古い事件は、紙の中で乾いている。
真壁彰は、そう思っていた。
事件が起きた直後、現場には匂いがある。血の匂い、薬品の匂い、雨に濡れた土の匂い、焦げた木材の匂い。人の声もある。怒鳴り声、泣き声、言い訳、沈黙。そういうものに囲まれているうちは、事件はまだ生きている。
けれど時間が経てば、すべては紙に移る。
調書。検案書。実況見分調書。新聞記事。行政文書。戸籍。住民票。消防記録。写真台帳。
そこに残るのは、乾いた言葉だ。
死亡。
焼損。
不詳。
確認不能。
出火原因調査中。
事件性なし。
処理済み。
紙に移された死は、時々、本当に死んでしまう。
もう誰も触れなくなり、誰も疑わなくなり、誰も怒らなくなる。
残された言葉だけが、正しかったふりをして棚に眠る。
御堂聖真が焼死した翌朝、真壁は県警合同捜査本部の資料室にいた。
前夜、二階堂が拾った匿名投稿が引き金になった。
《光は灰を知らない。灰は名を覚えている》
添付された古い新聞記事の切り抜き。
焼けた名札のようなもの。
かすれて読めた二文字。
九条。
それが偶然である可能性は、低かった。
真壁は、眠っていなかった。
二階堂もほとんど眠っていないはずだ。九条が眠ったかどうかは分からない。そもそも、あの男が眠っているところを真壁はほとんど見たことがない。小学生の頃、道場帰りに九条の家へ寄った時も、夜中に救急車が来た時も、母親が死んだ冬の朝も、九条はいつもどこか起きていた。目を開けて、何かを見ていた。
今もそうなのだろう。
真壁は資料室の机に、二十九年前の新聞縮刷版を積み上げた。
県警の三谷が、眠そうな目をこすりながら端末を操作している。
「真壁さん、該当しそうなのは三件です」
「全部出してくれ」
「山間部の集落火災、三十二名死亡、行方不明二名、宗教団体関係の疑い。この条件だと、一番近いのが二十九年前の御津窪集落火災です」
「御津窪」
真壁はその地名を繰り返した。
聞いたことのない名前だった。
だが、聞いたことがないという事実が、すでに奇妙だった。
三十二人が死亡し、二人が行方不明になった集落火災。宗教団体との関連疑惑。そんな事件なら、もっと記憶に残っていてもいい。少なくとも、警察官である自分がまったく知らないのは不自然だった。
いや、不自然ではないのかもしれない。
世間は、忘れる。
事件は、次の事件に押し流される。
報道は数日で別の火元へ移り、記録だけが残る。
紙に移された死は、乾いていく。
三谷がプリントアウトした記事を渡してきた。
地方紙の切り抜きだった。
見出しは小さい。
《山間部集落で火災 三十二人死亡か》
《出火原因は調査中》
《住民の一部、宗教的共同生活か》
写真は粗い。
黒く焼けた斜面と、消防車両らしき影が写っている。人の姿も数人見えるが、顔は判別できない。
真壁は記事を読み始めた。
御津窪集落は、県境に近い山間部にあった小規模集落。住民登録上は三十数名が居住。うち三十二名が死亡、二名が行方不明扱い。唯一、火災発生時にふもとの町の産婦人科へ入院していた若年女性一名が生存。
出火は深夜。
火の回りが早く、住民の多くが逃げ遅れた。
集落内の複数箇所から出火した可能性もあるが、詳細は調査中。
宗教団体「光胎寮」との関連について、警察は慎重に確認している。
「光胎寮」
真壁が呟くと、三谷が別の資料を出した。
「白胎会の前身とされる団体です。ただ、公式には別組織という扱いになっています。光胎寮は火災後に解散。その後、御堂聖真が中心になって白胎会を立ち上げています」
「御堂は当時、光胎寮にいたのか」
「資料上は、指導者の一人です。教祖という表現はまだ使われていません。ただ、信者からは“先生”と呼ばれていたという記述があります」
先生。
真壁は、会見で仁科が口にした言葉を思い出した。
御堂先生。
火の殉教。
不幸な事故。
不幸な事故という言葉は、便利だった。
誰かを責めずに済む。
誰も責任を負わずに済む。
死者に説明を与えたふりができる。
「火災の捜査資料は」
「当該県警の古い保管分を確認中です。ただ、火災として処理された資料はかなり薄いです。消防側の記録のほうが残っているかもしれません」
「薄い?」
「死亡者の身元確認が難航したこと、遺体の損傷が激しかったこと、集落が半ば閉鎖的だったこと、それから……」
三谷は言いにくそうに目を落とした。
「当時、光胎寮側がかなり強く関与を否定しています。住民は信者ではなく、自主的な共同生活者だったと」
「今の白胎会と同じだな」
「はい」
真壁は記事を机に置いた。
資料室の窓にはブラインドが下りている。朝の光は細い線になって床に落ちていた。蛍光灯の白い光と混ざり、室内には時間の感覚が薄かった。
「火災の日付は」
三谷が端末を操作した。
「二月七日です」
「二月七日」
「はい。二十九年前の二月七日未明。通報は午前二時十九分。ただ、現場到着時には集落の大半が燃えていたとあります」
真壁は資料をめくった。
二月七日。
その日付そのものには、まだ意味は見えない。
だが宗教団体が絡む事件で、日付に意味がないと決めつけるのは危険だった。
「光胎寮の教義資料は」
「断片的に残っています。押収資料ではなく、当時の報道資料と公安関係の参考メモですが」
三谷はファイルを開いた。
そこには、黄ばんだコピーが数枚挟まれていた。
《聖暦二七二七年 光の再臨》
《汚れた土地を焼き、光の支部を建てよ》
《灰の下に、真の民が生まれる》
真壁は、その文言を見つめた。
「二七二七年?」
「光胎寮独自の暦のようです。教祖格の人物、当時は御堂氏ではなく創始者がいたようですが、その人物が世界創造から数えた聖暦を使っていたと。御津窪火災があった年が、教義上では“神が地上に光を与えて二七二七年目”とされていたらしいです」
「その年の二月七日に意味は」
「資料には、二は輪を重ねる数字、白胎の原型、という記述があります」
「白胎」
「ええ。後の白胎会の名称にも繋がっている可能性があります」
真壁は指先で資料の端を押さえた。
御堂は偶然その日に村を焼いたのではない。
もし、この資料が正しければ。
その日付には、教義上の意味があった。
二月七日。
聖暦二七二七年。
光の再臨。
汚れた土地。
灰の下に生まれる真の民。
宗教的な飾り文句に見える。
だが、人が死んでいる。
飾りでは済まない。
「火災の前に、集落内で何か動きは」
三谷は別の資料をめくった。
「当時の近隣住民の聞き取りメモがあります。正式な調書ではなく、消防側の参考メモですが……火災の数日前から、見慣れない車が複数台、夜に山道へ入っていた。白いポリタンクを運ぶ男たちを見たという証言があります」
「ポリタンク」
「ただ、光胎寮側は灯油や発電機用燃料の搬入と説明しています。集落は電気設備が不安定だったと」
「なるほどな」
真壁は低く言った。
燃料は、いつでも別の名を持てる。
暖房用。
発電機用。
清掃用。
聖水。
そこまで考えて、真壁は資料に目を戻した。
「聖水という言葉は出てこないか」
三谷は驚いたように顔を上げた。
「どうしてそれを」
「あるのか」
「はい。教義資料の中にあります。“聖水を撒き、穢れを浮かせ、聖火によって土地を開く”という記述が」
真壁は口を閉じた。
聖水。
聖火。
土地を開く。
宗教的な比喩として読めば、それだけだ。
だが火災現場の資料と並べれば、まったく違う意味に見える。
「誰が撒いた」
「記録上は分かりません。ただ、匿名の供述メモがあります」
三谷は声を少し落とした。
「火災後、光胎寮の元信者と見られる人物が新聞社へ持ち込んだメモです。警察資料に写しだけ残っていました。真偽不明として処理されています」
「読め」
三谷はコピーを読み上げた。
「火の夜、幹部たちは白い服を着て、村の四方へ聖水を撒いた。先生は中央の壇に立ち、白胎のしるしが完成するのを待っていた。西の道、北の倉、東の家、南の井戸。火が輪になるように撒けと命じられた」
資料室が静かになった。
三谷の声だけが、乾いた紙の中の言葉を掘り起こしていく。
「聖水は水ではなかった。匂いで分かった。けれど誰も言えなかった。言えば、謀反の者にされる。先生は、謀反の者が混じった土地は焼かなければならないと言った」
真壁は目を閉じなかった。
紙の上の文字を見続けた。
「続けろ」
三谷は喉を鳴らした。
「先生は最後に、光を入れると言った。火を持ったのは先生だった。幹部の一人が火をつける時に足を焼いた。あの人は翌朝、光胎病院へ行った」
「光胎病院」
「光胎寮の関連医療機関です。今の白胎総合医療センターの前身にあたるようです」
真壁は椅子の背にもたれた。
聖水。
ガソリンか灯油か、まだ分からない。
村の四方。
火が輪になるように。
御堂本人が火を持った。
幹部の一人が足を焼いた。
関連病院で診療を受けた。
組織犯罪の輪郭が、紙の中から浮かび上がってくる。
だが、これが正式記録ではなく、真偽不明のメモとして処理されていること自体が、さらに気味悪かった。
「その幹部の名前は」
三谷は資料をめくった。
「メモでは伏せられています。ただ、当時の幹部名簿に該当しそうな人物が三人います。仁科重光、鷲尾貞成、諸橋玄一」
「仁科」
真壁の声が低くなった。
御堂の側近、仁科。
現在の白胎会理事。
「当時、仁科は光胎寮にいたのか」
「はい。若手幹部です」
「鷲尾貞成は」
「医師です。光胎病院に勤務。その後、白胎総合医療センターの副院長を務めています」
真壁は、その名前を頭に入れた。
鷲尾貞成。
御堂。
仁科。
御津窪。
線が増えていく。
増えすぎて、逆に見えにくくなる。
だが、ここで目を逸らすわけにはいかなかった。
「逃げ道はなぜ塞がれた」
三谷は次の資料を出した。
「これも正式記録ではありません。近隣住民の証言メモです。火災前夜、山間の工場爆発と土砂崩れがあったと。加えて通行止めの札もあったようです。理由は落石危険」
「爆発の原因は」
「不明と」
「他の道は」
「山道が二本。ただし、一つは吊り橋が落ちていたとの記録があります。もう一つは谷側へ下りる獣道に近かったようで。死者のうち一名の死因が谷への転落とのこと」
「逃げようとして滑落か」
「おそらく」
「誰かが逃げ道を塞いだ可能性は」
「あります」
「正式記録では」
「触れられていません」
真壁は資料を机に置いた。
逃げ道が塞がれていた。
村の四方に燃料が撒かれていた。
火が輪になるように置かれていた。
御堂が火を放ったというメモがある。
幹部の火傷の記録が、関連病院に残っている可能性がある。
それで、事故。
不幸な事故。
「謀反の者、というのは何だ」
三谷は一瞬、資料の束に目を落とした。
「御津窪火災以前の記録にも、似た表現があります。正確な氏名は黒塗りですが、“白き謀反の者”と書かれている」
「白き?」
「はい。白髪、淡色の眼、日光を避ける体質。現在の医学的には白皮症と考えられる人物です。御津窪出身で、当時の教団に土地の寄進を拒んだ。教義に反する発言をした。人は神に属さない、と」
二階堂の表情が変わった。
「白皮症?」
「と、あります」
「処刑されたのか」
三谷は少し躊躇した。
「資料上の言葉は違います。“光へ還した”“穢れを断った”“神へ返した”。ですが、火災より前に死亡している。遺体の所在は不明。死亡届も確認できません」
「つまり、殺された」
誰も否定しなかった。
三谷は教義資料の一部を見せた。
「火災の数週間前、光胎寮の内部文書に“御津窪に反光の者が紛れている”という記述があります。外部へ教義と資金の実態を漏らした者がいる、と」
「内部告発者か」
「可能性があります」
「それで村ごと浄化?」
「資料上は、そう読めます」
「土地の話は」
三谷はさらに一枚、古い地図を出した。
御津窪の地形図だった。現在の地図には載っていない地名が、そこには細い文字で残っている。集落。水場。古い社。山道。谷へ下りる道。そして赤鉛筆で囲まれた一帯。
「教団側の計画書では、この区域が“御津窪白胎支部建設予定地”になっています」
「火災後か」
「いいえ。火災前の日付です」
二階堂が低く言った。
「先に土地を欲しがってたわけか」
三谷は頷いた。
「ただ、住民側に反対があった。特に反対する人物がいた。名前は黒塗り。教団はその人物を“呪いの人物”とし、さらに御津窪そのものを“呪いの人物が発生する穢れた土地”と位置づけた」
真壁は地図を見た。
呪いの人間が生まれる土地。
穢れた土地。
浄化すべき土地。
その言葉の下にあるものは、信仰だけではなかった。
土地だった。
金だった。
支配だった。
集落に謀反の者がいる。
汚れた土地を浄化する。
浄化した後、支部を建てる。
宗教の言葉と、現実の利益が重なっている。
それが一番たちが悪い。
純粋な狂気なら、まだ説明は簡単だった。
だがこれは違う。
信仰。
支配。
土地。
金。
政治。
全部が絡んでいる。
「行政や警察は、なぜ事故処理した」
三谷は顔を曇らせた。
「ここから先は、かなり扱いが難しいです」
「言え」
「当時、県議会議員の一人が光胎寮の支援者だった可能性があります。表向きは文化団体への寄付者名簿ですが、その議員の後援会幹部に光胎寮関係者が複数います」
「政治家が信者だった?」
「信者という表現は資料にはありません。ただ、御堂氏と並んで写っている写真があります。当時の県議、後の国会議員です」
「金は」
「光胎寮関連の福祉法人から、その議員の政治団体へ献金が流れていた疑いがあります。違法性までは不明です」
「警察は」
「当時の県警幹部の一人が、退職後に白胎会関連の財団へ顧問として入っています」
真壁は、ゆっくり息を吐いた。
やはり、ただの過去ではない。
御津窪集落火災は、単なる事故として乾いたのではない。
乾かされたのだ。
誰かが紙の上で水分を抜き、匂いを消し、死者の声を閉じ込めた。
事件性なし。
処理済み。
その言葉の裏に、組織の手があった。
「生存者の名前は」
三谷が別の紙をめくった。
「報道では伏せられています。警察資料だと……」
そこで三谷の手が止まった。
真壁は顔を上げた。
「どうした」
三谷は紙を見たまま、少しだけ表情を変えた。
「名前が」
「読め」
「九条合歓」
資料室の空気が、一瞬で変わった。
いや、変わったのは真壁の中だけだったのかもしれない。
三谷はその名前の重さを知らない。
二階堂も、まだ部屋にはいない。
九条本人は、ここにいない。
だが真壁にとって、その四文字は遠い過去から突然手を伸ばしてきた。
九条合歓。
ねむ。
幼い頃、真壁はその名前を変な名前だと思ったことがある。
九条の母親は、いつも自分の名前を少し照れくさそうに言った。
近所の大人に「珍しい名前ね」と言われると、へへ、と笑っていた。笑い方も若かった。母親というより、少し年の離れた姉のように見えることがあった。髪をきちんと結んでいる日もあれば、寝癖のまま出てくる日もあった。靴の紐がほどけていることに気づかず、買い物袋から長ネギと薬の袋と学校のプリントを一緒に落としたこともある。
危なっかしい人だった。
だが、九条のことになると違った。
夜中、斜め前の古い平屋の戸が開く音がする。
駆ける足音。
真壁家の玄関を叩く音。
すみません、すみません、雅紀が。
九条が喘息の発作を起こした夜、合歓は何度も真壁家へ来た。髪も服も乱れ、上着のボタンがずれていても、九条を背負う腕だけは離さなかった。何を持ってくるべきか分からず、タオルと財布と使いかけの吸入器と、なぜかスーパーのレシートまで袋に詰めていた。だが、必要なものが何もないわけではなかった。水、薬、保険証、メモ帳。順番はめちゃくちゃでも、九条を助けるためのものだけは、どこかに入っていた。
真壁の母親はよく言っていた。
合歓ちゃんは危なっかしいけど、雅紀のことだけは外さないね。
真壁は、その言葉の意味を大人になるまでよく分かっていなかった。
今、ようやく分かる気がした。
合歓は、最初から外の世界で生きるための知識を持っていなかった。
それでも九条を抱えて、外へ出てきた。
たった一人生き残り、赤ん坊を抱いて、知らない町へ来た。
あの古い平屋へ。
「真壁さん?」
三谷の声で、真壁は現実へ戻った。
「ああ」
「この名前、何か」
「知っている」
「関係者ですか」
「九条雅紀の母親だ」
三谷の顔に驚きが浮かんだ。
「九条先生の?」
「そうだ」
三谷は資料を見直した。
「では、唯一の生存者というのは」
「九条の母親だ」
言葉にすると、さらに重くなった。
御堂聖真の焼死。
礼拝堂の灰。
山から来る灰。
御津窪集落火災。
唯一の生存者、九条合歓。
線は、はっきりしすぎていた。
真壁はしばらく机の上の資料を見つめた。
刑事としてなら、次に考えるべきことは明白だった。
九条雅紀は、この事実を知っていたのか。
知っていたなら、なぜ黙っていたのか。
知らなかったなら、御堂の事件とどう接続するのか。
そして、挑戦状を真壁に送った犯人は、なぜ九条の母へ辿り着く導線を作ったのか。
だが、真壁の中には刑事ではない声もあった。
あいつに、何があったんだ。
それは、幼なじみとしての声だった。
九条は、父親が生後すぐ死んだとだけ言っていた。いや、正確には、九条自身が語ったことはほとんどない。周囲の大人がそう言い、真壁もそう理解していただけだ。
父親は早くに亡くなった。
母親と二人で、斜め前の古い平屋に住んでいる。
親戚はいない。
母親は若く、仕事を掛け持ちし、九条は幼い頃から家計のことを気にする。
それが真壁の知っている九条だった。
だが、その背後に村があった。
焼かれた村が。
宗教団体が。
御堂聖真が。
真壁は、記事の端を指で押さえた。
「三谷さん。消防記録を急いだほうがいい。それと当時の捜査関係者を洗う。退職者も含めてです」
「はい」
「光胎寮の資料も。白胎会への組織移行、御堂の役職、幹部名簿、当時の顧問弁護士、関連医療機関」
「医療機関もですか」
「生存者は産婦人科に入院していた。それに、火傷した幹部が光胎病院へ行ったというメモがある。診療記録が残っているかもしれない」
「二十九年前ですよ」
「残っていなくても、廃棄記録がある。病院の承継先も調べてくれ。白胎総合医療センターだ。管轄の刑事でもないのにあれこれ指示してすまないが」
「いえ、本庁捜査一課へ参加要請をしたのはこちらなので、それは」
「わかった。それと、この資料はまだ外に出さないほうがいい」
三谷は頷いた。
だが、真壁は自分で言いながら、それがほとんど意味のない指示だと分かっていた。
すでに情報は流れている。
匿名アカウントは、九条の名札の画像を出した。
次は九条合歓の名前が出るだろう。
出す気なら、いつでも出せる。
誰かが、順番を決めている。
真壁は資料室を出た。
廊下の向こうから、二階堂が電話をしながら戻ってきた。
目の下に薄い影がある。片手には紙の束、もう片方の手にはスマートフォン。電話口では落ち着いた声を保っていたが、真壁と目が合った瞬間、顔つきが変わった。
「また後で折り返します」
そう言って通話を切る。
「出たか」
二階堂が聞いた。
「何が」
「九条合歓」
真壁は少しだけ眉を動かした。
「もう知ってるのか」
「ネットにはまだフルネームは出てない。だが、匿名アカウントが次の投稿を匂わせてる。“唯一の生存者は、白い子を抱いて山を下りた”だと」
「白い子」
二階堂は真壁の表情を見て、声を低くした。
「九条だな」
「おそらく」
「おそらくじゃないだろ」
真壁は答えなかった。
二階堂は周囲を見て、人気のない会議室へ真壁を引っ張った。
扉を閉める。
「資料は?」
真壁は持っていたコピーを机に置いた。
二階堂はそれを読み、途中で小さく息を吐いた。
「九条の母親が唯一の生存者」
「ああ」
「御堂は当時、光胎寮の指導者」
「ああ」
「村は事故扱いに近い形で処理」
「少なくとも資料は薄い」
「それで今回、御堂は火で死んだ。現場には山の灰。挑戦状は“死因を誤るな”」
二階堂は資料を机に置いた。
「できすぎてる」
「そうだな」
「できすぎてる時は、大抵誰かができるように置いてる」
「お前もそう見るか」
「広報でも刑事でもなく、普通に見てそう思う」
二階堂は椅子に座り、額を押さえた。
だが、次の瞬間には資料の別の束へ目を移した。
「これ、何だ」
「教義資料と匿名供述メモだ」
二階堂は素早く読んだ。
聖暦二七二七年。
二月七日。
聖水。
聖火。
白胎のしるし。
謀反の者。
御津窪白胎支部建設予定地。
幹部の火傷。
光胎病院。
政治献金。
県警幹部の再就職。
二階堂の顔から、いつもの軽さが消えた。
「思ったより悪いな」
「ああ」
「これ、ただの宗教事件じゃない。土地と金と政治が絡んでる」
「そう見える」
「御津窪は、教義で焼かれたんじゃない。教義を使って焼かれたんだ」
真壁は二階堂を見た。
二階堂の言葉は、広報官のものではなかった。
だが、的確だった。
「土地が欲しかった。内部告発者を消したかった。教義上の節目を利用した。火を浄化と言い換えた。行政と警察には政治の圧があった。関連病院で証拠になりそうな火傷も処理した。そういう構図だろ」
「まだ証明はできない」
「分かってる。だが、臭いがする」
二階堂は資料を机に置いた。
「九条に聞いたのか」
「まだだ」
「聞けよ」
「聞く」
「真壁」
「何だ」
「幼なじみの顔で聞くなよ」
真壁は二階堂を見た。
二階堂の顔は真剣だった。
「刑事の顔で聞け」
その言葉は、思ったより深く刺さった。
「分かってる」
「分かってない顔をしてる」
「うるさい」
「うるさく言うのが俺の役目だ」
二階堂は資料をもう一度見た。
「それにしても、九条の母親、十六で産んだのか」
「そうだろうな」
「相手は成人済み。しかも年上の従兄」
二階堂の声から、いつもの軽さが消えた。
「美談にしちゃいけないやつだな」
真壁は黙った。
「教団から逃げた。腹の子を守った。そこだけ見れば、確かにそうだ。でも、合歓さんは十六だ。村の外を知らない。相手は外へ出られる男で、金も道も病院も知っていた。救いだったとしても、対等じゃない」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
真壁は言い返さなかった。
合歓にとって、その男は世界のすべてだったのかもしれない。
だが、世界のすべてしか選べないことは、自由とは違う。
それでも、その男がいなければ、合歓は御津窪から出られなかった。九条雅紀は、白い子として神に返されていたかもしれない。
救いと加害は、同じ腕の中にある。
真壁はそう思った。
そして、その腕はもう焼けていた。
「村の中で育った宗教二世。外の常識を知らない。火災時は産婦人科に入院中。生存後、赤ん坊を連れて神奈川へ」
「斜め前の平屋だ」
二階堂は顔を上げた。
「お前の家の?」
「そうだ」
「そんなに近かったんだな。偶然?」
「今は分からない」
「九条の母親は何も言ってなかったのか」
「ああ。父親が用意していた可能性がある」
二階堂は黙った。
その沈黙は、驚きというより、納得に近かった。
「三人で逃げる予定だった?」
「かもしれない」
「でも父親は村で死んだ」
「ああ」
二階堂は資料の中の小さな文字を見つめた。
「九条は、これを知ってたのか」
「それを聞く」
「知らなかったら?」
「今回の事件で知ることになる」
「きついな」
「知っていたら?」
二階堂はしばらく黙った。
「もっとまずい」
二人の間に沈黙が落ちた。
会議室の外では、誰かが廊下を走る音がした。電話の呼び出し音。コピー機の作動音。事件は動いている。だがこの部屋の中だけ、過去の灰が落ちているようだった。
二階堂が口を開いた。
「真壁。九条がこの事実を知っていて、御堂が火で殺されたとしたら」
「言うな」
「言わないといけない」
「分かってる」
「九条は容疑者になる」
真壁は机の上の資料から目をそらさなかった。
九条雅紀。
法医学者。
御堂の遺体を見て、死因を語った男。
死因を誤るなという言葉に、奇妙なほど近い男。
焼かれた村の唯一の生存者の息子。
刑事としてなら、疑わない理由はなかった。
疑う理由なら、いくらでもある。
だが真壁は、九条が母親の死後に見せた顔を思い出していた。
十七歳の冬。
九条の家の前に、警察車両が停まっていた。
斜め前の古い平屋。
玄関の戸が開きっぱなしで、近所の大人たちが不安そうに集まっていた。
合歓が死んだ。
そう聞かされた時、真壁はすぐに意味を理解できなかった。
あの危なっかしい若い母親が、死ぬということと結びつかなかった。
いつも何かを忘れ、慌て、九条に叱られ、それでも笑っていた人だった。
家の中で、九条は立っていた。
泣いていなかった。
泣くより先に、何かを計算している顔だった。
警察官が聞いた。
「他にご家族は?」
九条は答えた。
「いません」
その一言を、真壁は今でも覚えている。
声は震えていなかった。
だが、その言葉の後、九条の周囲から何かがすっと消えたように見えた。
家族はいない。
親戚もいない。
母もいない。
あの時、九条は本当に一人になった。
そう思っていた。
だが違ったのかもしれない。
九条は、生まれた時から一人にされていた。
母がいたから一人ではなかっただけで、その外側にはすでに何もなかった。
「真壁」
二階堂の声で、真壁は我に返った。
「九条に会う」
真壁は立ち上がった。
「俺も行く」
「広報は?」
「今は真壁の監視も広報業務に含める」
「勝手に含めるな」
「お前、顔が幼なじみになってる」
「うるさい」
「二回目だぞ、それ」
二階堂は資料を封筒に入れ、真壁へ渡した。
「聞くなら、この順番だ。まず九条が村火災を知っていたか。次に、母親が唯一の生存者だったことを知っていたか。御堂との関係を知っていたか。御津窪が事故ではなく組織的な放火だった可能性を知っていたか。最後に、今回の事件がその火災をなぞっていると思うか」
「尋問の段取りまで広報が組むのか」
「お前が余計なことを聞きそうだからだ」
「余計なこと?」
「“大丈夫か”とか」
真壁は黙った。
二階堂は小さく息を吐いた。
「それを聞くのは、今じゃない」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
今度は真壁が少し強く言った。
九条は県警本部の解剖関連資料室にいた。
机の上には、御堂聖真の解剖所見の写し、血液検査の速報値、火災現場の写真、灰の成分分析の初期報告が並んでいる。九条はそれらを一枚ずつ見ていた。資料を読む姿勢は、いつもと変わらない。背筋は伸び、視線は淡々と動き、指先は必要な箇所以外に触れない。
真壁と二階堂が入ると、九条は顔を上げた。
「何」
それだけだった。
真壁はドアを閉めた。
二階堂は壁際に立つ。
口を出すつもりはないらしい。だが、聞き漏らす気もない顔だった。
「御津窪集落火災を調べた」
真壁は言った。
九条の表情は変わらなかった。
「そう」
「二十九年前。光胎寮の関連集落。三十二人死亡。二人不明。御堂聖真は当時、指導者の一人」
「資料にあった?」
「お前、知ってたのか」
九条はすぐには答えなかった。
沈黙があった。
その沈黙の間、真壁は九条の目を見ていた。
いつもの沈黙か。
言わないための沈黙か。
言えないための沈黙か。
九条は、やがて短く答えた。
「知っていた」
二階堂が壁際でわずかに動いた。
真壁は続けた。
「お前の母親が唯一の生存者だったこともか」
「ああ」
「御堂との関係も」
「資料上は」
「資料上?」
「証明できる範囲では、御堂は光胎寮の指導者の一人だった。火災との直接関与は証明されていない」
「お前はどう思ってる」
「それは刑事の質問?」
「そうだ」
「なら、証拠で話して」
「幼なじみとして聞いたら」
九条の目が、わずかに冷えた。
「聞くな」
短い言葉だった。
真壁は、その拒絶を受け止めた。
昔から、九条はこういう線を引く。
踏み越えようとすれば、黙る。
黙ったまま、こちらが諦めるまで待つ。
だが今は、諦めるわけにはいかない。
「御津窪は、事故じゃない可能性が出ている」
真壁は封筒から資料を出した。
「聖暦二七二七年。二月七日。白胎のしるし。聖水。聖火。村の四方からの出火。逃げ道の封鎖。火傷した幹部。関連病院。支部建設予定地。政治家との金」
九条の目は資料を見ていた。
表情は変わらない。
だが、真壁は見逃さなかった。
光胎病院の文字が出た時、九条の指がわずかに止まった。
「知っていたのか」
真壁が聞いた。
「断片的には」
「御堂が直接火を放ったというメモもある」
「証明されていない」
「だから黙っていた?」
「証明されていないことを言えば、物語になる」
「物語?」
「御堂が村を焼いた。九条合歓は生き残った。九条雅紀はその息子だ。そう並べれば、誰でも復讐の話にする」
九条の声は静かだった。
「それは証明ではない」
「だが捜査の端緒にはなる」
「端緒と物語の境界は曖昧だ」
「曖昧でも出せ」
真壁は一歩近づいた。
「今回の御堂の死は、御津窪の火災をなぞってる。現場の灰。焼死。火災前の投稿。匿名アカウント。全部がそこへ向かってる」
「そうだな」
「そうだな、じゃない。お前はそれを知っていたのに、なぜ黙っていた」
「黙っていたわけではない」
「何を言った」
「火災を再現したかった可能性がある、と言った」
「御津窪とは言わなかった」
「証明できていなかった」
真壁はさらに一歩近づいた。
「九条」
「何」
「証明できていなくても、捜査の端緒になる情報は出せ」
「個人的事情を混ぜれば、捜査が歪む」
「もう歪んでる」
「なら、なおさらだ」
九条の声は平坦だった。
二階堂が口を挟んだ。
「九条、質問を変える」
九条は二階堂を見た。
「お前は、この事件が広がることを望んでるのか」
「昨日も聞いたな」
「答えてないからだ」
「望んでいない」
「なら、なぜ止めようとしない」
「止めるのはお前の仕事だ」
「俺の仕事を利用するな」
九条は黙った。
その沈黙に、二階堂の目が鋭くなる。
「今の沈黙は何だ」
「答える必要がない」
「ある。俺は昨日からずっと情報の火を消してる。だが、消そうとすればするほど、過去の村火災へ向かって燃えていく。誰かが道を作ってる。九条、お前はその道を知っているように見える」
「知っていることと、作ったことは違う」
「じゃあ作ってないんだな」
九条は、すぐには答えなかった。
真壁の胸の奥が冷えた。
「九条」
今度は真壁が言った。
「答えろ」
九条はゆっくりと真壁を見た。
「作っていない」
その答えは短かった。
だが、真壁は刑事だった。
言葉の形だけで安心することはできない。
「今回の事件に関与していないと言えるか」
二階堂が続けた。
真壁は横目で二階堂を見た。
踏み込むのが早い。
だが、聞くべきことだった。
九条は表情を変えなかった。
「俺は御堂聖真を殺していない」
部屋の空気が止まった。
否認としては、正しい。
正しすぎる。
二階堂がすぐに言った。
「事件に関与していないか、と聞いた」
「御堂聖真を殺していない」
「答えをずらすな」
「今言えるのはそれだけだ」
真壁は、九条を見つめた。
今言えるのはそれだけ。
その言葉は、無実を示すものではなかった。
「なぜそれだけなんだ」
真壁が聞く。
九条は答えない。
「誰かを庇ってるのか」
答えない。
「それとも、まだ証明できない何かを知っているのか」
答えない。
二階堂が低く言った。
「真壁、これ以上は場所を変えた方がいい」
「いや」
真壁は九条から目をそらさなかった。
「ここで聞く」
「真壁」
「九条。お前の母親のことだ」
九条の目が、わずかに動いた。
真壁は続けた。
「お前の母親は、あの火災で生き残った。その後、俺の家の斜め前の平屋へ来た。お前を抱いて」
「知っている」
「いつ知った」
九条は黙った。
「子どもの頃からか」
「断片的には」
「全部を知ったのは」
九条は視線を資料へ落とした。
「母が死んでからだ」
その声は、これまでで一番低かった。
真壁は息を止めた。
母が死んでから。
十七歳の冬。
あの平屋。
「他にご家族は?」
「いません」
その後に、九条は何を見つけたのか。
「何で知った」
真壁が聞いた。
九条は答えなかった。
二階堂も黙っていた。
長い沈黙の後、九条は言った。
「記録があった」
「記録?」
「母が残したものだ」
「日記か」
「日記ではない」
九条はそこで口を閉じた。
それ以上は、言う気がないのだと分かった。
真壁は、問いを変えた。
「その記録に、御堂の名前はあったのか」
「直接はない」
「では、どうやって御堂に辿り着いた」
「調べた」
「いつから」
「医学部に入ってから」
二階堂が小さく息を吐いた。
「ずっと調べてたのか」
九条は二階堂を見なかった。
「母の死因に疑問があった」
「御津窪じゃなくて、お母さんの?」
「ああ」
真壁の胸がまた冷えた。
「お前の母親の死因は、若年性脳梗塞だったな」
九条は頷いた。
「お前は疑っていた」
「十七歳の時点では、疑問だった。証明はできなかった」
「今は」
「まだ、証明できていない」
「誰が診断した」
九条は黙った。
だが真壁は、もうその沈黙の意味を理解し始めていた。
「鷲尾貞成か」
その名前を出した瞬間、九条の指先が止まった。
ほんのわずかだった。
だが、止まった。
二階堂も見ていた。
「鷲尾貞成」
二階堂が繰り返した。
「誰だ」
真壁は九条を見たまま答えた。
「九条の母親の死因を書いた医師がそうなんじゃないか?」
九条は否定しなかった。
二階堂が低く言う。
「医師か」
真壁は九条に聞いた。
「鷲尾は御津窪火災当時、光胎病院にいた」
九条は答えない。
「火傷した幹部を診療した可能性がある」
答えない。
「御堂の犯罪を隠した可能性がある」
答えない。
「お前の母親の死因も書いた」
九条は、ようやく口を開いた。
「可能性の積み上げだ」
「そうだ」
「可能性は証拠ではない」
「だが、お前の沈黙は証拠に近づいてる」
九条の目が冷えた。
「沈黙は証拠ではない」
「刑事は沈黙も見る」
「危険な仕事だな」
「お前の仕事もな」
二人はしばらく睨み合った。
先に口を開いたのは、二階堂だった。
「御堂の次は鷲尾だと思っているのか」
九条は、初めて真壁ではなく二階堂を見た。
「次があると決めるな」
「犯人は二通目を出すかもしれない」
「可能性はある」
「お前はそれを知ってるのか」
「知らない」
「本当に?」
「知らない」
今度の答えは早くなかった。
真壁は、その違いを覚えた。
九条は御堂を殺していないと言った。
事件に関与していないとは言わなかった。
次を知らないとは言った。
だが、可能性はあると言った。
つまり九条の中では、この事件はまだ終わっていない。
御堂の死だけでは、死因は訂正されない。
そう考えているのか。
「九条」
真壁は静かに言った。
「お前が知っていることを全部出せ」
「出せない」
「なぜ」
「証拠にならない」
「証拠になるかどうかは、こっちが判断する」
「違う」
「何が違う」
「証拠にならないものは、誰かの物語になる」
真壁は黙った。
九条は続けた。
「御堂は死んだ。教団は殉教にした。ネットは復讐劇にした。お前たちは事件にする。二階堂は発表文にする。母のことも、村のことも、誰かが物語にする」
九条の声は静かだった。
だが、その静けさの底に、硬いものがあった。
「俺が証明できないことを話せば、それも物語になる」
「だから黙るのか」
「死因を誤らせたくない」
また、その言葉だった。
真壁は、その一文が九条の内部にどれほど深く根を張っているのかを、初めて少しだけ見た気がした。
これは事件の挑戦状ではない。
九条という人間の背骨に近い。
そう思った瞬間、真壁は自分を叱った。
理解するな。
まだ早い。
こいつは今、容疑者に近い場所にいる。
「九条」
「何だ」
「お前は御堂を恨んでいたか」
九条は答えなかった。
「父親を焼いたかもしれない男だ。村を焼いたかもしれない男だ。母親の人生を壊したかもしれない男だ。恨んでいたか」
九条は、長く沈黙した。
そして言った。
「恨みという言葉は、便利すぎる」
「答えになってない」
「恨んでいたと言えば、それで説明が終わる」
「終わらせたくないのか」
「終わらせるな」
その声が、少しだけ強くなった。
二階堂が壁際で黙っている。
真壁は九条を見た。
九条は、自分が踏み込みすぎたことに気づいたように、一度だけ目を伏せた。
「御堂の死を、俺の恨みで処理するな」
「誰が処理すると言った」
「お前は刑事だ」
「そうだ」
「なら、死因を見ろ」
真壁は苛立ちを抑えた。
「お前に言われなくても見る」
「ならいい」
「よくない」
真壁は机に手をついた。
「お前は事件の中心に近すぎる。御堂の死因にも、御津窪にも、母親にも、鷲尾にも近い。近すぎるんだ」
「近いからこそ見えるものもある」
「近いから見えなくなるものもある」
九条は黙った。
「しばらく、単独で資料に触るな」
真壁が言うと、九条の表情が初めてわずかに変わった。
「俺を外すのか」
「外すとは言っていない」
「同じだ」
「違う。お前は法医学者として必要だ。だが、個人的関係が出た以上、扱いを変える」
「合理的だな」
その言い方に、真壁は腹が立った。
「お前がいつも言ってることだろ」
「そうだな」
九条は資料を閉じた。
その動作は静かだった。
怒っているようには見えない。
だが、真壁には分かった。
九条は遠ざかった。
物理的には同じ部屋にいる。
だが、さっきより少し遠い。
二階堂が、ようやく口を開いた。
「九条」
「何だ」
「一つだけ聞く。広報として」
「またか」
「今回の件で、お母さんの名前が外に出る可能性がある」
九条は動かなかった。
二階堂は続けた。
「九条合歓。唯一の生存者。白い子を抱いて山を下りた女。ネットはそういう言葉にする。教団は否定する。メディアは探す。お前の母親は、また誰かの物語にされる」
九条の目が、二階堂へ向いた。
「止められるのか」
二階堂は少し黙った。
「完全には無理だ」
「なら聞くな」
「でも、出し方は変えられる」
「変えるな」
二階堂は眉をひそめた。
「変えるな?」
「母を、都合よく守るな」
その言葉に、真壁も二階堂も黙った。
「母は生き残った。逃げた。俺を育てた。死んだ。それだけだ」
九条の声は静かだった。
「かわいそうな女にも、奇跡の生存者にも、宗教被害者の象徴にもするな」
二階堂は真剣な顔で聞いていた。
「じゃあ、どう出せばいい」
「事実だけでいい」
「お前、それが一番難しいって分かってるか」
「だから、お前の仕事だろ」
二階堂は一瞬、何か言い返そうとして、やめた。
代わりに、小さく笑った。
「嫌な信頼のされ方だな」
「信頼はしていない」
「だろうな」
部屋の空気が少しだけ緩んだ。
だが、真壁の中の緊張は解けなかった。
その時、三谷がノックもそこそこに入ってきた。
「真壁さん」
顔が強張っていた。
「消防記録の一部が見つかりました」
「御津窪か」
「はい。遺体の身元確認メモも一部残っていました。それと……」
三谷は九条をちらりと見た。
真壁は言った。
「続けろ」
「生存者の証言として、火災当日、村の複数箇所で同時に火の手が上がった可能性があると記録されています」
「放火とあるのか」
「断定はされていません。ただ、出火点が複数というメモがあります」
「なぜ事故扱いになった」
「当時の正式報告では、燃料保管場所からの延焼とされています。ただ、その根拠が薄いです」
三谷はもう一枚の紙を差し出した。
「それから、光胎病院の診療記録の索引に、火傷処置の記載、患者名が判明しました。火災翌日の朝です」
真壁は紙を受け取った。
「患者名は」
「仁科重光。現在の仁科理事です」
二階堂が低く息を吐いた。
「本人か」
「傷病名は、右足背部熱傷。軽度。処置内容は外用薬と包帯。受傷原因は“山中作業中の事故”となっています」
「診療した医師は」
三谷は紙の下部を指した。
「鷲尾貞成です」
真壁は九条を見た。
九条は顔を上げていなかった。
資料だけを見ていた。
だが、その沈黙は、部屋の空気を重くした。
仁科は火災翌日に足を火傷していた。
診療したのは鷲尾。
光胎病院。
御堂の幹部。
匿名メモの内容と重なる。
完全な証明ではない。
だが、紙の中で乾いていた事件に、初めて熱が戻った。
三谷はさらに言った。
「それと、遺体ラベルの控えに、九条姓の記載があります」
真壁は紙を受け取った。
コピーの文字は薄く、所々読めない。
手書きのメモだった。
たぶん、ふみえさん。
男。年齢不明。
歯。
腕時計。
わからない。
たぶん、まさきのお父さん。
最後の一行を見た瞬間、真壁は呼吸を忘れた。
まさきのお父さん。
漢字ではない。
ひらがなだった。
震えたような字だった。
誰が書いたかは、聞かなくても分かった。
九条合歓。
真壁は、九条を見た。
九条は紙を見ていなかった。
いや、見ないようにしていた。
その横顔は、礼拝堂の夜に見た時と同じだった。
燃え広がる言葉の火ではなく、もっと古い火を見ている顔。
二階堂も紙を覗き込んだ。
言葉を失う。
三谷だけが、その重さを完全には理解できずに立っていた。
「九条」
真壁は紙を持ったまま言った。
「これは、お前が母親の記録で見たものと同じか」
九条は答えなかった。
「九条」
「同じではない」
「どう違う」
「母の記録の方が、字が汚い」
その返答は、あまりにも九条らしく、そして痛かった。
真壁は言葉を失った。
九条は続けた。
「母は、きれいな字を書けなかった」
それだけ言って、九条は紙を見た。
ほんの一瞬だけ。
その目に浮かんだものを、真壁は読み取れなかった。
怒りか。
悲しみか。
諦めか。
それとも、それらをすべて死因という言葉の中へ押し込めた何かなのか。
九条はすぐに目を逸らした。
「これは証拠になる」
九条は言った。
「出火点が複数なら、事故ではない可能性が高い。仁科の熱傷記録は、匿名メモとの整合性がある。鷲尾が診療していたなら、光胎病院が幹部の関与を把握していた可能性もある。遺体の身元確認も、当時の処理が不十分だった可能性を示す。正式記録と突き合わせろ」
声は法医学者のものに戻っていた。
真壁は思った。
戻ったのではない。
戻したのだ。
九条は、自分の母親の震えた字を見ても、すぐに証拠の話へ戻れる。
戻れてしまう。
それが九条の強さなのか、壊れ方なのか、真壁には分からなかった。
「分かった」
真壁は紙を封筒に入れた。
「御津窪へ行く」
二階堂が言った。
「今からか」
「現地を見る。消防記録だけじゃ足りない。当時の地形、逃げ道、出火点。全部確認する」
「俺も行く」
真壁は九条を見た。
「お前は来るな」
九条は予想していたように、表情を変えなかった。
「なぜ」
「個人的関係が濃すぎる」
「俺は地形を知っている」
「だから来るな」
二階堂が横から言った。
「今回は真壁が正しい」
九条は二階堂を見た。
「広報が捜査判断をするのか」
「しない。だが、お前が来たら現場の意味が変わる」
「意味?」
「御津窪は、お前にとって現場じゃない。出生地みたいなものだろ」
九条は答えなかった。
二階堂は続けた。
「今のお前が行くと、真壁が刑事でいられなくなる」
真壁は、二階堂を見た。
図星だった。
九条が御津窪へ行けば、真壁は現場を見るのと同時に、九条を見る。
焼けた村を、事件としてだけでは見られなくなる。
幼なじみが生まれた背景として見てしまう。
それは捜査を歪める。
「九条。資料は共有する」
真壁は言った。
「必要な法医学的意見は聞く。だが現地には来るな」
九条は少しだけ沈黙した。
「分かった」
意外なほどあっさりした答えだった。
だが、真壁は安心しなかった。
九条が素直に引いた時ほど、何かを自分で決めている可能性がある。
「勝手に動くなよ」
真壁が言うと、九条は短く答えた。
「必要がなければ」
「必要があっても、俺に言え」
「検討する」
「検討じゃない」
「努力する」
二階堂が小さく笑った。
「返事になってないな」
九条は何も言わなかった。
その日の午後、真壁と二階堂は御津窪へ向かった。
車は県道を外れ、細い山道へ入った。
六月の緑が濃い。山肌には湿気がまとわりつき、道路脇の側溝には濁った水が流れている。二十九年前の火災がどの季節だったのか、真壁は資料を見直した。
二月。
深夜。
乾燥注意報は出ていなかった。
それなのに火の回りは異常に早かった。
「複数出火なら、逃げ道を塞いだ可能性がある」
二階堂が助手席で言った。
「消防記録にもその示唆がある」
「なのに事故」
「燃料保管場所からの延焼」
「便利だな、燃料」
「便利な説明ほど疑え」
「刑事っぽい」
「刑事だからな」
二階堂は窓の外を見た。
「御津窪が燃えた理由、かなり具体的になってきたな」
「ああ」
「聖暦二七二七年。二月七日。謀反の者。土地の浄化。支部建設。政治と金。嫌になるほど人間臭い」
「宗教の皮をかぶった土地取りかもしれない」
「それだけでもないだろうな。御堂みたいな人間は、金だけで動かない。信じさせるためには、自分も半分信じてる顔をする」
「半分か」
「全部信じてる信者なら、まだ救いがある。半分信じて、半分利用してる奴が一番怖い」
真壁はハンドルを握ったまま黙った。
二階堂の言う通りだった。
御堂聖真は、金のためだけに火を放ったのではない。
信仰のためだけでもない。
教義で人を縛り、土地を欲し、謀反という言葉で異物を消し、政治で事故にした。
その全体が、犯罪だった。
「九条の父親、ここにいたんだな」
「ああ」
「名前も分からない」
「少なくとも、今の資料では」
「九条は知ってるのか」
「知らない可能性が高い」
「母親は知っていただろう」
「書けなかったんだろうな」
二階堂は黙った。
しばらく山道の音だけが続いた。
タイヤが小石を踏む音。
枝が車体を擦る音。
遠くの鳥の声。
御津窪集落跡は、道の行き止まりにあった。
村というより、山の斜面に人の生活の跡が点々と残っている場所だった。舗装は途中で途切れ、古い石垣と崩れた基礎が雑草に埋もれている。家屋はほとんど残っていない。二十九年の時間が、焦げ跡を緑で覆っていた。
だが、完全には消えていなかった。
黒ずんだ石。
半分埋まった井戸。
焼けて曲がった金属片。
何かの柱の根元。
真壁は車を降り、しばらく黙って立った。
ここで火が出た。
ここで三十二人が死んだ。
ここで二人が消息を絶った。
ここで九条の父親が死んだ。
ここで合歓は、産後の体で遺体に札をつけた。
そして、ここから合歓は赤ん坊を抱いて山を下りた。
「思ったより狭いな」
二階堂が言った。
「ああ」
「こんな場所で複数箇所に火がついたら、逃げ場は少ない」
真壁は地形図を開いた。
資料に記された出火点候補と、現在の地形を照合する。
集会所跡。
倉庫跡。
共同炊事場跡。
山道へ続く入口付近。
「入口側にも火が出てる」
二階堂が指差した。
「逃げ道を塞いだな」
「断定はできない」
「九条みたいなこと言うなよ」
「証明できない」
「やっぱり九条だ」
真壁は返事をしなかった。
集会所跡へ向かう途中、古い石段があった。
段差は不揃いで、苔が生えている。足を滑らせないように慎重に上る。
上りきった場所に、焼け残った石の台座のようなものがあった。
おそらく、祈りの場だったのだろう。
二階堂が周囲を見回した。
「ここで御堂が話してたのか」
「当時の写真では、ここに木造の集会所があった」
「先生、か」
二階堂の声には嫌悪が混じっていた。
「ここが中央の壇なら、白胎のしるしってやつも見えるな」
二階堂は地図を広げ、指で点を結んだ。
西の道。
北の倉。
東の家。
南の井戸。
中央の集会所。
五つの点を頭の中で結ぶと、確かに輪のような形になる。
村の生活の配置が、そのまま放火の図柄に使われている。
「気持ち悪いな」
二階堂が言った。
「ああ」
「生活の場所を、宗教の紋章に変えて燃やしてる」
真壁は石台を見た。
火は、ここに置かれた。
御堂聖真の礼拝堂でも、御津窪でも。
偶然燃えたのではない。
ここで燃えなければならなかった。
九条の言葉が、また蘇った。
「父母も宗教二世だったんだろうな」
二階堂が言った。
「資料上はそう見える」
「逃げようとしていた可能性は?」
「まだ分からない」
「でも、神奈川の平屋があった」
「それも調べる」
「父親が用意した家か」
真壁は斜面の下を見た。
山道は細く、曲がっている。
夜、火に囲まれたら、逃げるのは難しいだろう。
煙が上がり、熱が迫り、どこが出口か分からなくなる。
合歓の夫は、その中で死んだ。
息ができなくなって死んだ。
真壁は、幼い九条の声を思い出した。
お父さんはなんで死んだの?
その記憶は、はっきりした映像ではない。
断片だった。
斜め前の平屋。
夏の夕方。
玄関先にしゃがみ込む幼い九条。
合歓が洗濯物を抱えている。
真壁は道場へ行く前で、竹刀袋を肩にかけていた。
九条が母親に聞いた。
お父さんはなんで死んだの?
合歓は一瞬だけ動きを止めた。
そして、困ったように笑った。
あのね、お父さんね、息ができなくなって死んだんだよ。
真壁は、その時の言葉を病気の話だと思った。
喘息か、肺の病気か、そういうものだと。
九条も、そう思ったのかもしれない。
だが違った。
息ができなくなったのは、病気のせいではない。
火と煙のせいだった。
熱い空気が気道を焼き、煙が肺に入り、逃げ道を塞がれた山の中で、呼吸が奪われた。
真壁は拳を握った。
二階堂が横から見た。
「思い出したか」
「少しな」
「何を」
「九条が、父親の死因を聞いていた」
二階堂は黙った。
「合歓さんは何て」
「息ができなくなって死んだ、と」
二階堂の表情が変わった。
「それは……」
「ああ」
「きついな」
「きついなんてもんじゃない」
真壁は焼けた石台を見た。
あの言葉を、九条はどう受け止めていたのか。
幼い頃は病死だと思っていた。
喘息持ちの自分とどこかで重ねていたかもしれない。
母の死後、記録を読み、真相を知った時、何が起きたのか。
父は病気で息ができなくなったのではない。
炎で喉を焼かれ、煙で肺を満たされ、呼吸できずに死んだ。
九条は、それを知った。
十七歳で。
母も死んだ後に。
「真壁」
二階堂が言った。
「この事件、九条を疑わない方が無理だ」
「分かってる」
「でも、九条だけを疑うのも危ない」
「どういう意味だ」
「犯人が九条へ向けて線を引いてる可能性がある。九条を犯人に見せたいのか、九条に真相を見せたいのか、それとも九条自身が線を引いてるのか。まだ分からない」
「お前にしては慎重だな」
「広報は疑いすぎるくらいでちょうどいい」
「刑事もだ」
二人は集落跡をさらに歩いた。
共同炊事場跡。
倉庫跡。
住居跡。
逃げ道だったと思われる細い山道。
どこも草に覆われ、虫の音がしていた。
死の場所というより、忘れられた場所だった。
それが真壁には腹立たしかった。
三十二人が死に、二人が消えた場所が、こんなにも簡単に緑に隠される。
紙の中で乾き、山の中で覆われ、誰も語らなくなる。
御堂聖真は、そんな過去を踏み台にして白胎会を作ったのか。
そして今、自分の死すら教団に利用されている。
真壁は、挑戦状の言葉を思い出した。
あの一文は、御堂の死にだけ向けられた言葉ではなかった。
ここで死んだ者たちへの言葉でもある。
真壁はようやく、その重さを理解し始めていた。
夕方、山を下りる前に、真壁はもう一度集落跡を振り返った。
木々の間から、わずかに空が見える。
二十九年前、ここは火で赤かったのだろう。
逃げ場のない夜。
煙。
熱。
叫び。
白い服の幹部たち。
聖水と呼ばれた燃料。
火を持った御堂。
輪のように燃える村。
そして、ふもとの産婦人科で生まれた白い子。
その子は今、法医学者になっている。
死因を読む男になっている。
偶然とは思えなかった。
だが、必然と呼ぶには痛すぎた。
車に戻ると、二階堂の携帯が鳴った。
画面を見た二階堂の表情が変わる。
「何だ」
真壁が聞く。
二階堂は通話に出ず、画面を見せた。
匿名アカウントの新しい投稿だった。
《一度目は、息を奪った者》
それだけだった。
真壁は画面を見つめた。
一度目。
では、二度目がある。
二階堂が低く言った。
「真壁」
「ああ」
真壁はすぐに車のドアを開けた。
「鷲尾を洗う」
二階堂は助手席に乗り込みながら、もう一度画面を見た。
「二度目は、声を奪った者」
「まだ出てない」
「出るだろ」
「ああ」
車が山道を下り始める。
バックミラーの中で、御津窪集落跡が緑に沈んでいく。
真壁はアクセルを踏み込みながら、九条の顔を思い浮かべた。
九条は、次があることを知っていたのか。
知らなかったのか。
それとも、ずっと待っていたのか。
答えはまだ出ない。
だが一つだけ、はっきりしていた。
事件は、御堂聖真の死で終わらない。
焼かれた村の灰は、まだ名を覚えている。
そしてその名の一つは、九条だった。
真壁彰は、そう思っていた。
事件が起きた直後、現場には匂いがある。血の匂い、薬品の匂い、雨に濡れた土の匂い、焦げた木材の匂い。人の声もある。怒鳴り声、泣き声、言い訳、沈黙。そういうものに囲まれているうちは、事件はまだ生きている。
けれど時間が経てば、すべては紙に移る。
調書。検案書。実況見分調書。新聞記事。行政文書。戸籍。住民票。消防記録。写真台帳。
そこに残るのは、乾いた言葉だ。
死亡。
焼損。
不詳。
確認不能。
出火原因調査中。
事件性なし。
処理済み。
紙に移された死は、時々、本当に死んでしまう。
もう誰も触れなくなり、誰も疑わなくなり、誰も怒らなくなる。
残された言葉だけが、正しかったふりをして棚に眠る。
御堂聖真が焼死した翌朝、真壁は県警合同捜査本部の資料室にいた。
前夜、二階堂が拾った匿名投稿が引き金になった。
《光は灰を知らない。灰は名を覚えている》
添付された古い新聞記事の切り抜き。
焼けた名札のようなもの。
かすれて読めた二文字。
九条。
それが偶然である可能性は、低かった。
真壁は、眠っていなかった。
二階堂もほとんど眠っていないはずだ。九条が眠ったかどうかは分からない。そもそも、あの男が眠っているところを真壁はほとんど見たことがない。小学生の頃、道場帰りに九条の家へ寄った時も、夜中に救急車が来た時も、母親が死んだ冬の朝も、九条はいつもどこか起きていた。目を開けて、何かを見ていた。
今もそうなのだろう。
真壁は資料室の机に、二十九年前の新聞縮刷版を積み上げた。
県警の三谷が、眠そうな目をこすりながら端末を操作している。
「真壁さん、該当しそうなのは三件です」
「全部出してくれ」
「山間部の集落火災、三十二名死亡、行方不明二名、宗教団体関係の疑い。この条件だと、一番近いのが二十九年前の御津窪集落火災です」
「御津窪」
真壁はその地名を繰り返した。
聞いたことのない名前だった。
だが、聞いたことがないという事実が、すでに奇妙だった。
三十二人が死亡し、二人が行方不明になった集落火災。宗教団体との関連疑惑。そんな事件なら、もっと記憶に残っていてもいい。少なくとも、警察官である自分がまったく知らないのは不自然だった。
いや、不自然ではないのかもしれない。
世間は、忘れる。
事件は、次の事件に押し流される。
報道は数日で別の火元へ移り、記録だけが残る。
紙に移された死は、乾いていく。
三谷がプリントアウトした記事を渡してきた。
地方紙の切り抜きだった。
見出しは小さい。
《山間部集落で火災 三十二人死亡か》
《出火原因は調査中》
《住民の一部、宗教的共同生活か》
写真は粗い。
黒く焼けた斜面と、消防車両らしき影が写っている。人の姿も数人見えるが、顔は判別できない。
真壁は記事を読み始めた。
御津窪集落は、県境に近い山間部にあった小規模集落。住民登録上は三十数名が居住。うち三十二名が死亡、二名が行方不明扱い。唯一、火災発生時にふもとの町の産婦人科へ入院していた若年女性一名が生存。
出火は深夜。
火の回りが早く、住民の多くが逃げ遅れた。
集落内の複数箇所から出火した可能性もあるが、詳細は調査中。
宗教団体「光胎寮」との関連について、警察は慎重に確認している。
「光胎寮」
真壁が呟くと、三谷が別の資料を出した。
「白胎会の前身とされる団体です。ただ、公式には別組織という扱いになっています。光胎寮は火災後に解散。その後、御堂聖真が中心になって白胎会を立ち上げています」
「御堂は当時、光胎寮にいたのか」
「資料上は、指導者の一人です。教祖という表現はまだ使われていません。ただ、信者からは“先生”と呼ばれていたという記述があります」
先生。
真壁は、会見で仁科が口にした言葉を思い出した。
御堂先生。
火の殉教。
不幸な事故。
不幸な事故という言葉は、便利だった。
誰かを責めずに済む。
誰も責任を負わずに済む。
死者に説明を与えたふりができる。
「火災の捜査資料は」
「当該県警の古い保管分を確認中です。ただ、火災として処理された資料はかなり薄いです。消防側の記録のほうが残っているかもしれません」
「薄い?」
「死亡者の身元確認が難航したこと、遺体の損傷が激しかったこと、集落が半ば閉鎖的だったこと、それから……」
三谷は言いにくそうに目を落とした。
「当時、光胎寮側がかなり強く関与を否定しています。住民は信者ではなく、自主的な共同生活者だったと」
「今の白胎会と同じだな」
「はい」
真壁は記事を机に置いた。
資料室の窓にはブラインドが下りている。朝の光は細い線になって床に落ちていた。蛍光灯の白い光と混ざり、室内には時間の感覚が薄かった。
「火災の日付は」
三谷が端末を操作した。
「二月七日です」
「二月七日」
「はい。二十九年前の二月七日未明。通報は午前二時十九分。ただ、現場到着時には集落の大半が燃えていたとあります」
真壁は資料をめくった。
二月七日。
その日付そのものには、まだ意味は見えない。
だが宗教団体が絡む事件で、日付に意味がないと決めつけるのは危険だった。
「光胎寮の教義資料は」
「断片的に残っています。押収資料ではなく、当時の報道資料と公安関係の参考メモですが」
三谷はファイルを開いた。
そこには、黄ばんだコピーが数枚挟まれていた。
《聖暦二七二七年 光の再臨》
《汚れた土地を焼き、光の支部を建てよ》
《灰の下に、真の民が生まれる》
真壁は、その文言を見つめた。
「二七二七年?」
「光胎寮独自の暦のようです。教祖格の人物、当時は御堂氏ではなく創始者がいたようですが、その人物が世界創造から数えた聖暦を使っていたと。御津窪火災があった年が、教義上では“神が地上に光を与えて二七二七年目”とされていたらしいです」
「その年の二月七日に意味は」
「資料には、二は輪を重ねる数字、白胎の原型、という記述があります」
「白胎」
「ええ。後の白胎会の名称にも繋がっている可能性があります」
真壁は指先で資料の端を押さえた。
御堂は偶然その日に村を焼いたのではない。
もし、この資料が正しければ。
その日付には、教義上の意味があった。
二月七日。
聖暦二七二七年。
光の再臨。
汚れた土地。
灰の下に生まれる真の民。
宗教的な飾り文句に見える。
だが、人が死んでいる。
飾りでは済まない。
「火災の前に、集落内で何か動きは」
三谷は別の資料をめくった。
「当時の近隣住民の聞き取りメモがあります。正式な調書ではなく、消防側の参考メモですが……火災の数日前から、見慣れない車が複数台、夜に山道へ入っていた。白いポリタンクを運ぶ男たちを見たという証言があります」
「ポリタンク」
「ただ、光胎寮側は灯油や発電機用燃料の搬入と説明しています。集落は電気設備が不安定だったと」
「なるほどな」
真壁は低く言った。
燃料は、いつでも別の名を持てる。
暖房用。
発電機用。
清掃用。
聖水。
そこまで考えて、真壁は資料に目を戻した。
「聖水という言葉は出てこないか」
三谷は驚いたように顔を上げた。
「どうしてそれを」
「あるのか」
「はい。教義資料の中にあります。“聖水を撒き、穢れを浮かせ、聖火によって土地を開く”という記述が」
真壁は口を閉じた。
聖水。
聖火。
土地を開く。
宗教的な比喩として読めば、それだけだ。
だが火災現場の資料と並べれば、まったく違う意味に見える。
「誰が撒いた」
「記録上は分かりません。ただ、匿名の供述メモがあります」
三谷は声を少し落とした。
「火災後、光胎寮の元信者と見られる人物が新聞社へ持ち込んだメモです。警察資料に写しだけ残っていました。真偽不明として処理されています」
「読め」
三谷はコピーを読み上げた。
「火の夜、幹部たちは白い服を着て、村の四方へ聖水を撒いた。先生は中央の壇に立ち、白胎のしるしが完成するのを待っていた。西の道、北の倉、東の家、南の井戸。火が輪になるように撒けと命じられた」
資料室が静かになった。
三谷の声だけが、乾いた紙の中の言葉を掘り起こしていく。
「聖水は水ではなかった。匂いで分かった。けれど誰も言えなかった。言えば、謀反の者にされる。先生は、謀反の者が混じった土地は焼かなければならないと言った」
真壁は目を閉じなかった。
紙の上の文字を見続けた。
「続けろ」
三谷は喉を鳴らした。
「先生は最後に、光を入れると言った。火を持ったのは先生だった。幹部の一人が火をつける時に足を焼いた。あの人は翌朝、光胎病院へ行った」
「光胎病院」
「光胎寮の関連医療機関です。今の白胎総合医療センターの前身にあたるようです」
真壁は椅子の背にもたれた。
聖水。
ガソリンか灯油か、まだ分からない。
村の四方。
火が輪になるように。
御堂本人が火を持った。
幹部の一人が足を焼いた。
関連病院で診療を受けた。
組織犯罪の輪郭が、紙の中から浮かび上がってくる。
だが、これが正式記録ではなく、真偽不明のメモとして処理されていること自体が、さらに気味悪かった。
「その幹部の名前は」
三谷は資料をめくった。
「メモでは伏せられています。ただ、当時の幹部名簿に該当しそうな人物が三人います。仁科重光、鷲尾貞成、諸橋玄一」
「仁科」
真壁の声が低くなった。
御堂の側近、仁科。
現在の白胎会理事。
「当時、仁科は光胎寮にいたのか」
「はい。若手幹部です」
「鷲尾貞成は」
「医師です。光胎病院に勤務。その後、白胎総合医療センターの副院長を務めています」
真壁は、その名前を頭に入れた。
鷲尾貞成。
御堂。
仁科。
御津窪。
線が増えていく。
増えすぎて、逆に見えにくくなる。
だが、ここで目を逸らすわけにはいかなかった。
「逃げ道はなぜ塞がれた」
三谷は次の資料を出した。
「これも正式記録ではありません。近隣住民の証言メモです。火災前夜、山間の工場爆発と土砂崩れがあったと。加えて通行止めの札もあったようです。理由は落石危険」
「爆発の原因は」
「不明と」
「他の道は」
「山道が二本。ただし、一つは吊り橋が落ちていたとの記録があります。もう一つは谷側へ下りる獣道に近かったようで。死者のうち一名の死因が谷への転落とのこと」
「逃げようとして滑落か」
「おそらく」
「誰かが逃げ道を塞いだ可能性は」
「あります」
「正式記録では」
「触れられていません」
真壁は資料を机に置いた。
逃げ道が塞がれていた。
村の四方に燃料が撒かれていた。
火が輪になるように置かれていた。
御堂が火を放ったというメモがある。
幹部の火傷の記録が、関連病院に残っている可能性がある。
それで、事故。
不幸な事故。
「謀反の者、というのは何だ」
三谷は一瞬、資料の束に目を落とした。
「御津窪火災以前の記録にも、似た表現があります。正確な氏名は黒塗りですが、“白き謀反の者”と書かれている」
「白き?」
「はい。白髪、淡色の眼、日光を避ける体質。現在の医学的には白皮症と考えられる人物です。御津窪出身で、当時の教団に土地の寄進を拒んだ。教義に反する発言をした。人は神に属さない、と」
二階堂の表情が変わった。
「白皮症?」
「と、あります」
「処刑されたのか」
三谷は少し躊躇した。
「資料上の言葉は違います。“光へ還した”“穢れを断った”“神へ返した”。ですが、火災より前に死亡している。遺体の所在は不明。死亡届も確認できません」
「つまり、殺された」
誰も否定しなかった。
三谷は教義資料の一部を見せた。
「火災の数週間前、光胎寮の内部文書に“御津窪に反光の者が紛れている”という記述があります。外部へ教義と資金の実態を漏らした者がいる、と」
「内部告発者か」
「可能性があります」
「それで村ごと浄化?」
「資料上は、そう読めます」
「土地の話は」
三谷はさらに一枚、古い地図を出した。
御津窪の地形図だった。現在の地図には載っていない地名が、そこには細い文字で残っている。集落。水場。古い社。山道。谷へ下りる道。そして赤鉛筆で囲まれた一帯。
「教団側の計画書では、この区域が“御津窪白胎支部建設予定地”になっています」
「火災後か」
「いいえ。火災前の日付です」
二階堂が低く言った。
「先に土地を欲しがってたわけか」
三谷は頷いた。
「ただ、住民側に反対があった。特に反対する人物がいた。名前は黒塗り。教団はその人物を“呪いの人物”とし、さらに御津窪そのものを“呪いの人物が発生する穢れた土地”と位置づけた」
真壁は地図を見た。
呪いの人間が生まれる土地。
穢れた土地。
浄化すべき土地。
その言葉の下にあるものは、信仰だけではなかった。
土地だった。
金だった。
支配だった。
集落に謀反の者がいる。
汚れた土地を浄化する。
浄化した後、支部を建てる。
宗教の言葉と、現実の利益が重なっている。
それが一番たちが悪い。
純粋な狂気なら、まだ説明は簡単だった。
だがこれは違う。
信仰。
支配。
土地。
金。
政治。
全部が絡んでいる。
「行政や警察は、なぜ事故処理した」
三谷は顔を曇らせた。
「ここから先は、かなり扱いが難しいです」
「言え」
「当時、県議会議員の一人が光胎寮の支援者だった可能性があります。表向きは文化団体への寄付者名簿ですが、その議員の後援会幹部に光胎寮関係者が複数います」
「政治家が信者だった?」
「信者という表現は資料にはありません。ただ、御堂氏と並んで写っている写真があります。当時の県議、後の国会議員です」
「金は」
「光胎寮関連の福祉法人から、その議員の政治団体へ献金が流れていた疑いがあります。違法性までは不明です」
「警察は」
「当時の県警幹部の一人が、退職後に白胎会関連の財団へ顧問として入っています」
真壁は、ゆっくり息を吐いた。
やはり、ただの過去ではない。
御津窪集落火災は、単なる事故として乾いたのではない。
乾かされたのだ。
誰かが紙の上で水分を抜き、匂いを消し、死者の声を閉じ込めた。
事件性なし。
処理済み。
その言葉の裏に、組織の手があった。
「生存者の名前は」
三谷が別の紙をめくった。
「報道では伏せられています。警察資料だと……」
そこで三谷の手が止まった。
真壁は顔を上げた。
「どうした」
三谷は紙を見たまま、少しだけ表情を変えた。
「名前が」
「読め」
「九条合歓」
資料室の空気が、一瞬で変わった。
いや、変わったのは真壁の中だけだったのかもしれない。
三谷はその名前の重さを知らない。
二階堂も、まだ部屋にはいない。
九条本人は、ここにいない。
だが真壁にとって、その四文字は遠い過去から突然手を伸ばしてきた。
九条合歓。
ねむ。
幼い頃、真壁はその名前を変な名前だと思ったことがある。
九条の母親は、いつも自分の名前を少し照れくさそうに言った。
近所の大人に「珍しい名前ね」と言われると、へへ、と笑っていた。笑い方も若かった。母親というより、少し年の離れた姉のように見えることがあった。髪をきちんと結んでいる日もあれば、寝癖のまま出てくる日もあった。靴の紐がほどけていることに気づかず、買い物袋から長ネギと薬の袋と学校のプリントを一緒に落としたこともある。
危なっかしい人だった。
だが、九条のことになると違った。
夜中、斜め前の古い平屋の戸が開く音がする。
駆ける足音。
真壁家の玄関を叩く音。
すみません、すみません、雅紀が。
九条が喘息の発作を起こした夜、合歓は何度も真壁家へ来た。髪も服も乱れ、上着のボタンがずれていても、九条を背負う腕だけは離さなかった。何を持ってくるべきか分からず、タオルと財布と使いかけの吸入器と、なぜかスーパーのレシートまで袋に詰めていた。だが、必要なものが何もないわけではなかった。水、薬、保険証、メモ帳。順番はめちゃくちゃでも、九条を助けるためのものだけは、どこかに入っていた。
真壁の母親はよく言っていた。
合歓ちゃんは危なっかしいけど、雅紀のことだけは外さないね。
真壁は、その言葉の意味を大人になるまでよく分かっていなかった。
今、ようやく分かる気がした。
合歓は、最初から外の世界で生きるための知識を持っていなかった。
それでも九条を抱えて、外へ出てきた。
たった一人生き残り、赤ん坊を抱いて、知らない町へ来た。
あの古い平屋へ。
「真壁さん?」
三谷の声で、真壁は現実へ戻った。
「ああ」
「この名前、何か」
「知っている」
「関係者ですか」
「九条雅紀の母親だ」
三谷の顔に驚きが浮かんだ。
「九条先生の?」
「そうだ」
三谷は資料を見直した。
「では、唯一の生存者というのは」
「九条の母親だ」
言葉にすると、さらに重くなった。
御堂聖真の焼死。
礼拝堂の灰。
山から来る灰。
御津窪集落火災。
唯一の生存者、九条合歓。
線は、はっきりしすぎていた。
真壁はしばらく机の上の資料を見つめた。
刑事としてなら、次に考えるべきことは明白だった。
九条雅紀は、この事実を知っていたのか。
知っていたなら、なぜ黙っていたのか。
知らなかったなら、御堂の事件とどう接続するのか。
そして、挑戦状を真壁に送った犯人は、なぜ九条の母へ辿り着く導線を作ったのか。
だが、真壁の中には刑事ではない声もあった。
あいつに、何があったんだ。
それは、幼なじみとしての声だった。
九条は、父親が生後すぐ死んだとだけ言っていた。いや、正確には、九条自身が語ったことはほとんどない。周囲の大人がそう言い、真壁もそう理解していただけだ。
父親は早くに亡くなった。
母親と二人で、斜め前の古い平屋に住んでいる。
親戚はいない。
母親は若く、仕事を掛け持ちし、九条は幼い頃から家計のことを気にする。
それが真壁の知っている九条だった。
だが、その背後に村があった。
焼かれた村が。
宗教団体が。
御堂聖真が。
真壁は、記事の端を指で押さえた。
「三谷さん。消防記録を急いだほうがいい。それと当時の捜査関係者を洗う。退職者も含めてです」
「はい」
「光胎寮の資料も。白胎会への組織移行、御堂の役職、幹部名簿、当時の顧問弁護士、関連医療機関」
「医療機関もですか」
「生存者は産婦人科に入院していた。それに、火傷した幹部が光胎病院へ行ったというメモがある。診療記録が残っているかもしれない」
「二十九年前ですよ」
「残っていなくても、廃棄記録がある。病院の承継先も調べてくれ。白胎総合医療センターだ。管轄の刑事でもないのにあれこれ指示してすまないが」
「いえ、本庁捜査一課へ参加要請をしたのはこちらなので、それは」
「わかった。それと、この資料はまだ外に出さないほうがいい」
三谷は頷いた。
だが、真壁は自分で言いながら、それがほとんど意味のない指示だと分かっていた。
すでに情報は流れている。
匿名アカウントは、九条の名札の画像を出した。
次は九条合歓の名前が出るだろう。
出す気なら、いつでも出せる。
誰かが、順番を決めている。
真壁は資料室を出た。
廊下の向こうから、二階堂が電話をしながら戻ってきた。
目の下に薄い影がある。片手には紙の束、もう片方の手にはスマートフォン。電話口では落ち着いた声を保っていたが、真壁と目が合った瞬間、顔つきが変わった。
「また後で折り返します」
そう言って通話を切る。
「出たか」
二階堂が聞いた。
「何が」
「九条合歓」
真壁は少しだけ眉を動かした。
「もう知ってるのか」
「ネットにはまだフルネームは出てない。だが、匿名アカウントが次の投稿を匂わせてる。“唯一の生存者は、白い子を抱いて山を下りた”だと」
「白い子」
二階堂は真壁の表情を見て、声を低くした。
「九条だな」
「おそらく」
「おそらくじゃないだろ」
真壁は答えなかった。
二階堂は周囲を見て、人気のない会議室へ真壁を引っ張った。
扉を閉める。
「資料は?」
真壁は持っていたコピーを机に置いた。
二階堂はそれを読み、途中で小さく息を吐いた。
「九条の母親が唯一の生存者」
「ああ」
「御堂は当時、光胎寮の指導者」
「ああ」
「村は事故扱いに近い形で処理」
「少なくとも資料は薄い」
「それで今回、御堂は火で死んだ。現場には山の灰。挑戦状は“死因を誤るな”」
二階堂は資料を机に置いた。
「できすぎてる」
「そうだな」
「できすぎてる時は、大抵誰かができるように置いてる」
「お前もそう見るか」
「広報でも刑事でもなく、普通に見てそう思う」
二階堂は椅子に座り、額を押さえた。
だが、次の瞬間には資料の別の束へ目を移した。
「これ、何だ」
「教義資料と匿名供述メモだ」
二階堂は素早く読んだ。
聖暦二七二七年。
二月七日。
聖水。
聖火。
白胎のしるし。
謀反の者。
御津窪白胎支部建設予定地。
幹部の火傷。
光胎病院。
政治献金。
県警幹部の再就職。
二階堂の顔から、いつもの軽さが消えた。
「思ったより悪いな」
「ああ」
「これ、ただの宗教事件じゃない。土地と金と政治が絡んでる」
「そう見える」
「御津窪は、教義で焼かれたんじゃない。教義を使って焼かれたんだ」
真壁は二階堂を見た。
二階堂の言葉は、広報官のものではなかった。
だが、的確だった。
「土地が欲しかった。内部告発者を消したかった。教義上の節目を利用した。火を浄化と言い換えた。行政と警察には政治の圧があった。関連病院で証拠になりそうな火傷も処理した。そういう構図だろ」
「まだ証明はできない」
「分かってる。だが、臭いがする」
二階堂は資料を机に置いた。
「九条に聞いたのか」
「まだだ」
「聞けよ」
「聞く」
「真壁」
「何だ」
「幼なじみの顔で聞くなよ」
真壁は二階堂を見た。
二階堂の顔は真剣だった。
「刑事の顔で聞け」
その言葉は、思ったより深く刺さった。
「分かってる」
「分かってない顔をしてる」
「うるさい」
「うるさく言うのが俺の役目だ」
二階堂は資料をもう一度見た。
「それにしても、九条の母親、十六で産んだのか」
「そうだろうな」
「相手は成人済み。しかも年上の従兄」
二階堂の声から、いつもの軽さが消えた。
「美談にしちゃいけないやつだな」
真壁は黙った。
「教団から逃げた。腹の子を守った。そこだけ見れば、確かにそうだ。でも、合歓さんは十六だ。村の外を知らない。相手は外へ出られる男で、金も道も病院も知っていた。救いだったとしても、対等じゃない」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
真壁は言い返さなかった。
合歓にとって、その男は世界のすべてだったのかもしれない。
だが、世界のすべてしか選べないことは、自由とは違う。
それでも、その男がいなければ、合歓は御津窪から出られなかった。九条雅紀は、白い子として神に返されていたかもしれない。
救いと加害は、同じ腕の中にある。
真壁はそう思った。
そして、その腕はもう焼けていた。
「村の中で育った宗教二世。外の常識を知らない。火災時は産婦人科に入院中。生存後、赤ん坊を連れて神奈川へ」
「斜め前の平屋だ」
二階堂は顔を上げた。
「お前の家の?」
「そうだ」
「そんなに近かったんだな。偶然?」
「今は分からない」
「九条の母親は何も言ってなかったのか」
「ああ。父親が用意していた可能性がある」
二階堂は黙った。
その沈黙は、驚きというより、納得に近かった。
「三人で逃げる予定だった?」
「かもしれない」
「でも父親は村で死んだ」
「ああ」
二階堂は資料の中の小さな文字を見つめた。
「九条は、これを知ってたのか」
「それを聞く」
「知らなかったら?」
「今回の事件で知ることになる」
「きついな」
「知っていたら?」
二階堂はしばらく黙った。
「もっとまずい」
二人の間に沈黙が落ちた。
会議室の外では、誰かが廊下を走る音がした。電話の呼び出し音。コピー機の作動音。事件は動いている。だがこの部屋の中だけ、過去の灰が落ちているようだった。
二階堂が口を開いた。
「真壁。九条がこの事実を知っていて、御堂が火で殺されたとしたら」
「言うな」
「言わないといけない」
「分かってる」
「九条は容疑者になる」
真壁は机の上の資料から目をそらさなかった。
九条雅紀。
法医学者。
御堂の遺体を見て、死因を語った男。
死因を誤るなという言葉に、奇妙なほど近い男。
焼かれた村の唯一の生存者の息子。
刑事としてなら、疑わない理由はなかった。
疑う理由なら、いくらでもある。
だが真壁は、九条が母親の死後に見せた顔を思い出していた。
十七歳の冬。
九条の家の前に、警察車両が停まっていた。
斜め前の古い平屋。
玄関の戸が開きっぱなしで、近所の大人たちが不安そうに集まっていた。
合歓が死んだ。
そう聞かされた時、真壁はすぐに意味を理解できなかった。
あの危なっかしい若い母親が、死ぬということと結びつかなかった。
いつも何かを忘れ、慌て、九条に叱られ、それでも笑っていた人だった。
家の中で、九条は立っていた。
泣いていなかった。
泣くより先に、何かを計算している顔だった。
警察官が聞いた。
「他にご家族は?」
九条は答えた。
「いません」
その一言を、真壁は今でも覚えている。
声は震えていなかった。
だが、その言葉の後、九条の周囲から何かがすっと消えたように見えた。
家族はいない。
親戚もいない。
母もいない。
あの時、九条は本当に一人になった。
そう思っていた。
だが違ったのかもしれない。
九条は、生まれた時から一人にされていた。
母がいたから一人ではなかっただけで、その外側にはすでに何もなかった。
「真壁」
二階堂の声で、真壁は我に返った。
「九条に会う」
真壁は立ち上がった。
「俺も行く」
「広報は?」
「今は真壁の監視も広報業務に含める」
「勝手に含めるな」
「お前、顔が幼なじみになってる」
「うるさい」
「二回目だぞ、それ」
二階堂は資料を封筒に入れ、真壁へ渡した。
「聞くなら、この順番だ。まず九条が村火災を知っていたか。次に、母親が唯一の生存者だったことを知っていたか。御堂との関係を知っていたか。御津窪が事故ではなく組織的な放火だった可能性を知っていたか。最後に、今回の事件がその火災をなぞっていると思うか」
「尋問の段取りまで広報が組むのか」
「お前が余計なことを聞きそうだからだ」
「余計なこと?」
「“大丈夫か”とか」
真壁は黙った。
二階堂は小さく息を吐いた。
「それを聞くのは、今じゃない」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
今度は真壁が少し強く言った。
九条は県警本部の解剖関連資料室にいた。
机の上には、御堂聖真の解剖所見の写し、血液検査の速報値、火災現場の写真、灰の成分分析の初期報告が並んでいる。九条はそれらを一枚ずつ見ていた。資料を読む姿勢は、いつもと変わらない。背筋は伸び、視線は淡々と動き、指先は必要な箇所以外に触れない。
真壁と二階堂が入ると、九条は顔を上げた。
「何」
それだけだった。
真壁はドアを閉めた。
二階堂は壁際に立つ。
口を出すつもりはないらしい。だが、聞き漏らす気もない顔だった。
「御津窪集落火災を調べた」
真壁は言った。
九条の表情は変わらなかった。
「そう」
「二十九年前。光胎寮の関連集落。三十二人死亡。二人不明。御堂聖真は当時、指導者の一人」
「資料にあった?」
「お前、知ってたのか」
九条はすぐには答えなかった。
沈黙があった。
その沈黙の間、真壁は九条の目を見ていた。
いつもの沈黙か。
言わないための沈黙か。
言えないための沈黙か。
九条は、やがて短く答えた。
「知っていた」
二階堂が壁際でわずかに動いた。
真壁は続けた。
「お前の母親が唯一の生存者だったこともか」
「ああ」
「御堂との関係も」
「資料上は」
「資料上?」
「証明できる範囲では、御堂は光胎寮の指導者の一人だった。火災との直接関与は証明されていない」
「お前はどう思ってる」
「それは刑事の質問?」
「そうだ」
「なら、証拠で話して」
「幼なじみとして聞いたら」
九条の目が、わずかに冷えた。
「聞くな」
短い言葉だった。
真壁は、その拒絶を受け止めた。
昔から、九条はこういう線を引く。
踏み越えようとすれば、黙る。
黙ったまま、こちらが諦めるまで待つ。
だが今は、諦めるわけにはいかない。
「御津窪は、事故じゃない可能性が出ている」
真壁は封筒から資料を出した。
「聖暦二七二七年。二月七日。白胎のしるし。聖水。聖火。村の四方からの出火。逃げ道の封鎖。火傷した幹部。関連病院。支部建設予定地。政治家との金」
九条の目は資料を見ていた。
表情は変わらない。
だが、真壁は見逃さなかった。
光胎病院の文字が出た時、九条の指がわずかに止まった。
「知っていたのか」
真壁が聞いた。
「断片的には」
「御堂が直接火を放ったというメモもある」
「証明されていない」
「だから黙っていた?」
「証明されていないことを言えば、物語になる」
「物語?」
「御堂が村を焼いた。九条合歓は生き残った。九条雅紀はその息子だ。そう並べれば、誰でも復讐の話にする」
九条の声は静かだった。
「それは証明ではない」
「だが捜査の端緒にはなる」
「端緒と物語の境界は曖昧だ」
「曖昧でも出せ」
真壁は一歩近づいた。
「今回の御堂の死は、御津窪の火災をなぞってる。現場の灰。焼死。火災前の投稿。匿名アカウント。全部がそこへ向かってる」
「そうだな」
「そうだな、じゃない。お前はそれを知っていたのに、なぜ黙っていた」
「黙っていたわけではない」
「何を言った」
「火災を再現したかった可能性がある、と言った」
「御津窪とは言わなかった」
「証明できていなかった」
真壁はさらに一歩近づいた。
「九条」
「何」
「証明できていなくても、捜査の端緒になる情報は出せ」
「個人的事情を混ぜれば、捜査が歪む」
「もう歪んでる」
「なら、なおさらだ」
九条の声は平坦だった。
二階堂が口を挟んだ。
「九条、質問を変える」
九条は二階堂を見た。
「お前は、この事件が広がることを望んでるのか」
「昨日も聞いたな」
「答えてないからだ」
「望んでいない」
「なら、なぜ止めようとしない」
「止めるのはお前の仕事だ」
「俺の仕事を利用するな」
九条は黙った。
その沈黙に、二階堂の目が鋭くなる。
「今の沈黙は何だ」
「答える必要がない」
「ある。俺は昨日からずっと情報の火を消してる。だが、消そうとすればするほど、過去の村火災へ向かって燃えていく。誰かが道を作ってる。九条、お前はその道を知っているように見える」
「知っていることと、作ったことは違う」
「じゃあ作ってないんだな」
九条は、すぐには答えなかった。
真壁の胸の奥が冷えた。
「九条」
今度は真壁が言った。
「答えろ」
九条はゆっくりと真壁を見た。
「作っていない」
その答えは短かった。
だが、真壁は刑事だった。
言葉の形だけで安心することはできない。
「今回の事件に関与していないと言えるか」
二階堂が続けた。
真壁は横目で二階堂を見た。
踏み込むのが早い。
だが、聞くべきことだった。
九条は表情を変えなかった。
「俺は御堂聖真を殺していない」
部屋の空気が止まった。
否認としては、正しい。
正しすぎる。
二階堂がすぐに言った。
「事件に関与していないか、と聞いた」
「御堂聖真を殺していない」
「答えをずらすな」
「今言えるのはそれだけだ」
真壁は、九条を見つめた。
今言えるのはそれだけ。
その言葉は、無実を示すものではなかった。
「なぜそれだけなんだ」
真壁が聞く。
九条は答えない。
「誰かを庇ってるのか」
答えない。
「それとも、まだ証明できない何かを知っているのか」
答えない。
二階堂が低く言った。
「真壁、これ以上は場所を変えた方がいい」
「いや」
真壁は九条から目をそらさなかった。
「ここで聞く」
「真壁」
「九条。お前の母親のことだ」
九条の目が、わずかに動いた。
真壁は続けた。
「お前の母親は、あの火災で生き残った。その後、俺の家の斜め前の平屋へ来た。お前を抱いて」
「知っている」
「いつ知った」
九条は黙った。
「子どもの頃からか」
「断片的には」
「全部を知ったのは」
九条は視線を資料へ落とした。
「母が死んでからだ」
その声は、これまでで一番低かった。
真壁は息を止めた。
母が死んでから。
十七歳の冬。
あの平屋。
「他にご家族は?」
「いません」
その後に、九条は何を見つけたのか。
「何で知った」
真壁が聞いた。
九条は答えなかった。
二階堂も黙っていた。
長い沈黙の後、九条は言った。
「記録があった」
「記録?」
「母が残したものだ」
「日記か」
「日記ではない」
九条はそこで口を閉じた。
それ以上は、言う気がないのだと分かった。
真壁は、問いを変えた。
「その記録に、御堂の名前はあったのか」
「直接はない」
「では、どうやって御堂に辿り着いた」
「調べた」
「いつから」
「医学部に入ってから」
二階堂が小さく息を吐いた。
「ずっと調べてたのか」
九条は二階堂を見なかった。
「母の死因に疑問があった」
「御津窪じゃなくて、お母さんの?」
「ああ」
真壁の胸がまた冷えた。
「お前の母親の死因は、若年性脳梗塞だったな」
九条は頷いた。
「お前は疑っていた」
「十七歳の時点では、疑問だった。証明はできなかった」
「今は」
「まだ、証明できていない」
「誰が診断した」
九条は黙った。
だが真壁は、もうその沈黙の意味を理解し始めていた。
「鷲尾貞成か」
その名前を出した瞬間、九条の指先が止まった。
ほんのわずかだった。
だが、止まった。
二階堂も見ていた。
「鷲尾貞成」
二階堂が繰り返した。
「誰だ」
真壁は九条を見たまま答えた。
「九条の母親の死因を書いた医師がそうなんじゃないか?」
九条は否定しなかった。
二階堂が低く言う。
「医師か」
真壁は九条に聞いた。
「鷲尾は御津窪火災当時、光胎病院にいた」
九条は答えない。
「火傷した幹部を診療した可能性がある」
答えない。
「御堂の犯罪を隠した可能性がある」
答えない。
「お前の母親の死因も書いた」
九条は、ようやく口を開いた。
「可能性の積み上げだ」
「そうだ」
「可能性は証拠ではない」
「だが、お前の沈黙は証拠に近づいてる」
九条の目が冷えた。
「沈黙は証拠ではない」
「刑事は沈黙も見る」
「危険な仕事だな」
「お前の仕事もな」
二人はしばらく睨み合った。
先に口を開いたのは、二階堂だった。
「御堂の次は鷲尾だと思っているのか」
九条は、初めて真壁ではなく二階堂を見た。
「次があると決めるな」
「犯人は二通目を出すかもしれない」
「可能性はある」
「お前はそれを知ってるのか」
「知らない」
「本当に?」
「知らない」
今度の答えは早くなかった。
真壁は、その違いを覚えた。
九条は御堂を殺していないと言った。
事件に関与していないとは言わなかった。
次を知らないとは言った。
だが、可能性はあると言った。
つまり九条の中では、この事件はまだ終わっていない。
御堂の死だけでは、死因は訂正されない。
そう考えているのか。
「九条」
真壁は静かに言った。
「お前が知っていることを全部出せ」
「出せない」
「なぜ」
「証拠にならない」
「証拠になるかどうかは、こっちが判断する」
「違う」
「何が違う」
「証拠にならないものは、誰かの物語になる」
真壁は黙った。
九条は続けた。
「御堂は死んだ。教団は殉教にした。ネットは復讐劇にした。お前たちは事件にする。二階堂は発表文にする。母のことも、村のことも、誰かが物語にする」
九条の声は静かだった。
だが、その静けさの底に、硬いものがあった。
「俺が証明できないことを話せば、それも物語になる」
「だから黙るのか」
「死因を誤らせたくない」
また、その言葉だった。
真壁は、その一文が九条の内部にどれほど深く根を張っているのかを、初めて少しだけ見た気がした。
これは事件の挑戦状ではない。
九条という人間の背骨に近い。
そう思った瞬間、真壁は自分を叱った。
理解するな。
まだ早い。
こいつは今、容疑者に近い場所にいる。
「九条」
「何だ」
「お前は御堂を恨んでいたか」
九条は答えなかった。
「父親を焼いたかもしれない男だ。村を焼いたかもしれない男だ。母親の人生を壊したかもしれない男だ。恨んでいたか」
九条は、長く沈黙した。
そして言った。
「恨みという言葉は、便利すぎる」
「答えになってない」
「恨んでいたと言えば、それで説明が終わる」
「終わらせたくないのか」
「終わらせるな」
その声が、少しだけ強くなった。
二階堂が壁際で黙っている。
真壁は九条を見た。
九条は、自分が踏み込みすぎたことに気づいたように、一度だけ目を伏せた。
「御堂の死を、俺の恨みで処理するな」
「誰が処理すると言った」
「お前は刑事だ」
「そうだ」
「なら、死因を見ろ」
真壁は苛立ちを抑えた。
「お前に言われなくても見る」
「ならいい」
「よくない」
真壁は机に手をついた。
「お前は事件の中心に近すぎる。御堂の死因にも、御津窪にも、母親にも、鷲尾にも近い。近すぎるんだ」
「近いからこそ見えるものもある」
「近いから見えなくなるものもある」
九条は黙った。
「しばらく、単独で資料に触るな」
真壁が言うと、九条の表情が初めてわずかに変わった。
「俺を外すのか」
「外すとは言っていない」
「同じだ」
「違う。お前は法医学者として必要だ。だが、個人的関係が出た以上、扱いを変える」
「合理的だな」
その言い方に、真壁は腹が立った。
「お前がいつも言ってることだろ」
「そうだな」
九条は資料を閉じた。
その動作は静かだった。
怒っているようには見えない。
だが、真壁には分かった。
九条は遠ざかった。
物理的には同じ部屋にいる。
だが、さっきより少し遠い。
二階堂が、ようやく口を開いた。
「九条」
「何だ」
「一つだけ聞く。広報として」
「またか」
「今回の件で、お母さんの名前が外に出る可能性がある」
九条は動かなかった。
二階堂は続けた。
「九条合歓。唯一の生存者。白い子を抱いて山を下りた女。ネットはそういう言葉にする。教団は否定する。メディアは探す。お前の母親は、また誰かの物語にされる」
九条の目が、二階堂へ向いた。
「止められるのか」
二階堂は少し黙った。
「完全には無理だ」
「なら聞くな」
「でも、出し方は変えられる」
「変えるな」
二階堂は眉をひそめた。
「変えるな?」
「母を、都合よく守るな」
その言葉に、真壁も二階堂も黙った。
「母は生き残った。逃げた。俺を育てた。死んだ。それだけだ」
九条の声は静かだった。
「かわいそうな女にも、奇跡の生存者にも、宗教被害者の象徴にもするな」
二階堂は真剣な顔で聞いていた。
「じゃあ、どう出せばいい」
「事実だけでいい」
「お前、それが一番難しいって分かってるか」
「だから、お前の仕事だろ」
二階堂は一瞬、何か言い返そうとして、やめた。
代わりに、小さく笑った。
「嫌な信頼のされ方だな」
「信頼はしていない」
「だろうな」
部屋の空気が少しだけ緩んだ。
だが、真壁の中の緊張は解けなかった。
その時、三谷がノックもそこそこに入ってきた。
「真壁さん」
顔が強張っていた。
「消防記録の一部が見つかりました」
「御津窪か」
「はい。遺体の身元確認メモも一部残っていました。それと……」
三谷は九条をちらりと見た。
真壁は言った。
「続けろ」
「生存者の証言として、火災当日、村の複数箇所で同時に火の手が上がった可能性があると記録されています」
「放火とあるのか」
「断定はされていません。ただ、出火点が複数というメモがあります」
「なぜ事故扱いになった」
「当時の正式報告では、燃料保管場所からの延焼とされています。ただ、その根拠が薄いです」
三谷はもう一枚の紙を差し出した。
「それから、光胎病院の診療記録の索引に、火傷処置の記載、患者名が判明しました。火災翌日の朝です」
真壁は紙を受け取った。
「患者名は」
「仁科重光。現在の仁科理事です」
二階堂が低く息を吐いた。
「本人か」
「傷病名は、右足背部熱傷。軽度。処置内容は外用薬と包帯。受傷原因は“山中作業中の事故”となっています」
「診療した医師は」
三谷は紙の下部を指した。
「鷲尾貞成です」
真壁は九条を見た。
九条は顔を上げていなかった。
資料だけを見ていた。
だが、その沈黙は、部屋の空気を重くした。
仁科は火災翌日に足を火傷していた。
診療したのは鷲尾。
光胎病院。
御堂の幹部。
匿名メモの内容と重なる。
完全な証明ではない。
だが、紙の中で乾いていた事件に、初めて熱が戻った。
三谷はさらに言った。
「それと、遺体ラベルの控えに、九条姓の記載があります」
真壁は紙を受け取った。
コピーの文字は薄く、所々読めない。
手書きのメモだった。
たぶん、ふみえさん。
男。年齢不明。
歯。
腕時計。
わからない。
たぶん、まさきのお父さん。
最後の一行を見た瞬間、真壁は呼吸を忘れた。
まさきのお父さん。
漢字ではない。
ひらがなだった。
震えたような字だった。
誰が書いたかは、聞かなくても分かった。
九条合歓。
真壁は、九条を見た。
九条は紙を見ていなかった。
いや、見ないようにしていた。
その横顔は、礼拝堂の夜に見た時と同じだった。
燃え広がる言葉の火ではなく、もっと古い火を見ている顔。
二階堂も紙を覗き込んだ。
言葉を失う。
三谷だけが、その重さを完全には理解できずに立っていた。
「九条」
真壁は紙を持ったまま言った。
「これは、お前が母親の記録で見たものと同じか」
九条は答えなかった。
「九条」
「同じではない」
「どう違う」
「母の記録の方が、字が汚い」
その返答は、あまりにも九条らしく、そして痛かった。
真壁は言葉を失った。
九条は続けた。
「母は、きれいな字を書けなかった」
それだけ言って、九条は紙を見た。
ほんの一瞬だけ。
その目に浮かんだものを、真壁は読み取れなかった。
怒りか。
悲しみか。
諦めか。
それとも、それらをすべて死因という言葉の中へ押し込めた何かなのか。
九条はすぐに目を逸らした。
「これは証拠になる」
九条は言った。
「出火点が複数なら、事故ではない可能性が高い。仁科の熱傷記録は、匿名メモとの整合性がある。鷲尾が診療していたなら、光胎病院が幹部の関与を把握していた可能性もある。遺体の身元確認も、当時の処理が不十分だった可能性を示す。正式記録と突き合わせろ」
声は法医学者のものに戻っていた。
真壁は思った。
戻ったのではない。
戻したのだ。
九条は、自分の母親の震えた字を見ても、すぐに証拠の話へ戻れる。
戻れてしまう。
それが九条の強さなのか、壊れ方なのか、真壁には分からなかった。
「分かった」
真壁は紙を封筒に入れた。
「御津窪へ行く」
二階堂が言った。
「今からか」
「現地を見る。消防記録だけじゃ足りない。当時の地形、逃げ道、出火点。全部確認する」
「俺も行く」
真壁は九条を見た。
「お前は来るな」
九条は予想していたように、表情を変えなかった。
「なぜ」
「個人的関係が濃すぎる」
「俺は地形を知っている」
「だから来るな」
二階堂が横から言った。
「今回は真壁が正しい」
九条は二階堂を見た。
「広報が捜査判断をするのか」
「しない。だが、お前が来たら現場の意味が変わる」
「意味?」
「御津窪は、お前にとって現場じゃない。出生地みたいなものだろ」
九条は答えなかった。
二階堂は続けた。
「今のお前が行くと、真壁が刑事でいられなくなる」
真壁は、二階堂を見た。
図星だった。
九条が御津窪へ行けば、真壁は現場を見るのと同時に、九条を見る。
焼けた村を、事件としてだけでは見られなくなる。
幼なじみが生まれた背景として見てしまう。
それは捜査を歪める。
「九条。資料は共有する」
真壁は言った。
「必要な法医学的意見は聞く。だが現地には来るな」
九条は少しだけ沈黙した。
「分かった」
意外なほどあっさりした答えだった。
だが、真壁は安心しなかった。
九条が素直に引いた時ほど、何かを自分で決めている可能性がある。
「勝手に動くなよ」
真壁が言うと、九条は短く答えた。
「必要がなければ」
「必要があっても、俺に言え」
「検討する」
「検討じゃない」
「努力する」
二階堂が小さく笑った。
「返事になってないな」
九条は何も言わなかった。
その日の午後、真壁と二階堂は御津窪へ向かった。
車は県道を外れ、細い山道へ入った。
六月の緑が濃い。山肌には湿気がまとわりつき、道路脇の側溝には濁った水が流れている。二十九年前の火災がどの季節だったのか、真壁は資料を見直した。
二月。
深夜。
乾燥注意報は出ていなかった。
それなのに火の回りは異常に早かった。
「複数出火なら、逃げ道を塞いだ可能性がある」
二階堂が助手席で言った。
「消防記録にもその示唆がある」
「なのに事故」
「燃料保管場所からの延焼」
「便利だな、燃料」
「便利な説明ほど疑え」
「刑事っぽい」
「刑事だからな」
二階堂は窓の外を見た。
「御津窪が燃えた理由、かなり具体的になってきたな」
「ああ」
「聖暦二七二七年。二月七日。謀反の者。土地の浄化。支部建設。政治と金。嫌になるほど人間臭い」
「宗教の皮をかぶった土地取りかもしれない」
「それだけでもないだろうな。御堂みたいな人間は、金だけで動かない。信じさせるためには、自分も半分信じてる顔をする」
「半分か」
「全部信じてる信者なら、まだ救いがある。半分信じて、半分利用してる奴が一番怖い」
真壁はハンドルを握ったまま黙った。
二階堂の言う通りだった。
御堂聖真は、金のためだけに火を放ったのではない。
信仰のためだけでもない。
教義で人を縛り、土地を欲し、謀反という言葉で異物を消し、政治で事故にした。
その全体が、犯罪だった。
「九条の父親、ここにいたんだな」
「ああ」
「名前も分からない」
「少なくとも、今の資料では」
「九条は知ってるのか」
「知らない可能性が高い」
「母親は知っていただろう」
「書けなかったんだろうな」
二階堂は黙った。
しばらく山道の音だけが続いた。
タイヤが小石を踏む音。
枝が車体を擦る音。
遠くの鳥の声。
御津窪集落跡は、道の行き止まりにあった。
村というより、山の斜面に人の生活の跡が点々と残っている場所だった。舗装は途中で途切れ、古い石垣と崩れた基礎が雑草に埋もれている。家屋はほとんど残っていない。二十九年の時間が、焦げ跡を緑で覆っていた。
だが、完全には消えていなかった。
黒ずんだ石。
半分埋まった井戸。
焼けて曲がった金属片。
何かの柱の根元。
真壁は車を降り、しばらく黙って立った。
ここで火が出た。
ここで三十二人が死んだ。
ここで二人が消息を絶った。
ここで九条の父親が死んだ。
ここで合歓は、産後の体で遺体に札をつけた。
そして、ここから合歓は赤ん坊を抱いて山を下りた。
「思ったより狭いな」
二階堂が言った。
「ああ」
「こんな場所で複数箇所に火がついたら、逃げ場は少ない」
真壁は地形図を開いた。
資料に記された出火点候補と、現在の地形を照合する。
集会所跡。
倉庫跡。
共同炊事場跡。
山道へ続く入口付近。
「入口側にも火が出てる」
二階堂が指差した。
「逃げ道を塞いだな」
「断定はできない」
「九条みたいなこと言うなよ」
「証明できない」
「やっぱり九条だ」
真壁は返事をしなかった。
集会所跡へ向かう途中、古い石段があった。
段差は不揃いで、苔が生えている。足を滑らせないように慎重に上る。
上りきった場所に、焼け残った石の台座のようなものがあった。
おそらく、祈りの場だったのだろう。
二階堂が周囲を見回した。
「ここで御堂が話してたのか」
「当時の写真では、ここに木造の集会所があった」
「先生、か」
二階堂の声には嫌悪が混じっていた。
「ここが中央の壇なら、白胎のしるしってやつも見えるな」
二階堂は地図を広げ、指で点を結んだ。
西の道。
北の倉。
東の家。
南の井戸。
中央の集会所。
五つの点を頭の中で結ぶと、確かに輪のような形になる。
村の生活の配置が、そのまま放火の図柄に使われている。
「気持ち悪いな」
二階堂が言った。
「ああ」
「生活の場所を、宗教の紋章に変えて燃やしてる」
真壁は石台を見た。
火は、ここに置かれた。
御堂聖真の礼拝堂でも、御津窪でも。
偶然燃えたのではない。
ここで燃えなければならなかった。
九条の言葉が、また蘇った。
「父母も宗教二世だったんだろうな」
二階堂が言った。
「資料上はそう見える」
「逃げようとしていた可能性は?」
「まだ分からない」
「でも、神奈川の平屋があった」
「それも調べる」
「父親が用意した家か」
真壁は斜面の下を見た。
山道は細く、曲がっている。
夜、火に囲まれたら、逃げるのは難しいだろう。
煙が上がり、熱が迫り、どこが出口か分からなくなる。
合歓の夫は、その中で死んだ。
息ができなくなって死んだ。
真壁は、幼い九条の声を思い出した。
お父さんはなんで死んだの?
その記憶は、はっきりした映像ではない。
断片だった。
斜め前の平屋。
夏の夕方。
玄関先にしゃがみ込む幼い九条。
合歓が洗濯物を抱えている。
真壁は道場へ行く前で、竹刀袋を肩にかけていた。
九条が母親に聞いた。
お父さんはなんで死んだの?
合歓は一瞬だけ動きを止めた。
そして、困ったように笑った。
あのね、お父さんね、息ができなくなって死んだんだよ。
真壁は、その時の言葉を病気の話だと思った。
喘息か、肺の病気か、そういうものだと。
九条も、そう思ったのかもしれない。
だが違った。
息ができなくなったのは、病気のせいではない。
火と煙のせいだった。
熱い空気が気道を焼き、煙が肺に入り、逃げ道を塞がれた山の中で、呼吸が奪われた。
真壁は拳を握った。
二階堂が横から見た。
「思い出したか」
「少しな」
「何を」
「九条が、父親の死因を聞いていた」
二階堂は黙った。
「合歓さんは何て」
「息ができなくなって死んだ、と」
二階堂の表情が変わった。
「それは……」
「ああ」
「きついな」
「きついなんてもんじゃない」
真壁は焼けた石台を見た。
あの言葉を、九条はどう受け止めていたのか。
幼い頃は病死だと思っていた。
喘息持ちの自分とどこかで重ねていたかもしれない。
母の死後、記録を読み、真相を知った時、何が起きたのか。
父は病気で息ができなくなったのではない。
炎で喉を焼かれ、煙で肺を満たされ、呼吸できずに死んだ。
九条は、それを知った。
十七歳で。
母も死んだ後に。
「真壁」
二階堂が言った。
「この事件、九条を疑わない方が無理だ」
「分かってる」
「でも、九条だけを疑うのも危ない」
「どういう意味だ」
「犯人が九条へ向けて線を引いてる可能性がある。九条を犯人に見せたいのか、九条に真相を見せたいのか、それとも九条自身が線を引いてるのか。まだ分からない」
「お前にしては慎重だな」
「広報は疑いすぎるくらいでちょうどいい」
「刑事もだ」
二人は集落跡をさらに歩いた。
共同炊事場跡。
倉庫跡。
住居跡。
逃げ道だったと思われる細い山道。
どこも草に覆われ、虫の音がしていた。
死の場所というより、忘れられた場所だった。
それが真壁には腹立たしかった。
三十二人が死に、二人が消えた場所が、こんなにも簡単に緑に隠される。
紙の中で乾き、山の中で覆われ、誰も語らなくなる。
御堂聖真は、そんな過去を踏み台にして白胎会を作ったのか。
そして今、自分の死すら教団に利用されている。
真壁は、挑戦状の言葉を思い出した。
あの一文は、御堂の死にだけ向けられた言葉ではなかった。
ここで死んだ者たちへの言葉でもある。
真壁はようやく、その重さを理解し始めていた。
夕方、山を下りる前に、真壁はもう一度集落跡を振り返った。
木々の間から、わずかに空が見える。
二十九年前、ここは火で赤かったのだろう。
逃げ場のない夜。
煙。
熱。
叫び。
白い服の幹部たち。
聖水と呼ばれた燃料。
火を持った御堂。
輪のように燃える村。
そして、ふもとの産婦人科で生まれた白い子。
その子は今、法医学者になっている。
死因を読む男になっている。
偶然とは思えなかった。
だが、必然と呼ぶには痛すぎた。
車に戻ると、二階堂の携帯が鳴った。
画面を見た二階堂の表情が変わる。
「何だ」
真壁が聞く。
二階堂は通話に出ず、画面を見せた。
匿名アカウントの新しい投稿だった。
《一度目は、息を奪った者》
それだけだった。
真壁は画面を見つめた。
一度目。
では、二度目がある。
二階堂が低く言った。
「真壁」
「ああ」
真壁はすぐに車のドアを開けた。
「鷲尾を洗う」
二階堂は助手席に乗り込みながら、もう一度画面を見た。
「二度目は、声を奪った者」
「まだ出てない」
「出るだろ」
「ああ」
車が山道を下り始める。
バックミラーの中で、御津窪集落跡が緑に沈んでいく。
真壁はアクセルを踏み込みながら、九条の顔を思い浮かべた。
九条は、次があることを知っていたのか。
知らなかったのか。
それとも、ずっと待っていたのか。
答えはまだ出ない。
だが一つだけ、はっきりしていた。
事件は、御堂聖真の死で終わらない。
焼かれた村の灰は、まだ名を覚えている。
そしてその名の一つは、九条だった。
