離縁の朝まで、あなたの傷に花を植える

第8話 傷嫁の記録

 第七日目の朝、旧温室の床下から露出した黒根は、町役場が張った封鎖線の内側で脈を打っていた。

 昨夜、聖梨の古傷を開かせた声はもう聞こえない。けれど、根の表面には細かな黒棘が生え、近づく者の足音に合わせて、ざわり、ざわりと擦れた。

「斬れば増える。焼けば怒る。面倒な相手ね」

 聖梨が祓刀の柄を握り直す。陽基は床下へ落とした測定器の数値を見ながら、顔をしかめた。

「旧温室と御神木、地下で完全につながってる。昨日見つけた黒根は、まだ枝の一本だ。本体はもっと深い」

 優里は黒根のそばに膝をつき、当帰の葉へ朝露を受けた。水滴が葉脈をたどり、根の方へ吸い寄せられていく。戻れなかった名を呼ぶような流れだった。

「今日は、失ったものを戻す日です」

 久世家の地下蔵が開かれたのは、その昼だった。

 淑は長い鍵束を持ち、久世家の奥へ優里たちを案内した。土壁に囲まれた蔵には、歴代の契約書、祝言の記録、傷移し榊を守った妻たちの日記が並んでいる。表向きの帳面には、どの妻も「町を救った誉れ高い女性」とだけ記されていた。

 しかし日記の紙は違った。

『逃げたいと言えば、夫が困ると思った』

『名を残さぬなら、私の痛みは誰のものになる』

『町は救われた。けれど私は、救われたことがない』

 優里は当帰を御神木の第七の芯棘へ結び、日記に残された名を一つずつ読み上げた。名を呼ぶたび、御神木の幹にこびりついた黒い染みが薄くなり、金色の筋へ変わっていく。

 淑はその光を見ながら、唇を強く結んでいた。

「私は十年前、雨森家に草守りの血が残っていることを知っておった」

 誰も口を挟まなかった。

「封印が弱っていることも知っていた。閉鎖すべきだった。だが学校祭の準備で町中が集まる時期だった。久世家の術が知られれば、恐れが広がる。そう考え、短い点検で済ませようとした」

 優里は、指先で日記の角を撫でた。

「事故のあと、私が町を出たのは、荊守に選ばれないためでもあったんですね」

「……そう言えば聞こえはよい。実際は、そなたの居場所を奪ったのじゃ。守ると言いながら」

 淑は腰を折った。許しを乞う形ではなく、責任の重さを床へ置くような礼だった。

「傷嫁の制度を廃する。記録は消さぬ。補償も、訂正も、久世家の名で行う」

 優里はすぐに頷かなかった。ただ、日記の箱を閉じずに言った。

「消さないでください。きれいな話に直さないでください」

「誓う」

 その夜、奨は小さな木箱を抱えて食卓へ来た。

「七つ目の傷だ」

 箱の中には、出されなかった手紙が束になっていた。宛名はどれも、雨森優里へ、だった。

「君が町を出てから、何度も書いた。噂を信じるなと書いたものもある。俺が説明するべきだと書いたものもある。だが、淑の命令を理由にして、一通も出さなかった」

「読みなさい、とは言わないんですね」

「それを決めるのは君だ」

 優里は箱を受け取った。読むか、燃やすか、土へ埋めるか。今の自分には、まだ決められない。決められないまま持っていていいのだと、初めて思えた。

「預かります。返事は、育つまで待ってください」

 第八日目、優里は竜胆を第八の芯棘へ結んだ。

 苦い香りが御神木の周囲へ広がる。聖梨の傷から採れた棘片を竜胆の葉に移すと、言雫が震えた。陽基の復元した映像、恋奈の時刻表、傷嫁の日記の記述が重なり、十年前の旧温室が露の中へ浮かび上がる。

 床下の封印が裂け、黒根が草守りの優里へ伸びた。聖梨が優里を突き飛ばし、代わりに棘を浴びる。奨が窓を割り、二人を抱えて外へ出る。優里は倒れた聖梨へ薬草を当て、震える手で血を止めようとしていた。

 優里が聖梨を襲った場面は、どこにもなかった。

「私、あなたに助けられてたんだ」

 聖梨は自分の腕を見下ろし、悔しそうに息を吐いた。

「覚えていない私が、英雄みたいな顔はできない。でも、目覚めたあとに噂を強く否定できなかった。それは私の責任」

「覚えていなかったことまで背負わなくていいです」

「今は覚えた。今から言う責任は、私にある」

 聖梨はそう言って、恋奈の作る町への説明文に証言を加えた。

 その夜、奨は父の話をした。

「父は御神木の負担を受け続けて死んだ。俺は、誰も犠牲にしない当主になると誓った。なのに結局、自分一人を差し出す方法しか考えられなかった」

 左手が茶碗を持ったまま止まる。

「父と違う人間になるつもりで、父と同じ背中しか選べなかった」

 優里は竜胆茶を差し出した。

「同じ傷を持つことと、同じ選び方を続けることは別です。苦くても、次の飲み方は変えられます」

 第九日目、桔梗のつぼみが朝の光で開いた。

 恋奈は町役場の掲示板と公式文書に、十年前の時系列を掲出した。陽基の復元映像、聖梨の証言、淑と奨の陳述、教師たちの聞き取り。事実、伝聞、推測は分けられ、優里が聖梨を襲ったという噂は正式に否定された。

 同窓会で噂を口にした人々も、順に謝りに来た。

「訂正を、十年前と同じ速さで広めてください」

 優里はそう答えた。許します、とは言わなかった。謝罪の手紙は、読みたい時に読む箱へしまうことにした。

 桔梗を第九の芯棘へ結ぶと、御神木の枝から塞がれていた声が流れ出した。確かめなかった後悔。黙った怖さ。誰か一人を悪者にすれば楽だったという弱さ。住民たちは榊葉を握り、それぞれの言葉で引き取っていく。

 夜、離縁草につぼみがついた。

 奨はそれを見つめたまま、長く黙っていた。

「九つ目の傷だ」

「はい」

「第十一日目、君が町を去るかもしれない。それが怖い」

 真実鈴が、小さく一音だけ鳴った。

「残ってほしいとは言わない。言わないと決めた。だが、離れる朝を想像すると、息が浅くなる」

 優里は答えを返さなかった。返せば、契約の形が変わってしまう気がした。代わりに奨の手へ桔梗色の包帯を巻く。

「明日の朝、最後の言雫接ぎです」

「ああ」

「十個目の傷も、忘れないでください」

 奨は頷いた。

 その時、旧温室の方角で地面が盛り上がった。九本の芯棘がほどけたことで、押さえられていた最後の芯棘が姿を現したのだ。

 黒根は温室の骨組みを持ち上げ、御神木へ向かって伸びていく。

 離縁草の白いつぼみが、まだ開かないまま震えていた。
【終】