まだ小さかったころ、お兄ちゃんはわたしのヒーローだった。ひとつしか違わないのに、しっかりしていて何でも知ってる。わたしを一番に思ってくれて、守ってくれるスーパーマン。
「ひより」
優しい声でわたしを呼ぶ。大好きなたったひとりのお兄ちゃんに、本当のわたしを見せられなくなったのはいつからだろう。
お母さんが事故で亡くなったと知らされたとき、わたしは小学6年生だった。その日はクラブ活動があって、バドミントンクラブのわたしはダブルスの試合をしていた。サーブを打った瞬間に顧問の先生から呼ばれて、事故の知らせを受けた。早退して家に戻ると、ちょうどお兄ちゃんも帰ってきたところだった。わたしたちは先生が呼んでくれたタクシーに乗って、病院へと向かった。
それから色々あったんだろうけど、不思議なことにあんまり覚えていない。ただひとつ、隣には常にお兄ちゃんがいてくれたことを、おぼろげに記憶しているだけで。
「俺だけは、ずっとそばにいるからな。約束」
ぼろぼろと涙をこぼすお兄ちゃんと、供花や枕花の香り。わたしは今でも百合の香りを嗅ぐと、あの日のお兄ちゃんを思い出す。
お父さんの顔は知らないし、お母さんは仕事が忙しくてあんまり家にいなかったから、家のことはふたりで分担してた。料理と掃除はお兄ちゃん、洗濯はわたし。日用品などの買い物はふたりで。学校で必要なものの購入は、各自がしっかり調べてやる。だけどお母さんが亡くなってから、お兄ちゃんは全てのことをひとりで抱えるようになった。
「中学に入ったら部活とか頑張れよ。家のことは気にしなくていいから」
お兄ちゃんはモデルの仕事をしていたのもあるけど、活動がゆるやかな部活を選んで家のことに支障が出ないようにしていた。わたしもそのつもりだったのに、お兄ちゃんはわたしに「普通の中学生」でいて欲しいと言った。
「わたしはお兄ちゃんと一緒に買い物したりするの好きだよ? お兄ちゃんこそ高校受験の勉強とかあるし、わたしも手伝いたい」
「いーから、いーから! ひよりこそ勉強頑張らないと、どこの高校も受からないよ?」
塾も行ってないし家庭教師もいないのに、校内成績トップのお兄ちゃん。もちろん内申点もオール5。妹がばかだったら迷惑がかかるかも、嫌われちゃうかも……なんて考えて、わたしは普通の中学生みたいに勉強や部活をすることに決めた。
いちばんきついと言われていたテニス部に入り、毎日遅くまで練習した。土日も練習で、部活のない日は友達と遊びに行く。テストは得意な英語以外、一夜漬けで朝起きられず、お兄ちゃんに叩き起こされて一緒に学校に走ったりもした。
休み時間には、友達と先生や男子の話で盛り上がったり。流行りのうたを歌ってみたり。そうやって「普通の中学生」のわたしは、周りの友達と同じように恋もした。
ひとつ年上の浅井先輩は、テニス部の2年生のなかで一番強かった。3年の先輩とつき合っていたけど、すこし前に受験が理由で別れたらしい。
「ひよりならイケる! 浅井先輩、フラれて傷心だしいくなら今だよ!」
「えーでも、あんまり話したことないし」
気がかりなのはそれだけじゃない。浅井先輩はお兄ちゃんと同じクラス。先輩は間違いなく一軍で、お兄ちゃんもモデルをしてたり成績優秀ってことで、周りから一目置かれてた。誰とでも仲良くできるお兄ちゃんだからきっと、先輩ともそれなりに話す仲にちがいない。と、動き出せずにいたけれど。
「片倉さん、俺とつきあってみない?」
夏休み直前の練習日。なんと、先輩から告白されてしまった。わたしの名前を覚えてくれてただけで心臓バクハツしそうなのに、つきあってみない?って。溶けそうなほどの夏の暑さも手伝ってくらっときてしまったわたしは、まるで少女漫画のワンシーンのように先輩に手を引かれながら保健室に行った。
嬉しい。でも……。
なんかわたし、迷ってる……?
家に帰ると、お兄ちゃんがダイニングで本を読んでいた。落ち着かない気分のまま冷蔵庫を開け、麦茶を注いでいたとき「何かあった?」と聞かれ、答えに迷ううちグラスから麦茶が溢れる。
「なに。話してよ」
溢れた麦茶をてきぱきと拭きながら、静かに告げられる。わたしはとうとう、浅井先輩に告白された話をした。お兄ちゃんは驚かなかった。
「ひよりはどうしたいの?」
「……つき合いたいなって思ってるけど」
「けど?」
本当は迷ってる。好きだったのに、わたしはたぶん、遠くで見ているだけでよかった。
「つき合ってみたら? ひよりがそうしたいんなら」
細めた目の辺りがぴくぴくと小刻みに震えて早口になる。お兄ちゃんが嘘をつくときの癖だ。
どうしてそんなこと言うの。
お兄ちゃんが本当の気持ちを置き去りにしているとき、わたしは悲しくなる。寂しくなる。
お兄ちゃん、ごめんなさい。
わたしのためと思って、言いたいことを呑み込まないで。
浅井先輩とはつき合わなかった。お兄ちゃんは「そう」とだけ言って、なぜとは訊かなかった。
毎日が規則正しく、平穏に過ぎていく。
でもそれは、お兄ちゃんがしてほしいと思っていることを、わたしが読み取っているから。お兄ちゃんは口には出さないけど顔に出る。わたしはそれを流すことができない。どうしてって反抗したいことがあっても、日常生活のほとんどを整えてもらってる分際で何も言えなくて、不満だけが募っていく。
お父さんやお母さんに対してなら、そんな風に抱えなくて済んだのかもしれない。だけど、わたしと1歳しか違わないお兄ちゃんが頑張ってくれていることに、不満をぶつけられるほど子どもじゃなかった。お兄ちゃんはいつも、自分の気持ちを呑み込んで、したいことを我慢してる。わたしのために。
わたしさえいなければ。
そう思い始めたころ、慎一くんに出会った。
「ひより」
優しい声でわたしを呼ぶ。大好きなたったひとりのお兄ちゃんに、本当のわたしを見せられなくなったのはいつからだろう。
お母さんが事故で亡くなったと知らされたとき、わたしは小学6年生だった。その日はクラブ活動があって、バドミントンクラブのわたしはダブルスの試合をしていた。サーブを打った瞬間に顧問の先生から呼ばれて、事故の知らせを受けた。早退して家に戻ると、ちょうどお兄ちゃんも帰ってきたところだった。わたしたちは先生が呼んでくれたタクシーに乗って、病院へと向かった。
それから色々あったんだろうけど、不思議なことにあんまり覚えていない。ただひとつ、隣には常にお兄ちゃんがいてくれたことを、おぼろげに記憶しているだけで。
「俺だけは、ずっとそばにいるからな。約束」
ぼろぼろと涙をこぼすお兄ちゃんと、供花や枕花の香り。わたしは今でも百合の香りを嗅ぐと、あの日のお兄ちゃんを思い出す。
お父さんの顔は知らないし、お母さんは仕事が忙しくてあんまり家にいなかったから、家のことはふたりで分担してた。料理と掃除はお兄ちゃん、洗濯はわたし。日用品などの買い物はふたりで。学校で必要なものの購入は、各自がしっかり調べてやる。だけどお母さんが亡くなってから、お兄ちゃんは全てのことをひとりで抱えるようになった。
「中学に入ったら部活とか頑張れよ。家のことは気にしなくていいから」
お兄ちゃんはモデルの仕事をしていたのもあるけど、活動がゆるやかな部活を選んで家のことに支障が出ないようにしていた。わたしもそのつもりだったのに、お兄ちゃんはわたしに「普通の中学生」でいて欲しいと言った。
「わたしはお兄ちゃんと一緒に買い物したりするの好きだよ? お兄ちゃんこそ高校受験の勉強とかあるし、わたしも手伝いたい」
「いーから、いーから! ひよりこそ勉強頑張らないと、どこの高校も受からないよ?」
塾も行ってないし家庭教師もいないのに、校内成績トップのお兄ちゃん。もちろん内申点もオール5。妹がばかだったら迷惑がかかるかも、嫌われちゃうかも……なんて考えて、わたしは普通の中学生みたいに勉強や部活をすることに決めた。
いちばんきついと言われていたテニス部に入り、毎日遅くまで練習した。土日も練習で、部活のない日は友達と遊びに行く。テストは得意な英語以外、一夜漬けで朝起きられず、お兄ちゃんに叩き起こされて一緒に学校に走ったりもした。
休み時間には、友達と先生や男子の話で盛り上がったり。流行りのうたを歌ってみたり。そうやって「普通の中学生」のわたしは、周りの友達と同じように恋もした。
ひとつ年上の浅井先輩は、テニス部の2年生のなかで一番強かった。3年の先輩とつき合っていたけど、すこし前に受験が理由で別れたらしい。
「ひよりならイケる! 浅井先輩、フラれて傷心だしいくなら今だよ!」
「えーでも、あんまり話したことないし」
気がかりなのはそれだけじゃない。浅井先輩はお兄ちゃんと同じクラス。先輩は間違いなく一軍で、お兄ちゃんもモデルをしてたり成績優秀ってことで、周りから一目置かれてた。誰とでも仲良くできるお兄ちゃんだからきっと、先輩ともそれなりに話す仲にちがいない。と、動き出せずにいたけれど。
「片倉さん、俺とつきあってみない?」
夏休み直前の練習日。なんと、先輩から告白されてしまった。わたしの名前を覚えてくれてただけで心臓バクハツしそうなのに、つきあってみない?って。溶けそうなほどの夏の暑さも手伝ってくらっときてしまったわたしは、まるで少女漫画のワンシーンのように先輩に手を引かれながら保健室に行った。
嬉しい。でも……。
なんかわたし、迷ってる……?
家に帰ると、お兄ちゃんがダイニングで本を読んでいた。落ち着かない気分のまま冷蔵庫を開け、麦茶を注いでいたとき「何かあった?」と聞かれ、答えに迷ううちグラスから麦茶が溢れる。
「なに。話してよ」
溢れた麦茶をてきぱきと拭きながら、静かに告げられる。わたしはとうとう、浅井先輩に告白された話をした。お兄ちゃんは驚かなかった。
「ひよりはどうしたいの?」
「……つき合いたいなって思ってるけど」
「けど?」
本当は迷ってる。好きだったのに、わたしはたぶん、遠くで見ているだけでよかった。
「つき合ってみたら? ひよりがそうしたいんなら」
細めた目の辺りがぴくぴくと小刻みに震えて早口になる。お兄ちゃんが嘘をつくときの癖だ。
どうしてそんなこと言うの。
お兄ちゃんが本当の気持ちを置き去りにしているとき、わたしは悲しくなる。寂しくなる。
お兄ちゃん、ごめんなさい。
わたしのためと思って、言いたいことを呑み込まないで。
浅井先輩とはつき合わなかった。お兄ちゃんは「そう」とだけ言って、なぜとは訊かなかった。
毎日が規則正しく、平穏に過ぎていく。
でもそれは、お兄ちゃんがしてほしいと思っていることを、わたしが読み取っているから。お兄ちゃんは口には出さないけど顔に出る。わたしはそれを流すことができない。どうしてって反抗したいことがあっても、日常生活のほとんどを整えてもらってる分際で何も言えなくて、不満だけが募っていく。
お父さんやお母さんに対してなら、そんな風に抱えなくて済んだのかもしれない。だけど、わたしと1歳しか違わないお兄ちゃんが頑張ってくれていることに、不満をぶつけられるほど子どもじゃなかった。お兄ちゃんはいつも、自分の気持ちを呑み込んで、したいことを我慢してる。わたしのために。
わたしさえいなければ。
そう思い始めたころ、慎一くんに出会った。


