透明な羽の君へ

「……ひよりちゃんは、いやだったの?」

 ナツキさんが、わたしを真っ直ぐに見つめて言った。慎一くんの瞳が森の中の湖なら、ナツキさんの瞳は深い海。すべてを抱き締めて沈んでいくような恐ろしさが見え隠れするけど、わたしにとってはいいお姉ちゃんみたいな存在。
 お兄ちゃん、慎一くん、ナツキさんと行った旅行で、酔った慎一くんは、わたしにいつもとは違うキスをした。お互いの大切なところを交換するような深いキス。初めてで、咄嗟に彼の胸を押して拒んだ。

――どうして。結婚するって、こういうことだよ?

 慎一くんの瞳が、底無しの沼に見えた。呑み込まれてしまう。こわくて逃げ出して、自分の浅はかさに泣いた。わたしは彼のきれいな部分しか見ていなかった。男の人として受け入れることができなかった。

「……いやだった。わたしには無理だった」

 わたしがしていたのは『結婚ごっこ』で、子どものおままごとだった。慎一くんは真剣だったのかもしれない。彼を傷つけてしまった。

「初めてだもん、しかたないよ。こういう形じゃなくても、人を傷つけてしまうことはあるから」

 ナツキさんが抱きしめてくれる。背の高いナツキさんは胸も広くて、わたしはすっぽりと覆われてしまう。
 あったかい。お母さんを思い出して、ぎゅうっと顔をうずめると、ふっとナツキさんが体を離した。

「大丈夫? ひよりちゃん」
「うん。お母さんを思い出しちゃって……ごめんなさい」

 ナツキさんが目を細める。ぬくもりが欲しくなって、彼女の腕を掴んだ。

「ナツキさん、お願いがあるの」
「なに?」
「もう一回、ぎゅうってしてほしい」

 ナツキさんの瞳が、一瞬戸惑って揺れたように見えたけど、すぐに微笑んで背中に腕をまわしてくれた。

「洸さんとは、さすがにこんなことできないもんね」
「うん。もう高校生だから。……ナツキさんみたいなお姉ちゃん、ほしかったなぁ……」

 やがてゆるやかな眠気がやってきた。深い海に沈んでいく心地がしたとき、なぜだろう。お兄ちゃんが沈むわたしに手を伸ばしている。そんな情景が浮かんで消えた。


 慎一くんから別れてほしいと言われたのは、旅行から帰ってすぐのことだった。彼との結婚が無理だとわかって、わたしから別れを告げるつもりでいたから、すこしだけほっとした。自分から慎一くんを傷つけたくなかった。

――ひよりちゃんが、一緒に幸せになりたいと思える人に出会えるよう、願っています。

 自分のためとか、相手のためにじゃなくて、ふたりで一緒に幸せになりたいと思える人にと慎一くんは笑った。森の中の湖のように穏やかな瞳を、わたしは真っ直ぐ見られなかった。
 今さらになって、こんなに優しい人を傷つけていたことを思い知った。結婚目的でつき合ってと言ったことも、自分から別れを告げて悪者になりたくなかったことすら、すべて見透かされていた。それでも笑って、わたしの幸せを願ってくれた。
 彼が去ったあと雨が降ってきたけれど、濡れたまま動かなかった。このまま風邪でも引いて、熱が出て苦しめばいい。あんなに優しい人を傷つけた罰を受けなければ気が済まない。
 土砂降りの雨がふいに止んだと思ったら、ナツキさんが傘に入れてくれていた。

「大丈夫。もう十分だよ」

 一旦、家に帰りシャワーを浴びたあと、ナツキさんの運転する車で彼女の家に行った。濡れた髪を乾かしてくれたあとは、彼女の淹れてくれたココアを飲んだ。冷え切った心と体を包んでくれる甘いあたたかいココア。慎一くんのくれたぬくもりにも似ていて、胸が締めつけられる。隣に座る彼女の肩にもたれかかって目を閉じた。

「ひよりちゃん、そのままでいいから聞いてね」

 暗闇の世界で、ナツキさんの声が響く。

「誰かの人生を生きなくていいんだよ。洸さんの思う通りに生きなきゃとか、洸さんのために離れなきゃとか考えなくていい」

 目を開く。

「なんで今、お兄ちゃんのこと」
「結婚したかったのは、洸さんから離れたかったからでしょ」

 体を離して、ナツキさんを上目遣いに窺う。どうしてわかったんだろう。
 ナツキさんは、真っ直ぐ前を見ている。

「これからはあなた自身のことだけ考えてね」
「自分のことだけなんて考えられない」

 ナツキさんの腕を掴む。

「お兄ちゃんはわたしのために、いろいろ我慢してくれてるの。大学だって、ほんとは行きたい学部とかもっと考えたいはずなのに、そういう時間を全部家のこととかわたしのために使ってくれてる」
「それが重荷だから、慎一くんを利用しようとしたんでしょ」

 利用なんて、と言いかけてやめた。ナツキさんの言ってることは正しい。慎一くんのことは好きだったけど、早く結婚したかった理由はお兄ちゃんの保護から早く抜けたかったから。

「……わかった。お兄ちゃんが心配しなくていいくらい、ちゃんとした人間になる」
「ほら、また。洸さんに心配かけないようにって、彼の期待に応えようとしてるでしょ。彼の人生を生きようとしてるって、そういうこと。ひよりちゃんを心配してしまうのは、洸さんの問題。彼のことは彼自身しか変えられない」
「どういうこと? わたしが頑張っても、お兄ちゃんは変えられないってこと?」
「そうよ。変わるときはいつだって、自分がそう決めたときだけ」

 ナツキさんの手が、わたしの頬に触れた。

「社会に出たら、たくさんの人と関わることになって悩みも増える。そんなとき思い出して。あなたが変えられるのは、あなた自身だけ」
「……なんだか、よくわかんない……」

 眉をしかめると、ナツキさんがふふっと笑った。

「とりあえず、他人のことを考えすぎないでってことかな。それより、ひよりちゃんは何をすることが楽しい? どんな仕事に興味があるの? あなたのこと、たくさん聞かせて」
「わたしのこと?」
「うん。ひよりちゃん、いつも洸さんの話ばかりだよ。彼のことはいいから、あなたのことを教えて。わたし、もっとひよりちゃんのこと知りたいな」

 ナツキさんの微笑みに、こうしなきゃと思ってた頑な部分がそっと溶かされていくのを感じた。
 そういえばわたし、小さい頃から外国に憧れてたな。海外出張も多かったお母さんは、必ずお土産を買ってきてくれた。
 赤レンガの家の形をした缶に入った、ほろほろのクッキー。箱に敷き詰められた、きらきらした紅茶のティーバッグ。幸せな夢をかたどったような甘くて可愛いチョコレート。
 見せてくれた写真に映っていた、広い空の下を歩く肌も髪の色も違うたくさんの人。食べたことのない料理。
 今、自分がいる世界が全てではないと教えてくれた、宝物のひとつひとつ。
 心に秘めたまま忘れていたものたちを、夢中でナツキさんに話した。
 
 わたしは、わたしのために生きていい。

 透明な羽が生えて、どこまでも飛んでゆけそうだった。