数秒動けなかった。
 御堂聖真の現場には、灰があった。
 焼かれた村の土を含む灰。死体の周囲に撒かれ、死そのものの環境になっていた灰。
 あれは、御堂の死を御津窪へつなぐためのものだった。
 では、この花は何か。
 九条合歓。
 九条雅紀の母。
 十六歳で九条を産み、焼かれた村から赤ん坊を抱いて逃げ、真壁家の斜め前の古い平屋へ辿り着いた人。
 若くして倒れ、若年性脳梗塞と診断された人。
 九条が「他に家族は」と聞かれて、「いません」と答えることになった、その母。
 その名を持つ花が、鷲尾貞成の死体のそばに置かれていた。
 偶然ではない。
 偶然であっていいはずがない。
 鷲尾貞成という男の輪郭を、真壁はまだ掴み切れていなかった。
 ただ、死体を見る前から、嫌な男だとは思っていた。
 鷲尾は、法医学にも関わった医師だった。
 若いころは大学の法医学教室に籍を置き、検案や解剖にも携わっていた。その後、臨床へ移り、弟の鷲尾源治と共に郊外でクリニックを開いた。
 鷲尾メディカルクリニック。
 最初は小さな内科医院だったが、在宅医療、心療内科、老年医療、自由診療、企業健診、系列介護施設との連携へと手を広げ、十数年で医療法人を作るまでになった。
 表向きは、地域医療の成功者だった。
 だが、元職員の証言は違っていた。
 患者をさばけ。
 一人に時間をかけるな。
 説明より処方だ。
 眠れない患者には眠剤、不安な患者には抗不安薬、痛いと言う患者には鎮痛薬。
 通わせろ。
 切らすな。
 薬を出せば、患者は戻ってくる。
 鷲尾兄弟は、そういう言い方をしたという。
 看護師の離職率は高かった。受付職員も長く続かなかった。常勤医は定着せず、非常勤医師が入れ替わる。
 午前の外来は二時間半で六十人を超えることもあった。問診票はろくに読まれず、患者の顔も見ないまま処方箋だけが積み上がる。院内には、消毒液と古い空調と疲れた人間の匂いが混じっていたという。
 元看護師の一人は、事情聴取でこう言った。
「あそこでは、患者さんは“人数”でした。午前で何人、午後で何人。薬をどれだけ出したか。検査をどれだけ回したか。先生はいつも、医療は情では回らない、数字で回るんだって」
 鷲尾貞成は、直接怒鳴る男ではなかったらしい。
 怒鳴るのは弟の源治の役目だった。
 兄の貞成は、笑って言う。
 君の優しさは分かる。
 でも優しさだけでは給与は払えない。
 看護師を守るにも金がいる。
 設備を新しくするにも金がいる。
 医療を続けるには、まず医院を潰さないことだ。
 言葉は正しい。
 正しすぎる。
 だから余計に、現場の職員は削られていった。
 一方で、鷲尾は家族には惜しみなく金を使った。
 息子は中学から都内の私立へ通わせ、新幹線通学もさせた。娘には高校卒業祝いに外車を買い与えた。長期休暇には家族で海外旅行へ行き、妻には記念日ごとに宝石を贈った。医療法人の理事長室には、家族写真が何枚も飾られていたという。
 とくに妻の蘭子には、欠かさず花を贈った。
 結婚記念日と蘭子の誕生日には、必ず蘭の花を届けさせた。白い胡蝶蘭、淡い紫のデンドロビウム、時には高価なカトレア。花屋の伝票には、毎年同じように「蘭子様へ」と書かれていた。
 鷲尾はそれを照れもせず、「名前に合うだろう」と言ったという。
 患者を三分でさばき、職員の退職届を机の引き出しに積ませていた男が、妻の名前にちなんだ花だけは忘れなかった。
 その奇妙な律儀さが、鷲尾貞成という男の気持ち悪さでもあった。
 幼い頃、鷲尾兄弟は貧しかった。
 父親は町工場で働き、母親は内職で家計を支えた。学費に苦労し、兄弟で新聞配達をしながら進学したという記録もあった。鷲尾は取材で一度だけ、「子どもに金の心配をさせる親にはなりたくなかった」と語っている。
 それは嘘ではなかったのだろう。
 鷲尾貞成は、家族思いだった。
 少なくとも、自分の家族には。
 子どもには金で苦労をさせない。
 妻には恥ずかしい生活をさせない。
 兄弟で這い上がる。
 医院を大きくする。
 医療法人を作る。
 弱さを金で潰す。
 貧しさを二度と家に入れない。
 その反骨は、おそらく本物だった。
 だが、そのために他人の死因欄をどう扱ったのか。
 他人の母親をどう処理したのか。
 それが、今、真壁の前にある。
 鷲尾は、単純な悪人ではなかった。
 だからといって、許されるわけでもなかった。
 真壁は、死体となった鷲尾を見ながら思った。
 この男は、生きている時から、死を紙に変えることに慣れていた。
 病名を選ぶ。
 診断書を書く。
 説明を終える。
 遺族を納得させる。
 次の患者を呼ぶ。
 そうやって、いくつもの死を通過してきた。
 その男が今、自分自身を一枚の書類の横に置かれている。
 九条合歓の死亡検案書の横に。
「現場保存。全員、足元を見ろ」
 真壁は声を落として言った。
 部屋に入っていた捜査員たちが動きを止める。救急隊員も、すでに死亡が明らかなことを理解し、確認のための最小限の動きだけに切り替えた。
 鷲尾は椅子に座っていた。
 背もたれに深く体を預け、右手を机の端に置いている。左手は膝の上。顔はわずかに左へ傾き、口元は軽く開いていた。苦悶の表情はない。目は閉じている。
 体の倒れ方だけを見れば、居眠りをしてそのまま息を引き取ったようにも見えた。
 部屋は整っていた。
 壁一面の本棚。
 医学書。法医学書。古い検案関係のファイル。
 机の上には、デスクライト、万年筆、ガラスの文鎮、封筒、古い死亡検案書のコピー。
 そして、合歓の花が一輪。
 窓は閉まっていた。
 カーテンも引かれていない。十二階から見える夜景が、ガラスの向こうに冷たく広がっている。
 玄関扉には内側からチェーンがかかっていた。
 窓に破壊痕はない。
 ベランダへ出る掃き出し窓にも鍵がかかっている。
 部屋の奥に小さな給湯スペースとトイレがあるが、いずれも人が隠れられる構造ではない。
 御堂の礼拝堂と同じだった。
 いや、同じように見えるように作られている。
 密室。
 死因を示すもの。
 過去への導線。
 そして、真壁に読ませるための配置。
「九条」
 真壁は呼んだ。
 九条雅紀は、鷲尾の遺体から目を離さないまま答えた。
「何」
「ここでは、お前は関係者でもある」
「うん」
「母親の死亡検案書を書いた医師の死体だ。現場に母親と同じ名の花がある」
「そうだな」
「所見を取るなら、言葉を選べ」
 九条はようやく真壁を見た。
 その目には、怒りも悲しみもなかった。
 いつもの紅く乾いた目だった。
「言葉を選ぶのは、お前たちの仕事だ」
「ふざけるな」
「俺は所見を誤らせない」
「それが一番危ないと言ってる」
 九条は答えなかった。
 二階堂壮也が、部屋の隅で携帯を耳に当てながら、こちらを見ていた。
 会話の内容までは聞こえないが、表情で分かる。外も燃え始めている。鷲尾の死が漏れれば、御堂の時よりさらに悪い燃え方をする。
 教祖焼死。
 元医師の不審死。
 二通目の挑戦状。
 合歓の花。
 九条合歓の死亡検案書。
 これらが一つに結ばれた瞬間、事件は完全に九条へ向かう。
 二階堂は通話を切ると、真壁のそばへ来た。
「まだ外には出てない」
「どれくらい持つ」
「分からない。マンションの住人が何人か廊下に出てる。救急車も来てる。十分もすれば誰かが投稿する」
「公式発表は」
「できるわけないだろ。まだ死因も分かってない」
「文面だけ準備しろ」
「もうしてる。死亡確認、身元確認中、捜査上詳細は言えない。いつもの無味乾燥なやつだ」
 二階堂は机の上を見た。
 死亡検案書のコピー。
 合歓の花。
「で、あれは何だ」
「合歓の花だ」
「それは聞いた」
 二階堂は声を低くした。
「意味だよ」
 真壁は答えなかった。
 言葉にしたくなかった。
 二階堂は、それでも言った。
「御堂には村の灰。鷲尾には合歓の花。そういうことだな」
「まだ決めるな」
「決めてない。見えてるだけだ」
「見えすぎるものほど疑え」
「九条みたいなこと言うな」
 真壁は返さなかった。
 その時、九条が手袋を替えた。
 片方ずつ外し、新しい手袋をはめる。医師としての準備だった。
「触れるぞ」
 九条が言った。
 真壁は頷いた。
「最小限だ」
 九条は遺体のそばへ立った。
 合歓の花には触れない。
 死亡検案書にも触れない。
 まず、鷲尾の首筋に視線を落とし、皮膚の色、顔面の状態、口元、指先、衣服の乱れを確認していく。
 その動きには無駄がなかった。
 それが、真壁には恐ろしかった。
 この男は、母の名を持つ花が目の前に置かれていても、所見を取れる。
 母の死因を記した医師の死体の前でも、感情を後ろへ追いやれる。
 いや、追いやれているように見せられる。
 どちらなのか、真壁には分からない。
「外傷は目立たない」
 九条が言った。
「防御創も、現時点で明らかなものはない。衣服の乱れも少ない。争った形跡は乏しい」
「病死に見えるか」
 真壁が聞くと、九条は短く答えた。
「見える」
「実際は」
「現時点では分からない」
「分からない?」
「分からないものは分からない」
 いつもの答えだった。
 だが今回は、その「分からない」に救われる気がした。
 九条がすぐに死因を言わない。
 それは少なくとも、まだ医師として現場を見ているということだった。
「口唇の色は」
 真壁が聞く。
「やや暗い。だがこれだけでは判断できない。瞳孔、皮膚の状態、吐物の有無、薬物の可能性、心疾患、脳血管障害、すべて確認が必要だ」
「鷲尾には持病が?」
 三谷が資料を見ながら答える。
「高血圧、軽度の糖尿病、過去に不整脈の指摘があります。脳梗塞の既往はありませんが、年齢的には突然死があっても不自然ではないかと」
「だから病死に見える」
 真壁が言うと、九条は頷かなかった。
「病死に見える死体と、病死の死体は違う」
「お前の母親もか」
 口にした瞬間、部屋の空気が止まった。
 二階堂が真壁を見る。
 三谷も、意味を完全には理解しないまま、息を呑んだ。
 九条は、鷲尾の手元を見ていた。
 沈黙が、ほんの少しだけ長くなる。
「そうだ」
 九条は言った。
「母も、病死に見えた」
 その声は平坦だった。
 だが、平坦すぎた。
 真壁は自分が踏み込みすぎたことを自覚した。
 しかし、もう戻せない。
「鷲尾は、お前の母親の死因を書いた」
「そう」
「その鷲尾が、同じように病死に見える形で死んでいる」
「うん」
「お前は何を思う」
 九条は遺体から視線を外さなかった。
「所見を取るべきだと思う」
「それだけか」
「それ以外は、今は邪魔だ」
 真壁は言葉を飲み込んだ。
 邪魔。
 母の死も、父の死も、怒りも、悲しみも、すべて所見の前では邪魔になる。
 九条は本気でそう考えている。
 だからこそ、危ない。
 人間が邪魔なものを切り捨てすぎると、最後に残るのは事実ではなく、事実に似た狂気かもしれない。
 鑑識が写真を撮り始めた。
 合歓の花は、机の上の死亡検案書の右端に置かれていた。茎は短く切られ、花弁はまだしおれていない。持ち込まれてから、それほど時間は経っていないように見える。
 死亡検案書はコピーだった。
 古い紙をスキャンしたものを、さらに印刷したような質感。
 氏名欄には、九条合歓と読める。
 死因欄には、若年性脳梗塞。
 医師署名欄には、鷲尾貞成。
 その下に、赤い線が一本引かれていた。
 死因欄の下。
 まるで、採点者が間違いを示すように。
「赤線か」
 二階堂が呟いた。
「御堂の時にはなかった」
「御堂には灰があった」
「今回は花と赤線」
 二階堂は眉を寄せた。
「死因欄の訂正要求みたいだな」
 真壁は、胸の奥が冷えるのを感じた。
 訂正要求。
 まさにそれだった。
 犯人は、鷲尾の死体の前に九条合歓の死亡検案書を置き、その死因欄に線を引き、合歓の花を添えている。
 これは殺人現場であると同時に、訂正前の書類だった。
 訂正すべき死因欄。
 九条の人生そのもののような配置。
「この紙はどこから出た」
 真壁が聞く。
 三谷が答えた。
「鷲尾の過去資料からか、病院記録からか、現時点では不明です。九条合歓の死亡検案書は古いものですが、控えが複数箇所に残っている可能性があります」
「九条が持っている可能性は」
 誰も答えなかった。
 九条本人だけが、静かに言った。
「持っている」
 真壁は九条を見た。
「何を」
「母の死亡検案書の写しだ」
「いつから」
「母が死んだ時から」
「それと同じか」
「同じに見える」
「お前の持っているものが使われた可能性は」
「ない」
 答えは早かった。
「なぜ断言できる」
「保管場所を変えている。現物は失われていない。確認すれば分かる」
「誰かが複写した可能性は」
「ある」
「誰が」
「鷲尾自身か、病院関係者か、当時の警察資料か、教団関係者か、あるいは俺の周辺から何らかの方法で入手したか」
「お前の周辺?」
 九条は真壁を見た。
「俺も捜査対象に入っているんだろう」
 その言い方に、真壁は一瞬返せなかった。
 九条は続けた。
「なら可能性として挙げるべきだ」
 二階堂が低く笑った。
「自分で言うなよ」
「抜けがあると誤る」
「お前、そういうところが本当に厄介だな」
 九条は反応しなかった。
 部屋の確認が進むにつれ、鷲尾の生活が見えてきた。
 この部屋は、単なる書斎ではなかった。
 机の引き出しには、古い花屋の領収書が束になって残されていた。
 胡蝶蘭、カトレア、デンドロビウム。宛名は、鷲尾蘭子。
 日付は毎年、ほとんど同じだった。結婚記念日と、蘭子の誕生日。
 妻の名にちなんだ花を忘れない男。
 その男の死体のそばに、九条合歓の名を持つ花が置かれている。
 鷲尾はここに、公式には置けない資料を保管していた。
 古い検案記録、白胎会関連施設の死亡検案書の写し、医療法人との契約書、講演料の記録、金銭の流れを示すメモ。
 本棚の一角には、鍵付きのキャビネットがあった。
 中には、数十件分の古い死亡関係書類がファイルされていた。
 その多くに、白胎会関連施設の名前があった。
「これはまずいな」
 二階堂が言った。
 真壁はファイルの背表紙を見た。
 療養施設。
 祈念ホーム。
 自然治癒センター。
 終末期ケア施設。
 児童保養施設。
 名称は穏やかだった。
 だが、その奥に何があったのかは分からない。
「鷲尾は白胎会とつながっていた」
 真壁が言うと、三谷が頷いた。
「かなり深い可能性があります」
「御堂の事件と鷲尾の事件が、これで直接つながる」
 二階堂が携帯を見た。
「外に漏れたら終わりだな」
「終わり?」
「白胎会は大炎上。警察は過去に見逃したのかと叩かれる。鷲尾は死んで逃げた悪徳医師として消費される。九条合歓の名前も出る。九条も出る」
「止めろ」
「やってる」
 二階堂は苛立ちを隠さずに言った。
「でも、止められると思うなよ。犯人はたぶん、俺たちが何を伏せるかまで読んでる」
 その時だった。
 二階堂の携帯に通知が入った。
 画面を見た彼の表情が固まる。
「来た」
「何が」
「匿名投稿」
 彼は画面を真壁に見せた。
 《声を奪った者は、声なき書類の中で死んだ》
 添付画像はなかった。
 だが、それだけで十分だった。
 投稿時刻は、鷲尾の部屋を開けてから十分も経っていない。
「早すぎる」
 三谷が呟いた。
「現場の中に発信者がいる?」
 若い捜査員の一人が言った。
 二階堂は首を振った。
「違う。たぶん、事前に仕込まれてる」
「事前?」
「鷲尾が死んだことを、警察が確認するタイミングに合わせて出すように」
「どうやって」
「分からない。だが、これまでと同じだ。犯人は情報の出る順番を作ってる」
 真壁は九条を見た。
 九条は投稿を見ていなかった。
 鷲尾の遺体を見ていた。
 いや、違う。
 投稿を見る必要がないのかもしれない。
 内容を、予想していたのかもしれない。
「九条」
「何だ」
「今の投稿、どう思う」
「犯人は、鷲尾の死を母の書類と結びつけたい」
「それは見れば分かる」
「なら聞くな」
「お前は分かりすぎる」
 九条は黙った。
「御堂の時もそうだった。死因を誤るな、灰は山から来る、息を奪った者。お前はいつも、犯人の言葉を所見のように読む」
「言葉も所見の一部だ」
「違う」
「違わない。犯人が残したものなら、それも現場だ」
「犯人が残したものに近づきすぎるな」
「近づかなければ読めない」
 二人の間に、冷たい沈黙が落ちた。
 二階堂が割って入った。
「今ここでやるな。外が燃え始めてる。鷲尾の死亡情報が出る前に、最低限の確認を進める」
 真壁は息を吐いた。
「ああ」
 九条も何も言わなかった。
 鷲尾の遺体は、慎重に搬送の準備が進められた。
 死因はまだ分からない。
 だが、現場は明らかに自然死ではなかった。
 自然死に見せる意図がある。
 それが、御堂の現場との違いだった。
 御堂の死は、見せつけるためにあった。
 焼けた体、灰、礼拝堂。すべてが過去の火災を指していた。
 鷲尾の死は、隠すための形をしている。
 病死に見える。争った形跡がない。内側から施錠。高齢医師の突然死として処理できなくもない。
 だが、その隠し方そのものが、暴露だった。
 九条合歓の死も、そうやって処理されたのではないか。
 病死に見える死。
 若くてもありえないわけではない死。
 周囲が納得しやすい死。
 そして、その診断書を書いた鷲尾。
 真壁は、机の上の赤線を見た。
 若年性脳梗塞。
 その下に引かれた赤い線。
 訂正しろ。
 犯人の声が聞こえた気がした。
 その声が九条の声に似ていることを、真壁は認めたくなかった。
 深夜近く、鷲尾の遺体は解剖へ回された。
 九条が立ち会うかどうかで、短い議論になった。
 当然だった。
 九条は、被害者と因縁が深すぎる。
 母の死亡検案書を書いた医師。
 その死体の横には、母の名と同じ花。
 九条本人が容疑線から完全に外れていない以上、関与させるべきではないという声はあった。
 だが、鷲尾の死因を読むために九条の知識が必要だという意見もある。
 最終的に、主担当は別の法医学者が務め、九条は所見確認の補助に回ることになった。
 ただし、すべての発言と行動は記録される。
 真壁も立ち会う。
 解剖室の前で、九条は白衣に袖を通していた。
 真壁はその横に立った。
「外されなくてよかったな」
 わざと皮肉を言うと、九条は淡々と答えた。
「よくはない」
「どういう意味だ」
「俺は外れるべきだった」
 真壁は九条を見た。
「ならなぜ残った」
「死因を誤らせたくない」
「それは理由にならない」
「俺にとってはなる」
「お前にとって、だろ」
「ああ」
「捜査にとっては危険だ」
「そうだな」
 九条は手を洗い始めた。
 水の音が廊下に響く。
 真壁はその横顔を見た。
「お前、本当は自分が危険な場所にいることを分かってるんだな」
「分かっている」
「ならなぜ下がらない」
「下がっても、鷲尾は死んでいる」
「そういう話じゃない」
「同じだ」
「違う」
 九条は水を止めた。
「真壁」
「何だ」
「母の死因欄を書いた男が死んだ。現場には母の名の花があった。お前たちは俺を疑う。正しい」
「……」
「だが、疑うことと、死因を誤ることは別だ」
 九条はペーパータオルで手を拭いた。
「俺を疑え。必要なら拘束しろ。だが鷲尾の死因は誤るな」
 真壁は言葉を失った。
 九条は、自分を守ろうとしていない。
 それは潔白だからか。
 あるいは、最初から捕まることを恐れていないからか。
 分からなかった。
「お前は、本当に御堂も鷲尾も殺してないのか」
 真壁は聞いた。
 九条は少しだけ黙った。
 それから言った。
「今、俺が何を答えても、お前は所見を見なければ信じない」
「そうだな」
「なら、先に所見を見ろ」
 その言い方に、真壁は奥歯を噛んだ。
 正しい。
 だが、腹が立つほど正しい。
 解剖が始まった。
 主担当の法医学者は、堀島岳斗だった。
 九条とは旧知の医師で、医務院に所属している。真壁も何度か現場で顔を合わせたことがある。飄々としているが、腕は確かだ。九条ほど冷たくはなく、かといって死体の前で感傷的になる人間でもない。
 堀島は、鷲尾の遺体を前にして、まず九条を見た。
「九条先生」
「何」
「今日は黙っていてくださいね」
 九条は表情を変えなかった。
「必要な時だけ話す」
「その“必要”をこっちで決めたいんですけど」
「努力する」
 堀島は肩をすくめた。
「返事になってませんね」
 真壁は少しだけ二階堂を思い出した。
 二階堂も同じことを言っていた。
 解剖室の空気は冷えていた。
 鷲尾の遺体は、白い照明の下で現場よりもさらに小さく見えた。
 生きていた時は、権威のある医師だったのだろう。
 白胎会ともつながり、死亡検案書を書き、誰かの死を言葉で閉じてきた男。
 弟と医院を大きくし、家族に金を与え、職員を疲弊させ、患者を数字に変え、それでも地域医療の成功者として表彰状を受け取っていた男。
 貧しさから這い上がり、自分の家族だけは金で守った男。
 他人の家族の死因欄を、事務的に閉じた男。
 だが、解剖台の上ではただの死者だった。
 堀島が外表所見を確認していく。
「明らかな外傷なし。注射痕は……右前腕に古いものか新しいものか確認が必要な小痕あり。医療処置由来の可能性もありますね」
 真壁は身を乗り出した。
「注射痕?」
 九条は何も言わなかった。
 堀島は続ける。
「口腔内に軽度の乾燥。吐物はなし。爪に抵抗痕は乏しい。顔面に強い苦悶表情はない。発見時姿勢は椅子座位。現場状況から急死に見える」
「死因は」
 真壁が聞くと、堀島は苦笑した。
「真壁さん、早いです。九条先生みたいなことしないでください」
「悪い」
「血液、尿、胃内容、組織を検査へ。心疾患、脳血管障害、薬物、毒物、全部見ます」
 九条が静かに言った。
「薬物を広く取った方がいい」
 堀島が目だけで九条を見る。
「理由は」
「現場に母の死亡検案書があった」
「それは捜査情報ですよね」
「母の死因は脳梗塞とされた。だが、犯人が鷲尾に同じ構造の死を与えるなら、自然死に見える急死を選ぶ可能性が高い」
「構造の死、ね」
 堀島は少しだけ眉を上げた。
「九条先生、言い方が犯人に近いです」
 真壁は堀島を見た。
 同じことを感じた人間が、ここにもいる。
 九条は反論しなかった。
「近いなら、なおさら検査して」
「しますよ。最初からそのつもりです」
 堀島の声は軽かったが、目は笑っていなかった。
 解剖は進んだ。
 詳しい所見は検査を待つ必要がある。
 だが、少なくともその場で大きな脳出血は見られなかった。心臓に突然死を説明しきる決定的所見も、すぐには見つからない。
 若年性脳梗塞ではない。
 もちろん、鷲尾は若くない。
 だが、自然な病死と断定するには、何かが足りなかった。
 堀島は臓器所見を確認しながら、静かに言った。
「病死として処理しようと思えば、処理できるかもしれません」
 真壁は顔を上げた。
「どういう意味だ」
「高齢。基礎疾患あり。施錠された部屋。争った形跡なし。遺体だけ見れば、急性心不全あたりで処理しても不自然に見えない可能性がある」
「だが?」
「現場が、そうさせてくれない」
 堀島は九条を見た。
「花と死亡検案書がなければ、見落としたかもしれない」
 九条は答えなかった。
 真壁は、その言葉の重さを感じた。
 花と死亡検案書がなければ、鷲尾の死は病死として閉じられたかもしれない。
 合歓の死もそうだったのかもしれない。
 現場に置かれた合歓の花は、単なる弔いではない。
 それは、見落とすなという標識だった。
 鷲尾がかつて閉じた死因欄を、今度は鷲尾自身の死体で開けさせるための標識。
 真壁は気分が悪くなった。
 犯人の意図が分かる。
 分かってしまう。
 それが嫌だった。
 解剖が一段落したのは、午前二時を過ぎた頃だった。
 正式な死因はまだ出ない。薬毒物検査の結果を待つ必要がある。
 だが、鷲尾の死が自然死ではない可能性は高まっていた。
 真壁は廊下へ出た。
 二階堂が壁にもたれて待っていた。
 手には缶コーヒーが二本。片方を真壁へ渡す。
「またぬるいぞ」
「温かいの売り切れてたんだよ」
 真壁は缶を受け取った。
「外は」
「鷲尾の名前はまだ出てない。だが“医師が死んだらしい”という投稿は出始めた。匿名アカウントのせいだ」
「発信元は」
「追ってる。だが使い捨てと踏み台だらけだ。早瀬の線もあるが、あいつだけで全部やってるとは思えない」
「九条は?」
「まだ中か」
「ああ」
 二階堂は缶コーヒーを開けた。
「どうだった」
「病死に見える死だった」
「合歓さんと同じか」
「そう見せたいんだろう」
「犯人が?」
「ああ」
 二階堂はしばらく黙った。
「真壁」
「何だ」
「これ、九条を犯人に見せるためにしてるなら、上手すぎる」
「九条が犯人なら」
「もっと上手すぎる」
「どういう意味だ」
 二階堂は苦い顔をした。
「自分を疑わせながら、でも即逮捕できる証拠は残さない。事件を過去へ向けて開いていく。警察もメディアも教団も動かす。真壁、お前に読ませる。九条ならできると思うか?」
 真壁は答えられなかった。
 できる。
 そう思ってしまう。
 九条は派手な工作をする男ではない。だが、死者の所見をどう置けば真壁が読むかは知っている。情報の広がり方は二階堂ほどではないにせよ、必要な人間を使えば届く。法医学的な死因偽装にも、病死に見せる死にも詳しい。
 そして何より、動機が深すぎる。
「できるかどうかより」
 真壁は言った。
「やるかどうかだ」
「九条はやらないと言い切れるか」
「言い切れない」
 二階堂は缶を持つ手を止めた。
「言い切れなくなったか」
「最初から刑事としては言い切ってない」
「幼なじみとしては?」
 真壁は黙った。
 二階堂は、それ以上聞かなかった。
 その時、解剖室の扉が開いた。
 九条が出てきた。
 白衣を脱ぎ、黒いコートを手に持っている。顔色は変わらない。ただ、目の下にわずかな影があった。疲労か、別の何かかは分からない。
「九条」
 真壁が呼ぶ。
「何だ」
「鷲尾の死をどう見る」
「病死に見せる意図がある」
「実際は」
「薬毒物検査を待つ」
「それだけか」
「今言えるのはそれだけだ」
 二階堂が口を挟んだ。
「お前の母親の死と同じだと思うか」
 九条は二階堂を見た。
「母の死因は証明できていない」
「答えになってない」
「証明できていないものを同じとは言えない」
「でも疑ってる」
「疑っている」
 九条は、そこだけははっきり言った。
 真壁は息を止めた。
「いつから」
「高二の冬から」
「ずっとか」
「ああ」
「ずっと、鷲尾を疑っていたのか」
 九条は少し黙った。
「鷲尾だけではない」
「誰を」
「御堂。白胎会。光胎寮。母に接触した人間。死亡検案書の処理に関わった人間。全員だ」
「調べたのか」
「調べた」
「何年も?」
「何年も」
 二階堂が低く言った。
「それを今まで黙ってたのか」
「証明できなかった」
「またそれか」
「証明できないものは、誰かの物語になる」
 九条の声は静かだった。
「母はもう十分、他人の物語にされた」
 その言葉に、二階堂も真壁も黙った。
 九条は続けた。
「かわいそうな生存者。若くして死んだ母親。宗教村から逃げた女性。白い子を抱えた母。誰かが好きな形にする。だが母は、ただ生きていただけだ。働いて、うどんを作って、公共料金を忘れて、俺の薬を持って、真壁の家へ走っていた。それだけだ」
 真壁の胸に、鋭く刺さった。
 九条がここまで母を言葉にしたのは、初めてだった。
 九条は感情を語らない。
 母を語らない。
 過去を語らない。
 その九条が、今、合歓を生活の言葉で語った。
 うどん。
 公共料金。
 薬。
 真壁の家へ走る。
 それは、九条にとっての母そのものだった。
「だから」
 真壁は静かに言った。
「母親の死因だけは、物語にしたくなかった」
 九条は答えなかった。
 だが、その沈黙は肯定だった。
 二階堂が、少し声を落とした。
「九条。お前が黙っていたせいで、今、逆に合歓さんは大きな物語にされかけてる」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ」
「なら、全部出せ」
 九条は二階堂を見た。
「何を」
「お前が十七歳から調べたこと。鷲尾のこと。合歓さんの死のこと。御堂のこと。全部だ」
「出せない」
 二階堂の目に苛立ちが戻った。
「なぜ」
「まだ足りない」
「何が」
「最後の線」
 真壁は眉を寄せた。
「最後の線?」
「母が死ぬ直前、誰と会ったのか。鷲尾が何を見たのか。御堂がそこにどう関わったのか。そこが証明できていない」
「だから鷲尾を調べる必要があった」
「そうだ」
「鷲尾が死んだ今、どうする」
 九条は静かに答えた。
「鷲尾の死体を読む」
 真壁は、ぞっとした。
 この男は本気でそう思っている。
 生きている鷲尾から証言を取る道が絶たれた。
 なら、死体を読む。
 九条にとって、死者は終わりではない。
 それは分かっていた。
 だが今、その信念が恐ろしいほど冷たく見えた。
「九条」
 真壁は言った。
「お前、鷲尾が死んで助かったと思ってないか」
 二階堂が息を呑んだ。
 九条は真壁を見た。
 長い沈黙。
 廊下の蛍光灯が、九条の白い髪を硬く照らしていた。
「思っていない」
「本当に?」
「鷲尾が生きていれば、聞けたことがある」
「死んだら」
「残るものがある」
「お前にとっては、どちらでもよかったのか」
 九条の目が、ほんのわずかに細くなった。
「どちらでもいい死はない」
 その声は低かった。
「誰の死でも」
 真壁は、言い返せなかった。
 それは九条の倫理だった。
 同時に、九条の危うさでもあった。
 誰の死でも誤らせない。
 たとえ憎んでいる相手でも。
 母の死因を奪った男でも。
 自分が殺した相手でも。
 そこまで考えて、真壁は自分の思考に冷えた。
 自分が殺した相手でも。
 なぜ今、その可能性が自然に浮かんだのか。
 九条は二人に背を向けた。
「帰る」
「待て」
 真壁が言う。
「どこへ」
「研究室だ。鷲尾の過去資料を照合する」
「単独でか」
「記録は残す」
「そういう問題じゃない」
「監視をつけろ」
 九条は振り返らずに言った。
「必要なら、手錠でもいい」
 真壁は動けなかった。
 九条は歩き出した。
 二階堂が低く呟いた。
「嫌な動き方だな」
「ああ」
「あいつ、自分が疑われることを利用してるのか?」
 真壁は答えなかった。
 利用しているのか。
 受け入れているのか。
 諦めているのか。
 分からない。
 だが、九条が事件の中心へ向かって自分から歩いていることだけは確かだった。
 午前三時過ぎ。
 捜査本部へ戻ると、鷲尾の部屋から押収された資料の一部が運び込まれていた。
 段ボール箱にして八箱。
 医療法人の契約書。
 白胎会関連施設の死亡記録。
 古い検案書の控え。
 献金と講演料の記録。
 鷲尾の個人メモ。
 鷲尾メディカルクリニックの内部資料。
 看護師の退職届の写し。
 自由診療部門の収益表。
 真壁は、眠気を感じなかった。
 資料をめくる。
 鷲尾貞成は、単なる協力医ではなかった。
 白胎会の関連施設で起きた複数の死亡事案に関与している。多くは高齢者の自然死、病弱な信者の急死、施設内での事故死として処理されていた。
 だが、同じ名前が何度も出てくる。
 御堂聖真。
 仁科。
 黒住。
 そして、鷲尾。
 死因は穏当だった。
 急性心不全。
 肺炎。
 脳梗塞。
 誤嚥。
 老衰。
 持病悪化。
 どれも、ありえない死因ではない。
 だからこそ、厄介だった。
 ありえないものなら疑える。
 ありえるものは、疑う力を奪う。
 九条合歓の若年性脳梗塞も、同じだった。
 若くても起こりうる。
 働きすぎていた。
 栄養状態も悪かった。
 睡眠不足だった。
 だから、周囲は納得する。
 そうやって、死因欄は閉じられる。
 真壁は、別のファイルを開いた。
 鷲尾メディカルクリニックの経営会議メモだった。
 患者数、処方件数、検査件数、自由診療収益、往診契約数が数字で並んでいる。
 その余白に、鷲尾のものと思われる筆跡で書かれていた。
 《外来一人三分以内》
 《慢性不定愁訴は継続処方へ》
 《施設案件は死亡時処理まで一括で受ける》
 《家族説明は短く。迷わせるな》
 真壁は眉を寄せた。
 死亡時処理。
 医療の言葉ではない。
 少なくとも、真壁にはそう見えた。
 次の資料には、鷲尾の子どもたちの学費関連の振込記録が挟まっていた。
 海外研修費。
 留学費。
 私立大学医学部の初年度納入金。
 外車ディーラーへの支払い。
 リゾート会員権。
 すべて高額だった。
 その一方で、クリニックの職員給与は抑えられている。看護師の残業代未払いを訴えるメモもあった。退職届には、同じような言葉が何度も出ていた。
 限界です。
 患者さんを人として見られなくなりました。
 薬だけ出すことに耐えられません。
 先生は数字しか見ていません。
 真壁は、その文字を見ながら思った。
 鷲尾は家族を守った。
 そのために、他人の家族を数字にした。
 九条合歓も、その数字の一つだったのかもしれない。
 真壁は資料をめくる手を止めた。
 一枚のメモがあった。
 鷲尾の筆跡らしい。
 日付は、合歓が死んだ日の数日前。
 《N接触済。状態不安定。Mへの影響注意。診断時は脳血管系で処理可》
 N。
 M。
 真壁はコピーを取り、三谷を呼んだ。
「このNとMを洗う」
「九条合歓のNですか」
「可能性はあります。Mは雅紀かもしれない」
 三谷の顔が強張った。
「つまり、合歓さんへの接触があった?」
「まだ断定しないほうがいいです」
 自分で言いながら、真壁は分かっていた。
 線が見え始めている。
 合歓は死の前に誰かと接触していた。
 鷲尾はそれを知っていた。
 診断時は脳血管系で処理可。
 処理可。
 医師のメモにしては、あまりに事務的で、あまりに冷たい。
 その時、二階堂が入ってきた。
「真壁」
「何だ」
「外に出た」
「鷲尾の件か」
「ああ。名前はまだだが、“白胎会と関係のあった元医師が死亡”まで出た」
「早すぎる」
「匿名アカウントが追加投稿した」
 二階堂は画面を見せた。
 《一度目は、息を奪った者。
 二度目は、声を奪った者。
 次に読むべきは、声を奪われた人間の名前。》
 真壁は画面を見つめた。
 声を奪われた人間。
 九条合歓。
 次は、合歓の名前が出る。
 二階堂は低く言った。
「もう止められない」
 真壁は資料の上に手を置いた。
「止めるんじゃない」
「何?」
「先に事実を押さえる」
 二階堂は、真壁を見た。
「九条みたいなことを言うな」
「言いたくて言ってるんじゃない」
 真壁は立ち上がった。
「鷲尾の過去を掘る。合歓の死の前後を洗う。NとMの意味を調べる。死亡検案書の原本、当時の搬送記録、職場の証言、病院のカルテ、全部だ」
「九条は」
「監視をつけろ」
「拘束は?」
 真壁は少しだけ黙った。
「まだだ」
 二階堂は何か言いたげだったが、飲み込んだ。
「了解」
 その時、真壁の携帯が震えた。
 知らない番号だった。
 出る。
「真壁です」
 数秒、無言。
 それから、掠れた男の声がした。
『鷲尾先生が死んだって、本当ですか』
「どちら様ですか」
『私は……昔、白胎会の施設で働いていました』
 真壁は二階堂を見る。
 二階堂もすぐに録音の準備をした。
「お名前を」
『名前はまだ言えません。でも、九条合歓さんのことを知っています』
 真壁の背筋が伸びた。
「何を知っている」
 電話の向こうで、男は息を呑むように沈黙した。
『あの人は、脳梗塞なんかじゃなかった』
 真壁は、受話器を握る手に力を込めた。
「詳しく話してください」
『鷲尾先生は知っていた。御堂先生も知っていた。あの人は、逃げようとしていた。もう一度、逃げようとしていたんです』
「どこから」
『白胎会からです』
 真壁は目を閉じた。
 やはり、合歓は逃げ切れていなかった。
『九条雅紀さんに、伝えないでください』
 男は言った。
『あの人がこれを知ったら、もう戻れない』
 真壁は何も言えなかった。
 遅い。
 そう思った。
 九条はもう、戻れない場所まで来ている。
 いや、もしかすると。
 十七歳の冬、押し入れの奥から「まさきのせいちょうきろく」を見つけた時から、九条はずっと戻れていなかったのかもしれない。
 電話の向こうの男は、最後にこう言った。
『合歓さんは、死ぬ前に言っていました』
「何と」
『雅紀だけは、連れていかないで、と』
 そこで通話は切れた。
 真壁は携帯を持ったまま、しばらく動けなかった。
 二階堂が低く聞いた。
「誰だ」
「元白胎会施設職員らしい」
「内容は」
 真壁はゆっくり顔を上げた。
「九条合歓は、死ぬ前にもう一度逃げようとしていた」
 二階堂の表情が変わった。
「九条を連れて?」
「いや」
 真壁は声を絞るように言った。
「九条だけは、連れていかれないように」
 部屋の中で、時計の秒針だけが聞こえた。
 御堂は、父と村人の息を奪った。
 鷲尾は、母の声を奪った。
 だがその前に、白胎会は合歓から、逃げ切ったはずの人生まで奪おうとしていた。
 真壁は思った。
 これを九条が知ったらどうなる。
 いや、九条はすでに知っているのかもしれない。
 だから御堂は焼かれた。
 だから鷲尾は病死に見える形で死んだ。
 だから合歓の花が置かれた。
 真壁は机の上の鷲尾のメモを見た。
 あの短いメモ。
 声を奪った者。
 鷲尾貞成。
 その死体は、今、解剖台の上にある。
 だが真壁には、もう一つ別の死体が見えていた。
 十七年前、病院のベッドの上で、若年性脳梗塞と書かれた九条合歓。
 彼女の声は、今になってようやく、死因欄の下から漏れ始めている。
 そしてその声を最も強く聞いているのは、たぶん九条雅紀だった。
 真壁は立ち上がった。
「九条を探す」
 二階堂が顔を上げる。
「研究室じゃないのか」
「確認する」
 電話をかける。
 呼び出し音。
 一回。
 二回。
 三回。
 出ない。
 真壁の胸に、嫌なものが広がった。
 四回。
 五回。
 繋がらない。
 二階堂が低く言った。
「真壁」
「分かってる」
 真壁はすぐに三谷へ指示を飛ばした。
「九条の所在確認。研究室、自宅、医務院、全部だ。車両の位置情報も確認してください」
「はい!」
 二階堂は携帯を操作しながら言った。
「監視をつけろって言ったよな」
「言った」
「ついてるのか」
 数秒後、三谷が叫んだ。
「九条先生、研究室にいません! 監視役が、資料確認中に姿を見失ったと」
「いつ」
「十五分前です」
 真壁は目を閉じた。
 遅かった。
 二階堂が呟いた。
「あいつ、本当に容赦ないな」
 真壁は答えなかった。
 携帯に、九条からメッセージが届いたのはその時だった。
 短い一文。
 《鷲尾の死因を誤るな》
 それだけだった。
 真壁は画面を見つめた。
「九条……」
 怒りが込み上げた。
 心配より先に、怒りが来た。
 そのことに少しだけ安心した。
 まだ自分は、九条を刑事として追える。
 そう思いたかった。
 二階堂が画面を覗き込み、低く言った。
「これは、逃走じゃないな」
「何だ」
「誘導だ」
 真壁は携帯を握りしめた。
 九条は、また真壁を動かそうとしている。
 どこへ。
 なぜ。
 真壁はふと、更地を思い出した。
 父が残した家。
 母が辿り着いた家。
 九条が成長記録を見つけた家。
 今は何もない場所。
 事件が九条の根へ向かうなら、最後はあそこへ戻る。
 だが、まだ早い。
 鷲尾の死因は出ていない。
 合歓の死因も訂正されていない。
 御堂の火も、鷲尾の薬も、まだ一本の線になっていない。
 九条はどこへ行った。
 真壁は、頭の中で九条の言葉を反芻した。
 鷲尾の死因を誤るな。
 それは逃走の挨拶ではない。
 作業の指示だ。
 真壁は二階堂を見た。
「鷲尾の資料を全部読む」
「九条を追わないのか」
「追う。だが、あいつが今求めているのはそれじゃない」
 二階堂は苦い顔をした。
「また使われるぞ」
「分かってる」
「それでも読むのか」
「ああ」
 真壁は鷲尾の段ボール箱へ向かった。
「死因を誤れば、九条の思うつぼだ」
 二階堂は一瞬だけ目を見開いた。
 真壁は資料を手に取った。
「逆に、誤らなければ、九条に辿り着ける」
 二階堂は少しだけ笑った。
「刑事っぽいな」
「刑事だからな」
 真壁は鷲尾のメモをもう一度開いた。
 Nは合歓。
 Mは雅紀。
 そこまで読めば十分だった。
 そして、鷲尾は知っていた。
 九条合歓の死が、ただの病死ではなかったことを。
 ならば、鷲尾の死体もまた、何かを知っているはずだった。
 真壁は、読み始めた。
 死者の声を聞くためではない。
 九条雅紀という、生きているはずの男を捕まえるために。