医師の署名は、時に死者の最後の戸籍になる。
出生届が人を社会に置くものだとすれば、死亡検案書や死体検案書は、人を社会から消すための書類だった。氏名、生年月日、死亡時刻、死亡場所、そして死因。それらが一枚の紙に収められ、最後に医師が名を書く。
その署名によって、死は閉じられる。
事故だった。
病気だった。
老衰だった。
突然死だった。
仕方のない死だった。
そう書かれれば、多くの人間はそのまま受け入れる。遺族は泣く。葬儀社は手続きを進める。役所は除籍する。警察は事件性なしと判断する。社会は次の死へ移る。
だが、もしその署名が嘘だったら。
死者は、いつまでも死ねない。
真壁彰は、鷲尾貞成の書斎から押収された段ボール箱の前に座っていた。
午前四時を過ぎている。県警本部の会議室は白い蛍光灯に照らされ、夜の疲労だけが濃く溜まっていた。窓の外はまだ暗い。誰かが淹れたコーヒーは冷め、紙コップの縁に薄茶色の輪ができている。壁の時計の秒針だけが、やけに律儀に動いていた。
眠気はなかった。
かわりに、腹の奥に冷たい石のようなものがあった。
箱の中から出てくる書類は、どれも一見すると平凡だった。死亡検案書の控え。死体検案書の写し。診療情報提供書。施設内死亡報告。医療法人との顧問契約書。講演謝礼の領収書。古い名簿。覚書。手帳の切れ端。
だが、それらを並べると、別の形が浮かび上がる。
白胎会関連施設で死亡した信者たち。
御堂聖真の名前。
仁科や黒住の署名。
鷲尾貞成の診断。
そして、似たような死因欄。
急性心不全。
脳梗塞。
肺炎。
老衰。
持病の悪化。
誤嚥。
ありえる死因ばかりだった。
だからこそ、たちが悪い。
ありえない死なら、誰かが疑う。
だが、ありえる死は疑われない。
老人が心臓で死ぬ。持病のある者が肺炎で死ぬ。施設で暮らす人間が誤嚥で死ぬ。若い女が自宅で静かに息を引き取っているのが見つかり、脳血管の病名で閉じられる。
そういう死は、社会の中にいくらでもある。
いくらでもあるから、隠すのに向いている。
鷲尾貞成は、それを知っていた。
法医学を知り、病院の手続きを知り、遺族がどこで諦めるかを知り、警察がどこで事件性なしと判断するかを知っていた。
その男が、今度は自分の書斎で死んでいた。
発見時の写真が、机の上に並べられている。
鷲尾は、書斎の椅子に座っていた。背もたれに深く体を預け、机から半歩だけ離れた位置に体を沈めている。右手は机の端に置かれ、左手は膝の上に落ちていた。苦しんで胸を押さえようとしたようにも見える。椅子で眠ったまま、息が止まったようにも見える。
書斎の扉は内側から施錠されていた。
ただし、完全な密室ではない。家政婦が合鍵を持っていた。家族も入れる。窓には鍵がかかっていたが、十二階の部屋で、外から侵入するには無理がある。現場だけを見れば、老人が一人で書斎にこもり、具合が悪くなり、椅子に座ったまま息を引き取った。そう説明できた。
説明できてしまう。
それが問題だった。
机の上には、読みかけの医学雑誌が開かれていた。銀縁の眼鏡が横に置かれている。万年筆のキャップは外れたままだった。便箋には途中まで文章が書かれているが、意味のある内容ではない。何かを書こうとして、途中でやめたのか。あるいは、手が止まっただけなのか。
机の右端には、水差しとグラスがあった。
グラスの底には、ほんの少しだけ水が残っている。鑑識写真では分からないほど薄く、縁の内側に白い曇りのような輪がついていた。唾液か、水道水の成分か、溶け残った何かか。それはまだ分からない。
ただ、真壁には引っかかった。
鷲尾は几帳面な男だった。
書斎の棚は分野ごとに整理され、古い論文も年度別に綴じられていた。薬の管理も同じだった。机の引き出しからは、曜日ごとに仕切られた服薬ケースが見つかっている。朝、昼、夕、就寝前。ひとつひとつに小さなラベルが貼られ、薬の名前と量が細い字で書き込まれていた。
高齢者には珍しくない。
だが、鷲尾の場合は意味が違う。
彼は医師だった。
自分が何を飲んでいるかを理解している人間だった。飲み間違いを防ぐための仕組みを、自分で作っていた。余った錠剤、飲み忘れ、重複服用。そういうものを、誰より嫌うタイプに見えた。
その服薬ケースに、乱れはなかった。
前日分まで、きれいに空いている。
当日分は、決められた区画に残っている。
にもかかわらず、血中からは通常では説明しづらい薬物反応が出始めている。
病死に見える。
だが、病死として閉じるには、細部が少しずつ合わない。
真壁は写真を一枚ずつ見た。
机。
グラス。
水差し。
服薬ケース。
革張りの椅子。
椅子に座った鷲尾。
書斎の扉。
窓。
手書きのメモ。
そして、机の上に置かれていた花。
合歓。
あの花だけが、鷲尾の几帳面な書斎の中で、異物のように見えた。
いや、花そのものが異物だったわけではない。
鷲尾の人生に、花は何度も出てきた。
押収品の中には、古い花屋の領収書が束になって残っていた。宛名は、鷲尾蘭子。妻の名だった。
胡蝶蘭。
カトレア。
デンドロビウム。
白い蘭。紫の蘭。淡い桃色の蘭。
結婚記念日と蘭子の誕生日には、毎年必ず花を届けさせていた。領収書の日付は、ほとんどずれない。添えられたカードの控えには、毎年似たような言葉が書かれている。
蘭子へ。
今年もありがとう。
貞成。
ある年のメモには、花屋が聞き取ったらしい言葉が残っていた。
《奥様のお名前にちなんで、蘭を。》
鷲尾は照れもせず、そう言う男だったという。
患者を三分でさばき、職員の退職届を机の引き出しに積ませ、白胎会関連施設の死を穏当な病名で閉じてきた男が、妻の名前にちなんだ花だけは忘れなかった。
その律儀さが、人間味なのか。
それとも、より深い残酷さなのか。
真壁には、まだ判断できなかった。
妻には蘭。
九条の母には、合歓。
鷲尾の死体のそばに置かれた花は、その過去の習慣まで踏みにじっていた。
花を贈る男が、花で裁かれている。
あるいは、花で死因欄を開けられている。
「真壁さん」
三谷が資料を持ってきた。目が赤い。若さだけで徹夜に耐えている顔だった。
「鷲尾の経歴、まとまりました」
「詳しく」
「鷲尾貞成。七十二歳。元・赤森都医科大学法医学教室准教授。その後、複数の民間病院で顧問医。十五年前からは医療法人清修会の顧問。白胎会の関連福祉施設、療養施設の死亡診断や検案に複数回関与しています」
「若いころは?」
三谷が別紙を見る。
「学生時代の資料と、昔のインタビュー記事がいくつか残っていました。若いころは、へき地医療や救急医療に関心があったようです。卒業文集には、“金の有無で助かる命が変わるのはおかしい”と書いています」
二階堂壮也が、机の反対側から顔を上げた。
「今の鷲尾からは想像できないですね」
三谷は続けた。
「医学部時代は奨学金を受けています。家庭はかなり貧しかったようです。父親は町工場勤務、母親は内職。弟の鷲尾源治も後に医師になっていますが、兄弟ともアルバイトをしながら進学したと」
「源治」
真壁は名前を繰り返した。
「弟か」
「はい。現在は鷲影会系列のクリニック経営に深く関与しています。兄の貞成が医療面、弟の源治が経営面に強かったと言われていますが、実際には兄も相当経営に口を出していたようです」
二階堂が資料を手に取った。
「鷲影会、か」
「正式名称は医療法人鷲影会です。最初は小さな内科クリニックでした。その後、整形外科、心療内科、メンタルクリニック、在宅医療、自由診療、訪問看護、リハビリ施設と拡大しています」
「流行りに乗ったな」
二階堂が言った。
三谷が頷く。
「会議メモには、かなり露骨な記述があります」
「詳しく」
三谷は紙をめくった。
「《高齢化で整形は伸びる。痛みは通院につながる》」
真壁は眉を寄せた。
「続けて」
「《メンタルは再診率が高い。薬剤管理で継続性を作れる》」
二階堂が小さく舌打ちした。
「最低ですね」
「《自由診療は広告次第。美容点滴、疲労回復、睡眠外来。保険外を伸ばす》」
「医療経営のメモとしては、ありえるものなんですか」
真壁が聞くと、三谷は困った顔をした。
「ありえるとは思います。ただ、患者をどう救うかというより、どの症状が金になるかという視点が強いです」
「若いころは人を救いたかった男が、か」
二階堂が呟いた。
三谷は別の資料を出した。
「鷲尾の給与明細も残っていました。勤務医時代のものです。医師になって数年後、初めて大きな病院で常勤になった時の給与が、本人の手帳に貼られていました」
「給与明細を手帳に?」
「はい。横に本人の字でこうあります」
三谷は読み上げた。
「《これだけの金が、毎月振り込まれる。父が一年かけても届かなかった額だ》」
会議室が静かになった。
「その数年後の手帳には、こうも書いてあります」
三谷は続けた。
「《善意だけでは病院は回らない。金を軽蔑する医師は、金に守られたことのない医師だ》」
二階堂は少し黙った。
「分からなくはないのが嫌だな」
真壁も同じことを思った。
貧しさから這い上がった男。
若いころ、本当に人を救いたかった男。
初めて見たこともない額の給料が毎月振り込まれるのを見て、金が命を守るものだと知った男。
そこまでは、まだ理解できる。
問題は、その先だった。
金が命を守る。
それは事実かもしれない。
だが鷲尾は、いつしか命を金で測る側に回った。
患者を人数にし、診療を回転率にし、死を書類処理にした。
「白胎会との正式な契約は」
真壁が聞いた。
三谷が資料へ戻る。
「表向きにはありません。契約は医療法人清修会経由です。ただし講演料、顧問料、個別謝礼の名目で、白胎会側から鷲尾へ金が流れています」
「政治との関わりは」
「あります。鷲影会の顧問弁護士、医療法人の監査役に、県議会議員の後援会関係者が入っています。また、鷲尾源治が医師会の政治連盟を通じて複数の議員へ献金していました」
「教団、医療法人、政治家」
二階堂が言った。
「見事に嫌な三角形だな」
三谷は頷いた。
「白胎会の福祉施設開設時にも、鷲影会が医療連携先として関与しています。自治体の補助金申請資料にも鷲影会の名前があります」
「鷲尾は医師であり、経営者であり、政治の窓口でもあった」
「はい」
「御堂との接点は」
「二十年以上前からあります。光胎寮時代の資料にも、鷲尾の名前がありました」
真壁は顔を上げた。
「御津窪の前ですか」
「前後です。火災直後の身元確認には名前がありません。ただ、火災後に設立された相談窓口の医療助言者として記録されています」
「相談窓口?」
「遺族対応、信者の精神的ケア、火災後の健康相談といった名目です」
二階堂が言った。
「つまり、村を焼いたあと、後始末の医療担当にいた可能性があるってことか」
三谷は言いにくそうに頷いた。
「資料上は、そう読めます」
二階堂は低く笑った。
笑いというより、息を吐いた音だった。
「便利な医者だな。火事の後始末にも、施設の急死にも、逃げた女性の死にも出てくる」
真壁は鷲尾の写真を見た。
現役時代のものだった。
白衣姿で、講演会の壇上に立っている。銀縁の眼鏡。薄い唇。穏やかそうな表情。
医師という職業が持つ、社会的な信用を身にまとった男だった。
その信用があるから、人は彼の署名を信じた。
死因欄に書かれた文字を疑わなかった。
「九条は?」
真壁が聞くと、三谷がわずかに顔を強張らせた。
「所在はまだ確認中です。研究室にも、自宅にも、医務院にもいません。携帯はつながりません」
二階堂が携帯を置いた。
「メッセージ以降、沈黙か」
「ああ」
「逃げたようには見えない」
「なぜだ」
「逃げる人間が、“鷲尾の死因を誤るな”なんてメッセージを残すか?」
「挑発かもしれない」
「九条の挑発はもっと腹立つ」
「十分腹立つが」
「違う。これは指示だ」
二階堂は椅子の背にもたれた。
「九条は、お前に読ませようとしてる」
真壁は黙った。
分かっているから、腹が立つ。
九条はいつもそうだ。
必要なところだけを置いて、あとは黙る。こちらが拾うしかないようにして、平然と離れる。まるで解剖台の上に所見だけを残し、死者の声は自分で聞けと言っているようだった。
「鷲尾の資料を続けてくれますか」
真壁は言った。
三谷が次のファイルを開く。
「合歓さんの件です」
会議室の空気が少し変わった。
九条合歓。
その名前が出るだけで、事件は別の温度を持つ。
御堂の死、鷲尾の死、白胎会の不正。それらは捜査対象として扱える。だが合歓の名前が出ると、真壁の中で必ず斜め向かいの平屋が浮かぶ。そして、はにかむ合歓。
その人の死因欄に、鷲尾貞成は名を書いた。
「合歓さんは、十二年前の二月十日、自宅で倒れているところを息子の九条雅紀に発見されています」
真壁は顔を上げなかった。
「ええ、そうでした」
三谷は一瞬、言葉を止めた。
その反応で、思い出したのだろう。真壁がその場にいたことを。
「はい。ご存じの通り、放課後のアルバイトを終えて帰宅した九条先生が発見しています。玄関の鍵はかかっていなかった。台所の電気はついたまま。リビングのラグの上に合歓さんが倒れていた。本人の通報記録が残っています」
三谷は資料をめくった。
「通報時の内容は、“母です”“反応はありません”“呼吸も、たぶん”というものです。かなり平坦な受け答えだったと、当時の記録にあります」
二階堂が顔を歪めた。
「十七歳で、それを自分で言ったのか」
「はい」
真壁は黙っていた。
想像ではない。
覚えていた。
覚えていたのに、忘れていたことにしていた。
「救急隊到着時には」
三谷は続けた。
「心肺停止状態です。救急隊は確認と評価を行っていますが、現場での救命は困難と判断されています。その後、警察が入り、事件性の確認が行われています」
「搬送は」
「記録上、救急搬送というより、現場確認後の死体検案手続きに移っています。当時の九条先生は、死亡検案書だと思っていた可能性が高いですが、正確には死体検案書です」
真壁は、机の上に置かれたコピーを見た。
死亡検案書。
死体検案書。
生きている患者を診てきた医師が書く死と、すでに死んでいた人間の体を見て書く死。
十七歳の九条に、その違いが分かるはずもない。
いや、違う。
あの時の九条は、分かっていなかったのではない。
分かろうとしていた。
泣くより先に、聞いた。
死因は何ですか、と。
普通なら、そこで崩れるのかもしれない。
お母さんは、と聞くのかもしれない。
どうして、と叫ぶのかもしれない。
けれど九条の口から出たのは、死因だった。
あの瞬間、真壁は少し動いた。
動いただけだった。
止めることも、代わりに聞くこともできなかった。
医師は困った顔をした。
そして言った。
現時点では、急性の脳血管障害が疑われます。
脳梗塞、あるいはそれに近い発作です。
若い方でも、起こることはあります。
その言葉が、母の死を閉じた。
急性脳血管障害。
脳梗塞疑い。
疑い。
真壁はその場にいた。
その言葉を聞いていた。
聞いていたのに、何もできなかった。
「鷲尾は、どこで関与したんです」
真壁が聞いた。
三谷は次の資料を出した。
「警察が呼んだ医師として、自宅に臨場しています。当時、鷲尾は南倉総合病院の非常勤顧問で、院内死亡時の手続き相談、法医学的助言、医療安全委員会の外部委員などを務めていました。地域警察とのつながりもあり、変死体や院外死亡の検案に助言者として呼ばれることがあったようです」
「当日の勤務予定は」
「ありません」
二階堂が眉を動かした。
「なのに来た」
「はい。公式記録では、“警察からの要請により臨場”となっています。ただし、誰が鷲尾を指定したのかは不明です」
「警察側がたまたま呼んだのか、誰かが鷲尾を呼ばせたのか」
「そこは、まだ分かりません」
二階堂は資料を見た。
「最後に生きていた時刻は」
「九条先生が朝、家を出る前です。七時少し前。合歓さんは“今日、帰り遅いかも”“夜”と話しています」
「仕事へ行く予定だった」
「はい。ただし、勤務先にはその日、出勤していません」
会議室の空気がまた少し重くなった。
朝、帰りが遅くなると言った。
夜、と言った。
だが、職場には行っていない。
そのずれを、あの時の九条も聞かされていた。
休み。
職場では、そう扱われていた。
合歓は朝、帰りが遅いかもしれないと言った。
夜、と言った。
なのに、職場には行っていない。
その時点で何かがずれていた。
だが、十七歳の九条には、そのずれをどう扱えばいいのか分からなかった。
そして真壁にも、分からなかった。
分からなかった、で済ませてきた。
「勤務先は、どう受け止めていたんですか」
「当時の記録では、“欠勤連絡が曖昧だった”“本人は体調不良で休むものと思っていた”という証言があります。ただし、誰がそう伝えたのかは不明です」
二階堂が低く言った。
「そこも気持ち悪いな」
「ああ」
真壁は答えた。
合歓は時間の管理が得意な人ではなかった。
帰りが遅い、夜、といった曖昧な言い方は、彼女らしい。
だが、職場に行っていない。
欠勤扱いになっている。
そしてその日の夜、家で倒れていた。
偶然として処理するには、線が細すぎる。
真壁は、鷲尾のメモを机に置いた。
《N接触済。状態不安定。Mへの影響注意。検案時は脳血管系で処理可》
N。
M。
真壁はメモを見つめた。
「このメモの日付は、合歓が死ぬ三日前でしたね」
「はい」
「俺はNが合歓、Mは雅紀だとみています」
「ええ、可能性は高いです」
二階堂が苦い顔をした。
「この文言、医療メモじゃないな」
「何に見える」
「処理計画だ」
その言葉は、会議室に重く落ちた。
処理計画。
真壁はメモを見つめた。
接触、状態不安定、Mへの影響、そして処理可。
合歓が何かを訴えようとしていたのか。
あるいは、白胎会が九条に近づこうとしたのか。
そして鷲尾は、その結果として自宅で起きるかもしれない死を、脳血管系で処理できると考えていた。
処理。
死者に対して使うには、冷たすぎる言葉だった。
だが、医療の現場では「処理」という言葉自体は珍しくない。書類処理。手続き処理。死亡後の処理。検案後の処理。
だからこそ、逃げ道がある。
鷲尾はその逃げ道を知っていた。
「鷲尾は、合歓の死で迷った可能性があります」
三谷が言った。
真壁は顔を上げた。
「何を根拠に」
「鷲尾の個人メモです。断片ですが、合歓さんの死亡後と思われる日付のメモに、こうあります」
三谷は紙をめくった。
「《若年。児あり。事件化すればMの生活崩壊。検案書は穏便に。騒がせないことが保護になる場合あり》」
会議室が静まり返った。
二階堂が低い声で言った。
「保護?」
「鷲尾の言い分としては、です」
三谷は慎重に続けた。
「未成年の雅紀さん――九条先生がいた。親族も少ない。母親の死が事件化すれば、子どもの生活も進学も壊れる。教団との関係が表に出れば、さらに危険が及ぶ。だから、これ以上騒がない方がいい。そういう理屈で、脳血管系の病死として閉じた可能性があります」
「ふざけるな」
真壁の声は、自分でも驚くほど低かった。
「それは保護じゃない。隠蔽だ」
「はい」
三谷は頷いた。
「ただ、鷲尾自身は、そう自分に言い聞かせていたのかもしれません」
二階堂が資料を睨んだ。
「弱いな」
「ああ」
真壁は答えた。
弱い。
だが、その弱さが厄介だった。
鷲尾は、合歓の死を前にして何も感じなかったわけではないのかもしれない。
十六で子を産み、教団から逃げ、働き詰めで生きてきた若い母。
その母のそばには、未成年の息子がいた。
白い髪の、喘息持ちの、孤立した少年。
そして、その少年の横には、真壁もいた。
警察官に聞かれたこと。
自分が母を呼んだこと。
九条をソファに座らせたこと。
水を渡したこと。
真壁の母が、コートも脱がずに九条の前へ膝をついたこと。
それを、真壁は覚えている。
覚えているのに、その後の死因欄を疑わなかった。
いや、疑うための言葉を持っていなかった。
もし母の死を事件化すれば、その少年はどうなるか。
警察。
教団。
マスコミ。
福祉。
親族不在。
施設。
事情聴取。
生活の崩壊。
鷲尾は、そこまで考えたのかもしれない。
そして、考えたうえで、間違えた。
いや、間違えたというより、都合のいい方へ倒れた。
教団にも、病院にも、自分にも、そして表向きには雅紀にも都合のいい死因欄。
急性脳血管障害。
脳梗塞疑い。
穏便な処理。
これ以上騒がない方がいい。
それは、弱さだった。
金に汚れ、教団に食い込み、死体検案書を穏便化する役になった男の中に、まだ自分を善人だと思いたい弱さが残っていた。
だからこそ、腹が立った。
九条がこのメモを見たら、どう思うだろう。
母の死因を奪った男が、「雅紀のため」と書いていたら。
真壁は、奥歯を噛んだ。
その殺意は、真っ黒な怒りではなく、もっと苦いものになる。
ただ憎める相手なら、楽だった。
鷲尾は楽に憎ませてくれない。
だからなおさら、九条の怒りに近い。
そして真壁自身の怒りにも近かった。
あの夜、自分はいた。
いたのに、何もできなかった。
「元職員からの電話は追えたか」
二階堂が聞いた。
三谷が別紙を出す。
「非通知ではありませんでした。契約者は、江波戸晃。六十三歳。元・白胎会関連療養施設職員。現在は千葉県内在住。二年前に退職しています」
「すぐ会う」
真壁は立ち上がった。
「今からですか」
「今からです」
「九条先生は」
「所在確認は続けてください。見つけたらすぐ連絡を。単独で接触しないこと」
「はい」
二階堂も立ち上がった。
「俺も行く」
「広報は」
「鷲尾の件は最低限のコメントで抑えてる。ここで元職員の証言を取り逃がしたら、広報以前に事件が折れる」
真壁は頷いた。
二人は県警本部を出た。
夜明け前の道路は空いていた。
空はまだ暗いが、東の低いところだけがかすかに白んでいる。街灯の下を、清掃車がゆっくり走っていた。人が死んでも、事件が燃えても、街は朝を迎える準備をする。
二階堂は助手席で携帯を確認していた。
「ネットの状況は」
真壁が聞く。
「“二人目の死者”で燃え始めてる。鷲尾の名前はまだ一部の匿名掲示板レベル。ただ、白胎会と元医師という線は出ている」
「九条合歓の名前は」
「まだだ」
「止められるか」
「名前だけなら少しは。ただ、“声を奪われた女”という言葉が広がってる。人は名前が出ていない方が勝手に探す」
「犯人の狙いか」
「そうだろうな」
二階堂は画面を見つめたまま言った。
「情報の出し方がうまい。名前を出さない。ヒントだけ出す。すると、外野が自分で掘る。見つけた奴は、自分が真相に近づいたと思って拡散する。責任は分散する。火は勝手に増える」
「早瀬か」
「早瀬にはその技術がある。でも、あいつは自分が燃やした火を見せたがるタイプだ。今回は、もっと冷たい」
「九条か」
二階堂は少し黙った。
「九条なら、こんなにSNS向きの言葉を選ぶか?」
「選ばないな」
「だが、選ばせることはできるかもしれない」
「誰に」
「早瀬。あるいは別の協力者。いや、協力者じゃなくてもいい。九条が置いた情報を、誰かが勝手に拾って拡散している可能性もある」
「それも九条の設計か」
「そこが嫌なんだよ」
二階堂は携帯をしまった。
「俺たちは今、情報を抑えているようで、実は順番通りに読まされてる。御堂、灰、御津窪、合歓、鷲尾。全部、段階的だ。偶然の流出じゃない」
「お前は、誰かが設計していると見る」
「設計してる。間違いない」
「九条が?」
二階堂は窓の外を見た。
「まだ言い切れない。でも、設計図の中心には九条がいる」
真壁は黙った。
中心。
その言葉は正しい。
御堂の死も、鷲尾の死も、御津窪の灰も、合歓の花も、すべて九条へ向かっている。
九条が犯人だから中心にいるのか。
犯人が九条を中心に据えているのか。
あるいは、九条自身が自分を中心へ置いたのか。
その違いが、まだ見えない。
江波戸晃の住むアパートは、千葉県内の古い住宅地にあった。
二階建ての木造アパート。外階段に錆が浮いている。駐車場には古い軽自動車が一台。朝の光が薄く差し始めていた。
江波戸は、真壁たちが名乗るとすぐに部屋へ入れた。
六十代前半にしては老けて見えた。頬がこけ、目の下に深い隈がある。髪は白く、着ているカーディガンは袖口が伸びていた。部屋には段ボール箱が積まれ、整理されているとは言い難い。だが、卓上だけは不自然なほど片付いていた。
そこに、一冊の古い手帳が置かれていた。
「あなたが電話を?」
真壁が聞くと、江波戸は頷いた。
「はい」
「なぜ今になって」
「鷲尾先生が死んだからです」
「それまでは話せなかった?」
「話しても、誰も信じないと思っていました。私自身、全部を見たわけではありません」
二階堂が静かに録音の許可を取った。江波戸は頷いた。
「九条合歓さんのことを知っていると言いましたね」
「はい」
江波戸は手帳に触れた。
「私は当時、白胎会の関連施設で事務をしていました。正式には療養相談施設です。心身の不調を抱えた信者や、その家族が相談に来る場所でした。でも実際には、教団から離れようとする人間を戻すための場所でもありました」
「合歓さんはそこへ?」
「はい。亡くなる少し前に、二度来ています」
真壁は身を乗り出した。
「自分から?」
「一度目は、呼ばれて来たようでした。二度目は……たぶん、逃げる相談をしに来た」
「誰に」
「私ではありません。施設内に、外部の相談員を装った教団幹部がいました。御堂先生の側近です」
「名前は」
「仁科です」
二階堂が顔を上げた。
「仁科?」
「はい。今は白胎会の理事をしている人です」
真壁は江波戸を見た。
「合歓さんは何を訴えていたんです」
江波戸は唇を湿らせた。
「息子さんのことです」
「九条雅紀か」
「はい。白い子だと。教団の一部が、あの子を“戻すべき子”だと言っている、と」
「戻す?」
「御津窪の最後の子だからです」
部屋の空気が冷えた。
「御津窪の最後の子」
真壁が繰り返すと、江波戸は頷いた。
「村は焼けました。多くの信者が死にました。けれど合歓さんは生き残り、子どもを産んだ。教団の中には、その子を象徴として使いたがる者がいたんです。灰の中から生まれた白い子。浄化を生き延びた子。そういう物語にしようとしていた」
二階堂が低く言った。
「吐き気がするな」
江波戸は目を伏せた。
「合歓さんは怯えていました。自分はどうなってもいい。でも雅紀だけは連れていかないで、と何度も言っていた」
真壁の脳裏に、柏原房江の言葉が蘇った。
この子だけは、置いてこなかったから。
合歓は、置いてこなかった子を、もう一度奪われそうになっていた。
「御堂はその件を知っていたのか」
「知っていました。というより、御堂先生が許可しなければ、誰もそんな話は進められません」
「鷲尾は」
「施設に出入りしていました。医療相談という名目で。合歓さんを診たかどうかは分かりません。ただ、亡くなる前に一度、鷲尾先生が合歓さんと同じ部屋に入っていくのを見ました」
「いつ」
「亡くなる二、三日前です」
真壁は鷲尾のメモを思い出した。
接触、状態不安定、Mへの影響。
日付が合う。
「その後、合歓さんはどうなった」
「泣いていました。いや、泣いていたというより、呼吸が変でした。過呼吸のような……でも、どこかぼんやりしていた。仁科が“少し休めばいい”と言って、鷲尾先生が何か薬を出していました」
「薬?」
「錠剤だったと思います。水も渡していました」
真壁は江波戸を見た。
「その薬が何か分かりますか」
「分かりません。私は医療職ではありません。ただ、合歓さんは飲みたくないと言っていました」
「飲んだのか」
「仁科が、雅紀くんのためだ、と言いました」
江波戸の声が震えた。
「そう言われて、合歓さんは飲みました」
二階堂が拳を握った。
真壁も、腹の奥が熱くなるのを感じた。
合歓は、自分のためなら拒めたかもしれない。
だが九条のためだと言われれば、飲んだ。
危ういが、九条のことだけは外さない人だった。
だからこそ、そこを突かれた。
「その後、合歓さんは死んだ」
「はい。数日後、自宅で倒れているのが見つかったと聞きました。息子さんが帰ってきて見つけた、と」
真壁は、わずかに目を閉じた。
九条が帰ってきた家。
味噌と洗剤と古い木の匂いのする部屋。
リビングのラグ。
朝、寒いね、と言った合歓。
夜に帰る、とだけ言っていた母。
その母が、夜を待たずに家の中で倒れていた。
「若年性の脳血管障害だと聞かされました」
江波戸は続けた。
「教団内では、“あの女は不安定だったから仕方ない”“自分で壊れた”みたいに言われていました」
「あなたは疑った」
「疑いました。でも、鷲尾先生が検案したと聞いて、誰も何も言わなくなった。医師がそう書いたなら、そうなんだろう、と」
「御堂は何と」
江波戸は顔を歪めた。
「浄化の負荷に耐えられなかった、と」
二階堂が小さく舌打ちした。
「人が死んで、それか」
「御堂先生にとっては、人の死も教義の材料でした」
真壁は、御堂の礼拝堂を思い出した。
火の殉教。
浄化。
魂の試練。
御堂は、自分が焼いた村の死者にも、合歓の死にも、同じような言葉をかぶせてきたのだろう。
死因を、教義に変えてきた。
「鷲尾は、合歓さんの死をどう受け止めていたかわかりますか」
真壁が聞くと、江波戸は少し迷った。
「わかりません。ただ……少しだけ、迷っていたようには見えました」
「迷っていた?」
「合歓さんが亡くなった後、施設で鷲尾先生と仁科さんが話しているのを聞いたんです。鷲尾先生は、“子どもがいる”と言っていました」
「九条雅紀のことか」
「はい。“子どもがいる。あまり騒がせるべきではない”と」
二階堂が目を細めた。
「それを善意みたいに言ったのか」
「そう聞こえました」
江波戸は小さく頷いた。
「仁科さんは、“先生が穏便にしてくだされば、あの子も守られる”と言っていました」
真壁は、体の奥が冷えていくのを感じた。
雅紀のため。
守るため。
騒がせないため。
穏便に。
その言葉が、合歓の死因欄を閉じた。
鷲尾は完全な怪物ではなかったのかもしれない。
少なくとも、自分では怪物だと思っていなかった。
未成年の九条雅紀を守るため。
事件化を避けるため。
教団にこれ以上刺激を与えないため。
そう言い訳しながら、母親の死を病死にした。
その署名が、九条を守ったのか。
それとも、九条から母の声を奪ったのか。
答えは明らかだった。
「なぜ当時、警察へ言わなかった」
真壁が聞くと、江波戸は黙った。
責める口調にはしなかった。
だが、聞かなければならない。
「怖かったんです」
江波戸は言った。
「教団も、鷲尾先生も、怖かった。私には家族がいました。仕事もありました。それに、証拠がなかった。薬の名前も知らない。合歓さんが飲んだところを、私は廊下から見ただけです。言っても、妄想だと言われると思いました」
「手帳には何が」
「その日の記録です。私は、怖くて誰にも言えなかったから、手帳にだけ書きました」
真壁は手帳を受け取った。
古いページ。
日付。
短いメモ。
《九条合歓、二度目。仁科、鷲尾同席。白い子の話。本人拒否。薬? “雅紀のため”と言われ服用。表情ぼんやり。危険。》
真壁は、声を出せなかった。
証拠としては弱い。
だが、鷲尾のメモと重なる。
接触、状態不安定、Mへの影響、そして処理可。
二つのメモが、同じ日を指している。
合歓は、死ぬ前に白胎会と接触していた。
鷲尾はそこにいた。
何らかの薬を渡していた可能性がある。
そして、死後には脳血管系で処理できると書いていた。
真壁は、手帳を閉じた。
「江波戸さん。この手帳は預かります」
「はい」
「正式に聴取します。保護も検討します」
江波戸は、力なく頷いた。
「九条雅紀さんには……」
「今は伝えません」
「伝えないでください」
江波戸は両手を握りしめた。
「あの人は、きっともう知っているのかもしれない。でも、全部を知ったら……」
その先は言葉にならなかった。
真壁は立ち上がった。
全部を知ったら。
遅い。
その言葉がまた胸に浮かんだ。
九条は、もう全部を知っているのかもしれない。
あるいは、今まさに最後の線を探しているのかもしれない。
部屋を出ると、朝の光が住宅地に差し始めていた。
二階堂はしばらく黙っていた。
階段を下り、車へ向かう途中で、ようやく口を開いた。
「九条が殺してても、不思議じゃないな」
真壁は足を止めなかった。
「そうだな」
「否定しないのか」
「できない」
二階堂も黙った。
車に乗り込む。
真壁はハンドルを握ったまま、しばらく動かなかった。
「でも」
二階堂が言った。
「これでも九条は、自分を正義だとは言わないだろうな」
「言わない」
「そこが一番腹立つ」
「ああ」
「自分が悪だと分かっていて、それでもやったなら、どう裁けばいい」
「法で裁く」
真壁は即答した。
そう答えなければならなかった。
二階堂は横目で真壁を見た。
「幼なじみとしては」
「同じだ」
「嘘だな」
真壁は何も言わなかった。
嘘かもしれない。
だが、今はそう答えるしかなかった。
県警本部へ戻る途中、二階堂の携帯が鳴った。
「はい。……何だって?」
声が変わった。
真壁は横目で見る。
二階堂は画面を見ながら、顔を強張らせた。
「真壁、来た」
「何が」
「合歓さんの名前が出た」
真壁は息を止めた。
二階堂は画面を読み上げた。
「匿名アカウントじゃない。早瀬だ。記事を出した。タイトルは――“白胎会二つの死と、十二年前に声を奪われた女性・九条合歓”」
「止められなかったのか」
「公開されたばかりだ。早瀬の個人サイト。しかも複数メディアが拾い始めてる」
「九条の名前は」
「直接はない。でも“現在、事件捜査に関わる法医学者の母”と書いてる。もう時間の問題だ」
真壁はアクセルを踏み込んだ。
「早瀬を押さえる」
「待て」
二階堂が画面を操作する。
「記事の中に、俺たちしか知らない情報がある」
「何だ」
「鷲尾の現場に合歓の花があったこと」
真壁の背中に冷たいものが走った。
「漏らしたのは現場関係者か」
「それだけじゃない」
二階堂の声が低くなる。
「記事の公開時刻が、江波戸への聴取より前に設定されてる。予約投稿だ」
「つまり」
「早瀬は、俺たちが江波戸に辿り着く前から、合歓の名前と花の意味を知っていた」
「誰から」
二階堂は答えなかった。
答えなくても分かる。
早瀬は情報の受け手だ。
では、渡した者がいる。
九条か。
九条以外か。
真壁の携帯が震えた。
九条からのメッセージだった。
《証言を取ったなら、鷲尾のメモと照合しろ》
真壁は、画面を見つめた。
二階堂が覗き込む。
「……あいつ、知ってたな」
「ああ」
「江波戸のことも、メモのことも、俺たちが動くことも」
「少なくとも予想していた」
「予想じゃない。これは道順だ」
二階堂は苦々しく言った。
「真壁、俺たちは本当に読まされてるぞ」
真壁は携帯を握りしめた。
怒りがあった。
九条が生きていることへの安堵もあった。
そして、その安堵を利用されたような屈辱もあった。
「九条へ電話する」
発信する。
一回。
二回。
今度はつながった。
『何』
九条の声はいつも通りだった。
「どこにいる」
『答える必要があるか』
「ある」
『今はない』
「ふざけるな」
『ふざけていない』
「江波戸のことを知っていたな」
『名前は知らなかった』
「嘘をつくな」
『証言者がいることは予想していた。鷲尾は一人で動いていない。九条合歓に接触した場所があるなら、見ていた人間がいる』
「なぜ言わなかった」
『証明できなかった』
「またそれか」
『そうだ』
「早瀬の記事はお前か」
電話の向こうが沈黙した。
二階堂が真壁を見る。
真壁はスピーカーにはしていない。
だが、二階堂は表情で何かを読み取ろうとしていた。
「答えろ」
『早瀬には渡していない』
「では誰が渡した」
『知らない』
「信じろと?」
『信じる必要はない』
「九条」
『何』
「お前、事件をどこへ持っていくつもりだ」
沈黙。
長い沈黙だった。
車のエンジン音だけが聞こえる。
朝の道路を走る音。
二階堂の浅い呼吸。
やがて九条が言った。
『死因へ』
真壁は歯を食いしばった。
「それで人が死んでるんだぞ」
『知っている』
「知ってる、で済むか」
『済まない』
「なら出てこい」
『まだだ』
「まだ?」
『鷲尾の死因が出ていない』
「お前を拘束する」
『そうしろ』
「どこにいる」
『死因が出れば分かる』
通話が切れた。
真壁は携帯を助手席へ投げつけそうになった。
寸前で堪えた。
二階堂が静かに言った。
「九条は、鷲尾の死因が出るまで姿を見せない」
「そうだろうな」
「なぜ」
「鷲尾の死因が、合歓の死因に繋がるからだ」
「そして、それが出たら?」
真壁は前を見た。
「九条は次の場所へ行く」
「どこだ」
真壁は答えなかった。
更地。
父が残した家。
母が辿り着いた家。
九条が成長記録を見つけた家。
今は何もない場所。
まだ早い。
だが、事件は確実にそこへ向かっている。
県警本部に戻ると、騒然としていた。
早瀬の記事が各所で引用され、報道各社から問い合わせが殺到している。二階堂は車を降りた瞬間から電話に捕まった。
「現時点で個人名については回答しません。……違います、捜査関係者の親族という情報も確認中です。……花について? 現場の遺留物に関する質問には答えられません。……宗教弾圧ではありません。事件捜査です」
真壁は捜査本部へ入った。
三谷が駆け寄る。
「江波戸の手帳、鷲尾のメモと日付が一致しました」
「よし」
「それと、鷲尾の過去資料から、合歓さんの死亡当日の連絡メモが出ました」
「内容は」
三谷は紙を渡した。
《九条N 自宅発見。W医師へ臨場依頼済。脳血管系疑いで進行。本人家族少。M未成年。処理簡略可》
真壁は、紙を握る手に力を込めた。
自宅発見。
W医師へ臨場依頼済。
本人家族少。
M未成年。
処理簡略可。
合歓には、抗議する家族がいない。
九条は未成年。
だから処理しやすい。
そう読めた。
読めてしまった。
だが、その下に、小さな付箋がついていた。
同じ筆跡ではない。
鷲尾の字に見えた。
《本当にこれでよいか。Mの保護を優先。教団刺激避ける》
真壁は、その付箋を見つめた。
本当にこれでよいか。
迷っている。
鷲尾は、迷っていた。
だが迷った末に、署名した。
迷ったことは、免罪にはならない。
むしろ、知っていた証拠になる。
これは間違っているかもしれないと分かっていた。
それでも、穏便化した。
九条のためという名目で。
教団を刺激しないためという現実で。
自分と病院と医療法人を守るためという本音で。
「誰のメモですか」
「警察側と病院側の連絡控えが混じっています。筆跡確認中です。W医師は鷲尾の可能性が高いです」
「検案書は」
「写しが残っています。急性脳血管障害。括弧内に、脳梗塞疑い。画像検査はありません」
「当然だな。自宅で発見された時点で、すでに亡くなっていた」
「はい」
「それで脳梗塞疑いか」
三谷は唇を結んだ。
「当時の説明では、倒れていた状態、外傷の有無、既往や生活状況、現場状況を総合して判断した、とされています」
「便利な総合判断だな」
二階堂が言った。
真壁は検案書の写しを見た。
急性脳血管障害。
脳梗塞疑い。
疑い。
その二文字のまま、合歓は火葬された。
その二文字のまま、九条は母の体を失った。
その二文字の向こうに、本当の死因があったかもしれない。
それなのに、誰も開けなかった。
「資料は」
「原本は一部破棄期限を過ぎています。ただ、警察側の保管資料、病院側のマイクロフィルム、一部電子化データが残っている可能性があります」
「全部出してほしい」
「はい」
その時、堀島から連絡が入った。
『真壁さん』
「鷲尾の件か」
『薬毒物の速報です。まだ確定ではありませんが、血中から通常治療域を大きく超える鎮静系薬物の反応が出ました』
真壁は目を閉じた。
「死因は」
『断定はまだです。ただ、急性薬物中毒による呼吸抑制、あるいは循環抑制の可能性が出てきました』
「病死じゃないな」
『病死として処理される可能性はありました。でも違います』
「書斎のグラスは」
『現在、付着物を確認しています。まだ断定できません。ただ、本人の常用薬の範囲だけでは説明しづらい反応です』
「服薬ケースは」
『乱れは少ない。だからこそ不自然です。自分で大量に飲んだなら、ケースか薬袋にもっと分かりやすい欠損が出てもいい。外から混ぜられた可能性は検討する価値があります』
「鷲尾は医師だ」
『ええ。薬の扱いを知っている人間です。飲み間違いで片づけるには、慎重になるべきです』
「合歓の死との関連は」
『そこまでは言えません。ただ、合歓さんの当時の資料が出れば、同系統薬物の使用歴や症状との照合は可能です』
「九条は聞いているか」
『連絡は取っていません』
「取るな」
『分かりました』
通話を切る。
真壁は、深く息を吸った。
鷲尾は薬物で死んだ可能性が高い。
病死に見せられた。
合歓の死と同じ構造で。
高齢の元医師が書斎で倒れる。
胸を押さえたような姿勢。
内側から閉じられた扉。
整然とした机。
飲み残しのあるグラス。
乱れのない服薬ケース。
死因欄に書こうと思えば、いくらでも穏当な言葉があっただろう。
急性心不全。
持病の悪化。
不整脈。
加齢に伴う突然死。
そう書けば、多くの人間は納得した。
だが、納得できる死が、正しい死とは限らない。
これで線は太くなった。
御堂は、父と村人の息を奪った者。
鷲尾は、母の声を奪った者。
九条が言っていた。
鷲尾の死因を誤るな。
誤らなければ、見えてくる。
見えてくるものが、九条自身へ向かうとしても。
二階堂が会議室に戻ってきた。
顔色が悪い。
「外は?」
真壁が聞く。
「荒れてる。早瀬の記事が大手に拾われた。白胎会は“悪質な虚偽”として声明準備中。こっちは公式に何も認めてないのに、すでに世間は御堂、鷲尾、合歓を一本の事件として見始めてる」
「鷲尾の薬物反応が出た」
「何?」
「病死じゃない可能性が高い」
二階堂は黙った。
そして、ゆっくり椅子に座った。
「真壁」
「何だ」
「俺たちは火を消してるんじゃない」
真壁は二階堂を見た。
二階堂の目は、血走っていた。
だが、そこには疲労だけではないものがあった。
気づき。
「どういう意味だ」
「火が行く道を作らされてる」
その言葉は、会議室の空気を変えた。
「御堂の死で教団が騒ぐ。俺たちは否定する。挑戦状が漏れる。俺たちは表現を絞る。灰が出る。御津窪へ向かう。合歓の名前を伏せる。すると外が探す。鷲尾の死を伏せる。すると早瀬が出す。俺たちが火消しをするたびに、次の道が見える」
二階堂は拳を握った。
「消してるつもりで、道を整えてるんだ」
「犯人がそこまで読んでいると?」
「読んでる。少なくとも、誰かがそう設計してる」
「九条か」
二階堂は即答しなかった。
だが、否定もしなかった。
「九条は、普通に自首すれば終わると知ってる。普通に証拠を出せば、教団に潰されると知ってる。普通に殺せば、ただの復讐犯になると知ってる」
「だから事件を大きくした」
「そうだ。御堂を殺しただけじゃ、教団は被害者になる。鷲尾を殺しただけじゃ、医師殺しになる。挑戦状、灰、花、広報、メディア、全部を使って、事件を過去へ接続した」
「九条が犯人なら、な」
二階堂は真壁を見た。
「真壁。そろそろ、その“なら”を外す時が来るかもしれない」
真壁は何も言わなかった。
外したくなかった。
だが、外さなければならないところまで来ている。
携帯が震えた。
九条からだった。
短いメッセージ。
《鷲尾は病死ではなかったか》
真壁は画面を見つめた。
まだ誰にも伝えていない。
堀島から受けたばかりの速報。
捜査本部の中でも限られた人間しか知らない。
九条は、なぜ知っている。
いや。
知っていたのではない。
予想していた。
鷲尾の死体を見れば、そう読むように作られていた。
真壁は返信した。
《お前はどこにいる》
少しして、返事が来た。
《母の死因に届いたら、分かる》
真壁は、携帯を握りしめた。
二階堂が画面を見た。
「更地だな」
真壁は、ゆっくり頷いた。
「たぶんな」
「行くか」
「まだだ」
「なぜ」
「母の死因に届いていない」
二階堂は苦い顔で笑った。
「九条に使われてるぞ」
「分かってる」
「それでも?」
「ああ」
真壁は鷲尾の資料へ目を戻した。
「今、あいつを追っても逃げられる。だが、死因に届けば、九条は逃げない」
「なぜそう言える」
「九条だからだ」
二階堂はため息をついた。
「幼なじみの顔になってるぞ」
「違う」
「何の顔だ」
「刑事だ」
真壁は資料をめくった。
「九条は、正しいところまで辿り着かせたい。なら、俺たちは辿り着く。あいつの思う通りでも構わない」
「構うだろ」
「構う。腹も立つ。だが、死因を誤れば負ける」
二階堂は黙った。
やがて、小さく言った。
「本当に嫌な事件だな」
「ああ」
真壁は鷲尾のメモをもう一度見た。
処理可。
今は、その一語だけで十分だった。
その言葉の下に、真壁は赤い線を引きたい衝動に駆られた。
訂正しなければならない。
そう思った瞬間、自分が九条の言葉に引きずられていることに気づいた。
それでも、手は止まらなかった。
この死因を誤ってはいけない。
九条のためではない。
九条合歓のためでも、まだない。
まずは、刑事として。
死者を閉じた嘘を、開かなければならない。
朝の光が、会議室の窓から入り始めていた。
その光の中で、鷲尾貞成という男の輪郭が、ようやく見え始めていた。
彼は人を殺したのかもしれない。
だが、それ以上に、死を殺してきた男だった。
若いころは、金のない患者を救いたかった。
貧しさのせいで助からない命に怒っていた。
だが、医師になり、見たこともない額の給料が毎月振り込まれるのを見て、金が命を守ると知った。
弟の源治と組み、鷲影会系列のクリニックを次々に立てた。
高齢化には整形外科。
不安の時代にはメンタルクリニック。
疲労には自由診療。
施設には往診。
死には診断書。
そうやって、医療を需要と回転率で見始めた。
政治と金にも近づいた。
教団と関わるうちに、死亡検案書や死体検案書を穏便化する役になった。
それでも彼は、自分を悪人だとは思っていなかったのかもしれない。
妻の蘭子には、毎年蘭を贈った。
子どもには金で苦労をさせなかった。
未成年の雅紀を騒動から守るためだと、自分に言い聞かせた。
本当にこれでよいか、と迷った。
迷いながら、署名した。
その署名が、九条合歓の声を閉じた。
死因欄に穏当な言葉を書き、死者の声を閉じ、遺族の疑問を処理し、教団の物語に都合のいい形で死を整えてきた。
その男が、今度は自分の死因を読まれている。
真壁は思った。
九条、お前はこれを見せたかったのか。
問いは答えにならない。
だが、次の場所は見え始めている。
鷲尾貞成の過去の先にあるのは、九条合歓の死因。
九条合歓の死因の先にあるのは、九条雅紀。
そして九条雅紀の先にあるのは、あの更地だ。
父が残した家。
母が辿り着いた家。
九条が、まだ出られずにいる場所。
真壁は資料を閉じた。
「三谷さん」
「はい」
「合歓の死亡当日の全資料を掘ってほしい。救急活動記録、死亡確認に関わった医師の証言、警察の臨場記録、検案書の写し、薬剤使用記録、近隣住民の証言、職場に来なかった日の連絡記録、全部だ。古くても構いません。破棄されたなら、破棄記録を出してください」
「はい」
「それと、鷲尾の書斎のグラスと水差し、服薬ケース、薬袋、机上の便箋。全部もう一度照合してほしい。本人の常用薬と、検出された薬物反応が合わないなら、そこが入口です」
「分かりました」
「鷲尾は医師だ。飲み間違いで済ませてはいけない。あの男が自分の薬をどう管理していたか、生活の癖まで調べてください」
「はい」
「二階堂」
「何だ」
「早瀬を押さえる。情報源を吐かせる」
「任せろ」
「それから」
真壁は携帯を見た。
九条からのメッセージは、もう来ていない。
「あいつが更地へ向かったら、すぐ分かるようにしてくれ」
二階堂は頷いた。
「分かった」
真壁は、窓の外に目を向けた。
夜が終わろうとしている。
だが事件は、明るくなるほど暗くなっていく。
九条雅紀はどこかで、この朝を見ているのだろうか。
見ているなら、何を思っているのか。
母の死因に近づいていること。
鷲尾の嘘が剥がれ始めたこと。
真壁が、九条の用意した道を進んでいること。
それを、安堵しているのか。
苦しんでいるのか。
あるいは、もう何も感じていないのか。
真壁には分からなかった。
ただ一つ、分かっていることがある。
この事件は、鷲尾貞成を殺した犯人を捕まえるだけでは終わらない。
鷲尾が閉じた死因欄を開けた時、そこに九条雅紀の名前が出てくる。
刑事として、そこから目を逸らすことはできない。
幼なじみとしても、もう逸らしてはいけなかった。
出生届が人を社会に置くものだとすれば、死亡検案書や死体検案書は、人を社会から消すための書類だった。氏名、生年月日、死亡時刻、死亡場所、そして死因。それらが一枚の紙に収められ、最後に医師が名を書く。
その署名によって、死は閉じられる。
事故だった。
病気だった。
老衰だった。
突然死だった。
仕方のない死だった。
そう書かれれば、多くの人間はそのまま受け入れる。遺族は泣く。葬儀社は手続きを進める。役所は除籍する。警察は事件性なしと判断する。社会は次の死へ移る。
だが、もしその署名が嘘だったら。
死者は、いつまでも死ねない。
真壁彰は、鷲尾貞成の書斎から押収された段ボール箱の前に座っていた。
午前四時を過ぎている。県警本部の会議室は白い蛍光灯に照らされ、夜の疲労だけが濃く溜まっていた。窓の外はまだ暗い。誰かが淹れたコーヒーは冷め、紙コップの縁に薄茶色の輪ができている。壁の時計の秒針だけが、やけに律儀に動いていた。
眠気はなかった。
かわりに、腹の奥に冷たい石のようなものがあった。
箱の中から出てくる書類は、どれも一見すると平凡だった。死亡検案書の控え。死体検案書の写し。診療情報提供書。施設内死亡報告。医療法人との顧問契約書。講演謝礼の領収書。古い名簿。覚書。手帳の切れ端。
だが、それらを並べると、別の形が浮かび上がる。
白胎会関連施設で死亡した信者たち。
御堂聖真の名前。
仁科や黒住の署名。
鷲尾貞成の診断。
そして、似たような死因欄。
急性心不全。
脳梗塞。
肺炎。
老衰。
持病の悪化。
誤嚥。
ありえる死因ばかりだった。
だからこそ、たちが悪い。
ありえない死なら、誰かが疑う。
だが、ありえる死は疑われない。
老人が心臓で死ぬ。持病のある者が肺炎で死ぬ。施設で暮らす人間が誤嚥で死ぬ。若い女が自宅で静かに息を引き取っているのが見つかり、脳血管の病名で閉じられる。
そういう死は、社会の中にいくらでもある。
いくらでもあるから、隠すのに向いている。
鷲尾貞成は、それを知っていた。
法医学を知り、病院の手続きを知り、遺族がどこで諦めるかを知り、警察がどこで事件性なしと判断するかを知っていた。
その男が、今度は自分の書斎で死んでいた。
発見時の写真が、机の上に並べられている。
鷲尾は、書斎の椅子に座っていた。背もたれに深く体を預け、机から半歩だけ離れた位置に体を沈めている。右手は机の端に置かれ、左手は膝の上に落ちていた。苦しんで胸を押さえようとしたようにも見える。椅子で眠ったまま、息が止まったようにも見える。
書斎の扉は内側から施錠されていた。
ただし、完全な密室ではない。家政婦が合鍵を持っていた。家族も入れる。窓には鍵がかかっていたが、十二階の部屋で、外から侵入するには無理がある。現場だけを見れば、老人が一人で書斎にこもり、具合が悪くなり、椅子に座ったまま息を引き取った。そう説明できた。
説明できてしまう。
それが問題だった。
机の上には、読みかけの医学雑誌が開かれていた。銀縁の眼鏡が横に置かれている。万年筆のキャップは外れたままだった。便箋には途中まで文章が書かれているが、意味のある内容ではない。何かを書こうとして、途中でやめたのか。あるいは、手が止まっただけなのか。
机の右端には、水差しとグラスがあった。
グラスの底には、ほんの少しだけ水が残っている。鑑識写真では分からないほど薄く、縁の内側に白い曇りのような輪がついていた。唾液か、水道水の成分か、溶け残った何かか。それはまだ分からない。
ただ、真壁には引っかかった。
鷲尾は几帳面な男だった。
書斎の棚は分野ごとに整理され、古い論文も年度別に綴じられていた。薬の管理も同じだった。机の引き出しからは、曜日ごとに仕切られた服薬ケースが見つかっている。朝、昼、夕、就寝前。ひとつひとつに小さなラベルが貼られ、薬の名前と量が細い字で書き込まれていた。
高齢者には珍しくない。
だが、鷲尾の場合は意味が違う。
彼は医師だった。
自分が何を飲んでいるかを理解している人間だった。飲み間違いを防ぐための仕組みを、自分で作っていた。余った錠剤、飲み忘れ、重複服用。そういうものを、誰より嫌うタイプに見えた。
その服薬ケースに、乱れはなかった。
前日分まで、きれいに空いている。
当日分は、決められた区画に残っている。
にもかかわらず、血中からは通常では説明しづらい薬物反応が出始めている。
病死に見える。
だが、病死として閉じるには、細部が少しずつ合わない。
真壁は写真を一枚ずつ見た。
机。
グラス。
水差し。
服薬ケース。
革張りの椅子。
椅子に座った鷲尾。
書斎の扉。
窓。
手書きのメモ。
そして、机の上に置かれていた花。
合歓。
あの花だけが、鷲尾の几帳面な書斎の中で、異物のように見えた。
いや、花そのものが異物だったわけではない。
鷲尾の人生に、花は何度も出てきた。
押収品の中には、古い花屋の領収書が束になって残っていた。宛名は、鷲尾蘭子。妻の名だった。
胡蝶蘭。
カトレア。
デンドロビウム。
白い蘭。紫の蘭。淡い桃色の蘭。
結婚記念日と蘭子の誕生日には、毎年必ず花を届けさせていた。領収書の日付は、ほとんどずれない。添えられたカードの控えには、毎年似たような言葉が書かれている。
蘭子へ。
今年もありがとう。
貞成。
ある年のメモには、花屋が聞き取ったらしい言葉が残っていた。
《奥様のお名前にちなんで、蘭を。》
鷲尾は照れもせず、そう言う男だったという。
患者を三分でさばき、職員の退職届を机の引き出しに積ませ、白胎会関連施設の死を穏当な病名で閉じてきた男が、妻の名前にちなんだ花だけは忘れなかった。
その律儀さが、人間味なのか。
それとも、より深い残酷さなのか。
真壁には、まだ判断できなかった。
妻には蘭。
九条の母には、合歓。
鷲尾の死体のそばに置かれた花は、その過去の習慣まで踏みにじっていた。
花を贈る男が、花で裁かれている。
あるいは、花で死因欄を開けられている。
「真壁さん」
三谷が資料を持ってきた。目が赤い。若さだけで徹夜に耐えている顔だった。
「鷲尾の経歴、まとまりました」
「詳しく」
「鷲尾貞成。七十二歳。元・赤森都医科大学法医学教室准教授。その後、複数の民間病院で顧問医。十五年前からは医療法人清修会の顧問。白胎会の関連福祉施設、療養施設の死亡診断や検案に複数回関与しています」
「若いころは?」
三谷が別紙を見る。
「学生時代の資料と、昔のインタビュー記事がいくつか残っていました。若いころは、へき地医療や救急医療に関心があったようです。卒業文集には、“金の有無で助かる命が変わるのはおかしい”と書いています」
二階堂壮也が、机の反対側から顔を上げた。
「今の鷲尾からは想像できないですね」
三谷は続けた。
「医学部時代は奨学金を受けています。家庭はかなり貧しかったようです。父親は町工場勤務、母親は内職。弟の鷲尾源治も後に医師になっていますが、兄弟ともアルバイトをしながら進学したと」
「源治」
真壁は名前を繰り返した。
「弟か」
「はい。現在は鷲影会系列のクリニック経営に深く関与しています。兄の貞成が医療面、弟の源治が経営面に強かったと言われていますが、実際には兄も相当経営に口を出していたようです」
二階堂が資料を手に取った。
「鷲影会、か」
「正式名称は医療法人鷲影会です。最初は小さな内科クリニックでした。その後、整形外科、心療内科、メンタルクリニック、在宅医療、自由診療、訪問看護、リハビリ施設と拡大しています」
「流行りに乗ったな」
二階堂が言った。
三谷が頷く。
「会議メモには、かなり露骨な記述があります」
「詳しく」
三谷は紙をめくった。
「《高齢化で整形は伸びる。痛みは通院につながる》」
真壁は眉を寄せた。
「続けて」
「《メンタルは再診率が高い。薬剤管理で継続性を作れる》」
二階堂が小さく舌打ちした。
「最低ですね」
「《自由診療は広告次第。美容点滴、疲労回復、睡眠外来。保険外を伸ばす》」
「医療経営のメモとしては、ありえるものなんですか」
真壁が聞くと、三谷は困った顔をした。
「ありえるとは思います。ただ、患者をどう救うかというより、どの症状が金になるかという視点が強いです」
「若いころは人を救いたかった男が、か」
二階堂が呟いた。
三谷は別の資料を出した。
「鷲尾の給与明細も残っていました。勤務医時代のものです。医師になって数年後、初めて大きな病院で常勤になった時の給与が、本人の手帳に貼られていました」
「給与明細を手帳に?」
「はい。横に本人の字でこうあります」
三谷は読み上げた。
「《これだけの金が、毎月振り込まれる。父が一年かけても届かなかった額だ》」
会議室が静かになった。
「その数年後の手帳には、こうも書いてあります」
三谷は続けた。
「《善意だけでは病院は回らない。金を軽蔑する医師は、金に守られたことのない医師だ》」
二階堂は少し黙った。
「分からなくはないのが嫌だな」
真壁も同じことを思った。
貧しさから這い上がった男。
若いころ、本当に人を救いたかった男。
初めて見たこともない額の給料が毎月振り込まれるのを見て、金が命を守るものだと知った男。
そこまでは、まだ理解できる。
問題は、その先だった。
金が命を守る。
それは事実かもしれない。
だが鷲尾は、いつしか命を金で測る側に回った。
患者を人数にし、診療を回転率にし、死を書類処理にした。
「白胎会との正式な契約は」
真壁が聞いた。
三谷が資料へ戻る。
「表向きにはありません。契約は医療法人清修会経由です。ただし講演料、顧問料、個別謝礼の名目で、白胎会側から鷲尾へ金が流れています」
「政治との関わりは」
「あります。鷲影会の顧問弁護士、医療法人の監査役に、県議会議員の後援会関係者が入っています。また、鷲尾源治が医師会の政治連盟を通じて複数の議員へ献金していました」
「教団、医療法人、政治家」
二階堂が言った。
「見事に嫌な三角形だな」
三谷は頷いた。
「白胎会の福祉施設開設時にも、鷲影会が医療連携先として関与しています。自治体の補助金申請資料にも鷲影会の名前があります」
「鷲尾は医師であり、経営者であり、政治の窓口でもあった」
「はい」
「御堂との接点は」
「二十年以上前からあります。光胎寮時代の資料にも、鷲尾の名前がありました」
真壁は顔を上げた。
「御津窪の前ですか」
「前後です。火災直後の身元確認には名前がありません。ただ、火災後に設立された相談窓口の医療助言者として記録されています」
「相談窓口?」
「遺族対応、信者の精神的ケア、火災後の健康相談といった名目です」
二階堂が言った。
「つまり、村を焼いたあと、後始末の医療担当にいた可能性があるってことか」
三谷は言いにくそうに頷いた。
「資料上は、そう読めます」
二階堂は低く笑った。
笑いというより、息を吐いた音だった。
「便利な医者だな。火事の後始末にも、施設の急死にも、逃げた女性の死にも出てくる」
真壁は鷲尾の写真を見た。
現役時代のものだった。
白衣姿で、講演会の壇上に立っている。銀縁の眼鏡。薄い唇。穏やかそうな表情。
医師という職業が持つ、社会的な信用を身にまとった男だった。
その信用があるから、人は彼の署名を信じた。
死因欄に書かれた文字を疑わなかった。
「九条は?」
真壁が聞くと、三谷がわずかに顔を強張らせた。
「所在はまだ確認中です。研究室にも、自宅にも、医務院にもいません。携帯はつながりません」
二階堂が携帯を置いた。
「メッセージ以降、沈黙か」
「ああ」
「逃げたようには見えない」
「なぜだ」
「逃げる人間が、“鷲尾の死因を誤るな”なんてメッセージを残すか?」
「挑発かもしれない」
「九条の挑発はもっと腹立つ」
「十分腹立つが」
「違う。これは指示だ」
二階堂は椅子の背にもたれた。
「九条は、お前に読ませようとしてる」
真壁は黙った。
分かっているから、腹が立つ。
九条はいつもそうだ。
必要なところだけを置いて、あとは黙る。こちらが拾うしかないようにして、平然と離れる。まるで解剖台の上に所見だけを残し、死者の声は自分で聞けと言っているようだった。
「鷲尾の資料を続けてくれますか」
真壁は言った。
三谷が次のファイルを開く。
「合歓さんの件です」
会議室の空気が少し変わった。
九条合歓。
その名前が出るだけで、事件は別の温度を持つ。
御堂の死、鷲尾の死、白胎会の不正。それらは捜査対象として扱える。だが合歓の名前が出ると、真壁の中で必ず斜め向かいの平屋が浮かぶ。そして、はにかむ合歓。
その人の死因欄に、鷲尾貞成は名を書いた。
「合歓さんは、十二年前の二月十日、自宅で倒れているところを息子の九条雅紀に発見されています」
真壁は顔を上げなかった。
「ええ、そうでした」
三谷は一瞬、言葉を止めた。
その反応で、思い出したのだろう。真壁がその場にいたことを。
「はい。ご存じの通り、放課後のアルバイトを終えて帰宅した九条先生が発見しています。玄関の鍵はかかっていなかった。台所の電気はついたまま。リビングのラグの上に合歓さんが倒れていた。本人の通報記録が残っています」
三谷は資料をめくった。
「通報時の内容は、“母です”“反応はありません”“呼吸も、たぶん”というものです。かなり平坦な受け答えだったと、当時の記録にあります」
二階堂が顔を歪めた。
「十七歳で、それを自分で言ったのか」
「はい」
真壁は黙っていた。
想像ではない。
覚えていた。
覚えていたのに、忘れていたことにしていた。
「救急隊到着時には」
三谷は続けた。
「心肺停止状態です。救急隊は確認と評価を行っていますが、現場での救命は困難と判断されています。その後、警察が入り、事件性の確認が行われています」
「搬送は」
「記録上、救急搬送というより、現場確認後の死体検案手続きに移っています。当時の九条先生は、死亡検案書だと思っていた可能性が高いですが、正確には死体検案書です」
真壁は、机の上に置かれたコピーを見た。
死亡検案書。
死体検案書。
生きている患者を診てきた医師が書く死と、すでに死んでいた人間の体を見て書く死。
十七歳の九条に、その違いが分かるはずもない。
いや、違う。
あの時の九条は、分かっていなかったのではない。
分かろうとしていた。
泣くより先に、聞いた。
死因は何ですか、と。
普通なら、そこで崩れるのかもしれない。
お母さんは、と聞くのかもしれない。
どうして、と叫ぶのかもしれない。
けれど九条の口から出たのは、死因だった。
あの瞬間、真壁は少し動いた。
動いただけだった。
止めることも、代わりに聞くこともできなかった。
医師は困った顔をした。
そして言った。
現時点では、急性の脳血管障害が疑われます。
脳梗塞、あるいはそれに近い発作です。
若い方でも、起こることはあります。
その言葉が、母の死を閉じた。
急性脳血管障害。
脳梗塞疑い。
疑い。
真壁はその場にいた。
その言葉を聞いていた。
聞いていたのに、何もできなかった。
「鷲尾は、どこで関与したんです」
真壁が聞いた。
三谷は次の資料を出した。
「警察が呼んだ医師として、自宅に臨場しています。当時、鷲尾は南倉総合病院の非常勤顧問で、院内死亡時の手続き相談、法医学的助言、医療安全委員会の外部委員などを務めていました。地域警察とのつながりもあり、変死体や院外死亡の検案に助言者として呼ばれることがあったようです」
「当日の勤務予定は」
「ありません」
二階堂が眉を動かした。
「なのに来た」
「はい。公式記録では、“警察からの要請により臨場”となっています。ただし、誰が鷲尾を指定したのかは不明です」
「警察側がたまたま呼んだのか、誰かが鷲尾を呼ばせたのか」
「そこは、まだ分かりません」
二階堂は資料を見た。
「最後に生きていた時刻は」
「九条先生が朝、家を出る前です。七時少し前。合歓さんは“今日、帰り遅いかも”“夜”と話しています」
「仕事へ行く予定だった」
「はい。ただし、勤務先にはその日、出勤していません」
会議室の空気がまた少し重くなった。
朝、帰りが遅くなると言った。
夜、と言った。
だが、職場には行っていない。
そのずれを、あの時の九条も聞かされていた。
休み。
職場では、そう扱われていた。
合歓は朝、帰りが遅いかもしれないと言った。
夜、と言った。
なのに、職場には行っていない。
その時点で何かがずれていた。
だが、十七歳の九条には、そのずれをどう扱えばいいのか分からなかった。
そして真壁にも、分からなかった。
分からなかった、で済ませてきた。
「勤務先は、どう受け止めていたんですか」
「当時の記録では、“欠勤連絡が曖昧だった”“本人は体調不良で休むものと思っていた”という証言があります。ただし、誰がそう伝えたのかは不明です」
二階堂が低く言った。
「そこも気持ち悪いな」
「ああ」
真壁は答えた。
合歓は時間の管理が得意な人ではなかった。
帰りが遅い、夜、といった曖昧な言い方は、彼女らしい。
だが、職場に行っていない。
欠勤扱いになっている。
そしてその日の夜、家で倒れていた。
偶然として処理するには、線が細すぎる。
真壁は、鷲尾のメモを机に置いた。
《N接触済。状態不安定。Mへの影響注意。検案時は脳血管系で処理可》
N。
M。
真壁はメモを見つめた。
「このメモの日付は、合歓が死ぬ三日前でしたね」
「はい」
「俺はNが合歓、Mは雅紀だとみています」
「ええ、可能性は高いです」
二階堂が苦い顔をした。
「この文言、医療メモじゃないな」
「何に見える」
「処理計画だ」
その言葉は、会議室に重く落ちた。
処理計画。
真壁はメモを見つめた。
接触、状態不安定、Mへの影響、そして処理可。
合歓が何かを訴えようとしていたのか。
あるいは、白胎会が九条に近づこうとしたのか。
そして鷲尾は、その結果として自宅で起きるかもしれない死を、脳血管系で処理できると考えていた。
処理。
死者に対して使うには、冷たすぎる言葉だった。
だが、医療の現場では「処理」という言葉自体は珍しくない。書類処理。手続き処理。死亡後の処理。検案後の処理。
だからこそ、逃げ道がある。
鷲尾はその逃げ道を知っていた。
「鷲尾は、合歓の死で迷った可能性があります」
三谷が言った。
真壁は顔を上げた。
「何を根拠に」
「鷲尾の個人メモです。断片ですが、合歓さんの死亡後と思われる日付のメモに、こうあります」
三谷は紙をめくった。
「《若年。児あり。事件化すればMの生活崩壊。検案書は穏便に。騒がせないことが保護になる場合あり》」
会議室が静まり返った。
二階堂が低い声で言った。
「保護?」
「鷲尾の言い分としては、です」
三谷は慎重に続けた。
「未成年の雅紀さん――九条先生がいた。親族も少ない。母親の死が事件化すれば、子どもの生活も進学も壊れる。教団との関係が表に出れば、さらに危険が及ぶ。だから、これ以上騒がない方がいい。そういう理屈で、脳血管系の病死として閉じた可能性があります」
「ふざけるな」
真壁の声は、自分でも驚くほど低かった。
「それは保護じゃない。隠蔽だ」
「はい」
三谷は頷いた。
「ただ、鷲尾自身は、そう自分に言い聞かせていたのかもしれません」
二階堂が資料を睨んだ。
「弱いな」
「ああ」
真壁は答えた。
弱い。
だが、その弱さが厄介だった。
鷲尾は、合歓の死を前にして何も感じなかったわけではないのかもしれない。
十六で子を産み、教団から逃げ、働き詰めで生きてきた若い母。
その母のそばには、未成年の息子がいた。
白い髪の、喘息持ちの、孤立した少年。
そして、その少年の横には、真壁もいた。
警察官に聞かれたこと。
自分が母を呼んだこと。
九条をソファに座らせたこと。
水を渡したこと。
真壁の母が、コートも脱がずに九条の前へ膝をついたこと。
それを、真壁は覚えている。
覚えているのに、その後の死因欄を疑わなかった。
いや、疑うための言葉を持っていなかった。
もし母の死を事件化すれば、その少年はどうなるか。
警察。
教団。
マスコミ。
福祉。
親族不在。
施設。
事情聴取。
生活の崩壊。
鷲尾は、そこまで考えたのかもしれない。
そして、考えたうえで、間違えた。
いや、間違えたというより、都合のいい方へ倒れた。
教団にも、病院にも、自分にも、そして表向きには雅紀にも都合のいい死因欄。
急性脳血管障害。
脳梗塞疑い。
穏便な処理。
これ以上騒がない方がいい。
それは、弱さだった。
金に汚れ、教団に食い込み、死体検案書を穏便化する役になった男の中に、まだ自分を善人だと思いたい弱さが残っていた。
だからこそ、腹が立った。
九条がこのメモを見たら、どう思うだろう。
母の死因を奪った男が、「雅紀のため」と書いていたら。
真壁は、奥歯を噛んだ。
その殺意は、真っ黒な怒りではなく、もっと苦いものになる。
ただ憎める相手なら、楽だった。
鷲尾は楽に憎ませてくれない。
だからなおさら、九条の怒りに近い。
そして真壁自身の怒りにも近かった。
あの夜、自分はいた。
いたのに、何もできなかった。
「元職員からの電話は追えたか」
二階堂が聞いた。
三谷が別紙を出す。
「非通知ではありませんでした。契約者は、江波戸晃。六十三歳。元・白胎会関連療養施設職員。現在は千葉県内在住。二年前に退職しています」
「すぐ会う」
真壁は立ち上がった。
「今からですか」
「今からです」
「九条先生は」
「所在確認は続けてください。見つけたらすぐ連絡を。単独で接触しないこと」
「はい」
二階堂も立ち上がった。
「俺も行く」
「広報は」
「鷲尾の件は最低限のコメントで抑えてる。ここで元職員の証言を取り逃がしたら、広報以前に事件が折れる」
真壁は頷いた。
二人は県警本部を出た。
夜明け前の道路は空いていた。
空はまだ暗いが、東の低いところだけがかすかに白んでいる。街灯の下を、清掃車がゆっくり走っていた。人が死んでも、事件が燃えても、街は朝を迎える準備をする。
二階堂は助手席で携帯を確認していた。
「ネットの状況は」
真壁が聞く。
「“二人目の死者”で燃え始めてる。鷲尾の名前はまだ一部の匿名掲示板レベル。ただ、白胎会と元医師という線は出ている」
「九条合歓の名前は」
「まだだ」
「止められるか」
「名前だけなら少しは。ただ、“声を奪われた女”という言葉が広がってる。人は名前が出ていない方が勝手に探す」
「犯人の狙いか」
「そうだろうな」
二階堂は画面を見つめたまま言った。
「情報の出し方がうまい。名前を出さない。ヒントだけ出す。すると、外野が自分で掘る。見つけた奴は、自分が真相に近づいたと思って拡散する。責任は分散する。火は勝手に増える」
「早瀬か」
「早瀬にはその技術がある。でも、あいつは自分が燃やした火を見せたがるタイプだ。今回は、もっと冷たい」
「九条か」
二階堂は少し黙った。
「九条なら、こんなにSNS向きの言葉を選ぶか?」
「選ばないな」
「だが、選ばせることはできるかもしれない」
「誰に」
「早瀬。あるいは別の協力者。いや、協力者じゃなくてもいい。九条が置いた情報を、誰かが勝手に拾って拡散している可能性もある」
「それも九条の設計か」
「そこが嫌なんだよ」
二階堂は携帯をしまった。
「俺たちは今、情報を抑えているようで、実は順番通りに読まされてる。御堂、灰、御津窪、合歓、鷲尾。全部、段階的だ。偶然の流出じゃない」
「お前は、誰かが設計していると見る」
「設計してる。間違いない」
「九条が?」
二階堂は窓の外を見た。
「まだ言い切れない。でも、設計図の中心には九条がいる」
真壁は黙った。
中心。
その言葉は正しい。
御堂の死も、鷲尾の死も、御津窪の灰も、合歓の花も、すべて九条へ向かっている。
九条が犯人だから中心にいるのか。
犯人が九条を中心に据えているのか。
あるいは、九条自身が自分を中心へ置いたのか。
その違いが、まだ見えない。
江波戸晃の住むアパートは、千葉県内の古い住宅地にあった。
二階建ての木造アパート。外階段に錆が浮いている。駐車場には古い軽自動車が一台。朝の光が薄く差し始めていた。
江波戸は、真壁たちが名乗るとすぐに部屋へ入れた。
六十代前半にしては老けて見えた。頬がこけ、目の下に深い隈がある。髪は白く、着ているカーディガンは袖口が伸びていた。部屋には段ボール箱が積まれ、整理されているとは言い難い。だが、卓上だけは不自然なほど片付いていた。
そこに、一冊の古い手帳が置かれていた。
「あなたが電話を?」
真壁が聞くと、江波戸は頷いた。
「はい」
「なぜ今になって」
「鷲尾先生が死んだからです」
「それまでは話せなかった?」
「話しても、誰も信じないと思っていました。私自身、全部を見たわけではありません」
二階堂が静かに録音の許可を取った。江波戸は頷いた。
「九条合歓さんのことを知っていると言いましたね」
「はい」
江波戸は手帳に触れた。
「私は当時、白胎会の関連施設で事務をしていました。正式には療養相談施設です。心身の不調を抱えた信者や、その家族が相談に来る場所でした。でも実際には、教団から離れようとする人間を戻すための場所でもありました」
「合歓さんはそこへ?」
「はい。亡くなる少し前に、二度来ています」
真壁は身を乗り出した。
「自分から?」
「一度目は、呼ばれて来たようでした。二度目は……たぶん、逃げる相談をしに来た」
「誰に」
「私ではありません。施設内に、外部の相談員を装った教団幹部がいました。御堂先生の側近です」
「名前は」
「仁科です」
二階堂が顔を上げた。
「仁科?」
「はい。今は白胎会の理事をしている人です」
真壁は江波戸を見た。
「合歓さんは何を訴えていたんです」
江波戸は唇を湿らせた。
「息子さんのことです」
「九条雅紀か」
「はい。白い子だと。教団の一部が、あの子を“戻すべき子”だと言っている、と」
「戻す?」
「御津窪の最後の子だからです」
部屋の空気が冷えた。
「御津窪の最後の子」
真壁が繰り返すと、江波戸は頷いた。
「村は焼けました。多くの信者が死にました。けれど合歓さんは生き残り、子どもを産んだ。教団の中には、その子を象徴として使いたがる者がいたんです。灰の中から生まれた白い子。浄化を生き延びた子。そういう物語にしようとしていた」
二階堂が低く言った。
「吐き気がするな」
江波戸は目を伏せた。
「合歓さんは怯えていました。自分はどうなってもいい。でも雅紀だけは連れていかないで、と何度も言っていた」
真壁の脳裏に、柏原房江の言葉が蘇った。
この子だけは、置いてこなかったから。
合歓は、置いてこなかった子を、もう一度奪われそうになっていた。
「御堂はその件を知っていたのか」
「知っていました。というより、御堂先生が許可しなければ、誰もそんな話は進められません」
「鷲尾は」
「施設に出入りしていました。医療相談という名目で。合歓さんを診たかどうかは分かりません。ただ、亡くなる前に一度、鷲尾先生が合歓さんと同じ部屋に入っていくのを見ました」
「いつ」
「亡くなる二、三日前です」
真壁は鷲尾のメモを思い出した。
接触、状態不安定、Mへの影響。
日付が合う。
「その後、合歓さんはどうなった」
「泣いていました。いや、泣いていたというより、呼吸が変でした。過呼吸のような……でも、どこかぼんやりしていた。仁科が“少し休めばいい”と言って、鷲尾先生が何か薬を出していました」
「薬?」
「錠剤だったと思います。水も渡していました」
真壁は江波戸を見た。
「その薬が何か分かりますか」
「分かりません。私は医療職ではありません。ただ、合歓さんは飲みたくないと言っていました」
「飲んだのか」
「仁科が、雅紀くんのためだ、と言いました」
江波戸の声が震えた。
「そう言われて、合歓さんは飲みました」
二階堂が拳を握った。
真壁も、腹の奥が熱くなるのを感じた。
合歓は、自分のためなら拒めたかもしれない。
だが九条のためだと言われれば、飲んだ。
危ういが、九条のことだけは外さない人だった。
だからこそ、そこを突かれた。
「その後、合歓さんは死んだ」
「はい。数日後、自宅で倒れているのが見つかったと聞きました。息子さんが帰ってきて見つけた、と」
真壁は、わずかに目を閉じた。
九条が帰ってきた家。
味噌と洗剤と古い木の匂いのする部屋。
リビングのラグ。
朝、寒いね、と言った合歓。
夜に帰る、とだけ言っていた母。
その母が、夜を待たずに家の中で倒れていた。
「若年性の脳血管障害だと聞かされました」
江波戸は続けた。
「教団内では、“あの女は不安定だったから仕方ない”“自分で壊れた”みたいに言われていました」
「あなたは疑った」
「疑いました。でも、鷲尾先生が検案したと聞いて、誰も何も言わなくなった。医師がそう書いたなら、そうなんだろう、と」
「御堂は何と」
江波戸は顔を歪めた。
「浄化の負荷に耐えられなかった、と」
二階堂が小さく舌打ちした。
「人が死んで、それか」
「御堂先生にとっては、人の死も教義の材料でした」
真壁は、御堂の礼拝堂を思い出した。
火の殉教。
浄化。
魂の試練。
御堂は、自分が焼いた村の死者にも、合歓の死にも、同じような言葉をかぶせてきたのだろう。
死因を、教義に変えてきた。
「鷲尾は、合歓さんの死をどう受け止めていたかわかりますか」
真壁が聞くと、江波戸は少し迷った。
「わかりません。ただ……少しだけ、迷っていたようには見えました」
「迷っていた?」
「合歓さんが亡くなった後、施設で鷲尾先生と仁科さんが話しているのを聞いたんです。鷲尾先生は、“子どもがいる”と言っていました」
「九条雅紀のことか」
「はい。“子どもがいる。あまり騒がせるべきではない”と」
二階堂が目を細めた。
「それを善意みたいに言ったのか」
「そう聞こえました」
江波戸は小さく頷いた。
「仁科さんは、“先生が穏便にしてくだされば、あの子も守られる”と言っていました」
真壁は、体の奥が冷えていくのを感じた。
雅紀のため。
守るため。
騒がせないため。
穏便に。
その言葉が、合歓の死因欄を閉じた。
鷲尾は完全な怪物ではなかったのかもしれない。
少なくとも、自分では怪物だと思っていなかった。
未成年の九条雅紀を守るため。
事件化を避けるため。
教団にこれ以上刺激を与えないため。
そう言い訳しながら、母親の死を病死にした。
その署名が、九条を守ったのか。
それとも、九条から母の声を奪ったのか。
答えは明らかだった。
「なぜ当時、警察へ言わなかった」
真壁が聞くと、江波戸は黙った。
責める口調にはしなかった。
だが、聞かなければならない。
「怖かったんです」
江波戸は言った。
「教団も、鷲尾先生も、怖かった。私には家族がいました。仕事もありました。それに、証拠がなかった。薬の名前も知らない。合歓さんが飲んだところを、私は廊下から見ただけです。言っても、妄想だと言われると思いました」
「手帳には何が」
「その日の記録です。私は、怖くて誰にも言えなかったから、手帳にだけ書きました」
真壁は手帳を受け取った。
古いページ。
日付。
短いメモ。
《九条合歓、二度目。仁科、鷲尾同席。白い子の話。本人拒否。薬? “雅紀のため”と言われ服用。表情ぼんやり。危険。》
真壁は、声を出せなかった。
証拠としては弱い。
だが、鷲尾のメモと重なる。
接触、状態不安定、Mへの影響、そして処理可。
二つのメモが、同じ日を指している。
合歓は、死ぬ前に白胎会と接触していた。
鷲尾はそこにいた。
何らかの薬を渡していた可能性がある。
そして、死後には脳血管系で処理できると書いていた。
真壁は、手帳を閉じた。
「江波戸さん。この手帳は預かります」
「はい」
「正式に聴取します。保護も検討します」
江波戸は、力なく頷いた。
「九条雅紀さんには……」
「今は伝えません」
「伝えないでください」
江波戸は両手を握りしめた。
「あの人は、きっともう知っているのかもしれない。でも、全部を知ったら……」
その先は言葉にならなかった。
真壁は立ち上がった。
全部を知ったら。
遅い。
その言葉がまた胸に浮かんだ。
九条は、もう全部を知っているのかもしれない。
あるいは、今まさに最後の線を探しているのかもしれない。
部屋を出ると、朝の光が住宅地に差し始めていた。
二階堂はしばらく黙っていた。
階段を下り、車へ向かう途中で、ようやく口を開いた。
「九条が殺してても、不思議じゃないな」
真壁は足を止めなかった。
「そうだな」
「否定しないのか」
「できない」
二階堂も黙った。
車に乗り込む。
真壁はハンドルを握ったまま、しばらく動かなかった。
「でも」
二階堂が言った。
「これでも九条は、自分を正義だとは言わないだろうな」
「言わない」
「そこが一番腹立つ」
「ああ」
「自分が悪だと分かっていて、それでもやったなら、どう裁けばいい」
「法で裁く」
真壁は即答した。
そう答えなければならなかった。
二階堂は横目で真壁を見た。
「幼なじみとしては」
「同じだ」
「嘘だな」
真壁は何も言わなかった。
嘘かもしれない。
だが、今はそう答えるしかなかった。
県警本部へ戻る途中、二階堂の携帯が鳴った。
「はい。……何だって?」
声が変わった。
真壁は横目で見る。
二階堂は画面を見ながら、顔を強張らせた。
「真壁、来た」
「何が」
「合歓さんの名前が出た」
真壁は息を止めた。
二階堂は画面を読み上げた。
「匿名アカウントじゃない。早瀬だ。記事を出した。タイトルは――“白胎会二つの死と、十二年前に声を奪われた女性・九条合歓”」
「止められなかったのか」
「公開されたばかりだ。早瀬の個人サイト。しかも複数メディアが拾い始めてる」
「九条の名前は」
「直接はない。でも“現在、事件捜査に関わる法医学者の母”と書いてる。もう時間の問題だ」
真壁はアクセルを踏み込んだ。
「早瀬を押さえる」
「待て」
二階堂が画面を操作する。
「記事の中に、俺たちしか知らない情報がある」
「何だ」
「鷲尾の現場に合歓の花があったこと」
真壁の背中に冷たいものが走った。
「漏らしたのは現場関係者か」
「それだけじゃない」
二階堂の声が低くなる。
「記事の公開時刻が、江波戸への聴取より前に設定されてる。予約投稿だ」
「つまり」
「早瀬は、俺たちが江波戸に辿り着く前から、合歓の名前と花の意味を知っていた」
「誰から」
二階堂は答えなかった。
答えなくても分かる。
早瀬は情報の受け手だ。
では、渡した者がいる。
九条か。
九条以外か。
真壁の携帯が震えた。
九条からのメッセージだった。
《証言を取ったなら、鷲尾のメモと照合しろ》
真壁は、画面を見つめた。
二階堂が覗き込む。
「……あいつ、知ってたな」
「ああ」
「江波戸のことも、メモのことも、俺たちが動くことも」
「少なくとも予想していた」
「予想じゃない。これは道順だ」
二階堂は苦々しく言った。
「真壁、俺たちは本当に読まされてるぞ」
真壁は携帯を握りしめた。
怒りがあった。
九条が生きていることへの安堵もあった。
そして、その安堵を利用されたような屈辱もあった。
「九条へ電話する」
発信する。
一回。
二回。
今度はつながった。
『何』
九条の声はいつも通りだった。
「どこにいる」
『答える必要があるか』
「ある」
『今はない』
「ふざけるな」
『ふざけていない』
「江波戸のことを知っていたな」
『名前は知らなかった』
「嘘をつくな」
『証言者がいることは予想していた。鷲尾は一人で動いていない。九条合歓に接触した場所があるなら、見ていた人間がいる』
「なぜ言わなかった」
『証明できなかった』
「またそれか」
『そうだ』
「早瀬の記事はお前か」
電話の向こうが沈黙した。
二階堂が真壁を見る。
真壁はスピーカーにはしていない。
だが、二階堂は表情で何かを読み取ろうとしていた。
「答えろ」
『早瀬には渡していない』
「では誰が渡した」
『知らない』
「信じろと?」
『信じる必要はない』
「九条」
『何』
「お前、事件をどこへ持っていくつもりだ」
沈黙。
長い沈黙だった。
車のエンジン音だけが聞こえる。
朝の道路を走る音。
二階堂の浅い呼吸。
やがて九条が言った。
『死因へ』
真壁は歯を食いしばった。
「それで人が死んでるんだぞ」
『知っている』
「知ってる、で済むか」
『済まない』
「なら出てこい」
『まだだ』
「まだ?」
『鷲尾の死因が出ていない』
「お前を拘束する」
『そうしろ』
「どこにいる」
『死因が出れば分かる』
通話が切れた。
真壁は携帯を助手席へ投げつけそうになった。
寸前で堪えた。
二階堂が静かに言った。
「九条は、鷲尾の死因が出るまで姿を見せない」
「そうだろうな」
「なぜ」
「鷲尾の死因が、合歓の死因に繋がるからだ」
「そして、それが出たら?」
真壁は前を見た。
「九条は次の場所へ行く」
「どこだ」
真壁は答えなかった。
更地。
父が残した家。
母が辿り着いた家。
九条が成長記録を見つけた家。
今は何もない場所。
まだ早い。
だが、事件は確実にそこへ向かっている。
県警本部に戻ると、騒然としていた。
早瀬の記事が各所で引用され、報道各社から問い合わせが殺到している。二階堂は車を降りた瞬間から電話に捕まった。
「現時点で個人名については回答しません。……違います、捜査関係者の親族という情報も確認中です。……花について? 現場の遺留物に関する質問には答えられません。……宗教弾圧ではありません。事件捜査です」
真壁は捜査本部へ入った。
三谷が駆け寄る。
「江波戸の手帳、鷲尾のメモと日付が一致しました」
「よし」
「それと、鷲尾の過去資料から、合歓さんの死亡当日の連絡メモが出ました」
「内容は」
三谷は紙を渡した。
《九条N 自宅発見。W医師へ臨場依頼済。脳血管系疑いで進行。本人家族少。M未成年。処理簡略可》
真壁は、紙を握る手に力を込めた。
自宅発見。
W医師へ臨場依頼済。
本人家族少。
M未成年。
処理簡略可。
合歓には、抗議する家族がいない。
九条は未成年。
だから処理しやすい。
そう読めた。
読めてしまった。
だが、その下に、小さな付箋がついていた。
同じ筆跡ではない。
鷲尾の字に見えた。
《本当にこれでよいか。Mの保護を優先。教団刺激避ける》
真壁は、その付箋を見つめた。
本当にこれでよいか。
迷っている。
鷲尾は、迷っていた。
だが迷った末に、署名した。
迷ったことは、免罪にはならない。
むしろ、知っていた証拠になる。
これは間違っているかもしれないと分かっていた。
それでも、穏便化した。
九条のためという名目で。
教団を刺激しないためという現実で。
自分と病院と医療法人を守るためという本音で。
「誰のメモですか」
「警察側と病院側の連絡控えが混じっています。筆跡確認中です。W医師は鷲尾の可能性が高いです」
「検案書は」
「写しが残っています。急性脳血管障害。括弧内に、脳梗塞疑い。画像検査はありません」
「当然だな。自宅で発見された時点で、すでに亡くなっていた」
「はい」
「それで脳梗塞疑いか」
三谷は唇を結んだ。
「当時の説明では、倒れていた状態、外傷の有無、既往や生活状況、現場状況を総合して判断した、とされています」
「便利な総合判断だな」
二階堂が言った。
真壁は検案書の写しを見た。
急性脳血管障害。
脳梗塞疑い。
疑い。
その二文字のまま、合歓は火葬された。
その二文字のまま、九条は母の体を失った。
その二文字の向こうに、本当の死因があったかもしれない。
それなのに、誰も開けなかった。
「資料は」
「原本は一部破棄期限を過ぎています。ただ、警察側の保管資料、病院側のマイクロフィルム、一部電子化データが残っている可能性があります」
「全部出してほしい」
「はい」
その時、堀島から連絡が入った。
『真壁さん』
「鷲尾の件か」
『薬毒物の速報です。まだ確定ではありませんが、血中から通常治療域を大きく超える鎮静系薬物の反応が出ました』
真壁は目を閉じた。
「死因は」
『断定はまだです。ただ、急性薬物中毒による呼吸抑制、あるいは循環抑制の可能性が出てきました』
「病死じゃないな」
『病死として処理される可能性はありました。でも違います』
「書斎のグラスは」
『現在、付着物を確認しています。まだ断定できません。ただ、本人の常用薬の範囲だけでは説明しづらい反応です』
「服薬ケースは」
『乱れは少ない。だからこそ不自然です。自分で大量に飲んだなら、ケースか薬袋にもっと分かりやすい欠損が出てもいい。外から混ぜられた可能性は検討する価値があります』
「鷲尾は医師だ」
『ええ。薬の扱いを知っている人間です。飲み間違いで片づけるには、慎重になるべきです』
「合歓の死との関連は」
『そこまでは言えません。ただ、合歓さんの当時の資料が出れば、同系統薬物の使用歴や症状との照合は可能です』
「九条は聞いているか」
『連絡は取っていません』
「取るな」
『分かりました』
通話を切る。
真壁は、深く息を吸った。
鷲尾は薬物で死んだ可能性が高い。
病死に見せられた。
合歓の死と同じ構造で。
高齢の元医師が書斎で倒れる。
胸を押さえたような姿勢。
内側から閉じられた扉。
整然とした机。
飲み残しのあるグラス。
乱れのない服薬ケース。
死因欄に書こうと思えば、いくらでも穏当な言葉があっただろう。
急性心不全。
持病の悪化。
不整脈。
加齢に伴う突然死。
そう書けば、多くの人間は納得した。
だが、納得できる死が、正しい死とは限らない。
これで線は太くなった。
御堂は、父と村人の息を奪った者。
鷲尾は、母の声を奪った者。
九条が言っていた。
鷲尾の死因を誤るな。
誤らなければ、見えてくる。
見えてくるものが、九条自身へ向かうとしても。
二階堂が会議室に戻ってきた。
顔色が悪い。
「外は?」
真壁が聞く。
「荒れてる。早瀬の記事が大手に拾われた。白胎会は“悪質な虚偽”として声明準備中。こっちは公式に何も認めてないのに、すでに世間は御堂、鷲尾、合歓を一本の事件として見始めてる」
「鷲尾の薬物反応が出た」
「何?」
「病死じゃない可能性が高い」
二階堂は黙った。
そして、ゆっくり椅子に座った。
「真壁」
「何だ」
「俺たちは火を消してるんじゃない」
真壁は二階堂を見た。
二階堂の目は、血走っていた。
だが、そこには疲労だけではないものがあった。
気づき。
「どういう意味だ」
「火が行く道を作らされてる」
その言葉は、会議室の空気を変えた。
「御堂の死で教団が騒ぐ。俺たちは否定する。挑戦状が漏れる。俺たちは表現を絞る。灰が出る。御津窪へ向かう。合歓の名前を伏せる。すると外が探す。鷲尾の死を伏せる。すると早瀬が出す。俺たちが火消しをするたびに、次の道が見える」
二階堂は拳を握った。
「消してるつもりで、道を整えてるんだ」
「犯人がそこまで読んでいると?」
「読んでる。少なくとも、誰かがそう設計してる」
「九条か」
二階堂は即答しなかった。
だが、否定もしなかった。
「九条は、普通に自首すれば終わると知ってる。普通に証拠を出せば、教団に潰されると知ってる。普通に殺せば、ただの復讐犯になると知ってる」
「だから事件を大きくした」
「そうだ。御堂を殺しただけじゃ、教団は被害者になる。鷲尾を殺しただけじゃ、医師殺しになる。挑戦状、灰、花、広報、メディア、全部を使って、事件を過去へ接続した」
「九条が犯人なら、な」
二階堂は真壁を見た。
「真壁。そろそろ、その“なら”を外す時が来るかもしれない」
真壁は何も言わなかった。
外したくなかった。
だが、外さなければならないところまで来ている。
携帯が震えた。
九条からだった。
短いメッセージ。
《鷲尾は病死ではなかったか》
真壁は画面を見つめた。
まだ誰にも伝えていない。
堀島から受けたばかりの速報。
捜査本部の中でも限られた人間しか知らない。
九条は、なぜ知っている。
いや。
知っていたのではない。
予想していた。
鷲尾の死体を見れば、そう読むように作られていた。
真壁は返信した。
《お前はどこにいる》
少しして、返事が来た。
《母の死因に届いたら、分かる》
真壁は、携帯を握りしめた。
二階堂が画面を見た。
「更地だな」
真壁は、ゆっくり頷いた。
「たぶんな」
「行くか」
「まだだ」
「なぜ」
「母の死因に届いていない」
二階堂は苦い顔で笑った。
「九条に使われてるぞ」
「分かってる」
「それでも?」
「ああ」
真壁は鷲尾の資料へ目を戻した。
「今、あいつを追っても逃げられる。だが、死因に届けば、九条は逃げない」
「なぜそう言える」
「九条だからだ」
二階堂はため息をついた。
「幼なじみの顔になってるぞ」
「違う」
「何の顔だ」
「刑事だ」
真壁は資料をめくった。
「九条は、正しいところまで辿り着かせたい。なら、俺たちは辿り着く。あいつの思う通りでも構わない」
「構うだろ」
「構う。腹も立つ。だが、死因を誤れば負ける」
二階堂は黙った。
やがて、小さく言った。
「本当に嫌な事件だな」
「ああ」
真壁は鷲尾のメモをもう一度見た。
処理可。
今は、その一語だけで十分だった。
その言葉の下に、真壁は赤い線を引きたい衝動に駆られた。
訂正しなければならない。
そう思った瞬間、自分が九条の言葉に引きずられていることに気づいた。
それでも、手は止まらなかった。
この死因を誤ってはいけない。
九条のためではない。
九条合歓のためでも、まだない。
まずは、刑事として。
死者を閉じた嘘を、開かなければならない。
朝の光が、会議室の窓から入り始めていた。
その光の中で、鷲尾貞成という男の輪郭が、ようやく見え始めていた。
彼は人を殺したのかもしれない。
だが、それ以上に、死を殺してきた男だった。
若いころは、金のない患者を救いたかった。
貧しさのせいで助からない命に怒っていた。
だが、医師になり、見たこともない額の給料が毎月振り込まれるのを見て、金が命を守ると知った。
弟の源治と組み、鷲影会系列のクリニックを次々に立てた。
高齢化には整形外科。
不安の時代にはメンタルクリニック。
疲労には自由診療。
施設には往診。
死には診断書。
そうやって、医療を需要と回転率で見始めた。
政治と金にも近づいた。
教団と関わるうちに、死亡検案書や死体検案書を穏便化する役になった。
それでも彼は、自分を悪人だとは思っていなかったのかもしれない。
妻の蘭子には、毎年蘭を贈った。
子どもには金で苦労をさせなかった。
未成年の雅紀を騒動から守るためだと、自分に言い聞かせた。
本当にこれでよいか、と迷った。
迷いながら、署名した。
その署名が、九条合歓の声を閉じた。
死因欄に穏当な言葉を書き、死者の声を閉じ、遺族の疑問を処理し、教団の物語に都合のいい形で死を整えてきた。
その男が、今度は自分の死因を読まれている。
真壁は思った。
九条、お前はこれを見せたかったのか。
問いは答えにならない。
だが、次の場所は見え始めている。
鷲尾貞成の過去の先にあるのは、九条合歓の死因。
九条合歓の死因の先にあるのは、九条雅紀。
そして九条雅紀の先にあるのは、あの更地だ。
父が残した家。
母が辿り着いた家。
九条が、まだ出られずにいる場所。
真壁は資料を閉じた。
「三谷さん」
「はい」
「合歓の死亡当日の全資料を掘ってほしい。救急活動記録、死亡確認に関わった医師の証言、警察の臨場記録、検案書の写し、薬剤使用記録、近隣住民の証言、職場に来なかった日の連絡記録、全部だ。古くても構いません。破棄されたなら、破棄記録を出してください」
「はい」
「それと、鷲尾の書斎のグラスと水差し、服薬ケース、薬袋、机上の便箋。全部もう一度照合してほしい。本人の常用薬と、検出された薬物反応が合わないなら、そこが入口です」
「分かりました」
「鷲尾は医師だ。飲み間違いで済ませてはいけない。あの男が自分の薬をどう管理していたか、生活の癖まで調べてください」
「はい」
「二階堂」
「何だ」
「早瀬を押さえる。情報源を吐かせる」
「任せろ」
「それから」
真壁は携帯を見た。
九条からのメッセージは、もう来ていない。
「あいつが更地へ向かったら、すぐ分かるようにしてくれ」
二階堂は頷いた。
「分かった」
真壁は、窓の外に目を向けた。
夜が終わろうとしている。
だが事件は、明るくなるほど暗くなっていく。
九条雅紀はどこかで、この朝を見ているのだろうか。
見ているなら、何を思っているのか。
母の死因に近づいていること。
鷲尾の嘘が剥がれ始めたこと。
真壁が、九条の用意した道を進んでいること。
それを、安堵しているのか。
苦しんでいるのか。
あるいは、もう何も感じていないのか。
真壁には分からなかった。
ただ一つ、分かっていることがある。
この事件は、鷲尾貞成を殺した犯人を捕まえるだけでは終わらない。
鷲尾が閉じた死因欄を開けた時、そこに九条雅紀の名前が出てくる。
刑事として、そこから目を逸らすことはできない。
幼なじみとしても、もう逸らしてはいけなかった。
