透明な羽の君へ

 パソコンを閉じたときにはもう、外は明るくなっていた。カーテンの隙間から漏れる朝日が、徹夜で動き続けたパソコンをねぎらうように揺れている。
 夜通しの作業は学業とモデルの仕事に差し障ると思いつつ、手抜きはできなかった。これからコンビニで資料をプリントしたいので仮眠もできない。今日は早めに帰って寝ようと誓い、そろりと部屋を出た。ひよりを起こさないよう静かに玄関ドアを閉める。早朝の澄んだ空気を目一杯吸い込んでから駆け出した。
 帰ったときにはまだ家の中はしんとしていたが、ひよりが起きる時間が近づいている。誕生日の結婚宣言以来、続いているごはん作りの習慣。17歳を花嫁修行で終えるつもりかとため息つきつつ、一生懸命な姿に何も言えなくて今に至る。大急ぎで部屋に戻り、印刷した資料を鞄に入れた。
 

 6限終了のチャイムが鳴る。さぁ、今日いちばんの仕事のはじまりだ。資料の入った封筒を持ち、職員室を目指す。階段を下りたところで、爽やかなグレーのスーツ姿の先生と目が合う。生徒会顧問の渡辺先生、本日の交渉相手。

「片倉! なんだか久しぶりだな」
「お久しぶりです」

 渡辺先生は、去年俺が生徒会長だったときに随分とお世話になったものの、新学期以降はこうして話す機会がなかった。「身なりは相手とのコミュニケーションのはじまり」がモットーの先生は、いつも素敵にスーツを着こなし、爽やかな印象で生徒からの好感度も高い。こうして俺と話している間も、たくさんの生徒が「渡辺先生、さようなら」「ナベ先生、ばいばい」と挨拶をしながら通り過ぎる。生徒の波が去ったところで、抱えていた封筒を差し出した。

「相談したいことがあります。お時間よろしいでしょうか」

 勘のいい渡辺先生は準備していたかのように頷いて、俺たちは生徒指導室へと向かった。
 教室に入り、窓を開けようとした先生が思い直したかのように踵を返し椅子に座った。先生の顔つきが少し緊張して見える。失礼しますと正面の椅子を引き、封筒から資料を抜き出した。

【校則への『在学中結婚禁止』事項追加について】

 先生は一瞬ずっこけたように体勢を崩したが、仕切り直すように咳払いしてから資料をめくり始めた。
 神頼みの次に考えたのは、新たな校則の制定。規則で縛ることができれば、結婚は絶望的になる。

「少し前まで、女性の結婚は16歳からとされていましたが、20歳までは親の同意が必要でした。しかし今の日本の法律では、男女ともに親の同意なしで18歳から結婚できます」
「そうだね。成人年齢が18歳になったからね」
「ありえないです。だって『高校生夫婦』ができてしまう可能性がある」
「そういうことも……あるかもしれないな」
「結婚って、自立した者同士がするものですよね?」

 教師歴10年の先生は、今年の春に結婚した。相手は大学時代の仲間で、同じ教師だと聞いている。まさに成熟した大人同士の結婚。ただ先生は、俺の問いに対して「もちろんそうあるべきだが」と答えるに留めた。

「片倉は、校則がなければ高校生同士で結婚してしまうと思ってるのか?」

 ちがう。俺の目的はただひとつ。妹であるひよりの結婚を阻止したいだけ。とはいえ、そんなことは言えない。

「校則があることで思いとどまってほしいんです。自分には自分の未来があることを。他人の人生を背負うには早すぎることを」

 ひよりにはまだ、無邪気に自分の人生を楽しんでいてほしかった。

「お願いします。新しい生徒会は公約として制服廃止を掲げていて、それ以上のことを任せるのは難しいんです。僕はもう生徒会長ではないから表立って活動できないけど、どうにかして叶えたい。先生のご協力が必要なんです! お願いします!」

 席を立ち、頭を下げた。無言の間に耐えるように目をぎゅっと瞑ると、先生が静かに立つ音がした。そっと目を開くと、俺の肩に触れるか触れないかの位置に手を置き「片倉。頭を上げて、座りなさい」と言う。もう一度頭を下げてから腰を下ろすと、先生は俺の前に資料を戻した。

「結論から言うと、これは難しい。うちは公立校だ。法律で認められていることを禁止する校則を設けることは困難だ。君のモデル活動を、特例として認めたこととは訳が違う」

 芸能科のない高校なのに、俺の家庭状況と成績、素行を評価して特例でモデル活動を認めるよう学校側に働きかけてくれたのは渡辺先生だ。だから今回も、先生と一緒に戦えると信じていた。
 
「……在学中の結婚を阻止したい人って」

 騒ぎながら廊下を歩く生徒の声が、やけに響き渡る。

「妹の、片倉ひよりさん? たしか2年生だったか」

 頷いてしまった。渡辺先生には、生徒の心と口を開かせる不思議な力がある。

「18歳になったら結婚したいと?」
「はい」
「そうか……。しかし在学中は仮に校則で防げても、卒業したら彼女を縛るものはないぞ」

 わかってる。永遠にひよりと一緒にいられないことくらい。結婚自体を認めないわけじゃなくて、問題は時期だ。18になった途端に離れるなんて、ずっと二人三脚でやってきたのに切なすぎる。

「18歳でも学生である以上は誰かを守れるとは思わない。結婚は社会に出て自立してから! 法律は認めても俺は認めない」

 熱くなりタメ口になってしまったことを謝る。先生は問題ないとゆっくり首を横に振り「悩みがあったらいつでも聞く」と言って笑った。在学中の結婚禁止を校則にすることは、やっぱり難しいみたいだ。
 廊下に出る。人気のない廊下を、体操服姿の女子がひとり歩いていた。頭の高い位置で左右に揺れる薄茶色の髪と頼りない背中。ひよりだ。わずかに引きずった足、まだ着替えをしていないことから想像するに、体育の時間中怪我でもしたのだろうか。
 先生と別れてから駆け寄る。近づく足音に気づいたひよりが振り向いた。

「お兄ちゃん!」
「足、どうした」

 小さな膝小僧を覆うほどの絆創膏にため息ひとつ。「ここもね」と突き出された右肘には、手当てされたあとの擦り傷があった。昔からよく転ぶので傷が絶えず、小さい頃に俺と一緒に始めたモデルの仕事も、ひよりは早々とやめた。

「痛くない?」
「大丈夫!」

 このやり取りも昔から変わらない。ひどい怪我でさえも、涙を滲ませながら「大丈夫」と笑う。俺が相手だからだろうか。彼氏には違うんだろうか。

「お兄ちゃんは何してたの。仕事は?」
「今日はないよ」
「じゃあ一緒に帰れる?」

 高校生にもなって、兄と一緒に帰ることを嫌がらない妹にほっとする。「昇降口で待ってる」と軽く頭に触れた。
 ガラス戸を背に、スマホでスーパーの安売り情報をあさる。帰宅途中にあるスーパーで肉を買っていこう。野菜と卵は別のところで。無駄買いの多いひよりに代わり、買い物だけは俺がしている。
 エコバッグを持ってきているか鞄の中身を確かめていたところで、ぱたぱたとひよりが走ってきた。なんだかばつの悪そうな顔をしている。

「お兄ちゃん、ごめん。今日一緒に帰れない……」
「なんで。バイト?」
「シフト入ってたの忘れてて」

 バイトと聞くと、どうしても眉をひそめてしまう。もともとバイトには反対だったんだ。高校生らしく部活でもすればとすすめたのに、自分の小遣いを増やしたい、社会勉強にもなるという理由に負けた。
 ちなみに俺が仕事で稼いだ金は、全額を家に入れている。服好きのモデル仲間から着なくなった服や使わなくなった鞄をもらえるから、身の回りのものに不自由していない。俺が自分のものにはほとんど金を使わないから、ひよりはいつも自分の欲しいものを買うのに躊躇してしまう。

「間に合うの? 大丈夫か」
「急いでいけばなんとか!」
「そんな足で? 急いで自転車漕げるかよ」
「……おにいちゃ~ん!」

 自分の後ろに乗せていくこともできないので、バイト先に事情を話し、遅刻連絡をいれさせる。まったく世話が焼ける……と思っている反面、一緒に帰れなくなったことを残念がっている自分に気づく。
 並走しようとするひよりを何度も注意しながら、バイト先のパン屋に着いた。

「足、大丈夫か?」
「うん」
「ちゃんと皆さんにあやまれよ」
「わかってる」

「今日は俺が夕飯つくるから。終わったら早く帰れよ」と送り出し、ひとりスーパーへと向かった。