死んだ腕に抱かれる

 灰は、軽い。
 ほんの少しの風で舞い上がる。指先に乗せれば、それがかつて何だったのか分からないほど頼りない。木だったのか、紙だったのか、布だったのか。あるいは、人の生活に属していた何かだったのか。灰になったものは、元の形を失う。
 だが、完全に消えるわけではない。
 成分は残る。
 燃えた場所の土は残る。
 吸い込んだ煙は肺に残る。
 焦げた匂いは記憶に残る。
 そして、燃やされた者の名前も残る。誰かが覚えている限り。
 真壁彰は、御津窪集落跡から戻った翌朝、鑑識課の分析室にいた。
 分析室には、独特の静けさがあった。捜査本部のような電話の音や足音は少ない。かわりに、機械の低い作動音、紙をめくる音、器具を置く小さな音がする。事件が外でどれだけ燃え広がっていても、ここでは物質だけが扱われる。怒りも、悲しみも、信仰も、憎悪も、まずは試料番号へ変わる。
 それが救いに思えることもあれば、残酷に思えることもある。
「礼拝堂の灰ですが」
 鑑識の技官が、薄いファイルを机に置いた。
 四十代前半の女性で、名前は緒方といった。口調は淡々としているが、寝不足の色が濃い。白胎会事件のせいで、鑑識も通常業務の何倍もの圧力を受けているのだろう。
「現場由来の燃焼残渣だけではありません」
「やはり持ち込みですか」
「はい。少なくとも、静思室内で燃えたものだけでは説明できない無機成分が含まれています。木材灰、土壌粒子、焼成を受けた粘土質、微量の金属成分。山間部の焼土に近い特徴があります」
「御津窪の土と照合は」
「昨日、現地から採取した土壌サンプルと比較中です。速報レベルですが、かなり近い」
 真壁はファイルを開いた。
 数字と記号が並んでいる。
 専門家ではない真壁に、すべては読めない。だが、何を意味しているかは分かった。
 御堂聖真の周囲に撒かれていた灰は、礼拝堂で作られたものではない。
 あれは、どこかから持ってこられた。
 おそらく、御津窪から。
「二十九年前の灰が、まだ残っていたということか」
 真壁が言うと、緒方は少し首を傾げた。
「純粋に二十九年前の火災灰だけとは言い切れません。地表の土壌と混じっている可能性もあります。現場から採取した土を乾燥、処理したものかもしれません」
「誰かが御津窪へ行き、土を持ち帰った」
「そう考えるのが自然です」
「量は」
「現場に撒かれていた量から考えると、少量ではありません。袋や容器に入れて運んだはずです」
「素手で撒いたものですか」
「手袋をしていれば痕跡は残りにくいです。ただ、灰の粒子は衣服や靴底に付着しやすい。犯人が事後に処理していなければ、どこかに残る可能性はあります」
 真壁は頷いた。
 御津窪へ行った者。
 山の土を持ち帰った者。
 御堂の礼拝堂へ入り、それを撒いた者。
 犯人像は少しずつ狭まっているようで、実際には広がっていた。
 御津窪の火災を知る者。
 御堂を恨む者。
 白胎会の本部構造を知る者。
 早朝礼拝の習慣を知る者。
 情報拡散のタイミングを設計できる者。
 灰を持ち込み、密室めいた現場を作れる者。
 条件を並べるほど、どこかで九条の顔が浮かぶ。
 真壁は、それを振り払うようにファイルを閉じた。
「灰そのものから個人に繋がるものは」
「今のところありません。ただ、灰の中に小さな紙片の炭化物が混じっていました」
「紙片?」
「かなり劣化していますが、印刷物か、名札のようなものの一部かもしれません。判読は難しいです」
 名札。
 真壁は、御津窪の遺体ラベルの控えを思い出した。
 たぶん、まさきのお父さん。
 合歓の震えた字。
 顔も性別も分からなくなった遺体に、名前を戻そうとした若い母親。
 その控えに残った、あまりにも頼りない一文。
「復元できますか」
「試みています。ただ、期待はしないでください」
「ええ。必要なら待ちます」
 緒方は真壁を見た。
「この灰、ただの証拠品じゃありませんね」
 真壁は少しだけ目を細めた。
「どういう意味ですか」
「すみません。鑑識が言うことではないですが、犯人がこれを撒いた理由です。普通、火を使った犯罪で灰は邪魔です。現場を汚すし、余計なものを持ち込めば痕跡も増える。なのに、犯人はわざわざ撒いている」
「見せるため」
「はい」
 緒方はファイルに視線を落とした。
「死体の周囲に、過去の火災現場の灰を置く。まるで、二つの現場を重ねるみたいに」
 真壁は黙った。
 それは昨日、御津窪で自分が感じたことと同じだった。
 御堂聖真の礼拝堂。
 御津窪の焼けた村。
 二つの現場は、灰によって重ねられている。
 犯人は御堂を殺しただけではない。
 御堂の死体を、過去の村の上に置いた。
 分析室を出ると、廊下で二階堂壮也が待っていた。
 壁にもたれ、スマートフォンを片手にしている。目の下の影はさらに濃くなっていた。いつもの軽口も、今日はいくらか切れ味が鈍い。
「灰、出たか」
「ああ。御津窪の土壌と近い」
「やっぱりな」
 二階堂は顔をしかめた。
「やっぱり、って言いたくない時ほど、やっぱりなんだよな」
「ネットは」
「燃えてる」
「簡潔だな」
「詳細を聞きたいか?」
「聞きたくないが聞く」
 二階堂はスマートフォンを見せた。
 画面には、複数の投稿が流れている。
 《御堂の現場に御津窪の灰?》
 《二十九年前の村火災と完全につながった》
 《白胎会、まだ隠してることあるだろ》
 《死因を誤るな=御津窪の死因を誤るなってこと?》
 《唯一の生存者って名前でてんの?》
《唯一の生存者の子どもってだれ?》
 真壁は最後の投稿で目を止めた。
「もうそこまで来てるか」
「時間の問題だ。九条合歓の名前が出るのも、九条雅紀に繋がるのも」
「止められるか」
「完全には無理だ」
 二階堂は、昨日と同じ言葉を言った。
 だが今日は、その言葉の重さが違った。
「だから先手を打つ」
「どうやって」
「警察としては個人名に触れない。過去の生存者についても、プライバシー保護を理由に回答しない。出た時に備えて、九条が捜査関係者であることは伏せる方向で調整する」
「伏せられるか」
「難しい。九条は法医学者として現場に入っている。メディアに顔を撮られてる可能性もある。過去の報道や論文を掘れば名前も出る」
「なら意味がない」
「意味はある。燃え方を遅らせる」
 二階堂はスマートフォンをしまった。
「ただ、変だ」
「何が」
「九条合歓の名前を出す寸前で、投稿が止まってる」
 真壁は足を止めた。
「止まってる?」
「匂わせはある。唯一の生存者、白い子、九条の名札。でもフルネームは出さない。まるで、こっちに先に辿り着かせるために待ってるみたいだ」
「犯人が?」
「あるいは、情報を出してる誰かが」
 真壁は黙った。
 それは、今回の事件にずっとつきまとっている感覚だった。
 犯人は逃げていない。
 むしろ、道を示している。
 ただし、こちらが自分で辿り着いたと思えるように。
「九条は?」
「資料室じゃないのか」
「単独で資料に触るなと言った」
「聞くと思うか?」
「聞かないだろうな」
「お前も分かってるじゃないか」
 二階堂は肩をすくめた。
 その時、真壁の携帯が鳴った。
 三谷からだった。
『真壁さん、容疑者候補のリストが上がってきました』
「今行きます」
 合同捜査本部は、県警本部の大会議室に置かれていた。
 壁には白胎会本部の見取り図、御堂聖真の経歴、御津窪集落火災の関連資料、関係者相関図が貼られている。白板には、時系列が書き込まれていた。
 午前四時十分 御堂、静思室へ入室。
 午前四時十八分 匿名投稿《白胎の死因を誤るな。灰は山から来る》。
 午前四時二十分 真壁宛て封筒発見。
 午前四時二十五分 火災報知器作動。
 午前四時三十二分 静思室解錠、御堂発見。
 その横に、赤いペンでこう書かれている。
 灰=御津窪由来の可能性高。
 三谷が資料を配っていた。
「現時点で、御津窪火災または白胎会に関連し、御堂氏への怨恨が考えられる人物を拾いました」
 真壁と二階堂が席につく。
 九条はいなかった。
 それに気づいた瞬間、真壁は少しだけ安心し、同時に不安になった。
 いないなら、何をしている。
 それを考えてしまう。
 三谷が一人目の写真を白板に貼った。
「一人目。榎本理沙、四十二歳。元白胎会信者。十年前、白胎会系の療養施設で当時七歳の長男を亡くしています」
 写真の女性は、痩せていた。
 まっすぐ前を見ているが、目元に強い疲労がある。
 資料には、現在は介護施設勤務とある。
「死因は?」
 真壁が聞く。
「急性肺炎とされています。ただ、当時、医療機関への受診が遅れた疑いがあります。榎本はその後、教団を脱会。複数回、白胎会に対して抗議活動を行っています」
「診断書を書いた医師は」
 三谷は資料をめくった。
「直接の死亡検案書は施設の嘱託医です。ただ、死亡前日の診療記録に、鷲尾メディカルクリニックへの相談履歴があります」
 真壁の指が止まった。
「鷲尾?」
「はい。正式な診察ではなく、施設側からの電話相談です。記録には、“発熱継続。咳嗽。呼吸状態不安定。家族受診希望あり”とあります。ただし、翌日の死亡検案書では、受診遅延や施設判断については触れられていません」
 二階堂が低く言った。
「榎本はそれを知ってるのか」
「後に情報開示請求をしています。黒塗り部分が多く、本人は“息子は病気で死んだんじゃない。診断書で殺された”と周囲に話していたそうです」
 診断書で殺された。
 その言葉は、真壁の中に重く残った。
 御堂を恨む理由だけなら、榎本にはある。
 鷲尾を恨む理由まで、ある。
 そして、死因を誤るなという言葉に、彼女なりの意味を重ねることもできる。
「御堂への直接接触は」
「三年前、講演会場で御堂に詰め寄り、警備員に制止されています。その際、“あなたが息子を殺した”と発言」
 二階堂が低く言った。
「動機はある」
「御津窪との関係は」
「現時点ではありません。ただ、白胎会被害者の会を通じて、御津窪火災について知っていた可能性があります」
 真壁は資料を見た。
 息子を亡くした母親。
 教団に医療を遅らされた可能性。
 御堂への怨恨。
 火災とは直接結びつかないが、御堂を殺す理由はある。
 三谷が二人目の写真を貼る。
「二人目。早瀬遼、三十六歳。フリージャーナリスト。白胎会の過去を追っていた人物です」
 写真の男は、無精髭を生やし、眼鏡をかけている。
 どこか挑発的な目をしていた。
「御津窪火災に関する記事を数年前から書いています。ただし大手媒体には載らず、ネット記事や個人配信中心です。御堂の側近、仁科とも接触歴があります」
「九条との接点は」
 真壁は、聞きたくないと思いながら聞いた。
 三谷は一瞬だけ言葉を選んだ。
「公式には確認されていません。ただ、二年前の法医学系シンポジウムで、早瀬が九条先生に取材を申し込んでいた記録があります」
 二階堂が顔を上げた。
「断られた?」
「主催者記録では、九条先生は取材対応をしていません。ただ、その日の夜、会場近くの喫茶店で、早瀬と特徴の似た男性が白髪の医師らしき人物と同席していたという目撃情報があります」
 部屋が少し静かになった。
「確証は」
「ありません。防犯映像は保存期間切れです。早瀬本人は、“法医学者には何人も取材した。名前までは覚えていない”と答えています」
 覚えていない。
 便利な言葉だった。
 忘れるには特徴的すぎる相手を、忘れたと言う。
 真壁は、白板の早瀬の写真を見た。
 早瀬は情報を持っている。
 九条は死因を持っている。
 その二人がもし、どこかで線を結んでいたなら。
「御堂への恨みは」
「直接の怨恨というより、取材対象です。ただ、過去に白胎会から名誉毀損で警告を受けています」
 二階堂が資料をめくる。
「情報の出し方に慣れてるな」
「匿名投稿や画像拡散の技術はありそうだ」
 真壁が言うと、三谷は頷いた。
「はい。本人のSNS運用、拡散経路も調査中です」
「早瀬は事件当時どこに」
「自宅にいたと主張。都内です。ただし一人暮らしで、客観的裏付けはまだ」
「白胎会本部への出入りはできるんですか」
「取材目的で何度も周辺に来ています。内部構造を完全に把握していたかは不明です」
 三人目。
「黒住景介、五十七歳。白胎会理事。御堂死亡後、後継代表の最有力候補と見られています」
 写真の男は、柔和な顔をしていた。
 宗教者というより、企業役員のように見える。銀縁の眼鏡、整えた髪、皺のないスーツ。
「教団内部の権力争いの線ですか」
 真壁が言った。
「それだけではありません」
 三谷は手元の資料を一枚めくった。
「黒住は、近年、御堂の古い教義路線と距離を置き、福祉事業、医療関連事業、行政委託事業を中心にした“新生白胎会”構想を進めていました。内部資料では、“個人崇拝から社会福祉法人型の組織へ転換する”という文言があります」
 二階堂が眉を上げた。
「教団の改革派ですか」
「表向きは」
「裏は?」
「御堂派と仁科派を切り、白胎会の資産と事業部門を黒住側へ集約する計画だった可能性があります」
 真壁は資料を受け取った。
 そこには、組織改革案の写しがあった。
 《白胎会再生委員会設置案》
 《過去教義との決別》
 《光胎寮時代の責任所在明確化》
 《御堂聖真個人の宗教的逸脱に関する第三者調査》
 《仁科重光理事の職務停止案》
 真壁は、その最後の一行で目を止めた。
「仁科を切るつもりだったのか」
「はい。御堂の死後、黒住はすでに一部理事へ接触し、“教団を守るには、御堂先生の時代の過ちを御堂先生個人のものとして整理するしかない”と話していたという証言があります」
 二階堂が低く笑った。
「整理、ね」
 真壁は資料から目を上げた。
「黒住にとって、御津窪が掘られることは不利益じゃないのか」
 三谷は首を横に振った。
「そこが、単純ではありません」
「どういうことだ」
「御津窪火災が白胎会全体の犯罪として扱われれば、黒住も不利益を受けます。ただし、黒住が先に“御堂と仁科ら旧体制の犯罪”として切り分けることができれば、むしろ利益になります」
 二階堂が腕を組んだ。
「御堂を殺す。御津窪を掘らせる。世論が燃える。そこで黒住が出てきて、“私は過去を隠しません。御堂個人と旧幹部の過ちを明らかにし、白胎会を再生します”と言う」
「そうです」
 三谷は頷いた。
「実際、黒住は昨日の夜、警察への全面協力を内部に提案しています。御堂の私的資料、光胎寮時代の旧資料、仁科が管理していた書庫の開示まで含めて」
「協力的すぎるな」
 真壁が言う。
「はい」
 三谷は別の資料を出した。
「黒住側から、すでに警察へ任意提出の申し出が来ています。静思室の予備鍵管理記録、監視カメラのバックアップ、早朝礼拝の出席者名簿、御堂の予定表、浄幕の運用記録。通常なら教団側が出し渋る資料まで含まれています」
 二階堂の顔が変わった。
「早い」
「ええ」
「御堂が死んで、まだ二日だぞ。内部資料の整理にしては早すぎる」
「事前に準備していた可能性があります」
 真壁は白板の黒住の写真を見た。
 柔和な顔。
 協力的な態度。
 教団改革。
 御堂個人への責任集中。
 仁科切り。
 新生白胎会。
 御津窪を掘らせても利益がある。
 その構図は、危険だった。
 黒住は、御堂を殺す動機がある。
 御堂が死ねば、後継代表になれる。
 御津窪を掘らせても、御堂と仁科を切れば自分は改革者になれる。
 警察に協力すれば、旧体制を解体するための外圧として利用できる。
 情報が燃えれば燃えるほど、黒住は「火消し」ではなく「再建者」として登場できる。
「火で殺す理由は」
 真壁が言った。
 三谷は少し緊張した顔で答えた。
「御堂を普通に殺した場合、単なる後継争いに見えます。しかし、御津窪の火災を再現するように殺せば、御堂の過去を社会に見せることができます。黒住にとっては、御堂を排除しつつ、旧体制を道連れにできる」
 二階堂が続けた。
「しかも黒住は、自分で告発しなくていい。犯人が告発してくれた形になる。警察と世論が勝手に御津窪を掘る。黒住は後から“痛恨の極みです。私たちは膿を出します”と言えばいい」
「広報の言い方だな」
 真壁が言うと、二階堂は苦い顔をした。
「だから嫌なんだよ。黒住は、俺に近い臭いがする」
「お前に?」
「言葉の火を、消すふりをしながら方向づけるタイプだ」
 三谷が資料を続ける。
「黒住は、御堂の早朝礼拝の習慣を知っていました。静思室にも、過去に複数回立ち入っています。浄幕の運用や法衣櫃の扱いも把握していました。本人は“御堂先生から施設管理の引き継ぎを受けていたため”と説明しています」
「予備鍵は」
「通常は管理室ですが、黒住は理事として管理権限を持っています。ただし、事件当日に鍵を持ち出した記録はありません」
「鍵の複製は」
「確認中です」
「事件当日のアリバイは」
「施設内の宿泊棟にいたと主張しています。午前四時台の映像には、宿泊棟ロビーに姿が映っていますが、四時五分から四時三十五分までの間は個室内にいたとされています。客観的な確認はまだ」
 二階堂が小さく言った。
「御堂が静思室に入ってから、報知器が鳴るまでの時間と重なるな」
「はい」
 黒住は、これまでの二人と違った。
 榎本には怨恨がある。
 早瀬には情報拡散の力がある。
 だが黒住には、事件全体を利用する利益がある。
 御堂を殺す利益。
 御津窪を掘らせる利益。
 仁科を切る利益。
 警察に協力する利益。
 そして、教団を新しい形で生き残らせる利益。
 これは九条とは別種の危険さだった。
 九条が死因へ近すぎる容疑者なら、黒住は構図へ近すぎる容疑者だった。
 三谷が四人目の写真を貼った。
「四人目。森塚秋人、四十九歳。御津窪火災で親族を失ったとされる人物です」
「とされる?」
「戸籍上、母方の親族が御津窪にいた可能性があります。ただ本人は長く関係を否定してきたようです。現在は土木会社勤務。数年前から白胎会関連施設の建設反対運動に参加しています」
 写真の男は、日に焼けた顔で、口元を固く結んでいた。
「御堂への恨みは」
「反対運動の場で、“御津窪を忘れるな”と発言した記録があります」
「御津窪の土を持ち出せるか」
「地理的には可能です。本人は山仕事の経験もあり、現地にも詳しい」
「ただの土じゃない」
 三谷は、もう一枚写真を出した。
 古びた一斗缶だった。
 錆びた蓋の隙間から、黒ずんだ土のようなものが見えている。
「これは?」
「森塚の作業小屋で撮影されたものです。建設反対運動の関係者が数年前にSNSへ上げていました。投稿には、“御津窪の土を忘れるな”とあります」
 二階堂が眉を寄せた。
「現物は」
「確認中です。本人は削除済み。ただ、反対運動の集会で、森塚が黒い土を小瓶に入れて参加者へ配っていたという証言があります」
「配った?」
「“ここに何が埋まっているか忘れるな”と言っていたそうです」
 真壁は写真の一斗缶を見た。
 御津窪の土。
 焼けた家の下に残ったもの。
 それを持ち出し、保存し、他人へ渡していた男。
 御堂の礼拝堂に撒かれた灰が、もし森塚の手元から出たものなら。
 御堂を殺した者と、灰を用意した者は、必ずしも同じとは限らない。
「情報拡散は」
「不得手に見えますが、協力者がいれば」
 二階堂が腕を組んだ。
「容疑者としては分かりやすいな」
「分かりやすい容疑者は危ない」
 真壁が言うと、二階堂は軽く笑った。
「刑事っぽい」
「刑事だからな」
 三谷はさらに資料を配った。
「他にも、白胎会被害者の会の関係者、元職員、現信者の離反組、御堂の親族筋などを洗っています。ただ、現時点ではこの四名が優先です」
 真壁は白板を見た。
 榎本理沙。
 早瀬遼。
 黒住景介。
 森塚秋人。
 どの人物にも動機はある。
 どの人物も、どこかが足りない。
 御堂を殺す理由。
 御津窪の灰を使う理由。
 真壁に挑戦状を送る理由。
 情報を段階的に流す能力。
 礼拝堂の密室を作る機会。
 すべてを満たす人物は、いない。
 いや、二人いる。
 一人は、どうしても考えてしまう名前。
 九条雅紀。
 御堂への因縁。御津窪の知識。死因への執着。法医学的知識。真壁への接点。
 もう一人は、今、白板の中央に貼られた柔和な顔の男。
 黒住景介。
 御堂への権力上の動機。教団内部への接点。静思室の知識。警備体制へのアクセス。御津窪を掘らせても利益が出る立場。旧体制を御堂と仁科へ押しつけ、新生白胎会を作る構想。
 九条は、過去の死因を正すために御堂を殺しうる。
 黒住は、未来の教団を作るために御堂を殺しうる。
 どちらも危険だった。
「この四人を当たる」
 真壁は言った。
「榎本と森塚は怨恨筋。早瀬は情報筋。黒住は内部筋。全員、御津窪の灰にアクセス可能か確認する。事件当日のアリバイ、白胎会本部への接点、御堂の習慣を知っていたか」
「黒住については、協力的すぎる理由も洗います」
 三谷が言った。
「黒住が提出すると言っている資料は、全部裏を取ってください。任意提出されたものは、相手が見せたい資料でもある」
「はい」
「仁科との対立も確認。黒住が仁科を切りたいなら、仁科を犯人に見せる動きがあるかもしれない」
「仁科本人は」
 三谷が資料を見た。
「聴取では一貫して、御津窪火災について“古い報道で知っているだけ”と答えています。ただ、光胎寮時代の内部文書の保管責任者に、仁科の名前が残っています」
 真壁は顔を上げた。
「保管責任者?」
「はい。火災後、光胎寮は解散扱いになっていますが、その際の資料移管リストに仁科重光の署名があります。信者名簿、土地取得関係書類、献金記録、医療相談記録。少なくとも、何が残り、何が消えたかを知る立場にいた可能性が高い」
 二階堂が低く言った。
「御堂の側近じゃなくて、御堂の記憶係か」
「記憶係というより」
 真壁は資料を見た。
「記録を消す係だ」
 その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が重くなった。
 御堂は死んだ。
 鷲尾の名前も見えてきた。
 だが、過去を現在まで運び、必要な部分だけを残し、都合の悪い部分を消してきた人間がいるとしたら。
 それは、御堂より長く生きている。
「九条先生には?」
 三谷が聞いた。
 部屋の空気が一瞬止まった。
 真壁は三谷を見た。
「何を」
「法医学的な助言を。灰や焼死の意味について、九条先生なら」
「必要な範囲で聞く」
 二階堂が横から言った。
「ただし、資料は絞ったほうがいい。特に九条合歓と御津窪の個人情報については、こちらからは出さない」
 三谷は少し戸惑った顔をした。
「九条先生のご家族だからですか」
「それもあります」
 二階堂は曖昧に答えた。
 真壁は言った。
「九条は関係者でもある。扱いを慎重にする」
「容疑者という意味ですか」
 三谷の問いはまっすぐだった。
 若い刑事らしい。
 言いにくいことほど、かえってまっすぐ聞く。
 真壁は答えた。
「現時点では、関係者です」
「分かりました」
 三谷はそれ以上聞かなかった。
 捜査会議が終わると、真壁は廊下に出た。
 二階堂が隣に並ぶ。
「逃げたな」
「何が」
「九条を容疑者と言わなかった」
「証拠がない」
「証拠があったら言うのか」
「言う」
「幼なじみでも」
「言う」
 二階堂は少しだけ真壁を見て、それから前を向いた。
「ならいい」
「お前はどう見る」
「九条?」
「ああ」
 二階堂はしばらく黙った。
「怪しい」
「それは分かってる」
「でも、怪しすぎる」
「どういう意味だ」
「九条へ向かう道が、きれいすぎる。灰、御津窪、合歓、名札、父親、御堂。全部が九条へ行く。まるで“九条を見ろ”と言われてるみたいだ」
「犯人が九条を陥れようとしている?」
「可能性はある」
「九条自身がそう見せている可能性もある」
「それもある」
 二階堂は疲れたように笑った。
「嫌な構図だな。疑う理由と疑いすぎる理由が同じ場所にある」
「事件はだいたいそうだ」
「刑事っぽいことばっかり言いやがって」
「刑事だからな」
「でも、今回は黒住もかなり嫌だ」
 二階堂は低く言った。
「九条は死因に近すぎる。黒住は言葉と組織に近すぎる。どっちも犯人の席に座れる」
「黒住をどう見る」
「危険だな。御堂を殺した後の絵を描ける人間だ。事件を終わらせるんじゃなく、事件の後を設計できる」
「新生白胎会か」
「ああ。御堂を過去の亡霊にして、仁科を旧体制の生き残りとして切る。自分は改革者になる。御津窪が掘られても、“私が明らかにします”と言えば、むしろ信頼を取れる」
「警察に協力的すぎる」
「協力というより、警察を使ってる可能性がある」
 二階堂は足を止めた。
「俺は早瀬を当たる。その後、黒住も見る。情報の出し方が気になる」
「広報が聴取するのか」
「聴取じゃない。周辺確認だ。ああいう記者や宗教団体の理事は、広報の人間相手だと喋ることがある」
「余計なことは言うな」
「お前よりは言葉に気を使ってる」
「否定できないな」
 二階堂は去りかけて、ふと足を止めた。
「真壁」
「何だ」
「九条に会うなら、一人で行くな」
「なぜ」
「お前、九条の前だと顔が二つになる」
「昨日言ってた話か」
「そう。刑事と幼なじみ。どっちが喋ってるのか、自分で分からなくなる」
 真壁は何も言わなかった。
 二階堂はそれ以上追及せず、手を上げて去っていった。
 午後、真壁は榎本理沙の勤務先へ向かった。
 郊外の介護施設だった。
 榎本は夜勤明けで、職員用の休憩室にいた。
 写真よりもさらに痩せて見えた。髪は後ろで一つに結ばれ、手には細かな傷があった。介護職の人間の手だった。
 真壁が名乗ると、榎本は驚かなかった。
「いつか来ると思っていました」
「御堂聖真氏の件です」
「でしょうね」
 榎本は椅子に座ったまま、湯飲みを両手で包んでいる。
「御堂氏を恨んでいましたか」
 真壁は単刀直入に聞いた。
 榎本は少し笑った。
「恨んでいないと言ったら、信じますか」
「いいえ」
「じゃあ、恨んでいました」
 声は乾いていた。
「あの人が息子を直接殺したわけじゃありません。でも、あの人の言葉が息子を病院から遠ざけた。薬より祈りを、医者より浄化を、熱は魂の汚れが出ているだけだと。私はそれを信じた」
 榎本は湯飲みを見つめた。
「息子は七歳でした」
 部屋の外から、介護施設の呼び出し音が聞こえた。
 誰かが廊下を歩く足音。
 日常の音が、会話の重さを際立たせる。
「御堂氏を殺したいと思ったことは」
「何度もあります」
「実行しましたか」
「していません」
「事件当日のアリバイは」
「夜勤でした。ここにいました。職員も利用者もいます。確認してください」
「確認します」
「どうぞ」
 榎本は真壁を見た。
「御堂は苦しんで死んだんですか」
 真壁は答えなかった。
「ニュースで見ました。焼けたって。死因を誤るなって」
「捜査中です」
「苦しんだなら、少しは救われると思いました」
 榎本の声は静かだった。
「そんなことを思う自分が嫌です。でも思いました。息子も苦しかったはずだから」
 真壁は、九条の言葉を思い出した。
 恨みという言葉は、便利すぎる。
 榎本の中にあるものは、確かに恨みだった。
 だが、それだけではなかった。後悔、罪悪感、失った時間、信じてしまった自分への怒り。
 それらを全部まとめて恨みと呼べば、簡単すぎる。
「御津窪集落火災について知っていますか」
 真壁が聞くと、榎本は頷いた。
「被害者の会で聞きました」
「現地へ行ったことは」
「あります。三年前、会の人たちと。花を置きに行きました」
「土や灰を持ち帰ったことは」
 榎本は少し眉をひそめた。
「ありません」
「同行者の中には?」
「分かりません。みんな、何かを持って帰りたそうな顔はしていました。石とか、土とか、そういうものを。でも私は持って帰りませんでした」
「なぜ」
「持って帰ったら、終われなくなる気がしたからです」
 その言葉は、真壁の胸に残った。
 終われなくなる。
 灰を持ち帰った者は、終わらせたくなかったのかもしれない。
 あるいは、終わっていないことを示したかったのかもしれない。
 榎本には夜勤の記録があった。事件当時、施設内にいたことを複数の職員が証言した。アリバイは強い。
 次に、真壁は森塚秋人を訪ねた。
 土木会社の資材置き場で、森塚は重機の点検をしていた。大柄な男だった。腕は太く、日に焼けた皮膚に太い血管が浮き出る。真壁が御津窪の名を出すと、森塚は工具を置いた。
「またその話か」
「また?」
「記者にも聞かれた。警察にも昔聞かれた。教団にも釘を刺された」
「教団に?」
「白胎会の連中だよ。御津窪の名前を出すなってな」
 森塚は吐き捨てるように言った。
「あなたは御津窪で親族を亡くしている」
「母方の叔母だ。正確には、血が繋がっていたらしい、って程度だ。俺は会ったこともない」
「それでも反対運動に参加している」
「白胎会が新しい施設を建てるって聞いたからだ。あいつらは、焼けた上にまた建てる。何度でもな」
「御堂氏を殺したいと思ったことは」
 森塚は真壁を睨んだ。
「思ったら殺したことになるのか」
「なりません」
「なら何度も思った」
「事件当日は」
「現場で夜勤だった。道路工事だ。作業員全員がいる」
「確認します」
「しろよ」
「御津窪の土を持ち帰ったことは」
 森塚の表情が変わった。
 ほんの少しだったが、真壁には分かった。
「ありますね」
 森塚は黙った。
「何のために」
「墓みたいなもんだ」
「墓?」
「あそこには、墓も何もない。誰がどこで死んだかも分からない。だったら、土くらい持って帰ってもいいだろ」
「いつ」
「忘れた。最近だと去年だな」
「どこに保管していますか」
「家だ」
「見せてもらいます」
 森塚は一度だけ舌打ちしたが、拒まなかった。
 森塚の自宅からは、小さな瓶に入った土が見つかった。
 量は少ない。礼拝堂に撒かれた量には足りない。
 アリバイも、道路工事の記録と複数証言でおおむね成立した。
 だが森塚は、灰を持ち帰る人間がいるという事実を示した。
 御津窪の土は、誰かにとってただの土ではなかった。
 夕方、真壁は二階堂と合流し、黒住景介に会った。
 場所は、白胎会の系列ビルの応接室だった。
 黒住側から、警察への協力のために使ってほしいと申し出があったという。真壁はその時点で、すでに気に入らなかった。捜査員を自分の用意した部屋へ通す人間は、会話の枠組みも用意している。
 応接室は、宗教法人の施設というより、外資系企業の会議室に近かった。白い壁、磨かれたテーブル、無駄のない照明。壁には御堂聖真の写真はない。代わりに、白胎会が運営する高齢者施設や児童支援施設の写真が並んでいた。
 黒住景介は、立ち上がって二人を迎えた。
「お忙しい中、ありがとうございます」
 声は穏やかだった。
 悲嘆も動揺も見せない。だが、冷たいわけではない。相手が不快に思わない程度に、きちんと沈痛な表情を作っている。
 二階堂が隣で、わずかに目を細めた。
 広報の顔を見ている顔だった。
「警察に協力するのは当然です」
 黒住は椅子を勧めながら言った。
「御堂先生の死は、当会にとって大きな痛手です。しかし同時に、私たちは過去を含めて、事実と向き合わなければならない時期に来ているのだと思います」
「過去とは、御津窪集落火災のことですか」
 真壁が聞くと、黒住はためらわず頷いた。
「ええ」
 早い。
 真壁はそう思った。
 普通なら、まず否定する。
 少なくとも、慎重に言葉を選ぶ。
 だが黒住は、自分から御津窪へ踏み込んだ。
「あの件について、当会は長く沈黙しすぎました」
「当会、ですか」
「正確には、光胎寮時代の出来事です。ただし、現在の白胎会がその歴史から完全に自由であるとは、私は考えていません」
 二階堂が静かに言った。
「理事としては、かなり踏み込んだ発言ですね」
「必要なことです」
 黒住は二階堂を見た。
「御堂先生の時代は終わりました。これからは、信仰も組織も、社会に対して説明責任を果たさなければなりません」
 言葉が整いすぎている。
 真壁は、黒住の手元を見た。
 指は揃えられ、机の上に置かれている。動揺を隠す仕草はない。爪も整えられている。
「御堂氏の死によって、あなたは後継代表の有力候補になっていますね」
「そのような話をする段階ではありません」
「否定はしない」
「組織を守る責任はあります」
「御堂氏が生きていては、その改革は難しかった」
 黒住は、初めて少しだけ沈黙した。
 だがそれも短かった。
「御堂先生は偉大な方でした。しかし、偉大さは時に組織を止めます」
 二階堂が小さく息を吐いた。
「ずいぶん正直ですね」
「隠しても仕方ありません。警察にはすべてお話しします」
「すべて?」
 真壁が聞いた。
「はい。御堂先生の私的資料、光胎寮時代の旧資料、仁科理事が管理していた書庫、静思室の鍵管理記録、警備映像のバックアップ。必要であれば、任意で提出します」
「仁科理事の資料もですか」
「仁科理事は、御堂先生の最も古い側近です。御津窪を含む過去のことについて、私より多くを知っているはずです」
「あなたは仁科理事を切るつもりですか」
 真壁が言うと、黒住は少し困ったように眉を下げた。
「切る、という表現は適切ではありません」
「では」
「責任の所在を明らかにする必要があります」
「御堂氏と仁科理事に、ですか」
「事実がそう示すなら」
「白胎会全体ではなく?」
 黒住は、真壁をまっすぐ見た。
「組織を存続させるには、罪を曖昧にしてはいけません」
 二階堂が低く言った。
「罪を個人に集約することも、組織を存続させる方法ですね」
 黒住は二階堂を見た。
 穏やかな表情は変わらない。
「広報の方は、言葉に敏感ですね」
「仕事です」
「では、こう言い換えましょう。私は、白胎会を御堂聖真個人の影から解放したい」
 部屋の空気が少し冷えた。
 真壁は、黒住の顔を見た。
 この男は、御堂の死を悼んでいるのではない。
 御堂の死によって開いた隙間を、すでに測っている。
「御堂氏を殺したいと思ったことは」
 真壁は聞いた。
 黒住は、わずかに目を伏せた。
「ありません」
「本当に?」
「私は、御堂先生に退いていただきたいとは思っていました」
「死んでほしいとは?」
「死は望んでいません」
「だが、御堂氏が死んだことで、あなたの構想は進みやすくなった」
「結果としては」
 黒住は否定しなかった。
「御津窪が掘られることも、あなたにとっては利益になる」
「痛みを伴う利益です」
「利益ではある」
 黒住は、少しだけ黙った。
「ええ」
 その率直さが、逆に不気味だった。
 黒住は隠さない。
 隠さないことで、自分を誠実に見せている。
 二階堂が言った。
「事件当日の午前四時十分から四時二十五分、あなたはどこにいましたか」
「宿泊棟の自室です」
「証明できますか」
「廊下のカメラには、四時五分に自室へ入る姿が映っています。四時三十七分に出ています」
「中で何を?」
「祈っていました」
「一人で?」
「ええ」
「御堂氏が静思室に入る時刻を知っていましたね」
「当然です。早朝礼拝の流れは、理事であれば誰でも知っています」
「静思室の構造も?」
「知っています」
「浄幕の運用も?」
「当然です。早朝礼拝の式次第に含まれますから」
「予備鍵の管理も?」
「理事として、制度上は知っています」
「鍵の複製はありますか」
「ありません」
「作ろうと思えば?」
 黒住は真壁を見た。
「制度上は不可能です」
「現実には」
 黒住は薄く笑った。
「刑事の方は、制度をあまり信じないのですね」
「制度を悪用する人間を見てきたので」
「なるほど」
 黒住は穏やかに頷いた。
「では、現実としても、私は鍵を複製していません」
「御津窪へ行ったことは」
「あります」
 即答だった。
「いつ」
「二年前です。再生委員会の準備のために、光胎寮時代の施設跡を確認しました」
「土を持ち帰ったことは」
「ありません」
「同行者は」
「私の秘書と、施設管理部の職員が一名」
「確認します」
「どうぞ」
 黒住は、まるでその質問が来ることを知っていたように答えていく。
 早い。
 整っている。
 協力的すぎる。
「黒住さん」
 二階堂が言った。
「あなたは警察に協力している。それは分かります。でも、協力の仕方が早すぎる」
「早すぎる?」
「普通、宗教法人の理事はここまで出しません。弁護士が止める。信者への影響を考える。内部の反発を恐れる。あなたはそれを飛ばしている」
「時間がないからです」
「何の?」
「白胎会が、御堂先生の死と一緒に沈む前に、新しい形を示すための時間です」
 二階堂は黒住を見た。
「あなたは、御堂氏の死を利用していますね」
 黒住は、すぐには答えなかった。
 それまで流れるように答えていた男が、初めて慎重になった。
「利用という言葉は、残酷です」
「否定は?」
「しません」
 真壁は黒住を見た。
 否定しない。
 この男は、否定しないことで自分を強く見せている。
 御堂の死で利益を得る。
 御津窪が掘られても利益がある。
 警察に協力することで、旧体制を切れる。
 それを隠そうとしない。
 だが、殺していないと言う。
「御堂氏を殺していないと?」
「殺していません」
「灰を撒いていない」
「撒いていません」
「匿名投稿も?」
「していません」
「誰がやったと思いますか」
 黒住は少しだけ目を伏せた。
「御堂先生の過去に、深く傷つけられた方でしょう」
「それは誰ですか」
「分かりません」
「九条雅紀という名前に心当たりは」
 黒住の目が、ほんの一瞬だけ動いた。
 真壁は見た。
 二階堂も見た。
「法医学の先生ですね」
「それだけですか」
「御津窪の生存者に、九条姓の女性がいたことは知っています」
「いつ知りました」
「再生委員会の準備過程で」
「九条雅紀と結びつけましたか」
 黒住は沈黙した。
 その沈黙は、これまでで最も長かった。
「結びつけました」
「いつ」
「御堂先生の死後です」
「本当に?」
「ええ」
 二階堂が言った。
「あなたなら、九条先生の存在を使えますね」
「使う?」
「御津窪の生存者の子。法医学者。御堂の死因を見る男。世間が好きそうな構図です」
 黒住は静かに二階堂を見た。
「私は、人を道具にするつもりはありません」
「教団の理事がそれを言うと、少し皮肉ですね」
 黒住は怒らなかった。
 ただ、少しだけ寂しそうな顔をした。
「だからこそ、変えたいのです」
 その表情が本物かどうか、真壁には判断できなかった。
 判断できないからこそ、危険だった。
 応接室を出ると、二階堂はすぐに言った。
「嫌いだわ、ああいうの」
「珍しく感情的だな」
「感情じゃない。職業的嫌悪だ」
「どう見る」
「黒住は犯人でもおかしくない。犯人じゃなくても、この事件を使う」
「同感だ」
「九条と違う意味で危ない。九条は死因に取り憑かれている。黒住は死後の物語を設計している」
「御堂を殺す動機もある」
「ある。しかも御津窪を掘らせても損だけじゃない。御堂一人、仁科一人に責任を押しつけて、自分は改革者になる。悪くない筋書きだ」
「警察に協力的すぎる」
「こっちが開けたい箱を、自分で差し出してくる奴は要注意だ。中身を選んでる」
 真壁は頷いた。
 黒住景介。
 容疑者の中で、初めて九条と並べて考えられる人物だった。
 九条が過去の灰から御堂を殺すなら、黒住は未来の白胎会のために御堂を殺す。
 真壁は、その二択を頭の中に置いた。
 どちらも嫌だった。
 その日の夜、真壁は捜査本部へ戻った。
 机には、二階堂からのメモが置かれていた。
いつも使っている濃紺のボールペンのインクがこちらを見ている。
 早瀬遼。
 事件前夜、白胎会本部周辺にいた可能性あり。
 本人は否定。
 匿名投稿との文体類似あり。
 ただし決定打なし。
 別紙には、黒住景介についての追加報告。
 事件当日、施設内にいた。
 御堂の早朝礼拝の予定を知っていた。
 静思室の予備鍵管理、浄幕の運用、法衣櫃の扱いにも関与可能。
 御堂死亡後の権力継承で利益あり。
 御津窪情報が燃えても、旧体制切りの材料になりうる。
 仁科重光の職務停止案を事前作成。
 警察への任意提出資料を事件前から整理していた疑い。
 真壁は、その一行で手を止めた。
 事件前から整理していた疑い。
 黒住は、御堂が死ぬ前から、御堂後を準備していた。
 それ自体は、組織人としてありえないことではない。
 老いた教祖の後継問題。
 巨大宗教法人の運営。
 内部派閥。
 誰でも準備はする。
 だが、このタイミングでは違って見える。
 準備していたのか。
 それとも、起こることを知っていたのか。
 真壁は椅子に座り、目を閉じた。
 容疑者は増えた。
 九条だけではない。
 だが事件の輪郭は、むしろ濃くなった。
 灰をまいた者は、過去を使った。
 過去を使うことで利益を得る者がいる。
 九条。
 黒住。
 そして、まだ見えない誰か。
 その時、机の上の内線が鳴った。
「本庁真壁です」
『九条先生が来ています』
 受付からだった。
「どこに」
『資料室前です。真壁さんに会いたいと』
 真壁は目を開けた。
 九条から会いに来ることは少ない。
 嫌な予感がした。
「通してくれ」
 数分後、九条が捜査本部の隅に現れた。
 黒いコート。
 白い髪。
 表情は変わらない。
 室内の刑事たちが、ちらちらと九条を見る。
 九条はそれを気にしない。真壁の机の前まで来て、封筒を一つ置いた。
「何だ」
 真壁が聞く。
「灰の所見」
「鑑識から受け取った」
「法医学的な意味ではない」
「どういう意味だ」
 九条は封筒を指で押した。
「御堂の遺体の付着物と、現場の灰を比較した。灰は死体の周囲に撒かれただけではない。少量だが、御堂の衣服の内側にも入り込んでいる」
「それが何を意味する」
「火災後に撒いただけなら、入りにくい位置だ」
 真壁は封筒を開けた。
「つまり、灰は燃焼前、または燃焼中に近い段階でそこにあった」
「そう考えられる」
「犯人は御堂を御津窪の灰の中で焼いた」
 九条は頷かなかった。
 だが否定もしなかった。
「死体の周囲に飾ったんじゃない」
 真壁は言った。
「灰そのものを、死の環境にした」
「そうだ」
 真壁は九条を見た。
「お前、これを言いに来たのか」
「ああ」
「なぜ」
「誤ると困る」
「何を」
「灰の意味だ」
 またそれか、と言いかけて、真壁は止めた。
 九条は本当に、それだけを言いに来たように見える。
 灰が演出ではなく、死の一部だった。
 それを誤るな、と。
「九条」
「何だ」
「榎本も森塚も、御津窪の土を知っていた。早瀬も可能性がある。黒住も御津窪へ行っている。容疑者は複数いる」
「そうだろうな」
「黒住景介をどう見る」
 九条の目が、わずかに動いた。
「白胎会の理事か」
「御堂の後継候補だ。御堂を殺す利益がある。御津窪を掘らせても、旧体制を御堂と仁科に押しつければ利益がある。警察に協力的すぎる。静思室も知っている」
「合理的だな」
「それだけか」
「御堂を殺す理由はある」
「御津窪の灰を使う理由もある」
「ある」
「九条、お前よりも犯人らしいかもしれない」
 九条は、そこで真壁を見た。
 表情は変わらなかった。
「そう」
「それだけか」
「容疑者が増えるのは、捜査としては悪くない」
 二階堂がいれば、今の言い方に何か言っただろう。
 真壁は思った。
 九条は自分が疑われていることを気にしていない。
 あるいは、気にしないようにしている。
「動機だけで見れば、全員に可能性がある」
 九条は続けた。
「榎本は子を失った。森塚は土地の記憶を抱えている。早瀬は情報を燃やせる。黒住は組織を作り替えられる」
「お前は」
 真壁が言うと、九条は少し黙った。
「俺は死因を読む」
「それが一番危ないんだよ」
 九条は答えなかった。
「動機以外では」
 真壁は問いを戻した。
「御堂の死因を選んだ理由を見るべきだ」
「焼死を選んだ理由」
「違う」
 九条は静かに言った。
「呼吸を奪う死を選んだ理由」
 真壁は黙った。
「御堂はただ燃やされたのではない。煙を吸っている。逃げられない状態で、呼吸を奪われた」
「御津窪の再現か」
「可能性は高い」
「誰がそれを知っていた」
「御津窪の記録を読めば、推測できる」
「お前は記録で読んだのか」
 九条は答えなかった。
 真壁はその沈黙を見た。
「母親の記録か」
 九条は、わずかに視線を落とした。
 それが答えだった。
 真壁は声を抑えた。
「お前は、父親がどう死んだか知っているんだな」
 九条はしばらく黙った。
 そして言った。
「父は病死ではなかった」
 それは、問いへの直接の答えではなかった。
 だが真壁には十分だった。
「三歳の頃、お前は合歓さんに聞いていた」
 九条の目が動いた。
「覚えてるのか」
「断片的に」
「そうか」
「合歓さんは言った。お父さんは息ができなくなって死んだんだよ、と」
 九条は、何も言わなかった。
「俺は病気だと思った。お前もそう思ってたのか」
「子どもだった」
「いつ違うと知った」
「母が死んでからだ」
 同じ答えだった。
 だが今回は、その奥にある痛みが少しだけ見えた。
 真壁は、聞いてはいけないことを聞いているのかもしれないと思った。
 だが、聞かなければならないことでもあった。
「記録には何があった」
「今は事件と関係ない」
「ある」
「ない」
「御堂の死因と同じだ」
 九条の目が、真壁を捉えた。
「同じではない」
「何が違う」
「御堂には、理由が与えられた」
 真壁は言葉を失った。
 それは、あまりに重い言葉だった。
 父には理由も分からなかった。
 村人たちにも分からなかった。
 火に囲まれ、煙を吸い、呼吸を奪われた。
 誰が、なぜ、自分たちを殺すのか分からないまま死んだ。
 御堂には、犯人が意味を与えた。
 挑戦状を出し、灰を置き、死因を見せた。
 九条は、そう言っている。
「九条」
「何」
「今の言葉、犯人に近すぎる」
「所見だ」
「違う」
「違わない」
「お前の中では、御堂の死は父親の死と並んでいる」
 九条は黙った。
「それが危ないと言ってる」
「危ないのは、死因を物語にすることだ」
「お前もしてる」
 真壁の言葉に、九条は初めて少しだけ息を止めた。
「俺が?」
「そうだ」
 真壁は静かに続けた。
「父親の死。母親の死。御津窪の死。御堂の死。全部を死因で結びつけてる。それはお前の見方だ。事実かもしれない。だが、お前の物語でもある」
 九条は長く黙った。
 その沈黙は、今までで一番長かった。
 やがて九条は言った。
「なら、お前が切り分けろ」
「何?」
「刑事だろ」
 九条の声は冷たかった。
「俺の物語と、死者の事実を切り分けろ」
 真壁は何も言えなかった。
 九条は封筒を机に残し、踵を返した。
「九条」
 呼び止めると、九条は振り返った。
「勝手に動くなと言ったはずだ」
「動いていない。所見を届けただけ」
「そういうところだ」
「どういうところだ」
「自分がどこまで踏み込んでいるか分かってない」
 九条は少しだけ目を細めた。
「分かっている」
「なら離れろ」
「離れたら、誤る」
「お前が近すぎるから誤ることもある」
 九条は答えなかった。
 そのまま部屋を出ていった。
 真壁は机の上の封筒を見つめた。
 灰は、死の環境だった。
 犯人は御堂を、御津窪の灰の中で死なせた。
 それは単なる演出ではなく、死因の一部。
 九条はその意味を誤らせまいとしている。
 だが真壁には、もう別の疑問が消せなかった。
 九条は、誤らせたくないだけなのか。
 それとも、犯人が誤らせないように残したものを、正しく読んでいるのか。
 あるいは。
 それを残した本人なのか。
 夜、二階堂から連絡が入った。
『早瀬の件、面白くないものが出た』
「何だ」
『事件前夜、白胎会本部近くのコンビニ防犯カメラに映ってた。本人は取材だと言ってる』
「取材ならなぜ隠した」
『白胎会に警戒されるから、だそうだ。怪しいが、犯人にしては雑だ』
「匿名投稿は」
『文体は似てる。だが本人の端末からは今のところ出てない』
「黒住は」
『もっと面白くない』
「何が出た」
『黒住の秘書が、事件の三日前に御津窪へ行ってる。本人は、再生委員会の資料確認だと説明している』
 真壁の手が止まった。
「灰は」
『そこまではまだ。ただ、御津窪へ行った事実は出た。しかも黒住は、それをこっちが聞く前に認める準備をしていた』
「協力的すぎる」
『ああ。黒住が犯人なら、かなり腹が据わってる。犯人じゃなくても、事件を使う気は満々だ』
「匿名投稿は」
『黒住本人との接点はまだない。ただし、黒住の周辺に広報コンサルがいる。元ネット選挙屋だ。情報拡散はできる』
「共犯か」
『あるいは、犯人と情報発信者が別』
 真壁は黙った。
『真壁?』
「聞いてる」
『九条は?』
「さっき来た」
『何しに』
「灰の所見を持ってきた」
『頼んだのか』
「いや」
 二階堂は電話の向こうで短く息を吐いた。
『動いてるな』
「ああ」
『お前、止められるか』
「止める」
『できるかじゃなくて?』
「止める」
 二階堂は少し黙った。
『そうか』
「何だ」
『いや。お前がそう言う時は、大体止められない』
「うるさい」
『三回目だな』
 真壁は電話を切ろうとして、思い直した。
「二階堂」
『何だ』
「灰は演出じゃなかった。御堂の衣服の内側にも入っていた」
『つまり?』
「御堂は、御津窪の灰の中で死んだ」
 電話の向こうが静かになった。
『犯人、そこまでやったのか』
「ああ」
『真壁』
「何だ」
『それ、九条にとってはどういう意味になる』
 真壁は答えられなかった。
 御津窪の灰。
 父が死んだ場所。
 村人が死んだ場所。
 母が遺体にラベルを貼った場所。
 その灰の中で、御堂は死んだ。
 九条にとって、それは何なのか。
 復讐か。
 死因の訂正か。
 死者への供物か。
 それとも、犯人が九条へ向けて置いたメッセージか。
「分からない」
 真壁は言った。
『分からないなら、急げ』
「なぜ」
『二通目が来る』
 その言葉の直後、二階堂の声が途切れた。
 数秒後、画像が送られてきた。
 匿名アカウントの新しい投稿だった。
 《二度目は、声を奪った者》
 添付画像には、古い死亡検案書の一部が写っていた。
 氏名欄は黒塗り。
 死因欄には、かろうじて読める文字。
 若年性脳梗塞。
 その下に、署名。
 鷲尾貞成。
 真壁は、携帯を握ったまま動けなかった。
 御堂は、息を奪った者。
 鷲尾は、声を奪った者。
 なら、次に狙われるのは。
 真壁は立ち上がった。
 椅子が床を鳴らす。
「三谷さん!」
 捜査本部にいた三谷が顔を上げた。
「鷲尾貞成の所在確認。今すぐだ。自宅、勤務先、関係先、全部」
「はい!」
「二階堂、鷲尾の情報をメディアに出すな。絶対にだ」
 電話の向こうで二階堂が答える。
『もう動いてる』
「九条には」
『知らせるな、って言いたいところだが』
 二階堂の声が低くなる。
『たぶん、もう知ってる』
 真壁は部屋の入口へ向かった。
 廊下に出た瞬間、向こうから九条が歩いてくるのが見えた。
 白い髪。
 黒いコート。
 いつもと変わらない足取り。
 真壁は立ち止まった。
 九条も足を止めた。
 二人の間に、廊下の白い光が落ちている。
「鷲尾の投稿を見たか」
 真壁が聞いた。
 九条は答えた。
「ああ」
「どこへ行く」
「鷲尾の死因を誤らせないために」
「まだ死んでない」
 九条は、真壁を見た。
「なら急げ」
 その声に、感情はなかった。
 だからこそ、真壁はぞっとした。
 九条は鷲尾が死ぬことを知っているのか。
 それとも、ただ次の死者を読んでいるだけなのか。
 廊下の向こうで、誰かが叫んだ。
「鷲尾貞成、連絡取れません!」
 真壁は九条から目を離さずに、低く言った。
「今度は俺の指示で動け」
 九条は短く答えた。
「分かった」
「本当に分かってるのか」
「今はな」
 その返事を聞いて、真壁は悟った。
 事件は、御堂の灰から次の死へ移った。
 そして九条は、そこから離れる気がない。
 灰をまいた者は、御堂の死体の周囲に過去を置いた。
 今度は、母の死因欄を置こうとしている。
 黒住景介は、教団の未来を組み替えるためにその火を利用しようとしている。
 九条雅紀は、死因を誤らせないためにその火から目を離さない。
 どちらが犯人なのか。
 あるいは、どちらも犯人ではないのか。
 答えはまだ、灰の中にあった。
 真壁は走り出した。
 背後から、九条の足音が続いた。