逃げるという言葉を、合歓はずっと悪いことだと思っていた。
村では、そう教えられていた。逃げる者は弱い。逃げる者は穢れている。逃げる者は、神の声を聞く耳を持たない。子どものころから何度も聞かされた言葉は、意味を考えるより先に体へ入ってしまった。誰かが叱られている時、誰かが蔵の奥へ連れていかれる時、誰かの名前が翌日から食卓で出なくなった時、合歓はいつも同じ言葉を聞いた。
逃げたからだ。
それは、死んだからだ、よりも重い言葉だった。村では、人は死んでも神のもとへ戻ったと言われる。けれど逃げた者は、戻る場所さえ奪われる。名前も、顔も、最初からいなかったもののように扱われる。幼い合歓は、それが一番怖かった。
だから、彼に初めて「逃げよう」と言われた時、合歓は首を振った。
「だめだよ」
声は小さかった。納屋の陰だった。夕方の山には、湿った土と藁の匂いが溜まっていた。祈りの時間にはまだ少し早く、大人たちは集会所の準備に追われていた。誰もこちらを見ていない。それでも合歓は声を落とした。壁にも耳がある、と母に言われて育ったからだ。
「だめって、何が」
彼は低く聞き返した。
合歓は腹の上に手を置いた。まだ膨らみは服の上からは目立たない。けれど中にいるものの重さだけは、もうはっきりしていた。重いというより、温かい。そこだけ自分ではない何かが、静かに生きている。
「逃げたら、だめなんだよ」
「誰が決めた」
「先生が」
合歓は、先生の声を嫌いではなかった。
子どものころ、高熱を出した夜、先生は合歓の額に手を置いて「怖くない」と言った。母はその言葉で泣き、祖母は何度も頭を下げた。翌朝、熱が下がると、家の者たちは先生のおかげだと言った。
合歓も、そう思った。
怖い時に大人が落ち着いた声で名前を呼んでくれることが、救いに似ているのだと、その時初めて知った。
だから先生の言葉を疑うことは、合歓にとって、自分が一度救われた夜まで疑うことだった。
そう答えた瞬間、彼の顔つきが少し変わった。
合歓はその顔が怖い時と、好きな時があった。村で誰かが教祖のことを先生と呼ぶたび、彼はいつも一瞬だけ黙った。逆らうわけではない。大声を出すわけでもない。けれど、黙り方が違う。まるで、舌の上に乗せられた言葉をそのまま飲み込まず、骨だけ取り出そうとしているようだった。
「先生は、お前の腹の子を守ってくれない」
彼は言った。
合歓は、反射的に周囲を見た。
「そんなこと言っちゃだめ」
「じゃあ、誰が守る」
「みんなで……」
「みんなって誰だ」
合歓は答えられなかった。
村には、みんなという言葉がたくさんあった。みんなで祈る。みんなで働く。みんなで先生に仕える。みんなで罪を払う。けれど、そのみんなの中に、自分の腹の中の子どもが本当に入っているのかどうか、合歓には分からなかった。
最近、大人たちの視線が変わったことには気づいていた。
きっかけは、町の産婦人科で受けた検査だった。
医師は難しい言葉で、色素のこと、遺伝のこと、血の近い家同士では同じ性質が重なることがあるのだと説明した。合歓は半分も理解できなかった。ただ、隣に座っていた彼の手が冷たくなったことだけは覚えている。
彼の父にも、白い髪と薄い瞳を持つ男がいた。
村では、呪いの子と呼ばれていた男だった。先生に逆らい、ある日から名前を呼ばれなくなった男。合歓にとっては、親戚の中でだけ囁かれる伯父だった。
その男と同じ白さが、腹の子にも出るかもしれない。
医師は、そう言っただけだった。責める声ではなかった。怖がらせる声でもなかった。ただ、あり得ることを説明する声だった。
けれど村へ戻ると、その言葉は別の形で広がった。
白い子が戻る。
穢れた血が、また目を覚ます。
大人たちは、合歓の腹ではなく、その奥にある古い名前を見ていた。
最初は、若い母になる合歓を気遣ってくれているのだと思っていた。重いものを持つな、冷える場所へ行くな、食べ物は残すな、よく祈れ。そう言われるたび、合歓は素直に頷いた。自分は何も知らない。母親になるということも、外の世界で子どもを育てるということも、病院で何を聞けばいいのかも、何ひとつ分かっていない。
だが、彼だけは違うことを言った。
「ここで産むな」
「でも、村の産婆さんが」
「駄目だ」
それは、合歓が彼から聞いた中で一番強い否定だった。
彼は村の外へ出る仕事をしていた。資材を運んだり、古い農機具を直したり、町の業者と話したりする。村の者は、外の空気を吸う人間をあまり信用しない。けれど、外へ行ける男手は必要だった。彼はその隙間にいた。
彼は、合歓にとって年上の従兄でもあった。
村では、血の近さを誰もはっきり口にしなかった。近すぎるものは、家の中では当たり前に置かれ、外へ出す時だけ恥になる。合歓は幼いころから、彼を兄のように見上げ、父のように頼り、ときどきそれ以外のものとして目で追った。
外の世界を知らない合歓にとって、彼が話す町の灯りや駅の名前や病院の匂いが、そのまま世界の広さだった。彼の言葉だけが、村の外へ開いていた。
彼もまた、それを知っていた。
だから、優しさだけでは済まないものが二人の間にはあった。彼はもう成人していて、合歓はまだ村の言葉から抜け出せない年だった。対等ではなかった。守るという言葉の中に、守られる側が選べない重さもあった。
それでも、合歓が助けを求められる人間は、彼しかいなかった。
合歓には外のことが分からない。
道を歩く人が誰にも許可を取らずに店へ入ることも、病院で名前を書けば診てもらえることも、女の人が髪を短くして働いていることも、学校の子どもたちが先生ではない大人に冗談を言うことも、彼から聞いて初めて知った。
「病院で産める」
彼は言った。
「お金かかるでしょ」
「少しは」
「少しじゃないよ」
「どうにかする」
合歓は、その言い方が嫌いではなかった。彼は、何とかなる、とは言わない。大丈夫、とも簡単に言わない。どうにかする、と言う。そこには、まだ足りないものや、失敗するかもしれないことや、怖いことが全部残っている。それでも進むという意味だけがあった。
数日後、彼は一枚の紙を持ってきた。
町の地図だった。合歓は地図を読むのが苦手だった。学校は中学までしか行っていないし、村の外へ出る時はいつも誰かと一緒だった。道は歩いて覚えるものだと思っていた。紙の上の線が、実際の道につながるという感覚がうまく掴めない。
彼は地図の端を指で押さえた。
「ここ」
「どこ?」
「神奈川」
「かながわ」
合歓は、知らない食べ物の名前みたいに繰り返した。
「遠いの?」
「遠い。でも行ける」
その言葉だけで、胸の奥が少し熱くなった。
彼は、さらに別の紙を出した。そこには、建物の間取りらしい線が引かれていた。四角い部屋。小さな台所。風呂。トイレ。玄関。合歓はしばらく眺めてから、ようやくそれが家の中だと分かった。
「これ、なに」
「家」
「誰の?」
「俺たちの」
合歓は顔を上げた。
彼は少しだけ照れたように目をそらした。普段、何を言われてもあまり表情を動かさない人だったから、そのわずかな変化だけで合歓には十分だった。
「古い。狭い。駅からも遠い。だけど、借りられる」
「借りる?」
「住めるってことだ」
「私たちが?」
「ああ」
合歓はもう一度、紙を見た。
家。
それは村にもあるものだった。合歓にも家はあった。両親がいて、祖父母がいて、親戚が出入りして、祈りの道具が置いてあり、毎朝決まった言葉を唱える家。けれど、彼が指差した紙の上の家は、それとは違うように見えた。
「鍵がある」
彼は言った。
「鍵?」
「自分たちで閉められる。誰も勝手に入ってこない」
合歓は、その言葉の意味を考えるのに時間がかかった。
誰も勝手に入ってこない家。
そんなものがあるのかと思った。
村では、戸は閉めても、閉めたことにはならなかった。誰かが来れば開ける。年寄りが入れば座布団を出す。教団の者が来れば母はすぐ頭を下げる。夜でも、朝でも、祈りの前でも、食事中でも、戸を叩かれたら開ける。それが当たり前だった。
彼が言う家は、当たり前が違う場所だった。
「赤ん坊が泣いても、誰にも怒られない」
彼は続けた。
「台所がある。風呂もある。畳の部屋もある。雨漏りは……少しするかもしれない」
「だめじゃん」
合歓が思わず言うと、彼は初めて笑った。
「直す」
「直せるの?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「直す」
言い直したので、合歓も笑った。
笑ってから、急に涙が出そうになった。理由は分からなかった。嬉しいのか、怖いのか、寂しいのか、そのどれでもあるような気がした。
彼は合歓の腹を見た。
「子どもが生まれたら、そこへ行こう」
「三人で?」
「三人で」
合歓は、その言葉を胸の奥で何度も繰り返した。
三人で。
それは、村では一度も聞いたことのない単位だった。
村では、家族より教団が先に来る。親より先生が先に来る。自分の子どもでも、自分だけの子ではないと言われる。生まれる前から神の子で、先生の導きのもとにあるのだと、合歓は何度も聞かされていた。
けれど彼は、三人で、と言った。
先生も、村も、親戚も入れずに。
その瞬間、合歓は初めて、逃げるという言葉が悪いことだけではないのかもしれないと思った。
逃げるのではなく、行くのだ。
三人で、別の場所へ行く。
そう思うと、腹の中の子どもが少し動いた気がした。
「動いた」
合歓が言うと、彼はぎこちなく手を伸ばした。触れていいか迷っている手だった。合歓はその手を取って、自分の腹に当てた。
彼の手は温かかった。
「分かる?」
「……分からない」
「ええ」
「でも、いる」
彼は真面目な顔で言った。
「ここにいる」
合歓はその言葉を、ずっと忘れなかった。
出産は、予定より少し早かった。
ふもとの町の産婦人科は、村の建物とは匂いが違った。消毒液と洗剤と、乾いた布の匂いがした。白い壁が明るすぎて、合歓は最初、落ち着かなかった。受付の人に名前を聞かれ、生年月日を書かされ、住所の欄で手が止まった。
村の住所を書くのが怖かった。
彼が用意してくれた神奈川の住所を書こうとして、それも怖くなった。まだ行っていない家を住所にしていいのか分からなかった。受付の人に聞く勇気もない。結局、合歓は村の住所を書いた。字は震えていた。
産む時、彼はいなかった。
村へ戻って、最後の準備をしているはずだった。荷物を運び出し、必要なものだけをまとめ、誰にも気づかれないように夜明け前に出る。そんな計画だった。
合歓は何度も彼の名前を呼びそうになった。けれど、病院では大きな声を出してはいけない気がして、歯を食いしばった。何が正しいのか、何をしていいのか、分からないことばかりだった。ただ、助産師の短い指示に頷き、息を吸い、吐き、痛みの波が来るたびに、自分が壊れてしまうのではないかと思った。
それでも、赤ん坊は生まれた。
泣き声が聞こえた瞬間、合歓はしばらく何も考えられなかった。
泣いている。
それだけでよかった。
「男の子ですよ」
誰かが言った。
合歓は涙で視界が歪んだまま、その小さな体を見た。
白かった。
肌も、髪も、まつ毛も、普通の赤ん坊とは違って見えた。まだ濡れていて、泣いていて、顔はくしゃくしゃで、それなのにどこか雪みたいだった。
検査の時に聞いた言葉が、そこで初めて形になった。
色素が薄いかもしれない。目も肌も、普通より弱いかもしれない。医師はそう説明していた。病気というより、生まれ持った性質だと言った。合歓は頷いたはずだった。分かったふりをしたはずだった。
けれど腕の中の白さは、紙に書かれた説明よりずっと小さく、弱く、温かかった。
呪いにしては、あまりにも泣き声が普通だった。
神に返すものにしては、あまりにも必死に生きていた。
合歓は、村の者たちが何と言うかを一瞬で想像した。
白い子。
灰をかぶった子。
神に返すべき子。
胸の奥が冷えた。
けれどすぐに、その冷えた場所を押し返すように別の感情が湧いた。
違う。
この子は、そんなものじゃない。
合歓は腕を伸ばした。看護師が赤ん坊を抱かせてくれた。小さかった。信じられないくらい軽いのに、腕の中に置かれた瞬間、自分の体の中心が変わった気がした。
「まさき」
名前は、彼と決めていた。
雅紀。
字は彼が考えた。合歓は最初、書けるか心配だった。雅という字も、紀という字も、少し難しい。彼は笑って、ひらがなでもいいと言った。合歓はむっとした。自分の子の名前くらい書けるようになる、と言い返した。
練習した紙が、まだ鞄の奥に入っている。
「まさき」
もう一度呼ぶと、赤ん坊は泣きやまなかった。
合歓は少し笑った。
「泣いていいよ」
誰にも聞こえないくらいの声で言った。
「ここでは、泣いていいんだって」
その日の夕方、病院の窓から見える空が赤くなった。
山のほうが、妙に暗かった。
最初に気づいたのは看護師だった。廊下を歩く足音が少し早くなり、誰かが小さく声を上げた。合歓はベッドから体を起こそうとして、腹の奥に鋭い痛みが走り、うずくまった。
「どうしました」
看護師が来た。
「山が」
合歓は窓を指さした。
遠くの山際に、黒い煙が上がっていた。
それが自分の村の方角だと理解するまで、少し時間がかかった。理解した瞬間、合歓はベッドから降りようとした。
「だめです、まだ動いちゃ」
「行かないと」
「今は無理です」
「行かないと」
同じことしか言えなかった。
彼がいる。
村にいる。
荷物をまとめている。三人で住むはずの家の鍵を持っている。もうすぐここへ来るはずだった。赤ん坊の顔を見て、きっと困った顔をする。白いな、と言うかもしれない。いや、彼なら、きれいだな、と言うかもしれない。
そう思った瞬間、合歓は泣いた。
まさきが泣き、合歓も泣き、病室の中が分からない音でいっぱいになった。
その夜、村には戻れなかった。
医師も看護師も止めた。産後の体で動ける状態ではないと言われた。警察と消防が入っているから近づけないとも言われた。合歓は何度も頷いた。頷きながら、何一つ理解できなかった。
翌々日になって、ようやく連れていかれた。
村は、村ではなくなっていた。
山道の途中から匂いが変わった。焦げた木の匂い。湿った灰の匂い。何か甘くて、苦くて、鼻の奥に張りつく匂い。合歓は赤ん坊を抱きしめた。まさきは眠っていた。こんな場所で眠れるのかと思い、すぐに、この子は何も知らないのだと思い直した。
村の入口にあった鳥居のような門は倒れていた。
集会所は骨だけになっていた。
祈りのための広場には、黒く濡れたものがいくつも並んでいた。最初、合歓はそれが人だと分からなかった。人の形をしていなかったからだ。
消防の人が何かを言った。警察の人も来た。合歓は質問された。
名前。
年齢。
家族。
誰がどこにいたか。
誰が逃げ遅れたか。
分かる遺体はあるか。
合歓は答えようとした。けれど、村の人間の名前が頭の中でぐちゃぐちゃになった。祖父の顔。母の声。隣の家の女の人。いつも畑で怒鳴っていた男。集会所で太鼓を叩いていた子ども。みんな、名前はあるはずだった。なのに、目の前の黒いものと名前が結びつかない。
警察の人が困ったように言った。
「無理をしなくていいです」
その言葉が、合歓には嫌だった。
無理をしなくていい。
村では、そんな言葉を聞いたことがなかった。だから優しい言葉なのだろうと思った。でも今は、その優しさが怖かった。無理をしなければ、この人たちは誰にもなれないまま終わってしまう気がした。
合歓は、まさきを抱いたまま、しゃがみ込んだ。
「紙をください」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
「紙?」
「名前、書きます」
警察の人が止めようとした。だが合歓は首を振った。首を振ると目の前が白くなり、体が倒れそうになった。それでも、まさきを抱く腕だけは離さなかった。
紙とペンが渡された。
合歓は書いた。
震える字だった。漢字を間違えた。途中で読み方が分からなくなった。誰のことを書いているのか、自分でも分からなくなりそうになった。赤ん坊が泣くたびに、抱き直し、背中を叩き、また紙に向かった。
たぶん、ふみえさん。
うでわ。右手。
たぶん、こうじさん。歯。
わからない。男の人。
たぶん、まさきのお父さん。
その一行を書いた時、合歓はペンを落とした。
彼は、腕を曲げていた。
誰かを抱こうとしているような形だった。あるいは、熱から身を守ろうとしただけかもしれない。苦しくて、体が勝手に縮こまっただけかもしれない。合歓には分からなかった。
顔は分からない。
声もない。
名前を呼んでも、返事はない。
でも、合歓には彼だと思えた。
いや、彼であってほしかった。
そうでなければ、彼はどこにもいなくなる。三人で住むはずだった家の鍵を持ったまま、名前もない黒いものの一つになってしまう。
「違うかもしれません」
警察の人が言った。
合歓は頷いた。
「でも、そういうことにします」
誰も返事をしなかった。
合歓は、眠っているまさきの顔を見た。
白い子。
村なら、きっと誰かがそう言った。
でも彼は言わない。
きっと、きれいだと言う。
合歓はゆっくり立ち上がった。足元が揺れた。体の中はまだ産んだばかりの痛みで満ちていた。腹の奥が重く、腰は抜けそうで、汗が冷たく背中を伝っていた。
それでも歩いた。
警察の人が何か言った。止めようとしたのかもしれない。合歓は聞かなかった。聞こえなかったのではない。今だけは、聞いてはいけないと思った。
彼の腕のそばにしゃがむ。
まさきは少しだけ目を開けた。薄い色のまつ毛が震えた。
「おとうさんだよ」
合歓は言った。
声は泣いていなかった。
泣いてしまうと、置けなくなると思った。
彼の曲がった腕の内側に、布でくるんだまさきをそっと近づけた。抱かせた、というにはあまりに短い時間だった。触れさせた、と言う方が正しいのかもしれない。あるいは、それすら本当ではなかったのかもしれない。まさきは何も覚えていない。彼も、もう何も分からない。
それでも合歓は、そうした。
三人で暮らすはずだった。
鍵のある家で。
誰も勝手に入ってこない家で。
赤ん坊が泣いても怒られない家で。
台所があって、風呂があって、雨漏りを彼が直すはずだった家で。
そこへ三人で行くはずだった。
だから、せめて一度だけ。
せめて、一度だけ、父親に抱かせたかった。
まさきが小さく泣いた。
合歓はすぐに抱き上げた。胸に戻す。温かい。生きている。あまりにも温かくて、合歓はその場で崩れそうになった。
遠くで、誰かが「浄化」という言葉を口にした。
合歓は、その言葉を知っていた。
彼の父が消えた時にも、大人たちは同じ言葉を使った。白い髪の男が先生に逆らった。土地を差し出すなと言った。人は神のものではないと言った。だから、穢れを断つために処分されたのだと、年寄りたちは声を潜めて話した。
処刑という言葉は使われなかった。
神へ戻した。
清めた。
光へ還した。
言い方はいくらでもあった。けれど、どれも同じ意味だった。
逆らう者は消される。
白い者は、なおさら。
合歓は顔を上げた。
焼け残った集会所の近くに、白い衣を着た男が立っていた。御堂聖真。村の者たちが先生と呼んだ男。煙で空が濁っているのに、その人だけは汚れていないように見えた。
男は合歓を見ていなかった。
焼けた村を見ていた。
悲しんでいるようにも見えた。だが、合歓には分かった。あれは悲しみではない。自分が作ったものの出来を確かめる目だった。
合歓はまさきを抱く腕に力を込めた。
その時、初めて思った。
逃げなければ。
今度こそ、この子を連れて逃げなければ。
村からではない。
神からでもない。
あの男の声が届く場所すべてから。
合歓はその日のうちに、病院へ戻された。
体は熱を出し、何度も眠り、目を覚ますたびにまさきの顔を確認した。看護師に水を飲まされ、医師に叱られ、何かの書類に名前を書いた。夫の名前を書く欄で、手が止まった。
書けなかった。
名前を書けば、見つかる気がした。
彼が死んでも、名前だけはまだどこかで追われているような気がした。あの村では、名前は祈りに使われた。名簿に書かれ、呼ばれ、縛られる。死んだあとも、先生の言葉の中へ入れられる。
合歓は空欄のまま、紙を返した。
受付の人は少し困った顔をしたが、何も言わなかった。
退院の日、合歓は小さな鞄と、まさきと、彼が残した鍵を持って病院を出た。
神奈川までの行き方は、何度も彼から聞いていた。紙にも書いてもらっていた。駅の名前。乗り換え。困ったら駅員に聞け、と書かれていた。合歓はその「駅員」がどの人なのか、最初は分からなかった。制服を着た人に声をかけるだけで、膝が震えた。
それでも行った。
間違えた。戻った。泣きそうになった。まさきが泣き、周りの人に見られ、謝る声も震えた。切符をなくしかけ、鞄の底から見つけた。昼に食べるはずだったおにぎりは、いつのまにか潰れていた。電車の窓に映る自分は、母親というより迷子に見えた。
それでも、合歓は行った。
夕方、ようやくその町に着いた。
駅からの道は、彼が言った通り遠かった。地図は何度見ても分からない。通りすがりの人に聞き、何度も頭を下げた。まさきは眠っていた。小さな寝息が胸元で上下していた。
やがて、古い平屋が見えた。
木の門は少し傾いていた。庭には雑草があった。窓は古く、雨戸の端に錆が浮いていた。立派な家ではなかった。村の大人たちなら、こんなところに住むのかと笑ったかもしれない。
けれど合歓は、門の前で足を止めた。
鍵がある。
誰も勝手に入ってこない。
三人で住める。
彼の声が耳の奥に戻ってきた。
斜め向かいの家には、灯りがついていた。台所らしき窓の向こうを人影が横切った。普通の家族の生活の音が、かすかに外へ漏れていた。鍋の音。子どもの声。赤ちゃんの声。テレビの音。合歓にはそれが、遠い国の言葉のように聞こえた。
鍵を差し込む手が震えた。
一度目は入らなかった。向きが逆だった。二度目で回った。
戸が開く。
中は冷えていた。
畳の匂いと、古い木の匂いがした。誰もいない家の匂いだった。彼が先に来て掃除したのか、部屋の隅には新しい雑巾と、安い布団が置いてあった。台所には、鍋が一つ。流しの横には、封を切っていない箸が二膳と、小さな茶碗が一つ。
二膳。
合歓はそれを見て、そこに座り込んだ。
本当は三人で来るはずだった。
彼が鍵を開けるはずだった。合歓は文句を言いながら荷物を置き、まさきを抱いた彼が、狭いな、と笑うはずだった。雨漏りを見つけて、直すと言うはずだった。夜になったら、斜め向かいの家の灯りを見て、外って明るいんだね、と合歓が言うはずだった。
けれど家に入ったのは、二人だった。
合歓と、何も知らないまさきだけだった。
まさきが目を覚まして、小さく泣いた。
その声で、合歓は我に返った。
泣いている。
この子は生きている。
合歓は涙を手の甲で拭いた。うまく拭けず、頬が濡れたままになった。鞄を開け、おむつを探した。どこに入れたか分からなくなり、全部ひっくり返した。母子手帳、紙、潰れたおにぎり、彼が書いた地図、役所でもらった書類、村の火災の記事が載った新聞の切れ端。
その中に、白い小さなノートがあった。
病院の売店で買ったものだった。表紙には花の絵がついている。合歓はそれを手に取った。何のために買ったのか、自分でも忘れかけていた。
まさきのことを書こうと思ったのだ。
忘れないように。
自分が忘れたら、この子には何も残らないと思ったから。
合歓はノートを開いた。
最初のページに、ゆっくり書いた。
まさきのせいちょうきろく。
字は曲がっていた。ひらがなばかりで、少し恥ずかしかった。でも、今はそれでよかった。
次のページに書いた。
まさき、うまれた。
小さい。
でも泣いた。
よかった。
ちゃんと泣いた。
書きながら、涙が落ちた。インクが少し滲んだ。
合歓はまさきを抱き上げた。窓の外には、斜め向かいの家の灯りがまだあった。知らない家。知らない町。知らない人たち。何も分からない外の世界。
怖かった。
けれど、村よりは怖くないと思った。
少なくとも、この家には鍵がある。
合歓はまさきの顔を見た。白い髪。薄い眉。小さな口。村で何と言われたとしても、彼ならきっと、きれいだと言った。
「着いたよ」
合歓は言った。
返事はない。
まさきは泣き疲れたのか、また眠りかけていた。
「おとうさんが見つけてくれた家だよ」
合歓はそう言って、部屋の真ん中に座った。
その夜、雨が降った。
天井のどこかから、一滴だけ水が落ちた。畳に小さな染みができた。彼がいたら、やっぱり雨漏りしてるじゃん、と合歓は言っただろう。彼は、直す、と答えただろう。
合歓は古い鍋をその下に置いた。
ぽつん、と音がした。
その音を聞きながら、合歓はまさきを抱いて眠った。
逃げることは悪いことだと、まだ心のどこかで思っていた。
けれど、その夜だけは、逃げてきてよかったと思った。
この子が泣いても、誰も怒鳴らなかった。
誰も戸を叩かなかった。
誰も祈れとは言わなかった。
ただ雨の音と、赤ん坊の息と、古い家の軋む音だけがあった。
合歓は半分眠りながら、胸の中で彼に謝った。
三人では来られなかった。
ごめんね。
でも、着いたよ。
この子だけは、連れてきたよ。
それから十七年後、そのノートは押し入れの奥の箱から見つかることになる。
表紙の花は色褪せ、紙は湿気を吸い、ところどころ字は滲んでいた。
そこには、合歓が書けた日だけの記録があった。まさきが熱を出した日。初めて立った日。咳が止まらなくて怖かった日。うどんを食べた日。学校へ行った日。お金が足りなくて泣きそうになった日。彼の名前を書けなかったこと。村のこと。火のこと。黒く曲がった腕のこと。
そして、短い一文。
まさきを、お父さんにだっこしてもらった。
ほんとうは、だっこじゃないかもしれない。
でも、そういうことにした。
だって、まさきのお父さんだから。
その一文を読む少年は、まだ自分が何になるのかを知らない。
母を楽にするために医者になろうとしていた少年は、その夜、初めて知ることになる。
父は、病気で息ができなくなったのではない。
母は、ただ若くして倒れたのではない。
村は、事故で焼けたのではない。
そして、死者は黙っているだけではない。
誰かがその死因を誤れば、二度目の死を迎えるのだと。
村では、そう教えられていた。逃げる者は弱い。逃げる者は穢れている。逃げる者は、神の声を聞く耳を持たない。子どものころから何度も聞かされた言葉は、意味を考えるより先に体へ入ってしまった。誰かが叱られている時、誰かが蔵の奥へ連れていかれる時、誰かの名前が翌日から食卓で出なくなった時、合歓はいつも同じ言葉を聞いた。
逃げたからだ。
それは、死んだからだ、よりも重い言葉だった。村では、人は死んでも神のもとへ戻ったと言われる。けれど逃げた者は、戻る場所さえ奪われる。名前も、顔も、最初からいなかったもののように扱われる。幼い合歓は、それが一番怖かった。
だから、彼に初めて「逃げよう」と言われた時、合歓は首を振った。
「だめだよ」
声は小さかった。納屋の陰だった。夕方の山には、湿った土と藁の匂いが溜まっていた。祈りの時間にはまだ少し早く、大人たちは集会所の準備に追われていた。誰もこちらを見ていない。それでも合歓は声を落とした。壁にも耳がある、と母に言われて育ったからだ。
「だめって、何が」
彼は低く聞き返した。
合歓は腹の上に手を置いた。まだ膨らみは服の上からは目立たない。けれど中にいるものの重さだけは、もうはっきりしていた。重いというより、温かい。そこだけ自分ではない何かが、静かに生きている。
「逃げたら、だめなんだよ」
「誰が決めた」
「先生が」
合歓は、先生の声を嫌いではなかった。
子どものころ、高熱を出した夜、先生は合歓の額に手を置いて「怖くない」と言った。母はその言葉で泣き、祖母は何度も頭を下げた。翌朝、熱が下がると、家の者たちは先生のおかげだと言った。
合歓も、そう思った。
怖い時に大人が落ち着いた声で名前を呼んでくれることが、救いに似ているのだと、その時初めて知った。
だから先生の言葉を疑うことは、合歓にとって、自分が一度救われた夜まで疑うことだった。
そう答えた瞬間、彼の顔つきが少し変わった。
合歓はその顔が怖い時と、好きな時があった。村で誰かが教祖のことを先生と呼ぶたび、彼はいつも一瞬だけ黙った。逆らうわけではない。大声を出すわけでもない。けれど、黙り方が違う。まるで、舌の上に乗せられた言葉をそのまま飲み込まず、骨だけ取り出そうとしているようだった。
「先生は、お前の腹の子を守ってくれない」
彼は言った。
合歓は、反射的に周囲を見た。
「そんなこと言っちゃだめ」
「じゃあ、誰が守る」
「みんなで……」
「みんなって誰だ」
合歓は答えられなかった。
村には、みんなという言葉がたくさんあった。みんなで祈る。みんなで働く。みんなで先生に仕える。みんなで罪を払う。けれど、そのみんなの中に、自分の腹の中の子どもが本当に入っているのかどうか、合歓には分からなかった。
最近、大人たちの視線が変わったことには気づいていた。
きっかけは、町の産婦人科で受けた検査だった。
医師は難しい言葉で、色素のこと、遺伝のこと、血の近い家同士では同じ性質が重なることがあるのだと説明した。合歓は半分も理解できなかった。ただ、隣に座っていた彼の手が冷たくなったことだけは覚えている。
彼の父にも、白い髪と薄い瞳を持つ男がいた。
村では、呪いの子と呼ばれていた男だった。先生に逆らい、ある日から名前を呼ばれなくなった男。合歓にとっては、親戚の中でだけ囁かれる伯父だった。
その男と同じ白さが、腹の子にも出るかもしれない。
医師は、そう言っただけだった。責める声ではなかった。怖がらせる声でもなかった。ただ、あり得ることを説明する声だった。
けれど村へ戻ると、その言葉は別の形で広がった。
白い子が戻る。
穢れた血が、また目を覚ます。
大人たちは、合歓の腹ではなく、その奥にある古い名前を見ていた。
最初は、若い母になる合歓を気遣ってくれているのだと思っていた。重いものを持つな、冷える場所へ行くな、食べ物は残すな、よく祈れ。そう言われるたび、合歓は素直に頷いた。自分は何も知らない。母親になるということも、外の世界で子どもを育てるということも、病院で何を聞けばいいのかも、何ひとつ分かっていない。
だが、彼だけは違うことを言った。
「ここで産むな」
「でも、村の産婆さんが」
「駄目だ」
それは、合歓が彼から聞いた中で一番強い否定だった。
彼は村の外へ出る仕事をしていた。資材を運んだり、古い農機具を直したり、町の業者と話したりする。村の者は、外の空気を吸う人間をあまり信用しない。けれど、外へ行ける男手は必要だった。彼はその隙間にいた。
彼は、合歓にとって年上の従兄でもあった。
村では、血の近さを誰もはっきり口にしなかった。近すぎるものは、家の中では当たり前に置かれ、外へ出す時だけ恥になる。合歓は幼いころから、彼を兄のように見上げ、父のように頼り、ときどきそれ以外のものとして目で追った。
外の世界を知らない合歓にとって、彼が話す町の灯りや駅の名前や病院の匂いが、そのまま世界の広さだった。彼の言葉だけが、村の外へ開いていた。
彼もまた、それを知っていた。
だから、優しさだけでは済まないものが二人の間にはあった。彼はもう成人していて、合歓はまだ村の言葉から抜け出せない年だった。対等ではなかった。守るという言葉の中に、守られる側が選べない重さもあった。
それでも、合歓が助けを求められる人間は、彼しかいなかった。
合歓には外のことが分からない。
道を歩く人が誰にも許可を取らずに店へ入ることも、病院で名前を書けば診てもらえることも、女の人が髪を短くして働いていることも、学校の子どもたちが先生ではない大人に冗談を言うことも、彼から聞いて初めて知った。
「病院で産める」
彼は言った。
「お金かかるでしょ」
「少しは」
「少しじゃないよ」
「どうにかする」
合歓は、その言い方が嫌いではなかった。彼は、何とかなる、とは言わない。大丈夫、とも簡単に言わない。どうにかする、と言う。そこには、まだ足りないものや、失敗するかもしれないことや、怖いことが全部残っている。それでも進むという意味だけがあった。
数日後、彼は一枚の紙を持ってきた。
町の地図だった。合歓は地図を読むのが苦手だった。学校は中学までしか行っていないし、村の外へ出る時はいつも誰かと一緒だった。道は歩いて覚えるものだと思っていた。紙の上の線が、実際の道につながるという感覚がうまく掴めない。
彼は地図の端を指で押さえた。
「ここ」
「どこ?」
「神奈川」
「かながわ」
合歓は、知らない食べ物の名前みたいに繰り返した。
「遠いの?」
「遠い。でも行ける」
その言葉だけで、胸の奥が少し熱くなった。
彼は、さらに別の紙を出した。そこには、建物の間取りらしい線が引かれていた。四角い部屋。小さな台所。風呂。トイレ。玄関。合歓はしばらく眺めてから、ようやくそれが家の中だと分かった。
「これ、なに」
「家」
「誰の?」
「俺たちの」
合歓は顔を上げた。
彼は少しだけ照れたように目をそらした。普段、何を言われてもあまり表情を動かさない人だったから、そのわずかな変化だけで合歓には十分だった。
「古い。狭い。駅からも遠い。だけど、借りられる」
「借りる?」
「住めるってことだ」
「私たちが?」
「ああ」
合歓はもう一度、紙を見た。
家。
それは村にもあるものだった。合歓にも家はあった。両親がいて、祖父母がいて、親戚が出入りして、祈りの道具が置いてあり、毎朝決まった言葉を唱える家。けれど、彼が指差した紙の上の家は、それとは違うように見えた。
「鍵がある」
彼は言った。
「鍵?」
「自分たちで閉められる。誰も勝手に入ってこない」
合歓は、その言葉の意味を考えるのに時間がかかった。
誰も勝手に入ってこない家。
そんなものがあるのかと思った。
村では、戸は閉めても、閉めたことにはならなかった。誰かが来れば開ける。年寄りが入れば座布団を出す。教団の者が来れば母はすぐ頭を下げる。夜でも、朝でも、祈りの前でも、食事中でも、戸を叩かれたら開ける。それが当たり前だった。
彼が言う家は、当たり前が違う場所だった。
「赤ん坊が泣いても、誰にも怒られない」
彼は続けた。
「台所がある。風呂もある。畳の部屋もある。雨漏りは……少しするかもしれない」
「だめじゃん」
合歓が思わず言うと、彼は初めて笑った。
「直す」
「直せるの?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「直す」
言い直したので、合歓も笑った。
笑ってから、急に涙が出そうになった。理由は分からなかった。嬉しいのか、怖いのか、寂しいのか、そのどれでもあるような気がした。
彼は合歓の腹を見た。
「子どもが生まれたら、そこへ行こう」
「三人で?」
「三人で」
合歓は、その言葉を胸の奥で何度も繰り返した。
三人で。
それは、村では一度も聞いたことのない単位だった。
村では、家族より教団が先に来る。親より先生が先に来る。自分の子どもでも、自分だけの子ではないと言われる。生まれる前から神の子で、先生の導きのもとにあるのだと、合歓は何度も聞かされていた。
けれど彼は、三人で、と言った。
先生も、村も、親戚も入れずに。
その瞬間、合歓は初めて、逃げるという言葉が悪いことだけではないのかもしれないと思った。
逃げるのではなく、行くのだ。
三人で、別の場所へ行く。
そう思うと、腹の中の子どもが少し動いた気がした。
「動いた」
合歓が言うと、彼はぎこちなく手を伸ばした。触れていいか迷っている手だった。合歓はその手を取って、自分の腹に当てた。
彼の手は温かかった。
「分かる?」
「……分からない」
「ええ」
「でも、いる」
彼は真面目な顔で言った。
「ここにいる」
合歓はその言葉を、ずっと忘れなかった。
出産は、予定より少し早かった。
ふもとの町の産婦人科は、村の建物とは匂いが違った。消毒液と洗剤と、乾いた布の匂いがした。白い壁が明るすぎて、合歓は最初、落ち着かなかった。受付の人に名前を聞かれ、生年月日を書かされ、住所の欄で手が止まった。
村の住所を書くのが怖かった。
彼が用意してくれた神奈川の住所を書こうとして、それも怖くなった。まだ行っていない家を住所にしていいのか分からなかった。受付の人に聞く勇気もない。結局、合歓は村の住所を書いた。字は震えていた。
産む時、彼はいなかった。
村へ戻って、最後の準備をしているはずだった。荷物を運び出し、必要なものだけをまとめ、誰にも気づかれないように夜明け前に出る。そんな計画だった。
合歓は何度も彼の名前を呼びそうになった。けれど、病院では大きな声を出してはいけない気がして、歯を食いしばった。何が正しいのか、何をしていいのか、分からないことばかりだった。ただ、助産師の短い指示に頷き、息を吸い、吐き、痛みの波が来るたびに、自分が壊れてしまうのではないかと思った。
それでも、赤ん坊は生まれた。
泣き声が聞こえた瞬間、合歓はしばらく何も考えられなかった。
泣いている。
それだけでよかった。
「男の子ですよ」
誰かが言った。
合歓は涙で視界が歪んだまま、その小さな体を見た。
白かった。
肌も、髪も、まつ毛も、普通の赤ん坊とは違って見えた。まだ濡れていて、泣いていて、顔はくしゃくしゃで、それなのにどこか雪みたいだった。
検査の時に聞いた言葉が、そこで初めて形になった。
色素が薄いかもしれない。目も肌も、普通より弱いかもしれない。医師はそう説明していた。病気というより、生まれ持った性質だと言った。合歓は頷いたはずだった。分かったふりをしたはずだった。
けれど腕の中の白さは、紙に書かれた説明よりずっと小さく、弱く、温かかった。
呪いにしては、あまりにも泣き声が普通だった。
神に返すものにしては、あまりにも必死に生きていた。
合歓は、村の者たちが何と言うかを一瞬で想像した。
白い子。
灰をかぶった子。
神に返すべき子。
胸の奥が冷えた。
けれどすぐに、その冷えた場所を押し返すように別の感情が湧いた。
違う。
この子は、そんなものじゃない。
合歓は腕を伸ばした。看護師が赤ん坊を抱かせてくれた。小さかった。信じられないくらい軽いのに、腕の中に置かれた瞬間、自分の体の中心が変わった気がした。
「まさき」
名前は、彼と決めていた。
雅紀。
字は彼が考えた。合歓は最初、書けるか心配だった。雅という字も、紀という字も、少し難しい。彼は笑って、ひらがなでもいいと言った。合歓はむっとした。自分の子の名前くらい書けるようになる、と言い返した。
練習した紙が、まだ鞄の奥に入っている。
「まさき」
もう一度呼ぶと、赤ん坊は泣きやまなかった。
合歓は少し笑った。
「泣いていいよ」
誰にも聞こえないくらいの声で言った。
「ここでは、泣いていいんだって」
その日の夕方、病院の窓から見える空が赤くなった。
山のほうが、妙に暗かった。
最初に気づいたのは看護師だった。廊下を歩く足音が少し早くなり、誰かが小さく声を上げた。合歓はベッドから体を起こそうとして、腹の奥に鋭い痛みが走り、うずくまった。
「どうしました」
看護師が来た。
「山が」
合歓は窓を指さした。
遠くの山際に、黒い煙が上がっていた。
それが自分の村の方角だと理解するまで、少し時間がかかった。理解した瞬間、合歓はベッドから降りようとした。
「だめです、まだ動いちゃ」
「行かないと」
「今は無理です」
「行かないと」
同じことしか言えなかった。
彼がいる。
村にいる。
荷物をまとめている。三人で住むはずの家の鍵を持っている。もうすぐここへ来るはずだった。赤ん坊の顔を見て、きっと困った顔をする。白いな、と言うかもしれない。いや、彼なら、きれいだな、と言うかもしれない。
そう思った瞬間、合歓は泣いた。
まさきが泣き、合歓も泣き、病室の中が分からない音でいっぱいになった。
その夜、村には戻れなかった。
医師も看護師も止めた。産後の体で動ける状態ではないと言われた。警察と消防が入っているから近づけないとも言われた。合歓は何度も頷いた。頷きながら、何一つ理解できなかった。
翌々日になって、ようやく連れていかれた。
村は、村ではなくなっていた。
山道の途中から匂いが変わった。焦げた木の匂い。湿った灰の匂い。何か甘くて、苦くて、鼻の奥に張りつく匂い。合歓は赤ん坊を抱きしめた。まさきは眠っていた。こんな場所で眠れるのかと思い、すぐに、この子は何も知らないのだと思い直した。
村の入口にあった鳥居のような門は倒れていた。
集会所は骨だけになっていた。
祈りのための広場には、黒く濡れたものがいくつも並んでいた。最初、合歓はそれが人だと分からなかった。人の形をしていなかったからだ。
消防の人が何かを言った。警察の人も来た。合歓は質問された。
名前。
年齢。
家族。
誰がどこにいたか。
誰が逃げ遅れたか。
分かる遺体はあるか。
合歓は答えようとした。けれど、村の人間の名前が頭の中でぐちゃぐちゃになった。祖父の顔。母の声。隣の家の女の人。いつも畑で怒鳴っていた男。集会所で太鼓を叩いていた子ども。みんな、名前はあるはずだった。なのに、目の前の黒いものと名前が結びつかない。
警察の人が困ったように言った。
「無理をしなくていいです」
その言葉が、合歓には嫌だった。
無理をしなくていい。
村では、そんな言葉を聞いたことがなかった。だから優しい言葉なのだろうと思った。でも今は、その優しさが怖かった。無理をしなければ、この人たちは誰にもなれないまま終わってしまう気がした。
合歓は、まさきを抱いたまま、しゃがみ込んだ。
「紙をください」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
「紙?」
「名前、書きます」
警察の人が止めようとした。だが合歓は首を振った。首を振ると目の前が白くなり、体が倒れそうになった。それでも、まさきを抱く腕だけは離さなかった。
紙とペンが渡された。
合歓は書いた。
震える字だった。漢字を間違えた。途中で読み方が分からなくなった。誰のことを書いているのか、自分でも分からなくなりそうになった。赤ん坊が泣くたびに、抱き直し、背中を叩き、また紙に向かった。
たぶん、ふみえさん。
うでわ。右手。
たぶん、こうじさん。歯。
わからない。男の人。
たぶん、まさきのお父さん。
その一行を書いた時、合歓はペンを落とした。
彼は、腕を曲げていた。
誰かを抱こうとしているような形だった。あるいは、熱から身を守ろうとしただけかもしれない。苦しくて、体が勝手に縮こまっただけかもしれない。合歓には分からなかった。
顔は分からない。
声もない。
名前を呼んでも、返事はない。
でも、合歓には彼だと思えた。
いや、彼であってほしかった。
そうでなければ、彼はどこにもいなくなる。三人で住むはずだった家の鍵を持ったまま、名前もない黒いものの一つになってしまう。
「違うかもしれません」
警察の人が言った。
合歓は頷いた。
「でも、そういうことにします」
誰も返事をしなかった。
合歓は、眠っているまさきの顔を見た。
白い子。
村なら、きっと誰かがそう言った。
でも彼は言わない。
きっと、きれいだと言う。
合歓はゆっくり立ち上がった。足元が揺れた。体の中はまだ産んだばかりの痛みで満ちていた。腹の奥が重く、腰は抜けそうで、汗が冷たく背中を伝っていた。
それでも歩いた。
警察の人が何か言った。止めようとしたのかもしれない。合歓は聞かなかった。聞こえなかったのではない。今だけは、聞いてはいけないと思った。
彼の腕のそばにしゃがむ。
まさきは少しだけ目を開けた。薄い色のまつ毛が震えた。
「おとうさんだよ」
合歓は言った。
声は泣いていなかった。
泣いてしまうと、置けなくなると思った。
彼の曲がった腕の内側に、布でくるんだまさきをそっと近づけた。抱かせた、というにはあまりに短い時間だった。触れさせた、と言う方が正しいのかもしれない。あるいは、それすら本当ではなかったのかもしれない。まさきは何も覚えていない。彼も、もう何も分からない。
それでも合歓は、そうした。
三人で暮らすはずだった。
鍵のある家で。
誰も勝手に入ってこない家で。
赤ん坊が泣いても怒られない家で。
台所があって、風呂があって、雨漏りを彼が直すはずだった家で。
そこへ三人で行くはずだった。
だから、せめて一度だけ。
せめて、一度だけ、父親に抱かせたかった。
まさきが小さく泣いた。
合歓はすぐに抱き上げた。胸に戻す。温かい。生きている。あまりにも温かくて、合歓はその場で崩れそうになった。
遠くで、誰かが「浄化」という言葉を口にした。
合歓は、その言葉を知っていた。
彼の父が消えた時にも、大人たちは同じ言葉を使った。白い髪の男が先生に逆らった。土地を差し出すなと言った。人は神のものではないと言った。だから、穢れを断つために処分されたのだと、年寄りたちは声を潜めて話した。
処刑という言葉は使われなかった。
神へ戻した。
清めた。
光へ還した。
言い方はいくらでもあった。けれど、どれも同じ意味だった。
逆らう者は消される。
白い者は、なおさら。
合歓は顔を上げた。
焼け残った集会所の近くに、白い衣を着た男が立っていた。御堂聖真。村の者たちが先生と呼んだ男。煙で空が濁っているのに、その人だけは汚れていないように見えた。
男は合歓を見ていなかった。
焼けた村を見ていた。
悲しんでいるようにも見えた。だが、合歓には分かった。あれは悲しみではない。自分が作ったものの出来を確かめる目だった。
合歓はまさきを抱く腕に力を込めた。
その時、初めて思った。
逃げなければ。
今度こそ、この子を連れて逃げなければ。
村からではない。
神からでもない。
あの男の声が届く場所すべてから。
合歓はその日のうちに、病院へ戻された。
体は熱を出し、何度も眠り、目を覚ますたびにまさきの顔を確認した。看護師に水を飲まされ、医師に叱られ、何かの書類に名前を書いた。夫の名前を書く欄で、手が止まった。
書けなかった。
名前を書けば、見つかる気がした。
彼が死んでも、名前だけはまだどこかで追われているような気がした。あの村では、名前は祈りに使われた。名簿に書かれ、呼ばれ、縛られる。死んだあとも、先生の言葉の中へ入れられる。
合歓は空欄のまま、紙を返した。
受付の人は少し困った顔をしたが、何も言わなかった。
退院の日、合歓は小さな鞄と、まさきと、彼が残した鍵を持って病院を出た。
神奈川までの行き方は、何度も彼から聞いていた。紙にも書いてもらっていた。駅の名前。乗り換え。困ったら駅員に聞け、と書かれていた。合歓はその「駅員」がどの人なのか、最初は分からなかった。制服を着た人に声をかけるだけで、膝が震えた。
それでも行った。
間違えた。戻った。泣きそうになった。まさきが泣き、周りの人に見られ、謝る声も震えた。切符をなくしかけ、鞄の底から見つけた。昼に食べるはずだったおにぎりは、いつのまにか潰れていた。電車の窓に映る自分は、母親というより迷子に見えた。
それでも、合歓は行った。
夕方、ようやくその町に着いた。
駅からの道は、彼が言った通り遠かった。地図は何度見ても分からない。通りすがりの人に聞き、何度も頭を下げた。まさきは眠っていた。小さな寝息が胸元で上下していた。
やがて、古い平屋が見えた。
木の門は少し傾いていた。庭には雑草があった。窓は古く、雨戸の端に錆が浮いていた。立派な家ではなかった。村の大人たちなら、こんなところに住むのかと笑ったかもしれない。
けれど合歓は、門の前で足を止めた。
鍵がある。
誰も勝手に入ってこない。
三人で住める。
彼の声が耳の奥に戻ってきた。
斜め向かいの家には、灯りがついていた。台所らしき窓の向こうを人影が横切った。普通の家族の生活の音が、かすかに外へ漏れていた。鍋の音。子どもの声。赤ちゃんの声。テレビの音。合歓にはそれが、遠い国の言葉のように聞こえた。
鍵を差し込む手が震えた。
一度目は入らなかった。向きが逆だった。二度目で回った。
戸が開く。
中は冷えていた。
畳の匂いと、古い木の匂いがした。誰もいない家の匂いだった。彼が先に来て掃除したのか、部屋の隅には新しい雑巾と、安い布団が置いてあった。台所には、鍋が一つ。流しの横には、封を切っていない箸が二膳と、小さな茶碗が一つ。
二膳。
合歓はそれを見て、そこに座り込んだ。
本当は三人で来るはずだった。
彼が鍵を開けるはずだった。合歓は文句を言いながら荷物を置き、まさきを抱いた彼が、狭いな、と笑うはずだった。雨漏りを見つけて、直すと言うはずだった。夜になったら、斜め向かいの家の灯りを見て、外って明るいんだね、と合歓が言うはずだった。
けれど家に入ったのは、二人だった。
合歓と、何も知らないまさきだけだった。
まさきが目を覚まして、小さく泣いた。
その声で、合歓は我に返った。
泣いている。
この子は生きている。
合歓は涙を手の甲で拭いた。うまく拭けず、頬が濡れたままになった。鞄を開け、おむつを探した。どこに入れたか分からなくなり、全部ひっくり返した。母子手帳、紙、潰れたおにぎり、彼が書いた地図、役所でもらった書類、村の火災の記事が載った新聞の切れ端。
その中に、白い小さなノートがあった。
病院の売店で買ったものだった。表紙には花の絵がついている。合歓はそれを手に取った。何のために買ったのか、自分でも忘れかけていた。
まさきのことを書こうと思ったのだ。
忘れないように。
自分が忘れたら、この子には何も残らないと思ったから。
合歓はノートを開いた。
最初のページに、ゆっくり書いた。
まさきのせいちょうきろく。
字は曲がっていた。ひらがなばかりで、少し恥ずかしかった。でも、今はそれでよかった。
次のページに書いた。
まさき、うまれた。
小さい。
でも泣いた。
よかった。
ちゃんと泣いた。
書きながら、涙が落ちた。インクが少し滲んだ。
合歓はまさきを抱き上げた。窓の外には、斜め向かいの家の灯りがまだあった。知らない家。知らない町。知らない人たち。何も分からない外の世界。
怖かった。
けれど、村よりは怖くないと思った。
少なくとも、この家には鍵がある。
合歓はまさきの顔を見た。白い髪。薄い眉。小さな口。村で何と言われたとしても、彼ならきっと、きれいだと言った。
「着いたよ」
合歓は言った。
返事はない。
まさきは泣き疲れたのか、また眠りかけていた。
「おとうさんが見つけてくれた家だよ」
合歓はそう言って、部屋の真ん中に座った。
その夜、雨が降った。
天井のどこかから、一滴だけ水が落ちた。畳に小さな染みができた。彼がいたら、やっぱり雨漏りしてるじゃん、と合歓は言っただろう。彼は、直す、と答えただろう。
合歓は古い鍋をその下に置いた。
ぽつん、と音がした。
その音を聞きながら、合歓はまさきを抱いて眠った。
逃げることは悪いことだと、まだ心のどこかで思っていた。
けれど、その夜だけは、逃げてきてよかったと思った。
この子が泣いても、誰も怒鳴らなかった。
誰も戸を叩かなかった。
誰も祈れとは言わなかった。
ただ雨の音と、赤ん坊の息と、古い家の軋む音だけがあった。
合歓は半分眠りながら、胸の中で彼に謝った。
三人では来られなかった。
ごめんね。
でも、着いたよ。
この子だけは、連れてきたよ。
それから十七年後、そのノートは押し入れの奥の箱から見つかることになる。
表紙の花は色褪せ、紙は湿気を吸い、ところどころ字は滲んでいた。
そこには、合歓が書けた日だけの記録があった。まさきが熱を出した日。初めて立った日。咳が止まらなくて怖かった日。うどんを食べた日。学校へ行った日。お金が足りなくて泣きそうになった日。彼の名前を書けなかったこと。村のこと。火のこと。黒く曲がった腕のこと。
そして、短い一文。
まさきを、お父さんにだっこしてもらった。
ほんとうは、だっこじゃないかもしれない。
でも、そういうことにした。
だって、まさきのお父さんだから。
その一文を読む少年は、まだ自分が何になるのかを知らない。
母を楽にするために医者になろうとしていた少年は、その夜、初めて知ることになる。
父は、病気で息ができなくなったのではない。
母は、ただ若くして倒れたのではない。
村は、事故で焼けたのではない。
そして、死者は黙っているだけではない。
誰かがその死因を誤れば、二度目の死を迎えるのだと。
