死んだ腕に抱かれる

 二階堂壮也は、火事が嫌いだった。
 正確に言えば、火そのものよりも、燃え広がるものが嫌いだった。
 火は目に見える。煙も見える。熱も感じる。燃えている場所が分かれば、水をかけるなり、遮断するなり、逃げるなり、まだ取れる手段がある。
 だが、言葉の火は違う。
 一度広がり始めると、どこが火元なのか分からなくなる。
 誰が最初に火をつけたのかも、誰が油を注いだのかも、誰がそれを眺めて楽しんでいるのかも、すぐに混ざって見えなくなる。
 デマ、憶測、怒り、善意、正義感、被害者意識、陰謀論。
 それらは同じ形をして燃える。
 そして最も厄介なのは、燃やしている本人たちが、自分は水をまいているつもりでいることだった。
 午前十時二十一分。
 警視庁広報課の臨時対応用チャットには、すでに百件を超える通知が流れていた。
 《白胎会代表死亡の件、報道各社問い合わせ急増》
 《県警本部広報と発表文すり合わせ中》
 《現場封鎖映像、民放一社が撮影済み》
 《SNS上に挑戦状文面らしき投稿》
 《“死因を誤るな”がトレンド入りし始めています》
 《白胎会側、午後にも声明か》
 《宗教弾圧との文言を含む信者投稿が急増》
 二階堂は、移動車両の後部座席でタブレットを操作していた。
 施設前の混乱を避けるため、広報対応班は白胎会本部から少し離れた臨時駐車スペースに車を停めている。外には県警の広報担当者が二人、電話をしながら行ったり来たりしていた。どちらも顔色が悪い。
 無理もない。
 宗教法人の代表死亡。
 焼死の疑い。
 密室めいた現場。
 刑事宛ての挑戦状。
 過去の村火災との関連。
 この条件で、報道が静かに待つはずがない。
 二階堂はイヤホンを片耳に入れ、通話をつないだ。
「警視庁広報、二階堂です。現時点でお答えできるのは、御堂聖真氏が施設内で死亡しているのが確認された、警察が死因および経緯を確認中、これだけです。……はい、焼死という表現はこちらからは使っていません。……いえ、密室殺人とも発表していません。……挑戦状? その件も確認中です。現場で文書が確認されたことは把握していますが、詳細は捜査上の理由で回答できません」
 同じ説明を、朝から何度繰り返したか分からない。
 切って、すぐ別の電話が鳴る。
「二階堂です。……はい。宗教弾圧という事実はありません。事件捜査です。……いいえ、特定の信仰を理由に捜査しているものではありません。……過去の火災? その点も含めて確認中です。公式発表にない情報を前提にした質問にはお答えできません」
 電話を切る。
 また鳴る。
 車内にいた若い広報官が、疲れた顔で言った。
「二階堂さん、これ、止まりませんね」
「止まると思ってたなら広報に向いてない」
「向いてないかもしれません」
「今それに気づくな」
 二階堂はタブレットに目を落とした。
 SNSの画面には、同じ単語が何度も流れている。
 死因を誤るな。
 白胎会。
 御堂聖真。
 焼死。
 密室。
 村火災。
 宗教弾圧。
 山から来る灰。
 最後の文言が、特に気にかかった。
 《灰は山から来る》
 これは自然発生の言葉ではない。
 誰かが置いた言葉だ。短く、意味深で、拡散されやすい。見た者が勝手に意味を補う余白がある。
 こういう言葉は強い。
 二階堂は、その強さを職業的に知っていた。
「誰だよ」
 思わず呟いた。
 若い広報官が顔を上げる。
「何がですか」
「この言葉を置いた奴」
「犯人ですか」
「犯人か、犯人の近くにいる奴か、犯人の意図を利用したい奴か、ただの愉快犯か」
「多いですね」
「だから面倒なんだよ」
 電話がまた鳴った。
 二階堂は画面を見て、今度は少し姿勢を正した。
 警視庁本部の上司だった。
「二階堂です」
『状況は』
「燃えています」
『比喩か』
「半分は」
『発表文を急げ。県警と表現を合わせろ。“焼死”は避ける。“密室”も避ける。文書の存在については認めるな。ただし完全否定もするな。後で出た時に嘘になる』
「分かっています」
『白胎会側の会見予定は』
「夕方と見ています。準備している文面がすでに流出しています」
『内容は』
「御堂の死を信仰への攻撃として位置づける方向です。宗教弾圧という言葉も出る可能性があります」
『先に潰せるか』
「潰せません。こちらが先に強く言えば、向こうは“警察による圧力”に変換します」
『では』
「事実だけを薄く出します。信仰への評価はしない。弾圧という言葉には乗らない。死因は確認中。文書は回答を控える。過去の火災は、今回の事件との関連を含めて慎重に確認中。この辺りが限界です」
『分かった。任せる』
 通話が切れた。
 任せる、という言葉ほど無責任なものはない。
 二階堂はそう思ったが、口には出さなかった。
 広報とは、結局そういう仕事だった。
 現場の刑事のように犯人を追うわけではない。鑑識のように証拠を拾うわけでもない。法医学者のように死体から声を聞くわけでもない。だが、発表する言葉をひとつ間違えれば、捜査は歪む。被害者も加害者も、社会の中で別の姿に作り替えられてしまう。
 言葉は火だ。
 そして火は、使い方を間違えると人を殺す。
 その時、車外から怒鳴り声が聞こえた。
 二階堂はドアを開けた。
 施設前の規制線付近で、信者らしき中年男性が警察官に詰め寄っていた。
「先生を返せ!」
 男は両手を振り上げていた。
「これは警察の陰謀だ! 先生は殺されたんじゃない、陥れられたんだ! お前らが、先生を!」
 警察官がなだめようとしている。
 周囲ではスマートフォンが一斉に向けられていた。
 二階堂は歩き出した。
「撮るな、とは言うな」
 隣の若い広報官に小声で言う。
「え?」
「今“撮影をやめてください”と言ったら、その部分だけ切り取られて“警察が撮影妨害”になる。警備は任せろ。俺たちは言葉を間違えちゃいけない」
 二階堂は規制線の手前で立ち止まった。
 中年男性は泣いていた。
 怒りよりも、恐怖に近かった。目が焦点を結んでいない。御堂を失った悲しみというより、自分が信じていた世界の中心が突然抜け落ちた人間の顔だった。
「私は警視庁広報の二階堂です」
 二階堂は、声を張りすぎないように言った。
 強すぎる声は、相手をさらに燃やす。
「現在、御堂氏の死亡について、警察が事実を確認しています。信仰を理由にした捜査ではありません」
「嘘だ!」
「嘘だと思われるのは自由です。ただ、今ここで警察官に詰め寄っても、御堂氏の死因は分かりません」
「死因なんて分かってる! 先生は殉じられたんだ!」
 殉じられた。
 もうその言葉が信者の口に入っている。
 二階堂は内心で舌打ちした。
 教団の会見前に、下位の信者まで同じ語彙を使い始めている。統制が早い。
「御堂氏がどう亡くなったのかは、法医学的な確認が必要です」
「法医学?」
「はい」
「警察が決めるのか」
「死者の体に残った事実を確認します」
 そう言った瞬間、二階堂は自分の言葉に少し驚いた。
 九条のような言い方だった。
 死者の体に残った事実。
 広報官が使うには硬すぎる。だが、その場では他の言葉が出なかった。
 男は一瞬黙った。
 その隙に、警察官が男を少し下がらせる。
 二階堂はこれ以上踏み込まず、規制線から離れた。
 戻る途中、背後で信者たちの祈りの声が始まった。
 低い声が重なり、御堂の名を呼ぶ。
 その声を聞きながら、二階堂は思った。
 この声も、燃料になる。
 誰かが撮影し、投稿する。
 「信者たち、涙の祈り」になる。
 別の誰かが「洗脳集団の異様な光景」と書く。
 また別の誰かが「警察こそ異様」と返す。
 火は枝分かれし、元の火元から離れていく。
 車に戻ると、タブレットに新しい通知が来ていた。
 《“死因を誤るな”全文とされる画像が拡散》
 二階堂は開いた。
 白い紙に、黒い文字。
 中央に置かれた一文。
 たったそれだけの画像だった。
 だが、その画像には妙な説得力があった。余白が多く、文字が中央に置かれている。紙そのものの写真なのか、誰かが再現しただけなのか、一見では分からない。
「出たか」
 若い広報官が言った。
 二階堂は画像を拡大した。
 紙の繊維までは見えない。影の付き方も不自然だ。おそらく現物の写真ではなく、誰かが作った再現画像だろう。だが、そんなことは関係ない。見る側にとっては、もうこれが挑戦状になる。
「発信元は」
「最初に確認できるのは匿名アカウントです。作成は昨日。投稿はこれ一件だけ」
「使い捨てだな」
「ただ、拡散が異常に速いです。大きいアカウントが拾う前に、似た文面の投稿が複数出ています」
「仕込んである」
 二階堂は言った。
「誰かが、広がる順番まで作ってる」
 その直後、別の通知が跳ねた。
 《速報:現場から“御堂は火で裁かれた”との犯行声明か》
 二階堂は眉をひそめた。
「何だ、これ」
 若い広報官が画面を覗く。
「まとめ系アカウントです。今、かなり伸びています」
 投稿には、例の再現画像と、別の文言が並べられていた。
 《死因を誤るな》
 《御堂は火で裁かれた》
 《灰は山から来る》
 その三つを、まるで一枚の犯行声明であるかのように扱っている。だが、二階堂の記憶では、現場で確認された文書は一文だけだった。少なくとも、真壁から聞いた限りでは。
「“火で裁かれた”はどこから出た」
「確認します」
「今すぐ」
 若い広報官が検索を走らせる。
 数十秒後、顔を上げた。
「発信元は不明です。最初の投稿は十分前。アカウントは削除済み。ただ、まとめ系が拾って一気に拡散しています」
「現物画像は?」
「ありません。文章だけです」
「よし」
 二階堂は即断した。
「これは潰せる」
「潰す?」
「“火で裁かれた”は現場確認文書の文面ではない。少なくとも、警察が確認している文書とは一致しない。そこは言える」
「でも、文書の内容は回答しない方針では」
「全部は言わない。だが、偽文言を放置すれば、それが犯人の言葉になる」
 二階堂は県警広報の担当者に電話をかけた。
「二階堂です。今出ている“御堂は火で裁かれた”という文言、現場確認文書としては否定できますね。……はい、全文は出さない。文書様のものが確認されていること、ただし現在拡散されている一部文言は警察が確認している内容とは異なる。これでいきます。……ええ、急ぎます。今潰さないと、夜のニュースで踊ります」
 通話を切る。
 次に本部へ。
「二階堂です。偽の犯行声明が出ています。“火で裁かれた”という文言です。現場文書の内容とは一致しません。訂正コメントを出します。……全文開示はしません。偽文言のみ否定。……はい、死因や現場状況には触れません」
 そこから先は速かった。
 短い訂正文を作る。
 《現在、インターネット上で、現場付近で確認された文書の内容として複数の文言が拡散されていますが、その一部は警察が確認している文書の内容とは異なります。捜査上の理由から詳細は回答を控えますが、不確かな情報の拡散はお控えください》
 若い広報官が読んで、少し顔を明るくした。
「これならいけますね」
「いけるじゃない。傷を浅くするだけだ」
「でも、“火で裁かれた”は止められます」
「止める」
 二階堂は短く言った。
「それだけは今止める」
 訂正文は、警視庁と県警の合同コメントとして記者クラブに流され、公式アカウントにも掲載された。
 効果はすぐに出た。
 まとめ系アカウントの一部が、投稿を削除した。
 大手ニュースサイトは「警察、一部拡散文言を否定」と短く報じた。
 SNSでも流れが変わった。
 《“火で裁かれた”はデマっぽい》
 《警察が否定した》
 《現場文書は別内容らしい》
 《やっぱり確認されてるのは“死因を誤るな”だけ?》
 《警察が否定しなかったワード=死因を誤るな》
 《不確かな情報は控えろって言いながら、文書の存在は認めてるじゃん》
 若い広報官が小さく拳を握った。
「少し止まりましたね」
 二階堂も画面を見た。
 確かに、“火で裁かれた”という言葉の伸びは鈍った。まとめ系のいくつかは撤回し、テレビ局の記者からも「この表現は使わない」と連絡が入った。
 小さな成功だった。
 火の向きが、ほんの少し変わった。
 だが、その数分後、二階堂は別の変化に気づいた。
 “火で裁かれた”は消えつつある。
 代わりに、“死因を誤るな”が強く残った。
 偽文言を否定したことで、否定されなかった言葉だけが浮かび上がった。
 《つまり本物は“死因を誤るな”なんだな》
 《警察が否定したのは“火で裁かれた”だけ》
 《死因を誤るな、だけは否定してない》
 《警察が事実上認めたワード》
 《死因を誤るな=事件の核心?》
 さらに、一部のアカウントが警察コメントを引用しながら、こう書き始めた。
 《警察が不確かな情報拡散を控えろと言うなら、逆に“確かな文言”があるということ》
 《否定されなかった言葉を見ろ》
 《死因を誤るな》
 二階堂は画面を見つめた。
 若い広報官の顔から、さっきの明るさが消えていく。
「二階堂さん」
「分かってる」
「これ……」
「偽の枝は折れた」
 二階堂は低く言った。
「でも幹が太くなった」
 車内が静かになった。
 訂正は成功した。
 成功したからこそ、残った言葉が強くなった。
 それが広報の怖さだった。
 嘘を否定することは、時に否定しなかったものへ光を当てる。
 二階堂は自分の出したコメントをもう一度読んだ。
 現場付近で確認された文書。
 一部は警察が確認している内容とは異なる。
 捜査上の理由から詳細は回答を控える。
 不確かな情報の拡散は控えろ。
 何も間違っていない。
 だが、この文面は確かに、一つの言葉を世間に残した。
 死因を誤るな。
「やられた……のか?」
 若い広報官が呟いた。
 二階堂はすぐには答えなかった。
 やられた、と言うには早い。
 自分はデマを一つ止めた。捜査にとって不要なノイズを減らした。記者の見出しから、犯人の言葉ではない文言を外した。
 それは間違いなく必要な仕事だった。
 だが、その仕事が、誰かの望む形に使われた可能性がある。
 その可能性だけが、喉に小骨のように残った。
 その時、真壁から連絡が入った。
『今どこだ』
「外。燃え盛ってる」
『火事か』
「言葉のほうだ。挑戦状の再現画像が出た」
『本物か』
「たぶん違う。だが、世間にとってはもう本物だ」
『どういう意味だ』
「真壁、お前はまだ事実と印象を分けられる。でも外は違う。見たものが本物になる。画像が出た時点で、“死因を誤るな”は事件の看板になった」
 電話の向こうで、真壁が黙った。
 二階堂は続けた。
「それと、偽の文言が一つ出た。“御堂は火で裁かれた”。これは潰した」
『潰した?』
「警察が確認している文書とは違う、と訂正を出した。今のところ、その文言は止まりかけてる」
『珍しく勝ったか』
「小さくな」
 二階堂は画面を見ながら言った。
「ただ、そのせいで“死因を誤るな”が残った。否定しなかった言葉として、余計に強くなった」
『どういう意味だ』
「デマを消したら、残った言葉が本物に見える。広報あるあるだ」
『それを犯人が狙ったとしたら』
「かなり分かってる奴だな」
『広報か』
 二階堂は一瞬、返答に詰まった。
「広報に近い感覚はある。少なくとも、情報の広がり方を分かってる」
『内部か』
「警察内部、教団内部、メディア関係者、元広報、ネット工作に慣れた奴。候補は多い」
『九条は?』
 突然出た名前に、二階堂は少し眉を寄せた。
「九条?」
『あいつ、言葉の選び方が犯人に近い』
 二階堂は、車外に目を向けた。
 施設の白い壁が、昼の光を反射している。祈りの声はまだ続いていた。
「お前がそれを言うのか」
『俺が言わないと誰が言う』
「幼なじみだろ」
『刑事だ』
 二階堂は息を吐いた。
「九条は広報じゃない。情報を燃やすタイプでもない」
『燃やさないとは限らない』
「真壁」
『何だ』
「……九条が?」
『そうだ』
「九条を疑うには材料がなさすぎる」
『分かってる』
「でも疑ってるな」
『刑事だからな』
「便利な言葉だ」
 二階堂は通話を切らずに、しばらく黙った。
 九条雅紀。
 二階堂にとっても、扱いづらい男だった。広報課の人間から見れば、九条は危険物に近い。愛想がない。説明を省く。相手の感情をなだめる気がない。必要だと思ったことは、相手が誰であろうと訂正する。会見に出せば炎上するだろうし、取材対応など任せたら三分で記者を怒らせるだろう。
 だが、九条の言葉には妙な強さがある。
 飾らないからこそ、残る。
 死因を誤るな。
 その言葉は、九条が言いそうだった。
 だからこそ、気味が悪い。
「九条は今どこだ」
 二階堂が聞いた。
『解剖所見の整理。その後、また現場に戻ると言ってる』
「戻る?」
『ああ』
「なんで」
『死因が現場に残っているなら、だと』
 二階堂は思わず苦笑した。
「あいつらしい」
『そうだな』
「だが真壁」
『何だ』
「らしいって言葉は危ないぞ。犯人が九条らしく見せてる可能性もある」
『分かってる』
「九条本人が九条らしすぎる可能性もある」
『もっと分かってる』
 二階堂は短く笑った。
「じゃあ仕事しろ。俺はこっちを消す」
『消せるのか』
「消せない」
『じゃあ何をする』
 二階堂は、広がっていく投稿を見ながら答えた。
「燃える向きを変える」
 通話を切った後、二階堂は発表文の修正に取りかかった。
 文面は短くなければならない。
 短く、曖昧で、嘘がなく、余計な解釈を呼びにくいもの。
 それが一番難しい。
 最初の案には、こうあった。
 《本日未明、神奈川県内の宗教法人施設において、同法人代表の男性が焼死しているのが発見されました》
 二階堂はすぐに削った。
「焼死」は使わない。
 修正する。
 《本日未明、神奈川県内の宗教法人施設において、同法人代表の男性が死亡しているのが確認されました》
 次の文。
 《現場は施錠された室内であり、警察は密室殺人の可能性も視野に捜査を進めています》
「おい」
 思わず鋭い声が出た。
 若い広報官が肩を跳ねさせる。
「すみません、それ県警側の初稿です」
「密室殺人なんて言葉を公式が使った瞬間、報道は三日はそれで踊る。消せ」
 修正する。
 《現場の状況を含め、死亡に至った経緯を慎重に確認しています》
 次。
 《現場には犯人からの挑戦状と見られる文書が残されていました》
 二階堂は頭を抱えた。
「挑戦状って誰が書いた」
「県警の……」
「事件を面白くするな。こっちが見出しを提供してどうする」
 修正。
 《現場付近で文書様のものが確認されており、捜査上必要な確認を行っています》
 何も言っていないようで、嘘は言っていない。
 広報文とは、そういう言葉で作るしかない時がある。
 若い広報官が画面を覗き込んだ。
「これ、弱くないですか」
「弱くていい」
「でも、教団側が強い言葉を使ってきます」
「だからこっちまで強い言葉を使ったら、事件じゃなくて殴り合いになる」
「でも、負けませんか」
 二階堂は手を止めた。
「何に」
「世論に」
 若い広報官は、自分で言って怖くなったような顔をした。
 二階堂は少しだけ声を落とした。
「広報は世論に勝つ仕事じゃない」
「じゃあ何ですか」
「捜査が壊れないようにする仕事だ」
 それは、自分に言い聞かせる言葉でもあった。
 午後一時過ぎ、警察の第一報が出た。
 内容は二階堂が削りに削ったものだった。
 死亡確認。
 身元。
 現場施設。
 死因確認中。
 文書様のもの確認中。
 信仰への評価ではなく、事件として捜査中。
 報道各社は不満そうだった。
 物足りない発表だから当然だ。だが、物足りない発表にすることが目的だった。
 しかし、発表から五分後にはネットにこう書かれた。
 《警察、挑戦状の存在を事実上認める》
 《死因確認中=焼死否定せず》
 《密室への言及避ける 何か隠している?》
 《白胎会事件、警察発表が曖昧すぎる》
 二階堂はタブレットを見て、笑った。
 若い広報官が恐る恐る聞く。
「何がおかしいんですか」
「何を言っても燃えるところ」
「笑えません」
「笑えないから笑ってるんだよ」
 その時、車の外に九条が現れた。
 黒いコートを着て、礼拝堂の方から歩いてくる。報道陣のカメラが一斉に向きかけたが、九条は規制線の内側を横切り、警察車両の陰に入った。
 二階堂はドアを開けた。
「九条」
 九条は足を止めた。
「何だ」
「ちょっと来い」
「今は忙しい」
「こっちも忙しい。だから来い」
 九条は一瞬だけ不服そうに見えたが、車両の横まで来た。
 二階堂はタブレットを見せた。
「“死因を誤るな”が拡散されてる」
「知っている」
「知ってるのか」
「見た」
「誰から」
「真壁」
 二階堂は舌打ちした。
「あいつ、余計なことを」
「情報共有だろう」
「九条、お前に聞きたい」
「短くしろ」
「この言葉を選んだ犯人をどう思う」
 九条は画面を見た。
 たった一行の言葉を前に、九条はしばらく黙った。
「短いな」
「それは真壁にも言っただろ」
「同じことを聞くな」
「じゃあ違う答えを出せ」
 九条は二階堂を見た。
「犯人は、御堂聖真が殺されたことより、御堂聖真がどう死んだかを残したい」
「それは真壁から聞いた」
「なら聞くな」
「広報として聞いてる」
「広報として?」
「この言葉は、世間に向けたものか。それとも真壁個人に向けたものか」
 九条は少しだけ目を伏せた。
「両方だろう」
 二階堂は眉を上げた。
「両方?」
「真壁に読ませるために書かれている。だが、真壁だけに読ませるなら封筒を隠せばいい。見つかる場所に置いたなら、世間にも見られる前提だ」
「犯人は広がることを望んでいる」
「そうだろうな」
「なら止めるべきか」
 九条は、そこで二階堂を見た。
 その目はいつものように平坦だった。
「広がったなら、もう消せない」
 二階堂は、口を閉じた。
 その言葉は、広報の現場では敗北宣言に近い。
 だが九条の声には、敗北も焦りもなかった。ただ事実を言っただけだった。
「お前」
 二階堂は低く言った。
「なんでそんなに落ち着いてる」
 九条は答えなかった。
 車外では、信者の祈りの声が続いている。
 記者の声も混じる。
 遠くで誰かが「御堂先生」と叫んだ。
 スマートフォンのカメラが光る。
 二階堂は九条の顔を見た。
「消せないって、何だよ」
「言葉どおりだ」
「俺の仕事を諦めろって言ってるのか」
「違う」
「じゃあ何だ」
「消すことと、誤らせないことは違う」
 二階堂は言葉に詰まった。
「また死因か」
「情報も同じだ」
「同じじゃない」
「似ている」
 九条は静かに言った。
「一度間違った形で広がれば、後から訂正しても元には戻らない。なら、最初に何が残るかを見なければならない」
「その“最初”を誰かが作ってるんだよ」
「そうだろうな」
「他人事みたいに言うな」
 九条は答えなかった。
 二階堂の中で、苛立ちが膨らんだ。
 九条はいつもこうだ。こちらが火の中に手を突っ込んでいる時に、少し離れた場所から温度を測っているような顔をする。
「お前はさ」
 二階堂は声を落とした。
「この事件を広げたいのか」
 若い広報官が息を呑んだ。
 九条は動かなかった。
「質問の意味が分からない」
「分かるだろ。御堂が死んだ。挑戦状が出た。死因を誤るなって言葉が燃えてる。村火災まで掘られ始めてる。お前はさっきから、消せない、誤らせるな、死者が二度殺される、そんなことばかり言ってる」
「事実だ」
「誰にとっての事実だ」
 九条は黙った。
 二階堂は続けた。
「俺は広報だ。世間にどう見えるかを考える。今のお前は、御堂の死が広がっても構わないように見える」
「構わないとは言っていない」
「じゃあ困るのか」
 九条は、やはり答えなかった。
 その沈黙が答えのように思えて、二階堂は腹が立った。
「九条」
「何だ」
「お前、何を知ってる」
「証明できないことは言えない」
「真壁にも同じこと言ったのか」
「言った」
「便利な逃げ方だな」
 九条の目が、ほんのわずかに鋭くなった。
「逃げているわけではない」
「なら言え」
「言えば、お前はどうする」
「燃え方を変える」
「それは、事実を変えることか」
 二階堂は一瞬、言葉を失った。
 九条の問いは、刃物のように狭いところへ入ってきた。
 広報は事実を変えない。
 少なくとも、二階堂はそう思っている。
 だが、発表する順番、選ぶ言葉、伏せる情報、認めない表現。それらは、事実の見え方を変える。
 事実を変えずに印象を変える。
 それが仕事だ。
 だからこそ、九条の問いは痛かった。
「変えない」
 二階堂は答えた。
「変えたくないから、聞いてる」
 九条は少しだけ目を伏せた。
「なら、今は言えない」
「なぜ」
「お前が燃え方を変えるからだ」
 二階堂は黙った。
 九条は続けた。
「今、必要なのは消すことじゃない。誤らせないことだ」
「誰を」
「死者を」
 それだけ言って、九条は踵を返した。
 二階堂はその背中を睨んだ。
「九条」
 九条は振り返らなかった。
「お前、火に近づきすぎてるぞ」
 九条は足を止めた。
 だが、やはり振り向かなかった。
「火元を見なければ、死因は読めない」
 そう言って、歩き去った。
 若い広報官が、小さく言った。
「あの人、怖いですね」
 二階堂はタブレットを握ったまま、九条の背中を見送った。
「怖いのは、あいつじゃない」
「え?」
「たぶん、あいつが見てるものだ」
 その日の午後、情報はさらに加速した。
 白胎会の会見前に、過去の村火災に関する古い新聞記事の画像が拡散された。
 見出しはぼやけている。日付も古い。記事には、山間部の集落で火災があり、複数の住民が死亡したこと、出火原因は調査中であること、宗教団体との関連が一部で指摘されていることが書かれていた。
 誰がそれを発掘したのか分からない。
 だが、記事の一部には赤い線が引かれていた。
 《生存者は、出産のため集落外の産婦人科に入院していた若年女性一名》
 二階堂はその一文を見た瞬間、眉をひそめた。
 若年女性一名。
 名前は伏せられている。
 だが、これが個人に繋がるのは時間の問題だった。
 いや、すでに誰かは知っているのかもしれない。
 知った上で、小出しにしている。
 燃え方が巧妙だった。
 いきなり全てを出さない。
 まず御堂の死。
 次に挑戦状。
 次に灰。
 次に山。
 次に村火災。
 次に唯一の生存者。
 情報が階段状に置かれている。
 それを見た者は、自分で謎を解いている気になる。
 だが実際には、誰かが用意した足場を順番に踏んでいるだけだ。
 二階堂は、背筋に冷たいものを感じた。
「真壁に回せ」
 若い広報官に言った。
「この記事ですか」
「そうだ。あと県警にも共有。記事の原本確認、掲載紙、日付、投稿元の洗い出し」
「はい」
 二階堂は自分の携帯を取った。
 真壁に送ろうとして、指が止まった。
 先に九条の顔が浮かんだ。
 九条は、この順番をどう見るだろう。
 御堂の死因を見せ、灰で山を指し、記事で村へ導く。
 これを、九条は「誤らせない」と言うのか。
 それとも、「誰かが死者を利用している」と言うのか。
 分からなかった。
 二階堂は真壁へ画像を送った。
 すぐに返信が来た。
 《見た。九条にはまだ見せるな》
 二階堂は苦笑した。
 遅い、と思った。
 九条はもう見ているだろう。
 あの男は、見ようとしたものだけを見るのではない。見ないふりをしながら、必要なものはすでに拾っている。
 夕方、白胎会の会見が始まった。
 二階堂は中継を見ながら、発表文の第二報を準備していた。
 壇上に立つ仁科は、朝の聴取時よりも落ち着いて見えた。悲しみよりも、役割を演じる緊張が勝っている。
『御堂先生は、最後まで光の教えと共にありました』
 画面の中の仁科が言う。
『火は、私どもにとって単なる破壊ではありません。古いものを浄め、新しい命へ導く試練でもあります』
 二階堂の隣で、若い広報官が呟いた。
「本当に殉教にするんですね」
「するだろうな」
『先生は、その火の中に立たれたのです』
 その瞬間、二階堂は九条の言葉を思い出した。
 御堂の言葉を、御堂の死因で汚す。
 犯人は、これを予想していたのかもしれない。
 教団が御堂の死を美談にすること。
 火を信仰の言葉で包むこと。
 苦しみを浄化と呼び、恐怖を試練と呼び、死を利用すること。
 だからこそ、挑戦状はあの言葉だったのではないか。
 御堂を殉教者にするな。
 御堂が火で何をしたのか忘れるな。
 火の中で死んだ者たちの死因を、別の言葉で塗り替えるな。
 二階堂は、そこまで考えてから、首を振った。
 犯人に寄るな。
 広報官としても、警察官としても、それは危険だった。
 犯人の言葉を理解しすぎると、いつのまにか犯人が作った物語の中に入ってしまう。
 だが、この事件は最初から物語として置かれている。
 御堂の物語。
 犯人の物語。
 教団の物語。
 警察の発表。
 死者の沈黙。
 それらが同じ火の中で燃えている。
 会見の後、報道陣から質問が飛んだ。
『御堂代表は焼死されたという情報がありますが、事実ですか』
『警察から正式な説明は受けておりません』
『現場に挑戦状があったとの情報は』
『そのような悪意ある情報について、私どもから申し上げることはありません』
『二十数年前の集落火災について、白胎会との関連が指摘されていますが』
 仁科の顔が、わずかに固まった。
『それは、すでに終わった不幸な事故です』
 二階堂は画面を見ながら、息を止めた。
『御堂先生および当会と結びつけることは、故人への冒涜であり、信仰への偏見です』
 終わった不幸な事故。
 その言葉が、また燃料になる。
 二階堂はすぐにSNSの流れを確認した。
 予想通りだった。
 《終わった事故?》
 《生存者がいるのに?》
 《白胎会、村火災への関与否定》
 《“死因を誤るな”の意味ってこれ?》
 《御堂の死と村火災、やっぱり繋がってる?》
 火は勢いを増した。
 誰かが仁科にその言葉を言わせたのではないかと思うほどだった。
 いや、実際には違うだろう。教団は教団の論理で、過去を否定しただけだ。
 だが、その否定すら、犯人の設計した道に見え始めていた。
 二階堂はタブレットを置き、両手で顔を覆った。
 疲労が一気に来た。
 広報は火消しだ。
 だが今、自分は火を消しているのか。
 それとも、誰かが用意した火の道に沿って、風を送っているだけなのか。
 その疑問が生まれた時、二階堂は自分でも嫌になるほど冷静に思った。
 これは、九条の言いそうなことだ。
 夜になっても、報道は止まらなかった。
 警視庁と県警は、合同で短いコメントを出した。
 内容は変わらない。死因確認中。文書の詳細は回答を控える。過去の事案との関連については捜査上必要な範囲で確認する。信仰に対する評価ではなく、死亡事案として捜査している。
 何も言っていないに等しい。
 だが、何かを言えば、それがまた燃える。
 午後九時過ぎ、二階堂はようやく現場施設の外れで真壁と合流した。
 真壁は疲れた顔をしていた。
 だが目だけは冷えていた。捜査中の真壁は、体より先に目が起きる。眠っていなくても、その目だけで事件を追う。
「村火災の記事、見たか」
 二階堂が聞く。
「ああ」
「九条は?」
「たぶん見てる」
「やっぱりな」
「直接は聞いてない」
「聞けよ」
「聞いたら黙る」
「面倒な幼なじみだな」
「今さらだ」
 二階堂は缶コーヒーを真壁へ渡した。
 真壁は片手で受け取る。
「ぬるいぞ」
「分かってる」
「嫌がらせか」
「広報から刑事への厚意だ」
 真壁は缶を開けた。
 しばらく二人で黙って飲んだ。
 施設の門の向こうでは、まだ祈っている信者がいた。報道陣も残っている。ライトが暗闇に白い穴を開けている。その奥に、礼拝堂の建物が見えた。
「二階堂」
 真壁が言った。
「何だ」
「この事件、犯人は世間を使ってると思うか」
「使ってる」
 即答した。
「迷わないな」
「こっちは一日中使われてる実感がある」
「警察もか」
「警察も、教団も、報道も、信者も、野次馬も。全部だ」
「九条も?」
 二階堂は真壁を見た。
「お前、今日はずっとそこに戻るな」
「戻らざるを得ない」
「疑ってるのか」
「分からない」
「分からないなら、疑ってるんだよ」
 真壁は缶コーヒーを見つめた。
「九条は、事件を妨害していない。むしろ進めている」
「法医学者としては普通だろ」
「普通すぎるんだ」
 二階堂は少し黙った。
「どういう意味だ」
「犯人の意図に沿って、正しく進めているように見える」
 その言葉は重かった。
 二階堂は昼間の九条との会話を思い出した。
 広がったなら、もう消せない。
 消すことと、誤らせないことは違う。
 今、必要なのは消すことじゃない。誤らせないことだ。
 九条は、事件が広がることを恐れていなかった。
 むしろ、広がった後に何が残るかを見ているようだった。
「真壁」
「何だ」
「あいつは、火を消したいんじゃない」
「だろうな」
「でも、燃やしたいのかは分からない」
 真壁は二階堂を見た。
「どう違う」
「燃えることを望んでいる奴と、燃えた後に何が残るかを見ている奴は違う」
「九条は後者か」
「たぶん」
「犯人は」
 二階堂は答えられなかった。
 施設の奥から、九条が歩いてくるのが見えた。
 白い髪が暗がりに浮かぶ。
 真壁も気づき、顔を上げた。
 九条は二人の前で足を止めた。
「何だ」
 九条が言った。
「こっちの台詞だ」
 真壁が返す。
「解剖所見の追加か」
「血中一酸化炭素濃度の速報が出た。正式値ではないが、吸入は確認できる」
 つまり、御堂は煙を吸っていた。
 生きたまま火にさらされたことが、さらに濃くなった。
 二階堂は小さく息を吐いた。
「発表は?」
 九条が聞いた。
 二階堂は眉を上げた。
「お前が広報を気にするのか」
「死因を誤られると困る」
「誰が困る」
「死者だ」
 二階堂は、昼間と同じ答えに少し苛立った。
 だが今回は、怒鳴る気にはならなかった。
「御堂を殉教者にしたい連中がいる」
 真壁が言った。
「知っている」
「お前はそれが嫌なのか」
 九条は答えなかった。
 真壁がさらに問う。
「御堂のためじゃないな」
 九条の視線が、真壁へ向いた。
「御堂のために嫌がる理由はない」
「じゃあ、誰のためだ」
 九条は沈黙した。
 長い沈黙ではなかった。
 だが、二階堂には十分長く感じた。
「死んだ人間のためだ」
 九条は言った。
「御堂以外の?」
 二階堂が聞く。
 九条は答えなかった。
 その沈黙が、答えだった。
 真壁は缶コーヒーを握ったまま、九条を見ていた。
 二階堂は、その二人の間に流れるものを初めて少し怖いと思った。
 幼なじみ。
 刑事と法医学者。
 生者を追う者と、死者を読む者。
 その関係が、この事件ではどこか歪んでいる。
 犯人は真壁へ挑戦状を送った。
 九条はその死因を読む。
 二階堂はその言葉の火を消そうとしている。
 それぞれが、自分の役割を果たしている。
 だが、その役割自体を誰かに与えられているような感覚があった。
「俺たちは」
 二階堂は思わず言った。
 二人がこちらを見る。
「俺たちは、誰かの手の上で動かされてるのかもしれないな」
 真壁は黙った。
 九条も黙った。
 夜の施設前で、信者の祈りだけが低く続いている。
 しばらくして、九条が言った。
「手の上でも、足元は見える」
 二階堂は眉を寄せた。
「何だそれ」
「転ばなければいい」
「お前の励まし、分かりにくいんだよ」
「励ましていない」
「だろうな」
 真壁が少しだけ笑った。
 だが、その笑いはすぐに消えた。
「明日、村火災を洗う」
 真壁が言った。
「新聞記事、警察記録、消防記録、当時の関係者。全部だ」
「広報も動く」
 二階堂は言った。
「教団は必ず先に言葉を作る。こっちは事実で追うしかない」
 九条は静かに頷いた。
「灰の由来が分かれば、少なくとも一つは誤らずに済む」
「一つ?」
 真壁が聞く。
 九条は答えなかった。
 二階堂は、まただと思った。
 九条の中には、もう事件の形があるのかもしれない。
 ただ、それを証明できないから言わない。
 あるいは、言えば燃え方が変わるから言わない。
 どちらにせよ、黙っている。
 その沈黙もまた、事件の一部になり始めていた。
 午後十時四十七分。
 二階堂の携帯に、また通知が入った。
 匿名アカウントからの新しい投稿だった。
 《光は灰を知らない。灰は名を覚えている》
 添付された画像には、古い新聞記事の切り抜き。
 そして、焼けた名札のようなものが写っていた。
 文字はかすれている。
 だが、一部だけ読めた。
 ――九条、という二文字。
 二階堂は画面を見たまま、何も言えなかった。
 真壁が横から覗き込む。
「何だ」
 二階堂は無言で画面を渡した。
 真壁の顔が固まった。
 九条は、画面を見なかった。
 ただ、夜の礼拝堂の方を向いていた。
 その横顔を見た瞬間、二階堂は理解した。
 九条は知らなかったのではない。
 見ないようにしているのだ。
 燃え広がる言葉の火の中で、九条雅紀だけが、もっと古い火を見ている。
 それは今日燃えた火ではない。
 二十数年前、山の中で村を包んだ火だ。
 そしてその火は、まだ消えていない。
 少なくとも、九条の中では。