第5話 十年前、黙った人たち
第四日目の朝、御神木の根元は、前夜よりも黒かった。
幹から伸びる細い棘は、まるで雨上がりの蜘蛛の巣のように光っている。近づけば、誰かが飲み込んだ言葉が喉の奥で引っかかるような、息苦しい気配がした。
優里は紫蘇の葉を掌に乗せた。表は深い緑、裏は沈んだ赤紫。母は昔、この葉を「怒りを腐らせず、外へ巡らせる草」と呼んでいた。
「今日はこれを使います」
奨は頷き、痛みの流れを押さえるため幹へ手を当てた。いつもなら指示を先に出す彼が、この日は何も言わない。昨日、聖梨の棘片から見えた断片が、二人の間に沈んでいた。
優里は草守り糸で紫蘇を結び、第四の芯棘へ言雫を流した。
露が葉脈を下り、黒い棘穴へ落ちる。
『閉鎖しろ。今ならまだ生徒を出せる』
若い奨の声だった。
『騒ぎにするな。封印を結び直せば済む』
続いた淑の声に、優里の指が止まる。
奨は顔を伏せた。真実鈴は沈黙している。嘘ではない。だが、これまで語られなかったものが、御神木の中で十年分の熱を持っていた。
「事故の前から、危ないと知っていたんですね」
「……知っていた。全部ではない。だが、兆しはあった」
「その言い方、便利です」
優里の声は荒くなかった。だからこそ、紫蘇の葉が強く震えた。
昼、恋奈は町役場の小会議室に、厚い紙束を広げた。
「当時の教師、同級生、救急搬送の記録。噂と推測は横線で分けました。事実として確認できるのは、聖梨さんが棘傷を負ったこと、優里さんが温室内にいたこと、奨さんが窓を割って二人を外へ出したことです」
恋奈の字は整っていた。けれど、その整い方がかえって十年の乱れを浮かび上がらせる。
陽基は古い記録媒体を机に置いた。
「園芸部の定点カメラ。俺、植物の成長を早送りで見るのが好きでさ。温室の棚に固定してた。事故後、学校資料として箱ごと回収されたんだと思う。恋奈が正式に出してくれた」
「映りますか」
「半分壊れてる。でも、時刻情報は残ってる。映像も断片ならいける」
陽基が持ち込んだ小さな機械が唸り、壁にざらついた映像が映った。
十年前の旧温室。床板の前で、淑と十八歳の奨が屈んでいる。若い奨は何度も入口を振り返り、口の形で「閉めよう」と言っていた。淑は首を横に振る。
次の断片では、優里と聖梨が入ってくる。学校祭の準備で、鉢を運んでいたのだろう。優里は棚の苗に水をやり、聖梨は何かを笑っている。
床下が黒く裂けた。
映像はそこで乱れた。音のない光の中で、聖梨が優里を突き飛ばす。優里は倒れた聖梨へ這い寄り、薬草を押し当てている。窓ガラスが砕け、奨が二人を抱えた。
そこで映像は途切れた。
会議室には、機械の冷却音だけが残った。
「優里が襲った場面は、ない」
聖梨が低く言った。
「むしろ、助けてる」
恋奈は唇を結び、時系列表へ新しい線を引いた。
「では、次は誰が隠したかです」
その言葉に、奨が目を閉じた。
夜。久世家の食卓には、淑が用意させた豪華な料理が並んでいた。鯛の塩焼き、山菜の炊き込み飯、澄んだ吸い物。けれど、箸の音はほとんどしない。
嘘蔓は食卓の中央に伸び、低い壁のように葉を茂らせていた。
淑は扇を握りしめている。
「町を守るためでした」
「町には、私も入っていましたか」
優里が尋ねると、淑の皺の深い顔が強張った。
奨が膝の上で拳を握る。
「第四の傷を話す」
優里は箸を置いた。
「身体の傷ではない。俺が選んだ沈黙だ」
奨は、逃げるように視線を逸らさなかった。
「事故の直後、祖母は学校と神社へ根回しをした。超常の力が外へ知られれば、御神木が守れなくなると。俺は反対した。だが、最後には従った。噂を作ったのは俺ではない。だが、訂正できる位置にいたのに黙った。町の秘密と君の居場所を比べて、君を犠牲にした」
真実鈴は鳴らなかった。
鳴らないことが、何より苦しかった。
「町を守るためなら、私一人が犯人でよかった?」
奨の喉が動く。
「あの時の俺は、そう選んだ」
優里は笑わなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、膝の上で手を組み、爪が掌へ食い込むのを黙って受け止めた。
「謝罪で十年が戻るなら、植物に年輪なんて要りません」
淑が何か言いかける。けれど、嘘蔓が扇へ絡みつき、ぴしりと音を立てた。言葉にならない言い訳を、蔓が先に止めたようだった。
重くなった空気を破ろうとしたのか、陽基が食卓脇の蔓へ小型の鋏を当てた。
「えーと、ここ切れば通路が――」
次の瞬間、嘘蔓が陽基の足首へ巻きつき、彼を畳から半分ほど吊り上げた。
「なんで俺だけ高所訓練!?」
「嘘を切って近道しようとしたからです」
恋奈が冷静に言い、聖梨が湯呑みを置く。
「そのまま反省してて」
優里は少しだけ息を漏らした。笑いと呼べるほど明るくはなかったが、張り詰めたものがわずかに緩む。
食後、優里は契約書を開いた。十日を待たずに終える条項はないか。奨が隠したものを、これ以上自分が背負う必要はあるのか。
紙の上で、嘘蔓の細い影が揺れる。
その時、外で鉢の割れる音がした。
雨森苗木店から持ち込んだ南天の鉢が、庭で砕けていた。御神木から伸びた細い黒棘が、土の中を這い、久世家の庭木へ絡んでいる。
「下がれ!」
奨が優里を押しのけた。黒棘が跳ね、彼の背を裂く。
白い着物に、黒と赤が広がった。
優里は息を呑む。奨の背には、今日ついた傷だけではない、無数の古い痕が走っていた。さらに、家印から黒い術線が幹へ向かって脈打っている。
「これは何ですか」
奨は答えない。
答えない背中の向こうで、御神木が低く軋んだ。
第四の芯棘はほどけた。だが、ほどけた穴から出てきたのは、まだ名を持たない次の傷だった。
【終】
第四日目の朝、御神木の根元は、前夜よりも黒かった。
幹から伸びる細い棘は、まるで雨上がりの蜘蛛の巣のように光っている。近づけば、誰かが飲み込んだ言葉が喉の奥で引っかかるような、息苦しい気配がした。
優里は紫蘇の葉を掌に乗せた。表は深い緑、裏は沈んだ赤紫。母は昔、この葉を「怒りを腐らせず、外へ巡らせる草」と呼んでいた。
「今日はこれを使います」
奨は頷き、痛みの流れを押さえるため幹へ手を当てた。いつもなら指示を先に出す彼が、この日は何も言わない。昨日、聖梨の棘片から見えた断片が、二人の間に沈んでいた。
優里は草守り糸で紫蘇を結び、第四の芯棘へ言雫を流した。
露が葉脈を下り、黒い棘穴へ落ちる。
『閉鎖しろ。今ならまだ生徒を出せる』
若い奨の声だった。
『騒ぎにするな。封印を結び直せば済む』
続いた淑の声に、優里の指が止まる。
奨は顔を伏せた。真実鈴は沈黙している。嘘ではない。だが、これまで語られなかったものが、御神木の中で十年分の熱を持っていた。
「事故の前から、危ないと知っていたんですね」
「……知っていた。全部ではない。だが、兆しはあった」
「その言い方、便利です」
優里の声は荒くなかった。だからこそ、紫蘇の葉が強く震えた。
昼、恋奈は町役場の小会議室に、厚い紙束を広げた。
「当時の教師、同級生、救急搬送の記録。噂と推測は横線で分けました。事実として確認できるのは、聖梨さんが棘傷を負ったこと、優里さんが温室内にいたこと、奨さんが窓を割って二人を外へ出したことです」
恋奈の字は整っていた。けれど、その整い方がかえって十年の乱れを浮かび上がらせる。
陽基は古い記録媒体を机に置いた。
「園芸部の定点カメラ。俺、植物の成長を早送りで見るのが好きでさ。温室の棚に固定してた。事故後、学校資料として箱ごと回収されたんだと思う。恋奈が正式に出してくれた」
「映りますか」
「半分壊れてる。でも、時刻情報は残ってる。映像も断片ならいける」
陽基が持ち込んだ小さな機械が唸り、壁にざらついた映像が映った。
十年前の旧温室。床板の前で、淑と十八歳の奨が屈んでいる。若い奨は何度も入口を振り返り、口の形で「閉めよう」と言っていた。淑は首を横に振る。
次の断片では、優里と聖梨が入ってくる。学校祭の準備で、鉢を運んでいたのだろう。優里は棚の苗に水をやり、聖梨は何かを笑っている。
床下が黒く裂けた。
映像はそこで乱れた。音のない光の中で、聖梨が優里を突き飛ばす。優里は倒れた聖梨へ這い寄り、薬草を押し当てている。窓ガラスが砕け、奨が二人を抱えた。
そこで映像は途切れた。
会議室には、機械の冷却音だけが残った。
「優里が襲った場面は、ない」
聖梨が低く言った。
「むしろ、助けてる」
恋奈は唇を結び、時系列表へ新しい線を引いた。
「では、次は誰が隠したかです」
その言葉に、奨が目を閉じた。
夜。久世家の食卓には、淑が用意させた豪華な料理が並んでいた。鯛の塩焼き、山菜の炊き込み飯、澄んだ吸い物。けれど、箸の音はほとんどしない。
嘘蔓は食卓の中央に伸び、低い壁のように葉を茂らせていた。
淑は扇を握りしめている。
「町を守るためでした」
「町には、私も入っていましたか」
優里が尋ねると、淑の皺の深い顔が強張った。
奨が膝の上で拳を握る。
「第四の傷を話す」
優里は箸を置いた。
「身体の傷ではない。俺が選んだ沈黙だ」
奨は、逃げるように視線を逸らさなかった。
「事故の直後、祖母は学校と神社へ根回しをした。超常の力が外へ知られれば、御神木が守れなくなると。俺は反対した。だが、最後には従った。噂を作ったのは俺ではない。だが、訂正できる位置にいたのに黙った。町の秘密と君の居場所を比べて、君を犠牲にした」
真実鈴は鳴らなかった。
鳴らないことが、何より苦しかった。
「町を守るためなら、私一人が犯人でよかった?」
奨の喉が動く。
「あの時の俺は、そう選んだ」
優里は笑わなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、膝の上で手を組み、爪が掌へ食い込むのを黙って受け止めた。
「謝罪で十年が戻るなら、植物に年輪なんて要りません」
淑が何か言いかける。けれど、嘘蔓が扇へ絡みつき、ぴしりと音を立てた。言葉にならない言い訳を、蔓が先に止めたようだった。
重くなった空気を破ろうとしたのか、陽基が食卓脇の蔓へ小型の鋏を当てた。
「えーと、ここ切れば通路が――」
次の瞬間、嘘蔓が陽基の足首へ巻きつき、彼を畳から半分ほど吊り上げた。
「なんで俺だけ高所訓練!?」
「嘘を切って近道しようとしたからです」
恋奈が冷静に言い、聖梨が湯呑みを置く。
「そのまま反省してて」
優里は少しだけ息を漏らした。笑いと呼べるほど明るくはなかったが、張り詰めたものがわずかに緩む。
食後、優里は契約書を開いた。十日を待たずに終える条項はないか。奨が隠したものを、これ以上自分が背負う必要はあるのか。
紙の上で、嘘蔓の細い影が揺れる。
その時、外で鉢の割れる音がした。
雨森苗木店から持ち込んだ南天の鉢が、庭で砕けていた。御神木から伸びた細い黒棘が、土の中を這い、久世家の庭木へ絡んでいる。
「下がれ!」
奨が優里を押しのけた。黒棘が跳ね、彼の背を裂く。
白い着物に、黒と赤が広がった。
優里は息を呑む。奨の背には、今日ついた傷だけではない、無数の古い痕が走っていた。さらに、家印から黒い術線が幹へ向かって脈打っている。
「これは何ですか」
奨は答えない。
答えない背中の向こうで、御神木が低く軋んだ。
第四の芯棘はほどけた。だが、ほどけた穴から出てきたのは、まだ名を持たない次の傷だった。
【終】



