第4話 祓刀の決闘
第三日目の朝、久世家の庭は昨夜の沈黙をそのまま含んだように、白く湿っていた。
優里は御神木の前に膝をつき、雪ノ下の葉を草守り糸で束ねる。肉厚の葉の縁には、細かな露が玉になっていた。出血を抑え、熱を逃がす草。今日の芯棘に必要なのは、怒りでも言い訳でもなく、まず流れ出す痛みを止める力だった。
奨は隣で痛みの流れを抑えている。昨夜、嘘蔓が足首を結んだあとから、彼の言葉は少ない。
「右へ三呼吸、待ってください。根の下がまだ熱い」
優里が言うと、奨は逆らわず頷いた。
「……分かった」
命じるのではなく、従う。たったそれだけのことを、奨は慎重に覚えようとしているようだった。
優里は第三の芯棘へ指をかける。抜いた瞬間、黒い棘の先端がぱきりと割れた。中から現れた筋模様は、まるで傷跡を紙に写したように細かく枝分かれしている。
背後で、聖梨が息を呑んだ。
「……私の写しと同じだ」
彼女は懐から紙束を出した。十年かけて、自分の腕や肩や脇腹に残った棘傷をなぞり続けたものだ。紙の線と、芯棘の先に浮いた黒い筋は、怖いほど重なった。
「優里」
聖梨は紙束を閉じ、まっすぐに優里を見た。
「神社の祓庭へ来て。あなたが草守りとして信用できるか、私の身体と刀で確かめる」
「聖梨、今は――」
奨が止めようとしたが、優里は首を振った。
「行きます」
十年前、誰かが決めた噂のまま、優里は町を出た。今度は違う。疑いを向けられるなら、自分の足でその場に立つ。
「逃げたくないので」
聖梨の口元が、ほんの少しだけ上がった。
雨葉神社の祓庭は、丸い白砂と笹垣に囲まれていた。聖梨は木刀に祓い紙を巻いた祓刀を構え、優里の胸元へ小さな紙札を結ぶ。聖梨の胸にも同じ札が揺れた。
「先に札を落とした方が勝ち。私は祓刀を使う。あなたは庭の草を使っていい」
「本物の刀じゃないんですね」
「本物にしたら、奨が倒れるまで止める」
隅で見守る奨が、否定できずに目を逸らした。陽基は真実鈴を持ち込もうとして恋奈に没収されている。
「危険な検証に余計な音響を足さないでください」
「だって名勝負には効果音が――」
「不要です」
張りつめた空気が、少しだけ緩んだ。
合図は恋奈が出した。
「始め」
聖梨が踏み込む。速い。祓刀が横から流れ、優里の肩口を狙った。優里は一歩退きながら、足元の苔の湿りを見た。聖梨の踏み込みは鋭いが、右足の終わりだけがわずかに遅れる。古傷が、本人も気づかぬほど小さく動きをずらしている。
優里は攻撃しなかった。笹の葉から落ちる露の角度を読み、白砂に残る足跡の深さを見る。風が祓い紙を揺らすたび、聖梨の重心がどちらへ寄るかを覚えた。
二度目の踏み込みで、祓刀が優里の髪先を払う。
「避けてばかり?」
「植物は、急に大木にはなりません」
優里は祓庭の隅に伸びていた細い蔓へ草守り糸を結んだ。足を絡めるのではない。聖梨が次に右へ踏み込む時、刀の柄がわずかに下がる。その一点だけを待つ。
三度目。
聖梨の祓刀が胸元の札へ迫った瞬間、蔓がするりと伸び、柄へ絡んだ。力ではない。葉に溜めた露の重みと、笹のしなりを使った、ほんの一呼吸の遅れ。
優里はその隙に、雪ノ下の葉へ集めた露を聖梨の祓い紙へ落とした。水を含んだ紙札が重くなり、ぽとりと白砂へ落ちる。
「勝負あり」
恋奈の声が響いた。
聖梨は祓刀を下ろし、悔しそうに笑った。
「刀を奪われたのに、斬られた気がしない。変な負け方」
「傷つけるために使ったら、また噂が育ちますから」
優里が答えた時、聖梨の腕の古傷が薄く黒く滲んだ。決闘の熱で、皮膚の奥に残っていた微細な棘片が浮き上がったのだ。
聖梨は自分の腕を見て、顔色を変えた。
「これ、まだ残ってたの」
「触りません。葉に移します」
優里は雪ノ下の葉を一枚差し出し、棘片をそっと受けた。人の身体から記憶を読むのではない。植物へ移した棘に、露がどう流れるかを見る。
葉の上で、言雫が震えた。
黒い蔓が、温室の床下から噴き出す。狙いは優里だった。何も知らない優里の背へ、無数の棘が伸びていた。聖梨が叫び、優里を突き飛ばす。次の瞬間、窓ガラスが砕け、若い奨が血だらけの掌で二人を抱え上げた。
『優里に触るな!』
その声は、聖梨へ向けたものではなかった。
優里は唇を噛んだ。十年、憎むために握ってきた断片の形が、少しだけ変わった。けれど、全部がほどけたわけではない。
夜。久世家の食卓で、奨は耳の後ろを見せた。髪に隠れていた小さな棘痕が、首筋へ黒く残っている。
「第三の傷だ。十年前、温室の黒い根に噛まれた。根が狙っていたのは、草守りの君だった」
「事故の前に、あなたと淑さまは何をしていたんですか」
奨の指が止まった。
「今日は、傷の在り処を一つ話す契約だ」
「一つ話したから、残りを隠していい契約ではありません」
真実鈴は鳴らない。だが、嘘蔓は畳の上で細く震えていた。
その時、奨が優里の手首へ視線を落とした。決闘で擦った小さな傷から、血が滲んでいる。
「薬を塗る」
「自分でできます」
「心配していない。ただ、処置が遅いと効率が悪い」
言い終える前に、嘘蔓が二人の腕を結んだ。廊下で様子を見ていた陽基の真実鈴が、没収されたはずなのに小さく鳴る。
「予備を作っておいた」
「没収します」
恋奈の冷たい声が続いた。
聖梨は湯呑みを片手に立ち上がる。
「夫婦漫才は帰ってからにして。次は、真相と決闘する番でしょ」
彼女は十年分の傷模様を写した紙束を、優里の前へ置いた。
「私も逃げない。思い出せないなら、今から覚える」
優里は紙束へ手を重ねた。
雪ノ下の葉に残った露が、静かに光る。黒い根の先はまだ旧温室の床下へ続いている。傷の形は見え始めた。けれど、誰がそれを隠したのかは、まだ土の中だった。
【終】
第三日目の朝、久世家の庭は昨夜の沈黙をそのまま含んだように、白く湿っていた。
優里は御神木の前に膝をつき、雪ノ下の葉を草守り糸で束ねる。肉厚の葉の縁には、細かな露が玉になっていた。出血を抑え、熱を逃がす草。今日の芯棘に必要なのは、怒りでも言い訳でもなく、まず流れ出す痛みを止める力だった。
奨は隣で痛みの流れを抑えている。昨夜、嘘蔓が足首を結んだあとから、彼の言葉は少ない。
「右へ三呼吸、待ってください。根の下がまだ熱い」
優里が言うと、奨は逆らわず頷いた。
「……分かった」
命じるのではなく、従う。たったそれだけのことを、奨は慎重に覚えようとしているようだった。
優里は第三の芯棘へ指をかける。抜いた瞬間、黒い棘の先端がぱきりと割れた。中から現れた筋模様は、まるで傷跡を紙に写したように細かく枝分かれしている。
背後で、聖梨が息を呑んだ。
「……私の写しと同じだ」
彼女は懐から紙束を出した。十年かけて、自分の腕や肩や脇腹に残った棘傷をなぞり続けたものだ。紙の線と、芯棘の先に浮いた黒い筋は、怖いほど重なった。
「優里」
聖梨は紙束を閉じ、まっすぐに優里を見た。
「神社の祓庭へ来て。あなたが草守りとして信用できるか、私の身体と刀で確かめる」
「聖梨、今は――」
奨が止めようとしたが、優里は首を振った。
「行きます」
十年前、誰かが決めた噂のまま、優里は町を出た。今度は違う。疑いを向けられるなら、自分の足でその場に立つ。
「逃げたくないので」
聖梨の口元が、ほんの少しだけ上がった。
雨葉神社の祓庭は、丸い白砂と笹垣に囲まれていた。聖梨は木刀に祓い紙を巻いた祓刀を構え、優里の胸元へ小さな紙札を結ぶ。聖梨の胸にも同じ札が揺れた。
「先に札を落とした方が勝ち。私は祓刀を使う。あなたは庭の草を使っていい」
「本物の刀じゃないんですね」
「本物にしたら、奨が倒れるまで止める」
隅で見守る奨が、否定できずに目を逸らした。陽基は真実鈴を持ち込もうとして恋奈に没収されている。
「危険な検証に余計な音響を足さないでください」
「だって名勝負には効果音が――」
「不要です」
張りつめた空気が、少しだけ緩んだ。
合図は恋奈が出した。
「始め」
聖梨が踏み込む。速い。祓刀が横から流れ、優里の肩口を狙った。優里は一歩退きながら、足元の苔の湿りを見た。聖梨の踏み込みは鋭いが、右足の終わりだけがわずかに遅れる。古傷が、本人も気づかぬほど小さく動きをずらしている。
優里は攻撃しなかった。笹の葉から落ちる露の角度を読み、白砂に残る足跡の深さを見る。風が祓い紙を揺らすたび、聖梨の重心がどちらへ寄るかを覚えた。
二度目の踏み込みで、祓刀が優里の髪先を払う。
「避けてばかり?」
「植物は、急に大木にはなりません」
優里は祓庭の隅に伸びていた細い蔓へ草守り糸を結んだ。足を絡めるのではない。聖梨が次に右へ踏み込む時、刀の柄がわずかに下がる。その一点だけを待つ。
三度目。
聖梨の祓刀が胸元の札へ迫った瞬間、蔓がするりと伸び、柄へ絡んだ。力ではない。葉に溜めた露の重みと、笹のしなりを使った、ほんの一呼吸の遅れ。
優里はその隙に、雪ノ下の葉へ集めた露を聖梨の祓い紙へ落とした。水を含んだ紙札が重くなり、ぽとりと白砂へ落ちる。
「勝負あり」
恋奈の声が響いた。
聖梨は祓刀を下ろし、悔しそうに笑った。
「刀を奪われたのに、斬られた気がしない。変な負け方」
「傷つけるために使ったら、また噂が育ちますから」
優里が答えた時、聖梨の腕の古傷が薄く黒く滲んだ。決闘の熱で、皮膚の奥に残っていた微細な棘片が浮き上がったのだ。
聖梨は自分の腕を見て、顔色を変えた。
「これ、まだ残ってたの」
「触りません。葉に移します」
優里は雪ノ下の葉を一枚差し出し、棘片をそっと受けた。人の身体から記憶を読むのではない。植物へ移した棘に、露がどう流れるかを見る。
葉の上で、言雫が震えた。
黒い蔓が、温室の床下から噴き出す。狙いは優里だった。何も知らない優里の背へ、無数の棘が伸びていた。聖梨が叫び、優里を突き飛ばす。次の瞬間、窓ガラスが砕け、若い奨が血だらけの掌で二人を抱え上げた。
『優里に触るな!』
その声は、聖梨へ向けたものではなかった。
優里は唇を噛んだ。十年、憎むために握ってきた断片の形が、少しだけ変わった。けれど、全部がほどけたわけではない。
夜。久世家の食卓で、奨は耳の後ろを見せた。髪に隠れていた小さな棘痕が、首筋へ黒く残っている。
「第三の傷だ。十年前、温室の黒い根に噛まれた。根が狙っていたのは、草守りの君だった」
「事故の前に、あなたと淑さまは何をしていたんですか」
奨の指が止まった。
「今日は、傷の在り処を一つ話す契約だ」
「一つ話したから、残りを隠していい契約ではありません」
真実鈴は鳴らない。だが、嘘蔓は畳の上で細く震えていた。
その時、奨が優里の手首へ視線を落とした。決闘で擦った小さな傷から、血が滲んでいる。
「薬を塗る」
「自分でできます」
「心配していない。ただ、処置が遅いと効率が悪い」
言い終える前に、嘘蔓が二人の腕を結んだ。廊下で様子を見ていた陽基の真実鈴が、没収されたはずなのに小さく鳴る。
「予備を作っておいた」
「没収します」
恋奈の冷たい声が続いた。
聖梨は湯呑みを片手に立ち上がる。
「夫婦漫才は帰ってからにして。次は、真相と決闘する番でしょ」
彼女は十年分の傷模様を写した紙束を、優里の前へ置いた。
「私も逃げない。思い出せないなら、今から覚える」
優里は紙束へ手を重ねた。
雪ノ下の葉に残った露が、静かに光る。黒い根の先はまだ旧温室の床下へ続いている。傷の形は見え始めた。けれど、誰がそれを隠したのかは、まだ土の中だった。
【終】



