第7話 嘘をつくたび夫婦は近づく
第六日目の朝、久世家の座敷には、墨の匂いと薄荷の匂いが同じ濃さで満ちていた。夜のうちに書き直した契約書は、まだ乾ききらず、畳の上で静かに息をしているようだった。
卓の上には、昨夜、優里が書き足した改定契約書が置かれている。奨は背に包帯を巻いたまま正座し、恋奈は証人として朱肉の蓋を開けた。淑は上座で黙っていたが、古い掟を守る時の鋭さではなく、初めて自分の手元を疑っている人の沈黙だった。
「確認します」
恋奈が紙を読み上げる。
「御神木の負担を優里さんと奨さんだけで抱えないこと。住民へ戻すのは身体の痛みではなく、預けた記憶、責任、後悔を言葉として返すこと。久世家は記録を公開すること。終了日は第十日目から延ばさないこと」
「はい」
優里が頷くと、奨も短く答えた。
「異議はない」
署名の筆が三つ並ぶ。最後に恋奈が印を押すと、これまで二人の手首にまとわりついていた嘘蔓がするするとほどけ、畳の目へ白い根を伸ばした。根は奨と優里だけでなく、恋奈、淑、庭で待つ陽基と聖梨の足元まで細く届く。
陽基が障子の隙間から覗き込んだ。
「おお、参加型になった。新婚限定だった蔓が、町内会仕様に」
「言い方」
恋奈が淡々と注意する。
優里は笑いそうになりながら、薄荷の鉢を抱えて庭へ出た。笑えるほどには、誰も完全には壊れていない。その事実に、少しだけ救われた。第六の芯棘は、御神木の胸元に刺さった黒い息のようだった。触れれば喉が詰まる。言えなかった言葉が、幹の奥で固まっている。
「薄荷は、息を通します。痛みを軽くする薬ではなく、詰まったものを外へ出すための葉です」
奨は幹に手を添えた。背中の傷が疼いたのだろう、眉がわずかに寄る。けれど彼は、いつものように手順を命じなかった。
「俺は流れを支える。順番は君が決めてくれ」
優里は薄荷の茎を草守り糸で結び、芯棘の根元へ言雫を落とした。朝露は鋭く弾けず、葉脈に沿って細い曲線を描く。薄荷の香りが御神木の周囲に広がり、見えない誰かの息が、ようやく胸から抜けるような音がした。
黒い芯棘が抜けると、幹には六本目の金の筋が残った。
昼過ぎ、町役場の広間には、雨葉町の住民が集まった。噂をした者、見て見ぬふりをした者、御神木へ願いを預けてきた者。顔ぶれは重く、声は少ない。
恋奈は正面の机に時系列表を置いた。
「本日話すことは、事実、推測、未確認を分けます。感情は否定しません。ただし、伝聞を事実として扱うことはしません」
奨はその隣へ立った。背筋は伸びているが、優里には分かる。彼は今すぐ一人で全部背負う言葉を口にしたがっている。
「十年前、旧温室の危険を知りながら、閉鎖判断を遅らせた責任が久世家にあります。事故後、俺は訂正できる位置にいながら、沈黙しました」
広間がざわめく。
奨は続けようとした。おそらく、「責任はすべて自分にある」と。優里は薄荷の葉を一枚、彼の前へ置いた。奨の言葉が止まる。
「今日は、奨さんひとりの謝罪会ではありません」
優里は住民へ向き直った。
「傷移し榊は、痛みを消す木ではありません。預かる木です。苦しみが心に刺さる棘になるのは、誰か一人へ押しつけて、残りの人が黙った時です」
恋奈が榊葉を一人一枚ずつ配った。葉の上に浮かぶ露は、それぞれ違う色をしていた。
最初に声を上げたのは、商店街の菓子屋の主人だった。
「十年前、聞いた話を確かめずに客へ喋った。面白半分じゃないと言いたかったが、今思えば面白がっていた」
葉から小さな黒棘が抜け、ぽろりと畳へ落ちる。
次に、子を亡くした老女が泣きながら言った。
「家族へ寂しいと言えず、御神木へばかり言った。誰にも迷惑をかけないつもりで、木にだけ迷惑をかけていた」
その言葉を聞いて、優里の胸も痛んだ。彼女自身も、苦しみを「もう済んだこと」と土へ埋めてきた一人だったからだ。
住民の声が一つずつ広間を満たすたび、窓の外の庭木から細い黒棘が抜けていった。痛みが身体へ戻るのではない。言葉が本人の手の中へ戻っていく。
終盤、優里はふらついた。朝の言雫接ぎから説明会まで、息を整える暇がなかった。奨が反射的に腕を伸ばす。
「休め」
「平気です」
言った瞬間、白い嘘蔓が優里の足首を奨の足元へ引っ張った。優里は前につんのめり、奨の胸元へ額をぶつける。
「……平気ではありませんでした」
広間に小さな笑いが起きる。
奨は咳払いをした。
「俺は動揺していない」
今度は奨の手首から蔓が伸び、優里の袖へ絡んだ。陽基が得意げに設置していた真実鈴が、かあん、と必要以上に明るく鳴る。
「真実鈴、感度良好!」
「陽基さん、今は黙ってください」
恋奈の声に、広間の笑いがさらに増えた。重かった空気が、少しだけ息をした。
夜、久世家の食卓には薄荷を入れた吸い物が出た。淑が「薬くさい」と文句を言いかけ、優里に見つめられて黙って飲む。
奨は椀を置き、静かに言った。
「第六の傷を話す」
優里は箸を止める。
「俺は、助けてと言えない。命令はできる。役割も渡せる。だが、自分が苦しい時に頼る言葉だけが喉で止まる」
真実鈴は鳴らなかった。
「父が死んだ時も、十年前も、昨日も。助けてほしいと言う前に、誰を逃がすか、何を隠すか、どこまで自分で耐えるかを考えた」
優里は薄荷の葉を一枚、彼の椀へ浮かべた。
「やっと治療できる傷を出しましたね」
「治るのか」
「一回で治る薬はありません。でも、練習ならできます」
奨は少し迷い、箸を置いた。
「明日も、手を貸してほしい」
「それは昨日も聞きました」
「では、もう一つ。今夜は背の包帯を替えてほしい。自分でやると、届かない」
優里は瞬きをした。小さなことだった。けれど奨にとっては、刃を渡すような頼みなのだと分かった。
「はい。薄荷の後は忍冬も使います」
嘘蔓は動かず、真実鈴も沈黙した。
その時、外から聖梨の鋭い声が飛んだ。
「旧温室の床が抜けた!」
続いて陽基の声が響く。
「解体じゃない、安全調査中だ! でも下に、御神木へ続くでかい黒根がある!」
優里と奨は同時に立ち上がった。庭の向こう、旧温室の方角で地面が低く唸っている。
夜風に乗って、湿った声が聞こえた。
――次の傷嫁を返せ。
薄荷の香りが、急に苦くなった。
【終】
第六日目の朝、久世家の座敷には、墨の匂いと薄荷の匂いが同じ濃さで満ちていた。夜のうちに書き直した契約書は、まだ乾ききらず、畳の上で静かに息をしているようだった。
卓の上には、昨夜、優里が書き足した改定契約書が置かれている。奨は背に包帯を巻いたまま正座し、恋奈は証人として朱肉の蓋を開けた。淑は上座で黙っていたが、古い掟を守る時の鋭さではなく、初めて自分の手元を疑っている人の沈黙だった。
「確認します」
恋奈が紙を読み上げる。
「御神木の負担を優里さんと奨さんだけで抱えないこと。住民へ戻すのは身体の痛みではなく、預けた記憶、責任、後悔を言葉として返すこと。久世家は記録を公開すること。終了日は第十日目から延ばさないこと」
「はい」
優里が頷くと、奨も短く答えた。
「異議はない」
署名の筆が三つ並ぶ。最後に恋奈が印を押すと、これまで二人の手首にまとわりついていた嘘蔓がするするとほどけ、畳の目へ白い根を伸ばした。根は奨と優里だけでなく、恋奈、淑、庭で待つ陽基と聖梨の足元まで細く届く。
陽基が障子の隙間から覗き込んだ。
「おお、参加型になった。新婚限定だった蔓が、町内会仕様に」
「言い方」
恋奈が淡々と注意する。
優里は笑いそうになりながら、薄荷の鉢を抱えて庭へ出た。笑えるほどには、誰も完全には壊れていない。その事実に、少しだけ救われた。第六の芯棘は、御神木の胸元に刺さった黒い息のようだった。触れれば喉が詰まる。言えなかった言葉が、幹の奥で固まっている。
「薄荷は、息を通します。痛みを軽くする薬ではなく、詰まったものを外へ出すための葉です」
奨は幹に手を添えた。背中の傷が疼いたのだろう、眉がわずかに寄る。けれど彼は、いつものように手順を命じなかった。
「俺は流れを支える。順番は君が決めてくれ」
優里は薄荷の茎を草守り糸で結び、芯棘の根元へ言雫を落とした。朝露は鋭く弾けず、葉脈に沿って細い曲線を描く。薄荷の香りが御神木の周囲に広がり、見えない誰かの息が、ようやく胸から抜けるような音がした。
黒い芯棘が抜けると、幹には六本目の金の筋が残った。
昼過ぎ、町役場の広間には、雨葉町の住民が集まった。噂をした者、見て見ぬふりをした者、御神木へ願いを預けてきた者。顔ぶれは重く、声は少ない。
恋奈は正面の机に時系列表を置いた。
「本日話すことは、事実、推測、未確認を分けます。感情は否定しません。ただし、伝聞を事実として扱うことはしません」
奨はその隣へ立った。背筋は伸びているが、優里には分かる。彼は今すぐ一人で全部背負う言葉を口にしたがっている。
「十年前、旧温室の危険を知りながら、閉鎖判断を遅らせた責任が久世家にあります。事故後、俺は訂正できる位置にいながら、沈黙しました」
広間がざわめく。
奨は続けようとした。おそらく、「責任はすべて自分にある」と。優里は薄荷の葉を一枚、彼の前へ置いた。奨の言葉が止まる。
「今日は、奨さんひとりの謝罪会ではありません」
優里は住民へ向き直った。
「傷移し榊は、痛みを消す木ではありません。預かる木です。苦しみが心に刺さる棘になるのは、誰か一人へ押しつけて、残りの人が黙った時です」
恋奈が榊葉を一人一枚ずつ配った。葉の上に浮かぶ露は、それぞれ違う色をしていた。
最初に声を上げたのは、商店街の菓子屋の主人だった。
「十年前、聞いた話を確かめずに客へ喋った。面白半分じゃないと言いたかったが、今思えば面白がっていた」
葉から小さな黒棘が抜け、ぽろりと畳へ落ちる。
次に、子を亡くした老女が泣きながら言った。
「家族へ寂しいと言えず、御神木へばかり言った。誰にも迷惑をかけないつもりで、木にだけ迷惑をかけていた」
その言葉を聞いて、優里の胸も痛んだ。彼女自身も、苦しみを「もう済んだこと」と土へ埋めてきた一人だったからだ。
住民の声が一つずつ広間を満たすたび、窓の外の庭木から細い黒棘が抜けていった。痛みが身体へ戻るのではない。言葉が本人の手の中へ戻っていく。
終盤、優里はふらついた。朝の言雫接ぎから説明会まで、息を整える暇がなかった。奨が反射的に腕を伸ばす。
「休め」
「平気です」
言った瞬間、白い嘘蔓が優里の足首を奨の足元へ引っ張った。優里は前につんのめり、奨の胸元へ額をぶつける。
「……平気ではありませんでした」
広間に小さな笑いが起きる。
奨は咳払いをした。
「俺は動揺していない」
今度は奨の手首から蔓が伸び、優里の袖へ絡んだ。陽基が得意げに設置していた真実鈴が、かあん、と必要以上に明るく鳴る。
「真実鈴、感度良好!」
「陽基さん、今は黙ってください」
恋奈の声に、広間の笑いがさらに増えた。重かった空気が、少しだけ息をした。
夜、久世家の食卓には薄荷を入れた吸い物が出た。淑が「薬くさい」と文句を言いかけ、優里に見つめられて黙って飲む。
奨は椀を置き、静かに言った。
「第六の傷を話す」
優里は箸を止める。
「俺は、助けてと言えない。命令はできる。役割も渡せる。だが、自分が苦しい時に頼る言葉だけが喉で止まる」
真実鈴は鳴らなかった。
「父が死んだ時も、十年前も、昨日も。助けてほしいと言う前に、誰を逃がすか、何を隠すか、どこまで自分で耐えるかを考えた」
優里は薄荷の葉を一枚、彼の椀へ浮かべた。
「やっと治療できる傷を出しましたね」
「治るのか」
「一回で治る薬はありません。でも、練習ならできます」
奨は少し迷い、箸を置いた。
「明日も、手を貸してほしい」
「それは昨日も聞きました」
「では、もう一つ。今夜は背の包帯を替えてほしい。自分でやると、届かない」
優里は瞬きをした。小さなことだった。けれど奨にとっては、刃を渡すような頼みなのだと分かった。
「はい。薄荷の後は忍冬も使います」
嘘蔓は動かず、真実鈴も沈黙した。
その時、外から聖梨の鋭い声が飛んだ。
「旧温室の床が抜けた!」
続いて陽基の声が響く。
「解体じゃない、安全調査中だ! でも下に、御神木へ続くでかい黒根がある!」
優里と奨は同時に立ち上がった。庭の向こう、旧温室の方角で地面が低く唸っている。
夜風に乗って、湿った声が聞こえた。
――次の傷嫁を返せ。
薄荷の香りが、急に苦くなった。
【終】



