透明な羽の君へ

 物心ついたときにはもう、母さんしかいなかった。父さんは、ひよりが生まれて間もなく病気で亡くなったと聞いた。
 俺とひよりは年子で年齢が近かったから、最初はお互い興味を持たなかったらしい。初めて一緒に遊んだ日のことは、母さんから何度も聞かされた。風呂あがり母さんの支度が終わるまで、ひよりはバウンサーに座らされていた。脱衣所の前を、俺が走りながら通り過ぎる。まるでいないいないばあのように、消えてはまた現れる俺のことを見て、ひよりは楽しそうに笑ったらしい。俺もそれを面白がって何度も繰り返していたんだとか。それから俺たちは、けんかしたり仲直りしたりしながら切れない絆を紡いできた。
 中学生のとき母さんが事故で急死した。運転中、電柱に衝突したという自損事故。過労による寝不足か猫でも横切ったのか、原因はわからない。唯一頼れる大人は母さんの妹である叔母だが、仕事でアメリカと日本を行き来する忙しい生活のため、いつでも頼れるわけじゃない。親代わりとして兄の俺がしっかりしなければと、そればかり考えて生きてきた。


「ひより、今週バイトいつだっけ」
「んーと、火曜と土曜かな」
「オッケー。金曜日、空けておいてくれる?」
「いいよ。なんで?」
「友達が遊びに来るんだ。俺が夕飯つくるから一緒に食べようぜ」

 友達とはナツキのことだ。彼女はまず、ひよりに接触したいと言った。そして友人になり、彼氏や結婚のことを聞き出したいという。古風なやり方だと思ったが、円満解決にはいいのかもしれない。
 金曜日。連れてきたナツキを見て、ひよりが目を丸くした。

「お兄ちゃん……彼女いたの」
「いやいやいや、仕事関係で会って仲良くなっただけで、ただの友達!」
「えー残念。片倉ひよりです! お兄ちゃんがお世話になってます」
「はじめまして。ナツキと申します」

 今日のナツキは、ラベンダー色のカーディガンに白いシャツ、グレーのパンツという爽やかな格好をしていた。全体的にゆるっとしているが、だらしなさは感じない。170センチちかい身長と、理知的な見た目のせいかもしれない。
 最初に会ったときは、座った状態だったからここまで身長が高いと思わなかったし、黒ずくめの服で近寄りがたかった。今日は別人みたいだ。今のほうが断然いいじゃんと思う。

「ナツキさんって、大学生なんですか?」
「ううん。働いてる」
「お兄ちゃんの仕事関係っていったらモデルさん? それともヘアメイクさんとか?」
「こらこら、質問攻めしないー」

 何食わぬ顔でシーザーサラダを取り分ける。いつもは和食だが、女子ふたりがいるということで今日はイタリアンにしてみた。ナツキは細い体のどこにそんなに入るんだと思うほど、肉もパスタもよく食べた。

「洸さんって、お料理上手なんですね」
「俺がやらなきゃいけない状況だったので、自然と上達したというか」
「お兄ちゃんの作る料理は何でも美味しいの! わたしも早く、料理上手になりたいなぁ」
「ひよりはあと5年くらいかかるな」
「そんなことないでしょー! 毎日やってれば自然とできるようになるはず」
「料理もセンスだからなー、ひよりに習得できるかなー」

 俺とひよりのやり取りを、ナツキが目を細めて眺める。

「仲が良いんですね」
「まぁ、良いほうなのかな。年子だし」
「顔が似てないから、何度か彼氏彼女に間違われたよね」
「たしかに……あんまり似てないですね」

 俺はどちらかというと猫とかキツネ系のすっきりとした顔だが、ひよりは垂れ目気味の大きな目が印象的なタヌキ顔だ。母さんいわく、俺は父さん似で、ひよりは母さん似らしい。ナツキは爬虫類系のミステリアスな美人顔だなんて盛り上がりながら、食事会の目的など忘れるくらい楽しい時間が流れていった。

「あーお腹いっぱい! ナツキさん、わたしの部屋でアイス食べながらおしゃべりしようよ」
「ここですればいいだろ」
「ガールズトークだもん! お兄ちゃんがいたら話せない」

 ひよりはナツキと見事に打ち解けていた。俺がいたら話せない内容とはつまりと予想して、暗い気持ちに支配されていく。慎一とのあれこれを思い浮かべたところで、ナツキが「わたし、洸さんの部屋に行きたい」と言い出した。

「俺の……部屋?」

 ひよりでさえも入れないようにしている部屋にナツキを入れる? 彼女でもないのに? ちらりとナツキを窺うと、薄く微笑んでいた。そうだ、きっと作戦会議にちがいない。
 
「わかった。ナツキさんと話してくるから、ひよりはここでアイス食べてな」
「ずるいー。わたしも行く」
「仕事の話だから。な?」
「えー、しょうがないなぁ。じゃあアイス2個食べる」
「ハイハイ、3個はだめだからな」

 アイス片手に、ナツキと部屋へと向かった。見られていけないものが出ているわけじゃないし、片付いてもいるはず。ただナツキが部屋に入ったとき、妙な胸の高鳴りを感じた。ベッドにもたれかかりながら、しばらく無言でアイスを食べる。ナツキは香水をつけているのか、ほのかに香る花の匂いが鼻腔をくすぐった。

「片倉さんの部屋、シンプルにまとめてるんですね」
「物は少ないほうが落ち着くから」

 ゆっくりと見回すナツキから、花の香りが立ち上る。狭い部屋を満たしていく。めまいがして、正気に戻らないと、と首を横に振った。

「ひよりのこと、よくわかりました?」
「はい。とっても可愛い子ですね。芯もあるし、素敵な子でした」
「そうなんですけど、ちょっと危なっかしいところもあって」
「お兄さんとしては心配ですね。これ、ごちそうさまでした」

 食べ終わったアイスの棒を渡される。ナツキのすぐ後ろにゴミ箱があるのだが、そこに捨ててくださいと言うのも失礼な気がして、俺の分もまとめてゴミ箱へと手を伸ばしたとき、

「!?」

 突然、ナツキが俺の肩に手をまわして引き寄せた。バランスを崩し、彼女の上に倒れてしまう。柔らかな感触と、花の香り。

「ごめん……!」

 すぐに起き上がったものの、押し倒したような姿勢で止まってしまった。ナツキは悪びれる様子もなくこちらを見つめている。挑戦的な視線に射貫かれる。
 なんだ、これ、この状況。俺……誘惑されてる…!?
 ごくり、と唾を飲み込む。戸惑いながらも、疼くものを抑えられなくなる。

「……洸くんは」

 初めて名前で呼ばれた。ナツキは俺とふたりきりのときは「片倉さん」と名字で呼ぶ。
 催眠術にでもかかったように、しっとりと濡れた唇から目が離せない。

「こんなことするの、初めて?」

 心臓が飛び出るかと思ったとき、勢いよく部屋のドアが開いた。 

「お兄ちゃん、何してんの!?」
「ひ、ひより!!」

 咄嗟にナツキから離れた拍子に、クローゼットに後頭部をぶつけてしまった。すごく痛いがそれどころじゃない。ひよりに見られてしまった。まだ何かしたわけじゃないが……いやいや、まだって俺はなんということを!?

「ナツキさん逃げて!!」

 ひよりに突き飛ばされ、ものすごい勢いでナツキが連れられていく。

「……なんなんだよ一体」

 ナツキのことだからきっと、意図があるにちがいない。だけど……。彼女の視線、香り、感触を思い出すと、胸の鼓動が収まらなかった。