透明な羽の君へ

 投げやりな態度で椅子に座ると、隣にいたMasaがニヤつきながら身を乗り出してきた。

「ご機嫌ななめ? 洸くん」

 飲む?と、ペットボトルを差し出してくる。憂鬱な気持ちを冷たい水で押しやった。

「珍しくイライラ? 話聞こうか?」

 人の不幸は蜜の味。完全に楽しまれている。黙っていると、机の上に置いてあったMasaのスマホが震えた。画面には「瑠奈」の文字。撮影現場の喧噪のなかでも、隣から聞こえてくる女の声の甘さが伝わる。新しい彼女だろうか。縁切り神社で「Masaのことはよろしく」と笑ったミサトの顔が浮かんだ。

「ミサトと別れたの?」

 通話を切ったMasaに聞くと、舌打ちが返ってくる。

「あいつ俳優と浮気しやがってさ。長いつき合いだったから一度くらいの浮気は許そうと思ったんだけど、俺と別れたいって言いだして。ムカついたから壊してやった」
「壊すってなにを? スマホ?」

 Masaは噴き出してから、声を潜めて言った。

「ミサトと俳優の仲。カップルクラッシャーに頼んだ」


 カップルクラッシャー?


 ドクン、と心臓が激しく打つ。ごくりと唾を飲み込んだ。


「一部の界隈じゃ、すげぇ有名なんだ。ほぼ100%別れさせられる」
「100パーって……。どんな手を使って」
「それは企業秘密らしい。でも不思議なことに、すっぱりさっぱり別れさせられんの。まるで別れたことがお互いにとって最高の選択だったみたいに」

 なんだそれ。ものすごく怪しい。

「洸も悩みがあるなら頼んでみれば? たしか財布に名刺入れたままだったはず……。あった、ホレ」


 sneaker代表
 ナツキ


「スニーカー?」

 会社名と名前、電話番号のみの簡素な名刺を受け取った。

「ちなみに金はけっこうかかる。額は人によって変わるらしいけど」
「Masaはいくらだったの?」
「これまた口外禁止なんだわ。悪いな。じゃ、また」
 成功率ほぼ100%、しかも円満な別れならば罪悪感も薄れる。
 これは切り札か、それとも禁断の果実か。
 残された名刺を、じっと見つめていた。


 夕食後、ベッドに横たわりながら名刺を眺めていると「お兄ちゃん」ひよりの声がした。枕の下に名刺を隠し起き上がる。

「どうした」
「ちょっと相談があって」
「わかった。下で話そう」

 友達と揉めたか、進路の相談か、慎一と何かあったのか。いつも楽天的なひよりが珍しく悩んでいる風だったので、どんな悩みだろうかと構えながら席についた。

「……わたし、お兄ちゃんと一緒に卒業したい」
「は!?」
「18になったら、すぐに働きたいの」
「高校中退で働き口なんか……」
「慎一くんのところで雇ってもらう」

 思わず眉をひそめた。

「……慎一さんには話したの?」
「もちろん。『そうしたいなら、それもいいかもね』って賛成してくれた」

 なんだそれ。湧き上がる怒りを抑えられず、ますます眉をひそめる。
 俺の言いたいことが伝わったのか、ひよりが言い訳するように「だって」と続ける。

「大学に行くにはお金がかかるのに、勉強したいことなんてない。早く働きたいの」
「これから見つけるんだろ? それに、みんな大学行くじゃん」
「みんなとわたしは違う」
「そういうこと言ってるんじゃなくて。大勢の人が大学に行くってことは、そのほうが生きていくうえで楽だったり、必要だったりするってことだろ?」

 大学進学はみんな、単に流されているんじゃなくて、メリットがあるから選んでいるはず。

「わたしは好きな人と早く一緒に暮らしたい。そのために働きたいの。たくさんのお金なんていらない」

 意見を変える気はないらしい。最初から相談するつもりなんてなかったんだ。慎一に、ここまで人生を変えられてたまるか。
 引き止めたい。けれど俺はただの兄で、まだ18歳で、保護者じゃないから強く出られない。正攻法じゃ潰せない。だったら――。

「……その話は、ちょっと考えさせて。決定事項じゃないから学校には言うなよ」
「わかった」

 部屋に戻ったあと、机の上のスマホをとった。隠していた名刺を掴み、電話番号を打ち込んでいく。
 ちらりと画面左上の時刻を見ると、午後8時だった。営業時間というものがあるかわからないが、出なければまた明日の早い時間にかけ直せばいい。

――すっぱりさっぱり別れさせられんの。
――まるで別れたことが最高の選択だったみたいに。

 最後の望みは、カップルクラッシャーしかない。
 コール音と鼓動が重なる。荒い息を落ち着かせようとしたとき「はい」と低めの女の声がした。深い海を思わせる静かな声。

「あ、えっと……スニーカーの、ナツキさんでいらっしゃいますか。片倉と申します」
「……はい。sneakerのナツキです」

 イントネーションを微妙に直された。慌てて「すみません、sneakerの」と繰り返す。「よく間違われるんです」とくすっと笑う声が耳をくすぐって、すこし緊張がほどけた。

「クラッシュのご依頼でよろしいでしょうか」
「クラッシュ……はい……僕の、というわけじゃないんですが……」
「……ご依頼を受けられるかどうかは、直接お話して判断しています。見積りもそこで。いつがご都合よろしいですか」 
「今週だと……明後日はいかがですか」
「承知しました」

 流れるようにして明後日の夕方、都内の喫茶店で会うことが決まった。
 ふたりを別れさせ、ひよりを普通の生活に戻す。絶対に。