離縁の朝まで、あなたの傷に花を植える

第9話 最後の傷の在り処

 第十日目の夜明け、雨葉町には鳥の声がなかった。いつもなら軒先を渡る雀の羽音まで、墨色の霧に吸われている。

 旧温室から伸びた黒根は、道の石畳を押し上げ、御神木の根元へ絡みついていた。霧はいつもの白ではなく、墨を薄く溶いたように重い。優里は白萩の枝を抱え、傷移し榊の前に立った。

「最後は白萩です。傷跡を抱えたまま、新しい土へ根を下ろす草」

 奨は頷いた。顔色は悪い。それでも、これまでのように前へ出て命令だけを並べるのではなく、優里の横へ並んだ。

「俺は流れを止める。君は穴を読む。順番は、君が決めてくれ」

 頼む、という言葉が、ちゃんと含まれていた。

 優里は草守り糸で白萩を結ぶ。十本目の芯棘は他の九本より細く、けれど深かった。幹へ触れた瞬間、掌に冷たい痛みが走る。痛みそのものではない。誰にも言われず、誰にも聞かれず、長い年月で硬くなった沈黙の形だった。触れた指先から、言葉になれなかったものの冷たさが上ってくる。

 芯棘が半分ほど抜けた時、旧温室の黒根が一斉に鳴った。

『返せ』
『苦しみを、誰かひとりへ返せ』

 地面が裂け、御神木と旧温室を黒い温室のような結界が包む。優里の足元から白萩の露だけが、細い道を作って奥へ続いていた。

「陽基さん、北側の道が沈みます!」

 優里が露の流れを読んで叫ぶと、陽基はすぐに笛を鳴らした。

「高台へ! 恋奈、名簿!」

「避難所へ入った人から札を返してください。まだ戻っていない家は三軒です」

 恋奈は震える声を押し殺し、住民を数える。聖梨は祓刀で道を塞ぐ黒棘を払い、淑は歴代の契約書を抱えて御神木の前へ進んだ。

「燃やしはしない。なかったことにはしない」

 淑は膝をつき、白い紙へ署名した。

「久世家前当主、久世淑の名において、傷嫁の制度を廃する。記録は残す。責任も残す。だが、誰か一人へ負わせる仕組みは、ここで終わらせる」

 その言葉に、黒根が怒ったように跳ねた。

 奨が優里の腕を掴み、結界の外へ押し出す。

「君は外へ」

「奨さん」

「残ってほしいとは言わない。自由に帰れ。契約にもそう書いた」

 黒棘が彼の背を貫いた。代受けの印はもうない。すべてを受け切る術はないはずなのに、奨は自分の身体を盾にして、わずかな時間を稼ごうとしていた。死ぬためではない、と信じたいのに、その背中はまだ古い癖で前へ出ていた。

 優里は一度だけ外へ弾かれた。けれど、膝をついた場所の白萩に露が宿る。水滴が草葉を伝い、結界の裏側へ細い曲線を描いた。

「逃げ道じゃない。戻る道ですね」

 優里は白萩の露を追い、別の根の隙間から結界内へ踏み込んだ。

 奨は黒棘に縫い止められたまま、目を見開く。

「どうして戻った」

「十個目です」

 優里は黒い蔓をかき分け、奨の前へ立った。

「傷の在り処を教えてよ。十個目が、まだです」

 奨の唇が震えた。嘘蔓はもう彼を縛らない。だからこそ、嘘をつかずに言うには力が要る。

「俺は、許されてはいけない」

 黒根の音が少しだけ鎮まった。

「君を見捨てた。聖梨の傷も、町の噂も、止められたのに止めなかった。そんな俺が幸せを望めば、また誰かを傷つける。だから、俺は……」

「許されるかどうかを、傷つけた側が決めないでください」

 優里の声は怒鳴り声ではなかった。だが、御神木の枝に残った露が震えるほど、はっきりしていた。

「私が怒る時は聞いてください。町が誰か一人を犯人にしそうなら止めてください。あなたが自分を罰して消えようとしたら、残された人がまた傷を拾います」

 黒棘の先が、奨の胸から少しずつ抜ける。

「死んで終わらせないで。生きて、償い続けて」

 奨は目を伏せた。涙ではなく、長く止めていた息が落ちたように見えた。

「……手を、貸してほしい」

「はい」

 優里は白萩の糸を引き、奨は傷守りの力で痛みの流れをほどいた。最後の芯棘が抜ける。十本目の穴へ白萩の記憶が入り、幹に金色の筋が走った。

 それでも荊守は消えなかった。

『では、苦しみを誰へ渡せばよい』

 幼い声にも、老いた声にも聞こえた。たくさんの人の沈黙が混じった声だった。

 優里は歴代の傷嫁の日記を白萩の根元へ並べた。恋奈が集めた住民の榊葉が続く。聖梨の証言、淑の廃止文、奨が十夜かけて差し出した傷の言葉。露は一枚一枚を渡り、黒根の中へ染み込んでいった。

「一人へ渡さない」

 優里は答えた。

「聞ける人が聞きます。直せる人が直します。残る痛みは、土へ下ろします。苦しみが心に刺さる棘になる前に、言葉にして、分けて、育て直します」

 高台の住民たちが榊葉を握りしめた。

「確かめずに噂を信じました」
「弱いと言えず、御神木へ預けました」
「誰か一人が悪ければ楽だと思いました」

 声はきれいではなかった。泣き声も、詰まる声もあった。それでも自分の言葉だった。

 黒い温室が崩れ始める。荊守の蔓は人の形を保てなくなり、最後に小さな種となって白萩の根元へ落ちた。

 奨が優里を見た。

「俺は、君に……」

 言いかけて、彼は口を閉じる。

「明日の離婚届には署名する。補償も、訂正も、記録公開も、君の返事とは無関係に続ける」

 優里の胸が、少しだけ痛んだ。けれど、その痛みは嫌ではなかった。引き留める言葉より先に、自由を守る行動を選んだのだと分かったから。

 夜、御神木の傷は消えていなかった。十本の金色の筋が幹へ残り、過去をなかったことにしない印のように光っていた。

 その根元で、離縁草が白く開く。

 約束は果たされた。

 明日の朝、二人は夫婦ではなくなる。
【終】