透明な羽の君へ

 ナツキに指定された喫茶店は、古本屋の地下にあった。看板も出ておらず、不安なまま重い木製の扉を開けると、壁一面を埋め尽くすドライフラワーに圧倒された。
 いちばん端の席に座っている女と目が合う。肩ラインで切りそろえられた黒髪と黒い服。壁の装飾の一部のように生気がないが、それがかえって神秘的にも感じさせる。他に客はおらず、彼女がナツキという可能性は高いが断定できずに立ちすくむ。

「片倉さんですか」

 声をかけてきたのは彼女ではなく、エプロンを腰に巻いた30代前半くらいの女性だった。店主なのだろう、やわらかい笑顔と声にほっとする。頷くと、黒髪の女のところに案内される。やはり彼女がナツキで、どうやら店主は彼女の知り合いらしい。渡されたメニューと、ナツキが頼んだらしいアイスコーヒーを見て、同じものを注文した。

「はじめまして、ナツキと申します」
「片倉です。よろしくお願いします」

 差し出された名刺を受け取り、彼女の顔と見比べる。ナツキは20代前半といったところで、切れ長な瞳が印象的なクールビューティー。ナツキというより、ヴィクトリアみたいな荘厳な名前のほうがしっくりくるような……。
 ふいに目が合った。
 
「顔立ちが綺麗ですね。まだ10代に見えますが、雰囲気が大人びてる。とても魅力的で、どなたからも愛される方だと思うのですが……。原因は何ですか?」
「僕は関係なくて、今回は……妹とその彼氏の仲を」

 壊したくて、とは言えなかった。ここまで来て善人ぶっている自分に苦笑が漏れる。ナツキはノートを開きながら「もちろん、秘密は厳守しますので」と続きを促した。言わざるを得ない状況になる。

「妹が、来年18歳になったら今の彼氏と結婚したいと言っていて。相手はまだ大学生なのに、高校もやめて彼氏の家の珈琲屋で一緒に働くって……。父も母も他界していて、僕しか説得できる人がいないのですが、妹は聞いてくれません。なので」
「壊すしかないと思って、ここに」
「はい。友人が紹介してくれました。成功率ほぼ100%で、しかも円満に別れさせてくれるって本当ですか?」
「試してみます?」

 即答できなかった。すると、「あなたの場合どうなるかなんて、やってみなきゃわからないから」と目を細める。
 注文していたアイスコーヒーが置かれた。苦さしか感じないのは、味を楽しむ余裕がないからかもしれない。

「……いくらになりますか」
「片倉さんのようなご依頼、初めてなんです。個人的にもかなり気になるケースですから、お代はいただきません」
「え!?」

 無料よりこわいものはない。

「って言っても困りますよね。では、わたしの分のアイスコーヒー代、お支払いいただいてもよろしいですか?」
「本当にそんなものでいいんですか?」
「ええ」

 どうしよう。断るのも申し訳ない。けれどナツキが無料にしてくれたのは、このケースがうまくいくかわからないからだ。失敗した場合はどうなる? ふたりの結婚が阻止できないどころか、俺とひよりの仲に亀裂が入るなんてことは……。
 机の上に置いた名刺の左上に、ロゴが書いてあることに気づく。たしか、Masaからもらったものにはなかったはず。これは……白い羽の蝶?

「左上の、気になりますか? トンボです。トンボには、オスの羽に複数型ある種がいるのをご存知ですか?」

 ナツキは獲物を捕らえるように目を細めた。

「そのうちの、橙色の羽のオスと、メスと同じ透明な羽のオスについて。羽の色で繁殖行動に明確な差がでるんです。橙色の羽のトンボは縄張りを持ち、他のオスが自分の縄張りに近づくと攻撃します。けれど透明な羽のオスはメスに勘違いされて注意をすり抜け、オス同士がけんかしてるうちにメスと交尾しちゃうんです。sneaker、横取りするオスのことです」

 アイスコーヒーの氷が溶け、カランと音を立てた。

「早すぎる結婚です、きっと裏がある。妹さんの人生を、横取り男から取り戻したいと思いませんか? 『透明な羽のオス』の正体を暴きましょう」