「ありがとうございました」
閉店間際、パンを買いに来てくれたスーツ姿の男性を見送る。
高校生になって、バイトができるようになった。お小遣いを増やしたいならやりくりするよ、とか、バイトしてる時間があるなら部活でもしたら、と渋るお兄ちゃんを説得して、今月からパン屋でバイトを始めている。
お兄ちゃんはモデルの仕事で稼いだお金を家に入れてくれている。ほとんどお金も使わない。洋服は服好きのモデル仲間のお下がりでまかなっているし、本は図書館で借りて読む。
わたしだって家のためになにかしたい。だけどきっと「普通の高校生はそんなこと考えない」と突っぱねるだろうから、表面上は社会勉強ということにした。実際、学ぶことはたくさんあって、やってよかったと思ってる。
にこりと会釈してから立ち去る背中を眺めていたら「あの人、感じいいよね」と、パートの梅沢さんが囁いた。
「うちの旦那とは大違い。結婚すべきは、ああいうタイプだったなぁ」
梅沢さんは、中学生の子どもがいる主婦だ。旦那さんは梅沢さんいわく「勘違いおじさん」で、50歳手前なのにまだ30代気取りの服装や話し方をしてくるイタイ男なのだという。休日でも誘いがあるとすぐ出かけてしまう、家庭を顧みないタイプらしい。
「明日の朝食のパンを仕事帰りに買っていく。いいわ~うちのとは大違い」
「旦那さん、夜遅いんですか?」
「遅い遅い! 残業だか飲み会だかわかんないけどね。金曜の夜なんて、若者に混じって日付変わるまで飲んでタクシー帰り」
「あはは、若いな~」
「ひよりちゃんも、将来結婚するんだったら、見た目が目立たなくても誠実そうなああいう男がいいよ! ひよりちゃんは可愛いから、いろんな人に言い寄られると思うけど、顔に騙されちゃダメ! そういうのは小さいころからチヤホヤされてるから我慢が利かないのよ。ある程度自分が許容できる顔だったら生活は成り立つから、中身で判断しなきゃダメよ!」
「気をつけます! あ、わたし表の看板下げてきますね」
閉店準備は、表に出ているOPENの看板を店内に入れることから始まる。
梅沢さんはいい人だけど、旦那さんの悪口になると止まらない。こういうことは近所のママ友には話せないらしく溜まっているのだという。うちは生まれたときからお父さんがいなかったから、結婚した男女のその後がどうなるのかよくわからない。もしお父さんが生きていたら、お母さんは梅沢さんみたいに不満バクハツだったんだろうか。
よいしょっと看板を持ち上げたとき、「すみません」と声をかけられた。振り向くと、男の人が立っていた。焦茶色のカットソーに黒いスラックス。暗い色目の服なのに、全体の印象がさらりと優しい。
「笠原です。いつもお世話になっています」
囁くようなやわらかい声だった。黒縁メガネの奥の瞳が揺れる。森の中の静かな湖みたいに深い。
「先日、納品していただいたイチジクと紅茶のケーキ、ありがとうございました。美味しいって、お客様がとても喜んでくださってます。ありがとうございました」
イチジクと紅茶のケーキは、うちの焼き菓子だ。他のところに納品していることを初めて知った。緊張しつつも、失礼にならないよう頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとうございます。店長を……あ! ごめんなさい。さっき用事で出てしまって……」
「そうですか、でも大丈夫です。打ち合わせで伺ったんじゃなくて、ただお礼を伝えたかっただけなので……また今度、うちのコーヒー持ってお礼に伺います」
「ありがとうございます!」
「では、お仕事中にすみませんでした」
去っていく後ろ姿を見送っていると、焦茶色のカットソーがくるりと翻った。目を伏せながら戻ってくる。どうしたんだろう、言い忘れたことでもあったのかな。
「僕、笠原慎一といいます。K大2年です。もしよかったら、お名前伺ってもいいですか?」
とくん、と胸が鳴る。そんなこと聞かれるなんて思わなかった。
「片倉ひより。高校2年です」
「高校生!? ごめん、てっきり同い年くらいかと」
「お店の制服着てたらわかんないですよね。高校生のバイトってわたしだけだし」
「失礼しました。じゃあ……また」
「お疲れさまでした! また……」
笠原慎一さん。大学生。コーヒー。心の中で繰り返すと、すうっと澄んだ風が胸に流れ込んできた。
看板を抱えて店内に戻ると、レジ締めをしていた梅沢さんがニヤついている。
「ひよりちゃん~恋に落ちちゃったね!」
「え? え!?」
「彼、珈琲屋の息子さんでしょ。いいよね~! パート主婦の間でも人気が高いのよ」
「そうなんですか」
「清潔感があっていいよね。しかもK大生でしょ? 将来有望だし、彼みたいな人と結婚できたら最高」
清潔感。そうか、彼からはこちらに訴えかけてくる余計なエネルギーみたいなものを感じない。ただすっと流れて消えていくのだけれど、爽やかな余韻を残していく。
今度はいつ会えるかな。もうそんなことを思ってる自分に驚いて、恥ずかしくなって、どうしたって緩んでしまう頬に触れた。
それから納品のたびに顔を合わせて話すうち、わたしたちの距離は縮まっていった。「笠原さん」「片倉さん」と呼び合っていたのが、発音が似ていてややこしいという理由で「慎一くん」「ひよりちゃん」に変わった。
慎一くんは、瞳だけじゃなくて彼の全てが静かな森のような人だった。穏やかで、涼しげで、何もかもをゆるして包み込んでくれるみたいな。話していると、森林浴をしているみたいに心が落ち着いていく。その感覚が心地良くて、慎一くんが夕方にお店に出る毎週木曜日はコーヒー笠原に通うようになった。ラストオーダーぎりぎりの時間に入り、他のお客さんが帰る閉店まで残る。片付けをする慎一くんと話す数十分が至福。慎一くんが自分の話をするのは稀で、ほとんどはわたしの話。学校のこと、友達のこと、いつしか、お兄ちゃんの悩みまで話すようになった。
「お兄ちゃんと話しづらい?」
「はい。こう、なんか……変な距離感があって、すごく世話を焼きたがるのに突き放されることもあるから混乱しちゃって」
「お兄さん、年子なんだよね?」
「ひとつ上です」
「そういうものなんじゃない? 歳の近い兄妹で、しかもふたりとも高校生の場合は。僕に姉も妹もいないからなんともいえないけど」
普通のことだとしても寂しい。お兄ちゃんの態度を窺う自分も苦しい。何も考えず振る舞えたころが懐かしい。
「でもさ、ふたりとも大学生になったり社会人になったら関係も変わるよ。何より兄妹の関係は余程のことがないと壊れないと思うし、あんまり思い詰めないほうがいいんじゃない」
そうだけど。腕組みしながら考え込んでいると、ふっと笑い声が流れてきた。
「ごめん、笑っちゃって。ひよりちゃんはお兄さんのこと大好きなんだね」
「大好きっていうか……そんな風にみえます?」
「うん、すごく。気づいてないかもしれないけど、最近はお兄さんの話ばっかりだよ」
「ほんと!? そうなんだ……ごめんなさい」
「気にしてないから大丈夫。ていうか羨ましいよ。僕も、ひよりちゃんみたいな可愛い妹、欲しかったなぁ」
わたしも慎一くんみたいなお兄ちゃんが欲しかった。ありのままを認めてくれる人。自然体でいられる人。
結婚するなら慎一くんがいい。真剣に、そう思い始めていた。
閉店間際、パンを買いに来てくれたスーツ姿の男性を見送る。
高校生になって、バイトができるようになった。お小遣いを増やしたいならやりくりするよ、とか、バイトしてる時間があるなら部活でもしたら、と渋るお兄ちゃんを説得して、今月からパン屋でバイトを始めている。
お兄ちゃんはモデルの仕事で稼いだお金を家に入れてくれている。ほとんどお金も使わない。洋服は服好きのモデル仲間のお下がりでまかなっているし、本は図書館で借りて読む。
わたしだって家のためになにかしたい。だけどきっと「普通の高校生はそんなこと考えない」と突っぱねるだろうから、表面上は社会勉強ということにした。実際、学ぶことはたくさんあって、やってよかったと思ってる。
にこりと会釈してから立ち去る背中を眺めていたら「あの人、感じいいよね」と、パートの梅沢さんが囁いた。
「うちの旦那とは大違い。結婚すべきは、ああいうタイプだったなぁ」
梅沢さんは、中学生の子どもがいる主婦だ。旦那さんは梅沢さんいわく「勘違いおじさん」で、50歳手前なのにまだ30代気取りの服装や話し方をしてくるイタイ男なのだという。休日でも誘いがあるとすぐ出かけてしまう、家庭を顧みないタイプらしい。
「明日の朝食のパンを仕事帰りに買っていく。いいわ~うちのとは大違い」
「旦那さん、夜遅いんですか?」
「遅い遅い! 残業だか飲み会だかわかんないけどね。金曜の夜なんて、若者に混じって日付変わるまで飲んでタクシー帰り」
「あはは、若いな~」
「ひよりちゃんも、将来結婚するんだったら、見た目が目立たなくても誠実そうなああいう男がいいよ! ひよりちゃんは可愛いから、いろんな人に言い寄られると思うけど、顔に騙されちゃダメ! そういうのは小さいころからチヤホヤされてるから我慢が利かないのよ。ある程度自分が許容できる顔だったら生活は成り立つから、中身で判断しなきゃダメよ!」
「気をつけます! あ、わたし表の看板下げてきますね」
閉店準備は、表に出ているOPENの看板を店内に入れることから始まる。
梅沢さんはいい人だけど、旦那さんの悪口になると止まらない。こういうことは近所のママ友には話せないらしく溜まっているのだという。うちは生まれたときからお父さんがいなかったから、結婚した男女のその後がどうなるのかよくわからない。もしお父さんが生きていたら、お母さんは梅沢さんみたいに不満バクハツだったんだろうか。
よいしょっと看板を持ち上げたとき、「すみません」と声をかけられた。振り向くと、男の人が立っていた。焦茶色のカットソーに黒いスラックス。暗い色目の服なのに、全体の印象がさらりと優しい。
「笠原です。いつもお世話になっています」
囁くようなやわらかい声だった。黒縁メガネの奥の瞳が揺れる。森の中の静かな湖みたいに深い。
「先日、納品していただいたイチジクと紅茶のケーキ、ありがとうございました。美味しいって、お客様がとても喜んでくださってます。ありがとうございました」
イチジクと紅茶のケーキは、うちの焼き菓子だ。他のところに納品していることを初めて知った。緊張しつつも、失礼にならないよう頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとうございます。店長を……あ! ごめんなさい。さっき用事で出てしまって……」
「そうですか、でも大丈夫です。打ち合わせで伺ったんじゃなくて、ただお礼を伝えたかっただけなので……また今度、うちのコーヒー持ってお礼に伺います」
「ありがとうございます!」
「では、お仕事中にすみませんでした」
去っていく後ろ姿を見送っていると、焦茶色のカットソーがくるりと翻った。目を伏せながら戻ってくる。どうしたんだろう、言い忘れたことでもあったのかな。
「僕、笠原慎一といいます。K大2年です。もしよかったら、お名前伺ってもいいですか?」
とくん、と胸が鳴る。そんなこと聞かれるなんて思わなかった。
「片倉ひより。高校2年です」
「高校生!? ごめん、てっきり同い年くらいかと」
「お店の制服着てたらわかんないですよね。高校生のバイトってわたしだけだし」
「失礼しました。じゃあ……また」
「お疲れさまでした! また……」
笠原慎一さん。大学生。コーヒー。心の中で繰り返すと、すうっと澄んだ風が胸に流れ込んできた。
看板を抱えて店内に戻ると、レジ締めをしていた梅沢さんがニヤついている。
「ひよりちゃん~恋に落ちちゃったね!」
「え? え!?」
「彼、珈琲屋の息子さんでしょ。いいよね~! パート主婦の間でも人気が高いのよ」
「そうなんですか」
「清潔感があっていいよね。しかもK大生でしょ? 将来有望だし、彼みたいな人と結婚できたら最高」
清潔感。そうか、彼からはこちらに訴えかけてくる余計なエネルギーみたいなものを感じない。ただすっと流れて消えていくのだけれど、爽やかな余韻を残していく。
今度はいつ会えるかな。もうそんなことを思ってる自分に驚いて、恥ずかしくなって、どうしたって緩んでしまう頬に触れた。
それから納品のたびに顔を合わせて話すうち、わたしたちの距離は縮まっていった。「笠原さん」「片倉さん」と呼び合っていたのが、発音が似ていてややこしいという理由で「慎一くん」「ひよりちゃん」に変わった。
慎一くんは、瞳だけじゃなくて彼の全てが静かな森のような人だった。穏やかで、涼しげで、何もかもをゆるして包み込んでくれるみたいな。話していると、森林浴をしているみたいに心が落ち着いていく。その感覚が心地良くて、慎一くんが夕方にお店に出る毎週木曜日はコーヒー笠原に通うようになった。ラストオーダーぎりぎりの時間に入り、他のお客さんが帰る閉店まで残る。片付けをする慎一くんと話す数十分が至福。慎一くんが自分の話をするのは稀で、ほとんどはわたしの話。学校のこと、友達のこと、いつしか、お兄ちゃんの悩みまで話すようになった。
「お兄ちゃんと話しづらい?」
「はい。こう、なんか……変な距離感があって、すごく世話を焼きたがるのに突き放されることもあるから混乱しちゃって」
「お兄さん、年子なんだよね?」
「ひとつ上です」
「そういうものなんじゃない? 歳の近い兄妹で、しかもふたりとも高校生の場合は。僕に姉も妹もいないからなんともいえないけど」
普通のことだとしても寂しい。お兄ちゃんの態度を窺う自分も苦しい。何も考えず振る舞えたころが懐かしい。
「でもさ、ふたりとも大学生になったり社会人になったら関係も変わるよ。何より兄妹の関係は余程のことがないと壊れないと思うし、あんまり思い詰めないほうがいいんじゃない」
そうだけど。腕組みしながら考え込んでいると、ふっと笑い声が流れてきた。
「ごめん、笑っちゃって。ひよりちゃんはお兄さんのこと大好きなんだね」
「大好きっていうか……そんな風にみえます?」
「うん、すごく。気づいてないかもしれないけど、最近はお兄さんの話ばっかりだよ」
「ほんと!? そうなんだ……ごめんなさい」
「気にしてないから大丈夫。ていうか羨ましいよ。僕も、ひよりちゃんみたいな可愛い妹、欲しかったなぁ」
わたしも慎一くんみたいなお兄ちゃんが欲しかった。ありのままを認めてくれる人。自然体でいられる人。
結婚するなら慎一くんがいい。真剣に、そう思い始めていた。


