透明な羽の君へ

 翌日、お兄ちゃんとは一言も口を利かなかった。それでもきちんと用意されてるお弁当にほろりとなってしまったけれど、無言で持ち去ったら「ほうれん草、全部食べろよ」と言われて睨みつけた。わたしはほうれん草が苦手だ。いつもは緑の野菜としてブロッコリーを入れてくれるのに、機嫌の悪いお兄ちゃんはこういう意地悪をする。
 昼休み、いつも通り教室で友達と食べるのをやめて屋上に向かう。ひとりで空を眺めたい気分だった。
 階段を上っていくと、かすかにお兄ちゃんの声が聞こえてきた。ついてないと思いながら踵を返した。しかたない、中庭にでも行こうかな。

「洸は?」
「俺はここから通えるところ」
 
 一緒にいるのは友達の大也さんらしい。何の話だろう? そっと耳を澄ます。

「俺はひとり暮らししたいから東京を出る。どっか地方の大学に行くわ」
「建築学部だったら、地方でも有名なところありそうだよな」
「そういや洸は何学部志望なの」
「俺は……う~ん、特にやりたいことなくて。家のこともやらないといけないし、地元から通える国公立で合格できそうなところで」
「もったいないなあ。本腰入れて勉強すればどこにでも行けそうなのに……ひよりちゃんがいるから?」

 急に名前を出されて体を縮めた。

「ああ。家、空けられないしな」
「すっかり親父だねぇ。母ちゃんでもあるのか」
「まあな。ひよりが自立するまでは俺、自分のことは後回しでいいんだ」
「自立っていつよ。就職したら? もしかして結婚するまでとか?」
「そうだな、結婚するまでかな」

 これ以上聞いていられなくて、お弁当を握りしめながら階段を下りた。
 自分のことは後回しでいいなんて、わたしなんかより才能のあるお兄ちゃんが言うことじゃない。
 やっぱりわたしがいるからだ。わたしが頼りないから。
 早く自立したい。なんでもいいから、お兄ちゃんのところから遠ざかりたい。はやく――。


 バイトが終わっても、すぐ家に帰る気分にもなれなくて、自転車をひきながら夜の道を歩く。
 このまま、あてもなく歩いていったら、どこか別の世界に着かないかな。魔界でもナントカ時代でも、お兄ちゃんがいなければどこでもいい。
 ふいに金木犀の香りが漂ってきた。どこからだろう。この花の香りを嗅ぐと、いつもお兄ちゃんと花の在り処を探しまわっていた日を思い出す。お兄ちゃんのことなんて考えたくないのに、香りが、記憶が、わたしの足を勝手に連れていく。
 金木犀を早く見つけたほうが勝ち。おやつを多くもらえる。たいていはお兄ちゃんが勝って、でも結局おやつはわたしのほうに多く分けてくれてたこと、わたしはちゃんと気づいてたよ……?

「ひよりちゃん?」

 民家の生垣に植えられた金木犀の前に、慎一くんが立っていた。もしかして、わたしと同じように香りを辿って?

「バイト帰り?」
「はい」
「帰り、こんなとこ通るの」
「いつもは通らないです。今日は……金木犀を探して」
「偶然だね、僕も。いいよね、金木犀」

 ふいに、自分の中の大事な部分を掴まれた気がした。
 今この瞬間が、子どもの頃にお兄ちゃんと金木犀を探した過去と重なって、上書きされていく。とてもなめらかに移り変わっていくそれを目の当たりにしたとき、どうしようもなくせり上がってくる想いを我慢できなくなった。泣きたくなるほどの衝動。
――慎一くん、わたしのこと、たすけて。



「慎一くん、わたしと結婚を前提につき合ってください」

 
 
 慎一くんはかすかに瞳を揺らしただけで、ものすごく驚いたりはしなかった。ただ、彼からの返事は予想していたとおりの「ごめんね」。だけど、わたしはあきらめなかった。18歳になったら自分たちの意思で結婚できて、わたしは家を出ることができる。結婚相手には慎一くんのような人が最適と、梅沢さんも言っていた。他にも、慎一くんは実家の珈琲屋を継ぐ予定で、それとは別にWeb関係の仕事もしているらしい。これ以上、結婚に向いている人なんているだろうか。
 もちろん彼のこともちゃんと好き。打ち上げ花火みたいな派手な好きや、消えかけた線香花火みたいな切ない好きじゃないけれど、寒い日に飲むホットミルクみたいなじんわりと染み入る好きで満ちてる。彼といるときの自分も好きだし、なにより自然体でいられるから楽。
 会うたびに真剣な想いを伝え続けると、ある日やれやれといった感じで慎一くんが笑った。

「わかったよ。結婚を前提につき合おうか」

 
 これでわたしの物語はハッピーエンドで終わるはずだったのに。
 わかってなかった。慎一くんのなかには、高校生の女の子じゃ想像できないくらいドロドロした欲があって、それを理性という鎧で固めていたこと。すべて受け入れる心の準備がないのに、わたしはただ、今の場所から逃れるために慎一くんを利用していた。