死体は、燃え残る。
人は死ねば黙るのだと、昔は思っていた。
生きている者だけが喋り、泣き、怒り、嘘をつく。死んだ者は何も言わない。だからこそ、残された者がその意味を勝手に決める。事故だった。病気だった。自殺だった。仕方のないことだった。そう言って箱に入れ、名前を書き、土に戻す。
だが、九条雅紀はそうは言わなかった。
死体は喋る。
声ではない。言葉でもない。皮膚の色、硬さ、傷の向き、血の沈み方、肺の中に残ったもの、胃の中に入っていたもの、骨に刻まれた力の跡。そういうものが、死者の最後の数分、あるいは数秒を語る。死体が語るのではない。死体に残された事実が、黙ってそこにある。
聞ける人間がいれば、死者は黙っていない。
九条は、そういう男だった。
だから真壁彰は、焼けた死体と聞いた瞬間、反射的に九条の顔を思い浮かべた。
午前五時四十二分。
携帯電話の振動で、真壁は目を覚ました。
眠りは浅かった。刑事になってから深く眠れる夜のほうが少ない。事件がなくても、どこかで呼び出しに備えている。目を閉じていても、体の半分は靴を履いたまま廊下に立っているようなものだ。
画面には、捜査一課の当直番号が表示されていた。
「真壁です」
声は思ったよりはっきり出た。
『早朝から悪い。出られるか』
当直の声は、いつもの連絡より硬かった。
「内容は」
『死亡事案。場所は神奈川県内、宗教法人白胎会の本部施設。被害者は代表の御堂聖真』
真壁はベッドの上で体を起こした。
「御堂?」
『ああ。あの御堂だ』
白胎会。
新興宗教法人としては、古い部類に入る。表向きは福祉事業、自然療法、心の救済、終末期ケア、子どもの居場所づくりなどを掲げている。信者数は公称十万人。実数は分からない。出版物も多く、ネット番組も持ち、政財界との接点も噂される。過去には献金問題、医療拒否、児童の就学妨害、集団生活施設での死亡事故など、いくつもの疑惑が出ては消えた。
消えた、というより消された。
真壁はそう見ていた。
御堂聖真は、ただの宗教家ではなかった。
テレビに出る時は、いつも柔らかな白の法衣を着ていた。だが、その周囲に並ぶ顔ぶれは、宗教の枠に収まらない。国会議員、地方自治体の首長、大手介護事業者の会長、医療系財団の理事、元検察幹部、大学教授。御堂はそうした人間たちと肩を並べ、笑って写真に納まった。
教団は全国に「白胎ケアハウス」と呼ばれる高齢者施設を展開していた。終末期に孤立した老人を受け入れる、という名目だった。行政からの委託事業も受け、地域によっては社会福祉法人と連携し、介護、看取り、身元保証、葬送までを一括で請け負っている。
表向きは、孤独死を防ぐ善意の仕組み。
裏では、信者化した高齢者が資産を寄付した例がいくつもあった。親族が訴えたこともある。だが裁判は長引き、和解し、あるいは教団側が勝った。御堂はそのたびに記者会見で言った。
私どもは、ひとりの魂も見捨てない。
その言葉だけが切り取られ、信者向けの配信番組で何度も流された。
白胎会には専用アプリもあった。日々の祈り、御堂の説法動画、献金履歴、施設予約、相談窓口、信者同士の掲示板まで一体化したものだ。アプリ内の生配信番組《聖真の朝》は、毎朝六時に配信されていた。御堂が穏やかな声で時事問題に触れ、最後は必ず「命は光へ還る」と締める。
穏やかな救済の言葉。
整った施設。
政治家との写真。
裁判で勝ってきた過去。
それらは、一つ一つならただの広報資料だった。だが積み重なると、壁になる。外から何を投げても割れない、厚い壁だ。
医療拒否の疑惑もあった。
末期癌の信者が標準治療を拒み、白胎会が推奨する「浄化療法」と称した食事制限や祈祷を選び、死亡した事件。児童が高熱を出したにもかかわらず、親が病院へ連れていかず、施設内で死亡した事件。どちらも一度は報道された。だが教団は「本人および家族の自由意思」「医療行為ではなく精神的支援」「事実誤認」と主張し、告発した元信者や記者を名誉毀損で訴えた。
教団側は勝った。
少なくとも、世間にはそう見えた。
敗訴した者は黙り、和解した者は話せなくなり、亡くなった者はそれ以上何も言えない。
御堂聖真が死んだ。
それは、単に一人の男が死んだという意味ではなかった。
白胎会の言葉を信じてきた者、疑ってきた者、恨んできた者、利用してきた者、守られてきた者。あらゆる人間の足元が、一斉に揺れる。
「自然死じゃないんですか」
『焼けている』
「火災ですか」
『施設内の礼拝堂で発見。局所的な焼損。建物全体には延焼なし。状況が妙だ。現場保存中だが、県警だけで抱えたくない空気になってる』
当直が言葉を選んだ。
『それと、お前宛てのものがある』
「俺宛て?」
『現場近くで見つかった封筒だ。宛名が、警視庁捜査一課、真壁彰。中身は一枚だけ』
「何て」
一拍置いて、当直が言った。
『死因を誤るな』
真壁は、そこですぐには返事をしなかった。
窓の外はまだ暗かった。カーテンの隙間から、朝の気配だけが薄く入っている。夜と朝の境目は、いつも一瞬だけ物音が少ない。街が息を吸う前のような静けさがある。
その静けさの中で、当直の言葉だけが残った。
刑事宛ての挑戦状としては、奇妙だった。
普通なら「犯人を捕まえられるか」「真実を見抜けるか」「次は誰だ」といった類いになる。少なくとも、捜査員を名指しにするなら、もっと感情の乗った言葉を選ぶ。
死因。
その単語だけが、妙に冷えていた。
犯罪者の言葉というより、医師の言葉に近かった。
「分かりました。向かいます」
電話を切ってから、真壁は数秒だけ動かなかった。
その一文は、頭の中で九条の声に変換される。
九条雅紀。
法医学教室の医師。解剖医。真壁の幼なじみ。小学校のころから、隣ではなく斜め前にいた男。いつも少し遠い場所から人を見ているくせに、見落とさない。言葉は少ない。愛想はない。必要なことしか言わない。だが、死者に対してだけは、妙に律儀だった。
九条なら、言いそうな言葉だった。
いや、違う。
九条なら、わざわざそんな言葉を封筒に入れて真壁へ送ったりしない。
そう思い直して、真壁はベッドを出た。
顔を洗い、服を着替え、黒いジャケットを羽織る。ネクタイは締めなかった。靴を履く前に、携帯がもう一度震えた。
二階堂壮也からだった。
「早いな」
『そっちこそ出たか』
「今からだ。広報も呼ばれたのか」
『呼ばれたというか、こっちに先に火がついた。白胎会の広報部が、もう警察不信を匂わせる声明を準備してるらしい。御堂が死んだって情報も、一部の信者コミュニティには流れてる』
「早すぎる」
『そう。早すぎるんだよ』
二階堂の声には、寝起きの濁りがなかった。おそらく、ほとんど眠っていない。警視庁広報課にいる二階堂は、現場の刑事ではない。だが事件が世論を巻き込む時、彼は捜査員より先に火元を見る。
『しかも、挑戦状の文面らしいものが、もう出回り始めてる』
真壁は玄関で動きを止めた。
「死因を誤るな、か」
『知ってたか』
「当直から聞いた」
『漏れたのが早すぎる。現場内部、教団側、あるいは発見前から流す準備をしていた奴がいる。どれにしろ厄介だ』
「お前は現場に来るのか」
『施設の外までは行く。中に入れるかは調整中。報道が来る前に見ておきたい。真壁』
「何だ」
『今回、普通の殺人じゃないかもしれない』
「普通の殺人なんてない」
『刑事っぽいこと言うな。そういう意味じゃない。これは、殺した後の見せ方まで込みで設計されてる。たぶん、世間に見られることを前提にしてる』
真壁は靴紐を結んだ。
「現場で話す」
『九条には連絡行ってるのか』
名前を出されて、真壁は少し黙った。
「知らない」
『焼死体なら呼ばれるだろ』
「だろうな」
『なら気をつけろ』
「何を」
二階堂はすぐには答えなかった。短い沈黙が、電波の向こうでざらついた。
『あいつ、こういう言葉に引っかかるだろ』
「死因か」
『そう』
真壁はドアを開けた。
廊下の空気は冷えていた。
「引っかかるのは俺も同じだ」
そう言って電話を切った。
白胎会の本部施設は、神奈川県西部の山裾にあった。
正式名称は、白胎会総合祈念修養センター。大きな門には、そう刻まれている。宗教施設というより、研修所や高級老人ホームに近い外観だった。白い壁。よく刈り込まれた植栽。広い駐車場。施設の背後には山があり、朝靄が低く垂れている。
門の脇には、施設案内板が立っていた。
礼拝堂。
静思館。
信者宿泊棟。
相談センター。
白胎ケアハウス西神奈川。
白胎自然療法研究所。
白胎メディア配信棟。
宗教法人の本部というより、小さな町だった。
信仰、福祉、医療まがいの療法、映像配信、高齢者ケア、相談事業。それらが一つの敷地に収まっている。逃げ込む者には安全な箱庭に見えるだろう。外から見る者には、閉じた城に見えた。
門の前には、すでに数台のパトカーと消防車両が停まっていた。報道陣はまだ少ない。だが、時間の問題だった。道路の向こうには、スマートフォンを構えた若い信者らしき者たちが数人いる。泣いている女もいた。祈るように手を組んでいる男もいた。
その中に、車椅子の老女がいた。
付き添いの女が、老女の肩に毛布を掛けている。老女は両手を震わせながら、御堂の写真が掲げられた礼拝堂の方へ頭を下げていた。
「先生がいなければ、私は野垂れ死にでした」
誰に向けた言葉でもないように、老女は言った。
「息子にも捨てられて、病院にも居場所がなくて、先生だけが、ここにいていいと言ってくださった」
真壁は、その声を聞いた。
嘘ではないのだろうと思った。
少なくとも、この老女にとっては。
御堂聖真は人を殺したかもしれない。
人の死を隠したかもしれない。
だが同時に、誰かにとっては救いだった。
だから厄介なのだ。
完全な悪なら、もっと簡単に切り捨てられる。
救われた者の涙を盾にできる悪は、ただの悪よりずっと手強い。
真壁が車を降りると、県警の刑事が駆け寄ってきた。
「警視庁の真壁さんですか」
「ああ」
「こちらです」
歩きながら、刑事が概要を話した。
御堂聖真は午前四時半からの早朝礼拝に出る予定だった。教団では毎月一度、幹部信者だけが参加する早朝儀式がある。御堂はその前に、礼拝堂奥の「静思室」と呼ばれる小部屋へ一人で入るのが習慣だった。
午前四時十分、側近が御堂を静思室の前まで案内。
四時二十五分、礼拝堂内の火災報知器が作動。
四時二十八分、職員が礼拝堂に入る。仁科は、静思室の扉が内側から施錠されていたと説明した。
四時三十二分、予備鍵で解錠。
中で御堂が焼けた状態で発見された。
「内側から施錠、と説明されている?」
「はい。ただ、現時点では仁科氏の説明と発見時の状態です。扉に破壊痕はありません。窓は高所で、人が出入りできる大きさではない。防犯カメラは廊下側を映していますが、儀式中は扉前に浄幕が下りるため、扉の開閉そのものまでは確認できません」
「火元は」
「まだ消防が確認中です。ただ、部屋全体が燃えたわけではありません。御堂氏の周囲だけです」
刑事は言葉を濁した。
「それと、灰のようなものが撒かれています」
「灰?」
「はい。普通の燃えかすとは違うと、鑑識が」
礼拝堂へ近づくにつれ、匂いが変わった。
焼けた匂いだった。
真壁は、火災現場の匂いが好きではない。好きな者などいないだろうが、彼の場合は特に、あの匂いが記憶の奥のどこかに引っかかる。焦げた木材だけではない。プラスチック、布、塗料、紙、そして何かが混じった匂い。人間の生活を作っていたものが一緒に壊れた匂いだ。
今回は建物全体が焼けたわけではない。だから匂いは薄い。
薄いはずなのに、鼻の奥に残った。
礼拝堂は広かった。
正面には祭壇があり、その奥に、金色の輪を模した巨大な装飾が掲げられている。宗教的なものというより、舞台美術のようだった。天井は高く、左右には長椅子が整然と並ぶ。朝の光はステンドグラスを通って床に落ちていたが、その美しさがかえって場違いに見えた。
祭壇脇の壁には、御堂聖真の写真が掲げられていた。
白い法衣を着た男が、穏やかに微笑んでいる。年齢は六十代半ばのはずだが、写真では十歳は若く見えた。銀色に整えられた髪。細い目。薄い唇。人を威圧する顔ではない。むしろ、相手の話をいくらでも聞いてくれそうな顔だった。
その下には、御堂の言葉が金文字で刻まれている。
死は終わりではない。光へ還る道である。
真壁はそれを見上げた。
その言葉を信じて死んだ者が、どれだけいたのか。
その言葉を利用して生き延びた者が、どれだけいたのか。
礼拝堂の奥、重い扉の先に静思室があった。
真壁は靴カバーと手袋を受け取り、中へ入った。
最初に目に入ったのは、床の黒さだった。
部屋は六畳ほど。壁は白く、床は石材。中央に低い台座があり、その周囲が円形に黒く焼けている。天井近くには薄く煤がついているが、部屋全体は燃えていない。燃えたのは、中央だけだ。
その中央に、御堂聖真がいた。
座っているような姿勢だった。いや、座らされていると言うべきかもしれない。身体は台座にもたれるように傾き、両腕は不自然に前へ曲がっている。衣服の一部は焼け落ち、残った布が黒く縮れていた。
顔は判別しにくい。
だが、手元に置かれた金の指輪と、側近の確認で本人と見られている。
真壁はしばらく黙って見た。
遺体そのものより、その周囲が気になった。
黒く焼けた床の外側に、薄い灰色の粉が円を描くように撒かれている。きれいな円ではない。ところどころ乱れている。だが、偶然こぼれたものではなかった。誰かが意思をもって置いたものだ。
「灰か」
真壁が呟くと、横にいた鑑識員が頷いた。
「成分はこれからです。ただ、現場で燃えたものだけでは説明しづらい量です」
「持ち込まれた?」
「可能性は高いです」
真壁はしゃがみ込んだ。
床の焼け方。灰の位置。遺体の向き。扉との距離。窓の位置。どれも意味ありげに見える。だが、意味がありすぎる現場は危険だ。見せたいものが多い現場ほど、見せたくないものを隠している。
背後で足音がした。
振り向かなくても、誰か分かった。
「遅い」
真壁が言うと、九条雅紀は無表情で室内に入ってきた。
「呼ばれた順番が遅かった」
いつも通りの返答だった。
黒いコートの下に、白衣ではなく濃い色のスーツを着ている。現場用の手袋をはめ、マスクをしている。顔色は変わらない。朝に弱いという印象もない。眠っていたのかどうかさえ分からない。
九条は遺体へ近づき、膝をついた。
真壁はその横顔を見た。
九条が死体を見る時、表情はほとんど動かない。だが、何も感じていないわけではないことを、真壁は知っている。九条は死者を哀れまない。祈りもしない。だが、死者を雑に扱う者に対しては、容赦がない。
九条は数秒、遺体を見た。
それから部屋を見た。床、壁、天井、扉、窓。視線の動きは無駄がなかった。
「死んでから焼かれたのではない」
九条が言った。
その声は低く、平坦だった。
県警の刑事が息を呑む。
「分かるのか」
真壁が聞いた。
「分かる範囲では」
「焼死か」
「少なくとも、生前に火災環境下に置かれている」
九条は遺体の顔周辺を見ながら言った。
「気道の確認が必要だが、煙を吸った可能性は高い。血中一酸化炭素濃度も調べる。熱傷の生体反応も見る」
県警の刑事には、その言葉の全部が入っていないようだった。だが真壁は分かる。
九条は、死後焼損ではないと言っている。
つまり、御堂は生きたまま焼かれた。
「苦しんだのか」
真壁は聞いた。
その質問が刑事として適切だったかどうかは分からない。
だが、聞かずにはいられなかった。
九条は一度だけ、真壁を見た。
目が合った。
「ああ」
「どれくらい」
九条はすぐには答えなかった。
遺体へ視線を戻す。
「死因を誤らない程度には」
部屋の中の空気が、わずかに止まった。
封筒の言葉が、真壁の頭の中で重なった。
九条はそれを知っているのか。
いや、知らないはずがない。現場へ来る前に聞かされている可能性はある。だが、その言い方はあまりにも自然だった。挑戦状の文面をなぞったというより、九条自身の言葉として出てきたように聞こえた。
「その表現、気に入ったのか」
真壁はわざと軽く言った。
九条は顔を上げなかった。
「気に入る種類の言葉ではない」
「じゃあ何だ」
「必要な言葉だ」
短い返答だった。
それ以上聞いても、今は答えないだろうと思った。
真壁は部屋の入口へ戻った。外には、県警の捜査員、消防、教団関係者、施設職員が入り混じっている。誰もが声を潜めているが、その沈黙の底には興奮があった。大きな事件が起きた時、人は恐怖だけでは動かない。何かが始まってしまったという予感に、妙に足元が浮く。
礼拝堂の外へ出ると、二階堂がいた。
いつものスーツ姿だったが、ネクタイだけ少し緩い。眠っていない顔だ。手にはタブレットを持っている。
「中、見たか」
真壁が聞くと、二階堂は首を振った。
「まだ許可が出てない。だが外はもう始まってる」
タブレットを見せる。
SNS上の投稿が流れていた。
《御堂先生が殺された》
《警察が施設を封鎖》
《白胎会への弾圧が始まった》
《現場に謎のメッセージ「死因を誤るな」》
《これ内部告発じゃないの?》
《焼死って本当?》
《御堂聖真、過去の村火災と関係?》
《白胎ケアハウスの件、また掘られる?》
《医療拒否で亡くなった子の裁判、御堂側が勝ったやつあったよね》
《白胎会アプリ、今朝の配信止まってる》
最後の数行を見て、真壁は眉を動かした。
「白胎ケアハウスまで出てるのか」
「早いだろ」
二階堂の声が低くなった。
「早すぎる。御堂の死と昔の村火災を結びつける投稿が、もう複数出てる。しかも医療拒否、老人施設、アプリの配信停止まで一気に出てきてる。文体が違う。自然発生じゃない。誰かが撒いてる」
「教団側か」
「教団は今のところ、御堂を殉教者にしたがってる。村火災にも医療拒否にも触れたくないはずだ。ケアハウスの資産寄付問題も同じ。あれは掘られたらまずい」
「じゃあ犯人側か」
「そう見るのが自然だな」
二階堂はタブレットを閉じた。
「挑戦状の文面も漏れてる。封筒が見つかってから、まだ二時間も経ってない。警察内部、教団内部、メディア、あるいは犯人本人。どこからでもありえる」
「犯人本人が流したなら、目的は何だ」
「注目させること」
二階堂は即答した。
「御堂の死を、ただの殺人で終わらせないためだ」
真壁は礼拝堂の方を見た。
ただの殺人。
そんなものはない。
だが、二階堂が言いたいことは分かる。
御堂聖真ほどの人物が殺されれば、それだけで大事件だ。だが、世間は飽きる。数日騒ぎ、次の事件へ流れる。教団は被害者の顔を作り、信者は結束し、警察は慎重な捜査を続けるうちに、過去の疑惑はまた曖昧なまま沈む。
犯人は、それを許さないつもりなのか。
「九条は中か」
二階堂が聞いた。
「ああ」
「何て」
「生きたまま焼かれた可能性が高い」
二階堂の顔から、わずかに表情が消えた。
「きついな」
「お前が言うと軽く聞こえる」
「軽く言わないと仕事にならない」
二階堂は礼拝堂の扉を見た。
「九条、どうだった」
「どうって」
「変だったか」
真壁は答えなかった。
変だった、と言えば変だった。
いつも通り、と言えばいつも通りだった。
問題は、九条の場合、その二つが同時に成立することだった。
「いつも通りだ」
真壁は言った。
二階堂は少しだけ目を細めた。
「それが一番怖いんだけどな」
施設職員への聴取は、礼拝堂横の控室で行われた。
最初に呼ばれたのは、御堂の側近である仁科という男だった。五十代半ば。痩せていて、頬に深い皺がある。白胎会の理事の一人で、長年御堂の秘書役を務めていたという。
仁科は、御堂を静思室の前まで案内したと証言した。
「先生はいつも通りでした。お疲れの様子はありましたが、礼拝前にはよくあることです」
「静思室には一人で?」
「はい。あそこは先生だけが内省を行う場所です。私どもは入れません。儀式中は扉前に浄幕を下ろします」
「鍵は」
「先生が内側からおかけになる決まりです。非常時用の予備鍵は管理室にあります」
「予備鍵を使ったのは誰ですか」
「私です。報知器が鳴り、扉を叩いても返事がなく……予備鍵を取りに行きました」
報知器が鳴ってから。仁科は、そう言った。真壁はその順番を頭の隅に置いた。
仁科の声は震えていた。だが、泣いてはいない。
真壁はそこを見た。
人が死んだ時、泣くかどうかはあまり重要ではない。泣かないから怪しいわけではないし、泣くから信用できるわけでもない。大事なのは、何に反応しているかだ。
仁科は御堂の死そのものより、「先生が死んだ」という言葉の扱いに慎重になっているように見えた。
「御堂氏を恨んでいた人物に心当たりは」
真壁が聞くと、仁科は薄く息を吸った。
「先生ほどの方になれば、誤解されることもあります」
「誤解」
「救いを受け入れられない方々です。過去にも、外部の者が私どもの活動を歪めて報道したことがありました」
「たとえば」
「医療に関する件、献金に関する件、児童支援施設に関する件。どれも事実とは異なります」
準備された答えだった。
真壁はメモを取らなかった。仁科の顔だけを見た。
「白胎ケアハウスについては」
仁科の眉が、ほんの少し動いた。
「高齢者支援施設のことですか」
「ええ。入居者の資産寄付をめぐって、過去に複数の訴訟があった」
「すべて適法に処理されております」
「教団側が勝った」
「事実に基づき、裁判所が判断されたということです」
「医療拒否で亡くなった信者の件は」
「医療拒否という表現は不適切です」
仁科の声が、初めて硬くなった。
「私どもは医療を否定しておりません。祈りと心身の調和を重んじているだけです。どのような治療を選ぶかは、本人と家族の意思によるものです」
「子どもが亡くなった件でも同じ説明を?」
「個別の事案についてはお答えできません」
「名誉毀損訴訟では答えたんじゃないですか」
仁科は唇を結んだ。
真壁は続けた。
「御堂氏は裁判で勝つのがうまい人だったんですね」
「先生は争いを望まれません」
「でも訴える」
「信者を守るためです」
「誰から」
「悪意から」
「死者からは?」
仁科の目が、一瞬だけ止まった。
真壁はその反応を見た。
「亡くなった信者の遺族が、悪意だったと?」
「そうは申しておりません」
「では、何だったんですか」
仁科は答えなかった。
部屋の隅で、二階堂が静かにこちらを見ていた。広報としての立場上、聴取に口を出すことはない。だが彼の目は、仁科の沈黙を逃していなかった。
「村火災については」
真壁がさらに聞いた。
仁科の喉が、わずかに動いた。
「何のことでしょう」
「白胎会の前身団体が関わっていた山間部の集落火災です。御堂氏の名前も当時の資料に出てくる」
「古い話です」
「知っているんですね」
「報道されたことはありますから」
「事故ですか」
仁科は少し黙った。
「そう聞いております」
「誰から」
「記録として」
「記録は誰が作ったんですか」
仁科は答えなかった。
その時、控室の扉が開いた。
九条が入ってきた。
「終わったのか」
真壁が聞くと、九条は頷いた。
「搬送前の確認は終わった。詳細は解剖後になる」
仁科が九条を見た。
その目に、一瞬だけ別の色が混じった。
嫌悪か。警戒か。
あるいは、知っている顔を見た時の反応か。
真壁はその変化を見逃さなかった。
「九条を知っているのか」
仁科に聞いた。
「いえ」
答えは早かった。
「法医学の先生でしょう。こういう場でお見かけすることは、あるかと」
「白胎会の関係施設で?」
「いいえ。報道などで」
九条は仁科を見ていなかった。
まるで、そこに人がいないかのように、部屋の壁を見ていた。
いや、違う。
見ないようにしている。
真壁はそう感じた。
聴取が一段落すると、県警の刑事が慌ただしく入ってきた。
「真壁さん、例の封筒ですが」
透明袋に入った封筒を見せられた。
白い封筒。宛名は印字。
警視庁捜査一課 真壁彰殿。
中の紙も印字だった。
死因を誤るな。
それだけ。
真壁は袋越しに文字を見た。
書体はありふれた明朝体。紙も市販品。指紋は期待できないだろう。封筒は施設敷地内の通用門付近で、警備員が発見したという。発見時刻は午前四時二十分。火災報知器が鳴る五分前。
「火災の前に見つかってるのか」
「はい。警備員はいたずらだと思って管理室に置いたそうです。その直後に報知器が鳴った」
二階堂が横から覗き込んだ。
「犯行予告か」
「予告というより、指示だな」
真壁は言った。
「誰への」
二階堂が聞く。
真壁は封筒を見たまま答えた。
「俺への」
「お前、恨まれてる?」
「心当たりが多すぎる」
「笑えないな」
二階堂が言ったが、声は笑っていなかった。
九条は少し離れた場所に立っていた。
封筒には近づかなかった。
「九条」
真壁は呼んだ。
「この文面、どう思う」
「短い」
「感想じゃない」
「十分だ」
「何が」
九条は封筒を見た。
その目に、何かがよぎった気がした。
「この事件で犯人が見せたいものは、犯人自身ではない」
「じゃあ何だ」
「死因だ」
真壁は黙った。
死因。
また、その言葉だった。
「犯人は、御堂聖真が死んだという事実より、どう死んだかを見せたい」
九条は続けた。
「なぜ殺したかではなく、どの死因を与えたか。そこに意味がある」
「復讐か」
「可能性はある」
「焼死に意味があると?」
「意味がなければ、もっと簡単な方法がある」
その言い方は、あまりに九条らしかった。
真壁は少し苛立った。
「お前、妙に犯人に寄ってないか」
九条は真壁を見た。
「死因を見る時は、犯人にも被害者にも寄らない」
「じゃあ今は何に寄ってる」
「事実」
短く言って、九条は視線を外した。
二階堂が小さく息を吐く。
「相変わらず会話が硬いな、お前ら」
「お前は柔らかすぎる」
真壁が言うと、二階堂は肩をすくめた。
「柔らかくないと広報なんてやってられないんだよ」
その時、二階堂の携帯が鳴った。
画面を見た瞬間、彼の顔が変わった。
「何だ」
真壁が聞く。
二階堂は通話に出ず、画面をこちらに向けた。
ニュース速報だった。
《白胎会・御堂聖真代表が死亡か 施設内で火災 警察が捜査》
その下に、別の記事の見出しが流れていた。
《二十数年前の集落火災との関連も? ネット上で憶測広がる》
さらに、関連項目が並び始めていた。
《白胎会の高齢者施設事業とは》
《御堂聖真氏、政界との太いパイプ》
《過去の医療拒否訴訟、教団側は一貫して否定》
《信者向けアプリ、事件直後に一部機能停止》
二階堂は舌打ちした。
「早すぎる」
真壁も同じことを思った。
御堂の死だけならまだ分かる。宗教団体の代表が施設内で死ねば、すぐに速報が出ても不思議ではない。
だが、村火災。
高齢者施設。
医療拒否。
政治家との接点。
そこへつながるには、早すぎる。
誰かが道を作っている。
世間の視線が、御堂の死体から過去の村へ、そして白胎会が築いてきた巨大な壁へ向かうように。
真壁は九条を見た。
九条はニュースを見ていなかった。
礼拝堂の奥、静思室の扉の方を見ていた。
その横顔には、驚きも苛立ちもない。
ただ、正体不明の静けさがあった。
その日の昼前には、施設前に報道陣が詰めかけていた。
白胎会は緊急声明を出した。
御堂聖真代表が「不慮の災厄」により死亡したこと。警察の捜査には協力するが、信仰への偏見に基づく報道には断固抗議すること。御堂が生涯をかけて弱者救済に尽くしたこと。信者は冷静に祈りを捧げてほしいこと。
声明の背景には、御堂の写真が添えられていた。
政治家と並んだ写真ではない。
高齢者施設のベッド脇で、白髪の女性の手を握っている写真だった。女性は涙を浮かべて御堂を見上げている。御堂は慈愛に満ちた顔で微笑んでいる。見る者が見れば、救済の象徴だった。
真壁には、証拠写真に見えた。
誰が、誰の手を握っていたのか。
握られた者は、本当に救われたのか。
二階堂はそれを見て、低く言った。
「被害者の顔を作るのが早い」
真壁は施設の外れで缶コーヒーを開けていた。朝から何も食べていないことに気づいたが、空腹はなかった。
「それが広報だろ」
「そうだ。だから分かる。あれは準備してた文章だ」
「御堂が死ぬことを?」
「何が起きても使える文章を、だ。批判が来た時、警察が入った時、信者が動揺した時。教団は言葉を先に用意してる」
「犯人もか」
二階堂は缶ボトルを持ったまま、少し黙った。
「たぶんな」
施設の駐車場では、信者たちが祈りを始めていた。
数十人が膝をつき、手を組み、御堂の名前を唱えている。涙を流している者もいる。だが、その向こうでスマートフォンを構える者たちもいた。祈りと記録が同じ場所にある。
真壁は、その光景に奇妙な気持ち悪さを覚えた。
死者のために祈っているのか。
自分たちが祈っている姿を、世間に見せたいのか。
判断はつかなかった。
教団のアプリでは、御堂の過去の説法動画が自動再生されているらしい。二階堂が拾った画面では、信者たちが同じ動画を何度も共有していた。
《先生は死んでいない》
《光へ還られただけ》
《これは迫害だ》
《警察は先生の尊厳を傷つけないで》
《死因を勝手に決めるな》
その最後の一文で、真壁は手を止めた。
死因を勝手に決めるな。
挑戦状の言葉と、少しだけ似ている。
だが、方向が違う。
犯人は、警察に死因を誤るなと言った。
信者は、警察に死因を決めるなと言っている。
その間に、御堂の死体がある。
九条は少し離れた木陰に立っていた。
誰とも話していない。
真壁は近づいた。
「解剖は」
「午後から」
「分かりそうか」
「分かることは分かる」
「分からないことは」
「分からない」
「お前と話してると疲れる」
「なら聞くな」
真壁は缶コーヒーを一口飲んだ。ぬるかった。
「村火災について、何か知ってるか」
九条は答えなかった。
沈黙が落ちる。
真壁は九条の横顔を見た。白い髪。薄い色の睫毛。表情の読みにくい顔。子どものころから、九条は目立った。目立つことを嫌がっているわけではなかったが、見られることに慣れているようにも見えなかった。見られるたびに、自分の輪郭を少しずつ内側へ引っ込めていくような子どもだった。
「九条」
もう一度呼ぶ。
九条は、ようやく口を開いた。
「古い事件だ」
「知ってるんだな」
「報道されたことはある」
「それだけか」
「それだけで十分かどうかは、資料を見るまで分からない」
「お前の母親の名前が出てきたら?」
九条の視線が、わずかに動いた。
ほんの少しだった。
だが真壁には分かった。
刺さった。
「何の話だ」
「まだ資料を確認してない」
「なら、確認してから聞け」
九条はそう言って、歩き出した。
真壁はその背中を見た。
逃げたわけではない。
九条は逃げる時、もっと自然に消える。
今のは、拒絶だった。
その時、二階堂から着信が入った。
『真壁、少し来い』
「何だ」
『面白くないものが出た』
「今行く」
二階堂は広報車両の横にいた。
タブレットの画面には、匿名掲示板の投稿が表示されていた。
投稿時間は午前四時十八分。
火災報知器が鳴る七分前。
封筒が見つかった二分前。
そこには、こう書かれていた。
《白胎の死因を誤るな。灰は山から来る》
真壁は画面を見つめた。
「火災前だな」
「ああ」
「犯人の投稿か」
「その可能性が高い。少なくとも、犯行を事前に知っていた人間だ」
「灰は山から来る」
「村火災を示してるんだろうな」
二階堂は指先で画面を滑らせた。
「しかも、これだけじゃない」
次の投稿が表示された。
《白胎は老人の家を光へ変えた》
さらに次。
《治療を拒ませた者は、死因を祈りに変える》
さらに。
《裁判に勝てば、死者は黙ると思ったか》
真壁は目を細めた。
文章は短い。
だが、狙いは明確だった。
御堂聖真が積み上げてきた勝利を、ひとつずつ掘り返している。高齢者施設。医療拒否。裁判。村火災。どれも一度は表に出て、そして消えた疑惑だ。
「これ、教団が一番嫌がるやつだな」
「そう」
二階堂の声は冷えていた。
「御堂は死んだ。普通なら教団は被害者になる。だが犯人は、御堂が被害者の顔になる前に、加害者の顔を貼り付けようとしてる」
「世論操作か」
「犯人側の広報戦だ」
二階堂は画面を消した。
「なあ、真壁。これ、ただの犯行声明じゃない」
「分かってる」
「犯人は最初から、俺たちを過去へ行かせるつもりだ」
真壁は施設の奥を見た。
礼拝堂の白い壁。
静思室の黒い床。
灰。
焼死体。
あの一文。
それらが一本の線になりかけている。
だが、線の先に誰がいるのかは、まだ見えない。
いや、見えないことにしているだけかもしれない。
真壁の中で、九条の声がもう一度よみがえった。
死因を誤らない程度には。
あの時、九条は本当に所見を述べただけだったのか。
それとも、犯人の意図を読んでいたのか。
あるいは。
真壁はそこから先を考えなかった。
考えてはいけない、と思った。
午後、御堂聖真の遺体は解剖へ回された。
九条は同行した。
真壁も立ち会うことになった。
解剖室へ入る前、九条が手を洗っていた。水の音だけが廊下に響く。白い照明が、九条の髪と皮膚をさらに白く見せていた。
真壁は背後から声をかけた。
「九条」
「何だ」
「この事件、お前はどう見る」
「死体を見てから言う」
「現場は見ただろ」
「現場は死体の一部だが、死体そのものではない」
「面倒くさいな」
「正確だ」
九条は水を止めた。
ペーパータオルで指先を拭く。一本ずつ、丁寧に。
「犯人は、御堂の死因を見せたいと言ったな」
「ああ」
「それなら、死因を間違えたら犯人の思うつぼか」
九条は手を拭き終えた。
「違う」
「違う?」
「死因を間違えたら、死者が二度殺される」
真壁は黙った。
九条の声には、怒りはなかった。
だがその分、重かった。
「誰の言葉だ」
真壁が聞いた。
「誰のものでもない」
「お前の言葉か」
九条は答えず、解剖室の扉へ向かった。
その背中を見ながら、真壁は思った。
死者が二度殺される。
御堂聖真は、すでに一度殺された。
では、二度目とは何か。
犯人が恐れているのは、御堂の死因が誤られることなのか。
それとも、御堂がかつて誤らせた誰かの死因なのか。
扉が開いた。
冷えた空気が流れてきた。
御堂聖真の遺体が、解剖台の上にあった。
九条は白衣を着て、マスクを上げた。
そこにいるのは、真壁の幼なじみではなかった。死者の前に立つ医師だった。
九条は遺体に向かって、ほんのわずかに頭を下げた。
それは祈りではない。
儀礼でもない。
ただ、これから聞く、という合図のように見えた。
真壁は壁際に立った。
御堂の焼けた体。
静思室に撒かれた灰。
挑戦状。
広がっていく村火災の噂。
白胎会が築いてきた高齢者施設。
祈りの名で処理された医療拒否。
裁判で封じられた遺族の声。
政治家と並ぶ御堂の写真。
信者向けアプリで流れ続ける救済の言葉。
そして九条の横顔。
すべてが、まだ意味を持ちきらないまま、同じ部屋に並んでいた。
九条が静かに言った。
「始める」
その声を聞いた時、真壁はなぜか、子どものころの九条を思い出した。
斜め前の古い平屋。
夜中に玄関を叩く九条の母親。
息が戻らず、音が細くなっていく九条。
そして、いつもどこかで死に近い空気をまとっていた白い子ども。
あの家は、もうない。
真壁はその事実を、理由もなく思い出した。
解剖室の照明が、白く強く遺体を照らしていた。
死者は何も言わない。
だが九条は、その沈黙を聞くためにメスを取った。
人は死ねば黙るのだと、昔は思っていた。
生きている者だけが喋り、泣き、怒り、嘘をつく。死んだ者は何も言わない。だからこそ、残された者がその意味を勝手に決める。事故だった。病気だった。自殺だった。仕方のないことだった。そう言って箱に入れ、名前を書き、土に戻す。
だが、九条雅紀はそうは言わなかった。
死体は喋る。
声ではない。言葉でもない。皮膚の色、硬さ、傷の向き、血の沈み方、肺の中に残ったもの、胃の中に入っていたもの、骨に刻まれた力の跡。そういうものが、死者の最後の数分、あるいは数秒を語る。死体が語るのではない。死体に残された事実が、黙ってそこにある。
聞ける人間がいれば、死者は黙っていない。
九条は、そういう男だった。
だから真壁彰は、焼けた死体と聞いた瞬間、反射的に九条の顔を思い浮かべた。
午前五時四十二分。
携帯電話の振動で、真壁は目を覚ました。
眠りは浅かった。刑事になってから深く眠れる夜のほうが少ない。事件がなくても、どこかで呼び出しに備えている。目を閉じていても、体の半分は靴を履いたまま廊下に立っているようなものだ。
画面には、捜査一課の当直番号が表示されていた。
「真壁です」
声は思ったよりはっきり出た。
『早朝から悪い。出られるか』
当直の声は、いつもの連絡より硬かった。
「内容は」
『死亡事案。場所は神奈川県内、宗教法人白胎会の本部施設。被害者は代表の御堂聖真』
真壁はベッドの上で体を起こした。
「御堂?」
『ああ。あの御堂だ』
白胎会。
新興宗教法人としては、古い部類に入る。表向きは福祉事業、自然療法、心の救済、終末期ケア、子どもの居場所づくりなどを掲げている。信者数は公称十万人。実数は分からない。出版物も多く、ネット番組も持ち、政財界との接点も噂される。過去には献金問題、医療拒否、児童の就学妨害、集団生活施設での死亡事故など、いくつもの疑惑が出ては消えた。
消えた、というより消された。
真壁はそう見ていた。
御堂聖真は、ただの宗教家ではなかった。
テレビに出る時は、いつも柔らかな白の法衣を着ていた。だが、その周囲に並ぶ顔ぶれは、宗教の枠に収まらない。国会議員、地方自治体の首長、大手介護事業者の会長、医療系財団の理事、元検察幹部、大学教授。御堂はそうした人間たちと肩を並べ、笑って写真に納まった。
教団は全国に「白胎ケアハウス」と呼ばれる高齢者施設を展開していた。終末期に孤立した老人を受け入れる、という名目だった。行政からの委託事業も受け、地域によっては社会福祉法人と連携し、介護、看取り、身元保証、葬送までを一括で請け負っている。
表向きは、孤独死を防ぐ善意の仕組み。
裏では、信者化した高齢者が資産を寄付した例がいくつもあった。親族が訴えたこともある。だが裁判は長引き、和解し、あるいは教団側が勝った。御堂はそのたびに記者会見で言った。
私どもは、ひとりの魂も見捨てない。
その言葉だけが切り取られ、信者向けの配信番組で何度も流された。
白胎会には専用アプリもあった。日々の祈り、御堂の説法動画、献金履歴、施設予約、相談窓口、信者同士の掲示板まで一体化したものだ。アプリ内の生配信番組《聖真の朝》は、毎朝六時に配信されていた。御堂が穏やかな声で時事問題に触れ、最後は必ず「命は光へ還る」と締める。
穏やかな救済の言葉。
整った施設。
政治家との写真。
裁判で勝ってきた過去。
それらは、一つ一つならただの広報資料だった。だが積み重なると、壁になる。外から何を投げても割れない、厚い壁だ。
医療拒否の疑惑もあった。
末期癌の信者が標準治療を拒み、白胎会が推奨する「浄化療法」と称した食事制限や祈祷を選び、死亡した事件。児童が高熱を出したにもかかわらず、親が病院へ連れていかず、施設内で死亡した事件。どちらも一度は報道された。だが教団は「本人および家族の自由意思」「医療行為ではなく精神的支援」「事実誤認」と主張し、告発した元信者や記者を名誉毀損で訴えた。
教団側は勝った。
少なくとも、世間にはそう見えた。
敗訴した者は黙り、和解した者は話せなくなり、亡くなった者はそれ以上何も言えない。
御堂聖真が死んだ。
それは、単に一人の男が死んだという意味ではなかった。
白胎会の言葉を信じてきた者、疑ってきた者、恨んできた者、利用してきた者、守られてきた者。あらゆる人間の足元が、一斉に揺れる。
「自然死じゃないんですか」
『焼けている』
「火災ですか」
『施設内の礼拝堂で発見。局所的な焼損。建物全体には延焼なし。状況が妙だ。現場保存中だが、県警だけで抱えたくない空気になってる』
当直が言葉を選んだ。
『それと、お前宛てのものがある』
「俺宛て?」
『現場近くで見つかった封筒だ。宛名が、警視庁捜査一課、真壁彰。中身は一枚だけ』
「何て」
一拍置いて、当直が言った。
『死因を誤るな』
真壁は、そこですぐには返事をしなかった。
窓の外はまだ暗かった。カーテンの隙間から、朝の気配だけが薄く入っている。夜と朝の境目は、いつも一瞬だけ物音が少ない。街が息を吸う前のような静けさがある。
その静けさの中で、当直の言葉だけが残った。
刑事宛ての挑戦状としては、奇妙だった。
普通なら「犯人を捕まえられるか」「真実を見抜けるか」「次は誰だ」といった類いになる。少なくとも、捜査員を名指しにするなら、もっと感情の乗った言葉を選ぶ。
死因。
その単語だけが、妙に冷えていた。
犯罪者の言葉というより、医師の言葉に近かった。
「分かりました。向かいます」
電話を切ってから、真壁は数秒だけ動かなかった。
その一文は、頭の中で九条の声に変換される。
九条雅紀。
法医学教室の医師。解剖医。真壁の幼なじみ。小学校のころから、隣ではなく斜め前にいた男。いつも少し遠い場所から人を見ているくせに、見落とさない。言葉は少ない。愛想はない。必要なことしか言わない。だが、死者に対してだけは、妙に律儀だった。
九条なら、言いそうな言葉だった。
いや、違う。
九条なら、わざわざそんな言葉を封筒に入れて真壁へ送ったりしない。
そう思い直して、真壁はベッドを出た。
顔を洗い、服を着替え、黒いジャケットを羽織る。ネクタイは締めなかった。靴を履く前に、携帯がもう一度震えた。
二階堂壮也からだった。
「早いな」
『そっちこそ出たか』
「今からだ。広報も呼ばれたのか」
『呼ばれたというか、こっちに先に火がついた。白胎会の広報部が、もう警察不信を匂わせる声明を準備してるらしい。御堂が死んだって情報も、一部の信者コミュニティには流れてる』
「早すぎる」
『そう。早すぎるんだよ』
二階堂の声には、寝起きの濁りがなかった。おそらく、ほとんど眠っていない。警視庁広報課にいる二階堂は、現場の刑事ではない。だが事件が世論を巻き込む時、彼は捜査員より先に火元を見る。
『しかも、挑戦状の文面らしいものが、もう出回り始めてる』
真壁は玄関で動きを止めた。
「死因を誤るな、か」
『知ってたか』
「当直から聞いた」
『漏れたのが早すぎる。現場内部、教団側、あるいは発見前から流す準備をしていた奴がいる。どれにしろ厄介だ』
「お前は現場に来るのか」
『施設の外までは行く。中に入れるかは調整中。報道が来る前に見ておきたい。真壁』
「何だ」
『今回、普通の殺人じゃないかもしれない』
「普通の殺人なんてない」
『刑事っぽいこと言うな。そういう意味じゃない。これは、殺した後の見せ方まで込みで設計されてる。たぶん、世間に見られることを前提にしてる』
真壁は靴紐を結んだ。
「現場で話す」
『九条には連絡行ってるのか』
名前を出されて、真壁は少し黙った。
「知らない」
『焼死体なら呼ばれるだろ』
「だろうな」
『なら気をつけろ』
「何を」
二階堂はすぐには答えなかった。短い沈黙が、電波の向こうでざらついた。
『あいつ、こういう言葉に引っかかるだろ』
「死因か」
『そう』
真壁はドアを開けた。
廊下の空気は冷えていた。
「引っかかるのは俺も同じだ」
そう言って電話を切った。
白胎会の本部施設は、神奈川県西部の山裾にあった。
正式名称は、白胎会総合祈念修養センター。大きな門には、そう刻まれている。宗教施設というより、研修所や高級老人ホームに近い外観だった。白い壁。よく刈り込まれた植栽。広い駐車場。施設の背後には山があり、朝靄が低く垂れている。
門の脇には、施設案内板が立っていた。
礼拝堂。
静思館。
信者宿泊棟。
相談センター。
白胎ケアハウス西神奈川。
白胎自然療法研究所。
白胎メディア配信棟。
宗教法人の本部というより、小さな町だった。
信仰、福祉、医療まがいの療法、映像配信、高齢者ケア、相談事業。それらが一つの敷地に収まっている。逃げ込む者には安全な箱庭に見えるだろう。外から見る者には、閉じた城に見えた。
門の前には、すでに数台のパトカーと消防車両が停まっていた。報道陣はまだ少ない。だが、時間の問題だった。道路の向こうには、スマートフォンを構えた若い信者らしき者たちが数人いる。泣いている女もいた。祈るように手を組んでいる男もいた。
その中に、車椅子の老女がいた。
付き添いの女が、老女の肩に毛布を掛けている。老女は両手を震わせながら、御堂の写真が掲げられた礼拝堂の方へ頭を下げていた。
「先生がいなければ、私は野垂れ死にでした」
誰に向けた言葉でもないように、老女は言った。
「息子にも捨てられて、病院にも居場所がなくて、先生だけが、ここにいていいと言ってくださった」
真壁は、その声を聞いた。
嘘ではないのだろうと思った。
少なくとも、この老女にとっては。
御堂聖真は人を殺したかもしれない。
人の死を隠したかもしれない。
だが同時に、誰かにとっては救いだった。
だから厄介なのだ。
完全な悪なら、もっと簡単に切り捨てられる。
救われた者の涙を盾にできる悪は、ただの悪よりずっと手強い。
真壁が車を降りると、県警の刑事が駆け寄ってきた。
「警視庁の真壁さんですか」
「ああ」
「こちらです」
歩きながら、刑事が概要を話した。
御堂聖真は午前四時半からの早朝礼拝に出る予定だった。教団では毎月一度、幹部信者だけが参加する早朝儀式がある。御堂はその前に、礼拝堂奥の「静思室」と呼ばれる小部屋へ一人で入るのが習慣だった。
午前四時十分、側近が御堂を静思室の前まで案内。
四時二十五分、礼拝堂内の火災報知器が作動。
四時二十八分、職員が礼拝堂に入る。仁科は、静思室の扉が内側から施錠されていたと説明した。
四時三十二分、予備鍵で解錠。
中で御堂が焼けた状態で発見された。
「内側から施錠、と説明されている?」
「はい。ただ、現時点では仁科氏の説明と発見時の状態です。扉に破壊痕はありません。窓は高所で、人が出入りできる大きさではない。防犯カメラは廊下側を映していますが、儀式中は扉前に浄幕が下りるため、扉の開閉そのものまでは確認できません」
「火元は」
「まだ消防が確認中です。ただ、部屋全体が燃えたわけではありません。御堂氏の周囲だけです」
刑事は言葉を濁した。
「それと、灰のようなものが撒かれています」
「灰?」
「はい。普通の燃えかすとは違うと、鑑識が」
礼拝堂へ近づくにつれ、匂いが変わった。
焼けた匂いだった。
真壁は、火災現場の匂いが好きではない。好きな者などいないだろうが、彼の場合は特に、あの匂いが記憶の奥のどこかに引っかかる。焦げた木材だけではない。プラスチック、布、塗料、紙、そして何かが混じった匂い。人間の生活を作っていたものが一緒に壊れた匂いだ。
今回は建物全体が焼けたわけではない。だから匂いは薄い。
薄いはずなのに、鼻の奥に残った。
礼拝堂は広かった。
正面には祭壇があり、その奥に、金色の輪を模した巨大な装飾が掲げられている。宗教的なものというより、舞台美術のようだった。天井は高く、左右には長椅子が整然と並ぶ。朝の光はステンドグラスを通って床に落ちていたが、その美しさがかえって場違いに見えた。
祭壇脇の壁には、御堂聖真の写真が掲げられていた。
白い法衣を着た男が、穏やかに微笑んでいる。年齢は六十代半ばのはずだが、写真では十歳は若く見えた。銀色に整えられた髪。細い目。薄い唇。人を威圧する顔ではない。むしろ、相手の話をいくらでも聞いてくれそうな顔だった。
その下には、御堂の言葉が金文字で刻まれている。
死は終わりではない。光へ還る道である。
真壁はそれを見上げた。
その言葉を信じて死んだ者が、どれだけいたのか。
その言葉を利用して生き延びた者が、どれだけいたのか。
礼拝堂の奥、重い扉の先に静思室があった。
真壁は靴カバーと手袋を受け取り、中へ入った。
最初に目に入ったのは、床の黒さだった。
部屋は六畳ほど。壁は白く、床は石材。中央に低い台座があり、その周囲が円形に黒く焼けている。天井近くには薄く煤がついているが、部屋全体は燃えていない。燃えたのは、中央だけだ。
その中央に、御堂聖真がいた。
座っているような姿勢だった。いや、座らされていると言うべきかもしれない。身体は台座にもたれるように傾き、両腕は不自然に前へ曲がっている。衣服の一部は焼け落ち、残った布が黒く縮れていた。
顔は判別しにくい。
だが、手元に置かれた金の指輪と、側近の確認で本人と見られている。
真壁はしばらく黙って見た。
遺体そのものより、その周囲が気になった。
黒く焼けた床の外側に、薄い灰色の粉が円を描くように撒かれている。きれいな円ではない。ところどころ乱れている。だが、偶然こぼれたものではなかった。誰かが意思をもって置いたものだ。
「灰か」
真壁が呟くと、横にいた鑑識員が頷いた。
「成分はこれからです。ただ、現場で燃えたものだけでは説明しづらい量です」
「持ち込まれた?」
「可能性は高いです」
真壁はしゃがみ込んだ。
床の焼け方。灰の位置。遺体の向き。扉との距離。窓の位置。どれも意味ありげに見える。だが、意味がありすぎる現場は危険だ。見せたいものが多い現場ほど、見せたくないものを隠している。
背後で足音がした。
振り向かなくても、誰か分かった。
「遅い」
真壁が言うと、九条雅紀は無表情で室内に入ってきた。
「呼ばれた順番が遅かった」
いつも通りの返答だった。
黒いコートの下に、白衣ではなく濃い色のスーツを着ている。現場用の手袋をはめ、マスクをしている。顔色は変わらない。朝に弱いという印象もない。眠っていたのかどうかさえ分からない。
九条は遺体へ近づき、膝をついた。
真壁はその横顔を見た。
九条が死体を見る時、表情はほとんど動かない。だが、何も感じていないわけではないことを、真壁は知っている。九条は死者を哀れまない。祈りもしない。だが、死者を雑に扱う者に対しては、容赦がない。
九条は数秒、遺体を見た。
それから部屋を見た。床、壁、天井、扉、窓。視線の動きは無駄がなかった。
「死んでから焼かれたのではない」
九条が言った。
その声は低く、平坦だった。
県警の刑事が息を呑む。
「分かるのか」
真壁が聞いた。
「分かる範囲では」
「焼死か」
「少なくとも、生前に火災環境下に置かれている」
九条は遺体の顔周辺を見ながら言った。
「気道の確認が必要だが、煙を吸った可能性は高い。血中一酸化炭素濃度も調べる。熱傷の生体反応も見る」
県警の刑事には、その言葉の全部が入っていないようだった。だが真壁は分かる。
九条は、死後焼損ではないと言っている。
つまり、御堂は生きたまま焼かれた。
「苦しんだのか」
真壁は聞いた。
その質問が刑事として適切だったかどうかは分からない。
だが、聞かずにはいられなかった。
九条は一度だけ、真壁を見た。
目が合った。
「ああ」
「どれくらい」
九条はすぐには答えなかった。
遺体へ視線を戻す。
「死因を誤らない程度には」
部屋の中の空気が、わずかに止まった。
封筒の言葉が、真壁の頭の中で重なった。
九条はそれを知っているのか。
いや、知らないはずがない。現場へ来る前に聞かされている可能性はある。だが、その言い方はあまりにも自然だった。挑戦状の文面をなぞったというより、九条自身の言葉として出てきたように聞こえた。
「その表現、気に入ったのか」
真壁はわざと軽く言った。
九条は顔を上げなかった。
「気に入る種類の言葉ではない」
「じゃあ何だ」
「必要な言葉だ」
短い返答だった。
それ以上聞いても、今は答えないだろうと思った。
真壁は部屋の入口へ戻った。外には、県警の捜査員、消防、教団関係者、施設職員が入り混じっている。誰もが声を潜めているが、その沈黙の底には興奮があった。大きな事件が起きた時、人は恐怖だけでは動かない。何かが始まってしまったという予感に、妙に足元が浮く。
礼拝堂の外へ出ると、二階堂がいた。
いつものスーツ姿だったが、ネクタイだけ少し緩い。眠っていない顔だ。手にはタブレットを持っている。
「中、見たか」
真壁が聞くと、二階堂は首を振った。
「まだ許可が出てない。だが外はもう始まってる」
タブレットを見せる。
SNS上の投稿が流れていた。
《御堂先生が殺された》
《警察が施設を封鎖》
《白胎会への弾圧が始まった》
《現場に謎のメッセージ「死因を誤るな」》
《これ内部告発じゃないの?》
《焼死って本当?》
《御堂聖真、過去の村火災と関係?》
《白胎ケアハウスの件、また掘られる?》
《医療拒否で亡くなった子の裁判、御堂側が勝ったやつあったよね》
《白胎会アプリ、今朝の配信止まってる》
最後の数行を見て、真壁は眉を動かした。
「白胎ケアハウスまで出てるのか」
「早いだろ」
二階堂の声が低くなった。
「早すぎる。御堂の死と昔の村火災を結びつける投稿が、もう複数出てる。しかも医療拒否、老人施設、アプリの配信停止まで一気に出てきてる。文体が違う。自然発生じゃない。誰かが撒いてる」
「教団側か」
「教団は今のところ、御堂を殉教者にしたがってる。村火災にも医療拒否にも触れたくないはずだ。ケアハウスの資産寄付問題も同じ。あれは掘られたらまずい」
「じゃあ犯人側か」
「そう見るのが自然だな」
二階堂はタブレットを閉じた。
「挑戦状の文面も漏れてる。封筒が見つかってから、まだ二時間も経ってない。警察内部、教団内部、メディア、あるいは犯人本人。どこからでもありえる」
「犯人本人が流したなら、目的は何だ」
「注目させること」
二階堂は即答した。
「御堂の死を、ただの殺人で終わらせないためだ」
真壁は礼拝堂の方を見た。
ただの殺人。
そんなものはない。
だが、二階堂が言いたいことは分かる。
御堂聖真ほどの人物が殺されれば、それだけで大事件だ。だが、世間は飽きる。数日騒ぎ、次の事件へ流れる。教団は被害者の顔を作り、信者は結束し、警察は慎重な捜査を続けるうちに、過去の疑惑はまた曖昧なまま沈む。
犯人は、それを許さないつもりなのか。
「九条は中か」
二階堂が聞いた。
「ああ」
「何て」
「生きたまま焼かれた可能性が高い」
二階堂の顔から、わずかに表情が消えた。
「きついな」
「お前が言うと軽く聞こえる」
「軽く言わないと仕事にならない」
二階堂は礼拝堂の扉を見た。
「九条、どうだった」
「どうって」
「変だったか」
真壁は答えなかった。
変だった、と言えば変だった。
いつも通り、と言えばいつも通りだった。
問題は、九条の場合、その二つが同時に成立することだった。
「いつも通りだ」
真壁は言った。
二階堂は少しだけ目を細めた。
「それが一番怖いんだけどな」
施設職員への聴取は、礼拝堂横の控室で行われた。
最初に呼ばれたのは、御堂の側近である仁科という男だった。五十代半ば。痩せていて、頬に深い皺がある。白胎会の理事の一人で、長年御堂の秘書役を務めていたという。
仁科は、御堂を静思室の前まで案内したと証言した。
「先生はいつも通りでした。お疲れの様子はありましたが、礼拝前にはよくあることです」
「静思室には一人で?」
「はい。あそこは先生だけが内省を行う場所です。私どもは入れません。儀式中は扉前に浄幕を下ろします」
「鍵は」
「先生が内側からおかけになる決まりです。非常時用の予備鍵は管理室にあります」
「予備鍵を使ったのは誰ですか」
「私です。報知器が鳴り、扉を叩いても返事がなく……予備鍵を取りに行きました」
報知器が鳴ってから。仁科は、そう言った。真壁はその順番を頭の隅に置いた。
仁科の声は震えていた。だが、泣いてはいない。
真壁はそこを見た。
人が死んだ時、泣くかどうかはあまり重要ではない。泣かないから怪しいわけではないし、泣くから信用できるわけでもない。大事なのは、何に反応しているかだ。
仁科は御堂の死そのものより、「先生が死んだ」という言葉の扱いに慎重になっているように見えた。
「御堂氏を恨んでいた人物に心当たりは」
真壁が聞くと、仁科は薄く息を吸った。
「先生ほどの方になれば、誤解されることもあります」
「誤解」
「救いを受け入れられない方々です。過去にも、外部の者が私どもの活動を歪めて報道したことがありました」
「たとえば」
「医療に関する件、献金に関する件、児童支援施設に関する件。どれも事実とは異なります」
準備された答えだった。
真壁はメモを取らなかった。仁科の顔だけを見た。
「白胎ケアハウスについては」
仁科の眉が、ほんの少し動いた。
「高齢者支援施設のことですか」
「ええ。入居者の資産寄付をめぐって、過去に複数の訴訟があった」
「すべて適法に処理されております」
「教団側が勝った」
「事実に基づき、裁判所が判断されたということです」
「医療拒否で亡くなった信者の件は」
「医療拒否という表現は不適切です」
仁科の声が、初めて硬くなった。
「私どもは医療を否定しておりません。祈りと心身の調和を重んじているだけです。どのような治療を選ぶかは、本人と家族の意思によるものです」
「子どもが亡くなった件でも同じ説明を?」
「個別の事案についてはお答えできません」
「名誉毀損訴訟では答えたんじゃないですか」
仁科は唇を結んだ。
真壁は続けた。
「御堂氏は裁判で勝つのがうまい人だったんですね」
「先生は争いを望まれません」
「でも訴える」
「信者を守るためです」
「誰から」
「悪意から」
「死者からは?」
仁科の目が、一瞬だけ止まった。
真壁はその反応を見た。
「亡くなった信者の遺族が、悪意だったと?」
「そうは申しておりません」
「では、何だったんですか」
仁科は答えなかった。
部屋の隅で、二階堂が静かにこちらを見ていた。広報としての立場上、聴取に口を出すことはない。だが彼の目は、仁科の沈黙を逃していなかった。
「村火災については」
真壁がさらに聞いた。
仁科の喉が、わずかに動いた。
「何のことでしょう」
「白胎会の前身団体が関わっていた山間部の集落火災です。御堂氏の名前も当時の資料に出てくる」
「古い話です」
「知っているんですね」
「報道されたことはありますから」
「事故ですか」
仁科は少し黙った。
「そう聞いております」
「誰から」
「記録として」
「記録は誰が作ったんですか」
仁科は答えなかった。
その時、控室の扉が開いた。
九条が入ってきた。
「終わったのか」
真壁が聞くと、九条は頷いた。
「搬送前の確認は終わった。詳細は解剖後になる」
仁科が九条を見た。
その目に、一瞬だけ別の色が混じった。
嫌悪か。警戒か。
あるいは、知っている顔を見た時の反応か。
真壁はその変化を見逃さなかった。
「九条を知っているのか」
仁科に聞いた。
「いえ」
答えは早かった。
「法医学の先生でしょう。こういう場でお見かけすることは、あるかと」
「白胎会の関係施設で?」
「いいえ。報道などで」
九条は仁科を見ていなかった。
まるで、そこに人がいないかのように、部屋の壁を見ていた。
いや、違う。
見ないようにしている。
真壁はそう感じた。
聴取が一段落すると、県警の刑事が慌ただしく入ってきた。
「真壁さん、例の封筒ですが」
透明袋に入った封筒を見せられた。
白い封筒。宛名は印字。
警視庁捜査一課 真壁彰殿。
中の紙も印字だった。
死因を誤るな。
それだけ。
真壁は袋越しに文字を見た。
書体はありふれた明朝体。紙も市販品。指紋は期待できないだろう。封筒は施設敷地内の通用門付近で、警備員が発見したという。発見時刻は午前四時二十分。火災報知器が鳴る五分前。
「火災の前に見つかってるのか」
「はい。警備員はいたずらだと思って管理室に置いたそうです。その直後に報知器が鳴った」
二階堂が横から覗き込んだ。
「犯行予告か」
「予告というより、指示だな」
真壁は言った。
「誰への」
二階堂が聞く。
真壁は封筒を見たまま答えた。
「俺への」
「お前、恨まれてる?」
「心当たりが多すぎる」
「笑えないな」
二階堂が言ったが、声は笑っていなかった。
九条は少し離れた場所に立っていた。
封筒には近づかなかった。
「九条」
真壁は呼んだ。
「この文面、どう思う」
「短い」
「感想じゃない」
「十分だ」
「何が」
九条は封筒を見た。
その目に、何かがよぎった気がした。
「この事件で犯人が見せたいものは、犯人自身ではない」
「じゃあ何だ」
「死因だ」
真壁は黙った。
死因。
また、その言葉だった。
「犯人は、御堂聖真が死んだという事実より、どう死んだかを見せたい」
九条は続けた。
「なぜ殺したかではなく、どの死因を与えたか。そこに意味がある」
「復讐か」
「可能性はある」
「焼死に意味があると?」
「意味がなければ、もっと簡単な方法がある」
その言い方は、あまりに九条らしかった。
真壁は少し苛立った。
「お前、妙に犯人に寄ってないか」
九条は真壁を見た。
「死因を見る時は、犯人にも被害者にも寄らない」
「じゃあ今は何に寄ってる」
「事実」
短く言って、九条は視線を外した。
二階堂が小さく息を吐く。
「相変わらず会話が硬いな、お前ら」
「お前は柔らかすぎる」
真壁が言うと、二階堂は肩をすくめた。
「柔らかくないと広報なんてやってられないんだよ」
その時、二階堂の携帯が鳴った。
画面を見た瞬間、彼の顔が変わった。
「何だ」
真壁が聞く。
二階堂は通話に出ず、画面をこちらに向けた。
ニュース速報だった。
《白胎会・御堂聖真代表が死亡か 施設内で火災 警察が捜査》
その下に、別の記事の見出しが流れていた。
《二十数年前の集落火災との関連も? ネット上で憶測広がる》
さらに、関連項目が並び始めていた。
《白胎会の高齢者施設事業とは》
《御堂聖真氏、政界との太いパイプ》
《過去の医療拒否訴訟、教団側は一貫して否定》
《信者向けアプリ、事件直後に一部機能停止》
二階堂は舌打ちした。
「早すぎる」
真壁も同じことを思った。
御堂の死だけならまだ分かる。宗教団体の代表が施設内で死ねば、すぐに速報が出ても不思議ではない。
だが、村火災。
高齢者施設。
医療拒否。
政治家との接点。
そこへつながるには、早すぎる。
誰かが道を作っている。
世間の視線が、御堂の死体から過去の村へ、そして白胎会が築いてきた巨大な壁へ向かうように。
真壁は九条を見た。
九条はニュースを見ていなかった。
礼拝堂の奥、静思室の扉の方を見ていた。
その横顔には、驚きも苛立ちもない。
ただ、正体不明の静けさがあった。
その日の昼前には、施設前に報道陣が詰めかけていた。
白胎会は緊急声明を出した。
御堂聖真代表が「不慮の災厄」により死亡したこと。警察の捜査には協力するが、信仰への偏見に基づく報道には断固抗議すること。御堂が生涯をかけて弱者救済に尽くしたこと。信者は冷静に祈りを捧げてほしいこと。
声明の背景には、御堂の写真が添えられていた。
政治家と並んだ写真ではない。
高齢者施設のベッド脇で、白髪の女性の手を握っている写真だった。女性は涙を浮かべて御堂を見上げている。御堂は慈愛に満ちた顔で微笑んでいる。見る者が見れば、救済の象徴だった。
真壁には、証拠写真に見えた。
誰が、誰の手を握っていたのか。
握られた者は、本当に救われたのか。
二階堂はそれを見て、低く言った。
「被害者の顔を作るのが早い」
真壁は施設の外れで缶コーヒーを開けていた。朝から何も食べていないことに気づいたが、空腹はなかった。
「それが広報だろ」
「そうだ。だから分かる。あれは準備してた文章だ」
「御堂が死ぬことを?」
「何が起きても使える文章を、だ。批判が来た時、警察が入った時、信者が動揺した時。教団は言葉を先に用意してる」
「犯人もか」
二階堂は缶ボトルを持ったまま、少し黙った。
「たぶんな」
施設の駐車場では、信者たちが祈りを始めていた。
数十人が膝をつき、手を組み、御堂の名前を唱えている。涙を流している者もいる。だが、その向こうでスマートフォンを構える者たちもいた。祈りと記録が同じ場所にある。
真壁は、その光景に奇妙な気持ち悪さを覚えた。
死者のために祈っているのか。
自分たちが祈っている姿を、世間に見せたいのか。
判断はつかなかった。
教団のアプリでは、御堂の過去の説法動画が自動再生されているらしい。二階堂が拾った画面では、信者たちが同じ動画を何度も共有していた。
《先生は死んでいない》
《光へ還られただけ》
《これは迫害だ》
《警察は先生の尊厳を傷つけないで》
《死因を勝手に決めるな》
その最後の一文で、真壁は手を止めた。
死因を勝手に決めるな。
挑戦状の言葉と、少しだけ似ている。
だが、方向が違う。
犯人は、警察に死因を誤るなと言った。
信者は、警察に死因を決めるなと言っている。
その間に、御堂の死体がある。
九条は少し離れた木陰に立っていた。
誰とも話していない。
真壁は近づいた。
「解剖は」
「午後から」
「分かりそうか」
「分かることは分かる」
「分からないことは」
「分からない」
「お前と話してると疲れる」
「なら聞くな」
真壁は缶コーヒーを一口飲んだ。ぬるかった。
「村火災について、何か知ってるか」
九条は答えなかった。
沈黙が落ちる。
真壁は九条の横顔を見た。白い髪。薄い色の睫毛。表情の読みにくい顔。子どものころから、九条は目立った。目立つことを嫌がっているわけではなかったが、見られることに慣れているようにも見えなかった。見られるたびに、自分の輪郭を少しずつ内側へ引っ込めていくような子どもだった。
「九条」
もう一度呼ぶ。
九条は、ようやく口を開いた。
「古い事件だ」
「知ってるんだな」
「報道されたことはある」
「それだけか」
「それだけで十分かどうかは、資料を見るまで分からない」
「お前の母親の名前が出てきたら?」
九条の視線が、わずかに動いた。
ほんの少しだった。
だが真壁には分かった。
刺さった。
「何の話だ」
「まだ資料を確認してない」
「なら、確認してから聞け」
九条はそう言って、歩き出した。
真壁はその背中を見た。
逃げたわけではない。
九条は逃げる時、もっと自然に消える。
今のは、拒絶だった。
その時、二階堂から着信が入った。
『真壁、少し来い』
「何だ」
『面白くないものが出た』
「今行く」
二階堂は広報車両の横にいた。
タブレットの画面には、匿名掲示板の投稿が表示されていた。
投稿時間は午前四時十八分。
火災報知器が鳴る七分前。
封筒が見つかった二分前。
そこには、こう書かれていた。
《白胎の死因を誤るな。灰は山から来る》
真壁は画面を見つめた。
「火災前だな」
「ああ」
「犯人の投稿か」
「その可能性が高い。少なくとも、犯行を事前に知っていた人間だ」
「灰は山から来る」
「村火災を示してるんだろうな」
二階堂は指先で画面を滑らせた。
「しかも、これだけじゃない」
次の投稿が表示された。
《白胎は老人の家を光へ変えた》
さらに次。
《治療を拒ませた者は、死因を祈りに変える》
さらに。
《裁判に勝てば、死者は黙ると思ったか》
真壁は目を細めた。
文章は短い。
だが、狙いは明確だった。
御堂聖真が積み上げてきた勝利を、ひとつずつ掘り返している。高齢者施設。医療拒否。裁判。村火災。どれも一度は表に出て、そして消えた疑惑だ。
「これ、教団が一番嫌がるやつだな」
「そう」
二階堂の声は冷えていた。
「御堂は死んだ。普通なら教団は被害者になる。だが犯人は、御堂が被害者の顔になる前に、加害者の顔を貼り付けようとしてる」
「世論操作か」
「犯人側の広報戦だ」
二階堂は画面を消した。
「なあ、真壁。これ、ただの犯行声明じゃない」
「分かってる」
「犯人は最初から、俺たちを過去へ行かせるつもりだ」
真壁は施設の奥を見た。
礼拝堂の白い壁。
静思室の黒い床。
灰。
焼死体。
あの一文。
それらが一本の線になりかけている。
だが、線の先に誰がいるのかは、まだ見えない。
いや、見えないことにしているだけかもしれない。
真壁の中で、九条の声がもう一度よみがえった。
死因を誤らない程度には。
あの時、九条は本当に所見を述べただけだったのか。
それとも、犯人の意図を読んでいたのか。
あるいは。
真壁はそこから先を考えなかった。
考えてはいけない、と思った。
午後、御堂聖真の遺体は解剖へ回された。
九条は同行した。
真壁も立ち会うことになった。
解剖室へ入る前、九条が手を洗っていた。水の音だけが廊下に響く。白い照明が、九条の髪と皮膚をさらに白く見せていた。
真壁は背後から声をかけた。
「九条」
「何だ」
「この事件、お前はどう見る」
「死体を見てから言う」
「現場は見ただろ」
「現場は死体の一部だが、死体そのものではない」
「面倒くさいな」
「正確だ」
九条は水を止めた。
ペーパータオルで指先を拭く。一本ずつ、丁寧に。
「犯人は、御堂の死因を見せたいと言ったな」
「ああ」
「それなら、死因を間違えたら犯人の思うつぼか」
九条は手を拭き終えた。
「違う」
「違う?」
「死因を間違えたら、死者が二度殺される」
真壁は黙った。
九条の声には、怒りはなかった。
だがその分、重かった。
「誰の言葉だ」
真壁が聞いた。
「誰のものでもない」
「お前の言葉か」
九条は答えず、解剖室の扉へ向かった。
その背中を見ながら、真壁は思った。
死者が二度殺される。
御堂聖真は、すでに一度殺された。
では、二度目とは何か。
犯人が恐れているのは、御堂の死因が誤られることなのか。
それとも、御堂がかつて誤らせた誰かの死因なのか。
扉が開いた。
冷えた空気が流れてきた。
御堂聖真の遺体が、解剖台の上にあった。
九条は白衣を着て、マスクを上げた。
そこにいるのは、真壁の幼なじみではなかった。死者の前に立つ医師だった。
九条は遺体に向かって、ほんのわずかに頭を下げた。
それは祈りではない。
儀礼でもない。
ただ、これから聞く、という合図のように見えた。
真壁は壁際に立った。
御堂の焼けた体。
静思室に撒かれた灰。
挑戦状。
広がっていく村火災の噂。
白胎会が築いてきた高齢者施設。
祈りの名で処理された医療拒否。
裁判で封じられた遺族の声。
政治家と並ぶ御堂の写真。
信者向けアプリで流れ続ける救済の言葉。
そして九条の横顔。
すべてが、まだ意味を持ちきらないまま、同じ部屋に並んでいた。
九条が静かに言った。
「始める」
その声を聞いた時、真壁はなぜか、子どものころの九条を思い出した。
斜め前の古い平屋。
夜中に玄関を叩く九条の母親。
息が戻らず、音が細くなっていく九条。
そして、いつもどこかで死に近い空気をまとっていた白い子ども。
あの家は、もうない。
真壁はその事実を、理由もなく思い出した。
解剖室の照明が、白く強く遺体を照らしていた。
死者は何も言わない。
だが九条は、その沈黙を聞くためにメスを取った。
