離縁の朝まで、あなたの傷に花を植える

第6話 成功は分けても、痛みは渡さない人

 第五日目の朝、久世家の座敷には薬草の匂いが満ちていた。

 奨はうつ伏せに寝かされ、背中に白布をかけられている。昨夜、黒棘に裂かれた傷は浅くない。それでも彼は夜明けの鐘が鳴る前に肘を立てた。

「御神木へ行く」

「行きません」

 優里は、忍冬の葉をすり鉢で潰しながら即答した。冬を越えて緑を保つ蔓草は、長く続く痛みに寄り添う草だ。今日の芯棘には、これを結ぶと決めていた。

「傷守りが支えなければ、第五の芯棘は暴れる」

「だからって、背中を開いたまま歩く人がありますか」

「歩ける」

 その一言で、枕元の真実鈴がちりん、と小さく鳴った。

 奨は目を逸らす。優里はすりこ木を置き、布越しに彼の肩を押した。

「歩けない、でしょう」

「……立てないほどではない」

「言い換えで逃げない」

 廊下にいた陽基が、抱えた工具箱を胸に当ててうなずく。

「今のは技術的に嘘寄りですね。真実鈴、控えめに警告音を出しました」

「役に立つのか立たないのか分からない道具ね」

 聖梨が呆れた声で言いながらも、奨の枕元へ木刀を置いた。逃亡防止用、という札が貼ってある。

 結局、第五の言雫接ぎは、奨を御神木の根元に座らせたまま行うことになった。恋奈が役場から借りた担架で運び、淑は不満そうに見守ったが、反対はしなかった。

 夜明けの御神木は、昨夜より明らかに黒い。第四の芯棘がほどけた穴から、細い黒根が幹の内側を探るように蠢いている。

 優里は忍冬の葉を草守り糸で束ね、第五の芯棘へ近づけた。奨は片膝を立てようとして、痛みに息を詰まらせる。

「動かないで。あなたの役目は命令じゃなくて、流れを止めることです」

「それは、横になってでもできる仕事か」

「できます。成功を分け合うつもりなら、みっともない姿も分けてください」

 奨は反論しなかった。

 優里が棘を抜く。黒い痛みが噴き上がり、忍冬の葉が一瞬で煤けた。だが、奨が掌を幹へ当てると、暴れた流れは彼ひとりへ向かわず、優里の結んだ糸を伝って地面へ逃げた。

 冬を越す蔓の記憶が、御神木へ入っていく。

 ひとりで耐えきるのではなく、根を張り、絡み、季節をやり過ごす記憶。

 第五の芯棘は、乾いた音を立ててほどけた。

 その瞬間、奨の背から黒い術線が浮き上がった。家印から御神木へ伸びる線は、契約書の文字とは違う古い紋を描いている。

 陽基が顔色を変え、測定器をかざした。

「これ、契約の隠し条項じゃない。久世家当主だけが発動できる単独術です。たぶん、代受けの印」

 淑の扇がぴたりと止まった。

 優里は奨を見た。

「代受け?」

 陽基が言葉を選びながら続ける。

「第十日目に御神木の負担を当主へ集める術。傷嫁を使わない代わりに、奨が全部受ける。成功すれば町は残る。本人は……かなり危ない」

 風が止まったようだった。

 優里の胸の奥で、昨夜の問いがもう一度割れる。町に、私も入っていましたか。今度は別の形で、同じ問いが奨へ向かう。

「私には、知らせる必要がなかったんですか」

「君を傷嫁にしない方法が、それしかないと思った」

「協力と言いながら、自分の死に方だけは決めていたんですね」

 奨は唇を結ぶ。

「君を守るためだった」

 真実鈴は鳴らない。彼は本気でそう思っている。

 だからこそ、優里は怒った。

「成功だけ一緒に受け取らせて、あなたの葬式を私たちへ押しつけるつもりでしたか」

「違う」

「違わない。妻ひとりを犠牲にする古い掟と、当主ひとりを犠牲にする新しい方法。名前が違うだけです」

 淑が低く言う。

「当主が背負えば、町は乱れぬ」

「乱れないように見せるために、一人を折るんですね」

 優里は振り向いた。淑は返す言葉を失う。

「私の選択まで奪って守った顔をしないでください」

 奨の肩がわずかに震えた。怒りではない。背中の痛みでもない。初めて、誰かに死ぬ覚悟を叱られた人の震えだった。

 しばらくして、奨は懐から黒ずんだ家印を取り出した。久世家当主の印。古い血と祈りが染みた、小さな石印だった。

「祖母」

 淑は目を伏せた。

「好きにしなさい。ただし、捨てた後の責任も背負いなさい」

「背負う。ひとりではなく」

 奨は水鉢へ家印を沈めた。優里が忍冬の茎を水面へ浮かべると、黒い術線がぷつりぷつりと切れていく。

 御神木が大きく軋み、空へ細い葉を震わせた。

 夜。食卓は昨日より質素だった。粥、香の物、薬草茶。奨は座布団を二枚重ね、痛みをごまかせない顔で座っている。

「第五の傷を話す」

 彼は背中の布を少し外した。優里は目を逸らさない。無数の古傷は、昨夜ついたものだけではなかった。細い棘痕、焼けた痕、爪で抉ったような痕。年月の違う傷が、地図のように重なっている。

「父が死んだ後、御神木から漏れる痛みを少しずつ俺へ移した。誰かを選ぶくらいなら、俺が耐えればいいと思った」

「誰も選ばないために、自分を選んだんですね」

「そうだ」

 優里は忍冬の膏薬を指に取り、傷の端へそっと塗った。

「耐える人を一人決めた時点で、もう同じです」

 奨は小さく息を吐く。

「俺は、分けるのが得意なつもりだった。仕事も、成果も、責任も。だが痛みだけは、渡してはいけないと思っていた」

「痛みは丸投げするものでも、抱え込むものでもありません。どこにあるか教えて、どう扱うか一緒に決めるものです」

 真実鈴は鳴らなかった。

 奨は優里の手元を見て、初めて弱い声で言った。

「明日も、手を貸してほしい」

 優里は薬の蓋を閉める。

「契約に書いてありますから」

「契約がなくても、頼んでいいか」

 嘘蔓は動かなかった。真実鈴も静かだった。

 優里は少しだけ考え、薬草茶を奨の前へ置いた。

「返事は、明日の働きぶりを見てからです」

 障子の外で、御神木の葉が夜風に揺れた。五本の金色の筋が幹に残り、五本の黒い芯棘がまだ暗く光っている。

 優里は契約書へ新しい条項を書き始めた。

 痛みを、二人だけで抱えないこと。

 住民にも、自分の言葉を返してもらうこと。

 第十日目の終了日は、延ばさないこと。

 証人欄のために恋奈を呼ぶと、彼女は判子を片手に現れ、真面目な顔で言った。

「今度こそ、予約処理ではなく、合意処理ですね」

 優里は頷く。

 奨も、深く頷いた。

 第五の傷は、まだ塞がらない。けれどそこに、ひとり分ではない薬が置かれた。
【終】