死んだ腕に抱かれる

 名前は、死者を呼び戻すことがある。
 戸籍に書かれた文字だけではない。
 古い写真の裏に残された丸い字。書類に押された印影。子どものころ、玄関先で聞いた声。
 あるいは、花の名前。
 真壁彰は、朝の光が差し始めた合同捜査本部で、机の上に置かれた写真を見ていた。
 鷲尾貞成の死亡現場に残されていた一輪の花。
 淡い桃色の、糸のような花弁。夜の書斎でデスクライトに照らされていた時には、奇妙なほど頼りなく見えた。死体の横に置かれていなければ、誰も気に留めなかったかもしれない。
 だが、あの部屋では違った。
 鷲尾の死体。
 九条合歓の死体検案書。
 死因欄の赤い線。
 そして、合歓の花。
 それらはすべて、同じ名前を指していた。
 九条合歓。
 真壁はその名前を、もう何度も口にしている。だが、花の名として見た瞬間、別の重さが生まれた。
 合歓。
 ねむ。
 あの危なっかしい若い母親に、似合いすぎている名前だった。
 柔らかく、少し眠たげで、頼りなく見える。けれど夜になれば葉を閉じる植物のように、自分の中に守るものを抱え込む。
 九条の母親は、そういう人だった。
 日常の順番はよく崩れた。
 買い物袋に洗剤と食パンと病院の書類を一緒に入れ、財布を忘れたと思って慌てると、薬袋の下から出てくる。上着のボタンはずれ、靴を左右逆に履き、九条の発作で駆け込んできた時には髪がほどけていた。
 それでも、九条のことだけは外さなかった。
 保険証。
 薬。
 吸入器。
 水。
 真壁家へ向かうこと。
 順番は間違える。
 けれど、必要な場所へは来る。
 真壁は子どものころ、それをただ「変わった幼い母親」として見ていた。
 今は違う。
 合歓は、外の世界を知らないまま赤ん坊を抱いて焼けた村から出てきた女性だった。
 父が用意した古い平屋へ、一人で辿り着いた女性だった。
 九条だけは置いてこなかった女性だった。
 そして、その子をもう一度奪われまいとして死んだかもしれない女性だった。
 その名を持つ花が、鷲尾貞成の死体の横に置かれていた。
 署名ではない。
 真壁はそう思った。
 犯人が自分を示すために置いたものではない。挑発でも、飾りでもない。
 あれは、献花だ。
 その考えに至った瞬間、胸の奥が冷えた。
 誰かが、鷲尾の現場に九条合歓を連れてきたのだ。
 御堂聖真の現場には、御津窪の灰があった。
 父と村人たちの死が、焼けた礼拝堂に置かれていた。
 鷲尾貞成の現場には、合歓の花があった。
 病死に見せられた母の死が、病死に見える書斎に置かれていた。
 一件目は、父と村。
 二件目は、母。
 そう読めてしまった。
 それは、読めてはいけない答えのようだった。
 鷲尾の人生において、花は本来、幸福の記号だったはずだ。
 押収された領収書には、毎年決まった日付で蘭の花が記録されていた。妻の蘭子の誕生日。結婚記念日。白い胡蝶蘭、紫のデンドロビウム、時には高価なカトレア。
 蘭子へ。
 今年もありがとう。
 貞成。
 同じようなカードが、何枚も残っていた。
 鷲尾は妻の名にちなんで、蘭を贈る男だった。
 自分の家族には花を贈る。
 妻の名前を、毎年、花で祝う。
 だが、他人の母親の名前は、死体検案書の上で閉じた。
 蘭子には蘭を。
 合歓には、死後十二年を経て、ようやく合歓の花を。
 その対比が、真壁にはひどく残酷に思えた。
 花は、贈る相手を間違えれば愛情になる。
 置く場所を間違えれば、告発になる。
 鷲尾の書斎に置かれた合歓の花は、そのどちらでもあった。
 母への献花。
 そして、鷲尾への告発。
「真壁さん」
 三谷の声で、真壁は顔を上げた。
 若い刑事は、薄いファイルを手にしていた。目の下に影がある。徹夜明けの顔だが、声にはまだ緊張が残っている。
「花の入手経路です。まだ確定ではありませんが、都内の花店数軒に照会したところ、事件前日に合歓の花を扱った店がありました」
「購入者は」
「防犯カメラを確認中です。現金払いで、名前は残っていません。店員の記憶では、男性だった可能性が高いと」
「特徴は」
「黒っぽい服。身長は高め。年齢は二十代後半から四十代くらいまで。マスクと帽子で顔は分からないそうです」
 二階堂壮也が、隣の席から顔を上げた。
「広いな」
「はい」
 三谷は申し訳なさそうに言った。
「ただ、店員が妙なことを覚えていました。購入者は、花の名前を指定したそうです。合歓の花を一輪だけ、と」
 二階堂の眉が動く。
「普通の客は指定しないんですか」
「店員によると、切り花としてはそれほど一般的ではないそうです。季節や仕入れにもよりますし、一本だけ指定して買う客は珍しいと」
「一本だけ」
 真壁は呟いた。
 花束ではない。
 供花でもない。
 九条合歓という名前を置くには、一輪で足りた。
「店員は、最初、うまく聞き取れなかったそうです」
 三谷が続ける。
「“何の花ですか”と聞き返したら、購入者は“合歓です”と答えたと」
 二階堂が小さく息を吐いた。
「つまり、偶然じゃない」
「ああ」
 真壁は資料に視線を落とした。
 もし犯人が鷲尾への皮肉だけを考えるなら、蘭でもよかった。
 妻に贈り続けた蘭を、死体のそばに置く。それだけでも十分に残酷な演出になる。
 だが犯人は、鷲尾の人生ではなく、合歓の名前を選んだ。
 鷲尾を裁くためではなく、合歓を呼び戻すために。
「九条のアリバイは」
 三谷が別紙を出した。
「鷲尾の推定死亡時刻ですが、薬毒物の影響、胃内容、体温、現場状況から、現時点では午後七時から午後九時半の間と見られています。幅はあります」
「九条はその時間」
「午後七時から八時十分まで、大学の法医学教室で学生向けの補講をしています。参加者十七名が確認済みです。その後、八時二十二分に大学構内の監視カメラに映っています。八時四十分から九時過ぎまでは、医務院で別件の所見確認。堀島医師、技師二名が同席しています」
 二階堂が腕を組んだ。
「かなり強いな」
「九時十分以降は?」
「そこからは空白があります。ただ、鷲尾のマンションまでは移動に最低でも三十分以上かかります。死亡時刻が九時半以降なら可能性は残りますが、現場状況からは早い時間帯の可能性も高いと」
「花を置いたのは死亡後とは限らない」
 真壁が言うと、三谷は頷いた。
「はい。合歓の花は死亡前から現場にあった可能性もあります。死体検案書のコピーも同様です」
 二階堂が低く言った。
「九条が直接置いたと断定はできない。だが、九条以外が置いたと考えるには、意味が九条に寄りすぎている」
 誰も答えなかった。
 それが、この事件の一番嫌なところだった。
 九条にはアリバイがある。
 九条は捜査を妨害していない。
 むしろ所見を出し、灰の意味を指摘し、鷲尾の死因を誤るなと真壁に告げている。
 普通なら、犯人から遠ざかる要素だった。
 だが、この事件では逆に見えた。
 九条は逃げていない。
 隠れていない。
 正しい場所へ真壁たちを誘導している。
 犯人なら、なぜそんなことをするのか。
 その問いが、真壁の中で形を変え始めていた。
 犯人は、捕まりたくないのではない。
 正しいところまで辿り着かせたいのではないか。
 そう考えると、九条の行動は不自然ではなくなる。
 むしろ、自然すぎる。
 真壁は拳を握った。
「花店の映像を急いでほしい。九条だけじゃない。早瀬、仁科、黒住、榎本、森塚、その他関係者全員と照合して」
「はい」
「鷲尾の部屋への入退室記録は」
「マンションの防犯カメラを解析中です。鷲尾本人は午後五時四十八分に入室。その後、明確に入室した人物は確認されていません。ただ、宅配業者、清掃員、住人など、廊下を通過した人物は複数います」
「鷲尾は誰かを招き入れた可能性がある」
「はい。ただ、部屋のチェーンは内側からかかっていました」
「御堂の礼拝堂と同じだな」
 二階堂が言った。
「見た目は密室。だが本質は密室じゃない」
 真壁は二階堂を見た。
「なぜそう言う」
「犯人の目的が、逃げることに見えないからだ」
 二階堂の声は乾いていた。
「密室は逃走手段じゃなくて見せ方だ。御堂の時もそうだった。礼拝堂を閉じたかったんじゃない。信者たちが外で祈っている間に、教祖が中で死ぬという構図を作りたかった。今回も同じだ。鷲尾が自分の書斎で、内側から閉じた部屋で、病死のように死んでいる。つまり――」
「自分で死因欄を閉じたように見せた」
 真壁が言うと、二階堂は頷いた。
「そういうことだろ」
 真壁は机の上の写真を見た。
 鷲尾の書斎。
 椅子に座った死体。
 死体検案書。
 赤線。
 合歓の花。
 これは現場であると同時に、文章だった。
 犯人が真壁に読ませるために組んだ文章。
 九条がいつも死体を読むように、真壁に現場を読ませている。
 その発想そのものが、九条に近すぎる。
「早瀬は?」
 真壁が聞くと、二階堂は顔をしかめた。
「任意で呼んでる。来ると言ってるが、どうせ録音機材を持ってくる」
「記事の情報源を聞く」
「吐かないだろうな」
「吐かせる」
「刑事っぽいな」
「刑事だからな」
 二階堂は少しだけ笑ったが、すぐ真顔に戻った。
「ただ、早瀬はたぶん本丸じゃない。情報を受け取って火をつけた奴だ」
「分かってる」
「問題は、誰がマッチを渡したかだ」
 真壁は、九条からのメッセージを思い出した。
 《母の死因に届いたら、分かる》
 母の死因。
 まだそこには届いていない。
 鷲尾の死因は、薬物による急死の可能性が高まっている。
 だが合歓の死因については、資料が足りなかった。検案記録、当時の職場証言、江波戸の手帳、鷲尾のメモ。それらは線になりかけているが、決定打ではない。
 九条は、それを知っている。
 だから姿を見せない。
 真壁が死因に届くまで、出てこない。
 その傲慢さに腹が立った。
 だが同時に、九条らしいとも思ってしまう。
 それがさらに腹立たしかった。
 午前九時過ぎ、早瀬遼が県警本部へ現れた。
 フリージャーナリストらしく、肩から鞄を下げ、無精髭を隠そうともしていない。目だけは異様に冴えていた。徹夜で記事を書いた人間の目だった。
 応接室に入るなり、早瀬は言った。
「任意ですよね」
「そうです」
 真壁が答える。
「では録音します」
「こちらも記録します」
「構いません」
 二階堂は壁際に立った。
 広報としてか、監視としてか、どちらでもあるのだろう。
 真壁は早瀬の前に、印刷した記事を置いた。
「あなたが今朝公開した記事です」
「はい」
「九条合歓さんの名前を出した」
「公益性があると判断しました」
 二階堂の眉がわずかに動いた。
 だが、口は挟まない。
「鷲尾貞成の死亡現場に合歓の花があったことも書いている」
「そうですね」
「その情報は、どこから」
「取材源の秘匿です」
「現場関係者しか知らない情報です」
「だから価値がある」
 二階堂が一歩前へ出そうになった。
 真壁は目で制した。
「早瀬さん。これは殺人事件です。取材源の秘匿で済まない場合がある」
「刑事さん」
 早瀬は少し身を乗り出した。
「あなたたちは何年も、白胎会を放置してきた。御堂が死んで、鷲尾が死んで、ようやく過去を見ている。九条合歓という女性の名前も、あなたたちが守ってきたのではない。忘れていただけでしょう」
 真壁は、早瀬を見た。
「あなたは合歓さんを知っていたのか」
「名前は知っていました。御津窪の唯一の生存者。白い子を抱いて山を下りた若い母」
「その言い方をするな」
 真壁の声が低くなった。
 早瀬は一瞬、黙った。
 二階堂が腕を組み直す。
「すみません」
 早瀬は意外にも素直に言った。
「ただ、そういう言葉で記録に残っていたんです。教団関係者の間でも、そう呼ばれていた」
「誰から聞いた」
「複数です」
「鷲尾の現場の花は」
「匿名で資料が届きました」
「いつ」
「鷲尾死亡の報道が出る前です」
「資料とは」
 早瀬は鞄から封筒を出した。
「コピーです。原本はありません」
 真壁は手袋をして受け取った。
 中には、鷲尾の書斎の机を撮った写真があった。
 死体検案書。
 赤線。
 合歓の花。
 警察が撮影したものではない。角度が違う。
 現場発見前、あるいは発見直後に、別の誰かが撮ったものに見える。
 真壁の背筋が冷たくなった。
「この写真は誰から」
「分かりません。差出人不明。データではなく、プリントでした。封筒で届いた」
「封筒は」
「あります」
「提出してください」
 早瀬は少し躊躇したが、結局頷いた。
「届いた時、どう思いましたか」
「罠だと思いました」
「それでも記事にした」
「罠でも、事実なら書く価値がある」
「事実確認は」
「九条合歓の名前、鷲尾との関係、御津窪火災、白胎会関連施設。確認できる部分は確認しました。花については、警察が伏せると思った」
 二階堂が低く言った。
「伏せるのは、捜査上必要だからだ」
 早瀬は二階堂を見た。
「外から見れば、隠しているのと同じです」
「違う」
「結果としては同じです」
 二階堂の目が鋭くなった。
「その“外から見れば同じ”という感覚を、誰かに利用されてる自覚はあるか」
 早瀬は黙った。
 二階堂は続けた。
「あんたは自分で掘ったつもりかもしれない。だが、出すタイミングまで誰かに選ばれてる。御堂の時も、灰の時も、合歓の名前も、鷲尾の花も。あんたは先に走ってるんじゃない。走らされてる」
 早瀬の顔から、少しだけ余裕が消えた。
「誰に」
「それをこっちが聞いてる」
 真壁は写真を見つめた。
 この写真を撮った人物は、鷲尾の部屋に入っている。
 鷲尾が死んだ後、警察が踏み込む前。
 あるいは、鷲尾がまだ生きている時に、机の上だけを撮った。
 どちらにしても、犯人に近い。
 九条か。
 だが九条には時間的な壁がある。
 完全ではないが、強いアリバイがある。
 誰かが九条の代わりに動いているのか。
 九条が協力者を使っているのか。
 あるいは九条とは別に、九条の過去を使って事件を設計している者がいるのか。
「早瀬さん」
 真壁は言った。
「この写真を見て、花が合歓だとどうやって分かった」
「添えられていたメモに書いてありました」
「メモ?」
 早瀬は別の紙を出した。
 短い文面だった。
 《これは署名ではない。
 九条合歓への献花である。
 死因を誤るな。》
 真壁は、その紙を見た瞬間、心臓を掴まれたような感覚を覚えた。
 二階堂も覗き込み、息を止める。
「真壁」
「ああ」
 犯人が読ませたい答えそのものだった。
 花の意味を、わざわざ言葉にしている。
 なぜか。
 早瀬に誤読させないため。
 世間に「犯人の署名」として消費させないため。
 母の名前を、ただの演出にしないため。
 九条の考え方に近すぎる。
 近すぎて、もはや隠す気がないように見えた。
「筆跡は」
 二階堂が聞く。
「印字です。家庭用プリンタの可能性があります」
 三谷が紙を証拠袋へ入れた。
 真壁は早瀬を見た。
「このメモを見て、記事にした」
「はい」
「死因を誤るな、という言葉の意味をどう考えましたか」
 早瀬は、しばらく黙った。
「最初は、犯人から警察への挑発だと思いました」
「今は」
「違うかもしれない」
「どう違う」
「記事を書く側にも向けられている気がしました」
 二階堂が眉を動かした。
「記事を書く側?」
「合歓さんを、悲劇の母とか、宗教被害者とか、そういう言葉で消費するなと言われているような」
 早瀬は少し悔しそうに言った。
「だから、記事の文面はかなり抑えました」
 二階堂は冷たく言った。
「あれでか」
「いつもの自分なら、もっと煽っていた」
「自慢にならない」
「分かっています」
 真壁は、早瀬を見ながら思った。
 犯人は、早瀬の性質まで読んでいる。
 教団の過去を追い、警察を信用せず、被害者の名前を世に出したがる人間。
 だが同時に、死者の扱いには最低限の倫理を残している人間。
 その早瀬に、情報を渡した。
 燃やさせるために。
 しかし燃やし方を誤らせないために。
 これもまた、九条の設計に見えた。
 応接室を出た後、二階堂は壁を軽く拳で叩いた。
「やられてる」
「分かってる」
「分かってるだけじゃ足りない」
「お前はどう見る」
 二階堂は紙コップの水を一気に飲み干した。
「あのメモを書いた奴は、早瀬を信用してない。けど利用できると判断してる。早瀬が暴走しすぎないように、花の意味まで指定した」
「九条らしいか」
「らしい」
 二階堂は即答した。
「でも九条本人が早瀬に送ったなら、隙がありすぎる。郵送の足がつくかもしれない。写真の入手経路も危ない。九条はそこまで雑じゃない」
「つまり協力者」
「または、九条が残したものを拾っている別の誰か」
「誰だ」
「それが問題だ」
 二階堂は廊下の窓から外を見た。
「ただ、俺は一つ分かった」
「何だ」
「あの花は、本当に署名じゃない」
 真壁は黙った。
「犯人が自分を見せたいなら、あんなメモは要らない。花だけ置けば、謎になる。だが、わざわざ“献花”と書いた。犯人にとって大事なのは、自分が誰かじゃない。合歓さんがどう扱われるかだ」
「犯人は、合歓さんを守ろうとしている」
「守るというより、誤読されたくないんだろうな」
 二階堂は真壁を見た。
「九条が言いそうだ」
 言いそうだった。
 九条は合歓を「かわいそうな女」にも、「宗教被害者の象徴」にもしたくないと言った。
 ただ生きていた人間として扱え、と言った。
 その考えと、あのメモは重なる。
 重なるからこそ、疑いが濃くなる。
 犯人だからこそ、母の物語化を許せなかったのか。
 真壁は、吐き気に似た感覚を覚えた。
 午後になって、花店の防犯カメラ映像が届いた。
 会議室のモニターに映し出されたのは、事件前日の午後三時過ぎの映像だった。
 店内に一人の客が入ってくる。
 黒いキャップ。
 黒いマスク。
 濃紺の上着。
 背は高い。
 体格は細い。
 歩き方は落ち着いている。
 真壁は画面を見つめた。
「九条か」
 三谷が小さく言った。
 真壁は即答しなかった。
 似ている。
 身長、体格、姿勢。
 無駄のない動き。
 店員に必要なことだけを伝えるような仕草。
 だが決定的ではない。
 顔は隠れている。
 映像の解像度も高くない。
 同じような体格の男ならいくらでもいる。
 二階堂が腕を組んだ。
「似せてる可能性もある」
「誰が」
「九条に見せたい奴」
 映像の中の男は、店員と短く会話した。
 店員が奥へ行き、しばらくして小さな包みを持って戻る。
 男は現金を出す。
 釣り銭を受け取り、袋を持って店を出る。
 所要時間は三分にも満たない。
「音声は」
「ありません」
 三谷が答えた。
「店員の証言では、“合歓の花を一輪”と指定。用途を聞くと、“置くためです”とだけ答えたそうです」
「置くため」
 飾るためではない。
 贈るためでもない。
 供えるためとも言わない。
 置くため。
 現場に置くため。
「九条の当日行動は」
 三谷が資料を見る。
「この時間帯、九条先生は大学にいます。午後二時半から四時まで、研究室のミーティングに出席。複数証言、入退室ログあり」
「では本人ではない」
「少なくとも、この映像の人物が購入した時刻には」
 二階堂が低く言った。
「強いアリバイがまた増えたな」
 普通なら容疑が薄れる場面だった。
 だが、真壁の中では逆だった。
 九条本人が動けない時刻に、九条に似た男が花を買う。
 九条の母の名前を持つ花を。
 鷲尾の死体のそばに置くために。
 これは、九条を陥れる工作にも見える。
 同時に、九条が自分を疑わせながら直接実行を避ける設計にも見える。
 嫌な二択だった。
「黒住や仁科の周辺に、該当する人物は」
「照合中です」
「早瀬は」
「体格がやや違います。映像の男の方が背が高い」
「森塚は」
「もっと大柄です」
「榎本は女性」
 二階堂が画面を見ながら言った。
「協力者がいるなら、新顔だな」
「九条に協力者がいると思うか」
 真壁が聞くと、二階堂は少し考えた。
「九条本人が頼む姿は想像しにくい」
「同感だ」
「でも、九条に協力したい人間はいるかもしれない」
「誰だ」
「九条の過去に触れた人間。合歓さんを知る人間。白胎会を憎む人間。鷲尾を許せない人間。候補は増えすぎてる」
 真壁は映像を止めた。
 男が店を出る瞬間。
 横顔はマスクで隠れている。
 白い髪ではない。帽子の下から見える髪は黒っぽい。
 九条ではない。
 そう言いたかった。
 だが、九条なら髪などいくらでも隠せる。
 いや、九条にはその時間のアリバイがある。
 思考が同じ場所を回る。
 真壁は、深く息を吐いた。
「九条に似せているなら、犯人は九条を見ている」
「九条が犯人なら、自分に似た協力者を使った」
 二階堂が言う。
「どっちにしても、九条から離れないな」
「ああ」
 その時、三谷が別の資料を持ってきた。
「合歓さんの名前の件で、一つ」
「何だ」
「白胎会の内部資料に、“ねむ”という言葉が出てきます」
 真壁は顔を上げた。
「九条合歓のことか」
「明記はされていません。ただ、御津窪火災後の内部文書に、“ねむの子”という表現がありました」
 二階堂の顔色が変わった。
「ねむの子」
 三谷は紙を広げた。
 古い文書のコピーだった。
 教団内部の儀式記録か、会議メモのようなもの。文体は宗教的で、遠回しな表現が多い。
 《灰より残りしねむの子、白くして火を継ぐもの。》
 真壁は、一瞬、意味を理解したくなかった。
 白くして火を継ぐもの。
 九条雅紀。
 合歓の子。
 白い子。
 御津窪の最後の子。
 教団は、九条をそう呼んでいた。
「これを九条は知っているのか」
 三谷は首を振った。
「不明です。ですが、鷲尾の書斎からも同じ表現を含む資料が見つかっています」
 真壁は資料を手に取った。
 そこには、赤鉛筆で線が引かれていた。
 ねむの子。
 誰が引いた線かは分からない。
 鷲尾か。
 犯人か。
 それとも資料整理した別人か。
 だが、その言葉は九条を物語にしていた。
 合歓が恐れていた通りだ。
 九条は、教団にとって人間ではなく記号だった。
 灰から生まれた白い子。
 火を継ぐもの。
 宗教的な物語の材料。
 合歓は、それを拒んだ。
 雅紀だけは連れていかないで。
 真壁は、拳を握りしめた。
 二階堂が低く言った。
「九条がこれを知ったら」
「もう知っているかもしれない」
「そうだな」
「だが、ここで重要なのは別だ」
「何だ」
 真壁は資料を机に置いた。
「犯人は、九条を“ねむの子”として扱っていない」
 二階堂は目を細めた。
「どういう意味だ」
「鷲尾の現場の花は、九条を示すためじゃない。合歓さんを示すためだ。早瀬へのメモにも、九条合歓への献花と書かれている」
「九条を記号にしていない」
「ああ」
 真壁は続けた。
「教団は九条を“ねむの子”と呼んだ。だが犯人は、花を九条のためじゃなく、合歓さんのために置いた」
 二階堂は黙った。
 それは、犯人の倫理のようなものだった。
 歪んでいる。
 殺人犯の倫理だ。
 だが、確かにそこに線がある。
 合歓を物語の母にしない。
 九条を教団の象徴にしない。
 死因を誤らせない。
 九条の考えに、あまりにも近い。
「真壁」
 二階堂が言った。
「やっぱり、これ九条だ」
 真壁は答えなかった。
 二階堂は、声を荒げなかった。
 ただ、疲れたように言った。
「直接やったかどうかは別だ。アリバイもある。協力者もいるかもしれない。誰かが乗っかっている可能性もある。でも、この事件の芯は九条だ。御堂の死も、鷲尾の死も、花の意味も、早瀬へのメモも、全部、九条の死因観でできてる」
「九条が作ったとは限らない」
「でも、九条なしでは成立しない」
 その通りだった。
 事件は九条なしでは読めない。
 それは九条が犯人だからなのか。
 それとも、九条が犯人に利用されているからなのか。
 真壁はまだ、最後の線を越えられなかった。
 夕方、合歓の死亡当日の検案関連資料の一部が見つかった。
 正規のカルテではない。
 鷲尾が所属していた医療法人の古い会議資料に、匿名化された事案として残っていたのだ。
 《三十代女性。自宅にて心肺停止状態で発見。急性脳血管障害、若年性脳梗塞疑い。家族より解剖希望なし。外部医師Wの助言により死体検案書作成。》
 家族より解剖希望なし。
 真壁はその一文を見て、目の奥が熱くなった。
 家族。
 十七歳の九条のことだ。
 母を亡くしたばかりの高校生。
 「他にご家族は」と聞かれて「いません」と答えた少年。
 その少年が、解剖を希望しなかったことにされている。
 いや、言葉そのものは間違っていないのかもしれない。
 九条は、あの夜、解剖を希望すると言えなかった。
 言えるはずがなかった。
 母を切る、という想像の前で喉が止まったのだろう。
 だが、記録に残れば意味は変わる。
 十七歳の沈黙が、了承になる。
 迷いが、希望なしになる。
 母の死は、その一文で閉じられていた。
 急性脳血管障害。
 若くても起こり得る死。
 働きすぎの母親なら不自然ではない死。
 息子が未成年で、他に家族がいないなら、それで通る死。
「真壁さん」
 三谷の声が震えていた。
「薬剤についての証言メモもありました」
「何が出た」
「救急到着時の処置ではなく、生前に服用していた可能性のある薬についてです。職場同僚の証言として、“最近、眠れる薬をもらったと言っていた”と」
「誰から」
「記録にはありません。ただ、同僚は“相談に行ったところの先生”と聞いていたそうです」
 相談に行ったところ。
 白胎会の療養相談施設。
 仁科。
 鷲尾。
 線が、また太くなった。
 三谷が、別の資料を机に置いた。
 古い面談記録の写しだった。
 日付は、九条合歓が死亡する数日前。
 場所は、白胎会関連施設の相談室。
 出席者欄に、三つの名前があった。
 九条合歓。
 鷲尾貞成。
 仁科重光。
 真壁は、その三番目の名前を見た瞬間、口の中が乾いた。
「仁科がいたのか」
「はい。ただし正式な医療記録ではありません。相談記録です。内容もほとんど残っていません。残っているのは、出席者と時刻、それから短い備考だけです」
「備考は」
 三谷は読み上げた。
「“本人、不安強い。子について過敏。休養指導。鷲尾医師判断により経過観察”」
 二階堂が眉を寄せた。
「経過観察って便利な言葉だな」
 真壁は答えなかった。
 九条合歓は、その数日後に自宅で倒れているところを発見された。
 鷲尾は死因を書いた。
 仁科は、その前の相談室にいた。
 御堂が火を放ち、鷲尾が死因を書き、仁科が記録を残すか消すかを決めた。
 もしそうなら、合歓の死は一人の医師の誤診ではない。
 教団が作った死だった。
「その薬の名前は」
「不明です。ですが、鷲尾の書斎から押収されたメモの中に、同時期に処方または譲渡された可能性のある鎮静系薬物の名称がありました。鷲尾の死因に関わる薬物と同系統の可能性があります」
 会議室が静まり返った。
 鷲尾は、合歓の死因を処理しただけではない。
 その死そのものに関わっていた可能性が高まった。
 そして鷲尾は、同じ系統の薬物で死んだ。
 病死に見える死。
 合歓の死の再演。
 真壁は、椅子に座ったまま動けなかった。
 二階堂が静かに言った。
「届いたな」
 真壁は顔を上げた。
「母の死因に」
 その言葉と同時に、真壁の携帯が震えた。
 九条からだった。
 短いメッセージ。
 《そこまでだ》
 真壁は画面を見た。
 そこまで。
 まるで、採点のような言い方だった。
 続けて、もう一通届いた。
 《花は母のために置いた》
 真壁の呼吸が止まった。
 二階堂が画面を覗き込み、顔色を変える。
「九条……」
 真壁はすぐに電話をかけた。
 今度は、繋がった。
『何』
 九条の声は静かだった。
「今のメッセージは何だ」
『読めるだろう』
「花は母のために置いた、とはどういう意味だ」
『そのままだ』
「お前が置いたのか」
 沈黙。
 長かった。
 真壁は携帯を握る手に力を込めた。
「答えろ」
『直接は置いていない』
「直接は?」
『花を置いた者は別にいる』
 二階堂の目が鋭くなった。
「誰だ」
『今は言えない』
「九条!」
『真壁』
「何だ」
『花を署名にするな』
 真壁は言葉を失った。
『母は、俺の動機ではない』
「何を言ってる」
『母は母だ。事件の説明にするな』
「人が死んでるんだぞ」
『知っている』
「なら出てこい」
『まだだ』
「母の死因に届いたら分かると言ったな。届いたぞ」
『まだ一つ足りない』
「何が」
『御堂と鷲尾をつなぐ最後の証拠だ』
「お前が持っているのか」
『お前が見つける』
「また俺を使うのか」
『そうだ』
 真壁は、一瞬、自分の中で何かが切れる音を聞いた気がした。
「ふざけるな」
『ふざけていない』
「俺はお前の道具じゃない」
『知っている』
「知っていて使うのか」
『ああ』
 真壁は立ち上がった。
 会議室の刑事たちが一斉にこちらを見た。
「九条。お前はどこにいる」
『今は言えない』
「次に誰が死ぬ」
『もう誰も死なせない』
 その答えは、あまりにも静かだった。
「信じられるか」
『信じなくていい』
「九条」
『何だ』
「お前は、御堂と鷲尾を殺したのか」
 電話の向こうで、九条は黙った。
 真壁は、耳の奥で自分の鼓動を聞いていた。
 長い沈黙。
 やがて九条は言った。
『死因を誤るな』
 通話が切れた。
 真壁は携帯を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
 二階堂が低く言った。
「否定しなかったな」
「ああ」
「直接は花を置いてない。花を置いた者は別にいる。つまり、協力者がいる」
「あるいは利用された人間だ」
「どちらでも同じだ。九条はもう、事件の外にいない」
 真壁は目を閉じた。
 とうに分かっていた。
 だが、九条の口から否定が出ないことは、想像していた以上に重かった。
 御堂を殺したのか。
 鷲尾を殺したのか。
 九条は答えなかった。
 かわりに、あの言葉を返した。
 それは否認ではない。
 自白でもない。
 しかし真壁には、ほとんど答えのように聞こえた。
 その夜、真壁は一人で鷲尾の現場写真を見直した。
 御堂の礼拝堂の写真も並べた。
 焼けた死体。
 灰。
 古い名札。
 挑戦状。
 椅子に座った死体。
 死体検案書。
 赤線。
 合歓の花。
 二つの現場は似ていない。
 片方は火。
 片方は静かな書斎。
 片方は父と村。
 片方は母。
 だが、構造は同じだった。
 死体の周囲に、死因を読むための材料が置かれている。
 犯人は逃げるために現場を作っていない。
 読ませるために作っている。
 誰に。
 真壁に。
 そして、社会に。
 真壁はようやく認めた。
 九条は、犯人であるかどうか以前に、この事件の作者だった。
 殺した者が誰であれ、現場の思想は九条雅紀のものだ。
 その一文が、すべてを支配している。
 真壁は写真の中の合歓の花を見た。
 淡い、柔らかな花だった。
 鷲尾の死体のそばでは、あまりにも儚く見えた。
 しかし今は違う。
 それは儚さではなかった。
 抗議だった。
 九条合歓を、もう一度病死にするな。
 九条合歓を、もう一度教団の物語にするな。
 九条合歓を、犯人の母として消費するな。
 彼女は生きていた。
 九条を抱いて逃げ、働き、うどんを作り、公共料金を忘れ、九条の薬を抱えて真壁家へ走った。
 そして殺された可能性がある。
 真壁は、写真を裏返した。
 見ていられなかった。
 その時、二階堂が会議室に入ってきた。
「いたのか」
「ああ」
「九条の位置情報、少しだけ拾えた」
 真壁は顔を上げた。
「どこだ」
「携帯の基地局情報だ。正確じゃないが、神奈川方面へ動いてる」
 真壁は椅子から立ち上がった。
「更地か」
「まだ分からない。でも方向は近い」
「行く」
「待て」
 二階堂が止めた。
「まだ最後の証拠が足りない」
「追うのが先だ」
「逃げないって、お前が言ったんだろ」
 真壁は黙った。
 二階堂は机に資料を置いた。
「御堂と鷲尾をつなぐ最後の証拠。これかもしれない」
「何だ」
「鷲尾の書斎から出た古い音声データ。ラベルは“相談記録”。復元に時間がかかってたが、一部聞けた」
 真壁は息を止めた。
「内容は」
 二階堂は小さな録音機を机に置いた。
 再生する。
 ノイズ。
 古い録音のざらつき。
 誰かの呼吸音。
 そして、女の声。
『雅紀だけは……連れていかないで』
 真壁の体が固まった。
 合歓の声。
 直接聞いたのは十二年以上前のはずなのに、分かった。
 頼りなく、震えていて、でも芯のある声。
 続いて、男の声。
『あなたが不安定だから、子どもにも影響が出るのです』
 別の男の声。
『白い子には、白い子の役割がある』
 御堂の声か。
 断定はできない。
 だが、その言い回しは、教団の文書と同じだった。
 合歓の声がまた聞こえた。
『あの子は、役割じゃない。私の子です』
 そこで音声は一度乱れた。
 真壁は、拳を握った。
 合歓は、言っていた。
 九条を守ろうとしていた。
 死ぬ直前まで。
 音声の最後に、低い声が入っていた。
『鷲尾先生を呼びなさい』
 再生が止まった。
 会議室は静まり返っていた。
 二階堂が言った。
「これで、御堂と鷲尾と合歓さんが同じ場所にいる」
 真壁は録音機を見つめた。
 最後の証拠。
 九条が言っていたもの。
 御堂と鷲尾をつなぐ最後の証拠。
「九条はこれを知っていたのか」
「たぶんな」
 二階堂は苦い顔をした。
「いや、知っていたから、鷲尾の書斎を開けさせたんだろう」
 真壁は携帯を取った。
 九条へ電話する。
 繋がらない。
 もう一度。
 繋がらない。
 真壁は、録音機を見た。
 合歓の声が、まだ耳に残っている。
 あの子は、役割じゃない。私の子です。
 真壁は思った。
 九条はこの声を聞いたのか。
 聞いたなら、何が残ったのか。
 父の死因。
 母の死因。
 村の火災。
 教団が自分を役割と呼んだ記録。
 母が、それを拒んだ声。
 それらを全部聞いた九条が、どこへ行くか。
 答えは、一つしかなかった。
「二階堂」
「何だ」
「更地へ行く」
 二階堂は頷いた。
「俺も行く」
 真壁は写真と録音機を封筒に入れた。
 合歓の花の写真だけを、最後にもう一度見た。
 あれは犯行声明ではない。
 九条が母を現場に連れてきたのだ。
 その理解は、もはや疑いではなかった。
 真壁は九条を疑っているのではない。
 九条へ向かっている。
 刑事として。
 幼なじみとして。
 そして、九条が差し出した解剖依頼を、最後まで読んでしまった者として。
 夜の県警本部を出ると、風が少し冷たかった。
 車へ向かう途中、二階堂が言った。
「真壁」
「何だ」
「九条を見つけたら、どうする」
「逮捕する」
「話を聞いてからか」
「逮捕してから聞く」
 二階堂は少しだけ笑った。
「刑事だな」
「ああ」
 真壁は車に乗り込んだ。
 エンジンをかける。
 向かう先は、真壁家の斜め前だった場所。
 父が残した未来があった場所。
 母が九条を抱いて辿り着いた場所。
 九条が母の記録を見つけた場所。
 今はもう、何もない場所。
 だが、何もなくなったわけではない。
 九条雅紀は、きっとそこにいる。
 合歓の花が示したのは、母の死だけではなかった。
 それは、九条が最後に帰る場所を示していた
 名前は、死者を呼び戻すことがある。
 戸籍に書かれた文字だけではない。
 古い写真の裏に残された丸い字。書類に押された印影。子どものころ、玄関先で聞いた声。
 あるいは、花の名前。
 真壁彰は、朝の光が差し始めた合同捜査本部で、机の上に置かれた写真を見ていた。
 鷲尾貞成の死亡現場に残されていた一輪の花。
 淡い桃色の、糸のような花弁。夜の書斎でデスクライトに照らされていた時には、奇妙なほど頼りなく見えた。死体の横に置かれていなければ、誰も気に留めなかったかもしれない。
 だが、あの部屋では違った。
 鷲尾の死体。
 九条合歓の死体検案書。
 死因欄の赤い線。
 そして、合歓の花。
 それらはすべて、同じ名前を指していた。
 九条合歓。
 真壁はその名前を、もう何度も口にしている。だが、花の名として見た瞬間、別の重さが生まれた。
 合歓。
 ねむ。
 あの危なっかしい若い母親に、似合いすぎている名前だった。
 柔らかく、少し眠たげで、頼りなく見える。けれど夜になれば葉を閉じる植物のように、自分の中に守るものを抱え込む。
 九条の母親は、そういう人だった。
 日常の順番はよく崩れた。
 買い物袋に洗剤と食パンと病院の書類を一緒に入れ、財布を忘れたと思って慌てると、薬袋の下から出てくる。上着のボタンはずれ、靴を左右逆に履き、九条の発作で駆け込んできた時には髪がほどけていた。
 それでも、九条のことだけは外さなかった。
 保険証。
 薬。
 吸入器。
 水。
 真壁家へ向かうこと。
 順番は間違える。
 けれど、必要な場所へは来る。
 真壁は子どものころ、それをただ「変わった幼い母親」として見ていた。
 今は違う。
 合歓は、外の世界を知らないまま赤ん坊を抱いて焼けた村から出てきた女性だった。
 父が用意した古い平屋へ、一人で辿り着いた女性だった。
 九条だけは置いてこなかった女性だった。
 そして、その子をもう一度奪われまいとして死んだかもしれない女性だった。
 その名を持つ花が、鷲尾貞成の死体の横に置かれていた。
 署名ではない。
 真壁はそう思った。
 犯人が自分を示すために置いたものではない。挑発でも、飾りでもない。
 あれは、献花だ。
 その考えに至った瞬間、胸の奥が冷えた。
 誰かが、鷲尾の現場に九条合歓を連れてきたのだ。
 御堂聖真の現場には、御津窪の灰があった。
 父と村人たちの死が、焼けた礼拝堂に置かれていた。
 鷲尾貞成の現場には、合歓の花があった。
 病死に見せられた母の死が、病死に見える書斎に置かれていた。
 一件目は、父と村。
 二件目は、母。
 そう読めてしまった。
 それは、読めてはいけない答えのようだった。
 鷲尾の人生において、花は本来、幸福の記号だったはずだ。
 押収された領収書には、毎年決まった日付で蘭の花が記録されていた。妻の蘭子の誕生日。結婚記念日。白い胡蝶蘭、紫のデンドロビウム、時には高価なカトレア。
 蘭子へ。
 今年もありがとう。
 貞成。
 同じようなカードが、何枚も残っていた。
 鷲尾は妻の名にちなんで、蘭を贈る男だった。
 自分の家族には花を贈る。
 妻の名前を、毎年、花で祝う。
 だが、他人の母親の名前は、死体検案書の上で閉じた。
 蘭子には蘭を。
 合歓には、死後十二年を経て、ようやく合歓の花を。
 その対比が、真壁にはひどく残酷に思えた。
 花は、贈る相手を間違えれば愛情になる。
 置く場所を間違えれば、告発になる。
 鷲尾の書斎に置かれた合歓の花は、そのどちらでもあった。
 母への献花。
 そして、鷲尾への告発。
「真壁さん」
 三谷の声で、真壁は顔を上げた。
 若い刑事は、薄いファイルを手にしていた。目の下に影がある。徹夜明けの顔だが、声にはまだ緊張が残っている。
「花の入手経路です。まだ確定ではありませんが、都内の花店数軒に照会したところ、事件前日に合歓の花を扱った店がありました」
「購入者は」
「防犯カメラを確認中です。現金払いで、名前は残っていません。店員の記憶では、男性だった可能性が高いと」
「特徴は」
「黒っぽい服。身長は高め。年齢は二十代後半から四十代くらいまで。マスクと帽子で顔は分からないそうです」
 二階堂壮也が、隣の席から顔を上げた。
「広いな」
「はい」
 三谷は申し訳なさそうに言った。
「ただ、店員が妙なことを覚えていました。購入者は、花の名前を指定したそうです。合歓の花を一輪だけ、と」
 二階堂の眉が動く。
「普通の客は指定しないんですか」
「店員によると、切り花としてはそれほど一般的ではないそうです。季節や仕入れにもよりますし、一本だけ指定して買う客は珍しいと」
「一本だけ」
 真壁は呟いた。
 花束ではない。
 供花でもない。
 九条合歓という名前を置くには、一輪で足りた。
「店員は、最初、うまく聞き取れなかったそうです」
 三谷が続ける。
「“何の花ですか”と聞き返したら、購入者は“合歓です”と答えたと」
 二階堂が小さく息を吐いた。
「つまり、偶然じゃない」
「ああ」
 真壁は資料に視線を落とした。
 もし犯人が鷲尾への皮肉だけを考えるなら、蘭でもよかった。
 妻に贈り続けた蘭を、死体のそばに置く。それだけでも十分に残酷な演出になる。
 だが犯人は、鷲尾の人生ではなく、合歓の名前を選んだ。
 鷲尾を裁くためではなく、合歓を呼び戻すために。
「九条のアリバイは」
 三谷が別紙を出した。
「鷲尾の推定死亡時刻ですが、薬毒物の影響、胃内容、体温、現場状況から、現時点では午後七時から午後九時半の間と見られています。幅はあります」
「九条はその時間」
「午後七時から八時十分まで、大学の法医学教室で学生向けの補講をしています。参加者十七名が確認済みです。その後、八時二十二分に大学構内の監視カメラに映っています。八時四十分から九時過ぎまでは、医務院で別件の所見確認。堀島医師、技師二名が同席しています」
 二階堂が腕を組んだ。
「かなり強いな」
「九時十分以降は?」
「そこからは空白があります。ただ、鷲尾のマンションまでは移動に最低でも三十分以上かかります。死亡時刻が九時半以降なら可能性は残りますが、現場状況からは早い時間帯の可能性も高いと」
「花を置いたのは死亡後とは限らない」
 真壁が言うと、三谷は頷いた。
「はい。合歓の花は死亡前から現場にあった可能性もあります。死体検案書のコピーも同様です」
 二階堂が低く言った。
「九条が直接置いたと断定はできない。だが、九条以外が置いたと考えるには、意味が九条に寄りすぎている」
 誰も答えなかった。
 それが、この事件の一番嫌なところだった。
 九条にはアリバイがある。
 九条は捜査を妨害していない。
 むしろ所見を出し、灰の意味を指摘し、鷲尾の死因を誤るなと真壁に告げている。
 普通なら、犯人から遠ざかる要素だった。
 だが、この事件では逆に見えた。
 九条は逃げていない。
 隠れていない。
 正しい場所へ真壁たちを誘導している。
 犯人なら、なぜそんなことをするのか。
 その問いが、真壁の中で形を変え始めていた。
 犯人は、捕まりたくないのではない。
 正しいところまで辿り着かせたいのではないか。
 そう考えると、九条の行動は不自然ではなくなる。
 むしろ、自然すぎる。
 真壁は拳を握った。
「花店の映像を急いでほしい。九条だけじゃない。早瀬、仁科、黒住、榎本、森塚、その他関係者全員と照合して」
「はい」
「鷲尾の部屋への入退室記録は」
「マンションの防犯カメラを解析中です。鷲尾本人は午後五時四十八分に入室。その後、明確に入室した人物は確認されていません。ただ、宅配業者、清掃員、住人など、廊下を通過した人物は複数います」
「鷲尾は誰かを招き入れた可能性がある」
「はい。ただ、部屋のチェーンは内側からかかっていました」
「御堂の礼拝堂と同じだな」
 二階堂が言った。
「見た目は密室。だが本質は密室じゃない」
 真壁は二階堂を見た。
「なぜそう言う」
「犯人の目的が、逃げることに見えないからだ」
 二階堂の声は乾いていた。
「密室は逃走手段じゃなくて見せ方だ。御堂の時もそうだった。重要なのは、扉がいつ誰によって閉じられたかだけじゃない。信者たちが浄幕の外で祈っている間に、教祖が中で死ぬという構図そのものだ。今回も同じだ。鷲尾が自分の書斎で、内側から閉じた部屋で、病死のように死んでいる。つまり――」
「自分で死因欄を閉じたように見せた」
 真壁が言うと、二階堂は頷いた。
「そういうことだろ」
 真壁は机の上の写真を見た。
 鷲尾の書斎。
 椅子に座った死体。
 死体検案書。
 赤線。
 合歓の花。
 これは現場であると同時に、文章だった。
 犯人が真壁に読ませるために組んだ文章。
 九条がいつも死体を読むように、真壁に現場を読ませている。
 その発想そのものが、九条に近すぎる。
「早瀬は?」
 真壁が聞くと、二階堂は顔をしかめた。
「任意で呼んでる。来ると言ってるが、どうせ録音機材を持ってくる」
「記事の情報源を聞く」
「吐かないだろうな」
「吐かせる」
「刑事っぽいな」
「刑事だからな」
 二階堂は少しだけ笑ったが、すぐ真顔に戻った。
「ただ、早瀬はたぶん本丸じゃない。情報を受け取って火をつけた奴だ」
「分かってる」
「問題は、誰がマッチを渡したかだ」
 真壁は、九条からのメッセージを思い出した。
 《母の死因に届いたら、分かる》
 母の死因。
 まだそこには届いていない。
 鷲尾の死因は、薬物による急死の可能性が高まっている。
 だが合歓の死因については、資料が足りなかった。検案記録、当時の職場証言、江波戸の手帳、鷲尾のメモ。それらは線になりかけているが、決定打ではない。
 九条は、それを知っている。
 だから姿を見せない。
 真壁が死因に届くまで、出てこない。
 その傲慢さに腹が立った。
 だが同時に、九条らしいとも思ってしまう。
 それがさらに腹立たしかった。
 午前九時過ぎ、早瀬遼が県警本部へ現れた。
 フリージャーナリストらしく、肩から鞄を下げ、無精髭を隠そうともしていない。目だけは異様に冴えていた。徹夜で記事を書いた人間の目だった。
 応接室に入るなり、早瀬は言った。
「任意ですよね」
「そうです」
 真壁が答える。
「では録音します」
「こちらも記録します」
「構いません」
 二階堂は壁際に立った。
 広報としてか、監視としてか、どちらでもあるのだろう。
 真壁は早瀬の前に、印刷した記事を置いた。
「あなたが今朝公開した記事です」
「はい」
「九条合歓さんの名前を出した」
「公益性があると判断しました」
 二階堂の眉がわずかに動いた。
 だが、口は挟まない。
「鷲尾貞成の死亡現場に合歓の花があったことも書いている」
「そうですね」
「その情報は、どこから」
「取材源の秘匿です」
「現場関係者しか知らない情報です」
「だから価値がある」
 二階堂が一歩前へ出そうになった。
 真壁は目で制した。
「早瀬さん。これは殺人事件です。取材源の秘匿で済まない場合がある」
「刑事さん」
 早瀬は少し身を乗り出した。
「あなたたちは何年も、白胎会を放置してきた。御堂が死んで、鷲尾が死んで、ようやく過去を見ている。九条合歓という女性の名前も、あなたたちが守ってきたのではない。忘れていただけでしょう」
 真壁は、早瀬を見た。
「あなたは合歓さんを知っていたのか」
「名前は知っていました。御津窪の唯一の生存者。白い子を抱いて山を下りた若い母」
「その言い方をするな」
 真壁の声が低くなった。
 早瀬は一瞬、黙った。
 二階堂が腕を組み直す。
「すみません」
 早瀬は意外にも素直に言った。
「ただ、そういう言葉で記録に残っていたんです。教団関係者の間でも、そう呼ばれていた」
「誰から聞いた」
「複数です」
「鷲尾の現場の花は」
「匿名で資料が届きました」
「いつ」
「鷲尾死亡の報道が出る前です」
「資料とは」
 早瀬は鞄から封筒を出した。
「コピーです。原本はありません」
 真壁は手袋をして受け取った。
 中には、鷲尾の書斎の机を撮った写真があった。
 死体検案書。
 赤線。
 合歓の花。
 警察が撮影したものではない。角度が違う。
 現場発見前、あるいは発見直後に、別の誰かが撮ったものに見える。
 真壁の背筋が冷たくなった。
「この写真は誰から」
「分かりません。差出人不明。データではなく、プリントでした。封筒で届いた」
「封筒は」
「あります」
「提出してください」
 早瀬は少し躊躇したが、結局頷いた。
「届いた時、どう思いましたか」
「罠だと思いました」
「それでも記事にした」
「罠でも、事実なら書く価値がある」
「事実確認は」
「九条合歓の名前、鷲尾との関係、御津窪火災、白胎会関連施設。確認できる部分は確認しました。花については、警察が伏せると思った」
 二階堂が低く言った。
「伏せるのは、捜査上必要だからだ」
 早瀬は二階堂を見た。
「外から見れば、隠しているのと同じです」
「違う」
「結果としては同じです」
 二階堂の目が鋭くなった。
「その“外から見れば同じ”という感覚を、誰かに利用されてる自覚はあるか」
 早瀬は黙った。
 二階堂は続けた。
「あんたは自分で掘ったつもりかもしれない。だが、出すタイミングまで誰かに選ばれてる。御堂の時も、灰の時も、合歓の名前も、鷲尾の花も。あんたは先に走ってるんじゃない。走らされてる」
 早瀬の顔から、少しだけ余裕が消えた。
「誰に」
「それをこっちが聞いてる」
 真壁は写真を見つめた。
 この写真を撮った人物は、鷲尾の部屋に入っている。
 鷲尾が死んだ後、警察が踏み込む前。
 あるいは、鷲尾がまだ生きている時に、机の上だけを撮った。
 どちらにしても、犯人に近い。
 九条か。
 だが九条には時間的な壁がある。
 完全ではないが、強いアリバイがある。
 誰かが九条の代わりに動いているのか。
 九条が協力者を使っているのか。
 あるいは九条とは別に、九条の過去を使って事件を設計している者がいるのか。
「早瀬さん」
 真壁は言った。
「この写真を見て、花が合歓だとどうやって分かった」
「添えられていたメモに書いてありました」
「メモ?」
 早瀬は別の紙を出した。
 短い文面だった。
 《これは署名ではない。
 九条合歓への献花である。
 死因を誤るな。》
 真壁は、その紙を見た瞬間、心臓を掴まれたような感覚を覚えた。
 二階堂も覗き込み、息を止める。
「真壁」
「ああ」
 犯人が読ませたい答えそのものだった。
 花の意味を、わざわざ言葉にしている。
 なぜか。
 早瀬に誤読させないため。
 世間に「犯人の署名」として消費させないため。
 母の名前を、ただの演出にしないため。
 九条の考え方に近すぎる。
 近すぎて、もはや隠す気がないように見えた。
「筆跡は」
 二階堂が聞く。
「印字です。家庭用プリンタの可能性があります」
 三谷が紙を証拠袋へ入れた。
 真壁は早瀬を見た。
「このメモを見て、記事にした」
「はい」
「死因を誤るな、という言葉の意味をどう考えましたか」
 早瀬は、しばらく黙った。
「最初は、犯人から警察への挑発だと思いました」
「今は」
「違うかもしれない」
「どう違う」
「記事を書く側にも向けられている気がしました」
 二階堂が眉を動かした。
「記事を書く側?」
「合歓さんを、悲劇の母とか、宗教被害者とか、そういう言葉で消費するなと言われているような」
 早瀬は少し悔しそうに言った。
「だから、記事の文面はかなり抑えました」
 二階堂は冷たく言った。
「あれでか」
「いつもの自分なら、もっと煽っていた」
「自慢にならない」
「分かっています」
 真壁は、早瀬を見ながら思った。
 犯人は、早瀬の性質まで読んでいる。
 教団の過去を追い、警察を信用せず、被害者の名前を世に出したがる人間。
 だが同時に、死者の扱いには最低限の倫理を残している人間。
 その早瀬に、情報を渡した。
 燃やさせるために。
 しかし燃やし方を誤らせないために。
 これもまた、九条の設計に見えた。
 応接室を出た後、二階堂は壁を軽く拳で叩いた。
「やられてる」
「分かってる」
「分かってるだけじゃ足りない」
「お前はどう見る」
 二階堂は紙コップの水を一気に飲み干した。
「あのメモを書いた奴は、早瀬を信用してない。けど利用できると判断してる。早瀬が暴走しすぎないように、花の意味まで指定した」
「九条らしいか」
「らしい」
 二階堂は即答した。
「でも九条本人が早瀬に送ったなら、隙がありすぎる。郵送の足がつくかもしれない。写真の入手経路も危ない。九条はそこまで雑じゃない」
「つまり協力者」
「または、九条が残したものを拾っている別の誰か」
「誰だ」
「それが問題だ」
 二階堂は廊下の窓から外を見た。
「ただ、俺は一つ分かった」
「何だ」
「あの花は、本当に署名じゃない」
 真壁は黙った。
「犯人が自分を見せたいなら、あんなメモは要らない。花だけ置けば、謎になる。だが、わざわざ“献花”と書いた。犯人にとって大事なのは、自分が誰かじゃない。合歓さんがどう扱われるかだ」
「犯人は、合歓さんを守ろうとしている」
「守るというより、誤読されたくないんだろうな」
 二階堂は真壁を見た。
「九条が言いそうだ」
 言いそうだった。
 九条は合歓を「かわいそうな女」にも、「宗教被害者の象徴」にもしたくないと言った。
 ただ生きていた人間として扱え、と言った。
 その考えと、あのメモは重なる。
 重なるからこそ、疑いが濃くなる。
 犯人だからこそ、母の物語化を許せなかったのか。
 真壁は、吐き気に似た感覚を覚えた。
 午後になって、花店の防犯カメラ映像が届いた。
 会議室のモニターに映し出されたのは、事件前日の午後三時過ぎの映像だった。
 店内に一人の客が入ってくる。
 黒いキャップ。
 黒いマスク。
 濃紺の上着。
 背は高い。
 体格は細い。
 歩き方は落ち着いている。
 真壁は画面を見つめた。
「九条か」
 三谷が小さく言った。
 真壁は即答しなかった。
 似ている。
 身長、体格、姿勢。
 無駄のない動き。
 店員に必要なことだけを伝えるような仕草。
 だが決定的ではない。
 顔は隠れている。
 映像の解像度も高くない。
 同じような体格の男ならいくらでもいる。
 二階堂が腕を組んだ。
「似せてる可能性もある」
「誰が」
「九条に見せたい奴」
 映像の中の男は、店員と短く会話した。
 店員が奥へ行き、しばらくして小さな包みを持って戻る。
 男は現金を出す。
 釣り銭を受け取り、袋を持って店を出る。
 所要時間は三分にも満たない。
「音声は」
「ありません」
 三谷が答えた。
「店員の証言では、“合歓の花を一輪”と指定。用途を聞くと、“置くためです”とだけ答えたそうです」
「置くため」
 飾るためではない。
 贈るためでもない。
 供えるためとも言わない。
 置くため。
 現場に置くため。
「九条の当日行動は」
 三谷が資料を見る。
「この時間帯、九条先生は大学にいます。午後二時半から四時まで、研究室のミーティングに出席。複数証言、入退室ログあり」
「では本人ではない」
「少なくとも、この映像の人物が購入した時刻には」
 二階堂が低く言った。
「強いアリバイがまた増えたな」
 普通なら容疑が薄れる場面だった。
 だが、真壁の中では逆だった。
 九条本人が動けない時刻に、九条に似た男が花を買う。
 九条の母の名前を持つ花を。
 鷲尾の死体のそばに置くために。
 これは、九条を陥れる工作にも見える。
 同時に、九条が自分を疑わせながら直接実行を避ける設計にも見える。
 嫌な二択だった。
「黒住や仁科の周辺に、該当する人物は」
「照合中です」
「早瀬は」
「体格がやや違います。映像の男の方が背が高い」
「森塚は」
「もっと大柄です」
「榎本は女性」
 二階堂が画面を見ながら言った。
「協力者がいるなら、新顔だな」
「九条に協力者がいると思うか」
 真壁が聞くと、二階堂は少し考えた。
「九条本人が頼む姿は想像しにくい」
「同感だ」
「でも、九条に協力したい人間はいるかもしれない」
「誰だ」
「九条の過去に触れた人間。合歓さんを知る人間。白胎会を憎む人間。鷲尾を許せない人間。候補は増えすぎてる」
 真壁は映像を止めた。
 男が店を出る瞬間。
 横顔はマスクで隠れている。
 白い髪ではない。帽子の下から見える髪は黒っぽい。
 九条ではない。
 そう言いたかった。
 だが、九条なら髪などいくらでも隠せる。
 いや、九条にはその時間のアリバイがある。
 思考が同じ場所を回る。
 真壁は、深く息を吐いた。
「九条に似せているなら、犯人は九条を見ている」
「九条が犯人なら、自分に似た協力者を使った」
 二階堂が言う。
「どっちにしても、九条から離れないな」
「ああ」
 その時、三谷が別の資料を持ってきた。
「合歓さんの名前の件で、一つ」
「何だ」
「白胎会の内部資料に、“ねむ”という言葉が出てきます」
 真壁は顔を上げた。
「九条合歓のことか」
「明記はされていません。ただ、御津窪火災後の内部文書に、“ねむの子”という表現がありました」
 二階堂の顔色が変わった。
「ねむの子」
 三谷は紙を広げた。
 古い文書のコピーだった。
 教団内部の儀式記録か、会議メモのようなもの。文体は宗教的で、遠回しな表現が多い。
 《灰より残りしねむの子、白くして火を継ぐもの。》
 真壁は、一瞬、意味を理解したくなかった。
 白くして火を継ぐもの。
 九条雅紀。
 合歓の子。
 白い子。
 御津窪の最後の子。
 教団は、九条をそう呼んでいた。
「これを九条は知っているのか」
 三谷は首を振った。
「不明です。ですが、鷲尾の書斎からも同じ表現を含む資料が見つかっています」
 真壁は資料を手に取った。
 そこには、赤鉛筆で線が引かれていた。
 ねむの子。
 誰が引いた線かは分からない。
 鷲尾か。
 犯人か。
 それとも資料整理した別人か。
 だが、その言葉は九条を物語にしていた。
 合歓が恐れていた通りだ。
 九条は、教団にとって人間ではなく記号だった。
 灰から生まれた白い子。
 火を継ぐもの。
 宗教的な物語の材料。
 合歓は、それを拒んだ。
 雅紀だけは連れていかないで。
 真壁は、拳を握りしめた。
 二階堂が低く言った。
「九条がこれを知ったら」
「もう知っているかもしれない」
「そうだな」
「だが、ここで重要なのは別だ」
「何だ」
 真壁は資料を机に置いた。
「犯人は、九条を“ねむの子”として扱っていない」
 二階堂は目を細めた。
「どういう意味だ」
「鷲尾の現場の花は、九条を示すためじゃない。合歓さんを示すためだ。早瀬へのメモにも、九条合歓への献花と書かれている」
「九条を記号にしていない」
「ああ」
 真壁は続けた。
「教団は九条を“ねむの子”と呼んだ。だが犯人は、花を九条のためじゃなく、合歓さんのために置いた」
 二階堂は黙った。
 それは、犯人の倫理のようなものだった。
 歪んでいる。
 殺人犯の倫理だ。
 だが、確かにそこに線がある。
 合歓を物語の母にしない。
 九条を教団の象徴にしない。
 死因を誤らせない。
 九条の考えに、あまりにも近い。
「真壁」
 二階堂が言った。
「やっぱり、これ九条だ」
 真壁は答えなかった。
 二階堂は、声を荒げなかった。
 ただ、疲れたように言った。
「直接やったかどうかは別だ。アリバイもある。協力者もいるかもしれない。誰かが乗っかっている可能性もある。でも、この事件の芯は九条だ。御堂の死も、鷲尾の死も、花の意味も、早瀬へのメモも、全部、九条の死因観でできてる」
「九条が作ったとは限らない」
「でも、九条なしでは成立しない」
 その通りだった。
 事件は九条なしでは読めない。
 それは九条が犯人だからなのか。
 それとも、九条が犯人に利用されているからなのか。
 真壁はまだ、最後の線を越えられなかった。
 夕方、合歓の死亡当日の検案関連資料の一部が見つかった。
 正規のカルテではない。
 鷲尾が所属していた医療法人の古い会議資料に、匿名化された事案として残っていたのだ。
 《三十代女性。自宅にて心肺停止状態で発見。急性脳血管障害、若年性脳梗塞疑い。家族より解剖希望なし。外部医師Wの助言により死体検案書作成。》
 家族より解剖希望なし。
 真壁はその一文を見て、目の奥が熱くなった。
 家族。
 十七歳の九条のことだ。
 母を亡くしたばかりの高校生。
 「他にご家族は」と聞かれて「いません」と答えた少年。
 その少年が、解剖を希望しなかったことにされている。
 いや、言葉そのものは間違っていないのかもしれない。
 九条は、あの夜、解剖を希望すると言えなかった。
 言えるはずがなかった。
 母を切る、という想像の前で喉が止まったのだろう。
 だが、記録に残れば意味は変わる。
 十七歳の沈黙が、了承になる。
 迷いが、希望なしになる。
 母の死は、その一文で閉じられていた。
 急性脳血管障害。
 若くても起こり得る死。
 働きすぎの母親なら不自然ではない死。
 息子が未成年で、他に家族がいないなら、それで通る死。
「真壁さん」
 三谷の声が震えていた。
「薬剤についての証言メモもありました」
「何が出た」
「救急到着時の処置ではなく、生前に服用していた可能性のある薬についてです。職場同僚の証言として、“最近、眠れる薬をもらったと言っていた”と」
「誰から」
「記録にはありません。ただ、同僚は“相談に行ったところの先生”と聞いていたそうです」
 相談に行ったところ。
 白胎会の療養相談施設。
 仁科。
 鷲尾。
 線が、また太くなった。
 三谷が、別の資料を机に置いた。
 古い面談記録の写しだった。
 日付は、九条合歓が死亡する数日前。
 場所は、白胎会関連施設の相談室。
 出席者欄に、三つの名前があった。
 九条合歓。
 鷲尾貞成。
 仁科重光。
 真壁は、その三番目の名前を見た瞬間、口の中が乾いた。
「仁科がいたのか」
「はい。ただし正式な医療記録ではありません。相談記録です。内容もほとんど残っていません。残っているのは、出席者と時刻、それから短い備考だけです」
「備考は」
 三谷は読み上げた。
「“本人、不安強い。子について過敏。休養指導。鷲尾医師判断により経過観察”」
 二階堂が眉を寄せた。
「経過観察って便利な言葉だな」
 真壁は答えなかった。
 九条合歓は、その数日後に自宅で倒れているところを発見された。
 鷲尾は死因を書いた。
 仁科は、その前の相談室にいた。
 御堂が火を放ち、鷲尾が死因を書き、仁科が記録を残すか消すかを決めた。
 もしそうなら、合歓の死は一人の医師の誤診ではない。
 教団が作った死だった。
「その薬の名前は」
「不明です。ですが、鷲尾の書斎から押収されたメモの中に、同時期に処方または譲渡された可能性のある鎮静系薬物の名称がありました。鷲尾の死因に関わる薬物と同系統の可能性があります」
 会議室が静まり返った。
 鷲尾は、合歓の死因を処理しただけではない。
 その死そのものに関わっていた可能性が高まった。
 そして鷲尾は、同じ系統の薬物で死んだ。
 病死に見える死。
 合歓の死の再演。
 真壁は、椅子に座ったまま動けなかった。
 二階堂が静かに言った。
「届いたな」
 真壁は顔を上げた。
「母の死因に」
 その言葉と同時に、真壁の携帯が震えた。
 九条からだった。
 短いメッセージ。
 《そこまでだ》
 真壁は画面を見た。
 そこまで。
 まるで、採点のような言い方だった。
 続けて、もう一通届いた。
 《花は母のために置いた》
 真壁の呼吸が止まった。
 二階堂が画面を覗き込み、顔色を変える。
「九条……」
 真壁はすぐに電話をかけた。
 今度は、繋がった。
『何』
 九条の声は静かだった。
「今のメッセージは何だ」
『読めるだろう』
「花は母のために置いた、とはどういう意味だ」
『そのままだ』
「お前が置いたのか」
 沈黙。
 長かった。
 真壁は携帯を握る手に力を込めた。
「答えろ」
『直接は置いていない』
「直接は?」
『花を置いた者は別にいる』
 二階堂の目が鋭くなった。
「誰だ」
『今は言えない』
「九条!」
『真壁』
「何だ」
『花を署名にするな』
 真壁は言葉を失った。
『母は、俺の動機ではない』
「何を言ってる」
『母は母だ。事件の説明にするな』
「人が死んでるんだぞ」
『知っている』
「なら出てこい」
『まだだ』
「母の死因に届いたら分かると言ったな。届いたぞ」
『まだ一つ足りない』
「何が」
『御堂と鷲尾をつなぐ最後の証拠だ』
「お前が持っているのか」
『お前が見つける』
「また俺を使うのか」
『そうだ』
 真壁は、一瞬、自分の中で何かが切れる音を聞いた気がした。
「ふざけるな」
『ふざけていない』
「俺はお前の道具じゃない」
『知っている』
「知っていて使うのか」
『ああ』
 真壁は立ち上がった。
 会議室の刑事たちが一斉にこちらを見た。
「九条。お前はどこにいる」
『今は言えない』
「次に誰が死ぬ」
『もう誰も死なせない』
 その答えは、あまりにも静かだった。
「信じられるか」
『信じなくていい』
「九条」
『何だ』
「お前は、御堂と鷲尾を殺したのか」
 電話の向こうで、九条は黙った。
 真壁は、耳の奥で自分の鼓動を聞いていた。
 長い沈黙。
 やがて九条は言った。
『死因を誤るな』
 通話が切れた。
 真壁は携帯を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
 二階堂が低く言った。
「否定しなかったな」
「ああ」
「直接は花を置いてない。花を置いた者は別にいる。つまり、協力者がいる」
「あるいは利用された人間だ」
「どちらでも同じだ。九条はもう、事件の外にいない」
 真壁は目を閉じた。
 とうに分かっていた。
 だが、九条の口から否定が出ないことは、想像していた以上に重かった。
 御堂を殺したのか。
 鷲尾を殺したのか。
 九条は答えなかった。
 かわりに、あの言葉を返した。
 それは否認ではない。
 自白でもない。
 しかし真壁には、ほとんど答えのように聞こえた。
 その夜、真壁は一人で鷲尾の現場写真を見直した。
 御堂の礼拝堂の写真も並べた。
 焼けた死体。
 灰。
 古い名札。
 挑戦状。
 椅子に座った死体。
 死体検案書。
 赤線。
 合歓の花。
 二つの現場は似ていない。
 片方は火。
 片方は静かな書斎。
 片方は父と村。
 片方は母。
 だが、構造は同じだった。
 死体の周囲に、死因を読むための材料が置かれている。
 犯人は逃げるために現場を作っていない。
 読ませるために作っている。
 誰に。
 真壁に。
 そして、社会に。
 真壁はようやく認めた。
 九条は、犯人であるかどうか以前に、この事件の作者だった。
 殺した者が誰であれ、現場の思想は九条雅紀のものだ。
 その一文が、すべてを支配している。
 真壁は写真の中の合歓の花を見た。
 淡い、柔らかな花だった。
 鷲尾の死体のそばでは、あまりにも儚く見えた。
 しかし今は違う。
 それは儚さではなかった。
 抗議だった。
 九条合歓を、もう一度病死にするな。
 九条合歓を、もう一度教団の物語にするな。
 九条合歓を、犯人の母として消費するな。
 彼女は生きていた。
 九条を抱いて逃げ、働き、うどんを作り、公共料金を忘れ、九条の薬を抱えて真壁家へ走った。
 そして殺された可能性がある。
 真壁は、写真を裏返した。
 見ていられなかった。
 その時、二階堂が会議室に入ってきた。
「いたのか」
「ああ」
「九条の位置情報、少しだけ拾えた」
 真壁は顔を上げた。
「どこだ」
「携帯の基地局情報だ。正確じゃないが、神奈川方面へ動いてる」
 真壁は椅子から立ち上がった。
「更地か」
「まだ分からない。でも方向は近い」
「行く」
「待て」
 二階堂が止めた。
「まだ最後の証拠が足りない」
「追うのが先だ」
「逃げないって、お前が言ったんだろ」
 真壁は黙った。
 二階堂は机に資料を置いた。
「御堂と鷲尾をつなぐ最後の証拠。これかもしれない」
「何だ」
「鷲尾の書斎から出た古い音声データ。ラベルは“相談記録”。復元に時間がかかってたが、一部聞けた」
 真壁は息を止めた。
「内容は」
 二階堂は小さな録音機を机に置いた。
 再生する。
 ノイズ。
 古い録音のざらつき。
 誰かの呼吸音。
 そして、女の声。
『雅紀だけは……連れていかないで』
 真壁の体が固まった。
 合歓の声。
 直接聞いたのは十二年以上前のはずなのに、分かった。
 頼りなく、震えていて、でも芯のある声。
 続いて、男の声。
『あなたが不安定だから、子どもにも影響が出るのです』
 別の男の声。
『白い子には、白い子の役割がある』
 御堂の声か。
 断定はできない。
 だが、その言い回しは、教団の文書と同じだった。
 合歓の声がまた聞こえた。
『あの子は、役割じゃない。私の子です』
 そこで音声は一度乱れた。
 真壁は、拳を握った。
 合歓は、言っていた。
 九条を守ろうとしていた。
 死ぬ直前まで。
 音声の最後に、低い声が入っていた。
『鷲尾先生を呼びなさい』
 再生が止まった。
 会議室は静まり返っていた。
 二階堂が言った。
「これで、御堂と鷲尾と合歓さんが同じ場所にいる」
 真壁は録音機を見つめた。
 最後の証拠。
 九条が言っていたもの。
 御堂と鷲尾をつなぐ最後の証拠。
「九条はこれを知っていたのか」
「たぶんな」
 二階堂は苦い顔をした。
「いや、知っていたから、鷲尾の書斎を開けさせたんだろう」
 真壁は携帯を取った。
 九条へ電話する。
 繋がらない。
 もう一度。
 繋がらない。
 真壁は、録音機を見た。
 合歓の声が、まだ耳に残っている。
 あの子は、役割じゃない。私の子です。
 真壁は思った。
 九条はこの声を聞いたのか。
 聞いたなら、何が残ったのか。
 父の死因。
 母の死因。
 村の火災。
 教団が自分を役割と呼んだ記録。
 母が、それを拒んだ声。
 それらを全部聞いた九条が、どこへ行くか。
 答えは、一つしかなかった。
「二階堂」
「何だ」
「更地へ行く」
 二階堂は頷いた。
「俺も行く」
 真壁は写真と録音機を封筒に入れた。
 合歓の花の写真だけを、最後にもう一度見た。
 あれは犯行声明ではない。
 九条が母を現場に連れてきたのだ。
 その理解は、もはや疑いではなかった。
 真壁は九条を疑っているのではない。
 九条へ向かっている。
 刑事として。
 幼なじみとして。
 そして、九条が差し出した解剖依頼を、最後まで読んでしまった者として。
 夜の県警本部を出ると、風が少し冷たかった。
 車へ向かう途中、二階堂が言った。
「真壁」
「何だ」
「九条を見つけたら、どうする」
「逮捕する」
「話を聞いてからか」
「逮捕してから聞く」
 二階堂は少しだけ笑った。
「刑事だな」
「ああ」
 真壁は車に乗り込んだ。
 エンジンをかける。
 向かう先は、真壁家の斜め前だった場所。
 父が残した未来があった場所。
 母が九条を抱いて辿り着いた場所。
 九条が母の記録を見つけた場所。
 今はもう、何もない場所。
 だが、何もなくなったわけではない。
 九条雅紀は、きっとそこにいる。
 合歓の花が示したのは、母の死だけではなかった。
 それは、九条が最後に帰る場所を示していた。