透明な羽の君へ

 冬休みに入り、ひよりは予定通りアメリカへ発った。年末年始もそこで過ごすのだという。表面上は何となく元に戻ったけれど、しこりみたいなものが残っていて、生活を共にしていくには正直つらかった。いい加減、受験勉強にも専念したかったからちょうどよかった。姿を見なければ、考えることも少なくて済む。
 ペットボトル片手に部屋に戻ると、机の上でスマホが震えていた。ナツキからの着信で、彼は用件を言わず時間と場所だけ言って一方的に通話を切った。何の件でと連絡しても既読にすらならず、仕方なく待ち合わせ場所に指定されたドライフラワーの喫茶店に入った。

「久しぶり」

 今日のナツキはスーツ姿に、ふちなしメガネをかけていた。無言のまま正面の椅子に腰掛ける。来たくはなかったが、無視したまま家に来られることだけは勘弁だった。

「よかった、来てくれて」
「なにその格好。今度は弁護士にでも変装するつもり?」
「トゲのある言い方だな」

 鼻で笑いながら、彼は分厚い封筒を差し出した。

「和解金。Masaくんに渡しておいて」
「自分で渡せよ」
「それができないから頼んでるんだろ」

 Masaからは、瑠奈と別れたと連絡がきた。しばらく就活に専念するという。俺がMasaにこれを渡せば、ナツキと繋がっていたことがばれてしまうし、何よりもそっとしておいてあげたかった。こんな金を渡して、思い出させたくない。

「契約に書かれてるの? ナツキが嘘をついたら金を払うとか」
「いや。これはオレの気持ち」
「Masaはこんな金望んでない。金だけ払っておしまいなんてことにすんな」

 人を騙した十字架を背負って生きていけ。もちろん俺もそのつもりだ。
 ナツキはしばらく考えていたようだが、やがてテーブルに置いた封筒をスーツの内ポケットにしまった。
 それにしてもこんな大金、一体どうやって準備したんだ。改めてナツキの素性のわからなさにため息をついていると、ふとミキさんが出てこないことに気がつき、辺りを見回す。

「ミキはいないよ。もう消えた」
「消えた?」
「この街を出たってことね。来月から、ここも別のテナントが入る」
「ミキさんがおまえの従姉妹ってことは本当なの?」
「さぁ? オレの言うことは信じない洸くんでしょ」

 イラッときて舌打ちする。もう帰ろう。立ち上がったとき「ひよりちゃん、アメリカ行った?」と聞かれ動きが止まる。

「……なんで知ってんの」
「前に洸くんが話してくれたでしょ。ひよりちゃん、冬休みに入ったらアメリカにいる叔母さんのところで過ごす予定だって。彼女、昔から外国に憧れてたみたい。英語は得意だし、将来は叔母さんみたいに外国で仕事したいって言ってたから、今回の旅行でいろいろ相談するのかな」

 そんなこと一切知らなかったと、悟られないよう視線を外した。
 たしかに英語は得意だったし、映画や海外ドラマを好きでよく観ていたことも知ってる。高校では英会話クラブに入ってた。でも、叔母さんのように海外で仕事したいなんて……。ひよりはまた、俺のことを考えて言えなかったのか。
 ナツキが目を眇める。視線から逃れるように歩き出そうとしたところで、またも「ひよりちゃん、俺といるときに誰の話してたかわかる?」と止められる。無視してしまえばいいものを、続きが聞きたくて立ち止まってしまった。

「慎一くんとつき合ってるときでさえ『お兄ちゃん』の話ばっか」
 
 床が軋む音が響く。いつの間にか、ナツキのほうに体を向けていた。

「『わたしがそばにいたら、お兄ちゃんはだめになる』『わたしのことばかりで自分のことは考えない』『だから早く自立しなきゃ。結婚して別々に暮らさなきゃ』。洸くんも洸くんで、同じようにひよりちゃんのことばっかり考えてたでしょ。自分のこと見失うほどお互いのこと考えて、ばかだなぁって思う反面、ちょっと羨ましくなっちゃった。
 そんな風に悩んでも意味がない。洸くんがどうしてもひよりちゃんのことを考えてしまうのは、彼自身がそうしたいからだし、ひよりちゃんが変えることはできない。彼の問題を自分のものとして考える必要はないんだと話したんだ。洸くんは洸くんで、表向きはひよりちゃんに普通の高校生をさせてあげたいって気持ちがあるんだろうけど、実際は彼女を保護することで自分の存在意義を確認したいんだよね」

 言い当てられて戸惑ったところを見逃してはくれなかった。ナツキが「当たりかな」と嬉しそうに微笑む。

「そういうの、『メサイアコンプレックス』っていうんだよ」
「メサイア……?」
「そう。メサイア、救世主。他人の救世主になることで、自己満足を得ようとすること。
 君は君の人生を歩むべきだよ。君のため、が、おまえのせいでになる前に。見返りを求めないことは、悟りを開くことくらい難しいことだけど」
「……どうして俺にそんなこと言うの」
「大好きなひよりちゃんのお兄様だからだよ。君にもちゃんと幸せになってもらいたいから」
「余計なお世話」

 今度こそ立ち去ろうと背中を向ける。
 ナツキの言うことは、どこまでが本当でどこからが嘘なのかわからない。女のときは淡々とクールだったのに、男に戻ったらへらへらとよくしゃべる。人としていまいち信用できない。
 もう帰ろうと、木製の扉に触れたときだった。

「話変わるけど、洸くんはこのままでいいわけ?」

 いやな予感がして振り返る。

「オレ、おまえとひよりちゃんについても色々調べたんだよね。そしたらびっくり。君たちって――」

 殺気めいた怒りが一瞬で駆け巡り、元いた場所に戻ってナツキの襟元を掴み上げる。
 
「言うな! それだけは絶対に! これ以上、俺たちの関係を壊すな!」

 半笑いだったナツキが真顔に変わる。
 
「もう、完全に壊れてるのに……?」

 指先から力が抜けていく。
 もう、完全に壊れてる。壊してしまった。必死に紡いできた絆を、俺は自ら。
 だらりと垂れた腕を強く掴まれて、びくっと体が跳ねた。

「壊れたものは元に戻らない。新しく作り変えるしかない。もう君は、誰かの救世主になる必要はないよ。自分らしく生きていくために、変えられないものと変えられるものを、きちんと見極めるんだ。基本、君が何をしたって他人の気持ちは変えられないと思ったほうがいい。変えられるのは自分の気持ちだけで、それさえわかっていれば随分と楽に生きていけるから」
「……他人の恋愛ぶっ壊すカップルクラッシャーがよく言うよ」
「あはは。でもオレはきっかけを与えただけで、変えたのは本人なんだよ。Masaくんがミサトちゃんより瑠奈を選んだのも、ひよりちゃんが慎一くんとの結婚をやめたのも、全部自分たちで決めてる。だから洸くんも大丈夫! 『透明な羽のオス』は卒業だ。応援してるね」

 背中で聞いたまま、返事も反論もせずに喫茶店を出た。薄暗い階段を上る。そこまで急な階段でもないのに、どんどん胸が苦しくなる。
 一歩進むごとに近づいてくる地上の光を見据えながら、
――自分らしく生きていくために、変えられないものと変えられるものを、きちんと見極める
 いつの間にか、ナツキの言葉を胸の内で繰り返していた。