離縁の朝まで、あなたの傷に花を植える

第10話 離縁の朝、もう一度あなたを選ぶ

 第十一日目の朝、雨葉町には細い雨が降っていた。

 御神木の根元に咲いた離縁草は、夜明けの光を受けても白いままだった。愛が芽生えたから枯れることも、別れを惜しんだから閉じることもない。ただ、約束が果たされた証として、静かに花弁を広げている。

 優里はその花へ水をやり、土の湿りを指先で確かめた。

「律儀な花ですね」

「契約の花だからな」

 奨は隣に立っていた。昨夜の黒棘の傷は包帯に隠れている。顔色はよくない。それでも今日は、誰にも肩代わりさせず、自分の足で町役場へ行くと言った。

 優里は離縁草の横へ、白萩の種をひと粒埋めた。

「終わるための花の隣に、始まるための種です」

 奨は何か言いかけ、口を閉じる。嘘蔓はもうない。真実鈴も、陽基が昨夜のうちに外した。沈黙を判定するものは何もない。

 だからこそ、その沈黙が少し寂しかった。

 町役場の戸籍窓口では、恋奈がいつもの制服で待っていた。目の下には徹夜の跡がある。避難名簿、温室事故の訂正文、久世家記録の公開予定表。昨夜から朝まで、彼女は書類の山を片づけていた。

「おはようございます。今日は予約処理ではなく、お二人の現在の意思確認です」

 恋奈はわざと事務的に言った。けれど声の端が少し震えている。

 優里と奨は、並んで離婚届を差し出した。

「この届出に、外からの強制はありませんか」

「ありません」

「ありません」

 恋奈は二人の顔を順に見てから、受理印を押した。

 ぽん、と乾いた音がした。

 それだけで、十日間の夫婦は終わった。蔓も鈴も花も、二人を引き留めなかった。

 奨はすぐに別の封筒を優里へ渡した。中には、雨森苗木店の債権者へ直接支払われた補償の証明、町外の行政書士と園芸組合員による査定書、温室事故の訂正文、傷嫁制度廃止の公告予定が入っている。

「君の返事とは関係なく、続ける」

「はい。契約は、全部果たされました」

 優里は封筒を受け取った。ありがとう、とはまだ言えなかった。謝罪をすべて許す言葉も、今ここでは選べなかった。

 けれど、受け取ることはできた。

 役場を出ると、奨は久世家の車を呼ばず、雨の中で頭を下げた。

「雨森さん」

 十日ぶりに、名字で呼ばれた。

「どうか、あなたの選びたい道を選んでください」

 丁寧すぎる言葉に、優里は少しだけ笑った。

「久世さんも。今度は、勝手に死ぬ道を選ばないでください」

「肝に銘じる」

 別々の傘が、町役場の門で左右へ分かれた。

 それから一か月、優里は雨森苗木店を試しに開けた。

 最初の客は聖梨だった。彼女は神社の庭へ植える雪ノ下を三鉢買い、「値引きしたら決闘」と真顔で言った。次に陽基が来て、真実鈴改良版の説明を始め、十五分で聖梨に店の外へ追い出された。

 恋奈は昼休みに来て、謝罪文の受け取り箱を置いていった。

「全部すぐ読まなくていい。読みたい時だけでいいから」

 箱は、棚の一番高い場所に置いた。急がなくていい場所があるだけで、胸の奥の棘は少し浅くなる。

 父のいる回復施設へも通った。父は優里の話を最後まで聞き、皺の増えた手で苗木店の鍵を握った。

「店を守るために、人生まで売らなくていい。残るなら、好きで残りなさい」

「うん」

「それと、久世の若いのは、毎週報告書を送ってくる。苗の生育記録みたいに細かい」

 父が苦笑したので、優里も笑った。

 奨は店へ来なかった。来ようと思えば来られる距離なのに、来なかった。その代わり、町の掲示板には毎週、新しい報告が貼られた。温室事故の訂正文は、学校と同窓会名簿に残る連絡先へ送られ、久世家の地下蔵は町の資料室へ移管され、御神木の世話は住民の当番制になった。

 淑は記録から傷嫁たちの名を消さず、むしろ一人ずつ注記を書き加えた。過ちを燃やして灰にしないためだと、恋奈が教えてくれた。

 旧温室跡では、安全確認を終えた後、薬草園の土作りが始まった。聖梨は鍬を刀のように構え、陽基は水やり装置を暴走させ、恋奈が日程表を守らせた。町はまだ不器用だった。けれど、誰か一人に押しつけて黙る町ではなくなりつつあった。

 一か月後の朝、雨が上がった。

 優里が店先の鉢を並べていると、門の前に奨が立っていた。久世家当主の羽織ではなく、無地のシャツ姿で、少しだけ緊張した顔をしている。

「苗を買いに来たのなら、今日は白萩がよく根づきます」

「苗も買う。だが、先に言いたいことがある」

 奨は深く息を吸った。

「御神木のためでも、久世家のためでも、補償のためでもない。契約ではなく、君と暮らしたい」

 優里の手から、空の鉢が少しだけ滑った。奨が受け止め、すぐに返す。受け取っただけで、奪わない手だった。その変化を、優里は見逃さなかった。

「好きだ。十日で君を全部知ったとは言わない。これから、知らない部分を聞き続けたい」

 嘘蔓は出ない。真実鈴も鳴らない。だから優里は、奨の声と、自分の胸の音だけを聞いた。魔法の判定より頼りないのに、今はそれで十分だった。

 店先の露草へ、雨粒が二つ残っていた。片方が葉脈を下り、もう片方と途中で重なる。水滴はひとつになり、細い曲線を描いて土へ落ちた。

「条件があります」

「聞く」

「一つ。痛みも成功も、隠さず相談すること」

「約束する」

「二つ。相手の選択を、守るためという理由で奪わないこと」

「約束する」

「三つ。嘘をついたら、食器洗い十日間」

 奨はまばたきをした。

「三つ目だけ急に軽いな」

「暮らしには、そのくらいが大事です」

 優里は笑って、彼の手を取った。

「私も、あなたと暮らしてみたい。十日ではなく、明日も、その次の日も」

 その瞬間、店の陰から紅白幕が広がった。

「少々早かったかしら」

 淑が澄ました顔で立っている。その後ろで恋奈が婚姻届の用紙を持ち、陽基が新型真実鈴を鳴らそうとして聖梨に手首を掴まれていた。

「婚姻届は営業時間内にお願いします。今度は離婚届を先に書かないでください」

「優里を泣かせたら、次は真剣で決闘だから」

「真実鈴、今なら祝砲仕様で――痛い痛い、聖梨、手首は曲がらない方向がある!」

 奨は額を押さえ、優里は声を上げて笑った。

「愛のある結婚は、愛のない契約より騒がしいですね」

 雨上がりの草葉を、ひとしずくの露が美しい曲線を描いて伝っていく。

 傷の跡を避けるのではなく、そこを道にして。

 今度は誰か一人へ落ちるためではなく、二人で育てる土へ帰るために。
【終】 【完】