死んだ腕に抱かれる

 家は、なくなってから意味を持つことがある。
 真壁彰がそれを思い知ったのは、九条雅紀の実家が取り壊された時だった。
 古い平屋だった。
 真壁家の斜め向かいに、ひっそりと建っていた。
 築年数はよく分からない。子どものころからすでに古かった。木の門は少し傾き、雨戸の端には錆が浮いていた。庭というほどでもない狭い土の部分には、季節ごとに雑草が伸びた。合歓は草むしりをしようとして、途中で別のことを思い出し、軍手を片方だけ庭に置き忘れるような人だった。
 真壁にとって、あの家は九条の家だった。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 九条と、若い母親が住んでいる家。
 夜中に九条が喘息の発作を起こすと、合歓が真壁家へ駆け込んでくる家。
 風呂場の窓が固くて、冬になると台所の隅が冷える家。
 玄関に安い傘が何本か立てかけてあり、そのうち一本は骨が曲がっている家。
 合歓が買い物袋を置き、九条が公共料金の封筒を確認する家。
 貧しい母子家庭の家。
 そう思っていた。
 だが、御津窪の火災資料を読んで以来、その認識にひびが入り始めていた。
 九条合歓は、ただ神奈川へ逃げてきたのではない。
 焼かれた村から、偶然助かった女性ではない。
 彼女は、何かを頼りに、あの平屋へ来た。
 そしてその何かは、おそらく九条の父が残したものだった。
 鷲尾貞成の所在確認が難航しているという報告を受けた直後、真壁は捜査本部を出た。
 電話は鳴り続けていた。
 鷲尾の自宅。
 過去の勤務先。
 現在の関係先。
 親族。
 医療法人。
 白胎会との接点。
 すべてが同時に動いている。
 二階堂は、情報流出を抑えるために広報対応へ戻っていた。九条は一度姿を消したが、鑑識資料室にいると連絡があった。勝手に鷲尾のもとへ向かったわけではない。それを聞いて少し安堵した自分に、真壁は腹が立った。
 九条を信じたいのか。
 疑いたいのか。
 守りたいのか。
 止めたいのか。
 どれも違う気がした。
 刑事としては、疑わなければならない。
 幼なじみとしては、疑いたくない。
 だが、その二つの間に立っているほど、事件は待ってくれない。
 真壁は車に乗り込むと、ハンドルを握ったまま数秒止まった。
 行くべき場所は、鷲尾の自宅かもしれない。
 だが、そこにはすでに捜査員が向かっている。
 今、自分が見るべきものは別にある。
 九条家の跡地。
 真壁はエンジンをかけた。
 かつての住宅街は、昔より少し明るくなっていた。
 道路は舗装し直され、古い家が何軒か建て替わっている。真壁家も、外壁を一度塗り直している。近所の店は減り、代わりに駐車場が増えた。子どもの頃には広く見えた道も、今見るとずいぶん狭い。
 車を少し離れた場所に停め、真壁は歩いた。
 季節は初夏に近かった。
 夕方の光はまだ残っている。電柱の影が長く伸び、風に乗ってどこかの家の夕飯の匂いがした。
 その匂いで、ふと合歓の台所を思い出した。
 うどんの匂い。
 焦げた鍋の匂い。
 安い出汁の匂い。
 時々、なぜか甘い菓子パンの匂い。
 合歓は料理が上手い人ではなかった。
 だが、九条のために何かを作ろうとはしていた。
 冷蔵庫の中身と財布の中身を見比べ、考えた末に、結局うどんになる。九条はそれを黙って食べる。真壁が遊びに行くと、合歓は「彰くんも食べる?」と聞いた。九条は横から「彰には足りない」と言う。合歓は「あ、そっか」と笑う。「じゃあ、追加でやきそば作ろっか」と合歓が笑う。
 そんな場面を、真壁はずっと、貧しい家の記憶として保存していた。
 違うのかもしれない。
 貧しさだけではなかったのかもしれない。
 真壁家は、九条家を何度も助けた。
 それは事実だった。
 夜中、合歓が泣きそうな顔で玄関を叩けば、真壁の母は迷わず起きた。寝巻きの上にカーディガンを羽織り、吸入器、タオル、水、保険証、必要なものを順番に並べた。九条の呼吸が細くなると、真壁は子どものくせにその音を覚えた。悪くなる咳は、音が違う。もっと悪くなると、音すら出なくなる。そんなことを、知りたくない知り方で知った。
 合歓が仕事中に転んで、両手と両膝に包帯を巻いた日も何度もあった。
 夕方、坂の下で真壁は彼女を見つけた。
 ばんそうこうだらけの両手に、買い物袋を二つ抱えていた。片方の袋からはねぎが飛び出し、もう片方からは湿布の箱が透けて見えていた。歩くたびに膝をかばうから、足取りが妙にぎこちない。けれど合歓は、真壁を見ると「あ、彰くん」といつもの調子で笑った。
「大丈夫ですか」
 そう聞くと、合歓は少しだけ袋を持ち直した。
「大丈夫大丈夫。ちょっと転んだだけ」
「ちょっとじゃないでしょ」
「ちょっとだよ。階段が、思ったより階段だっただけ」
「何言ってるんですか」
 真壁は黙って、袋を一つ奪うように持った。
 合歓は慌てた。
「あ、いいよ。重いよ」
「重くないです」
「でも、彰くん、道場帰りでしょ」
「関係ないです」
 それ以上言わせなかった。
 袋の中には、おから、もやし、ねぎ、卵、牛乳、湿布、安いゼリーが入っていた。合歓の手は、袋の持ち手の跡で赤くなっている。ばんそうこうの端は少し剥がれ、そこに埃がついていた。
 真壁は半分を持って、坂を上った。
 合歓は隣で、少し恥ずかしそうに笑いながら歩いた。
「まさきに怒られるかなあ」
「怒ると思います」
「やっぱり?」
「隠したらもっと怒ります」
「そっかあ」
 その声が妙に安心していて、真壁は胸の奥が詰まった。
 合歓は、強くない。
 だが、弱いだけでもない。
 止まるのが怖い人だった。
 止まったら、何かに追いつかれてしまう。そんなふうに、ずっと動き続けている人だった。
 別の夏には、かき氷を作ってくれたこともある。
 九条は夏休みの短いアルバイトに出ていた。真壁は部活も道場も休みで、昼間からだらだらと近所を歩いていた。九条の家の前を通ると、合歓が玄関先で古いかき氷器を出していた。手回し式の、プラスチックの青い機械だった。
「彰くん、食べる?」
 そう言われて、断る理由もなく上がった。
 台所は暑かった。扇風機が回っていたが、首振りの途中で時々引っかかる。合歓は冷凍庫から氷を出し、かき氷器に入れた。削るたびに、ぎりぎり、がりがりと不器用な音がした。
「まさき、今日バイトなんだ」
「みたいですね」
「え、知ってるの?」
「朝、会いました」
「あ、そっか」
 合歓は、いちごシロップをかけた。安いシロップだった。甘さが舌に残る。それでも、冷たかった。
 真壁と合歓は、九条のいない九条家で、二人でかき氷を食べた。
 妙な時間だった。
 合歓は、暑いねえ、と言った。
 真壁は、はい、と答えた。
 合歓は、まさき、ちゃんと休めばいいのにねえ、と言った。
 真壁は、休まないでしょう、と答えた。
 合歓は、困ったように笑った。
「似ちゃったのかなあ」
「誰に」
 真壁が聞くと、合歓は一瞬だけ止まった。
 そして、また笑った。
「誰だろうね」
 その時、真壁はそれ以上聞かなかった。
 聞けなかった。
 父親のことを聞いてはいけない気がした。親戚のことも、昔のことも、どうしてこの家に来たのかも。全部、子どもの真壁には重すぎた。
 真壁家は、合歓を何度も助けた。
 九条も何度も助けた。
 だが本当に踏み込むことはできなかった。
 夜中に救急車を呼ぶことはできた。
 買い物袋を半分持つことはできた。
 かき氷を食べて、九条が帰ってくるまでの時間を埋めることはできた。
 でも、合歓が何から逃げてきたのかは聞かなかった。
 なぜ親戚がいないのかも聞かなかった。
 父親の名前も聞かなかった。
 あの家の鍵を、なぜ合歓があれほど気にしていたのかも。
 夜に一度、鍵を溝に落としたときに、全身泥にまみれながら、泣きそうな顔で探していた。
 今は使っていない、古い鍵だというのに、必死に探していた。
無理だと、諦めようとなだめる九条に、珍しく「嫌だ」と強く言った。――その理由。
 子どもだったから。
 それは事実だ。
 だが、大人になった今、その言い訳は真壁の中で何度も崩れた。
 自分は、九条を覚えている人間だ。
 けれど、覚えているだけだった。
 助けたつもりで、何も知らなかった。
 そのことが、今になって骨の間へ入り込む。
 角を曲がると、更地が見えた。
 真壁は足を止めた。
 そこにはもう、何もなかった。
 木の門もない。
 錆びた雨戸もない。
 古い玄関もない。
 合歓が草むしりを途中でやめた軍手もない。
道場帰りに、ホースで水浴びをした狭い庭もない。
 九条が高校生のころ、自転車を停めていた場所も分からない。
 ただ、平らに均された土地があるだけだった。
 防草シートの端が風で少しめくれ、重し代わりのブロックが置かれている。敷地の隅には、小さな雑草が何本か生えていた。隣家との境界にある古い塀だけが、かろうじて昔の位置を教えている。
 ここに、家があった。
 真壁は敷地の前に立った。
 自分がどこに立っているのか、記憶と照合する。
 玄関はこのあたりだった。
 台所は奥。
 居間は右側。
 押し入れは居間の奥。
 風呂場は左手。
 九条が寝ていた部屋は、おそらく道路側だった。
 夜中、合歓はこの玄関から飛び出してきた。
 髪がほどけ、上着のボタンがずれ、靴を左右逆に履いていたこともある。片手には保険証、片手には九条の薬。財布を忘れたと思って慌て、よく見ると薬袋の下に入っていた。九条を背負うこともあれば、九条の腕を引いてくることもあった。
 すみません。
 まさきが。
 息が。
 どうしよう。
 真壁の母は、そのたびに玄関を開けた。
 大丈夫、大丈夫。
 合歓ちゃん、まず座って。
 雅紀、こっち向ける?
 彰、救急に電話。
 水、持ってきて。
 その声が、今も耳の奥に残っている。
 真壁は、更地を見つめたまま携帯を取り出した。
 不動産登記、過去の賃貸記録、住民票の移動履歴。
 すでに調査依頼は出していた。だが、返答はまだ断片的だった。
 電話をかける。
 数コールで、三谷が出た。
『真壁さん』
「例の平屋の件、何か出ましたか」
『ちょうど連絡しようとしていました。古い賃貸契約の控えが残っていました』
「借主は」
『九条合歓です。ただし、契約手続きの初期段階では別の人物が仲介していた可能性があります』
「別の人物?」
『契約書本体には残っていませんが、管理会社の古い台帳に、入居予定者の照会メモがありました。若い妊婦、夫あり、出産後入居予定、と』
 真壁は目を細めた。
「夫の名前は」
『記載がありません。ですが、備考欄に“夫が先行して物件確認”とあります』
 真壁は、更地を見た。
 父が、ここを見に来た。
 そういうことになる。
「日付は」
『御津窪火災の約一か月前です』
 真壁は言葉を失った。
 一か月前。
 つまり、九条の父は火災の前にこの家を確認していた。合歓と生まれてくる子どものために、神奈川の古い平屋を見つけ、契約の準備を進めていた。
 逃げるつもりだった。
 三人で。
「保証人は」
『そこが妙でして、保証会社を通しています。当時としては少し珍しいですが、管理会社側が家賃保証を使ったようです。初期費用も先に一部支払われています』
「誰が払った」
『現金です。領収書には九条合歓の名前。ただし、筆跡は合歓本人のものと断定できません』
「父親?」
『可能性はあります』
「契約住所は」
『最初は空欄。後から御津窪に近い住所が薄く書かれ、その上に線が引かれています。その後、こちらの住所へ変更』
 真壁は、かつての玄関の位置を見た。
 九条の父はここに立ったのだろうか。
 古い平屋を見て、どう思ったのだろう。
 狭い。古い。駅から遠い。雨漏りがするかもしれない。家賃は安い。鍵がある。村の誰も勝手に入ってこない。
 合歓に何と言ったのだろう。
 子どもが生まれたら、ここへ来よう。
 三人で暮らせる。
 狭いけど、鍵がある。
 誰も夜中に入ってこない。
 そんな言葉が浮かんだ。
 真壁は、自分が見てもいない光景を想像していることに気づき、軽く息を吐いた。
「契約書の写しを送ってください」
『はい。それと、もう一点』
「何です」
『管理会社の当時の担当者が、まだ存命です。退職済みですが、住所が分かりました』
「会えますか」
『連絡中です。高齢で、記憶は不確かかもしれません』
「構いません。場所をください」
 通話を切る。
 真壁はしばらく、更地の前に立っていた。
 九条は、このことを知っていたのか。
 母の成長記録には、父が平屋を用意したことが書かれていたのかもしれない。
 あるいは、契約書の控えを見つけていたのかもしれない。
 あの家が、父の残した未来だったことを。
 九条は、知っていたのか。
 知っていたなら、あの更地をどんな気持ちで見たのか。
 真壁は以前、九条と一緒にこの場所へ来たことがある。
 家が取り壊される前の最後の確認だった。合歓が死んでから長く空き家同然になっていた平屋を、九条は淡々と処分した。感情を混ぜず、必要書類を揃え、業者と話し、鍵を返し、立ち会いを済ませた。
 真壁は、その横で見ていた。
 九条は、何も言わなかった。
 古い玄関を見ても、台所を見ても、押し入れを見ても、母が使っていた傷んだ棚を見ても、顔色を変えなかった。
 真壁はその時、九条はもうこの家から離れているのだと思った。
 母の死から時間が経ち、医学部へ進み、法医学者になり、別の場所で生きている。
 だから平屋の解体も、手続きとして処理できるのだと。
 だが今は違うと分かる。
 九条は離れていたのではない。
 離れられないから、感情を出さなかったのだ。
 家がなくなることを、ただの解体として処理しなければ、立っていられなかったのかもしれない。
 携帯が震えた。
 二階堂からだった。
『今どこだ』
「九条の家の跡地」
『鷲尾じゃなくて?』
「鷲尾は捜査員が向かってる」
『そっちは何か出たか』
「平屋は、九条の父親が火災前に用意していた可能性が高い」
 電話の向こうで、二階堂が黙った。
『三人で住むためか』
「おそらく」
『きついな』
「ああ」
『九条は知ってたのか』
「分からない」
『知ってただろうな』
「なぜそう思う」
『あいつがこの事件で“家”を避けてるからだ』
 真壁は眉を寄せた。
「避けてる?」
『御津窪は見る。御堂の死因は見る。鷲尾の名前にも反応する。でも平屋の話になると、妙に言葉が少なくなる。あいつの沈黙には種類があるだろ』
「広報が九条の沈黙を分類するのか」
『お前より見えてる時もある』
 真壁は言い返さなかった。
 二階堂の言う通りかもしれない。
『で、どうする』
「管理会社の元担当者に会う」
『俺も行く』
「広報は」
『鷲尾の件で公式発表はまだ出せない。今は県警に任せてある。早瀬の線は部下に追わせてる』
「広報課に部下なんていたのか」
『いるわ。お前、俺を何だと思ってる』
「便利な男」
『雑な分類だな』
「早く来い」
『住所送れ』
 通話を切った。
 真壁は更地をもう一度見た。
 父が用意した家。
 母が一人で辿り着いた家。
 九条が育った家。
 そして、今は何もない場所。
 何もない、という事実が、逆に重かった。
 管理会社の元担当者は、横浜市内の古い団地に住んでいた。
 名前は柏原房江。八十一歳。
 足が悪く、玄関までは娘に支えられて出てきた。真壁と二階堂が警察手帳を見せると、少し驚いた顔をしたが、奥の居間へ通してくれた。
 部屋には古い家具が多かった。
 仏壇の横に、観葉植物が置かれている。壁には家族写真。テレビの音は消されていた。
「九条さんのことですか」
 柏原は座布団に座りながら言った。
 真壁は少し意外に思った。
「覚えていらっしゃるんですか」
「ええ。全部ではありませんけど。若いお嬢さんでしたからね」
「合歓さんを?」
「はい。お腹が大きくて、ずいぶん心細そうで」
 柏原は、少し遠くを見るような目になった。
「でも、最初に来たのは男の人でした」
「名前は」
「覚えていません。名乗ったかどうかも……。いえ、たぶん名乗らなかったと思います」
「どんな人でしたか」
「若い方でした。二十歳そこそこか、もう少し上か。背が高くて、痩せていて、口数が少なくて。でも、しっかりしていました。古い物件でもいい、鍵がかかるところがいい、赤ん坊が泣いても周りに迷惑をかけにくいところがいい、と言っていました」
 二階堂が静かにメモを取っている。
「なぜ、その物件を?」
「お金があまりないようでした。けれど、どうしても早く住む場所が必要だと。駅から遠くても構わない。古くても構わない。保証会社を使えるか、と聞かれました」
「合歓さんは一緒ではなかった?」
「最初は一人でした。後日、女性を連れてきました。お腹が大きくて、まだ本当に子どもみたいな顔をしていて。あの人が九条合歓さんでした」
 柏原は湯呑みを両手で包んだ。
「その男の人は、彼女にずっと説明していました。ここが玄関。ここが台所。ここに布団を敷ける。風呂は狭いけど使える。雨漏りは直す。そんなふうに」
「合歓さんは何か言っていましたか」
「たしか……鍵のことを聞いていました」
「鍵?」
「この家は、夜に誰かが入ってきたりしませんか、と」
 真壁と二階堂は目を合わせた。
「男の人は何と」
「誰も入ってこない。鍵をかければいい、と言いました」
 柏原は小さく息を吐いた。
「変な質問だと思いました。でも、あの二人には大事なことだったんでしょうね」
 真壁は、更地の前で想像した言葉が現実に近かったことに、胸の奥が痛んだ。
 鍵がある。
 誰も勝手に入ってこない。
 宗教村で育った二人にとって、それは家を選ぶ条件だったのだ。
「男の人は、夫だと言っていましたか」
 真壁が聞くと、柏原は首を傾げた。
「正式にそう聞いたかは覚えていません。でも、そう見えました。お腹の子の父親でしょうね。女性の荷物を持って、ずっと気にしていましたから」
「名前を書かなかった理由に心当たりは」
「怖がっていました」
「男が?」
「ええ。自分の名前を書くことを、です。あと、前の住所を詳しく書くことも。私は当時、事情がある若い夫婦なんだろうと思いました。家出か、親に反対されたか。だから、あまり聞かない方がいいと思って」
 柏原は少し目を伏せた。
「今なら、もっと聞いた方がよかったのかもしれません」
 その言葉は、真壁にもそのまま刺さった。
 聞かない方がいい。
 踏み込まない方がいい。
 子どものころの真壁も、ずっとそうしてきた。
 親切はする。
 だが、理由は聞かない。
 それが相手を守ることだと思っていた。
 だが、本当にそうだったのか。
「その後、火災のことは」
「新聞で見ました。山の集落が焼けたと。まさか、あの人たちと関係があるとは思いませんでした」
「合歓さんは、いつ入居を?」
「火事の少し後です。赤ちゃんを抱いて、一人で来ました」
 柏原の声が少し変わった。
「男の人は一緒ではなかった」
「はい」
「合歓さんは何か言いましたか」
「ほとんど何も。鍵を出す手が震えていました。赤ちゃんを抱いて、ずっと謝っていました。誰に謝っているのか分からなかったけれど」
「謝っていた?」
「はい。“ごめんね”“着いたよ”“ごめんね”と」
 真壁は、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
 着いたよ。
 三人で来るはずだった家に、合歓は二人で来た。
 赤ん坊の九条を抱いて。
 焼けた村と死んだ夫を背負って。
「その後、九条さん親子とは」
「家賃のことで何度か。遅れることはありました。でも払わなかったことはありません。合歓さんは、いつも申し訳なさそうにしていました。若いのに、よく働いていたと思います」
「親族が訪ねてきたことは」
 柏原はすぐ首を振った。
「ありません。少なくとも、私が知る限りでは」
「誰かに追われている様子は」
「直接は。でも、合歓さんは知らない人をとても怖がっていました。集金や点検で伺う時も、先に電話を入れないと扉を開けないことがありました」
 二階堂が聞いた。
「白胎会、あるいは光胎寮という名前を聞いたことは?」
 柏原は少し考えた。
「いいえ。でも、一度だけ、白い服の男たちが近所を歩いていたことがあります」
 真壁の目が鋭くなった。
「いつ頃ですか」
「赤ちゃんがまだ小さい頃です。夏だったと思います。二人、いえ三人だったかもしれません。白っぽい服を着て、あの家の前で少し止まっていました」
「中へは」
「入りませんでした。私がちょうど管理会社の用で近くへ行っていて、どちら様ですか、と。そうしたら、間違えましたと言って行ってしまいました」
「合歓さんは」
「その日、夕方に家賃を持ってきました。顔色が悪かった。鍵を変えられないかと聞かれました」
「鍵を?」
「ええ。予備鍵がどこかにあるかもしれない、と」
 真壁は息を止めた。
 合歓は追われていた。
 少なくとも、そう感じていた。
 村から逃げた後も、教団の影は平屋の前まで来ていた。
 父が残した家は、安全な場所であると同時に、逃げ切れていないことを知らせる場所でもあった。
「鍵は変えたんですか」
「変えました。費用は本当は入居者負担でしたが、あの時は管理会社で持ちました。私が上に頼んだんです」
「なぜ」
 柏原は少し照れたように笑った。
「赤ちゃんが白くてね」
 二階堂のペンが止まった。
「白い?」
「髪も肌も、とても白かった。珍しいお子さんでした。合歓さんは、その子を見られると、いつも少し身構えていました。だから、あまり騒がないようにしていました」
 柏原は、ゆっくり言った。
「本当に、きれいな子でしたよ」
 真壁は何も言えなかった。
 きれい。
 その言葉は、母の成長記録に書かれていた言葉でもある。
 父も、合歓も、そしてこの管理会社の女性も、九条をそう見た。
 一方で、村の者たちは九条を不吉な子と見たのだろう。灰をかぶった子。怨念の子。神に返すべき子。
 同じ白さが、見る者によってまったく別の意味を持つ。
 九条はその中で育った。
「最後に一つ」
 真壁は言った。
「その男の人、九条さんの父親と思われる人物が、物件を見に来た時、何か残していませんか。書類、メモ、言葉、何でも」
 柏原は目を閉じ、記憶を探るようにしばらく黙った。
「言葉なら」
「はい」
「赤ちゃんが泣いたらどうするの、と私が聞いたんです。古い家だから、壁が薄いですよ、と。そうしたら、その男の人が言いました」
 柏原は、ゆっくりと思い出すように続けた。
「ここなら、普通に泣かせてやれると思ったんです、と」
 真壁は息を呑んだ。
 普通に泣かせる。
 赤ん坊が泣くことさえ、御津窪では普通ではなかったのか。
 白い子が泣く。
 それだけで、誰かが意味をつける。
 神の徴だとか、不吉だとか、返すべきものだとか。
 そんな場所から逃げるために、九条の父は鍵のある家を探した。
 普通に泣ける家を。
「それから、合歓さんが入居した日に」
 柏原は続けた。
「赤ちゃんが少し泣いたんです。合歓さんは、びくっとして、すぐ口元に手をやって、しーってしようとしました。だから私が、ここでは泣いても大丈夫よ、と言ったんです」
「合歓さんは」
「泣きました」
 柏原の声が少し細くなった。
「赤ちゃんじゃなくて、合歓さんが。泣きながら、こう言いました」
 柏原は、そこで一度だけ目を伏せた。
「この子だけは、置いてこなかったから」
 真壁は、その場から動けなくなった。
 この子だけは、置いてこなかったから。
 村。
 夫。
 親。
 親戚。
 名前。
 未来。
 合歓は、すべてを置いてきた。
 いや、置いてきたのではない。
 奪われた。
 その中で、九条だけを抱いてこの家へ来た。
 この子だけは、置いてこなかった。
 真壁は礼を言い、玄関を出た。
 団地の外に出ると、二階堂が深く息を吐いた。
「きついな」
「ああ」
「これは、九条には刺さる」
「知っていればな」
「知ってるだろ」
 二階堂は空を見上げた。
「父親が用意した家。母親が一人で辿り着いた家。自分だけは置いてこなかったと言った家。それが今は更地」
「お前、広報より小説家に向いてるんじゃないか」
「やめろ」
 真壁は返事をしなかった。
 車に戻る途中、携帯が震えた。
 三谷からだった。
『真壁さん、鷲尾貞成の所在ですが』
「見つかりましたか」
『自宅にはいません。勤務先にも来ていません。ただ、都内のマンションに本人名義ではない部屋を借りている可能性が出ました』
「誰名義です」
『医療法人関連の資産管理会社です。鷲尾が個人的な書斎として使っていたようです』
「場所は」
 三谷が住所を読み上げた。
 真壁はメモを取る。
『それと、匿名投稿がまた出ました』
「内容は」
『“声を奪った者は、自分の声で扉を閉める”と』
 真壁は目を閉じた。
 扉。
 閉める。
 鷲尾の死は、施錠された部屋で病死に見せられる。
 プロットのように、犯人はまた舞台を作っている。
「捜査員を向かわせてください。踏み込む準備。救急も呼んで」
『はい』
 通話を切ると、二階堂がすでに助手席に乗り込んでいた。
「鷲尾か」
「ああ。隠し部屋が出た」
「隠し書斎ってやつか」
「そんな上品なものかは分からない」
「九条には?」
「知らせる」
「本気か」
「知らせなければ勝手に動く」
 二階堂は舌打ちした。
「それはそう」
 真壁は九条へ電話をかけた。
 数コールで繋がった。
『何』
「鷲尾の所在候補が出た。都内のマンションだ」
『住所は』
「今送る。ただし、お前は単独で動くな」
『分かった』
「本当に分かってるな」
『真壁』
「何だ」
『鷲尾が生きていれば、救急搬送を優先して』
「言われなくてもそうする」
『死んでいたら』
 九条の声は、そこで一拍置いた。
『現場を動かすな』
 真壁はハンドルを握る手に力を込めた。
「お前、何を予想している」
『鷲尾は、病死に見える形で死ぬ可能性が高い』
「なぜ分かる」
『母の死因を奪った男だからだ』
 電話の向こうに、静かな呼吸音だけがあった。
「九条」
『何だ』
「さっき、九条家の平屋について調べた」
 沈黙。
「お前の父親が、火災前にあの家を用意していた可能性が高い」
 九条は答えなかった。
「父親は、合歓さんとお前のためにあの家を見に来ていた。鍵がある家。赤ん坊が泣いても怒られない家。三人で住むための家だ」
 沈黙は続いた。
 二階堂が横で真壁を見ている。
 電話の向こうの九条は、何も言わない。
「知ってたのか」
 真壁が聞いた。
 長い沈黙の後、九条は言った。
『断片的には』
「断片的?」
『母の記録にあった。契約書の控えもあった。だが、父が実際にそこへ来ていたかは証明できなかった』
「証明できなかったから言わなかったのか」
『そうだ』
「柏原房江という元担当者が覚えていた」
 また沈黙。
「父親は、この家で普通に泣かせてやりたいと言ったそうだ」
 電話の向こうで、九条の呼吸が一瞬だけ止まった気がした。
 それは音にならないほど小さかった。
 だが、真壁には分かった。
 刺さった。
「合歓さんは、入居時にこう言ったそうだ」
 真壁は続けた。
「この子だけは、置いてこなかったから」
 九条は何も言わなかった。
 言葉がないのではない。
 言葉にしないのだ。
 真壁はそう感じた。
『真壁』
 しばらくして、九条が言った。
「何だ」
『今は鷲尾だ』
「逃げるな」
『逃げていない』
「なら答えろ。お前は、あの家が父親の残したものだと知っていて、解体したのか」
 九条は黙った。
「更地にしたのか」
『家は、もう誰も住めなかった』
「そんなことを聞いてるんじゃない」
『同じだ』
「違う」
『違わない』
 九条の声は、いつものように平坦だった。
 しかしその平坦さが、今は防壁のように聞こえた。
『家は、母のものでも、父のものでも、俺のものでもなくなっていた。借家だった。老朽化し、維持できず、誰も住めない。ただの建物だった』
「本当にそう思ってるのか」
『そう処理した』
「思ってるかどうかを聞いてる」
『真壁』
「何だ」
『今は鷲尾だ』
 同じ言葉。
 真壁は目を閉じた。
 これ以上聞いても、今は答えない。
 九条はそういう男だ。
「住所を送る。俺たちも向かう。お前は単独で動くな。これは命令だ」
『了解した』
 電話は切れた。
 この子だけは、置いてこなかったから。
 その言葉を聞いた時、九条は確かに揺れた。
 どれだけ小さくても、揺れた。
 九条はまだ、あの家にいる。
 更地になっても、家は消えていない。
 父が見に来た玄関に、母が立った台所に、成長記録の箱を開けた居間に、九条はまだ立っている。
 そしてその場所から、鷲尾貞成へ向かっている。
 真壁は、そこでようやく気づいた。
 九条が、なぜ自分を選んだのか。
 挑戦状が真壁に届く形になった理由。
 事件が真壁を通して九条へ迫ってくる理由。
 真壁は、九条の家の斜め向かいにいた人間だった。
 夜中の発作を知っている。
 合歓の靴が逆だった日を知っている。
 合歓の荷物を半分持った坂を知っている。
 かき氷の赤いシロップを知っている。
 九条が母を亡くした後、うどんを温めた台所を知っている。
 更地になる前の最後の家を知っている。
 だが、全部は知らない。
 踏み込まなかった。
 踏み込めなかった。
 九条は、そこを選んだのかもしれない。
 自分を最も知っているようで、最も肝心な部分を知らなかった男。
 幼なじみであり、刑事であり、目撃者であり、空白の証人でもある男。
 その真壁に、自分を見させている。
 もしそうなら、それは信頼ではない。
 もっと残酷な何かだった。
 車内で二階堂が携帯を見ていた。
「また投稿だ」
「何だ」
「“二度目の死因欄は閉じられた部屋にある”」
「鷲尾の場所を匂わせてるのか」
「いや、住所までは出してない。こっちが辿り着くのを待ってる」
「またか」
「ああ」
 二階堂は携帯を閉じた。
「なあ、真壁」
「何だ」
「この犯人、逃げる気があると思うか」
 真壁は答えなかった。
 ない。
 そう思った。
 犯人は逃げていない。
 御堂の死体に灰を置き、真壁に挑戦状を送り、御津窪へ導き、合歓へ導き、鷲尾へ導いている。
 だが、それを口にすると、また九条の顔が浮かぶ。
 二階堂も同じことを考えているのだろう。
 それ以上は言わなかった。
 マンション前には、すでに捜査員が到着していた。
 救急車も一台、少し離れた場所に停まっている。
 夜の始まりで、建物の窓には明かりが点き始めていた。
 真壁が車を降りると、三谷が駆け寄ってきた。
「部屋は十二階です。管理人に確認しましたが、鷲尾らしき人物が昼過ぎに入ったのを見たそうです。その後、出ていません」
「中から反応は」
「ありません。インターホン、電話ともに応答なし」
「鍵は」
「管理会社がマスターキーを持っています。令状確認済みです」
「九条は」
「まだです」
 二階堂が周囲を見た。
「来るなと言っても来るだろうな」
「ああ」
「止める?」
「止める」
「無理だな」
「分かってる」
 真壁はエレベーターへ向かった。
 十二階。
 廊下は静かだった。
 高層階特有の、外の音が薄くなった空気がある。足音だけがやけに響く。部屋番号の前で、捜査員がマスターキーを持って待っていた。
「開けます」
 真壁は頷いた。
 鍵が回る。
 だが、扉はすぐには開かなかった。
「チェーンです」
 三谷が言った。
「中からですか」
「はい」
 閉じられた部屋。
 自分の声で扉を閉める。
 投稿の言葉が、真壁の頭の中で重なった。
「切る」
 チェーンカッターが入る。
 金属が断たれる音。
 扉が開く。
 室内は暗かった。
 だが奥の部屋だけ、デスクライトが点いている。
 空調の音がしていた。
 人の気配はない。
 真壁は拳銃に手をかけたまま、慎重に入った。
「鷲尾さん」
 返事はない。
「警察です。入ります」
 廊下を進む。
 部屋は書斎だった。
 壁一面の本棚。
 医療関係の資料。
 古いカルテのコピー。
 白胎会関連の書類。
 鍵付きのキャビネット。
 机。
 そして、その机の椅子に、鷲尾貞成が座っていた。
 白髪の混じった老人だった。
 背もたれに深く体を預け、首がわずかに傾いている。目は閉じていた。胸は動いていない。
「救急!」
 真壁が叫ぶ。
 救急隊員が駆け込む。
 脈を取る。
 呼吸を確認する。
 瞳孔を見る。
 短い言葉が交わされる。
 だが、部屋に入った時点で、真壁にはもう分かっていた。
 鷲尾は死んでいる。
 死因は、まだ分からない。
 だが死んでいる。
 机の上には、書類が一枚置かれていた。
 古い死亡検案書のコピー。
 九条合歓。
 死因、若年性脳梗塞。
 署名、鷲尾貞成。
 その横に、花が一輪置かれていた。
 淡い糸のような花弁。
 薄桃色の、柔らかい花。
 真壁は、それを見てもすぐには意味が分からなかった。
 ただ、なぜか胸が冷えた。
 二階堂が後ろから低く言った。
「何の花だ」
 真壁は答えられなかった。
 その時、廊下に足音がした。
 振り向くと、九条雅紀が立っていた。
 黒いコート。
 白い髪。
 表情は変わらない。
「止めたはずだ」
 真壁が言うと、九条は部屋の中を見た。
「単独では来ていない」
「屁理屈を言うな」
 九条は答えなかった。
 視線が机の上へ向かう。
 死亡検案書。
 そして花。
 九条は、その花を見た。
 その瞬間、真壁は九条の表情を見た。
 変わらなかった。
 まったく、変わらなかった。
 それが逆に怖かった。
 真壁は低く聞いた。
「九条。この花が何か分かるか」
 九条はしばらく黙った。
 そして答えた。
「合歓だ」
 部屋の中の空気が、音もなく沈んだ。
 合歓。
 九条の母の名前。
 真壁は机の上の花を見た。
 これは犯行声明ではない。
 署名でもない。
 飾りでもない。
 誰かが、この部屋に九条合歓を連れてきた。
 御堂の現場には、村の灰。
 鷲尾の現場には、合歓の花。
 一件目は父と村。
 二件目は母。
 その構図が、まだ言葉になる前に、真壁の中へ入ってきた。
 鷲尾貞成は、静かに椅子に座っていた。
 まるで、自分で死因欄を閉じたように。
 だが、真壁には分かっていた。
 これは自然な死ではない。
 誰かが、この死を置いた。
 御堂の灰と同じように。
 今度は、母の名前の花を添えて。
 九条は部屋の入口に立ったまま、動かない。
 真壁はその横顔を見た。
 九条は、花を見ている。
 母の名前を見ている。
 鷲尾の死体を見ている。
 それでも、表情は変わらない。
 だから真壁は、初めて心の底から思った。
 こいつは、泣けないのではない。
 泣く場所を、もう失っているのだ。
 真壁は低く言った。
「現場保存。誰も触るな」
 捜査員たちが動き出す。
 二階堂は携帯を取り出し、すぐに広報封鎖の連絡を始めた。
 九条だけが、まだ動かなかった。
「九条」
 真壁が呼ぶ。
「何だ」
「鷲尾の死因を誤らせるな。そう言うんだろ」
 九条は、真壁を見た。
「ああ」
「だったら見るな」
 真壁は言った。
「今は見るな」
 九条は答えなかった。
「お前が見ると、死因じゃなくなる」
 その言葉に、九条の目がわずかに動いた。
「真壁」
「何だ」
「それを切り分けるのは、お前の仕事だ」
 同じ言葉だった。
 九条は、自分を差し出しているのかもしれない。
 犯人としてではない。
 あるいは、犯人としても。
 真壁に、自分の物語と死者の事実を切り分けさせようとしている。
 そのために、真壁を選んだ。
 斜め向かいの家で育った少年。
 九条の呼吸の音を知っている少年。
 合歓の危うさを見ていた少年。
 助けたのに、踏み込めなかった少年。
 今は刑事になった男。
 残酷だと思った。
 だが、九条ならやる。
 真壁は、鷲尾の死体を見た。
 椅子。
 机。
 死亡検案書。
 合歓の花。
 閉じられた部屋。
 父が残した家は、更地になった。
 母が辿り着いた家も、もうない。
 だが、家がなくなっても、そこに置かれた時間は消えない。
 犯人は、それを知っている。
 九条も知っている。
 そして真壁も、もう知ってしまった。
 真壁は静かに言った。
「始めるぞ」
 九条は答えた。
「分かった」
 その声は、いつも通り平坦だった。
 だが真壁には、ほんのわずかに、遠い家の戸が閉まる音のように聞こえた。