死んだ腕に抱かれる

 九条雅紀は、貧しさを音で覚えていた。
 冷蔵庫の扉を閉める音。
 小銭を数える音。
 薄い封筒を開く音。
 母が疲れて帰ってきた時、玄関で靴の踵を踏みつける音。
 水道の蛇口をきつく締め直す音。
 夜遅く、台所で鍋の底に残ったうどんを温め直す音。
 家計が苦しい、という言葉を母はあまり使わなかった。
 合歓は、そこだけ妙に下手だった。
 隠そうとするのに隠せない。笑おうとして、笑い方を間違える。大丈夫と言いながら、買い物袋の中身はいつも少なかった。半額のシールが貼られた肉を見つけた日は少し得意そうな顔をし、電気代のハガキを見つけた日は台所の隅でしばらく止まった。
 九条は、それを幼いころから見ていた。
 母は若かった。
 他の母親たちより、ずっと若かった。真壁の母と並ぶと、親子に見えることもあった。近所の女性たちは合歓に親切だったが、その親切の中には時々、薄い憐れみが混じっていた。
 若いのに大変ね。
 旦那さん、早くに亡くしたんでしょう。
 実家は頼れないの。
 親戚はいないの。
 合歓は、そういう時、いつも曖昧に笑った。
「まあ、なんとか」
 なんとか。
 その言葉を、九条は嫌いだった。
 何と何を、どうすれば、なんとかになるのか。
 家賃。食費。水道代。電気代。ガス代。学校の教材費。医療費。吸入薬。通院費。母の靴。仕事用の手袋。冬の灯油。
 計算すれば、足りないものはすぐ分かる。
 だが合歓は、いつも計算の途中で笑った。
「おなか減ってきたね、まさき」
 家計の話になると、母はうどんを出した。
 乾麺なら安い。ねぎが少しあれば、それらしく見える。卵を落とせる日は、合歓は少し豪華だと言った。九条はその言葉を否定しなかった。否定すれば、母が困るからだ。
 中学生になるころには、九条は家の数字をほとんど把握していた。
 冷蔵庫の中身。
 米の残量。
 公共料金の引き落とし日。
 母の給料日。
 喘息の薬が切れる時期。
 次の通院に必要な交通費。
 学校へ提出する集金袋の期限。
 合歓は忘れる。
 九条は覚える。
 それが、二人の生活の形だった。
 母は、昼間は食品工場で働き、夕方からは清掃の仕事に出た。時期によっては、早朝の仕分け作業にも入った。小柄な体で、男たちに混じって段ボールを運び、手首を痛め、腰を押さえながら帰ってくる。
 汗と洗剤と、工場の油の匂いをつけて玄関を開ける母を見るたび、九条は同じことを考えた。
 早く稼げるようにならなければ。
 医者になろうと思ったのは、誰かを救いたいからではなかった。
 もっと単純だった。
 資格がいる。
 収入が安定する。
 奨学金がある。
 成績がよければ学費減免もある。
 医師になれば、母を働かせなくて済むかもしれない。
 その程度の現実的な考えだった。
 それでも合歓は、近所の真壁家でその話をする時、ひどく嬉しそうだった。
「あのね、まさきね、医者になれるかもしれないんだって」
 合歓はそう言った。
 九条はその声を、台所の入口で聞いたことがある。
 なれる、ではない。
 なるために必要な条件を調べているだけだ。
 医学部は難しい。学費も高い。奨学金を借りれば返済が残る。国公立を狙うしかない。私立でも特待や免除制度を探す。受験料も交通費も必要になる。高校選びも、塾代を考えれば選択肢は限られる。
 合歓は、そういう具体的な話になるとすぐ顔を曇らせる。理解の外側にあると顔に書いてあった。
 だから九条は、必要なことだけを話すようにしていた。
「成績がよければ、方法はあるよ」
 そう言うと、合歓は安心する。
 安心してから、また心配する。
「でも、まさき、無理しないでね」
 その言葉が、九条には一番困った。
 無理をしない、という選択肢はなかった。
 母がすでに無理をしているからだ。
 高校は、家から通える範囲で、学費負担が少なく、進学実績があり、アルバイト許可の申請が通りやすいところを選んだ。担任は、もっと上を狙えると言った。九条は断った。上を狙うより、通えること、続けられること、家計が回り続けることの方が重要だった。
「もったいないぞ」
 担任は言った。
 九条は黙っていた。
 何がもったいないのか、よく分からなかった。
 自分の成績か。
 進学先か。
 将来か。
 それとも、母の睡眠時間か。
 九条にとって、もったいないのは母の体力だった。
 高一の冬、合歓は仕事先で階段から落ち、手足を痛めた。
 大きな怪我ではなかった。腫れも軽く、湿布を貼れば動かせる。合歓はそう言った。だが、両手と両膝に包帯を巻かれた姿は、本人の説明よりずっと痛々しかった。
 その日、九条が家へ戻ると、台所に明かりがついていた。
 真壁がいた。
 真壁の母もいた。
 合歓は椅子に座っていた。買い物袋が足元にあり、袋の口から豆腐、もやし、うどん、ねぎ、半額の鶏肉、湿布、牛乳が見えた。レシートはテーブルの端に置かれている。
 九条は玄関で一度止まった。
 いつもより靴を脱ぐ音が速くなった。
「ただいま」
 声はいつも通りだったと思う。
 だが、台所から顔を出した真壁の目が、その声の硬さに気づいたことを九条は分かった。
 九条の目はまず真壁を見て、それから合歓へ向いた。
 両手。
 両膝。
 包帯。
 椅子に座った姿。
 九条の顔から、音みたいに表情が引いた。
「……どうしたの」
 怒鳴りではなかった。
 だが、自分でも分かるくらい、怒る手前の静けさがあった。
 合歓は少し笑った。
「仕事中に転んじゃって」
「どこで」
「階段」
「何段」
「えっと……」
「病院は」
「行った」
「何て」
「打撲と捻挫と擦り傷」
 九条はそこで、ため息もつかなかった。
 ため息をつけば、合歓が困る。
 困って、また笑う。
 その笑い方を見るのが嫌だった。
「いつ」
「お昼前」
「そのあと仕事したの」
 合歓は目をそらした。
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけって何時間」
「ええと」
 真壁が横で気まずそうに黙っている。
 真壁の母が口を開いた。
「雅紀。病院には行ってる。骨は折れてない。今日はもう動かさない方がいいよ」
「明日は」
「しばらく休んだ方がいい」
 九条は母を見た。母は目をそらした。
「だいじょうぶだよ」
「休む?」
 合歓は、痛めた手首を隠すように、もう片方の手で押さえた。
「でも、人足りないし」
「休む?」
「まさき」
「休む?」
 同じ問いを繰り返すと、合歓は困ったように笑った。
「怒ってる?」
「質問してる」
「怒ってるじゃん」
「質問してる」
 真壁が少しだけ顔をそらした。
 九条はテーブルの上のレシートを取った。
 湿布は一番安いものではなかった。母にしては珍しい。相当痛かったのだろう。
「俺がバイトを増やす」
 九条が言うと、合歓は慌てた。
「だめだよ、まさき。勉強あるでしょ」
「夜だけならできる」
「だめだよ」
「申請すれば通る」
「だめ」
 合歓は、めずらしく強く言った。
 九条は少し驚いた。
 合歓は普段、強く否定するのが下手だった。
 だめ、と言っても、すぐに「でも」と揺れる。
 それなのに、その時だけは違った。
「まさきは、学生して」
「家計が回らない」
「回るよ、だいじょうぶ」
「足りてない」
「足りるようにするから、ね」
「どうやって」
 九条が聞くと、合歓は困ったように笑った。
「もやしとうどんの日、増やそう」
「それは方法じゃない」
「方法、じゃないのかな? でも、おいしいし、お腹もふくれるよ、まさき」
 九条は言い返せなかった。
 腹はふくれる。
 確かに、ふくれる。
 だが、足りないものは腹だけではない。
 それでも、母が笑っている間は、九条はそれ以上言わなかった。言えば母は困る。困って、また笑う。九条はその笑い方を見るのが嫌だった。
 真壁の母が、静かに言った。
「今日はこっちで夕飯食べていきなさい。合歓ちゃんも、雅紀も」
「でも」
 合歓が言いかける。
「でもじゃない」
 その言い方は看護師のものだった。
 合歓は少しだけ首をすくめた。
 九条は何も言わなかった。
 その日の夕飯は、真壁家で食べた。
 合歓は両手が使いにくく、箸を持つのにも少し苦労していた。真壁はそれを見て、何か言いかけて、言わなかった。真壁の母は合歓の横に小皿を置き、必要なものだけを短く手伝った。
 合歓は軽く笑った。
「赤ちゃんみたい」
「合歓ちゃん」
「なんにもできないなあ……」
 その笑い方の下に、本当は何があるのか、九条はその時、見ないふりをした。
 見てしまえば、自分の中の何かが壊れそうだった。
 だから勉強した。
 誰かに褒められるためではない。
 母に早く働かなくていいと言うためだった。
 それが、九条雅紀の医学部志望の始まりだった。
 その意味が反転したのは、十七歳の冬だった。
 合歓は、突然倒れた。
 その日は、冷たい雨が降っていた。
 雪になるほどではない。けれど、地面に落ちる雨粒が硬く見える夜だった。制服の肩は細かく濡れ、鞄の底には、バイト先で使ったエプロンの湿った匂いが残っていた。
 九条は放課後のバイトを終え、いつものように家へ帰った。
 合歓は、朝、帰りが遅くなるかもしれないと言っていた。
 夜、とだけ言っていた。
 曖昧な言い方だったが、この家ではそれで通じた。合歓は時間をきちんと決めるのが苦手だったし、九条もそれ以上聞かなかった。夜まで帰らないなら、自分が洗濯物を取り込み、昨日の残りのうどんを温め、米が硬ければ雑炊にすればいい。
 その程度のことだった。
 朝は、普通に終わっていた。
 合歓はテーブルでパンをちぎりながら、寒いね、と言った。九条は味噌汁の椀を運びながら、うん、と答えた。テレビの天気予報は風が強いと言っていて、合歓は洗濯物が飛ぶかな、と心配した。九条は、ちゃんと留めれば飛ばない、と答えた。
 軽い会話だった。
 途中で切れる前提など、どこにもなかった。
 玄関の鍵は、かかっていなかった。
 九条は少しだけ眉を寄せた。合歓は鍵を忘れることがある。珍しいことではない。だが、その日は雨で、夜で、いつもより部屋の明かりが白く見えた。
「ただいま」
 返事はなかった。
 台所の電気はついていた。
 鍋の中には、朝の味噌汁が少しだけ残っている。流しには、昼に使ったらしい皿が一枚置かれていた。冷蔵庫の中には、昨日の残りのうどんと、少し硬くなったご飯があるはずだった。
 部屋の匂いは変わっていなかった。
 味噌と洗剤と、古い木の匂い。
 雨に濡れた制服の匂いだけが、そこに少し混じった。
 だから、リビングの床に合歓が倒れているのを見た瞬間、九条は最初、それが何なのか分からなかった。
 ラグの上に、母がいた。
 右肩が少し内側へ入り、片手が腹の前へ寄っている。倒れた勢いで髪が頬にかかっていた。照明はついたままで、部屋の半分だけが妙に白い。
 今朝、合歓がパンをちぎっていた場所と、ほとんど同じだった。
 九条は声を出せなかった。
 鞄が手から落ちた。
 濡れた床の上で、鈍い音がした。
「お母さん」
 膝をつく。
 肩に手をかける。
「お母さん」
 返事はない。
 呼びかけに反応がないことを、頭で理解する前に、手のほうが理解した。
 皮膚には、まだ温度が残っていた。
 けれどそれは、こちらの声に向けて戻ってくる温度ではなかった。
 胸を見る。
 上下していない。
 口元も動いていない。
 九条はスマートフォンを出した。手は震えていなかった。震えていないことに、自分でも少し驚いた。
 番号を押す。
 耳に当てる。
 相手が何かを聞く。
「母です」
 自分の声は、驚くほど平坦だった。
「反応はありません」
 言葉が勝手に出ていく。
「呼吸も、たぶん」
 たぶん、と言ったのは、自分が医師ではなかったからだ。
 断定してはいけない、と思った。
 だが、その躊躇にはほとんど意味がなかった。意味を持たないほど、合歓の体は静かだった。
 通話を切ったあと、九条はしばらくスマートフォンを握ったままだった。
 待つ。
 電話の向こうで言われた言葉のうち、最後に残ったのはそれだけだった。
 待つ。
 それしか、いま自分に許されている動作はなかった。
 一度、合歓の顔を見た。
 呼吸はない。
 胸の上下もない。
 眠っているように見えなくもない。見えなくもないが、眠りではないことは分かった。肌の色と、力の抜け方と、部屋の中の静けさが、それを示していた。
 九条は何も動かさなかった。
 動かしたほうがいいのかもしれない、と一瞬だけ思った。仰向けにしたほうがいいのではないか。頭の位置を変えたほうが、あるいは。
 だが、その「あるいは」はすぐに切れた。
 判断が、自分の中のどこにも降りてこなかった。
 できなかったのではない。
 判断が生まれなかった。
 九条は合歓の胸元に手を置こうとした。
 保健の授業で習った場所を思い出そうとする。胸の真ん中。強く、速く、絶え間なく。そう教わった。
 けれど、指先が服に触れた瞬間、頭の中の手順がほどけた。
 これは授業ではない。
 人形でもない。
 間違えたら、母を壊す。
 そう思った瞬間、手が止まった。
 救急車が来るまで、動かさないでください。
 電話の向こうで言われた言葉だけが、最後に残っていた。
 玄関の外で、サイレンが止まる音がした。
 思っていたより早かった。あるいは、遅かったのかもしれない。時間の感覚は、帰宅して母を見つけたところで切れていた。
 足音が近づいてくる。
 複数。
 迷いのない速さ。
 チャイムは鳴らなかった。玄関のドアを閉めた覚えがなかった。
「救急です!」
 声が入ってくる。
 九条は立ち上がろうとして、一度、膝がうまく伸びなかった。床に長くしゃがみ込んでいたせいなのか、別の理由なのか分からなかった。二度目で立ち上がり、玄関のほうへ半歩だけ動いた。
「こっちです」
 言うと、自分の声がやけに遠く聞こえた。
 救急隊員が二人、すぐにリビングへ入った。
 動きが速い。声は短い。確認、指示、評価。すべてが一つの流れで進んでいく。
 九条は少し離れた位置に立った。
 邪魔にならない場所。
 邪魔にならない角度。
 自分でも無意識に、そういう位置を選んでいた。
「倒れているのを見つけたのは?」
「今です。帰ってきたら」
「最後に普通に話したのは?」
「朝」
「何時頃?」
「七時少し前です」
 質問が飛ぶたびに、九条は答えた。
 必要なことだけ。
 そこに感情は要らないと、どこかで思っていた。
 けれど答えながら、朝の台所が何度も戻ってきた。
 パンをちぎる音。
 味噌汁の湯気。
 寒いね、という母の声。
 あの朝は、途切れる前提で構成されていなかった。
 どの会話も、どの動作も、夜に続きを持つはずだった。
 それが途切れている。
 それだけが、部屋の中で浮いていた。
「他にご家族は?」
「いません」
 九条は答えた。
 父はとっくに死んでいた。
 親戚と呼べる人間の名前も、合歓の口から具体的に聞いたことはほとんどなかった。頼れる人間という意味では、本当にいなかった。
 その「いません」を口にしたとき、九条は初めて、自分が今どこに立っているのかを少しだけ理解した。
 部屋の中に、自分と母しかいない。
 そして母は、もう返事をしない。
 それは単に二人暮らしの事実ではなく、突然、責任の形へ変わった。
 数分後、警察が入ってきた。
 制服の男が二人。
 片方がリビングの入口で立ち止まり、部屋全体を見る。倒れた位置、家具の配置、争った形跡の有無。そういう種類の視線だった。
 九条は、その視線の意味を読んだ。
 事件性の確認。
 それを理解した瞬間、ほんの少しだけ気分が悪くなった。
 母の死が、まだ死として完全に飲み込めていない段階で、すでに「どう死んだか」の評価に入っている。
 その順番の冷たさが、初めて身体の中に入ってきた。
 斜め向かいの真壁家には、明かりがついていた。
 九条はそれを、リビングの窓の端に見た。
 声をかけるべきだと思ったのか、誰かに来てほしいと思ったのか、自分でも分からなかった。だが自分の足は動かなかった。
 少しして、制服警官の一人が玄関のほうへ向かった。
 斜め向かいへ行くのだと、九条は遅れて理解した。
 真壁彰は、すぐに来た。
 靴音がした。
 玄関で何か短いやり取りがあって、次の瞬間、真壁がリビングの入口に立っていた。当時、真壁も高校生だった。九条よりほんの少し背が低かったが、肩幅はすでにしっかりしていた。道場帰りだったのか、ジャージ姿で、髪がまだ濡れていた。
「九条」
 呼ばれて、九条は顔を上げた。
 真壁の顔を見た瞬間、自分が息を止めていたことに気づいた。
「……彰」
 それだけ言った。
 声は平坦だった。
 真壁は一瞬、リビングの中を見た。
 毛布がかけられている。
 救急隊員が立ち上がっている。
 警察官が短く話している。
 それだけで、真壁の顔から血の気が引いた。
 だが真壁は泣かなかった。
 泣かないようにしているのが分かった。
「座れよ」
 真壁が言った。
 九条は首を振ろうとした。
「大丈夫」
 自分でも、明らかに大丈夫ではない人間の言い方だと思った。
 真壁は何も言わず、九条の腕を軽く掴んだ。
 そのままソファへ座らせる。
 九条は抵抗しなかった。
 抵抗する力も、理由も、今の九条にはなかった。
「水」
「いらない」
「いる」
 真壁は台所へ行き、コップに水を入れた。
 戻ってきた時、その手が少し震えているのが見えた。
 九条はその震えを見た。
 見たのに、何も言えなかった。
 自分の中に、相手を気遣うための言葉がまだ残っているのかどうかも分からなかった。
「母さん、来る」
 真壁が言った。
「……うん」
「うちの母さん。お前んちのこと、分かるから」
「……うん」
 返事はした。
 だが、言葉がどこか遠かった。
 しばらくして、真壁の母が来た。
 コートもきちんと脱がずに家へ入り、状況を一目で確認し、救急隊と短く話した。そのあと、九条の前に膝をついた。
「雅紀」
 その声だけで、九条の目が少し動いた。
「……彰のお母さん」
「うん。私、いるから」
 それだけだった。
 けれど、その「いるから」は、部屋の空気を少しだけ変えた。
 真壁の母は次に警察へ向き直り、家庭の状況、頼れる親族がいないことを伝えた。話が早かった。必要なことだけを選んでいる。看護師として、そして近所の大人として、今何を引き受けるべきかを瞬時に決めている。
 九条は、ほとんど動かなかった。
 泣いていない。
 そのことを、自分でもどこかで分かっていた。
 泣くという動作が、身体の中に生まれてこなかった。
 悲しくないのではない。
 悲しいという場所まで、まだたどり着いていなかった。
 その夜のうちに、医師が来た。
 病院の主治医ではなかった。警察が呼んだ医師だと、制服の警察官が説明した。中年の男だった。白衣ではなく、濃い色の上着の下にシャツを着ていた。雨のせいか、肩のあたりが少し濡れている。目の下に疲れがあり、声は低かった。
 鷲尾貞成。
 その名前を、九条はその時まだ知らなかった。
 ただ、その医師がリビングに入る時、靴を脱ぐ動作が妙に遅かったことだけを覚えている。
 救急隊員と警察官が短く状況を伝えた。九条は廊下に立っていた。真壁の母が隣にいた。真壁は少し離れたところにいる。誰も大きな声を出さなかった。合歓が横たわっていた家なのに、家の中は、病院でも警察署でもない別の場所になっていた。
 医師は合歓の体を確認した。
 九条は見ていた。
 見ないほうがいい、と誰かが言ったかもしれない。真壁の母が、少しだけ九条の肩に手を置いた。けれど九条は動かなかった。見なければならないと思ったわけではない。ただ、目をそらすという判断が生まれなかった。
 医師の手は、慣れていた。
 顔を見る。瞼を上げる。首元を見る。手首に触れる。胸に聴診器を当てる。服の乱れや外傷の有無を確認する。
 それは処置ではなかった。
 もう助けるための手ではなかった。
 確認するための手だった。
 その違いが、九条には分かった。
 分かってしまった。
 少しして、医師は立ち上がった。
 警察官と何か短く話したあと、九条のほうを見た。十七歳の子どもに向けるには、少しだけ迷いのある顔だった。
「息子さんですね」
「はい」
 九条の声は平坦だった。
 医師は真壁の母を見た。
「ご親族の方は」
「いません」
 九条が答えた。
 医師は一瞬だけ言葉を止めた。
 真壁の母が静かに補った。
「お父様はすでに亡くなっています。頼れる親戚も、こちらでは確認できていません。私は斜向かいの者で、看護師です。昔からこの家のことは見ています」
 警察官が頷いた。
 医師はもう一度、九条を見た。
「お母様は、すでに亡くなっています」
 その言葉は、知っていることを正式な形にするだけのものだった。
 けれど正式な形になった瞬間、九条の足元で何かが静かに沈んだ。
 死んでいる。
 それは、さっきから分かっていた。
 呼吸がないことも、返事がないことも、救急隊員の動きが途中から変わったことも、全部見ていた。
 それでも、医師の口から言われると、母の体が急に遠くなった。
 九条は聞いた。
「死因は何ですか」
 真壁が、横で少し動いた。
 普通なら、そこで泣くのかもしれない。
 お母さんは、と聞くのかもしれない。
 どうして、と崩れるのかもしれない。
 けれど九条の口から出たのは、死因だった。
 医師はほんの一瞬、困った顔をした。
 その顔を、九条は見逃さなかった。
「現時点では、急性の脳血管障害が疑われます」
「脳血管障害」
「脳梗塞、あるいはそれに近い発作です。若い方でも、起こることはあります」
「画像は撮っていません」
 九条が言うと、医師の目がわずかに動いた。
「ええ。今ここで断定できることには限りがあります」
「では、なぜそう書けるんですか」
 部屋の空気が、少し変わった。
 警察官が九条を見る。
 真壁の母も、九条の肩に置いた手に少しだけ力を込めた。
 医師は、怒らなかった。
 ただ、九条を見る目が変わった。泣きもしない子どもを見る目ではなく、質問をしている相手を見る目になった。
「倒れていた状態、外傷の有無、既往や生活状況、現場の状況を合わせて考えます」
「母に既往歴はありません」
「大きな持病は確認されていません。ただ、疲労や睡眠不足、体調不良が重なっていた可能性はあります」
「可能性」
「はい」
「何時に倒れましたか」
「正確には分かりません」
「最後に生きていた時刻は」
「あなたが朝、会話をした時刻ですね」
「七時少し前です」
「それ以降については、現時点では分かりません」
「母は夜に帰ると言っていました」
 医師は答えなかった。
 九条は続けた。
「母は、仕事へ行くはずでした」
 警察官が手帳に何かを書いた。
「勤務先には、今日は出勤していないと確認しています」
 その言葉で、九条は初めてそちらを見た。
「出勤していない?」
「職場の方は、今日は休みだと思っていたようです。詳しくはこれから確認します」
 休み。
 九条は、その言葉を頭の中で繰り返した。
 合歓は朝、帰りが遅いかもしれないと言った。
 夜、と言った。
 なのに、職場には行っていない。
 その時点で、何かがずれていた。
 だが、そのずれをどう扱えばいいのか、十七歳の九条にはまだ分からなかった。
「母は、頭痛を訴えていましたか」
 九条が聞くと、警察官と医師が一瞬だけ顔を見合わせた。
「今朝の様子は?」
 医師に聞かれ、九条は答えた。
「寒いと言っていました。洗濯物が飛ぶかもしれない、と」
「頭が痛いとは?」
「言っていません」
「ふらつきは」
「分かりません」
「吐き気は」
「分かりません」
 分かりません。
 自分の口からその言葉が出るたびに、九条の中で何かが少しずつ削られた。
 朝、もっと見ていれば。
 もっと聞いていれば。
 「帰り遅いかも」の曖昧さを、曖昧なまま流さなければ。
 そう思った。
 だが、思ったところで、今さら何も変わらなかった。
 医師は静かに言った。
「急に意識を失って倒れることはあります。発見された時点で、かなり時間が経っていた可能性もある」
「助かる可能性は」
 その問いを口にした瞬間、九条は自分が何を聞いているのか分からなくなった。
 もう死んでいる。
 医師はそう言った。
 それなのに、助かる可能性を聞いている。
 聞く順番がおかしいことは分かっていた。
 だが、その問いを通らなければ、次へ行けなかった。
 医師は、少しだけ声を落とした。
「救急隊が到着した時点で、すでに救命は困難な状態でした」
「困難」
「はい」
「不可能ではなく」
 真壁が息を止めたのが分かった。
 医師は今度こそ、はっきり困った顔をした。
「医学的に、言葉を選べばそうなります。ただ、現実には、到着時の状態から見て、救命できる可能性は極めて低かったと考えます」
 九条は頷いた。
 納得したわけではない。
 言葉を受け取っただけだった。
 その後、いくつかの確認があった。
 事件性の有無。
 最近の様子。
 人間関係。
 勤務先。
 悩み。
 金銭問題。
 薬。
 既往歴。
 最後に普通に会話した時刻。
 九条は淡々と答えた。
 淡々と答えながら、心のどこかで別の自分がその様子を見ていた。
 母が死んだのに、自分は質問に答えている。
 まるで他人の家の手続きを代行しているようだ。
 警察官が聞いた。
「ご本人にも確認しますね。他にご家族は?」
 九条は答えた。
「いません」
 その瞬間、ようやく何かが確定した。
 父はいない。
 祖父母もいない。
 親戚もいない。
 頼れる名前が一つもない。
 母が死んだ。
 つまり、自分一人になった。
 その事実は、悲しみよりも先に、事務的な重さとして来た。
 葬儀をどうするか。
 家賃はどうするか。
 学校には何と言うか。
 奨学金の申請は。
 大学受験は。
 母の仕事先への連絡は。
 保険は。
 遺品は。
 公共料金は。
 死は、すぐに生活へ変わる。
 それを九条は初めて知った。
 医師は書類を書いた。
 当時の九条には、それが死亡検案書だと思えた。
 正確には、死体検案書だった。
 医師が治療していた患者の死を診断するのではなく、すでに亡くなっていた人間の体を見て、死を確認し、死因を記す紙。
 だが、その違いを十七歳の九条はまだ知らなかった。
 知らないまま、紙の上の文字を見た。
 急性脳血管障害。
 括弧の中に、小さく脳梗塞疑い、とあった。
「疑い」
 九条が呟くと、医師はペンを止めた。
「今の段階では、そう書くのが適切です」
「詳しく調べることはできますか」
 医師は九条を見た。
「解剖を希望する、ということですか」
 解剖。
 その言葉が、部屋の中へ落ちた。
 真壁の母の手が、九条の肩で少しだけ固くなった。
 警察官も顔を上げた。
 九条は答えられなかった。
 解剖という言葉の意味は知っていた。だが、それを母の体に結びつけるには、あまりにも近すぎた。
 母を切る。
 そう思った瞬間、喉が動かなくなった。
 医師は静かに続けた。
「現時点で、明らかな外傷や事件性は確認されていません。警察の判断もありますが、ご遺族の意向だけで必ず解剖になるわけではありません」
「でも、死因は疑いなんですよね」
「医学では、すべてを一〇〇パーセント断定できるわけではありません」
 その言葉は、正しいのだろうと思った。
 正しい。
 きっと正しい。
 けれど、正しい言葉ほど、今の九条には薄く聞こえた。
 母の体がそこにある。
 母はもう喋らない。
 なのに紙の上には、疑い、と書かれる。
 疑いのまま、生活は進んでいく。
 葬儀が来て、火葬が来て、骨になり、家の中から母の匂いが少しずつ消えていく。
 それでいいのか。
 九条には分からなかった。
 分からなかったから、何も言えなかった。
 その沈黙を、周囲の大人たちは疲労と悲しみだと思ったのかもしれない。
 真壁の母だけが、少し違う顔で九条を見ていた。
「雅紀」
 真壁の母が言った。
「今、全部を決めなくていい」
 九条は顔を上げた。
「でも」
「決めなきゃいけないことは、順番にする。今は、あなたが一人で全部を背負わないこと」
「一人です」
 九条は言った。
 言ったあと、自分でもその言葉の冷たさに少し驚いた。
 真壁の母は、すぐには返さなかった。
 それから、低く言った。
「今は、私がいる」
 その声だけが、部屋の中で少しだけ人間の温度を持っていた。
 夜は長かった。
 事情の確認が終わるまで、合歓が運び出されるまで、九条は泣かなかった。
 最後に、母の髪を一度だけ耳にかけるように整えた。
 それは、朝、寝癖を直してやった時と同じ手つきだった。
 そのことに気づいた瞬間、九条はようやく、もう朝には戻れないのだと思った。
 リビングの床には、母が倒れていた場所だけが残っていた。
 雨の音がした。
 斜め向かいの家の明かりが、窓の外で滲んでいた。
 真壁と真壁の母は、まだ家にいた。
 誰かが水を出し、誰かが書類の話をし、誰かが明日のことを言った。検案書、警察の確認、葬儀、連絡先。言葉は次々に置かれていくのに、九条の中では何一つつながらなかった。
 ただ一つだけ、異様にはっきりしていることがあった。
 自分は、母を助けられなかった。
 帰ってきた時、母はまだ温かかった。
 なのに、自分は何もできなかった。
 胸に手を置こうとして、止まった。
 間違えたら壊すと思った。
 その数秒なのか、数分なのか分からない時間が、のちに何度も九条の中で巻き戻されることになる。
 あの時、動かしていたら。
 あの時、胸を押していたら。
 あの時、朝の「帰り遅いかも」という言葉を、もう少し深く聞いていたら。
 現実には、何も変わらなかったのかもしれない。
 合歓の死は、九条が帰宅した時点でもう決まっていたのかもしれない。
 けれど九条は、その可能性に救われなかった。
 救われることを、自分に許さなかった。
 母の死因は、ようやく紙の上の言葉になった。
 急性脳血管障害。
 脳梗塞疑い。
 病気。
 突然死。
 仕方のないこと。
 若すぎる死。
 かわいそうな死。
 その夜、周囲の大人たちは、九条を傷つけないために、柔らかい言葉を選んだ。
 けれど九条は、柔らかい言葉ほど信用できなかった。
 母はどう死んだのか。
 なぜ、倒れたのか。
 どの瞬間まで生きていたのか。
 自分が帰ってくる前に、何が起きていたのか。
 誰も、すぐには答えられなかった。
 それが、耐えがたかった。
 人は死ぬと、急に周囲の言葉に包まれる。
 安らかに。
 眠るように。
 突然のことでした。
 苦しまなかったと思います。
 誰も悪くない。
 その一つ一つが、九条には、母の体の上に別の布をかけられていくように感じられた。
 その布の下に、何があったのか。
 本当は、どうだったのか。
 誰も見ようとしない。
 誰も聞こうとしない。
 なら、自分が聞くしかない。
 その時、九条がそう言葉にしたわけではない。
 まだ高校生だった。
 医者でもなかった。
 法医学という言葉の意味も、今ほど正確には知らなかった。
 それでも、あの夜、リビングの床で母の死を前にした時、九条の中で何かが決定的に変わった。
 死者は、黙っているのではない。
 黙らされるのだ。
 生きている者の都合のいい言葉によって。
 母の死が、そうされようとしている。
 そう感じた。
 それから先のことは、ところどころ途切れている。
 真壁の母が役所や警察との話をしてくれたこと。
 真壁が、何度も水を持ってきたこと。
 夜のどこかで、真壁が一度だけ廊下に出て、戻ってきた時には目元が赤かったこと。
 九条はそれを見た。
 見たが、何も言わなかった。
 真壁も何も言わなかった。
 互いに、何を言えばいいのか分からなかった。
 ただ、真壁は帰らなかった。
 それだけは覚えている。
 雨は、夜更けまで降り続いた。
 台所のやかんは冷めていた。
 朝に食べたパンの袋は、まだテーブルの端に置かれていた。
 合歓が洗濯物を気にしていたことを、九条はふと思い出した。
 ちゃんと留めれば飛ばない。
 朝、自分はそう言った。
 合歓は、あ、そっか、と笑った。
 その会話は、どこにも続かなかった。
 葬儀は、小さかった。
 参列者は少なかった。
 真壁家の人たち。近所の数人。母の職場の人が二人。担任。
 親戚席は空いていた。葬儀社の人が何度も確認したが、九条は同じように答えた。
「いません」
 合歓の遺影は、少しぼやけた写真だった。
 数年前、真壁の母に撮ってもらったものだ。髪が少し跳ねている。笑い方も少しぎこちない。写真を撮られ慣れていない人の顔だった。
 九条は、その写真を見ながら思った。
 母は、三十三歳だった。
 三十三歳。
 その数字の軽さに、九条は呆然とした。
 母親というものは、もっと長く存在するものだと思っていた。若く見えても、危なっかしくても、いつもどこかで自分より先に家にいる人だと思っていた。
 だが、三十三年で終わった。
 合歓の人生は、三十三年で閉じられた。
 そして、紙には急性脳血管障害、脳梗塞疑いと書かれた。
 葬儀の翌日、九条は平屋を片づけ始めた。
 誰に言われたわけでもない。
 片づけなければならないと思った。母のものをそのままにしておけば、家が死体の延長になってしまう気がした。だが、片づけるという行為が何を意味するのか、九条自身にも分かっていなかった。
 台所から始めた。
 冷蔵庫には、使いかけのねぎ、半分残った豆腐、安い卵、賞味期限の近い牛乳があった。冷凍庫には、小分けにされたご飯が三つ。袋に日付が書かれている。合歓の字だった。数字の形が少し丸い。
 九条は一つずつ確認し、食べられるものと捨てるものを分けた。
 食べ物を捨てるのは、母が嫌がる。
 そう思ってから、もう母はいないと気づく。
 次に、公共料金の封筒。
 電気、ガス、水道。支払済みのものと、まだのものが混じっている。合歓は封筒の端にメモを書いていた。
 でんき はらった
 ガス まだ
 みず たぶん
 たぶん、では困る。
 九条は封筒を確認し、支払い状況を紙に書き出した。
 母の作業着は、洗濯かごに入っていた。
 汗と洗剤の匂いが残っている。袖口は擦り切れ、ポケットにはレシートが入っていた。スーパーのレシート。豆腐、うどん、もやし、ねぎ、卵、湿布。
 九条はレシートを捨てようとして、手が止まった。
 捨てればいい。
 ただの紙だ。
 母が買ったものの記録でしかない。
 それでも、捨てられなかった。
 押し入れを開けたのは、夕方だった。
 古い布団、季節外れの扇風機、壊れた傘、段ボール箱、紙袋。母は整理が苦手だった。必要なものと不要なものを分ける前に、とりあえず押し入れへ入れる。その結果、押し入れは時間の層のようになっていた。
 九条は一つずつ出した。
 小学校のプリント。
 使い終わったノート。
 昔の薬袋。
 写真が数枚。
 役所の書類。
 新聞の切り抜き。
 その奥に、小さな箱があった。
 菓子折りの空き箱だった。表面は少し湿気を吸い、角が潰れている。蓋には、黒いマジックで文字が書かれていた。
 まさきのせいちょうきろく
 ひらがなだった。
 九条はしばらく、その文字を見ていた。
 成長記録。
 母がそんなものをつけていたとは知らなかった。
 合歓は、日記を続けられる人ではなかった。家計簿も三日で止まり、カレンダーの予定も途中から書かれなくなる。学校のプリントの提出期限もよく忘れた。九条が代わりに管理していた。
 その母が、自分の成長記録を残していた。
 九条は箱を開けた。
 中には、ノートが一冊入っていた。
 表紙に薄い花の絵がある。色は褪せていた。端は擦り切れ、ページの間にいろいろなものが挟まっている。
 母子手帳。
 病院の領収書。
 小さな写真。
 レシート。
 新聞の切り抜き。
 折りたたまれた紙片。
 古い地図のようなもの。
 名前を書いたメモ。
 九条はノートを開いた。
 一ページ目には、母の字があった。
 まさき、うまれた。
 小さい。
 でも泣いた。
 よかった。
 ちゃんと泣いた。
 九条は指先でその文字を追った。
 字は下手だった。
 漢字はほとんどない。
 「うまれた」の「れ」が少し潰れている。
 「泣いた」の漢字だけ、何度も練習したように濃かった。
 次のページ。
 白い。
 まさきは、白い。
 きれい。
 九条は、そこで手を止めた。
 きれい。
 母は、自分をそう書いていた。
 幼いころから、九条は人に見られた。
 白い髪。薄い色の目。日に弱い肌。近所の子どもたちに珍しがられ、大人たちに気を遣われ、医者には病名として説明された。九条自身は、それをただの性質として受け入れていた。良いも悪いもない。事実でしかない。
 だが、母はきれいと書いた。
 次のページには、さらに短い記述があった。
 あの人が言った。
 きっときれいって。
 まさきがおなかをけるのを、かわいいって。
 私もそう思う。
 あの人。
 九条は、ページをめくる手を止めた。
 父のことだと分かった。
 だが、名前はなかった。
 その後のページは、何か月も空いていた。
 次に書かれているのは、まさきが咳をした、という記録だった。
 夜、せきが止まらない。
 こわい。
 でも、真壁さんのところへ行った。
 お水と、くすりと、タオル。
 次は、先に入れておく。
 九条は、その文章を読んで、少しだけ目を閉じた。
 母は、失敗を記録していた。
 必要なものを忘れたこと。慌てたこと。真壁家に助けてもらったこと。次は先に入れておく、と書いたこと。
 あの危うさは、ただの不注意ではなかった。
 母は母なりに、次を覚えようとしていた。
 ページをめくる。
 まさき、立った。
 すぐころんだ。
 泣かなかった。
 びっくりした。
 少し泣けばいいのに。
 またページが飛ぶ。
 まさき、うどん食べた。
 ねぎをよけた。
 ねぎも食べてほしい。
 あかちゃんにははやかったのかな?
 九条は、わずかに息を吐いた。
 母の声が聞こえる気がした。
 ねぎも食べてよ。
 栄養あるよ。
 ほら、一つだけ。
 そういうどうでもいい声が、もう聞けない。
 ページの途中に、新聞の切り抜きが挟まっていた。
 古い記事だった。
 紙は黄ばんでおり、折り目の部分が破れかけている。見出しはかすれていたが、読めた。
 山間部集落で大規模火災
 住民多数死亡
 出火原因不明
 九条は、その記事をしばらく見ていた。
 山間部集落。
 大規模火災。
 住民多数死亡。
 自分の人生と関係のある言葉には見えなかった。
 それなのに、母の成長記録に挟まっている。
 次のページを開く。
 そこには、震えた字で書かれていた。
 まさき。
 お父さんは、悪い人じゃなかった。
 でも、名前を書けない。
 書くと、見つかる気がする。
 ごめんね。
 九条は、動けなくなった。
 父の名前を、母は忘れていたわけではない。
 言いたくなかったわけでもない。
 書けなかったのだ。
 書くと見つかる。
 誰に。
 何に。
 なぜ。
 その答えは、次の紙片にあった。
 それは、名簿ではなかった。
 罫線の入った紙に、いくつもの短いメモが書かれている。字はさらに乱れていた。ところどころ、インクが滲んでいる。涙か、水か、雨か。判別できない。
 たぶん、すみえさん。
 右手、うでわ。
 男の人。わからない。
 こども。小さい。
 歯で、たぶん。
 わからない。
 たぶん、まさきのお父さん。
 最後の一行で、九条は呼吸を止めた。
 まさきのお父さん。
 父は、ここにいた。
 父という言葉は、九条にとって曖昧な空白だった。
 写真もない。声も知らない。名前も知らない。墓もない。母が時々、優しい人だったよ、と言うだけだった。
 九条は、父は病気で死んだのだと思っていた。
 三歳のころ、母に聞いたことがある。
 お父さんはなんで死んだの。
 母は洗濯物を抱えたまま、少しだけ止まった。
 そして言った。
 お父さんはね、息ができなくなって死んだんだよ。
 幼い九条は、それを病気だと思った。
 喘息のようなものかもしれない。
 肺の病気かもしれない。
 自分と同じように、呼吸が苦しくなる体だったのかもしれない。
 だから、父の死は遠くにありながら、少しだけ自分の体と繋がっていた。
 だが違った。
 新聞の切り抜き。
 村火災。
 遺体ラベル。
 まさきのお父さん。
 父は、炎と煙の中で息ができなくなったのだ。
 九条はページをめくった。
 そこに、短い文章があった。
 かおは分からなかった。
 でもうでの形で、あの人だと思った。
 まさきを、そこにおいた。
 だっこしてほしかった。
だっこした。
そういうことにした。
 九条は、ノートを閉じた。
 部屋の中が静かだった。
 冷蔵庫の低い音。
 外を走る車の音。
 斜め向かいの真壁家から、かすかに人の声が聞こえる。
 どれも遠かった。
 父に抱かれた記憶はない。
 あるはずがない。
 生まれたばかりだった。
 父は死んでいた。
 それは抱擁ではない。
 母が、死んだ父の曲がった腕のそばに、赤ん坊の九条を置いただけだ。
 だが、記録には残っていた。
 まさきを、そこに置いた。
 抱かせたかった。
 九条は、手のひらを見た。
 父の手を知らない。
 母の手は知っている。
細くて、でもやわらかくて、湿布の匂いがして、よく震えていた手。
 その手が、産後の体で、焼けた村人たちに札をつけた。
 誰が誰か分からない遺体に、名前を戻そうとした。
 そして父と思われる遺体の曲がった腕に、生まれたばかりの九条を抱かせた。
 母は、逃げてきたのではなかった。
 逃げる前に、すべてを焼かれていた。
 九条はもう一度、箱の中を探した。
 母子手帳があった。
 表紙は古く、角が丸まっている。
 中を開くと、九条の出生記録がある。体重、身長、出産時刻。母の年齢。十六歳。父親欄は空白だった。
 住所欄には、何度も書き直した跡があった。
 最初の住所は、御津窪に近い山間部のもの。
 その上に、薄く線が引かれている。
 次の欄に、神奈川の住所が書かれていた。
 九条はその住所を見た。
 今、自分がいる家だった。
 斜め向かいに真壁家がある、古い平屋。
 狭くて、雨漏りがして、夏は暑く、冬は底冷えする家。
 母がよく台所で鍋を焦がし、九条が公共料金の封筒を並べる家。
 その住所が、母子手帳にあった。
 九条は、別の紙を見つけた。
 古い賃貸契約の控えだった。
 借主欄には、九条合歓の名前。
 同居予定者の欄には、空白。
 だが、欄外に鉛筆で小さく書かれていた。
 三人で。
 誰の字かは分からない。
 母の字ではなかった。
 もう少し角ばっている。
 父の字かもしれない。
 証明はできない。
 だが、九条はそう思った。
 この家は、母子がたまたま逃げ込んだ場所ではない。
 父が用意していた場所だった。
 父と母と、生まれてくる子どもが、三人で住むはずだった家。
 鍵のある家。
 誰も勝手に入ってこない家。
 赤ん坊が泣いても怒られない家。
 九条は、初めてその家の意味を知った。
 古い畳。
 低い天井。
 台所の狭さ。
 雨の日に水が落ちる天井。
 そのすべてが、貧しさの象徴ではなかった。
 失われた未来の残骸だった。
 父はここへ来るはずだった。
 母もここへ来るはずだった。
 九条もここへ来るはずだった。
 三人で。
 だが実際に来たのは、母と九条だけだった。
 九条は、ノートを開いたまま、しばらく座っていた。
 夕方が夜へ変わっていく。
 部屋の中が暗くなる。
 電気をつけなければならない。
 つけなければ字が読めない。
 だが、九条は動けなかった。
 やがて、玄関の外で足音がした。
 真壁だった。
 遠慮がちなノック。
「九条」
 返事をしなかった。
 少し間があって、もう一度。
「いるか」
「いる」
 自分でも驚くほど、声は普通だった。
 玄関の戸が開いた。
 真壁が顔を出す。
 制服ではなく、普段着だった。手にはコンビニの袋を持っている。真壁の母に持たされたのだろう。
「飯、食ったか」
「まだ」
「だと思った」
 真壁は家に入ってきた。
 勝手知ったる、というほどではないが、幼い頃から何度も来ている家だった。合歓が九条の発作で真壁家へ駆け込んだ後、真壁が荷物を取りに来たこともある。道場帰りに庭のホースで一緒に水浴びしたこともある。
 真壁は台所に袋を置いた。
「母さんが、これ」
「あとで」
「今食べろ」
「あとで食べる」
「お前のあとでは信用できない」
 真壁はそう言ってから、居間の床に広げられた箱とノートに気づいた。
「何だ、それ」
 九条は答えなかった。
 真壁は近づこうとして、途中で止まった。
 何かを感じたのだろう。踏み込んではいけないものがあると。
「合歓ちゃんの?」
「ああ」
「日記か」
「違う」
 それだけ言った。
 真壁はそれ以上聞かなかった。
 その沈黙が、九条にはありがたかった。
 聞かれたら、答えなければならない。
 答えれば、言葉になる。
 言葉になれば、何かが確定してしまう。
 まだ、確定させたくなかった。
 真壁は台所で鍋を出した。
「一緒に食べるぞ」
 九条は顔を上げた。
「何か作るの?」
 真壁は少し気まずそうに言った。
「いや、五目うどん。母さんが持たせた。冷凍のやつ。温めるだけ」
「俺がやる」
「座ってろ」
「できる」
「知ってる。座ってろ」
 真壁は不器用に鍋へ水を入れた。
 火をつける。
 袋から冷凍うどんを出す。
 出汁のパックを探して、見つからず、九条が黙って棚を指した。
「そこ」
「分かりにくい」
「母が置いた」
「なら仕方ない」
 真壁のその言い方に、九条は少しだけ息を吐いた。
 母なら仕方ない。
 真壁家では、合歓の失敗をよくそう言っていた気がする。
 鍋の湯が沸いた。
 うどんが入る。
 出汁の匂いが部屋に広がる。
 九条はその匂いを嗅いで、ようやく自分が丸一日ほとんど何も食べていないことに気づいた。
 真壁はどんぶりにうどんを入れ、野菜を盛りつけ、テーブルに置いた。
 卵はなかった。ねぎもなかった。
 ただのうどんだった。
「食べな」
「いただきます」
 九条は左手で箸を取った。
 一口食べる。
 熱かった。味は薄い。
 合歓が作るうどんも、よく味が薄かった。
 出汁をよく切らしていたのか、単に分量を間違えていたのかは分からない。
 九条は、黙って食べた。
 真壁は向かいに座った。
自分も手を合わせて食べ始める。
 何も聞かない。
 ただそこにいる。
 九条は、半分ほど食べたところで箸を止めた。
「真壁」
「何だ」
「俺は、医学部に行く」
「知ってる」
「法医学に行く」
 真壁が顔を上げた。
「法医学?」
「ああ」
「前から言ってたか」
「言ってない」
「なんで」
 九条は答えなかった。
 答えられなかったのではない。
 言えば、母のノートを開くことになる。
 父の死を、村の火を、母の記録を、脳梗塞疑いという死因欄を、すべて話さなければならない。
 真壁はしばらく待った。
 そして言った。
「まあ、お前ならなれるだろ」
 その言葉は、慰めにしては雑だった。
 だが、九条にはちょうどよかった。
「なる」
 九条は言った。
 真壁は頷いた。
「じゃあ食べろ。法医学でも何でも、飯食わないと死ぬ」
「死なない」
「死ぬだろ」
「すぐには」
「面倒くさいな、お前」
 真壁はそう言って、少しだけ笑った。
 九条はうどんを食べ終えた。
 食べ終えた瞬間、体が重くなった。
 悲しみではない。疲労でもない。
 何かが体の中で形を変えたような重さだった。
 その夜、真壁が帰った後、九条はもう一度ノートを開いた。
 最後の方に、母の字でこう書かれていた。
 あの人たちは、病気にする。
 みんな、病気だったことにする。
 死んだ人は、しゃべれないから。
 九条は、その一文を何度も読んだ。
 あの人たち。
 誰のことかは書かれていない。
 御堂の名前もない。
 光胎寮という名前もない。
 鷲尾貞成という名前もない。
 だが、母は何かを知っていた。
 何かを恐れていた。
 病気だったことにされる、という恐怖を持っていた。
 そして母自身の死体検案書には、急性脳血管障害、脳梗塞疑いと書かれている。
 本当にそうか。
 その問いが、九条の中で初めてはっきり形を持った。
 脳梗塞は、ありえない死因ではない。
 若くても起こる。
 母は働きすぎていた。睡眠も不足していた。栄養も偏っていた。倒れても不思議ではない。
 周囲は、そう納得するだろう。
 真壁も、真壁の母も、学校の教師も、職場の人も。
 だが、母は書いていた。
 あの人たちは、病気にする。
 死んだ人は、しゃべれないから。
 九条は死体検案書を取り出した。
 死因欄を見る。
 急性脳血管障害。
 脳梗塞疑い。
 署名欄には、医師の名前があった。
 鷲尾貞成。
 九条は、その名前を見た。
 その時、怒りはまだなかった。
 怒りというには、あまりにも冷たかった。
 悲しみというには、あまりにも硬かった。
 ただ、一つの作業が生まれた。
 調べなければならない。
 父の死因。
 村の火災。
 母の死因。
 鷲尾貞成。
 光胎寮。
 御堂聖真。
 それらを一つずつ、証明できる形にしなければならない。
 医学部に行く理由は、もう母を楽にするためではなかった。
 母はもういない。
 働かなくていいと言う相手は、もういない。
 それでも医者になる理由は残った。
 いや、初めて本当の理由が生まれた。
 死因を読む側になる。
 死者がしゃべれないなら、死者の体に残ったものを読む。
 誰かが病気にしたなら、それを訂正する。
 誰かが事故にしたなら、それを疑う。
 誰かが死者の名前を奪ったなら、せめて死因だけは奪わせない。
 そう考えた瞬間、その言葉は死者だけでなく、自分にも向いた。
 なぜ、もっと早く見つけなかった。
 九条は、開いたままのノートを見下ろした。
 母は書いていた。読めない字もあった。途中で途切れた日付もあった。けれど、書いていた。あの人たちは病気にする、と。死んだ人はしゃべれないから、と。
 なら、なぜ自分は葬儀の前にこれを見つけられなかったのか。
 母の体がまだこの世にあった時に。
 検案書が、ただの紙ではなく母の死を閉じる蓋になってしまう前に。
 火葬場の炉の扉が閉まる前に。
 あの時、家に帰り、押し入れの奥を探していれば。
 あの時、泣くことも眠ることもやめて、箱を開けていれば。
 あの時、母の字を読んで、真壁の母に、警察に、誰でもいい、誰かに訴えていれば。
 解剖を頼めたかもしれない。
 その考えが、九条の中に冷たい針のように残った。
 現実には、たぶん無理だった。
 十七歳の子供に、教団も、病院も、検案書を書いた医師も、葬送の手続きも、止められるはずがなかった。母の死はすでに、病死として閉じられる方向へ動いていた。周囲の大人たちは、急性脳血管障害という言葉に頷く準備をしていた。教団は、その死が疑われないようにずっと手を伸ばしていた。
 それでも、九条にはその理屈が入らなかった。
 母が死んだ時、自分は壊れた。
 動けなかった。
 考えられなかった。
 箱を開けられなかった。
 母の体が焼かれる前に、母の声を見つけられなかった。
 だから、母の死因を奪ったのは御堂であり、鷲尾であり、教団であり、制度だったとしても、九条の中にはもう一人、犯人がいた。
 自分だった。
 母の死因を、間に合わせられなかった子供。
 母が残した最後の記録を、火葬の後でしか読めなかった息子。
 その罪は、誰にも裁かれない。
 だからこそ、九条は自分で持つしかなかった。
 翌日から、九条は調べ始めた。
 学校には忌引きで休みを出していた。
 真壁の母は、休める時はちゃんと休めと言った。真壁も、何か必要なら言えと言った。九条は頷いた。頷きながら、ほとんど聞いていなかった。
 図書館へ行った。
 新聞の縮刷版を見た。
 古い火災記事を探した。
 山間部集落。
 宗教団体。
 白胎会。
 御堂聖真。
 光胎寮。
 出火原因不明。
 住民多数死亡。
 九条は、一つずつノートに書き出した。
九条は母方の姓だったことも知った。
 父の名前はまだ分からない。
 母のノートにもない。
 だが、村火災の死亡者一覧には、父と思われる年齢の男が複数いた。その中に、母のメモと合うものがあるのかどうか、まだ分からない。
 分からないことばかりだった。
 だから、調べる。
 それだけだった。
 学校へ戻った後も、九条は変わらなかった。
 授業を受ける。
 バイトへ行く。
 家事をする。
 受験勉強をする。
 その間に、図書館へ行き、古い新聞を読み、医学書を借り、法医学の入門書を探した。
 法医学。
 死因。
 検案。
 解剖。
 死亡検案書。
 死体検案書。
 司法解剖。
 行政解剖。
 監察医。
 言葉を知るたび、自分があの夜いかに何も知らなかったかを思い知らされた。
 知らなかったから、母を守れなかった。
 知らなかったから、父の死因を病気だと思っていた。
 知らなかったから、紙に書かれた文字を、そのまま閉じるものとして受け取ってしまった。
 知識は、人を救うためにある。
 そんな綺麗な言い方を、九条は信じなかった。
 知識は、奪われないためにある。
 間違った言葉で閉じられないためにある。
 死者をもう一度殺されないためにある。
 九条にとって、医学はそこから始まった。
 ある夜、真壁が勉強机の横に立って、積み上がった本を見た。
「すげえ量だな」
「必要だから」
「法医学って、死体を見るんだろ」
「ああ」
「怖くないのか」
 九条は少し考えた。
「生きている人間の方が怖い」
 真壁は黙った。
 それから、少しだけ笑った。
「お前らしいな」
 九条は返事をしなかった。
 らしい。
 その言葉は、よく分からない。
 自分らしさなど、九条にはどうでもよかった。
 必要なことをするだけだ。
「九条」
「何」
「何かあったら言えよ」
「何かって何」
「何でも」
「曖昧すぎる」
「曖昧でいいんだよ」
 真壁は立ち上がった。
「俺は、お前みたいに言葉を正確に使えないからな」
「知ってる」
「腹立つな」
 真壁は玄関へ向かった。
 戸を開ける前に、振り返る。
「でも、言えよ」
 九条は答えなかった。
 真壁は少し待ったが、やがて諦めたように出ていった。
 玄関が閉まる。
 外の足音が遠ざかる。
 九条は机の上の箱を見た。
 まさきのせいちょうきろく。
 その箱だけが、母の声を残している。
 母は毎日記録する人ではなかった。
 空白だらけで、誤字もあり、字も乱れていた。
 それでも、必要なものは残っていた。
 九条を産んだこと。
 九条を白くてきれいだと思ったこと。
 父の名前を書けなかったこと。
 村が焼けたこと。
 父と思われる遺体に九条を抱かせたこと。
 死んだ人はしゃべれないから、病気にされるという恐怖。
 完璧な記録ではない。
 だが、母が残せた精一杯だった。
 九条は、その箱に手を置いた。
「お母さん」
 声に出して呼んだのは、死後初めてだった。
 返事はない。
 死者は返事をしない。
 だが、死者が何も残さないわけではない。
 母は残した。
 父も残した。
 村も残した。
 焼けた土も、ラベルの字も、検案書の署名も、すべて残っている。
 誰かがそれを読めばいい。
 誰も読まないなら、自分が読む。
 九条は、机の上の死体検案書をもう一度見た。
 急性脳血管障害。
 脳梗塞疑い。
 その文字は、まだただの文字だった。
 だが九条には、それが閉じられた扉のように見えた。
 扉の向こうに、母の本当の死がある。
 いつか開ける。
 そう決めた。
 それから、もう一度だけ、自分のノートを開いた。
 死因を訂正する。
 整った文字が、罫線の上に静かに並んでいる。
 九条はその下に、一行だけ書き足した。
 死者が言えないなら、俺が訂正する。
 書き終えてから、しばらくその文字を見ていた。
 十七歳の少年が書いたにしては、あまりに感情がなかった。
 震えも、滲みも、迷いもない。
 そこにあるのは、決意というより、処理だった。
 九条はノートを閉じた。
 一年後、九条雅紀は医学部へ進む。
 周囲は、母を早くに亡くした苦学生が努力で道を切り開いたのだと言った。
 真壁も、そう見ていた。
 九条は母親を亡くしても折れず、前へ進んだのだと。
 だが、それは正しくなかった。
 九条は前へ進んだのではない。
 あの夜、押し入れの奥から出てきた箱の前に、ずっと立っていた。
 まさきのせいちょうきろく。
 そのひらがなの文字の前から、一歩も動いていなかった。
 医学部も、法医学も、解剖台も、白衣も、すべてそこへ戻るための道だった。
 父の死因を誤っていた。
 母の死因も、おそらく誤っている。
 村の死も、事故として処理されている。
 なら、訂正しなければならない。
 九条雅紀は、その時まだ知らなかった。
 その訂正が、いつか自分自身を殺人犯にすることを。
 そして、真壁彰に自分を捕まえさせるための長い道になることを。